山口県(やまぐちけん)

 ○竪小路(たてこうじ)/山口市竪小路
 
萩往還の宿場町として栄えました
 大内氏の城下町です。また萩往還の宿場町としても栄えました。蔵造りの商家,格子窓のある町屋などがいくつか残っています。しかし消えていく運命の町並みでしょうか。
上竪小路と下竪小路に分かれています
 
竪小路は上竪小路と下竪小路に分かれています。大内氏の時代で江戸時代後期から上下に分かれたと推定されま。上竪小路は武家屋敷があったところで、大内御殿もありました。一方、下竪小路はどちらかといえば、寺院の多い地区といえましょうか。大内義隆の菩提寺・立福寺があります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
     交通 クルマは周辺の官庁の駐車場に停めました
 
 ○阿知須(あじす)/山口市阿知須
 
江戸や大坂への物資の輸送基地
 江戸時代初期から回船業の発達した港町で,江戸や大坂への物資の輸送基地でもありました。主に米や雑穀の輸送,さらに赤間(下関)で米を仕入れて広島で売り,そこで綿を買い入れるなど多角的な売買を行っていたのです。
防火のための居蔵造り
 町並みは火災が多かったせいか住まいのほとんどが居蔵造りです。そこから裕福な暮らしぶりが見て取れます。なまこ壁も1軒ごとに模様が違っています。また柱も漆喰で隠されており防火性を強めているのです。旧中川家住宅を公開しています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはいぐら館駐車場に停めました
 
○唐戸(からと)/下関市唐戸 
 
   
▲関門ビル/昭和6年築。4階建て一部5階の雑居ビルで,各窓の庇に特徴があり,壁面もシンプルにまとめている  ▲旧宮崎商館/明治40年築。赤レンガと白の石の組み合わせが美しい。デザインが旧英国領事館と似ている 
   
▲旧下関郵便局電話課分室/大正12年築。外観はドイツ風で典型的な大正後期のデザイン。現在は市役所別館  ▲旧不動貯蓄銀行下関支店/昭和9年築。正面柱の基壇部分と入口周りが石造。その他壁面はモルタル仕上げ 
日本で現存する領事館では最古!
 唐戸湾を埋め立ててできた町です。明治34年英国領事館が移転、昭和16年に領事館は廃止されました。その後、下関警察署の交番、考古館などと変遷してきました。日本に現存する領事館では最古の領事館といえます。入館無料で見学できます。
明治、大正は充実した船運
 唐戸が発展した大きな原因の一つに、唐戸桟橋からの船運の利便性が高かったからでしょう。私営航路が中心で、門司や小倉、宇部など数え切れないくらいの路線が充実していました。明治の中ごろ、道端で野菜を売り出したのが市場の始まりと言えます。いまは商業都市として発展。唐戸市場や近代建築,渡船などがあって,いつも賑やかです。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは唐戸市場駐車場に停めました
 
○竹崎(たけざき)/下関市竹崎町 
 
断崖にある住宅密集地
 江戸時代から明治初期にかけて竹崎浦といわれ商業,漁業の中心地でした。その後竹崎町に改名されるのですが,同時に赤間関区に属しました。
急坂を避けて逃げ出す住民たち
 交通の要衝で北前船も寄港,小規模ながら遊郭もあり,大変な賑わいを見せました。しかしながら海の埋め立てと同時に,山側へ住宅はどんどん進出し,クルマも通れない路地が山腹一帯に張り巡らされ,住宅密集地となったのです。路地を上るにつれ,空き家が多くなります。離島のように,急坂から逃げる住民の気持ちもわかります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはコインパーキングに停めました
 
○新地西町(しんちにしまち)/下関市新地西町 
 
   
▲昭和初期の貸し座敷は43軒、娼妓は300人を超えたそうです。今は一般住宅に 
住宅密集地は旧遊郭
 もともと新地町は明治時代から一大歓楽地帯でした。芝居小屋や映画館もあって,多くの人々で賑わっていたのです。例えば大黒座などは,7代目團十郎や4代目三津五郎などが上演しましたが,明治15年に閉鎖されたという歴史を持っています。そして歓楽地帯に併設されるように新地町の西隣に遊郭が誕生するのです。残っている建物は戦後のものですが,ひと目で旧遊郭だったということがわかります。いまは密集住宅地となっています。また空き家も多いです。
平家滅亡で生き残った女官たちが身を落とした……
 
