山梨県(やまなしけん)

猪狩(いかり)/甲府市猪狩町 
 
   
▲集落のいたるところに旧養蚕住宅が見られます。いまや貴重な建築物です 
●いまは観光客でにぎわいます
 昇仙峡の入口にあたるところです。幕末・明治以降、多くの文人墨客や観光客で賑わったところで、それはいまも変わりません。江戸時代は土地がやせ細り、雑穀が少々できる程度。そこで荒川対岸の高成村に“出作”していたくらいです。
「猪狩・川窪、寒地獄……」と、極貧の土地
 「猪狩・川窪、寒地獄……」といわれたくらいで、冬の寒さは壮絶。また薪炭を背負って甲府城下に出て、米、塩、雑貨を得て帰るのに1日がかりでした。

観光道路の裏に古民家
 さて、昇仙峡ラインの一歩山側に入ると、土蔵や切妻型の古民家が連なります。平日の早朝にやってきましたが、とても静かでした。 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
 上黒平(かみくろべら)/甲府市黒平町上黒平
 
   
▲上黒平集落/山国らしい民家が続く ▲下黒平集落/斜面に沿って数軒 
「寒地獄、鬼が住む」といわれた辺境の地
 かつて「猪狩・川窪、寒地獄、まして黒平、鬼が住む」とまで言われた辺境の地。下黒平からさらに奥地に進みます。山間に佇む集落ですが、NPO法人・自然森の学校を創設し、過疎化、高齢化を防ごうと活動しています。
切妻型の旧養蚕住宅
 江戸時代当初幕府領、後に甲府藩領となりますが、中期の享保9年(1724)から幕府領となります。黒平村は上と下に分かれており、いまは下黒平にわずか数軒が残るのみ。地名は土の色が黒色だったからと伝わります。村は貧しく、点々と開墾した所で雑穀を栽培。そこで林業を中心とした木材を生活の糧としました。炭焼きや薪などでしたが、貧しい生活は変わりません。
いまは旧養蚕住宅が見られます
 幕末になって水晶が発見されましたが、幕府が厳しく取り締まりました。金桜神社の神主らが、“露出していた”と称して研磨用として販売したところ売れ出し、大型の水晶探しがはじまりました。しかしそれもすぐに底をついたとか。結局、幕末から明治にかけて養蚕が生活を支えました。いま歩いて見ますと、旧養蚕住宅が残っており、2階部分のすべてが養蚕に当てられていたことがわかります。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
 和戸(わど)/甲府市和戸町
 
甲州街道沿いの小さな集落でした
 歴史は古く平安時代にまでさかのぼることができます。このあたりを表門郷(うわとのごう)と呼ばれていました。
 江戸時代,武田氏が滅亡すると織田信長,さらに徳川家康の領国となります。当時,甲州街道が通っていて,小さな集落でもありました。文化年間(1804-18)には戸数63,人口は215人だったそうです。街道沿いには延々と松並木が続いていたとか。
ところどころで蔵が見られる
 いまは往時の面影はありませんが、ただ歩いていますと,ところどころ土蔵や白壁の蔵を見ることができます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはコンビニに停めました
 
 右左口(うばぐち)/甲府市右左口町
 
   
▲昔から街道沿いには商人たちの蔵が軒を並べていました 
各時代の遺跡が発掘されました
 古くは姥口、祖母口、うは口とも書きました。右左口郷は、縄文時代の竪穴式住居跡が22軒が発掘された上野原遺跡があります。で、それだけだはないのです。縄文時代、弥生時代、古墳時代の各時代の遺跡が多数発掘されています。さらに平安時代や室町時代の遺跡や城跡などもあって、まるで遺跡の宝庫。
●商品の保管のための蔵が軒を並べる
 江戸時代は幕府領、甲府藩領と変遷しましたが、山間部に位置するため、耕地が乏しく,農閑稼ぎの出商売が参加になりました。駿州産の塩や海産物を仕入れて,全国に販売するという商業が発達,そのための保管蔵が多かったとか。商人の数も他の村々と比較しても圧倒的に多く、さらに大工、紺屋、桶屋などの職人もいました。このことが後々になって、関所の通行に便宜を与える朱印状が与えられ、さらに村は発展しました。甲斐と駿河を結ぶ中道(なかみち)往還の宿場町へと発展していくのです。
「歴史文化村」として売り出し中
 いま歩いていましても、白壁の土蔵があちこちに見られ、甲府市は“歴史文化村”と称して売り出し中です。
 ところでこの奇妙な地名は、巨大な岩石が“老女が下あごを支えて座った姿”に似ていて“祖母石”と呼ばれ、それが転訛したというが定かではありません。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 西条新田(さいじょうしんでん)/昭和町西条新田
 
   
杉浦家住宅医院/昭和前期の医院建築。「風土伝承館」、国の登録文化財  
江戸時代に開拓された新田
 江戸時代、旧西条村の新田開拓地がそのまま町名になりました。はじめは幕府領、後に甲府藩領、さらに幕府領へと変遷。新田のため当初は年貢は免除されていました。その後の村高が200石弱なので、まずまずの新田でしょう。
朝のクルマによる通勤ラッシュに遭遇
 現在、甲府市の郊外住宅地として発展。実際、朝のクルマによる通勤ラッシュに遭遇しました。北側に中央高速道路が通るなどの交通の要所。そんなラッシュが終わって歩くと、実に静かな住宅地。住宅地の合間に、土蔵などの古民家が見られます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは杉浦医院の駐車場に停めました
 
 鶴川(つるかわ)/上野原市鶴川
 
ほとんどが戦後の建物
 甲州街道沿いの宿場町ですが,他の宿場と同じように正徳3年(1713)に集落が形成されました。天保14年(1843)には,戸数57,人口は295人,本陣は1軒,脇本陣2軒(玄関はあっても門がなかった),旅籠は大3軒,中3軒、小2軒の小さな宿場町であったそうです。現在はほとんど戦後の建物で改築、改装されています。町名は宿場の東側を流れる鶴川から名付けたそうです。
川越人足たちの“増水時料金”!
 この鶴川は絶えず増水することから,「増水時徒渡し」で,川越人足たちが,深さによって16文~48文の賃銭をとっていたとの記録があります。水深が腰までなら16文、腰を越えると24文、脇下までなら32文、胸までなら48文とあります。細かく規定されていますが、人足の体格による変化はどう判断するのでしょうか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 野田尻(のたじり)/上野原市野田尻
 
小さな宿場町でした
 甲州街道沿いの宿場町です。集落は正徳3年(1713)に形成され,天保14年(1842)に,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠は大2軒,中3軒,小4軒の小さな宿場町でした。蔦屋,紺屋,中田屋,酒屋,鶴屋,万屋などの屋号が現在でも残っています。もちろん職業は違っています。宿場の裏側は畑が広がり,茶店では食料を売っていたといわれています。
旧養蚕住宅が残っています
 街道を歩いていて気がつくのは,民家の造りから養蚕を営んでいたように思われます。実際、幕末から明治にかけて養蚕が盛んになります。でもかなり修復されているようです。ところで、地名の由来は、近くに湿地があり、湿地=ヌタ
から転訛したのではないか、という説がありますが、定かではありません。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 犬目(いぬめ)/上野原市犬目
 
