愛知県(あいちけん)

名古屋市はココから

 ○西尾(にしお)/西尾市本町
 
   
▲町並みを整備しています   ▲路地を入ると寺院にも行き着きます
三河の小京都
 もともと松平家6万石の城下町です。その旧城下町の肴町、本町、天王町あたりに古い建物が残っています。三河の小京都と呼ばれ、地元では城跡を含めて2時間の散策コースを設定しています。
典型的な商家が連なります
 建物のほとんどが平入り2階建て黒瓦葺きの典型的な商家です。格子窓も街並みに落ち着きを与えていますが、普通の商店街でもありますので、クルマの往来も激しいです。また一歩裏道に入りますと,白壁の続く寺院があったりと,なかなかの風情が感じられます。地名の由来は製塩の「煮塩」が転訛したという説があります。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 名鉄西尾線西尾駅から徒歩10分
○佐久島(さくしま)/西尾市一色町佐久島 
 
   
▲築100年の大葉邸/道の左側  ▲さくバーガー/大アサリのフライ 
黒板壁の民家と路地の島
 三河湾内では最大の島。島内には縄文土器の破片が発見されたり,弥生時代の貝塚があるなど,現在46基の古墳が確認されており、意外に歴史があります。
 さて,集落は「西」と「東」の二つに分かれています。直線にして1km程度しか離れていません。中間に学校があり,ゆっくり歩いても30分もかかりません。
コールタールを塗って家を潮風から守る
 古民家は西港周辺に集まっています。潮風から建物を守るためにコールタールで塗られた板壁など住民が積極的に景観作りに取り組んでいるとか。家並みと漁村特有の路地が日本を代表する風景になっています。そのせいか観光客が増加しているそうです。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 佐久島の市営渡船場西港からすぐ
○碧南(へきなん)/碧南市浜寺町 
 
   
▲西方寺/土蔵の端に立つ隅櫓  ▲堀川の土蔵群/三河みりん発祥地 
白壁や黒塀が美しい
 ひとくちで,みりんと寺の町といいてもいいでしょう。九重みりんは宝永3年(1706)に創業。蔵は登録文化財に指定。また堀川を中心に約10ヶ寺で寺町を形成。黒塀や白壁が美しいく,趣のある街並みです。
塩や酒の製造が盛んでした
 もとは大浜村の一部で、昭和48年の町名改正で「字浜家」と「西方寺」の一字を取って浜寺町に変わりました。江戸時代は幕府領、西尾藩領、大浜藩領など幾つもの藩政が変わりました。元禄8年(1695)、塩浜役が置かれ、100貫余の塩を製塩。棚尾村の塩とともに大浜塩として、信州に方面に送られました。塩問屋が4軒、さらに酒造家も6軒、桶屋5軒で酒造高は6678石というからかなりの量です。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 名鉄三河線碧南駅から徒歩15分
 
 ○刈谷(かりや)/刈谷市銀座
 
   
▲古民家が城下町・刈谷のあちこちに点在しています 
中世に刈谷城が築城されていました
 城下町としての歴史は古く,水野忠政が天文2年(1533)刈谷城を築城したのが始まり。町並みが形成されてきたのは,江戸時代に入ってからで,銀座地区は刈谷街道沿いに発展した町でもありました。特に参勤交代に利用することが多かったので,整備は一気に進みました。
商家の名残が見えます
 天保の飢饉では,農村から都市への移住が盛んになりましたが,それが逆に刈谷を発展させたようです。そのため太田家をはじめ豪商が相次いで誕生したのもこの頃です。いまも幾つかの商家が残されています。
 地名は亀村といわれていたこの地に狩谷出雲守が移り住んだからとか、諸説あります。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 名鉄三河線刈谷市駅から徒歩10分
 
○岡崎(おかざき)/岡崎市伝馬通 
 
   
▲岡崎信用金庫資料館/旧岡崎銀行  ▲鶏のどて煮(420円・鳥八) 
面影を探す難しさに直面
 旧東海道が岡崎城下に入ると曲がり角の連続となります。これが「二十七曲がり」です。伝馬通りに重厚な商家があります。また大正時代建築の洋館がありますが,コレだけです。岡崎は戦災で大部分が焼失し、宿場町としての面影はありません。ちょっと寂しくなります。
御馳走屋敷の接待
 伝馬町西端の南側に御馳走屋敷がありました。御馳走とは接待を意味し、格式によって接待方法も変わります。宮様、御三家、老中、所司代。さらに御茶壺、朝鮮通信使、琉球使節、勅使など多岐にわたり、その都度岡崎藩から家老が出向いたそうです。いまは伝馬通りの岡崎信用金庫資料館南あたりに案内(解説)板があるのみです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩10分
 
 ○八丁蔵通り(はっちょうぐらどおり)/岡崎市八帖町
 
   
▲八丁味噌メーカーの大きな味噌蔵 ▲女優・宮崎あおいさんの手形とサイン 
NHK朝ドラ『純情きらり』の舞台
 NHK連続テレビ小説『純情きらり』(主演・宮崎あおい)の舞台になった場所です。また東海道「岡崎27曲がり」の近くで、交通の要衝でもありました。『純情きらり』は2020年夏にNHKBSで再放送されました。
「カクキュー八丁味噌」と「まるや八丁味噌」
 独特の味噌蔵は、このあたりに集中しており、「カクキュー八丁味噌」と「まるや八丁味噌」の2軒が、昔ながらの伝統を受け継いで販売しています。左の写真はカクキューの蔵です。蔵の窓は直接の太陽光を遮るための庇が3段に分かれています。基礎の石垣と黒塀が印象的。のんびりと歩きたいところです。かつて、ミソ仕込み用の大蔵は資料館になっており、国の登録文化財でもあります。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 名鉄名古屋本線岡崎公園前駅から徒歩5分
 