下関の遊郭は歴史が古く、源平合戦に敗れた平家の女官たちが隠れ住んでいましたが、日々の生活の糧に身を落としたといいます。地元の人は遊女発祥の地として、毎年赤間神宮に参拝するとか。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは下関厚生病院駐車場に停めました
 
○吉田(よしだ)/下関市吉田 
 
高杉晋作ゆかりの地
 山陽道の宿場町で,赤間関街道との分岐点でもありました。交通の要衝だったせいか毛利藩の代官所,本陣,御茶屋などが設けられて,かなり栄えたそうです。またこのあたりには,高杉晋作や騎兵隊のゆかりのあるものが多いのです。高杉晋作の墓もあります。
裏道は崩れかけた土塀や蔵が残ります
 道路面側は改修されていますが,平入り,妻入りの建物が往時の面影を残しています。一歩裏に入りますと,崩れかけた土塀や蔵が残っています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは近くの公園の無料駐車場に停めました
 
○長府(ちょうふ)/下関市長府 
 
   
▲毛利氏の藩政時代に築かれた数々の武家屋敷跡が見られます 
下関にも歴史的な町並みがありました
 実は下関に入るまで、ここに古い町並みがあることに気がつかなかったのです。門司からそのまま柳井市へ行こうと思っていたのですが、もらった観光地図に、町並みのことが記載されていたので、あわててやってきたのが実際のところです。
 下関はふぐと焼き肉の町というイメージが強く、歴史的な町並みを見たときは、驚きでした。
 もともと毛利藩の城下町だけに、武家屋敷も残されています。町並みは碁盤の目のようにきちんと整備されています。すぐそばに旧山陽道がとおり、長府毛利邸もあります。
住民と行政が一体となっています
 土塀の中は普通の民家です。ここが大事なことだと思います。たとえプレハブであろうと鉄筋の住宅であろうと、住民には現在の便利な生活を享受する権利があります。観光地として、城下町の風情を保ちつつ生活をするために、周囲の土塀(練塀/ねりべい)だけでも維持することはコストがかかります。行政は、この土塀を維持するための助成金をだしているそうです。住民の努力と行政の助成が一体となったときに、歴史的な町並みが本当に生きてくると思います。長府はその成功例です。
JR下関駅からバスですぐのところ
 観光地として長府まで訪れる人は少ないですが、日曜日でもちらほらとグループ連れが目につきました。石畳のある狭い小道を歩いていると、屋敷から伸び出ている花々や木々に救われます。
 古い民家のいくつかは市の文化財に指定されています。上の写真は菅家長屋門で菅家は藩中でも名医として慕われいたそうです。
 この長府にくるには、下関駅からバスで「城下町長府」で下車してください。バス停のあるところは国道9号線ですが、駐車場の有無はわかりませんでした。パンフにも記載されていません。たぶんどこかにあると思います。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 下関駅からサンデンバスで城下町長府下車 
○田部(たべ)/下関市菊川町田部 
 
残り少ない商家
 慶長15年(1610)にはすでに市が立ち、かなり賑わっていたそうで,32軒の商家等の屋敷があったのです。また江戸中期にも街道沿いに同じような市屋敷48軒があったとか。ということは,それほど変化のない宿場といえます。なぜなら赤間関(下関)が発展したため,近郊近在からの人口の流出がおこったと考えられています。
赤間関街道の中道筋
 赤間関街道は幾つかのコースと呼び名を持っていますが,ここは中道筋といわれています。宿駅,一里塚,松並木などよく整備されていたそうです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○椿東(ちんとう)/萩市椿東 
 
生活感のある町並みです
 観光地と違って生活感のある町並みです。虫籠窓のある町家があったり,戦前の建物があったりといろいろです。漁港に続く小路を歩くと漁師町らしい雰囲気を感じます。
椿郷東分村が椿東に変遷します
 かつては椿東村(ちんとうそん)と呼び、明治22年4月1日、町制の施行により、近世以来の椿郷東分村が単独で自治体を形成しました。大正10年5月、椿郷東分村が改称して椿東村になりました。大正12年4月、萩町、椿村、山田村が合併して、改めて萩町が発足。椿東村廃止となったのです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは明神池駐車場に停めました
 
