名古屋市(なごやし)
                 
                   愛知県へはココから

○四間道(しけみち)/名古屋市西区那古野 
 
   
 ▲木造二階建ての格子のある町家も並びます   ▲石造りの倉庫も、木造の蔵も現代に活用されています 
江戸時代の大火で町並みが整備
 その昔、清洲からこの地へ町ごと引っ越してきました。いわゆる「清洲越し」によって商人たちの町並みが形成されたのです。その後、江戸時代の大火で町並みが整備。そのとき道幅が4間としたために、四間道と呼ばれました。
蔵と格子戸の街並み
 名古屋市の中心部にある町です。蔵は瓦屋根で基礎は石垣、その上が板塀となっています。蔵の向かいが格子戸のある町家が並んでいます。
蔵の一部は喫茶店や土産物店になっていますが、町家は普通に住まいとして使われています。大都会のど真ん中に残された癒しの町並みです。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 地下鉄国際センター駅から徒歩7分
 
○中小田井(なかおたい)/名古屋市西区中小田井 
 
   
▲美しいデザインの連子格子の家並みが続きます 
名古屋市の町並み保存地区
 江戸時代のはじめ,寛文7年(1667)名古屋城下から岩倉に至る岩倉街道が通じ,枇杷島(びわじま)の青物市への輸送路として賑わいました。青物市の帰りには味噌,油などの生活品を購入。そのため街道沿いには平入中2階建てで連子格子の商家が建ち並んでいました。
明治の濃尾地震以降の建築物
 しかし現在の建物のほとんどが明治24年濃尾地震以降のものです。 またたびたびの洪水に悩まされたため,高い石積の基礎の上に土蔵を築いたり,水屋を設けたりしていました。「小田井人足」の言葉の裏に、したたかでひたむきに生きているという意味が込められています。
 
  感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄犬山線中小田井駅から徒歩5分
○杉栄町(すぎさかえちょう)/名古屋市北区杉栄町 
 
   
▲狭い道の両側が旧特飲街でした  ▲城東園の周辺にも遊郭の面影 
旧特飲街の城東園の面影がかろうじて残る
 名古屋市内にはいくつかの遊郭がありました。そのうちの一つがココ城東園です。実際に歩いて見ました。一方通行になっている狭い道路です。クルマ1台がやっと通れるくらいです。
旧妓楼や料亭と思われる建物が見られる
 約1km弱の距離ですが、ところどころに旧妓楼、料亭と思われる建物が見られます。唐破風や2階の手すり、屋根の形など、改築されているものの面影は感じられます。戦災で生き残ったことが幸いし、かつての建物が残ったのです。貸し座敷は156軒、娼妓は324人。戦後は特飲街、カフェー街へと変貌していきます。なお隣接する東長田町の十州楼(国登録文化財)はすでに取り壊されました。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 地下鉄名城線志賀本通駅から徒歩15分
 
○山門町(さんもんちょう)/名古屋市千種区山門町 
 
   
▲日本とタイの友好の証となった日泰寺は多くの宗派が協力しました 
ちょっとおしゃれな門前町
 日本とタイの友好の寺ということで、日泰寺を宗派を乗り越えて建立。覚王山駅から山門まで続く門前町です。戦後になってほとんど改築されましたが、広い道幅の両側に飲食、雑貨などのモルタル塗り2階建てが続きます。これだけ幅広い参道も珍しいです。地名の由来は山門の南側に位置するからとか。
日本でただ一つの超宗派の寺院です
 昭和24年(1949)、シャム国のタイ王国への改名に合わせてそれまでの日暹寺(にっせんじ)から日泰寺に改名しました。どの宗派にも属さない日本で唯一の珍しい寺院です。管長は各宗派が3年交代で出向。そのためお経は宗派ごとに違うそうです。ユニークですね。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 地下鉄東山線覚王山駅から徒歩8分
 