○三河三谷(みかわみや)/蒲郡市三谷町 
 
   
▲松葉地区に立つ昭和34年築の雑居ビルで防火建築帯の役割を果たす  ▲いま残されている古民家は多種多様ですが棟割長屋風が多いようです 
回船問屋,料亭などが多い
 古くは三養とも書きました。江戸時代からの港町です。どちらかといえば貨物港としての役割が多く,伊勢方面へ船便が多かったようです。漁業は明治以降,急速に発展したもので,回船問屋,旅籠,料亭などが軒を並べました。
江戸時代は貨物港としての役割が強かった
 貨物港としての性格が強かったというのも、元和6年(1620)から正徳2年(1712)の間に、御三家・紀州藩が伊勢・松阪から三河・船15隻と船頭45人の調達を公儀から命じられました。また領主・松平氏の年貢米の廻船を担当、その後300石の廻船を建造しています。塩の積出港でもありましたが、塩田はありません。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線三河三谷駅から徒歩10分
○足助(あすけ)/豊田市足助町 
 
伊那街道沿いに発達した町です
 三河湾で取れた塩を、信州へ運んだ「塩の道」がこの足助を通っていたのです。信州街道といい、その街道沿いに発達しました。天保年間(1830-44)には、塩屋14軒、蚕種売り14軒、味噌屋6軒、油屋6軒、豆腐屋6軒などが見られました。また旅籠は10軒、元治2年(1865)には13軒を数えました。伊那地方で消費する塩の大部分が、この地を通ります。足助の主な問屋には塩座があり、そこで値を決め、塩袋の重量を統一するために包装を整えました。これは信州への馬による運搬には必要な事でした。そのためか伊那の人たちは「足助塩」と呼ぶことが多かったとか。塩問屋の焼き印を押された塩袋がう高く積まれた光景は、足助の象徴でもあったようです。
紅葉シーズンは駐車場が満杯です
 ところで訪ねた日が、日曜日のせいか、道路も駐車場もめちゃくちゃ混んでいました。近くに紅葉で有名な香嵐渓があるため、そちらへの観光客を含めて、足助の町並みはたいへんな混みようでした。
マリリン小路を歩きました
 のんびりと歩きながら見て回りました。ほとんどの商家が2階建てです。しかも町全体でも木造が多いのです。また上の写真のように下半分が黒の腰板を貼り、上を白塗りの漆喰の壁になっています。横に2人並んだらいっぱいという狭い小径です。木造2階建てで、明治期に造られた町家が、かなりたくさん残っています。そのほとんどがいまも、商店、旅館、企業とさまざまに使われています。そこに人が住んでいることが、とてもうれしくなります。
感動度★★
 
もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました
 
 ○二川(ふたがわ)/豊橋市二川町
 
東海道の宿場町です
 旧東海道の宿場町です。もともと二川と大岩の2村で1宿分の業務を分担。その後二川村を移転して二川宿としました。いまは本陣が改修復元され、資料館になっています。で、その向かいの民家が格子のある建物です。このあたりが二川宿の雰囲気を出しています。
復元された本陣と旅籠を公開
 ところで、この本陣に隣接するようにして、旅籠「清明屋」も復元されています。大名の泊まった本陣と庶民が泊まった旅籠が同時に見られます。他の江戸末期や明治時代の格子戸のある商家などの古民家は、ポツンと離れたところありました。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは資料館の無料駐車場に停めました
 
○東田仲の町(あずまだなかのまち)/豊橋市東田仲の町 
 
   
▲いまは一般住宅や旅館などに転用されています 
「東田遊郭」の遺構を見ることができます
 明治時代、衰退しつつある町の発展のために当時の市長が陸軍を誘致したそうです。その結果、吾妻町に明治43年、旧吉田城下の一つ札木町(ふだぎちょう)、旧東海道沿いにあった上伝馬町(かみでんまちょう)の貸し座敷業者が移転、さらに遊郭料理屋組合もでき、大規模な東田遊郭ができました。最盛期には貸し座敷が56軒、娼妓は495人もいたそうです。
陸軍の移転とともに衰退していきます
 その後陸軍が移転。そして小規模ながら隣の町・東田に「東田園遊郭」として残り、戦後も生き残りました。しかし昭和33年の売防法により、一気に衰退しました。

 いまは旅館、一般住宅に転用されて、建物が残されています。小雨の中を歩いて見ました。2階窓の手すり、玄関の破風、塀や窓のデザインなど、かつての貸し座敷の面影が見られます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 豊橋鉄道東田本線競輪場前から徒歩8分
 
 ○有楽町(ゆうらくちょう)/豊橋市有楽町
 
   
▲玄関口の破風がかつての妓楼の面影を残しています 
小池遊郭(有楽荘)の面影を探しました
 一部営業している店があるのではないかといいますが、数年前でほぼ壊滅状態。というより、このあたりは完全な住宅地。一般住宅と混在しているので、一般住宅への転用、また小料理、旅館としての営業かも知れません。それらはともかく、町を歩いてみると、旧妓楼とおぼしき立派な建築が残されています。しかし櫛の歯が欠けたような感じです。やはり売防法の公布以降、一気に冷え込んだのしょう。
帝国陸軍の御用達
 戦前から帝国陸軍第15師団が小池駅の反対側に陣どっており、まさに御用達でもありました。一時期、娼妓150人前後もいたというからかなり大きな遊郭を形成していました。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 豊橋鉄道渥美線小池駅から徒歩10分
 
○豊川(とよかわ)/豊川市門前町 
 
   
▲裏に回ると旧妓楼や貸席が残ります  ▲改築、改装された棟割長屋が多い 
   
▲豊川稲荷の総門です   ▲ラーメン(600円・中華リキ)
わずかに残る古民家
 豊川稲荷の門前町です。江戸時代には商売繁盛の神として知られ,その名が全国に知られました。今はほとんどが土産物店や飲食店で成り立っています。歩いていますとわずかに残った古民家にホッとします。
裏町に貸席、旧妓楼などが見られます
 もともと妙厳寺(みようごんじ)の境内社・吒枳尼天(だきにてん)が豊川稲荷と呼ばれるようになりました。いまでは年間500万人が訪れる人気のお稲荷さんです。で、それだけ人が集まると、娼妓が登場するなど「聖と俗は隣合わせ」の法則どおり、貸席、妓楼などができます。今回もそれらしき建物を探すために裏道を散策。やはり法則通りありました。屋根や2階の手すり、窓などに面影が見られます。
  感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄豊川線豊川稲荷駅から徒歩5分
○国府(こう)/豊川市国府町 
 
