和歌山県(わかやまけん)

○雑賀崎(さいかざき)/和歌山市雑賀崎 
 
   
 ▲バイクならギリギリ通れます  ▲路地を上ると寺院にぶつかります 
幅1m未満の迷路の町
 ちょっと驚きました。幅1mの道路が迷路になっているのです。郵便局も床屋さんもお寺も用品店も乾物屋さんも店先はすべて狭いのです。古い家も新しい家もごちゃごちゃに混じっています。建築中の家がありました。トラックは海岸に停めて、そこから資材を運ぶのです。
ほとんどが漁業で生計をたてる
 もともと急斜面に密集して集落が作られてきました。ほとんどが漁業で生計を立てています。江戸時代は和歌山藩領。村の西側の海は荒磯で魚が集まるため、城下からの釣り客で賑わいました。またこの集落だけで、200隻余の持ち船があったそうで、典型的な漁村です。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 和歌山市駅前からバス30分雑賀崎下車5分
 
○古佐田(こさだ)/橋本市古佐田 
 
往還稼ぎで対立が激化
 天正年間(1573-92)にはすでに高野往還の宿所が形成。紀ノ川の橋もあったとか。江戸時代は伊勢街道の宿場,紀ノ川を利用した水運の要衝でもありました。そのため小佐田村の住民は橋本町、東家村などとともに往還稼ぎに従事する者が多く、特に橋本町とともに伝馬御用の特権を得ていました。ところが五篠村(奈良県)から旅人を船に乗せて紀ノ川で運んだために、橋本町や古佐田村の往還筋の稼ぎが減少したことで奉行所に訴え出ています。
旧料亭,商家,旅籠……
 いま迷路のような町並みで,かつて料亭,旅籠,問屋などが混然一体となっています
。ときおり妓楼らしき建物も見られます。かなり賑わった集落だったと思われます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 南海高野線橋本駅から徒歩3分
 
○紀見峠(きみとうげ)/橋本市柱本 
 
東高野街道沿いの峠集落
 古老は「きいみとうげ」とも言います。近世以降の高野街道は,現在の国道371号に沿って南下し,紀ノ川を越えました。いわゆる東高野街道(京街道)と呼ばれ,京,大坂方面からのメインルートです。紀見峠は和泉山脈のなかで最も低い位置(標高380m)にあったからです。
 入口にあたる紀見峠は,慶安年間(1648~1652)に和歌山藩が伝馬所を置くことで,峠集落ができ,発展しました。
地名の由来は紀州の国が一望できるからとか
 紀見トンネルを避けて国道371号線に入り,バス停紀見峠付近で脇道に入ります。土蔵などの町家が少し残っています。地名の由来は、紀州の国を一望できるからとか。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○高野口(こうやぐち)/橋本市高野口町 
 
   
▲前田家住宅/江戸時代後期築。大庄屋で薬種商を営む。国の登録文化財  ▲旧葛城館/ガラス張りの旧旅館で明治時代後期の建築と推定・国登録文化財 
黒漆喰の壁が残る旧豪商
 参拝者の通う高野街道と大和街道の交わるところにあるために、昔から栄えた町です。いまでも街道沿いには、黒色の土蔵造りの商家が残っています。黒漆喰はかなりの豪商の証だったと思われます。
国の登録文化財の葛城館と前田邸
 高野口駅前には、木造三階建ての旧旅館・葛城館が立ち、大和街道沿いには、江戸時代から続く旧家の町家・前田邸が残されて、貴重な資料が展示されています。しかし大正末期、南海鉄道の開通後、高野山参拝道としての機能が薄れ、衰退しました

 訪れた日は猛暑、しかもJR和歌山線の車両は冷房がきかず、扇風機が熱風をかき回している状態でした。本当に暑かった! 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR和歌山線高野口駅から徒歩10分
 
○紀伊清水(きいしみず)/橋本市清水 
 
   
 ▲旧道沿いに幾つかの蔵が残ります
予想以上に古い建物が残されていました
 特急の停まらない駅なので、訪れる人もなく、ひっそりとした町です。予想以上に古建築が残されていました。JR橋本駅からだと徒歩30分の距離です。とりあえず紀ノ川沿いを歩きました。暑さで倒れそう。
ふるさと建築景観賞受賞
 高野街道沿いの町で、重厚な屋根瓦、落ち着いた格子戸の光景が心を落ち着かせます。ほとんどが町家で、ところどころに土蔵造りの商家が見られます。生け垣も美しく、「和歌山県ふるさと建築景観賞」を受賞していました。さて中世の時代から高野山参拝者で賑わい、高野街道の宿駅でした。地名は常に清水を湧出するからとか。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 南海電鉄紀伊清水駅から徒歩10分
 ○真土(まつち)/橋本市真土
 