○江崎(えさき)/萩市江崎 
 
   
▲西堂寺の珍しい六角堂  ▲古民家は江崎港を囲むように建つ 
●北前船の寄港地で町は大繁盛!
 元もと交易と漁業で生計を立てていましたが,北前船の寄港地となってからは,萩藩にとっても重要度は増しました。古民家は江崎港を囲むように建ち並んでいます。石州瓦に庇の突き出た町家で静かな町並みです。
江崎港は天然の良港で、船は120艘も所有
 江戸時代は萩藩領。寛永2年(1625)に田万(たま)村下より分離独立して成立。これは田万村の給領主(きゅうりょうしゅ)である益田氏の所領内に須佐浦と江崎浦の二つの港があるのは不都合という理由で寛永2年の検地で江崎浦を萩藩の歳入地としました。江崎港は天然の良港で、船が120艘もあり、うち廻船は4艘もあります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは西堂寺六角堂見学者用駐車場に停めました
 
○平安古(ひやこ)/萩市平安古 
 
   
▲内閣総理大臣・旧田中義一別邸   ▲見通しを悪くした「鍵曲」が残ります 
敵の侵入を防ぐ鍵曲
 橋本川に沿った地区で,毛利一門の下屋敷はじめ,いくつかの武家屋敷が残っています。また,敵の侵入や攻撃を防ぐために,左右を高い土塀で囲み,見通しの悪い「鍵曲」(かいまがり)が残っています。
平安寺の古い門前町かた平安古と名付けたそうです
 萩城下28町の一つです。この奇妙な名前は、その昔平安寺の古い門前町であったので平安古と名付けられたとか。また「ひやこ」という池沼があり、のちに「平安湖」という文字をあとから当てたともいいます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 まぁーるバス保険センター前から徒歩3分
 
○浜崎(はまざき)/萩市浜崎町 
 
萩にも港のにおい
 江戸時代初期,城下町の建設とともに開かれた港町。萩三角州の北東端に位置し,回船業,水産業で賑わいました。
市内3番目の重要伝統的建造物群保存地区に選定
 歩いていて,今までの萩のイメージを一変させてくれます。土塀や石垣はありません。格子戸のある商家や白壁の土蔵などがあり,江戸時代の建物は,44棟も数えます。また地割りも当時のままです。倉庫群,町家などぎっしり詰まった町で,狭い路地や白壁に港町のにおいがします。堀内,平安古に続く市内3番目の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 まぁーるバス寺町下車徒歩10分
 
○堀内(ほりうち)/萩市堀内 
 
「土塀と夏みかん」だけではありません
 今から40数年前,はじめて取材した町が萩と津和野でした。「土塀と夏みかん」というイメージしかありませんでしたが,萩に着いてみると,実に変化に富んでいることがわかりました。
江戸時代の地割り
 町筋は碁盤の目状に整備されています。中,下級武士の武家屋敷や町家が残っています。江戸時代の地図がそのまま使えるというほど,昔のままの地割りです。もう一つ,高杉晋作誕生の地,木戸孝充(桂小五郎)旧宅,青木周弼旧宅など,歴史上の人物に関する家々も見られます。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 まぁーるバス萩看護学校前下車徒歩すぐ
 
○佐々並(ささなみ)/萩市佐々並 
 
   
▲重要伝統的建造物群保存地区に選定されました 
朝鮮出兵の従軍兵も宿泊しました
 文禄元年(1592),秀吉の朝鮮出兵に従軍した吉見元頼一行は,城下津和野から福井(福栄村),指月(萩市)を経て当地に宿泊したとあります。佐々並は,すでに17世紀の半ばごろ萩-山口間の連絡道として栄えていました。そして萩往還の完成とともに宿場町,市の町(商家の並ぶ町)として駅が置かれました。だから一般に佐々並市(いち)とも呼ばれます。江戸時代末期の古文書によると,市は総数62軒,内商家15軒,47軒が旅籠と兼用した馬持ちの人足で,農業に従事。
毛利輝元が長松庵で休息しました
 佐々並で萩往還沿いの最も大きな施設にお茶屋(本陣)がありました。慶長9年(1604),毛利輝元が山口から萩城に移るとき,長松寺の前身である長松庵で休息したと言われています。後年,往来の通行がひんぱんになると,旅籠などが設置されるのです。

