山形県

○山寺(やまでら)/山形市山寺 
 
   
▲立石寺本堂/国の重要文化財  ▲シーズンオフのせいか町は静か 
旧道沿いに古民家が点在
 立石寺は多くの堂宇を擁する古刹で、東北の叡山と言われていました。集落は門前町で、寺と共に発展。また宮城県へ抜ける急峻な二口峠があり、口留番所が置かれていました。大永元年(1521)、天童頼長は山寺を攻略し、立石寺根本中堂をはじめひと山が焼け落ちました。その後天文12年(1543)に僧・円海によって再建され、比叡山根本中堂から灯が移されたそうです。
山寺は芭蕉の句で一躍全国銘柄になりました
 とはいうものの、地元では古刹として知られていますが、全国的に有名になったのは、やはり俳人・芭蕉が句を残したからです。元禄2年(1689)5月27日、松尾芭蕉は当地に寄り、
 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」『奥の細道』
このあと芭蕉は新庄に向かい、これまた超有名な
 「五月雨 あつめて早し 最上川」を詠んでいます。
 
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 交通 JR仙山線山寺駅から徒歩5分
 
○旅篭町(はたごまち)/山形市旅篭町 
 
   
▲文翔館/旧県会議事堂(左)と旧県庁舎(右奥)・国の重要文化財  ▲山形県旧県会議事堂の内部/ルネッサンス様式の議場ホール 
弘前藩や秋田藩の本陣がありました
  江戸時代から続く町名で、羽州街道が通り、弘前藩本陣の後藤屋、秋田藩本陣の小清水庄蔵、さらに佐久間屋、藤屋など多数の旅篭屋がありました。元禄元年(1688)には屋敷数141軒もあったというからスゴイ。
町家と近代建築が見もの
 明治10年、県令・三島通康(みしまみちつね)は、当地に西洋風の山形庁舎を落成。明治11年に南村山郡所、勧業製糸場を設置。明治15年には山形共立勧業博物館が開館しました。山形県が統一されて、県庁、警察署、市役所、学校などが建てられ、市の中心街となりました。いまはわずかに町家が見られますが、近代建築が見ものです。文翔館では、ボランティアの方々が館内を詳しく説明されています。ちなみに県令とは、廃藩置県後、県に置かれた長官のことです。
 
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 交通 JR山形駅から100円循環バスで旅篭町2丁目下車、徒歩10分
 
○寺町(てらまち) /山形市緑町
 
   
▲唯法寺/見応えのあるな山門  ▲専称寺/県の指定文化財 
専称寺を中心にした寺内町
 江戸時代から明治9年までは専称寺町といいました。専称寺には地の侍や農民ら多く住み、寺内町を形成。禄高は194石を拝領してたというから、かなりの力があったと推定。古文書などには専称寺村の名が見られます。
まさに「聖と俗が隣合わせ」状態
 専称寺はもともと文明年間(1469-87)に僧・願正坊が高擶村(たかだまむら/現・天童市南部)に建立した寺です。慶長元年(1596)、藩主・最上義光が娘の駒姫の菩提を弔うために旅篭町に移転させ、真宗一派の僧録司(そうろくし)として寺院を管轄させました。そして元和7年(1621)に現在地にさらに移転させたのです。現在、専称寺を中心に10カ寺余が点在。旧遊郭花小路の先にあって、まさに「聖と俗が隣合わせ」状態です。
 
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 交通 JR山形駅から100円循環バスで七日町下車、徒歩15分
 
○花小路(はなこうじ)/山形市七日町
 
   
▲千歳館/国の登録文化財  ▲花小路の一角に旧遊郭の面影 
昭和初期の旧赤線地帯の面影を見る
 胡姓とも書きます。山形城下の一つでした。いまは山形市内で最大の飲食店街。そのはずれに旧遊郭を思わせる建物がひっそりと見られます。かつて「小姓町遊郭」と呼ばれ、40軒前後の貸座敷と100人以上の芸子・娼妓がいたとか。昭和初期には19軒にまで激減しました。千歳館が中心になって三業地指定となりました。
大火で一度は焼失しましたが、すぐに復興!
 明治17年、公娼が公認されると旅篭町などに散在していた遊女屋が、この地に移転させられ花街を形成しました。しかし明治27年の大火で、1軒残らず焼失。だが直ちに復興し、「すばらしい高層の妓楼」
が軒を連ねて一大遊郭を形成。娼妓の大部分は山形県出身ですが、一部秋田県出身もいました。
 
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 交通 JR山形駅から100円循環バスで七日町下車、徒歩7分
 
○七日町(なぬかまち) /山形市七日町
 
   
▲御殿堰/市内農業用水堰の一つ   ▲土蔵をリニューアルして店舗に 
まだまだ近代建築が残る
 市内最大の繁華街。江戸時代は、出羽三山の参拝者で賑わいました。そのためか旅篭屋17、下旅篭屋26、飯盛女106の記録が残るくらいです。また7の付く日に市が立ちました。古民家は、裏通りや横丁に入ると見られ、近代建築も残っています。
紅花の季節には京都から仲買商人が殺到
 七の付く日に市が立ちますが、紅花の時期には1ヶ月にわたり花市が立ちます。紅花の季節になると京都から仲買商人が大勢やってきます。そのころはわずか1ヶ月の儲けが、1年分の暮らしの糧となるため、昼夜の境無く賑わったそうです。 
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 交通 JR山形駅から100円循環バスで七日町下車、徒歩すぐ
 
○本町(ほんちょう)/山形市本町 
 
   
▲山形まなび館/国の登録文化財  ▲看板建築が残ります 
●江戸期には魚市には“仙台越”や“酒田上がり”が珍重
 江戸時代後期には、魚市が立ち“仙台越”や“酒田上り”の生魚や乾魚(干物)が売り出され、活況を呈したそうです。 というのも本町は内陸部にあるため、新鮮な魚を求める人が多かったようです。仙台や酒田からやってくる魚が珍重されました。
ビルと古民家と看板建築
 江戸時代から続いた地名・横町を昭和27年いとも簡単に変更。いま歩いて見ますと、古民家、看板建築がビルの谷間に残っています。
 