   
▲八平次記念館・八の蔵/イベント会場 ▲格子のある古民家が続きます 
東海道沿いのにぎやかな集落
 律令時代の三河国府の所在地とされた所が地名の由来か。江戸時代は幕府直轄,岡崎藩など変遷を繰り返していました。東海道に沿った集落で,隣の御油宿の助郷村の役割を果たしていました。毎月4と9の日に六斎市を開かれるなど,それなりの賑わいを見せています。米,野菜,縄,大豆,薪などが並んだそうです。
格子戸の町家が続く
 現在の東海道(国道1号線)から一本海側に入った通りが旧東海道で,出桁造りで平入りの各宿場で見られる典型的な町家が所々に見られます。ただ1号線のバイパス代わりになっているのか,交通量の多いところでした。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 名鉄名古屋本線国府駅から徒歩5分
 
 ○御油(ごゆ)/豊川市御油町
 
松並木も有名ですが…
 旧東海道の宿場町です。どちからといえば、国の天然記念物「御油の松並木」のほうが有名です。その松並木を過ぎて、御油宿に入りました。比較的古い建物が残っています。こんな時は、胸がわくわくします。木造2階建て、1階は格子のはまった町が続きます。平屋建てもあります。またノコギリの歯のように、ギザギザに並んだ町並みもあります。ノコギリの歯のような家並みの理由は諸説あるようです。
街道途中のL字型に折れ曲がった所に古民家
 御油宿の町並みは、途中L字型に折れ曲がっています。その折れ曲がった付近に古い建物が残っています。地名は御所に献納する油造りがいたことに由来します。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは銀行の駐車場に停めました
○赤坂(あかさか)/豊川市音羽町赤坂 
 
   
▲2階建ての古民家も改築、改装  ▲大橋屋/旧旅籠で芭蕉も宿泊した 
赤坂,御油,二川を一緒に
 今回は、この赤坂宿から始まり、御油宿、二川宿と東に向かって移動しました。この3宿は隣接しており、クルマでの移動時間もわずかで、効率のいい撮影になるからです。
芭蕉や十返舎一九も登場する
 途中いくつかの瓦葺き木造2階建ての町家がところどころ見かけます。しかし、昔ながらの風情を保っているのが、この旅籠「大橋屋」(写真)です。木造2階建てで、窓にちょっとユニークな格子がはまっています。松尾芭蕉は「夏の月 御油より出でて 赤坂や」と詠みました。十返舎一九『東海道中膝栗毛』では、キツネに化かされる話がココ。 
感動度★
  もう一度行きたい度★
  交通 クルマは道端に停めました
 
 ○新城(しんしろ)/新城市西新町
 
   
 ▲街道沿いに古い町家が残ります ▲玄関部はほとんど改築されています 
交通の要衝「山の湊」と呼ばれました
 関ヶ原の戦い以後,新城藩は幾多の変遷を経て,城主が代わりました。しかし,幕府領下では,交易の中心地となり,信州街道(信州側からは三州街道と呼ぶ)沿いには商家が軒を並べ,豊川を上下する川船や三州馬,信州中馬からもたらす物資の接点でもありました。そこから「山の湊・新城」と呼ばれたほどです。同時に,能楽,芝居,茶道,俳諧などが盛んになり,芭蕉も来訪したほどです。
街道沿いに古民家が見られます
 県道439号線沿いには往時の面影を残す出桁造りの古民家が所々見られます。地名は、長篠の戦い戦功をあげた奥平伸昌が築城した新城城が由来。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR飯田線東新町駅から徒歩15分
○三河大野(みかわおおの)/新城市大野 
 
   
▲蓬莱館/旧大野銀行本店・1896年  ▲旧道沿いに旧商家など町屋が続く 
鳳来寺の参拝客で賑わう
 宇連川沿いの宿場町です。下流へ行くと豊川になり,戦国時代,武田氏と徳川氏の激しい戦いとなった長篠の合戦地があります。逆に上流に向かうと,鳳来寺があり門前はたいへんな賑わいぶりを見せていました。江戸時代の大野宿は参拝する善男善女で賑わった秋葉街道とともに栄えた町でもあります。
近代建築も残ります
 街並みは意外なほどきれいに残っており,ひさしの突き出た出桁造りが特徴で,数多く見られます。また大正13年築の近代建築、旧大野銀行も残っています。かつて一帯は麻の生えている野原。そのため麻生野(おうの)と呼ばれ大野に転訛したとか。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR飯田線三河大野駅から徒歩15分


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○清洲(きよす)/清須市清洲 
 
   
▲旧道沿いにも古民家が見られます  ▲庇の突き出た町屋が多い 
NHK大河ドラマ『江』の町
 清洲宿の本陣や商家,旅籠など,明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊と火災で,町が壊滅しました。そのなかで本陣の門や一部の建物がかろうじて残り,往時の面影を伝えています。大河ドラマ『江』(主演・上野樹里)の舞台でもあります。
尾張徳川家が成立します
 弘治元年(1555)、織田信長が清洲城を本拠地にすることで、城下の重要性が増しました。その後、織田信雄、豊臣秀次、福島正則が城主となり、関ヶ原の戦いへと進みます。関ヶ原の戦い後、徳川家康の4男松平忠吉が清洲城主となり、尾張国を支配するのです。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 名鉄名古屋本線新清洲駅から徒歩10分
○西枇杷島(にしびわじま)/清須市西枇杷島町南松原 
 
   
▲屋根を注意しながら歩いていてやっと見つけた屋根神さま 
ところどろに屋根神さま
  屋根神様は、江戸時代末から明治始めにかけて名古屋を中心に尾張に広まった庶民信仰で、たいていは疫病除けの津島神社、火難除けの秋葉神社、武運長久の熱田神宮の3社の祈願お札が祀られています。かっては、旧西枇杷島町に12箇所あったそうでが、屋根の上に祀ってあるのは、僅かしかないそうです。
遊女が形見の琵琶を抱いて庄内川に身を投げる
 治承3年(1179)、太政大臣の藤原師長が尾張国・熱田東井戸田に左遷されてきました。その後井戸田に住む遊女と結ばれましたが、師長は都に帰りました。遊女は帰洛を悲しんで形見の琵琶を抱いて庄内川に身を投げたそうです。村人たちは遊女の亡骸を琵琶とともに埋めて塚を造ったそうです。これが地名の由来の一つになったという説です。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄名古屋本線二ツ杁駅から徒歩10分
 ○須ヶ口(すかぐち)/清須市須ヶ口
 