●地名は近隣の影響で十二支から命名した?
 甲州街道沿いの宿場町です。本陣は2軒,脇本陣はなく,天保14年(1843)には人口255人,旅籠は15軒あったというから,小規模ぐらいだったといえましょう。家並みはそこそこ続きますが,山間の中腹にあたるため,宿場の両端は急坂になっており,かつてはかなりの難所でもありました。
鉄道の開通で生活が変わる
 明治に入って桂川沿いに新道が開削されたり,鉄道(中央線)が開通すると一気に寂れたのはいうまでもありません。さらに中央高速道路の開通、談合坂サービスエリアの開設もあって、生活スタイルも大きく変わりました。
地名は十二支から名付けられたとの噂?
 ところで地名の犬目は,近隣の猿橋宿,鳥沢宿などと同じように十二支から名付けたという説があるそうです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 鴨沢(かもさわ)/丹波山村鴨沢
 
   
▲斜面に木造3階建てが残ります  ▲旧旅館もあちこちに見られます 
   
▲旧養蚕住宅がたくさん残っています  ▲唐破風が印象的な旧料亭兼遊郭(?) 
   
▲改築、改装された旧養蚕住宅  ▲旧家と思われる屋敷も残ります 
甲州裏街道と呼ばれていました
 戦国時代から金山採掘のため多くの人たちで賑わいました。江戸時代に入ると大菩薩峠越の山道は甲州裏街道と呼ばれ青梅と甲州を結ぶ要路となりましたが,明治初年に柳沢峠越えの新ルートが開かれ青梅街道になりました。交通が便利になった反面,昭和32年完成した小河内ダム(奥多摩湖)によって,110数戸あった鴨沢集落も半分が水没,一気に衰退。
ダム水没から逃れた古民家群
 いま水没を逃れた古民家が残されており,土蔵,白壁,板壁の2階家,唐破風や千鳥破風のある旧旅館,料亭などが見られます。こんな辺境の地に唐破風の立派な建物は旧料亭でしょうが、同時に遊郭の役割を果たしていたと思われます。東京多摩方面から青梅街道を通り甲州入りする旅人が多かっのでしょうか。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 JR青梅線奥多摩駅からバスで鴨沢下車すぐ
 
鳥沢(とりさわ)/大月市富浜町鳥沢
 
養蚕、機業が盛んな集落
 甲州街道沿いの宿場町です。実際は上鳥沢宿,下鳥沢宿に分かれていました。ただこの地方では、かなりの大きな村だったらしく、村高は400石余。もちろん畑が多いのですが、田も50石近くあったとか。とはいうものの江戸時代末期になると養蚕、機業(織物業)が盛んになり、年間1000疋(ひき)もの絹袖を売り出していたそうです。1000疋は反物2000反分をさします。それにしてもすごい量です。
棟割りの2階家が続く
 街道沿いを歩いていますと、建物は2階家の棟割りで簡素な出桁造りが,固まりとなって点在しています。これらの2階部分が養蚕、機業に使われいた名残だと思われます。
ところで地名のゆらいですが、西の猿沢宿、東の犬目宿の中間にあることから、十二支にちなんで鳥沢と名付けたと言う説…?
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはコンビニに停めました
 
 初狩(はつかり)/大月市初狩町
 
戦国時代からの宿場町
 甲州街道は幕府が整備した軍用道路だった(?)といわれています。45の宿場の内,大月市内には12宿が位置します。初狩の歴史は古く,応仁の乱後の文明19年(1487)に京都聖護院門跡・道興がこの地を踏んで「はつかりの里」として一首詠んでいます。戦国の末期には宿場として整備されました。
ここにも養蚕住宅が残ります
 初狩は下初狩宿と中初狩宿に分かれています。しかしいまは境目はなく,ほとんど一体として捉えているのが実情。建物は2階家の庇の長い出桁造りの多いのが特徴です。
これも旧養蚕住宅の名残です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはコンビニに停めました
 
 古川渡(ふるかわど)/都留市古川渡
 
   
▲東京電力駒橋発電所落合水路橋/大規模な煉瓦構造物で国登録文化財 
富士講で賑わう集落
 古くは古河渡、古川戸、古河戸とも書きました。甲州街道の脇往還で谷村路(やむらじ)といい,富士道ともいいます。江戸時代は富士講道者で賑わった街道で,下吉田で鎌倉街道とぶつかります。このあたりは川の渡しがあり,かなり賑わったようです。また周辺の村々は生産性の低い土地を抱え込んでいましたが、古河度は、比較的米の収穫量は多かったようです。
昭和4年の鉄道開通で様相は一変!
 とはいうものの、農閑期には、男は山稼ぎ、女は養蚕、製糸、絹織物の生産に携わりました。その後、昭和4年に富士山麓電鉄(現・富士急)が開通し壬生駅が設置すると、様相は一変し大きく発展します。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 富士急行禾生駅から徒歩10分
 
寺町(てらまち)/都留市中央 
 
   
▲専念寺/教育者・森嶋其進の墓   ▲円通院(左から)三重塔,山門,鐘楼
   
▲石畳みが続く寺町通り  ▲円通院近くの路地にも板壁の町家 
圧倒される円通院の威容
 まちなかを貫く国道139号線に沿ったL字型の裏道に,幾つかの寺院が建ち並んでいます。石畳を歩きながら,のんびりできる散策コース。なかでも円通院の偉容には圧倒されます。特に,六角三重塔や鐘楼,山門の姿は印象的です。
院や古民家・石畳の似合う寺町通り
 この寺町通りは,芭蕉の句碑巡りと重なっています。天和2年(1682),江戸の大火で深川の草庵を焼失した芭蕉は,俳人でもあった国家老の高山伝右衛門宅に身を寄せたとか。

 白壁の土蔵や塀,美しい植栽や石垣など石畳みと似合う町です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 富士急都留市駅から徒歩10分
 
上谷(かみや)/都留市上谷 
 
   
▲旧仁科家住宅/大正10年(1921)築の都留市の文化財指定、現・商家資料館 
   
▲歩いて見つけた近代木造建築  ▲旧呉服店です(中央2丁目)
   
▲長安寺/家康が寄進した茶壺が有名  ▲大名行列発祥の地/宝永元年起源 
建築散歩のできる楽しい町並み
 江戸時代谷村潘の城下町として整備が進みました。その後幕府領となり,養蚕と絹織物の一大集散地として栄え,多くの問屋や商家が軒を並べました。町には古民家や近代木造住宅も多く残り,けっこう楽しい町並みです。
「甲州天保騒動」の発祥地
 上谷村農民たちの一揆が多発したこともあります。特に天保年間には凶作が続き、餓死者が多数出たのにもかかわらず、役所の救米が行われないことに怒り、米価が高騰、22ヶ村の農民による騒動が発生。上谷村の米穀商や問屋など多数襲撃されました。これが「甲州天保騒動」の始まりとなったのです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 富士急谷村町駅から徒歩10分
 