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 交通 JR山形駅から100円循環バスで本町下車、徒歩5分
 
 ○十日町(とおかまち)/山形市十日町
 
   
▲重厚な蔵造りの町家が残る  ▲紅の蔵/旧紅花商人長谷川家  
羽州街道沿いに点々と…
 江戸時代から七日町とともに、市場の中心地。特に江戸中期以降は、豪商が集中し紅花市も活況を呈しました。江戸城下の一つです。山形城三の丸の東側を南北に通じる羽州街道沿いの集落。もともと天台宗正楽寺と禅宗勝因寺を結んだ門前町でした。藩主の最上義光の城下町割りで南北に並ぶ町割りに改造しました。
活況を呈する紅花市
 元禄年間(1688-1704)の屋敷数は201軒、人口は1195人というからデッカい。市は9・10の月に6回。別に紅花市が開催されます。いま羽州街道沿いに老舗や蔵、町家が点在しています
。 
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 交通 JR山形駅から100円循環バスで十日町紅の蔵前下車すぐ
 
○八日町(ようかまち)/山形市八日町 
 
町家が寺院が点在
 源頼朝が前九年の役での没後に創建したと伝えられる柏倉八幡社を斯波兼頼が延文5年(1360)に勧請。現在の六椹八幡宮にあたります。八日町はその門前町として発展し、8日に市が立ったことが、地名の由来だそうです。さらに最上義光によって出羽三山詣りの宿に指定されたことで、全国から多くの山伏がやってきました。元禄年間の屋敷数が180軒というから、かなり大きい。
老舗・男山酒造の歴史的建造物
 羽州街道沿いに男山酒造(寛政元年・1789創業)の堂々たる古民家が目に付きますが、ほかに小さな町家が点在。また街道の裏手には、寺町を形成しており、古刹が集中しています。 
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 交通 JR山形駅から100円循環バスで十日町紅の蔵前下車、徒歩10分
 
○船町(ふなまち)/山形市船町 
 
河川港の町並として発展
 最上川の支流・須川沿いの集落。江戸時代、最上義光が山形藩のあった村山地方と酒田の庄内地方を舟で結ぶ重要な外港として発展させました。いわば河川港です。江戸中期以降は商品流通の波に乗って最上氏の独占状態が続きます。
河川港がどんどんできて競争激化!
 しかしその後は、船町からさらに上流の大石田、さらに天童なども参入し、自由競争の時代に突入。船町は夏場の渇水騒動を加えて、やや衰えました。しかし幕末から明治初期にかけて、船問屋や宿屋が生まれています。

 いま旧道沿いに古民家が点々と見られ、堤防には「船町渡船場」碑が残されています。 
感動度★
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 交通 JR山形駅からバスで船町下車、徒歩2分
 
○山居町(さんきょまち)/酒田市山居町 
 
寂しい中洲にできた一寒村でした
 江戸時代は山居島村(さんきょじまむら)といい、最上川と新井田川に挟まれた中洲に位置する寒村でした。村高はわずかに9石だから貧しい。4石と明記された古文書もあります。ところが、この中洲が宝の山に変わります。酒田湊の米の取引が増えるにつれ、庄内藩の米穀取引のための倉庫が並び始めます。藩だけではなく商人たちの倉庫も並び、一大倉庫群が誕生します。そして酒田の豪商たちの名が江戸や上方にとどろきます。
土門拳記念館と山居倉庫とさかた海鮮市場
 酒田は何度も訪ねました。一つは土門拳記念館があって、企画展開催のたびに見に行っていました。ついでにうまいものを食って帰るというパターンです。最近の酒田は、写真の山居倉庫とさかた海鮮市場の2カ所が人気で、大勢の団体客が訪れています。海鮮市場の2階大食堂では、結構安くて新鮮な魚介類の食事ができます。
 冬場は訪れる人が少なく、逆にいえば最も酒田らしさが見られます。市内は除雪が行き届いているせいか、それほどの積雪は見られません。雪の山居倉庫はそれなりに風情があり、のんびりと歩けます。
NHK朝ドラ『おしん』の舞台
 酒田は東北地方の日本海側では最大の港町で、北前船の寄港地であると同時に、豪商・本間家の拠点で、そのにぎわいぶりは、かつてのNHK連続テレビ小説『おしん』でも描かれたくらいです。ちなみに2019~20年にかけてNHKBS放送で1年にわたって再放送されましたが、人気が高かったようです。
12棟の木造倉庫群
 建築や地名、文化の面でも上方、特に京都の影響を色濃く残しています。やはり北前船のもたらす力だと思います。

 山居倉庫は12棟あり、周囲を板塀で囲み、周囲を日よけのために植えたケヤキが大きく育っています。ところで地名の由来は、狭い潟(かた)、砂の干潟(ひがた)という説。古くは砂潟(さかた)、坂田と書いたとか。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR羽越本線酒田駅からバスで山居町下車すぐ
 
○寺町(てらまち) /酒田市寿町
 
   
▲酒田市指定文化財・浄福寺唐門  ▲正徳寺/長禄2年(1458)に創建
10ケ寺が集まった寺町
 航海の安全や商売繁盛を願い,船主や豪商たちが競って寄進した結果,現在の寺町を形成しています。通りを歩いても寺町の雰囲気がないのは,寺のすべてが通りから一歩奥に立っているからです。山門へ向かう参道がやや長い(?) 。
明治初期は上寺町と下寺町
 江戸時代は酒田町組の一つ。北側に砂山があり、祖父山(じじやま)といわれ、明治初期前後から麓に人家が建ち並び「祖父山下」と称されました。地内を東西に二つに分け、寺小路の東側を上寺町。西側を下寺町と呼んだようです。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR羽越本線酒田駅から徒歩20分
 