築100年を越す古民家群
 町なかを歩きますと,築100年を越すと思われる古民家が連なっています。特にいわれのある建物には,説明書が貼り付けてあるのがありがたい。江戸時代はどのような建物で,どのように使われいたかが,わかりやすく説明されています。重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは道の駅あさひに停めました
 
○明木(あきらぎ)/萩市明木 
 
石州赤瓦が美しい街並み
 萩往還の完成とともに,宿場町として,また市の町(商家の並ぶ町)として栄えました。江戸時代末期の記録によれば,総数73軒で内20軒が商人,53軒が旅籠兼用で馬持ちの人足で,農業に従事していたとか。また駅として,人,荷物,御用状などを輸送するための目代(もくだい)家があり,馬30頭,人足19人が常設されていました。
明治の大火でほとんどが焼失しました
 明治24年(1891)の大火で家並みのほとんどが焼失,残った家は3軒。大火直後に建てられた家が,今も数軒健在です。石州赤瓦屋根が連なる町です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○奈古(なご)/阿武町奈古 
 
石州街道沿いの漁師町
 石州街道はほぼ現在の国道9号線に沿っていますが,かつて萩から石州に向かう4本の街道もひっくるめて石州街道と呼ばれていました。
舟板を使った古民家が珍しい
 そんな街道沿いと,萩方面への海上交通の拠点でもある奈古港を持つ町。また漁業の町,大きな市の立つ商業の町でもあります。そのせいか,町を歩いていますと繁栄ぶりを思わせる重厚な建物が,ひしめき合っています。しかもバイクがやっと通れる道幅に,漁師町らしい舟板の壁や漆喰塗りの白壁が,古民家群を引き立ててます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは阿武町役場に停めました
 
○仙崎(せんざき)/長門市仙崎 
 
   
▲金子みすゞ記念館2階に再現。金子文永堂には数多くの作品が展示即売  
詩人・金子みすゞの生誕地
 やはり仙崎という無名の町を全国的に一躍有名にしたのは、詩人・金子みすゞの生誕地であったからでしょう。町を歩いていて気がつくのは、各民家の軒先に詩の書かれた札がぶら下がっています。虫籠窓のある切妻造りの町家が多く残されていて,詩札が趣を添えているのです。金子みすゞは26歳で自害するまで約500編もの詩を残しています。
江戸時代初期から捕鯨の基地でした
 仙崎は漁業の町ですが、特に捕鯨の町として知られていました。明治32年、岡十郎によりノルウエー式砲投捕鯨法が発足しました。この日本遠洋漁業は明治36年に101頭のクジラを捕獲。その後、朝鮮半島近海を同社の専用漁場となったのです。捕鯨自体は藩の保護のもと寛文年間(1661-73)の江戸時代初期から続けられていました。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは仙崎漁港に停めました
 
○通(かよい)/長門市通 
 
クジラ捕りの自宅が残る
 江戸時代から明治時代の終わりまで235年間にわたって捕鯨で栄えた町です。小高い丘の上にクジラの墓(国の史跡)。くじら資料館には140点にのぼる江戸時代の古式捕鯨の道具やクジラ捕りの網元の自宅・早川家住宅(国の重文)がそのまま残っています。なお早川家の末裔がクジラ資料館で勤務されています。
捕鯨で栄えた往時の繁栄ぶりを感じます
 漁村特有の狭い道の両側に重厚な下板張りで漆喰塗りの蔵造りの町家続きます。建物を見るかぎり,かつての町の繁栄ぶりが感じられます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○三隅(みすみ)/長門市三隅中 
 
交通の要衝で漁業や廻船業で発展
 北国道,山口往還などが通る交通の要衝。さらに仙崎湾に面していることから漁業や廻船業も発展しました。三隅は三隅川流域に広がる地域でかなり広く,江戸時代の中期は,流域ごとに三隅上,三隅中,三隅下と3地域に分村していました。なお三隅中には,萩藩主からも一目置かれた三隅八幡宮があり,修理費等の出費も藩が負担していたとか。また古民家も三隅中に集まっています。
●今ではわずかな数の古民家
 八幡宮からのんびりと歩きますと,いまはそれほど古民家は残っていませんでした。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは三隅八幡宮の駐車場に停めました
  
