茨城県

宮町(みやまち)/水戸市宮町 
 
面影の残る旧赤線地帯・奈良屋町
 江戸時代は水戸城の西に位置する町人町。ココの谷地にナラの木が多かったとか,旅支度の品々,刀剣を備えることを奈良物といい,それらを扱った店が多かったとか,町名の由来はいろいろです。
 小ぶりの東照宮から谷底に下って行った先が,旧赤線地帯です。一般に旧町名の「奈良屋町」と呼ばれ,多くの娼妓たちが生活をしていました。昭和30年発刊の『全国女性街ガイド』には約40軒、娼妓136人と明記されていました。
もう古民家は見られません
 いま往時の面影を見ることができますが,震災以後,クシの歯が抜けたようになっており、古民家は見られません。
 
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 交通 クルマはコインパーキングに停めました
 
取手(とりで)/取手市取手 
 
   
▲旧取手宿本陣染野家住宅代々名主で、江戸中期の建物と推定  
数軒の古民家が現存
 江戸時代はじめは,利根川の川原の中に町並みがありました。ところが寛文6年(1666))の大洪水で大きな被害にあい,現在の所に移転。同時に大鹿村の村民も移住し,さらに渡船場も現在の所に移ったとか。古くは取出とも書きました。しかし寛文年間(1661-73)、水戸街道の宿場として整備されると、取出(砦)を嫌って取手に改めたという説もあります。
取手と大鹿、周辺の助郷村を含めて幕末まで論争が続く
 代々名主を勤めた染野伊右衛門家は、付近に問屋場も設置し、宿場町として整備し続けました。取手新町に続き、大鹿新町の両町も取手宿として構成。ところが両町が対等の立場で構成するのか、取手を本宿、大鹿を加宿とするか論争となりました。このことは宿場が発展するにつれ、周辺の助郷村負担を含めて大論争になりました。これは人馬の調達や村民の駄賃などの利害がからむため、この論争は幕末まで続いたとか。 
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 交通 JR常磐線取手駅から徒歩10分
 
 藤代(ふじしろ)/取手市藤代
 
藤代宿と宮和田宿を合わせて一宿
 藤代宿から歩いて数分のところに宮和田宿があり,両方合わせて一宿としました。本陣も両方にあり,5日交代で勤めたそうです。いま宮和田宿には往時の面影はありません。
●宿場の端に趣のある古民家
 このあたりは水害と切り離せません。利根川をはじめ大小河川の氾濫は多くの人々を苦しめました。そのためか水戸街道は悪路で有名。戊辰戦争のとき,新政府軍は“船で通行”したとか。いま藤代宿の端にかろうじて古民家が残っています。土蔵などは改修されていますが,趣が感じられます。
 
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 交通 JR常磐線藤代駅から徒歩13分
 
若柴(わかしば)/竜ヶ崎市若柴町 
 
清潔感のある町並み
 一歩足を踏み入れると,整然とした清潔感のある町だなあと思いました。樹木や垣根などきちんと手入れされており,実に美しい街並みです。しかも1戸あたりの面積が広く,なかには長屋門がそのまま残っている農家もあります。巨木も多く,いずれも旧名主,豪農のたたずまい。
水戸街道沿いの宿場町
 水戸街道の江戸から8番目の宿場で,大坂の曲がりから金龍寺までの約500m余が範囲。文化元年(1804)の牛久宿騒動で幕府軍が本陣を設けたとか。なお明治19年(1886)の大火で,町の大半が焼失しました。
 