○舞娘坂(まいこざか)/酒田市日吉町 
 
   
▲酒田市を代表する相馬楼いまは町おこしに「酒田舞娘」として復活  
栄華を誇った京風文化
 江戸時代から続いた老舗料亭・相馬屋を再生した相馬楼を中心にした町並みです。酒田市で賑やかな飲食街を形成。やはり北前船の影響で,歩いていますと京風文化の香りがします。酒田では、芸者さんのことを舞娘さんとよぶとか。
明治26年、相馬屋で大騒動勃発!
 明治26年(1893)1月28日、相馬屋に豪商や県会議員など17人が集まり、相馬屋2階で宮中御宴と称して大新年会を開きました。当日は天皇、皇后、大臣に仮装し、衣冠束帯を着用。さらに四方に紫の幕を張り、ご丁寧に菊の紋を染め抜いていたのです。これを知った警察は、全員を不敬罪で検挙しました。なにしろ酒田政財界の有力者がほとんど投獄されたことで町じゅう大騒動。結局、大金を積んで東京から一流の弁護士を呼び、「おひな様のまねごと」をしていたということで証拠不十分となり、釈放されました。翌明治27年に庄内地方に大地震が起こり、相馬屋は崩壊し、建て替えらました。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR羽越本線酒田駅から徒歩25分
 
○飛島(とびしま)/酒田市飛島法木 
 
   
▲漁村らしい板壁の民家が続きます。格子状は強風に絶える工夫か  ▲日替わり定食(アジの煮付け・800円/西村食堂) 
昔の繁栄ぶりが偲ばれる
 飛島は2度目の訪問ですが,法木(ほうき)集落ははじめてです。飛島は,勝浦,中村を合わせて3つの集落があります。人口は全部合わせて270人,最盛期は1500人もいたとか。
 勝浦港を降りて,中村を経てひと山越えたところに法木集落があります。法木に入ったとたん家屋が大きく立派なのです。昔はかなりの裕福だったのでしょう。冠婚葬祭はすべて自宅で行ったとのことです。
 切妻型で妻入りの屋根下の破風が格子状のせがい造りは独特です。現在も10数軒残されています。また裏道に入ると、路地の両側にも板壁の民家が続きます。 
魚介料理がおいしい
 今は釣り客がほとんどです。また新鮮な魚料理を食べに来る人も多いようですが,船便も平日は1便に減りました。なお無料のレンタサイクルがあります。利用しない手はありません
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 飛島勝浦港から徒歩50分
 
 ○大山(おおやま)/鶴岡市大山
 
造り酒屋の町です
 鶴岡は作家・藤沢周平氏の出身地、また作品の舞台ではなかろうか、ということで観光客が一気に増えたそうです。しかし大山地区まで訪れる人は少ないようです。
 大山は城下町であると同時に、良質の米や水が取れることから造り酒屋が多く、最盛期には40軒以上もあったそうです。いまは4軒だけだそうです。またちょっと離れたところに旧鶴岡警察署大山分署の洋館がそのまま残されています。いまは地区の公民館として利用されています。ところで、大山はもとは尾浦と言ったようですが、慶長8年に大山と改称したそうです。
明治4年に大山酒を江戸(東京)へ売り込み開始
 江戸時代、大山酒の江戸への売り込みは酒造家にとって悲願でした。国学者・鈴木重胤(しげたね)と何回かの交流を重ねて、重胤の仲介で1796樽の酒を江戸に送りました。ところが浦賀番所で通船が許されず、庄内藩の御用酒としましたが、変酒が出て失敗したそうです。結局江戸(東京)への売り込みは、明治4年を待たなければなりません。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは出羽ノ雪酒造資料館に停めました
 
○加茂(かも)/鶴岡市加茂
 
小さな港町です
 大山からクルマで入りました。くねくねした道を通りながら小高い丘を超えて日本海沿いの道を走ります。しかし道は狭くとても走りづらいところでした。特に夏は海水浴客のクルマで、一歩町中に入るとすれ違うのもやっと、という感じです。
 加茂は港町ですが、歴史的建造物がいくつか残されています。写真は国の登録文化財の秋野邸です。加茂は狭いところに密集しており、すぐ山が迫ってくるのです。クルマでは走りづらいですが、逆にいえば歩きやすい町です。地名の由来は、顔港といった説や京都の賀茂にちなむという説もあります。
加茂湊は西回り北方航路の重要拠点
 江戸時代の加茂湊は、主に酒田湊に向かう船が食糧や水の補給や暴風雨からの避難を目的として寄港しました。また川口港が多い中で酒田湊の近海沿いにあった加茂湊は、西回り北方航路での重要な役割を果たしています。加茂の商人は主として鶴ヶ丘城下や大山町商人への中継ぎによって利益を得ていました。すなわち船中や船宿での廻船との商売は株仲間の独占でありました。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは国道沿いの小さな神社前に停めました
 
○手向(とうげ)/鶴岡市羽黒町手向
 
約1㎞の門前の宿坊街
 羽黒山の門前町です。羽黒山表参道の随神門から約1㎞の両側に宿坊(手向宿坊街)が連なっています。よく見る旅館街と違って,ゆったりとした感じで,結界のごとく綱が渡してあったりと,仏堂の宿,信仰の町並みという趣が出ています。
 随神門あたりを歩いていますと,白装束で山伏姿の団体客がどんどんと参道へ吸い込まれていきます。なお山頂までは歩いて約50分ぐらいです。ところで地名の由来は、ココから羽黒山、月山を遙拝したからという説、添川と国見の間だの峠にあたるからという説があります。
守護・地頭も手出しができない羽黒山
 鎌倉時代の羽黒山は守護・地頭らがむやみに入ることができず、なおかつ料田・福田を多数集積していました。料田(りょうでん)や福田(ふくでん)は、羽黒山で学ぶ者への寄進された田んぼのこと。ところが地頭の大泉二郎氏平(じろうしひら)は山内に無断で押し入ったとして、羽黒山衆徒から幕府へ訴えが出ました。これは源頼朝の山内安堵を侵害するものであるとの沙汰が出て、大泉二郎氏平を罰しています。
  
