城東区(じょうとうく)
○新喜多(しぎた)/大阪市城東区新喜多 | |
●3人の新田開発者の名前をとって命名 地名はこの地を新田開発した3人の名前の頭文字をとって命名。宝永元年(1704)のころです。新田開発者は、鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の3人で、その頭文字をとって命名。後に今木屋(早瀬家)が経営を引き継ぎ、旧河内・摂津の国境で管理区域を分けました。 ●寝屋川沿いの古民家群 現在は、寝屋川沿いの狭小な地域ですが、空襲から逃れたことで古い町家が残されています。煉瓦塀のある街工場など往時の面影を見られます。近くの繁華街・京橋とは別世界・異空間が広がっています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR大阪環状線京橋駅から徒歩8分 |
○鴫野(しぎの)/大阪市城東区鴫野西 | |
●おなじみの2階建て木造住宅 戦災で焼け残った地域で、一歩足を踏み入れると、2階建て木造の棟割り住宅風がギッシリと詰まっています。7m幅の道路もあれば、路地のような狭い道路も見られます。“これぞ大阪”という感じがします。 大阪冬の陣の大激戦地となったところで、幕府軍・佐竹義宣の陣所となっていました。ところで古くは志宜野とも書いたようです。地名の語源は、シギの群生地であったとする説がありますが、定かではありません。むしろ「志宜野」のほうが、本来の地名としての正当性が高いという研究者もいます。 ●剣先舟を利用して商品作物を搬出 江戸時代はこのあたりは湿地帯でしたが、干拓がすすみ果物や野菜などの苗株の栽培が盛んになり鴫野苗として知られるようになりました。また木綿、青物類などの商品作物を栽培、剣先舟を利用して搬出。剣先舟とは、船首が尖った舟の形から名付けられました。主に河内国・大和川水系で水運に従事した川舟のこと。 ●寝屋川沿岸の工業化が河川の汚染をすすめる 明治28年(1895)に大阪鉄道城東線開通により京橋駅が設置。大阪砲兵工場の拡張、紡績工場の設立などで、寝屋川沿岸工業地帯が形成されました。それにともない労働者の住宅開発が進みました。寝屋川の汚染度の高さは、この頃がスタート時期と言えます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR大阪環状線京橋駅から徒歩13分 |
○中浜(なかはま)/大阪市城東区中浜 | |
▲菊水温泉/内部はレトロな造りで、町のシンボル的な銭湯 | ▲住宅密集地/大阪のどこにでも見られるおなじみの光景です |
●かつて平野川の自然堤防上に集落がありました 古くは奈加未村(なかまむら)、中間村と呼ばれていたようです。また平野川と千間川が流れていたころ、鴫野(しぎの)・森という二つの集落の中央に位置し、そこが川浜辺になっていたことから中の浜といわれていたとか。そして集落は平野川にかかる衛門橋東詰の堤防上に立地していました。 ●明治末期は城東練兵場ができます 明治23年、国鉄の東側(現・JR森ノ宮電車区や森ノ宮団地など)と中浜(現・大阪市中浜下水処理場)の広大な地域に城東練兵場ができました。このため市内との交通が遮断され不便になり発展が遅れましたが、明治37年に日露戦争が勃発。拡大拡張された大阪砲兵工廠の影響で、中浜も工業化、宅地化が進みます。一部に“軍都”の性格も持ち合わせると、わずかながら貸し座敷も登場。 ●大阪環状線を挟んで東西の景観が大きく変わります 大阪環状線の西側にあるビジネスパークや森ノ宮のタワーマンションなどと比較すると、景観が大きく変わります。いまは大阪のどこにでも見られる住宅密集地となっています。しかし観察してみますと、蔵造りの町家やかつて貸し座敷を思わせる集合住宅が見え隠れします。また銭湯・菊水温泉は内部のレトロな造りに、いろいろな媒体に紹介され、すっかり有名になりました。で、歩きながらすっかり道に迷い、通行人に道順を訪ねながら、やっと森ノ宮駅にたどりつきました。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JRおおさか東線鴫野駅から徒歩15分 |
○蒲生(がもう)/大阪市城東区蒲生 | |
▲旧家の塀から茅葺き屋根が… | ▲街道の両側には古民家が続く |
●大坂冬の陣の激戦地 このあたりは,かつて大坂冬の陣で,徳川方と豊臣方が寝屋川(旧大和川)を挟んで,激しく戦ったところとされています。当時の大和川は,現在の寝屋川を含めていくつものの支流があって,蒲生あたりが最も広くなっていたようです。そのため水運には恵まれていましたが,水害との戦いでもありました。 ●「あっ 茅葺き屋根!」 蒲生は,そんな堤防上にできた集落で,江戸時代は野崎観音参りの野崎街道沿いの街でした。堤防上の街から一段下がったところにも古建築が多く,茅葺き屋根には驚きました。 地名の由来は、低湿地帯で蒲穂をよく産出したことにちなむとか。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄蒲生4丁目駅から徒歩10分 |
○野江(のえ)/大阪市城東区野江 | |
●かすかに残る往時の面影 京街道と亀山街道の交差するところに広がった集落です。歩いていてもわずかに古民家が見られる程度です。こんな静かな町も、かつては水害の多い所でした。鯰江(なまずえ)川の北岸にあって,絶えず水害に悩まされていました。そこで三好政長が天文2年(1533)に構築した榎並(えなみ)城内に、水神社を勧請したと伝えられています。 ●孝謙天皇に油を献上し“油江”とも称した 地名は難波江(なにわえ)の江辺にちなみます。難波江というのは、大坂の上町台地の西側まできていた海域の古い言い方(古称)。孝謙天皇の治世に油を献上したという故事により、油江とも称したしたとか。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 地下鉄野江内代駅から徒歩10分 |
○成育(せいいく)/大阪市城東区成育 | |
●昭和51年に誕生したピカピカの町名 戦後のベビーブームによって起きる小学校不足に備え、昭和25年、榎並小学校南分校が独立。そのとき「子どもが健やかに育つように」の願いを込めて成育小学校と命名されました。時は経ち、昭和51年の住居表示変更のさい、この学校名をそのまま町名にしたというわけです。それはともかく、以前の町名は関目町、野江東之町、森小路町のそれぞれ一部を合わせて成育を形成。 ●戦災に遭うことなく生き残った古民家群 この辺りは関目神社や京街道などがあり、人の集まるところでもありました。いま成育5丁目付近を歩いてみますと、狭い道が迷路のように入り組み、しかも長屋門のある旧家が何軒も集中しています。特に善福寺周辺は、まさしく迷路です。蔵や長屋門、石積み塀や板壁などが見られます。戦災に遭うことなく生き残った古民家群といえます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄今里筋線関目成育駅まら徒歩6分 |