○大須(おおす)/名古屋市中区大須 
 
   
▲かつての特飲街の面影も…  ▲大須観音/年中参拝客で賑わう 
町のシンボル・大須観音
 大須は家康が造った町と言ってもいいでしょう。慶長17年(1612)、徳川家康の命令で、犬山城主・成瀬正成によって大須郷から現在地に移転させました。その後火災や戦災で一時期衰退しまししたが、いまは大須のシンボルとして発展しています。
旧遊郭や特飲街の面影
 都心の栄や錦と違った楽しい町です。それにしても東京・浅草と同じ匂いがします。大須観音を中心にした町並みを形成。アーケードのある商店街の雑踏を避けて裏手を歩くと、一部に旧遊郭や特飲街の面影も残っています
。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 地下鉄鶴舞線大須観音駅から徒歩10分
 
○東桜(ひがしさくら)/名古屋市東区東桜 
 
   
▲東充寺/へちま薬師として有名  ▲含笑寺/織田信秀の生母を弔う 
   
▲西蓮寺/明治に学校、役所に使用  ▲おぐらあんトースト(400円・コメダ珈琲店) 
名古屋市内最大の寺町
 徳川家康によって名古屋城の東方面の防御として建設。結局48の寺院が集まり、たいへんな賑わいを見せたとか。とくに2丁目に集中しています。
都会の寺町の代表例
 いま歩いてみますと、ビルに囲まれた光景は都会の寺町という感じです。また一部、門前町の面影も見られます。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 地下鉄桜通り高岳駅から徒歩10分
○橦木町(しゅもくちょう)/名古屋市東区橦木町 
 
   
▲旧川上貞奴邸・国の登録文化財  ▲撞木館/陶磁器商・井元為三郎邸 
市の町並み保存地区
 撞木とは鐘や半鐘を打ち鳴らすときの仏具。町筋が行き止まりのT字型をしていて似ていることから名付けられたそうです。他の町筋と違って、意外にも板壁の町家が残されており、昭和の香りのする町並みです。江戸時代は名古屋城下の一つで武家町でもありました。名古屋市の町並み保存地区に指定。
川上貞奴は日本の女優第一号
 ところで川上貞奴(かわかみ さだやっこ)は日本の女優第一号といわれ、福沢諭吉の娘婿で電力王と呼ばれた福沢桃介と同居するために大正9年に住まいとして建てられました。大部分はすでに壊されていましたが、当時の資料などから復元された建築です。現在は文化のみち二葉館として公開されています。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 地下鉄桜通線高岳駅から徒歩10分
○主税町(ちからまち)/名古屋市東区主税町 
 
   
▲カトリック主税町教会/国登録文化財  ▲旧春田鉄次郎邸/伝統的建造物 
   
▲旧豊田佐助邸/伝統的建造物  ▲旧西川秋次郎邸/豊田の大番頭  
地名は勘定奉行・野呂瀬主税の屋敷から命名
 江戸時代はすべて中級の武家屋敷が並んでいました。初代尾張藩主・徳川義直に仕えて勘定奉行を勤めた野呂瀬主税が、この地に最初に屋敷を構えたことから、いつのまにか命名されたそうです。もともと主税というのは、『大言海』によれば、田力(たぢから)、田租(でんそ)などの意味があり、民の力で耕作地を耕し奉る物、すなわち税を納めることで、税は力があるという意味。
3町で名古屋市町並み保存地区に指定
 主税筋を歩いていますと、明治、大正、昭和にまたがる建造物が続き、なにやら“建物博物館”を眺めているようです。現在、名古屋市は白壁・主税・撞木を「町並み保存地区」に指定しています。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 地下鉄桜通線高岳駅から徒歩12分
 
○白壁(しらかべ)/名古屋市東区白壁 
 
オシャレな街並みに変貌
 名古屋市内で昔からある高級住宅地です。最近では、高級マンションが建ち並んでいます。それでも、主税町、白壁では、大きな住宅を見ることができます。元もと名古屋城下の武家屋敷があったところで,いまは佐藤家の武家屋敷門が残されているのみ。でもレンガ塀や白壁などが続くお屋敷町です。洋風建築や和洋折衷の民家など、ちょっとオシャレな町です。
高層住宅の入口が長屋門風
 うれしいのは景観に配慮して,高層住宅も道路側は白壁に統一していること。なかには入口が長屋門風もあります。名古屋市は、この辺りを文化の道として景観を保護しています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄高岳駅から徒歩15分
 