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大きな無料駐車場に停めました
 
○小国(おぐに) /鶴岡市温海町小国
 
小国城跡に隣接した宿場
 出羽と越後を結ぶ羽越を結ぶ山街道の宿場町です。ちょうど小国城跡に隣接しています。小国城は楯山と呼ばれる標高348.5mの山頂部に築かれています。出羽と越後の国境を守る山城であったのです。写真に見える民家の裏が小国城跡になっています。元禄15年(1702)の絵図には、道幅4間(約7.2m)、60軒の家々が描かれています。弘化元年(1844)の文書には、旅籠が6軒、茶屋が3軒とあります。町並みは,よく見ると切妻型で妻入りに統一されています。これは天知2年(1682)の大火の結果,その後の町並みが妻入り建物になったとか。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは小国城跡の無料駐車場(広場)に停めました
 
○鼠ヶ関(ねずがせき) /鶴岡市鼠ヶ関
 
改築、改装された大型家屋
 新潟県から県境を越えて山形県に入ると、家並みが一変します。1軒、1軒が大きくなるのです。間口も広くなりますし、家屋も豪華になります。大半の家屋が改築、改装されていますが、歩いていると出し桁や板壁などの往時の面影を見ることができます。これは同じ譜代大名でも、村上藩5万石と庄内藩17万石の違い(?)かなと思ったりしました(これは冗談ですが……)。
浜街道の宿場町を形成
 江戸時代は元和8年(1622)から庄内藩領で、浜街道(庄内-越後)が走り、宿場町を形成していました。

 ところでこの奇妙な地名の由来は、古代に念珠関があったことにちなむそうです。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○銀山温泉(ぎんざんおんせん)/尾花沢市銀山温泉
 
古くてモダンな旅館群
 銀山温泉は、積雪の日に撮るべきだ、とつくづく思いました。真夏は、結構ゴチャゴチャした部分が見えて、あまりきれいなものではありません。こんどは豪雪の日に行ってみたい。
望楼のある能登屋旅館本館は文化財
 江戸時代の初期に銀山開発の鉱夫が発見したと言われています。いまは銀山川沿いの両側に旅館が建ち並んでいます。現在4軒の旅館が、大正、昭和初期の姿を残し、さらにその周辺には多くの温泉宿が林立しています。そのせいかただ古いだけではなく、オシャレな感じがします。特に能登屋旅館本館(写真)は文化財に登録され、望楼が特徴的です。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
 ○大町(おおまち)/米沢市大町
 
伊達氏時代からの商人が活躍
 江戸時代は米沢城下の一町で町人町。もっとも上杉氏入封の慶長3年(1598)以前から町名として「六町市場」に記載されています。江戸時代の市場町として許されていたのは、粡町(あらまち)、東町、柳町、立町(たつまち)、南町とともに六町の一つ。この六町は伊達氏の支配時代に「ヨナサワ六町」と称され、米沢の全町数でもありました。それだけに歴史は古く、伊達氏時代からの豪商がいたのも事実です。
大町商人の富豪ぶりに目を見張ります
 困窮する半農半士と違い、大町の賑わいぶりは対照的ですらあります。毎月5,9,19、25、29日の五齋市が開かれていました。商人や職人も多く住み、酒造店も4軒あったといいます。文政9年(1826)の御普請に対して、町方の寄付金が『町奉行の日誌』に記載されています。それによれば、立町20両、東町9両、粡町22両とありますが、大町分はなんと67両となっており、大町の富豪ぶりがうかがえます。また『東講商人鑑』には米沢城下の商人36人中12人が大町が占めています。
ひときわ目立つ東光の酒蔵
 大町を歩いていますと、大きな酒蔵が見られます。東光の酒蔵といい小嶋酒屋です。当時は大町ではなく東町に居住し、宝暦7年(1757)に小嶋彌左衛門は藩や町への功労により町年寄となり、さらに士分としての扱いを受けています。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは酒造資料館・東光の酒蔵の駐車場に停めました
○米沢(よねざわ) /米沢市門東町
 
点在する歴史的建物
 米沢の場合,連なって歴史的建造物があるわけではありません。登録文化財の上杉記念館や吉亭などが知られていますが,それ以外に民家,商家,蔵など上杉城周辺に散らばっています。門東(もんとう)町は侍町の一つで、大手門の東側に立地する事が町名の由来だとか。また上泉主水なる武士が居住したことからという説もあります。事実、古文書には主水町という文字も見られます。
会津120万石が米沢30万石に転封
 会津120万石の上杉景勝が,関ヶ原の戦いで西軍に味方したために30万石に減らされた上に,米沢に移されたのです。以後,藩の立て直しに,歴史は移っていきます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは上杉城史苑の無料駐車場に停めました
 