十日市場(とおかいちば)/都留市十日市場 
 
   
▲2階部分はかつて養蚕を営む(?)  ▲永寿院の湧水は「水百選」 
富士道沿いの古民家
 最近,冬でも13度前後の湧水を利用した水掛菜が名産として注目されています。古民家は富士道沿いに多く残っています。瓦葺きやトタン屋根など色々で,軒下の深い,平入の造りになっています。ほとんどが改築、改装されています。
農閑期は駄賃稼ぎに従事する農民たち
 江戸時代はじめは谷村藩領、その後石和代官所支配による幕府領。
村高は360石余ですが、10日に市が立ちとてもにぎやかになります。それでも男たちは山稼ぎ、薪や炭焼き、木材の搬出など、女たちは養蚕、製糸、絹織物の生産に従事し、駄賃稼ぎをしました。それでも農民は貧しかったようです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 富士急十日市場駅から徒歩5分
 
夏狩(なつがり)/都留市夏狩
 
   
▲のんびり歩いて土蔵探し  ▲かつて養蚕農家でした 
   
▲風情ある蔵があちこちに残ります  ▲これも重厚な蔵です 
   
▲珍百景蔵/同じ蔵です。こちら側からと向こう側から見ると違う形に見えます 
迷路歩きで見つけた土蔵
 名水を求めて歩いているうちに迷いこんだ集落です。意外にも古民家が点在していました。蔵も土壁が多く見えたのも,漆喰がはがれ落ちたからでしょうか、いたるところで見られます。共通しているのは,屋根の庇が突き出ていて,しかもトタン葺きというか,瓦葺きが見あたりません。2階建ての町家も軒下が深いのも,この地方の特徴か。
 クネクネとした迷路のような細道が続き,公道と私道の区別がつかないほどでした。でもこんな集落を歩くのが楽しい。地名の由来は夏に狩りをしたところといいますが、何を狩ったのでしょうか。
甲州方面への最短ルートが通る
 江戸時代の村高は1000石弱もあったそうで、人口も1000人を超えていました。大きすぎて十日市場村を分村しました。このあたりは、農作物だけでは生活できないことから、農閑には養蚕、製糸などにも従事していました。というのも甲州方面への最短ルートがこの地を通っており、絹織物の運搬に利用されていたのです。交通の要衝だからこそ人が集まってきたのでしょう。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 富士急東桂駅から徒歩15分
下吉田(しもよしだ)/富士吉田市下吉田 
 
   
▲商人たちは座敷を借りて商談を進めたという、特異な商いで大もうけ
旧絹屋町に東京、大阪、名古屋から仲買人が殺到
 大正11年(1922)に富士織物が設立されたのがきっかけで、糸屋、撚糸屋、染色屋などがたくさん軒を並べました。やがて、東京や大阪、名古屋からも仲買人が出張してくるようになり、このあたりの座敷を借りて市が開かれたのです。
貸し座敷として商人たちが利用しました
 儲けた商人たちは月江寺通りや西裏通り、この絹屋町で豪遊しました。昭和30年代まで続いたとか。

 間堀川にかかる郷台橋周辺を歩きますと、旅館や妓楼らしき建物がごっそり残っています。2階の手すりや軒下にかつて花街を思わせます。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 富士急下吉田駅から徒歩15分
月江寺(げっこうじ)/富士吉田市下吉田
 
   
▲木造3階建ての旧妓楼  ▲古刹月江寺は少しガッカリ 
   
▲ロケに多く使われたカフェ月光  ▲昭和の代表/力道山と月光仮面 
ただいま「昭和の町」として売り出し中
 「月江寺」は「西裏」と並んで市内最大の繁華街です。絹屋町で儲けた織物商人たちは,この地で豪遊しました。裏道を含め,ギッシリと詰まった古民家群は,昭和の名残りを見ることができます。旅館,料亭,旧妓楼などがそのまま残っています。そこで「昭和の町」として売り出中。
ギッシリ詰まった建物の向こうに富士山
 さびたトタン壁,モルタル造りの建物がひしめき合う路地の向こうに富士山が見えるのだから,うれしくなります。でも夜に歩けば,少し薄汚れた町並みもボロが見えません。そんな月江寺商店街はドラマや映画のロケが多いとか。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 富士急月江寺駅から徒歩15分
上吉田(かみよしだ)/富士吉田市上吉田 
 
   
▲御師 菊谷坊(秋山家)  ▲小佐野家住宅(江戸後期築・重文) 
   
▲御師 旧外川家住宅(県の文化財)  ▲富士山カレー(800円天下GO!麺) 
御師・宿坊の町並み
 御師(おし)とは自宅で宿坊を営み,冨士講の登山者を受け入れて登山の案内や祈祷など宗教的な役割を担ってきました。幾つもある登山道のうちここは吉田口登山道の登山口にあたります。参拝者はここで宿泊し、案内者を雇って登山したそうです。
わずかに残る宿坊
 町の中心地にある大きな金鳥居から山頂まで357町7間半(約3万8958m)あったとか。現在,15軒ほどの宿坊が残っていますが,信仰の宿坊として役割は終えつつあるようです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 富士急富士山駅から徒歩15分
 
横町(よこまち)/富士吉田市上吉田 
 
参道を横に折れるから横町
 金鳥居から表参道をまっすぐ歩き,上宿で肘を折ったように左に曲がる通りを横町通りといい,連なる町家が横町といわれました。そしてしばらく行くと浅間神社の入口,大門口に到着。
 ところで表参道が直角に曲がっているのは,度重なる雪代(ゆきしろ/大量の雪解け水)により,元亀3年(1572)に今の町へ集団移転して町並みが形成されたのです。
上宿交差点は「胎内追分」と呼ばれました
 上宿交差点は江戸時代には「胎内追分」と呼ばれました。また横町通りの北側は上町と呼ばれ,御師(おし)以外にも山小屋の小屋主たちも住んでいたとか。
感動度★
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 交通 富士急富士山駅から徒歩20分
 
勝沼(かつぬま)/甲州市勝沼町勝沼 
 
   
▲福嶋屋薬局・土蔵/明治20年ごろ築  ▲国の登録文化財・旧田中銀行 
●東西1.3kmの長い宿場町でした
 江戸時代は甲州街道沿いの宿場町です。町並みは東西12町(約1300m)とけっこう大きな宿場を形成していました。本陣は1軒,脇本陣は2軒,旅籠は規模別に大5軒,中7軒,小11軒あったそうです。本陣、脇本陣はいずれも門構え・玄関付きです。通りの両側に家並みが続きますが、裏に回ると田畑や林ばかりで、耕地は田より畑が多かったそうです。
●商家や問屋、近代建築などが残る
 農業は五穀のほか、そのときどきの商品野菜を作り、江戸に出荷していました。産物として梨、柿、蒲萄があり、そのため商家や問屋も多く,かなり賑わっていました。歩いていますと、蔵や商家などの古民家はもちろん、元銀行など近代建築も残っています。銀行が存在したということは、商業がかなり発展していた証拠でしょう。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
 藤木(ふじき)/甲州市塩山藤木
 