○名駅(めいえき)/名古屋市中村区名駅 
 
   
 ▲光明院/こぢんまりとした鐘楼門 ▲入り組んだ路地の両側にも古民家 
福島正則が近くの運河を開削
 近くを流れる堀川は、名古屋城築城の折に福島正則が伊勢湾と城を結ぶ運河として開削しました。米や材木、海産物を商う商人や問屋が連なったのです。
名古屋駅近くの古民家群
 いま歩いてみますと、板壁の2階家が続く町が、名古屋駅からこんなに近いところにあるのです。町名も、名古屋駅および名古屋駅前地区にあたるからだそうです。 
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR東海道線名古屋駅から徒歩15分
 
 ○岩塚(いわつか)/名古屋市中村区岩塚町
 
   
改築、改装された町家、さらに棟割り長屋も多く見られます 
佐屋街道の宿場町として発展
 江戸時代はもちろん尾張藩領。岩塚村の村高は2000石を越えており、かなりの穫れ高を示しています。そのせいか大代官所の支配地となっています。寛永11年(1634)に佐屋街道が開通、2年後の寛永13年(1936)には万場宿に隣接して岩塚宿が設けられました。これは庄内川をあいだに挟んで、川止めに備えての設立です。 
2階建ての棟割り長屋も残ります
 岩塚駅を出て佐屋街道をしばらく歩きますと、少しずつ古民家が見えてきます。連なっているわけではありませんが、趣のある町家などですが、大部分は改築、改装されています。また2階建ての棟割り長屋も見られ、このあたりは街道筋であったことがうかがえます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 地下鉄東山線岩塚駅から徒歩10分
 
 ○中村(なかむら)/名古屋市中村区日吉町
 
   
▲今も残る往時の建築群/主な建物は名古屋市の都市景観重要建築物に指定されています  
   
 ▲料亭・稲本/旧遊郭の面影を残す ▲「福春」の看板が残ります 
 ●旧中村遊郭の面影
 名古屋市で最大の遊郭だった町です。大須観音近くなど都心にあった遊郭は手狭になったことから大正時代に現在地に移転、その後発展を遂げていきます。当初5つの町から成り立っていたため五町街、五丁町とも呼ばれたそうです。また岐阜市の金津園と並び東海地方の二大遊郭と呼ばれたとか。今は金津園が元気です。
最盛期には2000人近い娼妓が働いていたとか
 旧中村遊郭を歩いて見ますとかつての面影は、巨大なスーパーマーケット周辺に見ることができます。戦前は100軒以上の妓楼、2000人に及ぶ娼妓が働いていたとは思えないほど静かな町に変わりました。しかし少しずつ、取り壊されつつありますが、これも時代の流れでしょうか。
またソープランドの集中地区でもあります。 
  感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 地下鉄東山線中村日赤駅から徒歩5分


                      ▲ページの先頭にもどる

 ○万場(まんば)/名古屋市中川区万場
 
佐屋街道の宿場町
 江戸時代は尾張藩。万場村の村高は1000石を越えていました。寛永11年(1634)に伝馬所に指定された宿場町。伝馬(てんま)とは、旅行者のために人足や馬を用意したりして、ひと駅(宿場)ごとに用立てる制度で、月の半分を万場宿、残り半分が岩塚宿が担当していました。
東海道が整備されるにつれ衰退していきます
 庄内川を渡れば岩塚宿。渡るところが“万場の渡し”と呼んでいました。渡し舟は3艘、6人の船頭が常駐。この賑わった佐屋街道と各宿場も、東海道が整備されるにつれ衰退していったとされます。

ところどころに格子窓や虫籠窓、板塀のある町家
 万場大橋を渡って旧万場宿に入ります。とたんに交通量の少ない、静かな町並みに変貌します。格子や虫籠窓のある町家が所々で見かけますが、長く連なることはありません。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 地下鉄東山線岩塚駅から徒歩20分
 