   
▲棟割り風の古民家も多い  ▲手入れの行き届いた蔵造りの町屋 
美濃街道沿いに賑わう
 清洲城の城下町ですが,外堀のさらに外側のかなりはずれにある町です。しかし美濃街道がど真ん中を通っているせいか,かなり賑わっていました。武士や商人が多く住み,さらにその周辺には農家が囲むように住んでいました。街道筋にはお茶屋が並び,その裏手には遊女屋が建ち並んでいたのです。この賑わいは明治時代まで続いたといわれています。
今川義元の首をさらした今川塚
 名鉄・丸ノ内駅方面へ美濃街道を歩いていきますと,徐々に古民家が密集してきます。今川義元の首をさらした今川塚もすぐそこ。奇妙な地名の由来は、砂州の地形からきているという説があります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄名古屋本線須ヶ口駅から徒歩5分
 
○岩倉(いわくら)/岩倉市下本町 
 
   
▲旧貸席、妓楼と思われる家も残る   ▲古民家群が点在します
戦国時代は戦乱の地で歴史ファンの聖地
 戦国時代,斎藤道三,信長,秀吉などが登場する戦乱の地でもありました。江戸時代は交通の要衝とあいまって,多くの市場が立ちたいへんな発展ぶり。それに伴い商家が林立。 
犬山街道沿いが賑わいました
 江戸時代は尾張藩領。一時期、犬山藩との相給がありました。村高は3000石弱と、かなりの穫れ高を示しています。人口も2000人を超えるだけあって、六斎市のほか、毎年2月、3月は毎日市が立っていました。特に犬山街道沿いに集中し、多くの人々でにぎわったそうです。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 名鉄犬山線岩倉駅から徒歩10分
 
○小牧(こまき)/小牧市小牧 
 
   
▲ところどころ古民家が残る  ▲旧料亭や遊郭も残ります 
往時の面影は薄い
 元和9年(1623)に尾張藩が名古屋と中山道を結ぶ上街道を新設するさい,宿駅として現在地に移転。宝暦年間には,下町,中町,本町,横町,上之町に区割りされていました。庄屋・岸田家住宅(写真上・市の文化財指定)が上街道沿いに残っています。
小牧・長久手の戦い
 天正12年(1585)12月から始まった小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康は小牧山に本陣を構えました。一方の羽柴秀吉は小牧山北東の楽田に本陣を構えて対峙しました。小牧表で激突! この後天正18年(1590)には秀吉の支配下に入ります。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 名鉄小牧線小牧駅から徒歩10分
 ○古知野(こちの)/江南市古知野町北屋敷
 
   
▲旧銭湯・広見湯/2007年に廃業  ▲板壁の民家がまだまだ残ります 
商家などが往時を語る
 中心的寺院でもある曼荼羅寺の古文書には「乞野」,また古池野,古地野など,地名の由来には諸説あるようです。さて信長の時代に完成したといわれる岩倉街道は,江南市の東方を南北に通り,そこから分岐した「往来街道」が宮田村へと向かいますが,途中古知野を通ります。
 享保3年(1718)には六歳市も開かれるなど,少しずつ発展していきました。朝鮮通信使の往来,将軍の上洛時には,名古屋に人馬の提供,生田橋の工事には人足を出したとか。かなりの負担だったようです。
昭和の香りがする新町通商店街
 格子窓、虫籠窓、蔵造りなどの町屋が連なる商家群も見ものです。さらにもう一つ昭和の香りのする新町通商店街も注目されています。また旧カフェーを思わせる建物も見られます。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 名鉄犬山線江南駅から徒歩10分
○布袋(ほてい)/江南市布袋町中 
 
   
▲古い街並みが多く見られます  廣門家の門/生駒家の門を移築 
 ●意外と多く残る古民家
 布袋といえば「布袋の大仏」で知られています。これは個人の寄贈で戦後に建立されたものです。ただ、本尊の木造阿弥陀如来座像は県の文化財に指定。ところで古い町並みが残されていることは,地元民以外はあまり知られておりません。
 布袋にはいくつかの町がありますが,布袋中のほか,布袋西,布袋東には造り酒屋があり美しい白壁が続きます。
信長の愛した吉乃のゆかりの里
 布袋の地名は旧小折村の布袋野からきたのではないかといわれています。町を歩いていますと商家風の古民家が多く見られますが,かつて絹織物が全盛だったころの名残でしょうか。
また織田信長が愛した生駒家の吉乃(きつの)ゆかりの里でもあります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄犬山線布袋駅から徒歩10分
 
○北市場(きたいちば)/稲沢市北市場本町 
 
   
▲点在する2階建ての古民家  ▲旧道沿いに2階建ての町屋が続く
織田家ゆかりの地
 江戸時代は尾張藩領で,清洲代官所の支配下でした。清洲城の北側に市があったことから名付けられたとか。美濃街道は清洲からこの北市場を通って稲葉宿へと向かいます。北市場は,清洲宿の助郷を役割を果たしていました。
2階建ての棟割り長屋が続きます
 いまは往時の面影はありませんが,2階建ての庇の突き出た長屋が残る程度。しかし亀翁寺には重文の虚空菩薩座像が「こくぞうさん」の名で親しまれています。また総見院には織田信長,信雄の位牌や,本能寺の変後の信長の焼き兜も保存されています。地名は清洲城のあったころ、市場があったことが由来とされています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線清洲駅から徒歩15分
 
○稲葉(いなば)/稲沢市稲葉 
 
   
▲格子と虫籠窓のある蔵造り  ▲切妻型板壁の住宅も残ります 
女性たちにも重宝された美濃路
 美濃路は中山道の垂井宿(岐阜県)から東海道の宮宿(名古屋市)を結ぶ全長57.5kmの重要な街道です。鈴鹿越えや海路と比較して,やや遠回りになりますが,安全性が高く,天候にも左右されず,予定通りの通行が可能だったことから,女性にも重宝され,多くの旅人が利用しました。
美濃路の重要な宿場町
 稲葉宿は本陣・脇本陣が各1軒,問屋場3カ所,旅籠は8軒ありました。いまは格子や虫籠窓のある商家,蔵などが多く残っており,半円を描くような通り沿いに見られます。地名は、稲を干す原っぱからきている。つまり稲を干す稲架(とうか)のできる前の時代のことをいいます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄名古屋本線国府宮駅から徒歩15分
 