   
▲土壁と用水路/散見できます ▲惠林寺/赤門は重要文化財です
●巨大な養蚕住宅が見られます
 古くは秩父街道が村内を通っていました。平坦地で水田が多かったようですが、一方では養蚕も盛んでした。藤木村の村高は700石余とそこそこの穫れ高を示していますが、養蚕、製糸の駄賃稼ぎは大きかったようです。
「笛吹川芸術文庫」で活用
 登録文化財の武藤酒蔵主屋は2階、3階が養蚕部屋でした。このあたりは、武藤家同様に土壁の蔵が散見。用水路が巡り、美しい景観を見せています。
用水は笛吹川から引水する藤木堰、小屋堰を利用しています。いま武藤酒蔵主屋は「笛吹川芸術文庫」として活用されています。江戸時代末期の建築推定。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
 上条(かみじょう)/甲州市塩山下小田原
 
   
▲突上げ屋根の甲州民家情報館  ▲茅葺きの観音堂も整備されました 
   
▲独特の突き上げ屋根  ▲縦横の線の美しい真壁(しんかべ)  
●重要伝統的建造物群保存地区です
 急斜面に連なる集落で、夏の平日に汗だくで歩き回りました。江戸時代後期から昭和時代初期にかけて残る古民家が中心です。切妻型13軒、さらに蚕室のある民家が5棟、さらにさらにあちこちに土蔵が残っています。
●珍しい「突上げ屋根」の蚕室
 一般に養蚕住宅は風通しを良くするために、屋根の両側に窓(空気孔)を付けたりします。でもココでは屋根の中央部を一段高くして窓を設ける「突上げ屋根」構造にしています。こんな蚕室ははじめて見ました。また、集落を歩いていると、漆喰の白壁と柱を組み合わせた真壁は、緑に映えて実にとても美しい。重要伝統的建造物群保存地区です。 
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは甲州民家情報館の駐車場に停めました
 
 上於曽(かみおぞ)/甲州市塩山上於曽
 
   
 ▲旧高野家住宅(甘草屋敷)/中央の突上げ屋根は養蚕も行っていた 
歴史ある集落は昔から賑わっていました
 古くは上小曽とも書きました。『古今集』にも登場する歴史ある集落です。江戸時代は、豊かな用水に恵まれ、米のほかに農閑には煙草、栗、柿、茶の生産にも従事。また青梅街道も走り、交通の要衝でした。そのため多くの商人が集まり、六斎市とあいまって集落は活況を呈していました。また向獄寺門前に温泉が湧き、これまた湯治客で賑わったそうです。
旧高野家は重要文化財
 いま、JR塩山駅を中心に広がる町のせいか、甲府への通勤・通学客も多く、町は現代住宅で充実しています。しかし、一歩裏手に回ると土蔵などの古民家も多いのが特徴です。駅前の旧高野家は、江戸時代に幕府直営の薬草栽培所でもありました。国の重要文化財です。 
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは甘草屋敷の駐車場に停めました
 
 下於曽(しもおぞ)/甲州市塩山下於曽
 
   
▲ 風間酒蔵酒店(右)と主屋(左)/国の登録文化財  ▲周辺を歩いていますと、多分ワイン関連の建物が見られます 
切妻型や土蔵が点在
 中世の豪族・於曽氏の領地がそのまま旧下於曽村になったのではないかと推測。江戸時代は用水に恵まれ、米穀のほか、煙草、柿などの生産に従事。だが養蚕業が盛んになり、特に京都・西陣などの出荷する高級絹糸・登せ糸(のぼせいと)の生産がさかんでした。
白壁と腰板の美しい組合せ
 いまは、ブドウ、桃などの果樹の生産が主流になっています。同時にワインの生産量も多く、かつての酒造メーカーもワインも手がけています。歩いていますと、酒蔵や長屋門など白壁と腰板壁の組合せの美しさにひかれます。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは風間酒蔵の駐車場に停めました
 
 小原西(こばらにし)/山梨市小原西
 
   
▲小原西交差点付近の古民家群 ▲飯島家住宅/国登録文化財・左奥  
歴史のある集落です
 戦国時代から続く集落。もともと小原村が東西に分かれて小原西村になりました。しかし古文書などには小原村として統一された記載が目に付きます。
飯島家周辺に古民家
 さて、旧青梅街道の宿場町で商店街、官庁などが集まっています。定期市は小原東村で実施。いまは交通量が多く、撮影には神経を使いますが、飯島家周辺に土蔵や商家など古民家が集まっています。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマはコンビニに停めました
  
 北(きた)/山梨市北
 
   
 ▲旧養蚕農家/茅葺きを改築 ▲大井俣窪八幡神社/文化財多数  
八幡神社とともに発展した集落
 地域の守り神である大井俣窪八幡神社の繁栄とともに栄えてきた町です。国の文化財のほかに県や市の文化財が多数あります。江戸時代は八幡北村と呼ばれていました。
門前の周辺に多数あり
 いま門前を歩くと、多くの土塀や土蔵、商家などの古民家が残されています。古民家を利用したカフェも見られます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマはコンビニに停めました
  
 東(ひがし)/山梨市東
 
   
▲切妻型の美し意匠・真壁造り  ▲上野家住宅/県の指定文化財  
養蚕住宅の面影
 旧青梅街道、秩父街道などが通り、交通至便のところでした。土地はおおむね肥沃で、なかには二毛作の地もあり、野菜なども採れました。しかし笛吹川の氾濫によっては不作の時もあったようです。また農閑期は、ほとんどが養蚕を行っており、歩いていても、至るところに旧養蚕住宅が目に付きます。
昭和30年代に農業構造改革を策定
 しかし昭和30年代に入って、農業構造改善計画が策定され、従来の米麦生産から桃、蒲萄などの商品作物に転換しました。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
江曽原(えぞはら)/山梨市江曽原 
 
切妻型民家群として景観を保全
 地名の由来は、『甲斐国志』によれば、蓮静院(れんじょういん)の僧・蓮静が平安時代の宮廷画家・巨勢金岡(こせのかなおか)の描いた“少彦名”の神像を古御堂という地にまつったことから“絵像原”の名が起こり、転訛したといいます。いわば歴史ある土地で、江曽原集落跡から縄文・古墳時代の遺物が多数出土しています。
荒土の壁に日本古来の美しさを見ます
 歩いていますと、切妻型の古民家が多数残されています。しかも真壁造り。白壁ではなく荒土ですが、日本古来の美しさを見せてくれます。山梨市は「切妻型民家群」として、景観を保とうとしていますが、拡張した道路が、すぐ近くまでやってきています。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
切差(きっさつ)/山梨市切差
 