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 交通 JR常磐線佐貫駅から徒歩30分
 
牛久(うしく)/牛久市牛久町 
 
約40年前は未開の地という感じでした
 約40年前,牛久駅から少し歩くと山林や畑のある静かな農村で,大手デベロッパーによる宅地開発が盛んに行われており、その様子を取材したことがありました。まだまだ未開の地という感じで、これほど発展するとは予想もしませんでした。
●失われた宿場の面影
 江戸時代は牛久藩山口氏1万石の小さな城下町でした。そして水戸街道の宿場町として発展したのです。いま歩いていますと,ところどころ古民家風の建物が見られます。入口近くに慶応4年(1868)創業宮崎利兵衞酒店が今も営業中です。なかほどに,明治天皇行幸御在所の碑があります。ところで文化元年(1804)の大規模な農民一揆(6000余人)は有名です。
 
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  交通 JR常磐線牛久駅から徒歩15分
 
荒川沖(あらかわおき)/土浦市荒川沖西
 
●約6000人が立ち上がった農民一揆
 水戸街道の宿場町です。江戸時代,隣の牛久宿への助郷の負担が過重で,近郊の農民たち約6000余人が一揆を起こしました。荒川沖宿周辺の8か村も参加。しかし幕府軍は牛久,土浦,佐倉,さらに仙台藩竜ヶ崎陣屋にも出兵を要請するなど,大規模な紛争となりました。
茅葺き屋根の民家2棟
 いま往時の面影はありませんが,茅葺きの民家2棟(佐野家)が残っており,実際に使われています。また黒板塀の続く町家もあって,なにやらうれしくなってきました。というのもあまり期待しないで訪れた町だったからです。
 
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 交通 JR常磐線荒川沖駅から徒歩5分
 
 中村(なかむら)/土浦市中
 
水戸街道の宿場町を形成
 南北朝時代から続く集落です。足利氏満が、当地を鎌倉明月院に寄進。江戸時代,幕府直轄領を経て元禄12年(1699)から土浦潘領。そして水戸街道中村宿を形成しています。中村宿の定助郷は18か村,助郷は20か村に及びました。旅籠も扇屋,柏屋などがありましたが,いまはその面影は見られません。
植栽の美しい集落
 ただ実に清潔感のある町並みであることに気がつきます。石壁や板塀,特に植栽の美しさに目を見張ります。しかも一区画が大きいので,大名主などの旧家、豪農だったことがわかります。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
中貫(なかぬき)/土浦市中貫 
 
水戸街道沿いの集落
 江戸時代は旧中貫村で土浦潘領でした。旧水戸街道沿いに人家が集まっており,それが今でも続いています。やはり当時から宿場町を形成していたからでしょう。
●天狗党に焼き討ちされた本陣もすぐに再建
 珍しいのは,本陣が残っていることです。といっても,元治元年(1864),水戸の天狗党の焼き討ち後,すぐに再建されました建物です。水戸街道では取手宿,稲吉宿の本陣とならぶ貴重な建造物。宿泊用ではなく休息用だそうです。屋根は茅葺きをトタンで覆っていますが,往時の面影は十分に感じられます。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
 中城(なかじょう)/土浦市中央
 
「中条」→「中城」へ
 土浦城の南側に位置し,中城町と呼んでいます。ただし一部、中条商店街などの名に残されています。商店街名で中条の名を使っているようですが、大部分は「中城」に統一されつつあるようです
町並み保全活動が盛んです
 江戸後期は、呉服、小間物、菓子、酒などの商家が並ぶ。いまは蔵を含む街並み保全活動が盛んです。。
 
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 交通 JR常磐線土浦駅から徒歩10分
真鍋(まなべ)土浦市真鍋 
 
ホコリっぽい町並み
 土浦市内の旧水戸街道を歩くと、所々に土蔵造りの商家が残っています。しかしそれらの歴史的な建造物がどんどん壊されています。そのためか、ホコリっぽい町になっています。壊されていくなかにあって、少しかたまりとなって残っているのが、この真鍋宿です。旧水戸街道沿いの宿場町ですが土浦宿の助郷の役割を持っています。
土浦一高に重文指定の本館
 格子戸のはまった店や道標、松並木などが残されています。なお、近くの土浦一高には、重要文化財に指定されている築100年の本館があります。 
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 交通 JR常磐線土浦駅からバス土浦一高前下車すぐ
 