○尾頭橋(おとうばし)/名古屋市中川区尾頭橋 
 
旧遊郭の面影が見られる
 やはり地元でも、昔は遊郭だったとして知られています。大正末期に芸妓屋18軒、料理屋10軒から構成されていました。最盛期には150軒、芸妓が400人がいたそうです。第二次世界大戦中に遊郭に変更、昭和32年まで営業しました。いま歩いて見ますと、個人住宅やアパートに変わったりしていますが、往時の面影が見られます。
蛇が道場法師の首に巻き付いたそうです
 ところで地名の由来は、奈良・元興寺の分院として、道場法師が尾張・元興寺を創建。その道場法師が誕生したとき、ヘビが首筋に巻き付き、ヘビの首と頭が後ろに並んで立ったというのが由来だそうです。おもしろいですね。 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR東海道本線尾頭橋駅から徒歩5分
 
 ○春田(はるた)/名古屋市中川区春田
 
蟹江街道沿いの集落でした
 鎌倉時代からすでに開墾が始まっており、織田家の家臣・津田勝三郎の知行地でした。江戸時代はもちろん尾張藩領。村の取れ高は約850石というから、田畑ともかなりの収穫量と思われます。農家のほかに商家5軒、紺屋1軒あったようです。また村内を蟹江街道が通るために、人や物資の往来も多く、街道沿いには茶店もあったとか。
郊外の農地が住宅地に変貌
 ところで地名の由来は、「治田」(はるた)が転訛したそうで、墾田の意味が含まれているのではないかと推定。いまは、かつての農地が住宅地に変わってしまった典型的な町といえるでしょう。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR関西本線春田駅から徒歩15分
○戸田(とだ)/名古屋市中川区戸田 
 
   
▲切妻型の板張り住宅が残る ▲裏道にも古民家が点在しています 
地名の由来は諸説あります
  地名の由来は、古くは「富田」が戸田に略した説。湿田のことを「土田」(どだ)といい、これが戸田に転換。また関西地方では桑や漆を植えるために民家に田を与えることを「戸田」といったなど諸説あります。
商家や寺院が散在
 いずれにせよ江戸時代から戸田川に沿った水郷地帯でした。村の石高は2000石を超えるというからかなりの恵まれた土地といえます。そのためか3丁目辺りには江戸時代から続く寺院が集まりミニ寺町の様相を示しています。裕福な檀家が多かったのか。いま戸田川に沿った旧道に町家が点在しています。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 近鉄名古屋線戸田駅から徒歩20分
 
 ○港陽(こうよう)/名古屋市港区港陽
 
 ●遊里・港陽園の残滓
 名古屋にはいくつかの遊郭がありましたが、飲食店、旅館の看板を掲げながら従業員に売春をさせる“青線区域”も存在しました。この港陽は“赤線区域”で、完全な遊郭でした。もともと埋め立て地ですが、戦時中は陸軍の高射砲陣地で、集中的に空襲にあいました。戦後になって本格的な遊里・港陽園と呼ばれるようになりました。妓楼や貸し座敷が47軒、娼妓が220人いたようです。
一般住宅に転用していました
 いま歩いて見ますと、妓楼と思われる建物が幾つか残っています。しかし周囲は高層住宅や1戸建て、アパートなどの住宅が並びます。旧妓楼も一般住宅化しています。小公園もあったりでのどかな住宅団地を見せてくれます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 地下鉄名港線築地口駅から徒歩10分
○伝馬(てんま)/名古屋市熱田区伝馬 
 
旧東海道沿いの集落
 中世の東海道(鎌倉街道)は熱田より北の古渡あたりを通っていました。まばらに町家があった程度ですが、それでも町並みは形成され、わずかながら宿もありました。
秀吉が慶長年間に造った町
 ところが秀吉が、そんな町並みの南に、幅1間2尺(2.5m)の新道を造り今道と呼びました。慶長年間(1596-1615)から伝馬役を務め、二つの町を合わせて伝馬町と呼ぶようになったそうです。いわば歴史のある町名なのです。いま歩いて見ますと、旧東海道が通るものの往時の面影はなく寂れた感じです。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 市営地下鉄名城線伝馬町駅から徒歩5分
 