   
▲細道の両側に古民家が続きます  ▲棚沢川沿いにも大型の住宅 
●切妻型養蚕住宅群
 曲がりくねった県道31号線を奥地に向けて走っていると、突然視界が広がり、切妻型の古民家群が目に飛び込んできました。よく見ると、養蚕型の住宅であることがひと目でわかります。谷間の静かな集落です。地名の由来は諸説ありますが、地形の関係から霧が深くさすから「霧指」(きりさす)と呼ばれ、それが転訛したとか。
江戸時代から養蚕が盛んでした
 農地が狭小のため江戸時代から養蚕が盛んでした。茅葺きはさすがになくなりましたが、トタンで葺き替えた切妻型の古民家が至るところに点在。また改築、改造がなされていますが、往時の面影を見ることができます。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
正徳寺(しょうとくじ)/山梨市正徳寺 
 
   
▲いまや珍しい土壁の住宅が残っていました  ▲旧根津家住宅/山梨県下で第2位の大地主で豪農でした  
白壁の蔵や長屋門のある光景
 戦国時代に武田家が再興した臨済宗正徳寺がそのまま地名になったといわれています。掘り割りには用水が流れ、白壁の土蔵や長屋門が散在し、美しい景観を保っています。かつてのかやぶき屋根も、いまはトタン等に改装。
地名・正徳寺は聖徳太子から派生
 ところで地名の由来は、正徳太子ゆかりの寺・聖徳寺があり、応永年間に武田信縄が再興したといわれています。で、聖徳寺から派生し、正徳寺になったとか。 
 
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 交通 クルマは根津記念館の駐車場に停めました
 
西保中(にしほなか)/山梨市牧丘町西保中
 
   
▲集落内には土壁の蔵が健在  ▲残された旧養蚕住宅が美しい 
秩父裏街道沿いの養蚕集落
 江戸時代、秩父から甲府に抜ける“秩父裏街道”沿いの集落でした。ほとんどが山林で、水田が少なく残りは畑、麦、豆類、果樹などが中心。農閑期は炭の生産も。水田が少ないのは土地は肥沃ながら、急傾斜地だからか。江戸末期以降は、養蚕が盛んになり、春蚕、秋蚕、晩秋蚕の3回も収穫。
美しい養蚕型甲州民家群
 いま、集落内を歩いていいますと、ブドウ畑が続いています。一方、“フルーツ直売所”には桃が1パック500円で売られていました。農家のほとんどが旧養蚕住宅を改築、改造したものです。典型的な養蚕型甲州民家が見られます。 
 
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 交通 クルマは空き地に停めました
窪平(くぼだいら)/山梨市牧丘町窪平 
 
   
▲ 西川家住宅/県指定文化財  ▲養蚕住宅を見事に改築されている
水運、陸運が発達した交通の要衝
  秩父街道と秩父裏街道が交わろ、さらに水運では笛吹川と鼓川が合流する交通の要衝。用水も豊かで、周辺の村々より開発は早く、生産力は高かったようです。米穀のほかに、養蚕、麻栽培が盛んでした。年貢は米でも金銭のいずれでも可能。しかし金銭で払える農家は、それほどいるとは思えません。多分、交通の便がいいことから、商品作物の売買が盛んに行われたと推測。豪農が多かったのか。
切妻造民家の典型が広がる
 大正時代は、甲府と塩山ともにバスが運行されました。豪農と思われる屋敷が多く、いずれも養蚕型住宅の面影を残し、甲府盆地東部に分布する切妻型造民家の典型といえます。
地名の由来は、集落自体が窪地の平らなところにあったからと明快です。 
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
徳和(とくわ)/山梨市三富徳和
 
   
▲旧坂本家住宅/南向きの斜面に建つ農家。宝暦11年築、県の有形文化財 
急峻な地形に建つ古民家
 古くは徳輪と書いたそうです。急峻な地形ゆえに、水田は少なく、炭焼きなど林業に従事する村民が多い。しかしなんといっても養蚕業が中心で、タマネギ、豆類、野菜などの畑作で生活費を補填。
素朴な荒土の壁・坂本家住宅が目を引く
 徳和川からの急坂を上がったところに旧坂本家住宅(1761年築)があります。山梨県・峡東地方の民家の指標となる遺構だそうです。荒土の壁が素朴な感じです。 ところで地名の由来が凝っています。“徳”は新しく開いた新開をの場所意味し、“和”は輪が転じたもので山水の地形によるといいます。
 
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 交通 クルマは旧坂本家住宅駐車場に停めました
 
上釜口(かみかまくち)/山梨市三富上釜口 
 
村高はわずかに22石、極貧の村でした
  笛吹川沿いの山深い小さな集落です。地名の由来は『甲斐国志』によれば、笛吹川で一番の滝を指しており、二番目の滝を下釜口と呼んだそうです。もともと釜口村の一村でしたが、何らかの理由で上下に分かれました。急峻な地形ゆえに耕地は少なく、養蚕のほかタマネギ、豆類等を生産。炭焼きも生活の糧でありました。それ故に、村高はわずかに22石。極貧の村といってもいいでしょう。
わずかに残る古民家
 昭和40年ごろまで通っていた三塩軌道が廃止、その後国道140号線のある川浦集落に中心地が移ります。いまはわずかに板張りの古民家が残る程度。とても静かな集落です。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
下今井(しもいまい)/甲斐市下今井
 
江戸時代は幕府直轄
 古くは志田今井とも書いたそうです。というのも,今井という名の集落が多いため,近くの村名を冠に付けて区別しました。釜無川沿いで、なおかつ甲州街道沿いの小さな集落です。武田氏滅亡後は,幕府直轄となり甲府代官所がその任にあたりました。
蔵造りの町家が点在
 クルマを停めた自性院は曹洞宗の寺院です。地域の案内板には寺町とも銘記されています。蔵造りの町家が並び,のんびりと,と言いたいのですが,国道20号線の裏道のためか、迂回する車の交通量はめちゃくちゃ多いのです。
 
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 交通 クルマは自性院の駐車場に停めました
 
志田(しだ)/甲斐市志田 
 
●釜無川の氾濫で苦しむ
 武田氏の滅亡後,徳川幕府の直轄となり,甲府代官所の支配下となりました。釜無川横を通る甲州街道沿いの小さな集落です。文化初年(1804ごろ)の調査で,戸数102,人口354,馬11だったそうです。また古くから釜無川の氾濫で,水害に苦しんだという記録も見られます。
なまこ壁の土蔵が散見
 いまは交通量が多く,蔵造りの町家が多いのが特徴です。とくになまこ壁の土蔵が多いようです。なまこ壁は漆喰壁の耐水性をさらに強化するもので,伊豆地方にも多くみられます。 
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 交通 道路脇の空き地に停めました
 