稲吉(いなよし)/かすみがうら市下稲吉 
 
   
▲木村家住宅(旧旅籠皆川屋)  ▲坂本家住宅(稲吉宿本陣) 
貴重な本陣,旅籠が現存
 水戸街道の宿場町です。本陣は取手,中貫と稲吉に残るのみ。貴重な遺構です。旅籠は当時17軒もの軒を連ねており,今は旧皆川屋が残っています。
疲弊した農民たちは本堂氏に強訴
 旗本・本堂氏の支配。慶応4年から志筑潘ですが,農民一揆の続発したところです。
特に稲吉宿への助郷負担に苦しむ周辺の村々の領民たちは疲弊。25ヶ村の農民たちが本堂氏の江戸屋敷に強訴しました。首謀者の下佐谷村の名主・福田助六らは獄門となりました。 
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 交通 クルマは木村家住宅駐車場に停めました
 
笠間(かさま)/笠間市笠間
 
   
▲笠間稲荷神社  ▲笠間稲荷美術館 
   
▲笠間焼/30数年前、ある陶芸作家から取材時にいただきました  ▲そばと三色いなりセット(1000円) 
笠間藩3万石から始まる
 上市毛村佐白山(城山)に位置する笠間城は天正18年(1590)から宇都宮城の枝城でした。慶長6年(1601)松平康重が城主となり、3万石の領主となりました。以後、城主の交代が続き、延享4年(1747)から8万石の牧野氏の支配となりました。
笠間焼は明治以降、急速に発展
 門前町として発展していますが、どちらかと言えば笠間焼のほうが有名かも知れません。笠間焼は明治以降、有名になります。もともと安永年間(1772-79)、箱田村で始められたいわれ、寛政年間(1789-1800)に笠間城のある佐白山麓に良質の粘土があったことから、窯業を奨励しました。その後藩は数々の奨励策をとっています。
看板で隠れた商家のたたずまい
 いま歩いて見ますと、蔵造りの商家のほとんどが土産物店で鳥居の周辺に集中しています。ただほとんど建物が看板で隠れているのが残念です。
 
感動度★★
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 交通 JR水戸線笠間駅から徒歩20分
 
筑波(つくば)/つくば市筑波 
 
   
▲水戸天狗党幹部も宿泊した対宝館 ▲観光の中心地の筑波山神社 
家光の造った資材運搬道路が参拝道になります
 江戸城の鬼門(北東)にあたる筑波山を徳川家康はあがめ,中腹にあった中禅寺(現筑波山神社)を祈願所に定めました。三代将軍・家光の時代,この中禅寺を一新するための工事がはじまり,北条から神郡(かんごおり)を経て筑波山にいたる資材運搬道路が造られたのです。これが後のつくば道で,参拝道となります。
全長4km,日本の道百選
 全長4kmで石段や石垣,漆喰塗りの土蔵など趣のある古民家が残されています。特に旧筑波山郵便局は昭和14年に造られた板張りの洋風建築。鬼瓦に〒印があります。
 
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 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
上大島(かみおおしま)/つくば市上大島 
 
筑波山参拝客で繁栄
 慶長7年(1602),徳川家康は筑波山が江戸の鬼門にあたることから,500石を知足院に寄進し,幕府の祈願所となりました。その後,堂塔の改修,大御堂,三重塔,神橋など多くの僧坊が建てられました。おかげで周辺の村々など参道の入口や街道沿いの集落に大勢の参拝客がやってきて大きく発展するのです。その数は35か村に及び大島村(元上大島地区)もその一つです。
街道沿いに往時の面影が見られます
 いまは街道を歩くと,旅籠や商家,豪農などに繁栄した当時を感じることができます。
 
