横須賀市(よこすかし)

○本町(ほんちょう)/横須賀市本町 
 
観光名所となったどぶ板通り
 本町というより通称のどぶ板通りのほうが知られています。明治時代から軍港でしたが,大正時代に入ってどぶ板通りと呼ばれたようです。この通りにドブ川があり,その上に厚い板を敷いてあったことから。
米兵が去り、スカジャン、海軍カレー、バーガー…
 戦後は米兵相手のアメリカナイズされたバーやスーベニア(記念品や土産物)街、さらに飲食店などが中心となって賑わいました。しかし最近では、米兵が去り、日本人客が圧倒的に多くなり,特に週末の混みようはスゴイのひと言です。
スカジャン、海軍カレー、バーガーなど名物、特産などが多数。建物は鉄筋の他は,看板建築が多く,いずれも戦後のもので,地味な感じです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京急線横須賀中央駅から徒歩10分
 
○東浦賀(ひがしうらが)/横須賀市東浦賀町
 
   
▲浦賀城址/戦国時代・北条氏康が築城  ▲古民家は少し残っています 
最盛期には干鰯問屋が30軒
 江戸時代の元禄5年(1692)、旧浦賀村が東・西に分村。以後、幕末まで幕府領となります。当初、近海で獲れたイワシは干鰯(ほしか)に加工されて、上方に送られていました。そのため、干鰯問屋が最盛期には30軒近くが軒を並べたそうです。また歩いていますと寺院の多さに驚きますが、干鰯問屋の支援によって大きくなったと言われています。
「浦賀の渡し」付近に点在
 しかし繁栄もここまでで、享保5年(1720)に浦賀番所の設置に干鰯問屋が反対。そこで西浦賀に番所が設置され、繁栄は西浦賀に移りました。いま古民家は渡船場付近にわずか。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 京急線京急浦賀駅から徒歩20分
○西浦賀(にしうらが)/横須賀市西浦賀町 
 
   
▲近代建築もあちこちに残ります  ▲商家や旧妓楼と思われる建物 
   
▲西叶神社/妓楼主の名の刻んだ奉納品が多く見られます  ▲東西の浦賀を結ぶ市営の渡船。大人・高校生200円、自転車50円 
   
▲旧家と思われる豪邸も残ります  ▲蔵造りの商家もしっかりと残る 
浦賀奉行所と塩商人で町の基礎ができる
 初めての訪ねました。江戸時代中期、浦賀村が東西に分村したのが発祥。その後,浦賀奉行所と塩の商人によって基盤が作られたそうです。戦後になって一時は造船不況をまともに食らって、町自体が寂れましたが、いまふたたび活気をとりもどしつつあります。
渡船場近くに残る古民家群
 歴史的な家屋は、東浦賀への渡船場近くに残っています。蔵造りの町家などがありますが、消えるのも時間の問題でしょうか。なお集落の守り神である西叶神社近辺には、旧妓楼らしき建物も見られます。また南側に県下で一番古い愛宕山公園があり,咸臨丸出港の碑があります。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 京急線京急浦賀駅から徒歩15分 
○船越(ふなこし)/横須賀市船越町 
 
「近代化遺産」が残されています
 江戸時代はほんとんど人家もなく,近くに浦賀道,鎌倉道が通っていました。宝永年間(1704年~),武州で新田開発を経験した永島団右衛門が,海を埋め立てた船越新田の開発を行ないました。
 近くの長浦港には,明治から戦後にかけて,旧海軍工廠造兵部や水雷学校などが置かれ,いまなお「近代化遺産」が残されています。敷地内には入れませんが,道路から一部を見ることができます。
花街・皆ヶ作は海軍さんが愛した町
 さて,船越のもう一つの顔が、皆ヶ作(かいがさく)という旧花街であったことです。『全国女性街ガイド』(昭和30年刊)によれば、40人ほどの娼妓がいたそうです。ところで地名の由来は、諸説ありますが観音様が舟でお越しになったことから名付けられたとか。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京急線京急田浦駅から徒歩5分
○田浦(たうら)/横須賀市田浦町4丁目 
 