○芳泉町(ほうせんまち)/米沢市芳泉町 
 
   
▲伊藤家/『坂氏続伊藤氏系図』の筆者・光包は元禄2年養子となる ▲後藤家(旧針重家)/藩士・針重幸主は安政4年この家で誕生
   
▲南部家/御扶持(ごふち)方で南部ゑいの生家  ウコギの垣根/上杉鷹山が推奨!芳泉町はすべてヒメウコギです
下級武士を中心にした半農半士の町
 芳泉町は六十在家町(ろくじゅうざいけまち)、窪倉町(くぼくらまち)、長手新田町(ながてにいだまち)の3町が明治に入って合併してできた町です。江戸時代はそれぞれ米沢城下の一町で、寛文4年(1664)米沢藩が減封され、6000人以上の家臣とともに米沢に移住。城下に収容できず、原方衆(原方奉分人)として、各地に半農半士としての生活を送ります。これらの郷士集落は薩摩の麓集落をのぞいて他に例を見ないほど特異といえます。
貧しくとも誇りを持って生きていく……
 半農半士としての生活の様子は、多くの著作が残されています。身分は武士でも、貧しい農民と変わらない暮らしのなかで、誇りを持って生きている様子が描かれています。芳泉町は3町合わせて、175軒、795人で、最大の集落・六十在家町の芳泉学校より名付けられそうです。
食用を兼ねたウコギの垣根を上杉鷹山が推奨
 通りを歩きますと、手入れの行き届いた植栽が連なり、茅葺き屋根の古民家が点在します。植栽はウコギ科のヒメウコギといい、春から初夏にかけて新芽がおいしく、天ぷらやおひたしなど様々な調理法で食べることができます。米沢藩9代目藩主・上杉鷹山がウコギの垣根を積極的に推奨したそうです。垣根をせいか清潔感のある町並みでもあります。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 
○米沢南原(よねざわみなみはら)/米沢市南原石垣町
 
半農半士の面影
 上杉家が30万石に減らされたために,家臣たちは困窮を極めました。そのため普段は農業を営むという半農半士の生活を送ったのです。 茅葺き屋根のある建物,石垣,庭木などの植栽。当時の典型的な郷士集落の面影を見ることができます。町並み自体は,一部は生け垣に変わってブロック塀などに変わったりしています。また屋敷林に囲まれているのも特徴
短冊形の地割り
 明治に入ると、旧藩士たちは畑と養蚕で生計を立てることになります。短冊型の地割りを持つ、線状集落といってもいいかもしれません。いわゆる路村にあたります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○大沢(おおさわ)/米沢市大沢
 
   
▲改装前の茅葺き屋根はどのような仕組みだったのでしょうか ▲板谷街道沿いを歩きますとポツンポツンと古民家が点在します 
スイッチバックの遺構が見られる鉄道ファンの聖地
 大沢はごく平凡な過疎の集落。茅葺き屋根の家屋が板谷街道沿いに点在します。しかし鉄道ファンには聖地の一つです。明治39年に導入された鉄道施設・スイッチバックの遺構が見られるのです。難所の板谷峠を越えるため、蒸気機関車の進行方向を逆転しながら越えて進みます。遺構だけあって、今は使われていません。その横を山形新幹線が勢いよく通過します。豪雪地帯にある大沢駅は、1日に3人程度の乗降客のいる無人駅。スノーシェルターですっぽり覆われています。
江戸時代は板谷街道の宿場町でしたが……
 江戸時代は米沢藩領。置賜(おきたま)郡の上長井地方に属していました。上長井には45ヶ村もあったそうです。大沢はそのうちの一つ。文化年間(1804-18)には、それでも22軒、221人が住んでいました。板谷街道の宿場町として栄えました。板谷街道は福島市と山形県上山市を結ぶ街道で、板谷峠を越えることから呼ばれましたが、一般的には米沢街道です。いま歩いていても、宿場の雰囲気はまったくありません。救われるのは、茅葺き屋根の古民家が残されていることです。大部分は空き家状態ですが、何やらホッとします。
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 
 ○小野川温泉(おのがわおんせん)/米沢市小野川町
 
   
▲扇屋旅館/築120年で多くの文豪が宿泊しています ▲二階堂旅館/自炊湯治もできる貴重な旅館です 
   
▲尼湯/熱々の共同浴場で適温が42度と前後と明記されています  平安時代の歌人・小野小町が旅の途中で病を癒やしたとか 
歌人・小野小町が地名の由来とか
 承和年間(834-48)、歌人の小野小町が父・小野良実(おののよしざね)の赴任先・出羽郡司を訪ねる途中、病に倒れ、この地の温泉で体を癒やしたといいます。ただ父親は郡司ではなく国司ではないかという説もあります。いずれにせよ、小野小町が地名の由来とされています。
伊達政宗が重臣を引き連れての作戦会議!
 天正17年(1589)、仙台藩主・伊達政宗が小簗川盛宗(こやながわもりむね/泥蟠は晩年の号)や富塚近江らの重臣や一家衆を伴って来湯。湯治を楽しみながら今後の策を練っていたそうです。
江戸時代は米沢藩領
 はじめは蒲生氏領で、慶長3年(1598)上杉氏領、慶長6年(1601)米沢藩領と変遷します。上長井を形成する45ヶ村のうちの一村で、さらに周辺の17ヶ村を加えた53ヶ村で、村高の合計は6万5246石でかなり豊かであった想像できます。いまの米沢市を中心にした広域にあたるようです。
「ヤケドに注意!」の張り紙に仰天
 小野川温泉の中心地に尼湯があります。昔からある共同浴場の一つで、誰でも利用できます。壁の掲示板に「熱い! ヤケドに注意」、「飲めません!」の注意書きが朱文字で明記されています。かなり熱い湯ですが、近年高齢化に伴い適温がますます高くなってきているとか。歩いていますと、レトロな旅館も見られます。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは旅館組合駐車場に停めました
 