○日置(へき)/長門市日置上 
 
“海辺往還”沿いの集落です
 萩城下から赤間関(下関)へ向かう赤間関街道は,幾つかに分かれていましたが,特に海辺を通る街道を海辺往還ともいい,地名から北浦街道ともいいました。寛文4年(1664)には,北浦街道が日置村内で変更され,本宿が台が原に移され新市とされました。日置はそれに対して古市と呼ばれました。
●漁師町らしい狭い路地がピッタリ
 宿場町としてより,漁師町としてのほうがピッタリくる町並みです。狭い路地,板張りの町家,旧街道の片側は崖が迫っており,細長い町並みを形成しております。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○俵山(たわらやま)/長門市俵山 
 
藩主・毛利氏が愛した湯治場
 俵山温泉の歴史は古く延喜16年(916)に薬師如来の化身である白猿に導かれて発見したという伝説があります。江戸時代中期に,萩藩が御茶屋を設置して,藩主毛利氏がしばしば利用したそうです。明治に入ると,ますます栄え近郊近在から多くの湯治客を迎えることになります。昭和30年に国民保養温泉地,昭和56年には環境省から国民健康温泉地に指定されました。
木造3階建ての老舗旅館が続きます
 クルマがやっと1台通れる道幅に,木造3階建ての老舗旅館が続きます。湯治場としての歴史を感じさせるのです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光駐車場に停めました
 


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○四郎ヶ原(しろうがはら)/美祢市大嶺町西分 
 
赤間関街道の沿いの宿場町
 赤間関街道の一つ,吉田往還ともいいまた中道筋ともいい、享保6年(1721)に設けられた小さな宿駅でした。宿場はそれほど大きくはなく、それでも酒屋、旅籠屋、油屋、酢屋、醤油屋などありました。萩城下から下関はへ最も近道で,藩主をはじめ多くの人の往来で賑わったところです。また弘化4年(1847)には舟運も利用。
伊能忠敬や吉田松陰も投宿しました
 岡藤家(写真)は宿場では年寄り役を務めた家で、古くから酢醸造業を営んでいました。岡藤家に隣接するところに碑があります。伊能忠敬は測量で文化8年(1811)この地で宿泊しています。また吉田松陰も平戸遊学のために嘉永3年(1850)8月25日に一泊したとあります。
広い野原に四郎という者が住んでいました…
 ところで気になる地名の由来ですが、JR四郎ヶ原駅の横に説明板があって、「四郎ヶ原と言うのは、この地は広い野原であって、そこに四郎という者が住んでいた」とあります。この出典は江戸時代に萩藩やその支藩中心に編纂されたいわば村勢概要『地下上申』によるものです。いまは『防長地下上申』(全4巻)として復刊されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○厚狭(あさ)/山陽小野田市厚狭 
 
市が立つだけに商家も多いようでした
 山陽道の宿駅ですが,厚狭市(いち)は舟木と吉田宿の間にある間宿で馬継ぎだけで,通行するだけの人も多かったようです。しかし市が立つ町だけに商家も多かったのも事実です。また裏町には借家住まいの人も多く,日雇い稼ぎ,人馬送り役で渡世を送る人もいたとか。
重厚な蔵造りの町家
 いまは造り酒屋(男山)の土蔵もあったり重厚な町家もところ所に見ることができます。また石炭の採掘は江戸末期から続いていましたが,昭和初期,厚狭炭坑が創業。一時期大変な賑わいを見せました。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはセブンイレブンの駐車場に停めました
 
○富海(とのみ)/防府市富海 
 
ポツンポツンと見られる
 旧山陽道の宿場町です。港にも近く,以前は小さな漁村でもありました。所々に古民家が見られますが,一本裏の小路に入りますと,石垣とレンガ塀の町並みが続きます。船蔵が残されており,船蔵通りと呼びます。
富海で最期を遂げた大内輝弘
 永禄12年(1569)、大内輝弘の乱で吉川元晴に追われた大内輝弘は秋穂浦から海岸伝いに富海まで逃げました。ところが東の椿峠には杉次郎左衛門尉、西の浮野峠には吉川元春の両軍に挟まれ、富海茶臼山で最期を遂げました。輝弘の首は長府に送られて首実検が行われたあと埋められたそうです。これにより大内家は滅亡しました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは富海郵便局に止めました
 