感動度★★
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 交通 クルマは道端に停めました
 
 筑波北条(つくばほうじょう)/つくば市北条
 
いくつかの土蔵造り
 筑波山への参拝道の出発地でもあります。弘化4年(1847)築の宮本家住宅(写真)は国の登録文化財です。かなり大きな土蔵造りです。店だけではなく、住まいも土蔵なのが珍しいです。商店街でもある北条中央通りに沿って、いくつかの歴史的建造物が並んでいます。残っているのは蔵造りの商家がほとんどです。
早くから開発されたところです
 もともと北条というところは、「常陸北条米」で知られているところです。また城跡や古墳群も見られ、早くから開けたところでした。 
感動度★★
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 交通 JR常磐線土浦駅から関東バスで北条下車すぐ
 
 神郡(かんごおり)/つくば市神郡
 
日本の道百選にも
 知足院へ向かう道は山麓の村々からたくさんあります。その中でもつくば道は,徳川3代将軍家光が,知足院再建のため造った資材運搬用道路を起源としています。そしてその後参道として多くの参拝客が利用することになったのです。全長約4kmで,隣の集落・北条を起点に筑波山神社を結んでいます。
天狗党が普門寺に駐屯
 ところで江戸の末期,元治元年(1864)に天狗党が筑波山に挙兵したときに,神郡にある普門寺に駐屯したのは有名です。かつての豪農の黒板塀の続く落ち着いた町並みです。
 
感動度★★
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 交通 クルマは市営神郡駐車場に停めました
 
 北太田(きたおおだ)/つくば市北太田
 
桜川に沿った小さな農村集落
 50世帯前後の小さな集落です。桜川に沿った農村地帯でもあります。戦国時代の領主・梶原政景の旧姓太田から名付けられたとか。江戸時代から良質の米,大豆などを生産しており,比較的裕福だったようです。また明治、大正と桜川の氾濫も多く,洪水でしばしば米作に打撃を与えましたが,昭和に入って,やっと堤防が完成しました。
独特の板塀の組み方
 狭い道を歩いていますと,板張りの塀が続きます。同間隔で角石を立て,その石との間を板をはめるという珍しい塀です。 
感動度★★
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
大形(おおがた)/つくば市大形
 
桜川の舟運が発展しました
 江戸時代は,佐竹氏領,幕府領,近江高島藩領……,とめまぐるしく藩主が替わってきました。やはり農地が肥えていたことから,多くの作物が獲れていたことが原因かも知れません。近くの桜川に嘉永3年(1850)に大きな河岸が設けられて,年貢米や各種物産が舟で土浦まで運ぶことができました。

長屋門を構えた屋敷が続く
 ところで集落内を歩いていると,当時の富豪農家を思わせるような長屋門を構えてた建物が多く見られます。またこの地方独特形をした板塀が多く見られるのも楽しいものです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
小田(おだ)/つくば市小田 
 
乱世の戦国時代、小田城が解体!
 南北朝時代,小田氏は南朝に味方し,延元3年(1338)に北畠親房を迎え入れました。しかし15世紀後半,小田氏の力は弱まってきます。そのすきに真壁,多賀谷両氏を傘下に治めた佐竹氏は,小田氏を包囲します。そして永禄12年(1569),手這坂の合戦で佐竹氏に敗北するのです。そして天正18年(1590)に小田氏は滅亡しました。その後,佐竹氏国替え後小田城は解体され,濠は水田に,城跡の一部に陣屋が造られました。
白壁や土蔵造りの町家が残ります
 今は白壁や土蔵造りの町家が少し残る程度です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 洞下(ほらげ)/つくば市洞下
 