○白布温泉(しらぶおんせん)/米沢市関 
 
   
▲温泉街とは思えない静かな町並みで、古民家も見当たりませんでした 
茅葺き屋根の西屋は江戸末期の建築物
 大樽川沿いに位置する温泉。白布高湯ともいいます。蔵王温泉(山形市)、高湯温泉(福島市)と並び「奥羽三高湯」ともいい、古から湯治場として知られています。そして白布温泉といえば、茅葺き屋根の母屋が残る西屋旅館(写真)。文政12年(1829)ごろの建築で、米沢市景観重要建築物一号に指定されました。ほかに東屋、中屋も茅葺き屋根でしたが、火災にあったり屋根葺き職人が引退したりで、いまは西屋のみになりました。
ごく普通の温泉街でした
 いま町を歩いてみますと、温泉街と思えない静けさです。湯治場としての歴史を物語っているからでしょう。西屋以外に、これといった古民家は見当たりません。ときおり木造の板壁の民家が見られる程度。
米沢藩の保養地で武器製造地でもありました
 戦国時代は関村。はじめは蒲生氏領、慶長3年(1598)上杉氏領、江戸時代の慶長6年(1601)から米沢藩領となります。村高は慶長年間(1596-1615)『巴鑑』によれば559石、96軒、367人と意外に多い。湯治場でもあったからか。また米沢藩の保養地としても親しまれたそうです。また上杉景勝の家老・直江兼続(なおえかねつぐ)は鉄砲職人を呼んで、ひそかに火縄銃1000丁を造ったそうです。保養地と銃工場が隣合わせというのも兼続の策士たるゆえんか。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○中小松(なかこまつ)/川西町中小松 
 
   
▲樽平酒造/主屋や蔵、掬粋巧芸館など7棟が国の登録有形文化財 
   
▲新山神社/小松城跡の土塁が少々  ▲小松城跡/今は町民の運動公園
南北朝時代から続く歴史ある地名
 南北朝時代(1337-92),浄土真宗の僧・存覚(ぞんかく)の著書『存覚袖日記』に小松という地名が見られます。その後、上、中、下と三分割され中小松が誕生したと思われます。実に歴史のある地名なのです。
戦国時代・小松城の戦いの跡
 中小松公民館横に広大な空き地が見られますが、ココが小松城跡です。天文の乱(1542-48)後、小松城は伊達氏の家老・牧野久仲に与えられました。牧野久仲は伊達氏の重臣・中野宗時の子でもあります。元亀元年(1570)4月4日、中野宗時は伊達氏に背き、牧野久仲の小松城に籠城。翌日の5日には討伐軍の攻撃を受け、宗時・久仲父子は城下を焼き、相馬方面に逃亡しました。いわゆる小松城の戦いです。いまは町民の運動公園として利用されています。
江戸時代は越後街道の宿駅でした
 樽平酒造の酒蔵や主屋の一部でもある茅葺き屋根の古民家が見られます。観光地でもなく、東洋美術品を集めた掬粋(きくすい)巧芸館は休館中。そのせいか人影もなく、まったく静かな町並みでした。江戸時代、越後街道の宿駅、在郷町として栄えました。米沢藩内では11カ所の馬市が開催され、中小松もそのひとつ。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは掬粋巧芸館の駐車場に停めました
○中(なか)/飯豊町中 
 
   
▲天養寺観音堂/往時を彷彿させる絵馬が残されていて大寺院でした ▲江戸時代から治水、利水、開墾が盛んに行われたことで発展 
地名の由来は伊達氏の家臣・中村日向守が居住
 戦国時代から続く集落です。地名は伊達氏の家臣である中村日向守が居住していたからという。最上川上流の置賜白川の左岸に位置する郷(中村郷)。郷内には5人の所領を下賜された地頭がいますが、特に我妻備中は、数々の税金、役が免除されていたとか。
江戸後期から明治にかけて散居集落が成立します
 江戸時代は慶長6年(1601)から米沢藩領となります。ただ江戸時代初期はまだまだ散居集落の様相は見られません。いま判明していることは、江戸時代初期にあった1軒の家が、江戸中期に2~3軒に分家し、さらにその後江戸後期から明治にかけて、それぞれの家がさらに数軒を分家していくことで広がりました。つまり、現在見られるこの地の散居集落は江戸中期から明治にかけて成立したと考えられます。
暴れ川の治水・利水が進んだ結果、集落が発展します
 多くの分家が可能になったのは、扇状地で各所に暴れ川が流れ、大部分の土地が湿地化していました。そのような土地を地頭たちが、堰を開発し堀を巡らせ、治水・利水が進み、その結果水田が広がり、多くの分家が可能になったと思われます。このように江戸時代の活動が、散居集落を発展させる原動力となったのです。
ホトケヤマ展望台から見られる散居集落
 散居集落を展望できるホトケヤマ展望台に向かいます。クルマは入口近くの専用駐車場に停めます。ただこの日はかなり疲れていて頂上まで登る元気もなく、途中の展望台から撮影しました。水田のなかに屋敷林が点在する光景はハッキリと確認できます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは無料の専用駐車場に停めました
 
○高畠(たかはた)/高畠町高畠 
 
   
▲切妻型の大型民家も点在します  ▲歩いていると蔵が目に付きます 
   
▲旧高畠駅/国の登録文化財  ▲まほろば通り/景観形成の地域 
村高が2000石を越え、各付け上々の村
 江戸時代は慶長6年(1601)米沢藩領、その後幕府領、高畠藩領、天童藩領、再び幕府領となり慶応2年(1866)に米沢藩領に戻り幕末を迎えます。慶長年間(1596-1615)の村高は1850石、宝永3年(1706)には2586石で、村格付けでは上々となっています。
商品経済の波と飢餓の襲来
 そして、大町や横町の新興商人たちの活動がめざましく、商圏の奪い合いが始まったりもしたとか。というのも、江戸中期以降、高畠村は商品経済の波に乗って商業がいちじるしく発展。幕府領の村であったことと、二井宿街道で結ばれた仙台藩領と至近距離であったことが発展の理由とか。でもいいことばかりではありません。宝暦年間(1751-64)には何度も飢餓に襲われています。
蔵などの古民家が点在する「昭和縁結び通り」
 屋代川左岸に古から横町や荒町、右岸に元町や大町など古から町並みが形成されていました。厳島神社周辺にはレトロな建物が残り、“昭和ミニ資料館ぶらり散歩”と称して散歩コースが設定されています。蔵など古民家も目に付き、“蔵の町”を形成しています。これを総称して「昭和縁結び通り」と呼んでいます。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは高畠ふれあい市会場の駐車場に停めました
 ○糠野目(ぬかのめ)/高畠町糠野目
 