○勝幡(しょばた)/愛西市勝幡町塩畑 
 
 
▲芸者置屋も3軒あったという記録も残っています  ▲井戸田邸(旧左織郵便局)/大正11年開局。昭和8年改装 
織田信長生誕の地(?)で一躍有名に
 勝幡を一躍有名にしたのは、勝幡城(館)が織田信長生誕の地ではないかという説が浮上したからです。織田三郎信秀に招かれた山科言継らは数十日間もの遊山を楽しみました。天文3年(1534)5月28日に信秀の子・織田信長が同館で誕生したというのです。
とても静かな町並みでした
 この日は夕方近くに駅に着きました。暗くならないうちに急いで歩きました。静かな街並みを歩きますと格子戸あるの町家が長く続きます。1階の庇が深く、2階の屋根が低い平入りの建物です。ところどころ明かりがもれてきますが、往来する人はほとんどいません。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 名鉄津島線勝幡駅から徒歩15分
 
 ○犬山(いぬやま)/犬山市本町
 
   
▲和泉屋小島醸造/慶長2年創業  ▲米清旧宅/米問屋で明治22年築 
町家中心に建ち並ぶ
 国宝でもある犬山城下の本町に広がる古い町並みです。町家や商家を中心に、建ち並んでいますが、格子戸のある平入りの町家が中心です。その多くは土産物店になっています。また少し離れたところに寺町通りもあります。
屋根に膨らみをもたせた旧磯部家住宅
 江戸時代,犬山は元もと成瀬家の城下町です。成瀬家は尾張藩の家老でもあったのです。犬山城下は,町方と村方に分かれており,多くの街道が整備され,さらに木曽川の舟運も利用して,たいへんな賑わい。旧磯部家住宅(写真上)の
特徴はやや膨らみをもたせた「起り屋根」(むくりやね)で、犬山の町屋やでは唯一の建造物です。
 地名の由来は、大縣神社の戌亥の方角にあるとか、小野山の転訛説などがあります。 
  感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
交通 名鉄犬山線犬山駅から徒歩15分
○起(おこし)/一宮市起 
 
   
▲起宿脇本陣跡/旧林家住宅・国登録  ▲旧問屋を思わせる古民家
美濃路七宿で最も規模が大きい宿場町
 関ヶ原の戦いで,徳川方の福島正則軍がココ木曽川を超えて岐阜城に攻め込んだといういわくつきの場所です。
 中山道の垂井宿と東海道宮宿を結ぶ美濃路の七宿の一つです。そして七宿のなかで最も規模が大きく,旅籠だけでも22軒,本陣,脇本陣も大きいのです。これは起宿から大垣宿のあいだに木曽川,長良川,揖斐川の3つの渡しがあり,川止めになると滞留客が一気に増えるからです。
多く残る古民家群
 丹羽家や旧林家住宅など古民家が多くの残されています。さらに土蔵、中2階、平屋、格子戸のある町家が見られます。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは銀座通り商店街駐車場に停めました
○黒田(くろだ)/一宮市木曽川町黒田 
 
   
▲寺院も加わって街並みを形成  ▲ところどころに古民家が点在 
古くは鎌倉街道沿いの集落でした
 もともと木曽川の氾濫等で肥沃な土地になったというので黒田,という地名が誕生したそうです。そのせいか江戸時代の旧黒田村の村高は、2000石を超えており、かなり豊かだったと推定。なお古くは鎌倉街道沿いにあたり,北宿,南宿もあり,かなり賑わいました。江戸時代は,尾張藩領で2里ほど離れた起(おこし)宿の助郷の役割を果たしていました。しかし享保2年(1717)に近くの一宮に三八市ができて,一気に衰えました。
街道筋と分岐点に古民家
 いまは幾つかの寺院や古民家が残る程度ですが,特に街道の分岐点(写真)に,看板建築が加わって面影を感じさせます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄名古屋本線新木曽川駅から徒歩10分
 
○萩原(はぎわら)/一宮市萩原町萩原 
 
   
▲昭和の風情の残る商店街  ▲珍しいノコギリ型の木造工場跡 
   
▲旧料亭、貸席、妓楼などがけっこう残っています 
美濃路七宿のなかで規模が最も小さい 
 萩原宿は本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠17軒で家屋数,人口ともに美濃路7宿中,最も規模の小さい宿場町でした。当時,本陣,脇本陣は上町にあり,宿場の中心地でした。本陣は森権左衛門が世襲,脇本陣は森半兵衛が世襲しました。こぢんまりとした美しい街並みでしたが,明治24年(1891)の濃尾地震で,大きな被害を被りました。
長~い街道沿いに点々と続く古民家
 とはいえ,萩原下町から上町の長~い街道沿いには,点々と商家などの古民家が残されており,往時の雰囲気を残しています。日光川上流の左岸に位置する町ですが、語源は萩の自生地だったからとか。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄尾西線萩原駅から徒歩10分
 
 ○甚目寺(じもくじ)/あま市甚目寺
 
   
 ▲甚目寺の南大門(国重要文化財)  ▲甚目寺の三重塔(国重要文化財)
虫籠窓のある商家
 津島上街道沿いの集落で、甚目寺の門前町として発展しました。南北朝時代は甚目寺荘、江戸時代は尾張藩領で歴史のある集落です。街道を甚目寺に向かって歩きますと、正面に東門(重文)が見えてきます。甚目寺は秀吉の時代から300石の寺領を持つ古刹ですが、徳川時代になっても引き継がれました。
歴史は推古の時代にさかのぼります
 甚目寺正面の両側には、虫籠窓のある商家が軒を並べています。門前町です。ところで甚目寺は、推古5年(597)に甚目竜麿が一棟の家を造り甚目寺(はだめでら)と号しました。これを「じもくじ」とよんだそうです。白鳳時代様式の軒丸瓦が出土するなど、歴史の古い町です。
 
  感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 名鉄津島線甚目寺駅から徒歩5分
○木田(きだ)/あま市木田 
 