○中関(なかのせき)/防府市浜方中関本町 
 
東の上関と西の赤間関(下関)の間をとって中関と命名
 ココは江戸時代の新田開発でできた土地です。東の上関,西の赤間関(下関)の繁栄にあやかって間の中関と名付けられたとか。
かつては塩の積出港
 室町時代から隣の三田尻地区では塩田が盛んでしたが,7代藩主毛利重就は一気に拡大し,干拓造成した中関が塩業の中心地になったのです。中関からどんどん積み出したのですが,塩の銘柄は歴史のある「三田尻浜の塩」ということで,元禄年間ごろから主に日本海沿いの地域に販売されたそうです。

 いまはわずかに古民家が残されている程度です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○宮市(みやいち)/防府市宮市町 
 
萩往還と山陽道の分岐点
 防府天満宮の前で市が立ち,それが発展して宮前の市となり,宮市となったそうです。だから門前町として古くから栄えました。また江戸時代になって,萩と三田尻を結ぶ萩往還が整備されると,宿駅になり,萩藩公認の本陣が設けられました。また大鳥居前で萩往還と分岐するのが山陽道です。そのため人や荷物の運搬が盛んで,まさに交通の要衝となりました。
交通量の多さに唖然!
 天満宮前は,交通量も多くのんびりと歩ける感じではありませんが,ポツンポツンと古民家が残されています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光客用駐車場に停めました
 
○櫛ヶ浜(くしがはま)/周南市櫛ヶ浜 
 
浜辺に櫛を落としたことが地名の由来
 厳島明神が当地の浜にやってきて,浜辺に櫛を落としたことが,地名の由来だとか。江戸時代は,一時期徳山藩領でしたが,基本的には萩藩が長く続きました。
蔵造りの町家が見られます
 古文書には「櫛ヶ浜浦」と明記されているくらい,ほとんどが湿地帯でした。そのため江戸時代初期の職業は漁師,船大工が多く,持ち物も漁船か46艘、鯛網2張り、鰯網が8張りなど。明治に入ると運河を造成し,湿地帯を埋め立てるなどして,農業も盛んになってきました。町を歩きますと,蔵造りの町家が見られます。
ポルトガルの沈没船を引き上げただけで賞賛の嵐!
 寛政11年(1799)、船頭・村井喜右エ門は商用で長崎に滞在中、オランダの沈没船を引き上げたら、長崎奉行から銀30枚も下賜されました。さらに幕府からは日の丸船印の使用を許可。さらにさらに、藩からは苗字帯刀を許されたのです。多分、政治的な影響が大きかったのか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは櫛ヶ浜漁港に停めました
 
○土井(どい)/周南市土井 
 
   
▲富田瓦を使っているせいか、重厚な家並みが続きます 
特産の瓦を使用した重厚な町家
 山陽道から分岐した鹿野街道沿いの小さな集落です。つまり幹線道路から外れたことから,壊れることなく,かなり重厚な土蔵造りの町家が多く見られるのでしょう。この近くに富田という集落がありますが,ここの富田瓦は特産物で,江戸時代に最も盛んに造られたといいます。また,中世に大内氏の重臣・陶氏の家臣団が住んでいたことも,家並みの重厚さを引き継いでいると思われます。
落ち着きのあり町並みです
 格子窓や漆喰の白壁,落ち着きのある町並みだけに,ぜひ後世まで残したいものです。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○戸田(へた)/周南市戸田 
 
村が萩藩領(27軒)と徳山藩領(37軒)に分断!
 旧山陽道に沿って発展した集落です。また湯野温泉へ向かう湯野街道との分岐点でもあります。そのため大変な賑わいぶりでした。江戸時代は萩藩と徳山藩とがしのぎを削っていたのですが,戸田村の64軒のうち,萩藩領が27軒,徳山藩領が37軒という,信じられないような体制化でありました。北側の肥沃な土地と沿岸沿いの漁業と,豊かな産業があったからでしょうか。豊かな証拠に、すでに瓦葺きの家屋も多く見られたそうです。
土蔵造りの町家が残ります
 町を歩きますと,白壁の土蔵造りの町家が少し見られます。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは竹内医院駐車場に停めました
 ○室積(むろづみ)/光市室積
 
海のにおいがする1本道
 瀬戸内海に突き出た半島に残された町です。海の菩薩として知られた普賢寺があり,ここから海商通りが延びています。江戸から明治にかけて北前船の寄港地として回船問屋で栄え,さらに役場や港が整備されいっそう発展したというわけです。
蔵造りを生かした商家が見られます
 海商通りは1本道です。しかも通りの裏は瀬戸内海です。海のにおいのする町並みです。蔵造りの商家を生かした土産物店などもあります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○末武上(すえたけかみ)/下松市末武上 
 