小淵沢(こぶちさわ)/北杜市小淵沢町 
 
   
▲平田家住宅/江戸時代中期の建築。国の重要文化財指定   
国境に位置する集落
 江戸時代は、信濃国との国境に位置するために甲斐24関の一つ、小淵沢口留番所が置かれ、信州口を固めました。また八ヶ岳山麓からの湧水が豊富で、農産物のほか、養蚕も盛んに行われました。なお口留番所(くちどめばんしょ)とは、江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設けた関所のことです。
村の発展で名主も1人→4人に増員
 肥沃な土地があるせいか、村高も900石前後と穫れ高が大きくなりました。そのため人口が増え、名主も1人から2人に増えました。さらに文政年間には村を4分割し、名主をそれぞれに置くことで4人になりました。通りを歩いていますと、やや高台のあたりに、土蔵がやたらと目立ちます。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
台ケ原(だいがはら)/北杜市白州町台ケ原 
 
江戸の中期、旅の途中で“白州の水”に出会う
 現在の甲州街道から一歩中に入ったところにある旧甲州街道の宿場町です。江戸時代の中期,信州高遠の北原伊兵衛が江戸へ向かう途中,うまい「白州の水」に出会い,酒造業を始めたのが現在の山梨銘醸(写真)です。いまも本陣の建築様式を伝えたまま往時の姿を残しています。
「日本の道百選」
 またこの道は,旧建設省が指定した「日本の道百選」の一つに選ばれています。のんびりと歩ける町並です。土産物店,レストランなども昔ながらの建物です。 
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 駐車場 クルマは酒造会社「山梨銘醸」専用駐車場に停めました
 
花水(はなみず)/北杜市白州町花水 
 
   
▲村の細い道を歩くと古民家も健在  ▲ 清泰寺山門/文化財多数ある 
花水坂は古戦場でした
  台ケ原から長坂町清春へ抜ける坂の途中から「花水坂」と呼びました。また古戦場でもあります。天文年間(1532-55)、諏訪頼重を大将に小笠原勢1500人余が攻めてきました。武田虎高は花水坂で迎え撃ったとされます。
●真壁造の美しい集落
 またこのあたりは富士見三景の一つとしても地元でも知られています。花水坂を登り切ったところが七里岩といい、その崖下に広がる美しい集落です。古民家も釜無川の両側に点在し、特に清泰寺周辺に多いようです。清泰寺の茅葺きの山門に注目。

地名の由来は「美しい山桜が川面に映る」から
 地名の由来も、昔から釜無川の両岸に山桜の大樹が数十株あって咲き乱れ、その美しい姿が川面に映し出されることからだそうです。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
若神子(わかみこ)/北杜市須玉町若神子 
 
道路拡張で消えつつある古民家
 戦国時代には若御子とも記したようです。武田氏は信濃攻略の前線基地に一つとして陣所を置き,陣立てが行なわれたところです。川中島の戦いでも,前日は若神子まで軍を進めたと記録されています。しかし武田氏滅亡後は,徳川幕府の直轄となりました。
 江戸時代は佐久往還沿いの伝馬宿として発展しました。延享元年の戸数は165,人口694,馬80という,中規模の集落。このあたりは,いま道路の改良工事で,古民家が消えつつあります。
地名の由来は日本武尊の子が関係している……
 ところで、思わず合掌したくなるような地名の由来は、日本武尊の子が封を受けた(天命を受けてこの地にやって来た?)ことにちなむ説。諏訪明神の子である須波若神子神を祀ったことにちなむ説などがあります。
いずれも神話などの伝説が元になっているようです。 
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 交通 クルマは須玉総合支所の駐車場に停めました
 
上手(うえで)/北杜市明野町上手 
 
   
▲八代家住宅/1808年築。保存状態が良く、国の重要文化財に指定  
大きな村で名主も5人いた!
 地元では「うわで」と呼ぶ人もいます。『甲斐国志』によれば文政年間(1818-30)の上手村の人口は1174人、戸数286で石高は1682とありますので、かなりの恵まれた大きな集落であったようです。村を5分割し、5人の名主によって治められており、八代家はその一つ。
江戸時代の初期に新田開発に力をそそぐ
 藩は寛永年間(1624-44)に大規模な開削、堰の増設などで新田開発に力を入れ、それまで畑作だけだった土地に水田も加えることができたのです。村内に多くの寺社が創建され、財政豊かな村であったようです。寺を支える檀家が多くいた証です。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
大井ケ森(おいがもり)/北杜市長坂町大井ヶ森
 
武田信玄の軍事拠点でした
 戦国時代、武田信玄の信濃経営上の軍事道路として、“棒道”と呼ばれるものがありました。大八田建岡神社前で北西に分かれ、大井ケ森から小渕沢、信濃に向かう道路を“上の棒道”に対して“中の棒道”と呼ばれました。そして、大井ケ森に関所を設置。これが大井ケ森口留番所で、警護は近隣の村が交代で行いました。天文17年(1548)7月18日、信濃の小笠原長時を攻めるために塩尻峠に向かった武田軍は大井ヶ森を出立したとあります。この地は八ヶ岳南麓にあたり信州口への重要な地でありました。
●旧養蚕住宅があちこちに見られます
 ところで、農地開拓には灌漑用水と飲料水の確保が先決です。八ヶ岳の湧水と河川を利用して田畑、雑穀を積極的に栽培。明治から大正にかけて、国策もあいまって養蚕が一大ブームとなりました。いま歩きますと、旧養蚕住宅が見られます。  
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 交通 クルマは大井ケ森公民館の駐車場に停めました
 
上円井(かみつぶらい)/韮崎市円野町上円井
 
釜無川の氾濫は戦後も続きました
 戦国時代は「上つふらい」という記述も見られます。釜無川の氾濫は藩主にとっても悩みの種で,多くの治水事業にあたったそうです。これは明治,大正はもちろん戦後も続くのです。しかも交通の要衝だけになおさら治水は大事な事業だったといえます。
なまこ壁の土蔵や白壁の塀
 駿河から伸びてくる駿信往還と甲州街道が合流するところで,かなりにぎわったそうです。文化元(1804)年の記帳によれば,戸数は108,人口は337,馬42,牛21という,当時としては大きな集落でもありました。いま歩きますと,なまこ壁の土蔵や白壁の塀などがあり,それなりに風情は保っていました。 
 
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 交通 クルマは空き地に停めました
 
西野(にしの)/南アルプス市西野
 
   
▲芦澤家住宅主屋/切妻造+入母屋造の玄関。国の登録文化財   ▲町を歩いていますと、漆喰の白壁の民家が至るところに見られます 
戦国、江戸時代は水利の悪い土地
  戦国時代は水利の悪いところで田は皆無。そのため古くから「原方」といわれ、他の6ヶ村と合わせて「原七郷」と呼ばれていまそた。開発の早かった今諏訪から見ると開発の遅れた西の方にあったことで西野と呼ばれたそうです。江戸時代に入っても稲作はできず、畑作中心の村となりました。もちろん藩は用水の開削、溜池の開発など進めましたが地味が悪いのが響きました。
養蚕→果樹へと発展。白壁の似合う集落
 そこで木綿、粟、大豆、葉煙草、稗などを生産。さらに農間には大根、人参、牛蒡、夏豆、葱苗、醂柿(さわしがき・渋みを取った柿)、塩の7品は野売り、競り売りが認められ、生活費の足しになりました。そして明治時代は国策に沿って養蚕が盛んになり、大正は果樹栽培へと移行します。現在は、桃、スモモ、ブドウの一大生産地と発展しています。いま町を歩いていますと土蔵など、白壁の古民家の連なるのを見ることができます。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
桃園(ももその)/南アルプス市桃園 
 