   
▲静かな旧道沿いの古民家群  ▲土蔵も残ります 
津島上街道沿いの集落
 江戸時代は尾張藩領で清洲代官所の支配。木田村の村高は1600石余というから、土地が肥沃だったのでしょうか。また津島上街道が集落の中央部を東西に通り、六斎市も開かれるなど茶店もあって、かなり賑わいました。戸数は120、人数は451、馬2といいますから、中ぐらいの規模と言えるでしょうか。
格子や虫籠窓のある旧家が残ります
 古民家は、駅を出て左方向にしばらく歩きますと、格子や虫籠窓、板塀のある旧家がひとかたまりになって残っています。街道筋の両側にあたります。地名の由来は、田んぼのなかに、一夜にして藤が生えて樹のようになったので、藤木田といい後に木田となったとか、諸説あります。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 名鉄津島線木田駅から徒歩7分
 
○青塚(あおつか)/津島市青塚町 
 
かつて切り干し大根が名産 
 天正年間(1573-92)織田家家臣・佐々平八郎の所領でした。江戸時代は尾張藩領で清洲代官所支配で、村高430石余。戸数39、人数177で、この辺りの地形からいって、小さな集落といえます。北端に津島街道が位置するせいか、交通の便はいいほうです。かつて畑作に恵まれており、特にダイコンがよく穫れ、切り干しダイコンが名産で近郊近在の人たちに人気がありました。
黒瓦葺きの町家が続く
 いま旧津島街道沿いに古民家が点在していますが、旧家は見かけず、瓦葺きのごく平凡な町家が軒を並べています。町名の由来は、戦国時代の青塚郷の郷名からとっています。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 名鉄津島線青塚駅から徒歩5分
 
 ○津島(つしま)/津島市本町
 
   
▲旧名古屋銀行津島支店・昭和4年築  ▲1軒1軒に個性のある町屋が続きます
うだつのある本町筋
 駅前からのシャッター通りを抜けると,左右に古民家の連なる街並みが横切るように広がってきます。上(かみ)街道は,織田・豊臣時代から名古屋北西部から津島に至る道で,街道の両側には往時を彷彿させる町家が並んでいます。特に本町筋は,防火壁の役割を果たす「うだつ」が見ごたえがあります。
津島神社の門前町でもありました
 上街道と下街道が交わり,さらに巡見街道からの津島神社・天王様参りで賑わうところが橋詰町入口です。ここは津島参りのおかげで,門前町として大きく発展したところ。地名の由来は津島神社からですが、語源は木曽川の湊(津)にあります。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 名鉄尾西線津島駅から徒歩15分
 
○神守(かもり)/津島市神守町 
 
   
▲壁などが一部改装されています  ▲見事な蔵も見られます 
商家や蔵が往時を彷彿させます
 江戸時代は尾張藩領。佐屋街道沿いの宿場町ですが、佐屋宿と万場宿のあいだがあきすぎているので、正保4年(1647)に開設され、佐屋街道では最も新しい宿場となりました。尾張藩の代官所も置かれていました。もともと徳川家康が大坂夏の陣でここを通行したことから本格的な整備がはじまったとされます。
東海道の脇往還もまもなく衰退
 東海道の脇往還として発展しましたが、東海道が充実するにつれ、衰退していったとそうです。いま歩いて見ますと、商家や蔵など、往時を彷彿させる古民家が連なっています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 名鉄津島駅からバスで東神守下車、徒歩10分
 
○蟹江(かにえ)/蟹江町蟹江本町城 
 
   
▲格子窓や格子戸の多い町並み  ▲蟹江川の堤防沿いに連なります 
蔵造りの古民家がギッシリ詰まる
 蟹江城は室町時代に築かれ,戦国時代は伊勢湾を臨む戦略拠点で重要されたところでした。江戸時代は蟹江川に伊勢湾を行き来する百石舟が浮かびたいへんな賑わいだったとか。同時に干拓もすすみ町の半分は,埋め立てられ農地になったそうです。それでも水郷の名にふさわしい町でした。いまは海抜ゼロm地帯ですが…。またこの地まで海岸があったころ、カニがいっぱいいたそうです。
蟹江川沿いに並ぶ重厚な古民家群
 蟹江川沿いには造り酒屋の蔵が軒を連ね,堤からさらに中に入ると重厚な古民家が詰まっています。また神社仏閣も多く,町の歴史を感じさせます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR関西本線蟹江駅から徒歩15分
 


                      ▲ページの先頭にもどる

緒川(おがわ)/東浦町緒川 
 
   
▲手入れの行き届いた植栽も見ます ▲至るところに古民家が残ります
わずかに残る古民家
 江戸時代中期,尾張藩は財政に苦しむことから,豪農や豪商による新田開発が盛んになりました。新田の多くは海岸の干拓でした。なかでも大規模で計画的に行われたのが,緒川村新田でした。緒川の有力者たちは,さらに山間地区に入り,耕地を拡大していきました。
7軒の醸造の合計が1800石!
 また新田開発と米の生産技術向上にともない,余剰米を酒造りに生かしました。水飢饉や台風の襲来など災害が重なりますが,それでも恵まれた地域だったとか。村高は1600石弱、7軒の造酒屋の酒量合計が1800石。旧道沿いの黒板壁の家屋が往時を思わせます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR武豊線緒川駅から徒歩8分
 
○半田(はんだ)/半田市中村町 
 
   
 ▲かつて半田運河で酢を運びました ▲中埜酢店/ミツカン・大正13年築 
酢の香りがする酢の里
 醤油や酒、味噌の香りのする町は何度か訪ねたことがありましたが、酢の香りのする町ははじめてです。ご存じミツカンの本社があるところです。半田運河周辺には黒板塀の蔵が並び、美しい景観が見られます。夕方も再度訪ねました。運河沿いの明かりや、板塀へのライトアップなど、これはこれで見事なものです。
江戸の寿司屋に大好評で、一気に需要が伸びる
 江戸時代の初期,利用価値のなかった酒粕で酢を作り,江戸に送ったところ,寿司屋から大評判。そこで一気に需要が伸びたそうです。

 市名の由来は、中世の坂田郷や坂田荘を「はんだ」と呼んだことがはじまりだそうです。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 名鉄河和線知多半田駅から徒歩10分
○上半田(かみはんだ)/半田市榎下町 
 