山陽道の宿駅でした
 この地の守り神である花岡八幡宮の前に市が立ち大変な賑わいを見せていました。この花岡市には,萩藩の代官所が置かれました。また八幡宮を起点にした枝往還が幾つもあると同時に,山陽道の宿駅として馬方60人,馬20頭が常備されていたのです。まさしく政治,経済,交通の要衝でもあったのです。なお花岡八幡宮には,絵馬や古文書など市指定の文化財が多数保存されています。
特徴的な古民家が残ります
 いまは大きな三角屋根が特徴の二段式切妻造りの古民家が所々に残されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは法静寺駐車場に停めました
 
○岩国(いわくに)/岩国市岩国 
 
碁盤の目状になった町並み
 歩いていると,ところどころに旧町名の札が貼り付けてあります。玖珂町,柳井町,材木町などかつて町人が住んでいたと思われる町名が残されているのです。べんがら格子の町屋,白壁の商家が往時のまま見られます。町並みは碁盤の目状態になっており,迷うことなく歩けます。
●錦帯橋を渡ると情景は一変します
 錦帯橋を渡りますと,武家屋敷が見られます。大きな長屋門,ずっと続く白壁など,錦帯橋を挟んでその様相は一変するのです。その変わり目を見るのもおもしろいです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR山陽本線岩国駅からバスで錦帯橋バスセンター下車
○高森(たかもり)/岩国市周東町下久原 
 
参勤交代の萩藩主や朝鮮出兵の秀吉も宿泊
 秀吉は文禄元年(1592)に朝鮮出兵のために名護屋に向かう途中に当地で1泊したとか。また江戸に入って,萩藩主・敬親が参勤交代時に,本陣,脇本陣な104軒に分宿したと記録されています。ということは,かなり大きな宿場町であったことが想像されます。
切妻型屋根の白壁の古民家が連なります
 また、明和年間(1764-72)に島田川に舟運が開かれ,高森は荷物の集積地としての役割を果たします。問屋など商家が多く,穀類,味噌,醤油などから炭,薪,半紙なども搬送。
いまは切り妻屋根の白壁の民家が残されています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはスーパーバリューマルシン駐車場に停めました
 
○由宇(ゆう)/岩国市由宇町 
 
かつての栄華は見られず
 地形的に瀬戸内海に面しているだけに早くから船運が盛んで,瀬戸内海や尾道や下関までの輸送が盛んでした。その後,由宇港が大型船が接岸できるようになると,大坂,兵庫まで「岩国船」と呼ばれ産物を搬送。これにより由宇には回船業,醸造業,織物業等が誕生し,経済が活発化していくのです。特に嶋谷汽船はイギリスから大形蒸気船を購入し中国大陸まで商圏を広げていきます。今はかつての栄華を見ることはできませんが,漆喰塗りの土蔵が印象的です。
明治から昭和まで一時代を築いた嶋谷汽船
 嶋谷汽船は明治以降近代化の中で、海運国と成長しますが、その一翼を担っていました。特に日本海定期航路の開拓、蒸気汽船を購入してのアジアへの進出など、著しい活動が見られました。このことは関西大学発行論文集『或問』(わくもん/2015年発行)の『嶋谷汽船会社と日本海定期航路』(松浦章)に詳しい。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは由宇駅前駐車場に停めました
 
○玖珂(くが)/岩国市玖珂 
 
山陽道沿いの集落でした
 奈良時代に「玖の玉」,「珂の玉」があったという伝説から玖珂という名が付いたといいいますが定かではありません。
 中世では第一級の街道であった山陽道も,江戸時代に入ると格下げとなりましたが,九州とつなぐ重要な街道であったことは間違いありません。明治に入って,
栄華をほしいままにした絹産業の残り香
 国策と相まって絹産業が一気に花開き,県下でもトップクラスの生産量を誇りました。これは昭和初期まで続きます。いま町を歩きますと,栄華をほしいままにした絹の問屋,商家がの面影が見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは玖珂こどもの館駐車場に停めました
 