居酒屋がなんと18軒も…
 江戸時代,谷田部藩の谷田部領と下野茂木領(栃木県)を結ぶ細川街道沿いの細長い台地城の集落で,洞下宿と呼ばれました。そのためか,近郊近在から多くの人が集まり,定住化していくのです。文政11年(1828)には,百姓を除くと46軒,166人でした。居酒屋がなんと18軒,髪結い2軒…。
板塀の続く豪華な町家
 県道45号線を歩いていますと,実に立派な家屋が転々と続きます。一見すると,寺院のような造りのようです。さらに歩きますと,土塀の続く町家を見られます。いずれにせよ豪華な家並みです。  
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
下館(しもだて)/筑西市甲
 
結城街道・蔵の町です
 結城街道沿いに蔵造り商家が並んでいます。特に「蔵の町並み」に集中していますが、旧街道を歩くと、まだ見られます。勤行川にかかる大橋を渡ると、さらに古い建物があります。国道50号線からも見られます。
地名の3つの館のうちの下館に由来
 地名は、承平6年(936)ごろ、藤原秀郷が平貞盛と共に平将門を征討するために設けた3つの館(上館、中館、下館)の下館に由来するといいます。もう一つ、藤原魚名(ふじわらのうおな)が東国平定のために設けた、これまた同じく3つの館の下館に由来するといいます。
 
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 交通 JR水戸線下館駅から徒歩15分
 
結城(ゆうき)/結城市大町
 
結城紬の豪華な問屋街
 伝統工芸品・結城紬の本場です。元もと農家の副業として始まりました。今は市内各地に蔵が残っており、その一軒一軒に表札が掲げられ、建築年月日が明記されています。ほとんどが明治の建物だということがわかります。これらの見世蔵は実際に人が住んでおり、商売として使われているのです。
店先を公開している豪商も見られます
 見世蔵は大町や浦町の問屋街に多く残っています。なかには店先を公開している商家もあります。当時の豪商という名にふさわしい力があったのだということがわかりました。
 
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 交通 JR水戸線結城駅から徒歩10分~20分
 
古河(こが)/古河市中央町 
 
江戸町通り古民家が残る
 鎌倉時代から120余年にわたる古河公方時代を経て江戸時代には徳川譜代大名の城下町でした。また日光・奥州街道の要の地として,大老や老中格が古河城の城主となりました。
徳川将軍の日光参拝で一躍発展する
 歴代の徳川将軍たちの日光参拝は,岩槻,古河,宇都宮の各城で宿泊,風雨などの事故が無い限り,3泊4日の行程で行われました。そのため古河は大きな発展をとげていくのです。現在は,交通量の多い通称・江戸町通りに,土蔵やレンガ造りの建物が点々と残っている程度です。
 
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 交通 JR東北本線古河駅から徒歩10分
 
 境(さかい)/境町住吉町
 
水防普請に人足が集まります
 地名の由来は、猿島郡と葛飾郡の境に位置するところから。江戸時代は関宿藩領で、東日光街道宿場町を形成していました。また利根川河畔にあたるため、水陸交通の要。しかしながら水害には周辺の村々から人足が集められ、寛政2年(1790)の千間堤水防普請は10ヶ村から延べ1万648人を要し、経費が202両にも及んだそうです。
境大橋ができるまでの苦難の歴史
 明治23年の利根運河開通や鉄道開通で、町は衰退していきます。そこで県議・佐藤洋之助らが東武鉄道から2万円の融資を得て、関東大震災の復興に使用された船舶246隻の払い下げを受け、待望の船橋を造りました。しかし台風のたびに洪水に襲われ、さらに破損・流失を繰り返しました。昭和39年に5億5千万円で境大橋が完成します。
蔵造りの商家が散見
 歩いて見ますと、蔵造りの商家が至る所に残されています。 
 
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 交通 東武線東武動物公園駅からバスで境町下車、徒歩5分
 