○宮(みや)/名古屋市熱田区内田町 
 
   
▲一般の古民家が連なります  ▲裏通りに小さな煉瓦造が健在 
東海道の宿場町・宮宿
 宮という地名があるわけではありません。かつて東海道宮宿の七里の渡しのあったところで、ここから桑名へ舟で渡りました。もっとも舟嫌いな人には佐屋街道など陸地で桑名へ行く人も多かったとか。いまは宮の渡し公園が見られます。
尾張藩の東浜御殿のあったところ
 このあたりは、尾張藩の東浜御殿のあったところで、もともと景色のいいところ。その東浜御殿を明治5年、内田某が払い下げを受けて町造りに着手したそうです。内田町の地名の由来だそうですが、諸説あるようです。
●七里の渡し跡付近に古民家が残る
 いま古民家は宮の渡し公園近くに見られます。また裏手にも点在しており、なかにはレンガ造りの小さな倉庫のような建物も見られました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 市営地下鉄名城線伝馬町駅から徒歩10分
 
○有松(ありまつ)/名古屋市緑区有松 
 
   
▲どこを歩いても家並みが美しい  ▲名産の有松絞りを扱う老舗も多い 
   
▲商家には土蔵が付きものです  ▲服部家住宅/有松絞りの問屋の土蔵 
名古屋市の保存地区
 大都会の真ん中にここまできれいに残っているとは全くの予想外でした。地元で保存運動が起きたのは、1980年代の半ばだそうです。約1kmの両側には、江戸時代の建物が、きちんと保存整備されている理由がわかりそうです。これらは名古屋市の町並み保存地区に指定されています。財政豊かな名古屋市だからこそ、ここまで保存できるのでしょう、と納得。
歴史的建築物が多い
 交通量の激しい国道1号線の一歩中に入ったところに、静かな町並みが広がっています。旧東海道で、絞り染めの問屋が並んでいます。まさしく豪商の名にふさわしい蔵造りです。いまでも、ところどころに染め物を販売している店があります。
 商家は平入りの2階建てで、街道側は格子戸がはまっています。そして道がゆったりと蛇行しているのが特長です。
電車利用の方が便利
 長さ約1kmに及ぶ町並みですが、駐車場を探すのに苦労しました。結局、1号線に沿ったコンビニに停め、そこから歩きました。やはり名鉄利用が最も便利です。なお重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。駐車場不足に悩むかも。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは国道1号線沿いのコンビニに停めました
 
○鳴海(なるみ)/名古屋市緑区鳴海町 
 
東海道の宿場町
 尾張藩鳴海代官所の支配地。北側に鎌倉街道は通っていたとされ,当時の宿場を「古鳴海」と呼んでいたそうです。しかし東海道が開通すると,次第に宿場の機能は,現在の地に移ってきました。
庇の長い古民家が残ります
 天保14年(1843)には,本陣1,脇本陣2,旅籠64で人口3643人にも及ぶ一大集落を形成していました。さらに鳴海宿を補佐する助郷村は25か村にも及んだとか。現在は平部地区に,わずかに古民家が残されています。庇の長いセガイ造りが主流です。地名の由来は日本武尊が歩いていると「海の鳴る音が聞こえる」だとか。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは手越川沿いの空き地に停めました
○大高(おおだか)/名古屋市緑区大高町 
 
   
▲独特の瓦葺きの建物です  ▲板壁の蔵や町屋が続きます 
戦国武将たちの逸話が残る集落
 戦国時代,三河に進出し,さらに上洛を企てようとしたのが今川義元。その義元が尾張侵攻の足がかりにするため,朝比奈泰能に大高城に在城を命じたとあります。また織田信長に大高一帯が占拠されたとき,今川方であった家康は,兵糧米を搬入したとか。歴史的な逸話の残る地域でもあります。
造り酒屋を中心に残る
 江戸時代は尾張藩で,酒造りも盛んでした。今でも造り酒屋が残り,蔵が立っています。一方,大高川近辺にも,若干古民家が残っていますが,消えゆく感じに思えました。

 元来、火高だったそうですが、永徳2年の火災で大高に改名。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR東海道線大高駅から徒歩15分
 

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