   
▲米沢街道沿いに残る古民家 ▲大型の入母屋造も見られます 
歴史のある集落です
 戦国時代は奴加濃女(ぬかのめ)郷とも書きました。天文22年(1553)、小簗川尾張守、遠藤十郎衛門ら7人の土豪に所領を下賜しており、幾つかの諸役を免除されていました。
米沢街道の宿場町で水陸の交通の要所
 慶長3年(1598)上杉氏領、慶長6年(1601)米沢藩領で、糠野目村の村高は2000石前後とかなりの穫れ高を示しています。このほか紅花や綿を産出。特に養蚕は金額ベースで317両にも及ぶと言うからスゴイ。というのも上山城下と米沢城下を結ぶ米沢街道の宿場町で交通の要所でもありました。また最上川の河川港でもあり、糠野目船場ともいいました。藩の御用米の蔵が並ぶなど、水陸ともに交通の要所。ただ糠野目村の弱点は山林が無いことで、薪、萱などは他村で確保していたとか。米沢街道は奥州諸藩の参勤交代コースから外れるので、主に米沢藩の役人や藩士、幕府の役人、旅人が中心。
後藤酒造店を中心に広がる古民家群
  歩いていて最初に目に付くのは、後藤酒造店の建物です。『辯天』の銘柄で知られており、創業は江戸時代の天明8年(1788)です。酒蔵や事務棟など、古民家群が見られます。街道沿いには、大型の入母屋造りが見られ、以前は茅葺き屋根であったことがわかります。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 
○二井宿(にいじゅく)/高畠町二井宿 
 
   
▲二井宿沿いに古民家群。二井宿街道は奥羽山脈越えで最も古い街道と言われています。別名、仙台街道とも呼ばれています 
伊達氏16代当主・伊達輝宗が2度も攻めてきた
 古くは新宿とも書きました。新しい宿場という意味です。屋代川上流の山間部に位置します。戦国時代から各種文書に見られる歴史ある集落。天正2年(1574)5月7日、伊達氏16代当主・伊達輝宗(てるむね)は、最上氏攻略のため当地へ出馬、同年6月9日には帰陣しました。ところが7月25日、再び当地に出馬したそうです。
百姓の惣代・高梨利右衛門が訴えで処刑……
 江戸時代、置賜郡と仙台藩領とを結ぶ二井宿(仙台)街道の宿駅にあたり、米沢藩政下には御境番所1カ所と藪口番所2カ所が設けられましたが、幕府代官支配移行に伴い廃止されました。この幕府への預かり地移行の原因に、当村の肝煎・高梨利右衛門が百姓の惣代となって、米沢藩の悪政ぶりを幕府の信夫(しのぶ/福島県の北部)陣屋に訴えたと言う説があります。しかし利右衛門が米沢藩に処刑されたのは、抜け荷の罪を受けたためともいわれています。江戸中期以後、利右衛門は義民とされます。
古民家に通販専門の企業が入居
 人気の無い静かな集落です。ところが集落内で最も大きな古民家に賑やかな人の声がします。(株)タフライトという、通販専門の土壌改良材、飼料添加物などの製造・販売会社が入居しているのです。通販ならどんな過疎地でもOKということですね。
大屋根に突き出た棟飾りが個性的です
 歩いていますと大型の古民家が点在していることに気づきます。特に大屋根の両端の棟飾りです。そんなに派手ではありませんが、突き出した棟飾りは個性的です。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○あら町(あらまち)/長井市あら町 
 
   
▲斎藤家住宅/国の登録有形文化財  ▲山一醤油店店舗/国登録文化財
   
▲やませ蔵美術舘/紬問屋の蔵を利用  ▲旧羽前銀行長井支店/昭和9年築 
   
▲旧桑島眼科医院/昭和2年築・本町 ▲旧小池医院/昭和6年築・本町
越後から織師を招き、絹織物の発展の基礎を築きます
 江戸時代、慶長6年(1601)からは米沢藩領で小出村(こいでむら)といいました。村高は2000石前後とかなりの穫れ高。安永5年(1776)、藩主の上杉治憲(鷹山)が産業奨励のため、小出村の肝煎・横沢忠兵衛を越後に派遣し、織師を招き、横沢宅に生産場を設け縮布(ちぢみぬの)を製造。絹織物の発展の基を築きました。
『東講商人鑑』には“粡町(あらまち)”の名が見られます
 江戸時代末期、東北地方へ旅する人向けに発行された『東講商人鑑』(あづまこうあきんどかがみ)には、多くの商人の名が記載されています。とくに「本町、川原町、粡町(あらまち)、粡館」のが見られます。そして粡町に商店が集中していたとことが知られます。
あら町通りには歴史的建造物が連なります
 明治に入って、小出村は宮町と合併し長井町となります。以後離合集散を繰り返し、昭和29年に長井市へと発展するのです。いまあら町を歩きますと、歴史的建造物の連なりが見られます。特に茅葺き屋根の斎藤家住宅は見応えたっぷり。また幾つかの近代建築もあって、飽きることはありません。
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマはお買い物本町駐車場に停めました
○成田(なりた)/長井市成田 
 