バス停や神社は「ももぞの」と濁る
 地名の由来は、清和天皇の皇子・貞純親王の領地があり、「桃園院宮」と称したという説もありますが定かではありません。バスの停留所、神社の呼び方は「ももぞの」と濁っています。
村松家住宅は国の登録文化財
 江戸時代から水利が乏しく、水田は皆無でした。用水を引きますが、それでも12カ所と少ない。そのため耕地に恵まれないので、ほかにニンジン、ダイコン、ゴボウなどの商品作物を生産して販売していました。その後養蚕、そして果樹栽培へ転換します。

 国の登録文化財の村松家住宅も、養蚕の面影を残しながらも、いまはきれいに改装されています。  
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 交通 クルマは桃園神社の駐車場に停めました
 
西南湖(にしなんご)/南アルプス市西南湖 
 
   
▲朽ちた土蔵に風情を感じます  ▲安藤家住宅(国の重要文化財) 
村の歴史は水害の歴史
 もともと奈古・那古といっていましたが、江戸期に入って南湖(なんご)村となりました。さらに水害の影響で東西に分裂、西南湖村となりました。水田も多く、肥沃な土地に恵まれているにもかかわらず、水害防止のための河川改修の費用がかさむなどが原因なのか、たびたび水害にあっています。
河川の改修や用水開削に活躍した安藤家
 300年間、一度も火災に遭っていない豪農・安藤家は名主として河川や、用水路の改修に活躍します。長百姓(おさびゃくしょう)でもあった安藤三五右衛門は、村内外に小作地を持つ大地主に成長していきます。いま往時のままの住まいを残し、そのほとんどが重文指定になっています。
長百姓とは、村の上層の有力な農民で、単なる豪農ではなく、新村落開発に功績のあった農民をさします。 
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 交通 クルマは安藤家住宅の駐車場に停めました
 
四日市場(よっかいちば)/笛吹市石和町四日市場 
 
   
▲須田家住宅/昭和2年築。国登録文化財。洋館に対する思いが強い   ▲古民家を改築、改装したりとしゃれた集落に変わっています 
古民家の改築改装が進む
 よくよく見ると、古民家を見事なまでに改装、改築しているところが多い町です。白壁も、切妻型の住宅もピカピカにきれいです。少しでも長く持たせたいという施主の思いが強いのでしょうか。この地区の代表的な須田家住宅も改装されました。2階はドイツ壁の洋館です。
たび重なる笛吹川の氾濫で集落の姿が変わる
 もともと笛吹川とその支流・平等川に挟まれた、いわば氾濫源に位置する集落です。土地は肥沃ですが、たび重なる洪水に悩まされています。特に明治40年には未曾有の大水害に見舞われました。以後、笛吹川の姿を大きく変えます。そのため四日市場村は東西に分断。笛吹川の河川敷になってしまった人たちは、東側に移住し、それまで数戸に過ぎなかった一寒村が一気にふくれあがりました。 いまでいう笛吹川を挟んだ対岸にある日之出地区(日之出公民館周辺)にあたります。
 今回撮影した地域は西側にあたり、運良く移住することはなかったのですが、それでも水害に遭うことに変わりありませんでした。いずれにせよ遠い昔のことです。
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 交通 クルマは道端に停めました
 
高家(こうか)/笛吹市八代町高家 
 
破産しや百姓が逃げ出し人口が減る
 中世の時代は小岡とも呼ばれました。関ヶ原の戦い後,徳川幕府の直轄地となりましたが,農民たちの貧しさは頂点に達し,何度も何度も一揆が起こったところでもあります。宝永年間(1704-11)では人口減少に向かいます。土地が痩せていることなどから、潰百姓(つぶれひゃくしょう・破産した百姓)が続出したものと思われます。
●幕府直轄で餓死者の出るほど極貧の村
 浅野氏支配のときは、諸役が免除されていましたが、幕府直轄になると数々の課税が増えたため、勘定奉行への直訴が増えました。特に寛保年間(1741~44)は餓死者まで出るほどでした。明治に入ってから養蚕や煙草の作付けも盛んに行なわれました。製糸工場も2カ所になり、県下各地から女子工員が集まり就労。
長屋門のある農家
 畑のなかをクルマで走っていますと,こんもりと木々の生い茂ったところが高家集落です。小山城の城下でもありますが,豪農といった感じの長屋門のある農家が見られます。土蔵も点在しています。 
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 交通 クルマは道端に停めました
鶯宿(おうしゅく)/笛吹市芦川町鶯宿 
 
大型の農家が残ります
 車で芦川渓谷沿いに上ると,谷間にひっそりとたたずむ集落にぶつかります。でも意外と大きく,人も車もけっこういます。全体で100戸前後の建物があるとか。かぶと造りの母屋に土蔵も併設されており,建物もかなり大きいです。かつて薪炭とコンニャクの生産で栄えた時代のなごりでしょうか。集落内の小道を歩くと,のんびりとした農村風景を見ることができます。
江戸中期から田安家領となります
 江戸時代は幕府とのつながりが強く,中期からは徳川四卿の一つ田安家領となります。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
市川大門(いちかわだいもん)/市川三郷町市川大門 
 
甲駿街道沿いの集落
 甲府から富士川沿いに駿河まで向かう甲駿街道沿いの宿場町として発展しました。文化初年(1804ごろ)には戸数923,人口3686とかなり大きな集落でした。陣屋も置かれました。
ポツンポツンと古民家が見られます
 やはり一大産業として発展した和紙の生産があります。これは武田氏以来の伝統産業で,徳川幕府も積極的に奨励しました。そして幕府に上納するくらい,質が高いものであったそうです。

 商店街のゲートには「今昔通り」とありますが,古民家はポツンと建っています。ちょっと寂しいです。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
岩間(いわま)/市川三郷町岩間 
 
   
▲旧街道沿いには古民家が点在  ▲巨大はんこのある資料館 
駄賃稼ぎの足袋が一大産業として発展
 富士川沿いに伸びる甲駿往還の宿場町でもあります。木綿、大豆、小豆、稗、粟、生姜など畑作が盛んに行われました。さらに酒造り、紙漉きなども生産。特に農閑稼ぎとして作られた足袋は、その後岩間足袋として発展していきます。
蔵造りの商家が街道沿いに点在
 江戸中期には近郊近在の商品経済の中心地となりました。やはり駿河に出るための街道の存在は大きかったようです。多くの商人たちが出入りし、甲府へ向かう人たちの通過点でもあったのです。近代に入ると軍用足袋,印章業なども発展します。町を歩いていると,蔵造りの商家が点在。静かな町です。
 