水海道(みつかいどう)/常総市水海道本町
 
「絵画の道」を抜けると明治時代の土蔵
 町おこしにはいろいろなテーマがありますが、水海道は「絵画の道」です。駅を降りて商店街を歩くと、商店の前に絵が展示されています。油絵や水彩画などさまざまです。そこを抜けて歩くこと5分、本町あたりに来ると町の様相が変わります。黒漆喰の土蔵があったり、練り瓦造りの蔵、格子戸のある町家などが点在しているのです。ほとんどが明治時代の建物です。
「水飼戸」、「御津海道」とも呼ばれました
 平安時代,井戸で馬が水飼いをしていたことから水飼戸(みずかいと)と呼ばれたのが最初だそうです。また「御津海道」とも呼ばれたとか。 
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 交通 関東鉄道常総線水海道駅から徒歩10分
 
石岡(いしおか)/石岡市国府 
 
   
▲美しい看板建築  ▲店蔵や石蔵も残っています 
   
▲裏手に入ると古民家が続く  ▲五目そば(800円/稲吉屋) 
レトロな建物がいっぱい
 どうも石岡市は捉えどころのない町に思えるのです。芯となるべき物語がないのです。困りました。しかし,中町通りを歩いていて,江戸,明治,大正,昭和のレトロな建物がしっかり残っているのです。それらは登録文化財で,11軒もあるのです。そば屋,呉服店,問屋,染物店などです。
カラフルな看板建築が軒を連ねます
 それにしても,石岡にこれだけのレトロな建物が残っているのでしょうか。和洋折衷で,いわゆる看板建築という、日本独特の建築物です。関東大震災後に急増します。いわゆる疑洋風建築とでもいいましょうか。戦前はかなりモダンな雰囲気を出していたのでしょう。看板建築と名付けたのは、1970年代に建築史家・藤森照信(現・江戸東京博物館館長)らによって名付けられました。それまでは、「例の神保町のやつ」などと呼ばれていたのです。
ダチョウの肉が名物?
 駅横の観光案内所で名物は? と聞いたらダチョウの肉という。駅近くの店2軒扱っているそうですが,いずれも品切れでした。でも全体として平凡な町でした。
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 交通 JR常磐線石岡駅から徒歩10分
 
菖蒲沢(しょうぶざわ)/石岡市菖蒲沢 
 
   
▲蔵もあちこちに点在します ▲坂入家の茅葺き住宅 
   
▲立派な長屋門が残る農家 ▲筑波山麓かやぶき弁当(800円) 
茅葺き屋根のある里
 旧八郷(やさと)村には現在でも70戸近い茅葺き屋根の民家が残っています。そこで茅葺き保存会と行政とが一体となって保存活動しているのは特筆すべきことです。茅の採集,葺き替えは保存会が先頭になって行うそうです。
予約制のかやぶき弁当
 菖蒲沢は35世帯のこぢんまりした集落です。ほとんどが農家で,イチゴ栽培も行っており,季節によってはイチゴ採りが楽しめます。

 かやぶき弁当は農協婦人会の地元で獲れたもので作られています。予約制です。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
小幡(おばた)/石岡市小幡
 
手入れのいい茅葺き
 茅葺きの家屋がポツンと数軒があるだけでした。でも、手入れが行き届いています。奥の建物は農家ではなく町家です。このように県道沿いに茅葺き屋根の民家は珍しい。ほかにも2階建て平入りの瓦葺きの商家あり。
農閑余業に湯屋や居酒屋などを営む
 筑波・鹿島などへの交通路で、宿場的な性格を有していました。天保14年(1843)当時、湯屋、結髪床、居酒屋、小間物屋などが、農閑余業が行われていたと見られます。家数が90と小さな集落でした。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
小川(おがわ)/小美玉市小川 
 
水戸藩の内陸水路の拠点
 霞ヶ浦に隣接するだけあって,昔から舟運が発達し,すでに江戸時代から霞ヶ浦-利根川-江戸川-浅草と水上ルートが確立されていました。水戸藩は,小川運送方役所を設け,運送奉行を置くなど諸役人が常駐。町はかなり発展しました。しかし奥州の船が鹿島灘を乗り切り,直接銚子-江戸ルートができると,町も衰退していきます。それでも水戸藩は内陸水路にこだわり続けました。
往時の面影は消えつつあります
 町は回漕業を専業とする豪商が多く,今でも蔵が目に付きますが,往時の面影は薄い。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
竹原(たけはら)/小美玉市竹原 
 