   
▲羽前成田駅/国の登録文化財・現山形鉄道フラワー長井線・大正11年築 
江戸時代、下長井西街道沿いに街村が成立します
 江戸時代、成田村は慶長6年(1601)から米沢藩領で下長井西通に属します。慶長年間(1596-1615)の村高は1600石ですが、その後増えていきます。集落も下長井西街道に沿って“街村”をなし、比較的構えの大きい家が連なります。特に豪農・佐々木宇右衛門家は藩主一族の鷹狩りなどの遊猟のときの指定本陣ともなっています。
一時期、養蚕が米沢藩の70%を有しました
 養蚕が盛んな一方、当村の飯沢半右衛門は文政年間(1818-30)から紬織りの改良振興に専念します。越後・十日町(現・新潟県)、下総結城(現・茨城県)に出向き、技法を伝えました。その結果、問屋を命じられました。
鉄道と電気の開通、駅の開業で町はにぎわいます
 大正3年11月15日、国鉄奥羽本線赤湯駅から長井軽便線が長井駅まで開通。同時に山形電気(株)から電気を購入することで、長井町営電気事業が一段落。つまり鉄道の開通と電灯の導入で、町はたいへんな賑わいを見せました。片田舎に過ぎなかった長井盆地に文化の波が広がり、舟運は鉄道に、ランプは電灯に姿を変えました。当時の写真を見ますと、「祝開通」の文字の入った歓迎ゲートが華やかです。
大千醤油店の板塀が往時の面影を残しています
 駅前広場から大千醤油店にクルマで移動。文政年間(1818-30)は米沢藩御用達の紬(つむぎ)問屋で創業。いまの醤油醸造業に転身したのは明治27年です。旧道(現・県道9号線)沿いに板塀がかすかに往時の面影を残しています。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは大千醤油店の駐車場に停めました
 
○楢下(ならげ)/上山市楢下 
 
 
▲県の有形文化財・滝沢屋脇本陣   ▲街道沿いには改築された古民家 
●羽州街道沿いの宿場町でした
 古くは奈良下とも書いたとか。中世の末期から交通の要衝でしたが、羽州街道の宿場町として慶長7年(1602)に成立しました。しかし宝暦7年(1757)の大洪水で、全村が流失。その後の10数軒の旅籠屋などが復旧、宿場町としての姿が見えてきます。楢下村は出羽国の最南端の宿場町で、本陣を世襲した斎藤利兵衛家は、もと最上家の家臣でした。出羽・陸奥両国の境目(国境い)預かりをつとめていましたが、帰農して本陣問屋を勤めています。参勤交代で利用した大名は大小合わせて13を数えました。これはかなり多い方です。そのため助郷を含め、住民たちの負担はかなり大きいといえます。
茅葺き屋根の古民家も残ります
 いま旧道を歩いて見ますと改築された古民家が点在します。また裏手には茅葺き屋根の民家もあって、往時を偲ばせます。明治時代に造られたアーチ敷きの石橋も元気に残っています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは脇本陣横の無料駐車場に停めました
 
○五十沢(いさざわ) /村山市五十沢
 
茅葺きもかつての半分に減少
 村山市は茅葺きの里,として売り出したいそうですが,やはり年々減少しており,5,6棟程度しかありません。最盛期には,20戸のうち15戸が茅葺きであったことを考えますと,消滅するのは時間の問題と言えます。どこでもそうですが,維持,管理するには,個人の力ではどうしようもないところまできているのです。それでも点在する風景を見ていますと,心が温まります。
五十沢川沿いの小さな集落
 山形盆地の北東部、五十沢川の上流に位置する小さな集落です。江戸時代の村高は600石弱で人口110人ほど。地名の由来は、山間部に多くの沢があることにちなむそうです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○大石田(おおいしだ) /大石田町大石田
 
   
▲かつて豪商も多く存在した  ▲大板そば(わら口そば/850円) 
山の中にある港町
 山の中にある港町です。最上川舟運の港町として,河口の酒田とともに発展した町です。問屋,船大工,宿など集まり,鉄道が開通するまで栄えました。村高も1000石をはるかに超えるなど、かなり賑わっていました。蔵の店なども残っています。
最上川の洪水との闘いの歴史
 町の発展を妨げるのが最上川の洪水です。江戸時代は水難防止を願った社寺が建立。まさに水害との闘いの歴史でもあります。これは明治に入っても変わることなく、依然として洪水対策は町の重要な施策でもありました。 そんななかで、たとえ木造でも最上大橋を架け国鉄奥羽南線(現・奥羽本線)が大石田駅まで延伸したのは大きな出来事でした。製糸工場の設立など人口は一気に増えます。
歌人・斎藤茂吉が滞在し多くの歌を残す
 戦後まもなく、歌人・斎藤茂吉が2年間滞在しています。大病を患い、回復するまで最上川を中心とする大石田の風物を、多くの短歌に詠んでいます。茂吉の住んだ聴禽書屋(ちょうきんしょおく)も現存。
 「しずかなる秋の光となりにけりわれの起臥せる大石田の恩」
 の歌を残しこの地を去りました。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○金山(かねやま) /金山町金山
 
   
▲白壁と梁の組み合わせを生かした真壁工法です  ▲週末は近郊近在から多くの人がやってきます 
景観づくり100年運動
 山間部の小さな町に、突然蔵や歴史的建造物が見られるのに驚きました。清潔感のある家並みが続き、歩いていても気持ちがいいのです。金山は「街並み(景観)づくり100年運動」を行政が積極的に行っています。新築や改造する家には、補助金がでます。その条件は、白壁と切り妻屋根を持ち、地元の木材を使う「金山型住宅」を建てることです。堰に沿った遊歩道も、街並み造りの一環として整備されています。
藩の植林政策「御判紙林」が生きる
 江戸時代は羽州街道の宿場町として交通の要衝。参勤交代が制度化されてから一気に発展しました。宿場町という立地から次第に有力な商人が輩出しました。村々の百姓たちが、藩の許可を得て杉の生育に力を入れ、「御判紙林」と称し盛んに植林を行ないました。これらの山林を豪商や豪農たちに集積され、今日の美しい美林に育ったというわけです。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 


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