○大畠(おおばたけ)/柳井市大畠 
 
遭難船が出たり海賊が出没する大畠沖
 大畠沖は瀬戸の難所といわれ,遭難船が相次ぎました。また難所をいいことに、中世の時代から海賊が横行していました。なかには朝鮮半島にまで交流を広げようとしたとか。そこで天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に当たって、毛利輝元は入江市助に対し伊予海の安全を期するために大畠に出向きました。このことを秀吉は賞詞を与えたそうです。また朝鮮出兵に際して、毛利輝元の領地・5カ所に船や馬を揃えるように命じましたが、そのなかに大畠が入っていました。江戸時代は岩国藩領。藩も大畠に瀬戸奉行を置き海上に目を光らせました。
難所ゆえに一年中魚が集まりました
 「大畠の瀬戸」は万葉集に詠われほど、古代から海の難所でした。しかしながら多数の魚介が集まり、一時期鯛の一本釣りとして年間3万人以上の釣り人を集めたことがありました。これは江戸時代も同じで、「当浦は年中漁ノ事」とまでいわれ、正月から年末まであらゆる魚が獲れたそうです。町は規模の小さい漁業の集落として発展したそうです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○柳井(やない)/柳井市柳井津古町 
 
石畳と蔵造りの商家が似合います
 10数年ぶりの2度目の訪問です。石畳も敷かれ,昔に比べてかなり整備されています。土蔵造りの商家がずらりと並び,その光景は圧巻です。まるで映画に出てくるような感じの町並みになっていました。
土蔵造りの商家にかつての繁栄ぶりを見ます
 瀬戸内海の交通の要衝として栄え,特に油の集散地としては,江戸時代,柳井の豪商たちが独占的な権益を得ていました。町並みを見ただけでも,往時の繁栄ぶりを感じさせるものがあります。とにかく,見応えのある町並みです。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR山陽本線柳井駅から徒歩10分
 
○上関(かみのせき)/上関町長島 
 
港町らしくない建物
 海上交通の要所として栄えた港町です。建物を見ると,単なる港町とは思えない造りです。瓦葺きの2階建て,漆喰いの建物が役場付近に残っています。車がやっと1台通れる程度の狭い道の両側に建ち並んでいるのですが,「ぎっしり感」にちょっと息苦しい感じです。
重厚な建築物はどうなるのでしょうか
 豪華な造りのなかで,特に吉田家(写真中)の菱形の窓は,ひときわ目立つ存在です。港の通りから一歩中に入った通りですが,まったく別世界です。 ただ、いまは古民家がどんどん無くなっている状況です。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR山陽本線柳井駅から上関行き防長バス1時間渡船場前下車
 
○祝島(いわいしま)/上関町祝島 
 
漆喰で塗り固めた練塀
 『万葉集』にも登場する歴史のある島。江戸時代は毛利水軍の領地でもあり,岩見島と称したこともありました。島の周囲12kmは急峻な崖地で囲まれていて,集落は低地の北東側に集中しています。人口は500余人。
 集落に一歩入り込むと,昔ながらの小路と石積の練塀が目を引きます。「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百景」(全国漁港漁場協会)に選ばれたとか。迷路の両側に続くレンガ塀は,漆喰でガッチリと塗り固めています。これは基本的に風が強いからです。
集落の東側が強風の地
 またセメントで塗り固めた屋根瓦も強風から屋根を守るためです。固めた屋根瓦は練塀と共に集落の東側に集まっています。とにかく東側は風が強いとか。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 柳井港から定期船で祝島下船すぐ
 
 ○船木(ふなき)/宇部市楠町船木
 
おもわず「おおっ」と声をあげました
 いろいろな町並みを見ていてうれしいのは,意外にも町並みを残されているときです。ほとんど無名に近い船木もその一つです。車を役場と公民館の兼用の総合センター駐車場に停めて歩きました。表通りも裏通りも,昔のままの姿が多く残されているのです。おもわず「おおっ…」と声をあげてしまいました。
表通りも裏通りも古民家がいっぱい
 船木は山陽道の宿場町です。商家が多く,窓は独特の四角の窓で,壁は漆喰塗りで固められています。古くなった建物は新しく改装するなど,住民も町並み保存に協力しようという姿勢が見られます。
 裏道も土蔵が続き,建物の下半分は板部で囲み,白壁がはげ落ちています。こんな静かな山間の地に,古い町並みを見つけたことに感動しました。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは公民館の駐車場に停めました
 

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