水戸街道の宿場町
 もともと水戸街道は,中台村を通っていました。ところが元和年間(1615-24)入ると諸侯の参勤交代など往来が激しくなりました。そこで竹原に新道を開削,同時に宿駅を設けたのです。しかしながら地元の負担は大きく,天明3年(1783)に幕府道中奉行に,助郷村を増やしてほしいと願いでました。翌年助郷は22か村に改められました。
蔵造りがわずかに残ります
 いま歩いていますと,往時の面影はほとんどありません。六地蔵尊や一里塚,わずかに蔵造りの町家などが見られる程度です。
 
感動度★
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 交通 クルマは道端に停めました
 
堅倉(かたくら)/小美玉市堅倉 
 
参勤交代の盛んなところで、宿場町として発展
 戦国時代小幡城の守備強化のために,南方4kmに位置する「片倉」に砦の構築を命じたという記録が残されています。これは小川・玉里城方面への分岐点で、交通の要衝であったと推定されます。江戸時代になっても人々の往来は多く,諸侯の参勤交代も盛んでした。水戸街道の宿場町として発展していくのも当然かと思われます。旅籠や商家も多く,武家屋敷もあり町家と混在していました。
旧武家屋敷や旅館など
 いま旧本多氏の屋敷(写真)や加藤家の復旧門(再建),旅館かと家,さらに所どころに古民家なども見られます。
 
感動度★
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 交通 クルマは小美玉市役所に停めました
 
小幡(おばた)/茨城町小幡 
 
水戸街道の宿場町
 「小さな開墾地」という意味で,早くから発展してきた町です。正保3年(1646)の江戸時代に水戸藩領となり,水戸街道の宿場町として栄えました。特に農業主体の町で特産品はヤマイモです。また良質の松林が多く,良材を産出していました。
一区画の大きい旧家が続きます
 歩いて見ますと,豪農といいますか,大庄屋と思われるような一区画の大きい屋敷が多く見られます。塀も植栽だったり,石組の上に板張りと漆喰塗りが続くなど,美しい景観を形成しています。江戸屋商店という近代木造建築も気になりました。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
小鶴(こつる)/茨城町小鶴
 
   
▲「こどもや」は地元のランドマーク  ▲下見板張りの民家で蔵も兼用 
目立つ近代木造建築
 水戸街道沿いの小さな集落です。江戸時代は水戸藩領。いま歩いて見ますと低い建築物が多い中で,幾つかのニョキッと立つ木造建築が目立ちます。切り妻屋根が幾重にも重なる重厚さが気になるのです。
「小鶴浜」で江戸道長と闘う
 戦国時代、文明13年(1481)5月5日、小田成治は、大掾、宍戸、笠間氏ら3000余騎を率いて、「小鶴浜」で江戸通長の軍と戦い、小田方60余名、江戸方40余名の戦死者を出しました。
ほぼ水戸藩領で幕末で続く
 涸沼川中流左岸に位置します。江戸時代の初期は佐竹氏領、正保3年(1646)から水戸藩領で、そのまま幕末まで続きます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは常陽銀行駐車場に停めました
 
長岡(ながおか)/茨城町長岡 
 
茅葺き屋根の脇本陣
 江戸時代は水戸藩領。水戸街道の水戸から最初の宿場町として発展しました。宿場には現在町の指定文化財となっている木村家住宅(写真)が残っています。代々脇本陣で問屋や庄屋を務めていました。しかし安政4年(1857)に宿場の大火により焼失しました。現在はその後再建された建物です。
水戸藩が分裂騒ぎで、刀傷が残る
 幕末に大荒れした宿場でもあります。水戸藩が門閥派と尊王攘夷派に分裂,対立。その後の桜田門外の変へと続きます。当時の旅籠(現在みくらや衣料品店)での刀傷が残っています。
 