   
▲JR横須賀線の1m幅の小さな田浦沢踏切を渡ると、そこは異界でした 
   
▲海軍工廠の技師職工らとその家族らで急増。軍港バブルは人を集めました 
小さな踏切を渡ると、そこは異界・廃墟村でした
 1970年代に「湘南田浦ニュータウン」の建設計画があり、業者が立ち退きなどを進めたものの、途中で難工事が予想されることが判明。結局、計画は頓挫しました。以来、行政も入ることができずに、30年以上もそのままの放置状態になっています。いまや都心で最も近くにある廃墟村です。ただ浮浪者などが住み着き、治安面で心配されています。警察も定期的に巡回しているそうです。また家財道具などを持ち出すと犯罪になるので注意。
古民家もいくつか点在します
 廃墟村に行く途中に古民家もあり、ごく普通の住宅地です。江戸時代は浦賀往還沿いの集落で、幕末は幕府領で迎えます。このあたりは海岸線の入り組みの多い地形から手浦の地名が生まれ、後に田浦に転訛したとか。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 京急田浦駅から徒歩20分
○逸見(へみ)/横須賀市東逸見町 
 
三浦按針が220石の禄高で住んでいました
 江戸時代、徳川家康の外交顧問であった三浦按針は220石の禄高を持ち、浄土寺(西逸見町)の近くに住んでいました。逸見は幹線道路・浦賀道が通り、軍事的にも経済的にも重要な地域でした。幕末は幕府領で、そのまま明治維新を迎えます。『新編相模国風土記稿』によれば、鎌倉時代は逸見二郎の所領でした。 
●旧道沿いに明治から続く酒屋さんなどが見られる
 いま、逸見駅から伸びる幹線道路の一歩裏手に入ると旧道が伸びています。その旧道沿いに明治から続く酒屋さんなどがあり、さらに旧茶屋、旧妓楼などの古民家が連なります。いずれも改築、改装されていますが、デザインや材料から推定できます。かつては大いに賑わった所だったのでしょう。
 
  感動度★
もう一度行きたい度★
交通 京急線逸見駅から徒歩10分
○上町(うわまち)/横須賀市上町 
 
三崎街道沿いに看板建築
 江戸時代は,寒村であったそうで,明治に入ってやっと数十軒になったとか。上町も戦後に名付けられた新しい町です。
 横須賀中央駅を出て少しゆるやかな坂道,すなわち三崎街道を歩きます。三叉路を経てさらに歩くと,看板建築がズラリと並んでいるのに気がつきます。ちょっとカラフルな感じがします。なかには蔵造りや銅板張りの商家もあって,意外に古い町並みであることがわかります。アーケードの天井を境にして,上下がかなり違って見えます。
「陸軍の町」と呼ばれていました
 余談になりますが、陸軍の施設が多かったことから「陸軍の上町」と呼ばれ、「海軍の下町」と区別されていました。
 
  感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 京急線横須賀中央駅から徒歩10分
○柏木田(かしわぎだ)/横須賀市上町3丁目
 
旧遊郭「柏木田」の面影
 横須賀には3つの遊里がありました。「安浦」、「皆ケ作」(現・船越町)、そして柏木田(現・上町)です。柏木田は特に海軍の軍人たちに愛され通ったところだったようです。しかし全国的にその名が知られたのは、文豪・山口瞳の私小説『血族』でした。母親の生家が遊郭の経営者。自分もその血を引いているのか。亡き母を追い求める純文学です。
「海軍の女郎部屋」の異名もありました
 駅を出て、坂を上ったり下ったりと……、さんざん歩き求めて探しました。妓楼、旅館、料理屋などを思わせる建物が数軒、点在していました。娼妓が150人以上いたそうで、貸座敷が30近くあったとか。「海軍の女郎部屋」の異名もあったようようです。しかし面影も少しずつ消えそうです。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 京急線県立大学駅から徒歩15分
○安浦(やすうら)/横須賀市安浦町 
 
安田財閥ゆかりの地
 大正時代からある町名です。早い段階から安浦の大部分は埋め立てられ,区画整理された整然とした町並みになっています。地名は,埋め立て工事にあたった東京・安田財閥の安田保善社の安と海岸を表す浦を合成したとか。また安浦港は,漁港と同時に建設資材を扱ったりもしていました。
もう一つの顔・旧特飲街
 もう一つの顔に横須賀三大花街の一つで、安浦は戦前から花街でもありました。戦後は特飲街となり昭和33年まで続いたのです。町を歩いていると,神社があり、数軒もある質屋,民家などに,かつての花街特有の風景が目に付きます。
貸し座敷が150軒、娼妓が400人というかなり大きな花街といえます。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京急線県立大学駅から徒歩5分

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