   
▲明治31年築・旧カブトビール工場/国の登録文化財 
謎の多い紺屋海道
 江戸時代,上半田(坂田郷)の主要道路であった紺屋海道は,半田港が開かれるまでの間,千石船の出入りする大野港と下半田を結ぶ交通の要衝でした。ただ実際の海道ルートは,地元でも諸説あるとか。
船の帆を染める紺屋が軒を連ねる
 紺屋というのは、船の帆を染める紺屋が、このあたりに軒を連ねていたそうです。いまはわずかな距離ですが、道は掃き清められ往時を彷彿させてくれます。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは名古屋ハウジングセンター半田会場に停めました
 
○亀崎(かめざき)/半田市亀崎町 
 
   
 ▲棟割長屋風の古民家も多い ▲いまでも黒壁、黒塀が続きます 
 ●残る造り酒屋と板塀
 江戸時代から「酒どころ半田・亀崎」といわれるぐらい盛んでした。寛政元年(1834)にはすでに江戸へ酒を送りつけていたそうです。しかし灘の清酒に比べ,品質,味が落ちていたのも事実。しかし「中国酒」という名と,手配の船頭に販路をまかせるという「船頭支配荷」でめきめき売り上げを伸ばしたとか。船頭支配荷とは、販路の開拓や、市況に応じての荷揚げ先の選択、代金の回収など店の番頭、手代の役割を船頭が果たすことです。
知多四国88カ所霊場巡りの人々
 いま亀崎にくると,年配者の団体が目立ちます。知多四国88カ所霊場巡りの人たちです。いくらか残った古民家の間を,列を作って抜けていきます。

 地名の由来は、諸説ありますが「神」が「亀」に転訛したという説が多いようです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR武豊線亀崎駅から徒歩15分
 
 ○常滑(とこなめ)/常滑市栄町
 
   
▲黒板壁の民家や作業場は雰囲気があります   ▲セラミック・パイプや衛生陶器も製造しています
産業用の焼き物が中心
 2度目の訪問です。考えてみれば、常滑はそれほど古い建物があるわけではありません。ほとんどが戦後の建築です。しかし焼き物の町として1000年以上の歴史を誇っています。そのほとんどが土管、壺など産業用に使われていたためか、全国的に名前が広がらなかった原因の一つでしょう。
赤レンガ造りの煙突は文化財級
 町を歩きますと黒塀の陶器工場、赤れんが造りの煙突、焼き物を埋め込んだ路地などひとつひとつが情緒があります。
 地名の由来は、粘土層が地表に近く、床(とこ)、すなわち地面が常に水を含み滑らかであることだそうです。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは陶磁器会館の駐車場に停めました
 
○大野(おおの)/常滑市大野町 
 
   
 ▲旧妓楼や料亭なども残ります ▲川沿いにも古民家が見られます 
伊勢湾に海賊が多数出没
 戦国時代から交通の要衝で,伊勢桑名と三河・知多を結ぶ港でもありました。しかし伊勢湾に多数の海賊が出没していましたが,知多全域を支配していた佐治氏の警護の役人を乗せれば襲われることはなかったとか。
横道や裏道に歴史的建造物が集中
 江戸時代は尾張藩領となり,横須賀代官所の支配地となりました。酒造業や鍛冶,味噌,木綿の仲買業が多く,また廻船業を中心に発展しました。酒造業17軒もあり、人口は3000人を超えるなど、商人を中心とした町を形成していました。町並みは,街道沿いにもポツポツ見られますが,むしろ横道や裏道に歴史的な古民家が多く見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは三菱東京UFJ銀行大野支店に停めました
 
 ○古場(こば)/常滑市古場町
 
   
▲道路沿い黒瓦葺きの家屋が建つ  ▲旧家と思われる豪華な屋敷 
江戸時代にもっとも成功したのが酒造家たち
 江戸時代は尾張藩領で横須賀代官所支配下にありました。「小場」と書いた時期もあったようです。農業といっても個数の割りには一戸あたりの耕地面積も狭く,他から収入を得なくてはいけませんでした。漁業,鍛冶,酒屋,回船などいろいろありますが,最も成功したのが,酒造業でした。
見事な澤田酒造の黒塀
 江戸時代末期には澤田酒造ら幾つかの業者が育ちました。明治に入って,一時不況に見舞われましたが,販路の開拓などで伊勢にも納めるなど,9人の事業者たちは生産を続けて力をつけました。今でも澤田酒造の黒板壁の続く家並みが見られます。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄常滑線常滑駅から河和行きバスで古場下車すぐ
○奥田(おくだ)/美浜町奥田 
 
   
▲黒板壁の家並みが続きます  ▲典型的な美しい押縁下見板張り 
良質の粘土を常滑に移出
 漁業よりも農業が発展した町です。というのも、伊勢湾に面していますが、単純な砂浜が続いていたからです。大正時代までは養蚕が盛んでした。また明治初期から、水田に良質の粘土層が堆積し、それが陶土として常滑に出荷されていました。
サイコロ状に切った陶土を荷車で運ぶ
 冬場、陶土をサイコロ状に切って、荷車で運ぶ光景は、奥田の風物詩でもありました。いまはその面影はありませんが,知多地方独特の黒板塀の家並みが続きます。特に南奥田地区に集中。地名の由来は、集落の奥の方に田があるからとか。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 名鉄知多新線知多奥田駅から徒歩15分
○野間(のま)/美浜町野間 
 
   
▲潮風に強くするためにコールタールを塗ります   ▲黒一色の町並みは珍しく魅惑にとんでいます 
若松海水浴場近くにある古民家群
 野間は柿並,一色,若松,細目の4つの集落から成り立っています。古民家群は,若松海水浴場近くにあります。いつも多くの参拝客で賑わう野間大坊は隣の一色地区にあたります。
黒板壁・黒板塀の迷路は魅力的です
 江戸時代は「野間の塩船」と呼ばれ海運業が発達し,伊勢湾を横断する伊勢航路もありました。旧一色村の持ち船はなんと90艘近くあったとか。ところで野間の塩は奈良の大和朝廷にも献上されていました。

 それにしても驚きました。黒板塀・板壁の民家がぎっしりと残されているのです。迷路のごとく路地が入り組んでおり,魅力的な街並みです。 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
交通 名鉄知多新線野間駅から徒歩15分
 ○岡田(おかだ)/知多市岡田
 