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 交通 クルマは木村家住宅駐車場に停めました
 
真壁(まかべ)/桜川市真壁町真壁
 
   
▲一つの町で登録文化財の数は日本一多いそうです 
町内に77棟の文化財
 失礼ながらこんな小さな町(真壁町)に約200棟近い店蔵、土蔵、門などが残っているとは驚きです。しかも国の文化財として77棟が登録されています。その数は町村のなかでは日本一だそうです。登録文化財というのは、指定文化財よりも緩やかな規制で文化財を活用できるというもの。しかも実際に人が住んで使われています。
重要伝統的建造物群保存地区
 町のどこを歩いても、蔵を見かけるのでうれしくなってきます。2010年重要伝統的建造物群保存地区に選定され,夢がかないました。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは市営駐車場に停めました
 
平潟(ひらかた)/北茨城市平潟町
 
うまいものが食える町
 温泉があってしかも漁港、民宿や旅館では新鮮な魚介類が食べられます。そのせいか人気の観光地となっているのです。港の歴史は古く、江戸時代にすでに東回り航路の重要な立ち寄り港となっていて、仙台藩など各藩ともかかわりが深く,そのため商業が栄え、棚倉潘の陣屋が置かれていました。
大震災後も着実に復興しています
 東日本大震災で崩れた古民家も多いですが,再建,改築が進んでいます。空き地も多く見られます。しかし港町らしさは,まだまだ残されていました。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは平潟漁港の空き地に停めました
 
常陸太田(ひたちおおた)/常陸太田市内堀町
 
   
▲古民家の大部分は現役で生活に使われています 
予想外の町並み出現に驚く
 それほど期待しないで行ったら、予想外の町並みを見せてくれました。これはうれしいものです。佐竹氏の城下町で、江戸時代は、水戸藩の重要な交通の要衝となり、宿場、問屋などの商家などが集中し、とても繁栄したそうです。
古民家は高台の内堀町周辺に集中!
 歴史的建造物は、高台になった内堀町周辺に集まっており、土蔵造りの商家がそのまま残っています。うれしいのは今でも現役であることです。また、ちょっと離れたところにヨネビシ醤油の建物と工場が残されています。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR水郡線常陸太田駅から徒歩10分~20分
 
町屋(まちや)/常陸太田市町屋町
 
棚倉街道沿いの宿場町
 慶長14年(1609)から水戸藩領となります。町屋は奥州と水戸をつなぐ街道沿いの宿場町で,街道は棚倉街道(水戸城下-棚倉城下)と呼ばれています。
石材の産出地と石工の町
 町屋の特産品に,石があります。瑞竜山の水戸家歴代の墓石に使用されており,模様によって笹,べっ甲,牡丹,紅葉,霜降りなどの種類があります。特に笹目が高級で,この石を産出した町屋は「御留山」となり,一般の採掘は禁じられました。いま,町を歩きますと,わずかに2階建ての古民家が目に付く程度です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
大子(だいご)/大子町大子 
 
●難所の多い街道なので、公的に利用されない
 南郷街道沿いの宿場町ですが,水戸城下から南郷(福島県)とを結びます。途中久慈川,八溝川の渓谷を通る難所であることから,公的に利用されることなく,主に商用や旅行者の利用が多かったようです。
 また,米,コンニャク,大豆,茶,煙草などあらゆる物資輸送などは久慈川の舟運を利用していました。
商店街や裏道に町家が残る
 いまは常陸大子駅からの商店街を中心に発展しています。歩きますと,ところどころに土蔵や格子窓のある町家が見られます。また裏通りにも古民家が見られて楽しいところです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは筑波銀行大子支店に停めました
 


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