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 交通 クルマは山梨中央銀行に停めました
 
湯之奥(ゆのおく)/身延町湯之奥 
 
   
▲重文の門西家住宅・母屋  ▲急坂が集落の人たちの体力を奪う 
かつての「湯之奥三千軒」は遠いむかし
 下部温泉からさらに奥に向かって走ること30分,湯之奥に着きました。いまは高齢者だけの静かな集落です。石畳の両側に10軒ほどの農家があります。江戸時代は、雑穀やイモ、豆類、楮などを生産。また幕府の御用林の保護管理に従事していました。なにより、武田・徳川氏にわたって金山の開発が盛ん行われ、「湯之奥三千軒」といわれるくらい賑わったそうです。もちろんいまはそんな面影はまったくありません。
石畳と石積みが似合う静かな集落
 クルマを降りてしばらく急坂をあがります。石畳が土砂の流失を防ぎます。畑は石積みに囲まれており、いまは住人が食べていくだけの少量の野菜を植えているだけとか。また手入れの行き届いた茅葺き屋根の門西家住宅が、ちょこっと光っています。
 
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 交通 クルマは集落入口の駐車スペース(2台分)に停めました
 
小室(こむろ)/富士川町小室 
 
堂々たる古刹・妙法寺
 驚いたのは,妙法寺の大きさです。さすがに古刹といわれるくらい立派な建物でした。江戸時代は広大な寺領や独自の百姓を抱え,一村的な扱いを受けていたのです。かつて落語『鰍沢』(かじかさわ)にも出てくる毒消しで知られた寺だそうですが,いまは旅館もなく参道入口に土産物店らきし店が1軒あるのみの門前町です。
さびれた門前町
 参道入口の前門あたりから急坂になっており,のんびりと歩きます。草葺き屋根のある農家があったそうですが,いまはそれもなく,寂れた感じになっています。
落語『鰍沢』では毒入りの卵酒を飲まされる……
 主人公は小室山(妙法寺)で毒消しの護符を受けて法論石を参拝し鰍沢宿に下りますが、雪の中で道に迷い一軒宿に泊まりました。そこは元吉原の遊女・お熊の家でした。路銀目当てのお熊に毒入りのタマゴ酒を飲まされますが、護符のおかげで一命をとりとめ必死に逃げました……。 
 
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 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
青柳(あおやぎ)/富士川町青柳町 
 
   
▲町の駅・あおやぎ宿活性館  ▲諏訪神社/地元の守り神です 
交通の要衝・追分宿として発展
 左へ駿信往還,右へ駿州往還となる追分宿として発展しました。また釜無川と笛吹川の合流して富士川となる地点で,舟運の起点でもあったのです。駿河からやってきた数々の物資は、この地でおろし信州、甲州へと運ばれます。
歴史的建造物はやはり少ない
 物産の流通がふくれあがるにつれ、数多くの商家が建ち、さらに旅籠、茶屋が軒を並べました。また酒造や味噌、醤油の製造も行われました。このような経済発展は、多くの文化人も輩出、寺子屋もできるのなど文化、教育も育まれました。
 ただ、いまは歩いても,歴史的建造物は少ないのが実情です。 
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 交通 クルマはあおやぎ宿活性館に停めました
 
鰍沢(かじかざわ)/富士川町鰍沢 
 
   
▲古民家の少ない地域だけに目立つ  八幡神社/石段が象徴的な鎮守 
山間の舟運の拠点・河川港として発展
 富士川右岸に位置するため、鰍沢河岸と呼ばれ、青柳、黒沢とともに三河岸の1つをなします。舟運の一大拠点でもありました。文化元年(1804)には人口は2897人と大きな集落となりました。
物流の要で、身延山詣での宿泊街として賑わう
 年貢米やその他の産物を“川下げ”し、江戸、大坂その他の各地から塩、茶、反物、日用雑貨などを仕入れて“川上げ”しました。そして荷駄にして甲州各地へと運ぶのです。なかには遠く信州まで運んだそうです。文字通り物流の要所でもありました。
特に年貢米の集積地で、徳川御三卿の一つ一橋家に搬入するする米蔵が林立していたそうです。さらに身延山詣での旅行者の宿泊街としても賑わいました。
落語『鰍沢』の時代背景も景気のいいころ
 落語の『鰍沢』の時代背景もこの頃です。また『鰍沢ばやし』の華麗な山車は他国の文化との交流を偲ばせます。  
感動度★
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 交通 クルマは富士川町分庁舎に停めました
 
十谷(じっこく)/富士川町十谷 
 
   
▲トタン葺きの町家やなまこ壁の土蔵、が至るところに見られます 
   
▲渓谷に位置する静かな十谷集落  ▲みみ/甲州ほうとうの原型とも 
山奥に石畳みと蔵の美しい集落
 十の渓谷が集まった所から名付けたとか。江戸時代は山林業が中心で、経済は林業に依存していました。石畳みと土蔵の似合う小さな町並です。郷土料理のみみ料理は,甲州名物ほうとうの原型といわれており、近隣にもないこの地だけの名産です。
十渓が集まって大柳川になります
 ところで、十の渓谷とは、西川、清水沢、長谷沢、瀑沢、鞍骨沢、岡松沢、本沢、和流沢、
鮒水沢、三岨沢の10カ所にあたります。これらの十渓が集まって大柳川になります。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
赤沢(あかさわ)/早川町赤沢 
 
狭い地方道を走り続けます
 県道37号線から村道に入るための入口がわからず,ぐるぐる周りました。で,ココだと思う道を走っているのですが,「ひよっとして違うかも……」という疑問を何度も持つほど,狭い道が続いていました。でも、こんな狭い道を走るのは、とても気持ちのいいものです。
身延山詣での信者が宿泊する総二階建ての建物
 赤沢は身延山詣での信者たちの宿場町の役割を果たしていました。総2階建てで,江戸,明治,大正時代の建物が残されています。集落内を歩くと,軒先にマネギ板と呼ばれる講中札が下がり,往時の面影を残しています。重要伝統的建造物群保存地区です。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
万沢(まんざわ)/南部町万沢 
 
谷間の小さな国境の地
 甲州と駿河の国境の地。甲州の武田勢と駿河勢とが常ににらみ合いを続けているところです。のちに武田が駿河を奪うと,駿河江尻城から甲府にいたる道筋は甲駿往還として発展しました。この万沢は伝馬宿として栄えたと記されています。
旧養蚕農家も残されています
 しかしいくら栄えたとはいえ,しょせん谷間の小さな集落です。米,麦,イモなど細々と生産していました。また養蚕業も盛んでした。町を歩いていると,ほとんどが戦後の建物ですが,一部養蚕業を彷彿させる民家も残っていました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道幅の広いところに停めました
 

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