   
▲石積みと黒板壁、白漆喰と板塀も風情があります   ▲かつては機織りの音が聞こえてきました 
   
 ▲復活した岡田簡易郵便局   ▲知多木綿の里・木綿蔵「ちた」 
洋館風の岡田郵便局も残されています
 ゆるやかな坂道の両側に土蔵や板塀の町家が続きます。江戸時代から昭和初期まで木綿の産地として栄えました。明治時代の洋館風・岡田郵便局も残されており、その隣に木綿蔵が建っています。ここでは、地元の保存会の人たちが機織りを復活させています。
かつて機織りの音が聞こえていました
 かつては,木綿を織るたくさんの女子工員たちが歩いており,道路の両側から機織りの音が聞こえていたそうです。また街並み保存にも力を入れており、案内板も充実しています。なおバスは1時間に1本程度あります。台地上にある町で、地名の由来は地形からきていると推定されます。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 名鉄常滑線朝倉駅からバス岡田下車すぐ
 
○師崎(もろざき)/南知多町師崎 
 
   
▲旧妓楼と思われる建物も残ります ▲漁師町らいしい風情が漂います 
漁師町特有の迷路も残ります
 江戸時代は尾張藩の重要な領地でした。三河湾と伊勢湾のあいだに立地するため,通船の取り締まり,流人船のチェック,尾張藩への御用肴なども納めたとか。さらに水運はもちろん師崎街道などの陸運とともに交通の要衝。
旧妓楼と思われる建物も残されていました
 また漁村でもありましたが,回船問屋,商家,料理屋,遊郭などもあり,町はたいへんな賑わい。旧遊郭を思わせる建物もチラホラ残っています。また路地の両側に漁村特有の木造2階建て板張り建築も多く残り,漁師町らしい雰囲気も感じられます。

 地名の由来は、古名を幡頭崎(はずざき)といい、船の停泊にいい山影の港という意味だそうです。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは師崎漁港に停めました
○豊浜(とよはま)/南知多町豊浜 
 
   
▲漁師町に多い切妻型の木造家屋  ▲黒板壁の蔵も点在します 
木造2階建ての板張り
 かつてはマグロを求めてインド洋や南太平洋に出かけた遠洋漁業の基地でもありました。しかし今では典型的な沿岸漁業へと変わっていきました。それでも愛知県下での漁獲高は,常に上位に入っているほど,漁業が中心となっています。江戸時代は江戸と大坂を行き来する船の寄港地として栄えました。
路地の奥には旧妓楼も残ります
 豊浜には役場があるなど,町の中心地でもあります。旧市街の街並みは路地が迷路のように入り組んでいます。2階建ての木造建築で,ほとんどが板張りです。一部には蔵造りも残っており,回船問屋の名残かと思えます。もちろん遊郭などの花街の面影も残ります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは豊浜漁港に停めました
 
○中須(なかす)/南知多町豊浜中之浦 
 
   
▲影向寺/江戸時代から続く古刹   ▲改築、改装された棟割り長屋
安産祈願の影向寺は年中にぎわう
 明治に入って,旧中須村と須佐村が合併して豊浜村になりました。いまではバス停に「中須」、中須公会堂などに中須という名が残っているのみです。また知多西国33カ所の第4番札所・影向寺(ようごうじ)のあるところで,江戸時代から安産祈願で多くの参拝客で賑わっていました。
門前町と漁村が重なる
 しかし裏山が迫り,わずかな土地に大勢の人たちが住んでいることから,どうしても漁村特有の迷路を形成します。黒板壁を張り巡らし古民家がギッシリと詰まり,影向寺参道すらも,迷路のごとくです。独特の潮風のにおいが新鮮です。  
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは豊浜漁港に停めました
○内海(うつみ)/南知多町内海 
 
   
▲ところどころに古民家が見られます  ▲坂道に古民家が続きます 
海運業の中心地でした
 江戸時代はイワシ漁と海運業が盛んでした。また伊勢,三河,尾張の農産物を江戸や大坂,遠くは瀬戸内沿岸まで運んでいました。明治時代は国策とともに養蚕が盛んになり、明治41年の農家の9割が養蚕を手がけました。内海製糸工場の設立されるなどかなり発展。
唐人お吉の生誕の地
 ところで内海海岸の北よりにお吉ヶ浜があります。内海は唐人お吉(斉藤きち)の生誕の地で知られています。天保12年(1841)、船大工・市兵衛の二女として生まれ、4歳のときに伊豆下田に移住。のちに芸者になり、アメリカ総領事ハリスとともに、幕末外交史にその名を残すことになるのです。
ホテル群の裏手に町家
 いま内海は名古屋からの通勤圏に入り,多くの住宅が建っています。また海岸沿いのホテル群の裏に木造2階建ての建築が残されています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはスギ薬局駐車場に停めました
 
 ○豊丘(とよおか)/南知多町豊丘
 
   
▲蟹川沿いに板張りの倉庫や大型家屋などが続き、一幅の絵を見せてくれます 
誰も振り向かない平凡な町のはずが……
 知多半島を縦断する南知多有料道路の終点が豊丘ICです。豊丘は特に特徴的な町ではなく,平凡な地方の町といえます。たぶんイチゴ狩りにくる観光客が多少あるかと思います。そんな誰も振り向かない町だからこそ,古い建物が残っていたとすれば幸いでした。
蟹川沿いに古民家群
 蟹川沿いに古民家がズラッと連なっています。白壁の蔵造りもありますが,大部分は2階建て板張りの木造建築です。それが小さな石橋に似合うのです。
明治に入って幾つかの村が合併して豊丘村になりました。その後も離合集散を繰り返し、現在の南知多町になりました。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端の空き地に停めました
 ○篠島(しのじま)/南知多町篠島
 
道の両側にギッシリ
 3度目の訪問です。離島や漁村の街並みは、道路が迷路のようで独特です。道路も幅1m足らず。店もこんな狭いところに集中しています。かつて「通い婚」の風習のあった集落でもありました。結婚しても新居が手に入らないという時代のころの話です。しかし、港も新しいところに移転し、埋め立て面積も拡大し、他の離島とは違って、かなり発展しています。
少なくなりつつある古民家
 建物は板塀を中心にしたものです。やはり潮風に強いということからでしょう。しかし古民家は少なくなっています。島の歴史は古く、尾張藩の肴御用を務め、伊勢神宮には改築用の用材を奉納。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 篠島港から徒歩10分
 


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