残された古民家群
 橋本駅前の観光案内所で初めて知りました。たまには寄ってみるものです。それにしても列車,バスの本数が少なく,そのうえ駅からかなり離れているのです。隅田駅から寂しい山道を抜けると,意外にも格子窓のある町家がズラリと残されており,うれしくなってきました。
紀州藩と松阪藩の連絡路沿いの集落
 伊勢とつなぐ伊勢街道(大和街道)が集落を通り,伊勢参りの参宮道として賑わいました。中世は大和・興福寺の支配下にあったようです。江戸時代の初期は小さな宿駅だったとか。また紀州藩の参勤交代や松阪藩への連絡路としても利用されました。古くは大和国と紀州国の境の地として、万葉集など数多く歌われました
。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR和歌山線隅田駅から徒歩20分
 
○九度山(くどやま)/九度山町九度山 
 
NHK大河ドラマ『真田丸』の舞台
 町を歩いていますと,「真田の里」と書かれたピンク色の幟が目立ちます。関ヶ原の戦いの後に,真田昌幸・幸村親子がこの地に身を寄せていた関係で,町おこしのシンボルとなっています。昌幸の墓が善名称院にあり,真田庵と呼ばれています。
蔵造りの商家や旧旅籠屋なども残る
 また弘法大師が槙尾山神社に九度も詣でたことから名付けられたとか。中・近世は高野山詣での参詣路の一つが通る宿場集落でもあったのです。その集落も南海電車の開通で寂れました。蔵造りの商家,旧旅籠など古民家が残っています。 
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 南海高野線九度山駅から徒歩15分
 ○名手(なて)/紀ノ川市名手市場
 
旧紀州藩名手宿本陣は国の重要文化財
 奈良と和歌山を結ぶ大和街道沿いには、いまでも多くの古い町並みが残されています。この名手もその一つです。平安時代からある村名。国の重要文化財に指定されている旧紀州藩名手宿本陣(無料)を中心に100mほどに、商家や町家が残されています。
大規模な復元改修された名手本陣
 名手本陣は、大正時代に一部改築されたり、その後大規模な復元改修をされていますが、ほとんどが往時のままです。訪れた日は、たまたま祇園祭で、あちこち提灯が下がっていました。なお古代の歴史本には「右手」、「石手」なる名が出てきますが、写本の誤りではないかと江戸時代の歴史家に指摘されています。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 JR和歌山線名手駅から徒歩5分
 ○黒江(くろえ)/海南市黒江
 
   
▲格子「紀州連子格子」のある町家が軒を並べています  ▲板張や土蔵など商家としての町並も見られます  
京風格子のある町家
 一本裏に入ったところに古い町並みがありました。昔はこのあたりまで堀が迫っていたそうです。そして多くの各種職人が住んでいて、海運を生かして上方地方と交流がありました。格子の町家は、なにやら京風のようです。また、地割りがノコギリの歯のようになった町家も、この町にありました。ノコギリに歯形の地割りは,いろんな説があるようですが、全国各地に見られます。
黒江商人が上方、江戸、四国へと販路を広げる
 江戸時代は小さな港町で、廻船問屋などが上方と取引が細々と続いていました。しかし渋地椀(下地に柿の渋とスス会わせたを塗る)の製造が本格化するにつれ、木工、折敷(おしき)類などを扱う多くの職人がやって来ました。人口は一時期3000人を超える大きな集落に発展。折敷とは、食器などを載せる四角い木製お盆のことです。黒江塗りとして、上方以外に江戸、四国へと販路が広がりました。黒江商人が活躍したころでした。
地名の由来は諸説紛々
 地名の由来は、黒い牛に似た石がある入江という説、潟が土砂のため黒く見えるという説、潟から見える山が黒牛が伏せているように見えるからという説など、諸説あります。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○塩津(しおつ)/海南市下津町塩津
 
   
▲急な石段が続く塩津集落 
急坂・石積みに木造3階
 藤白山脈の北斜面に密集。急な石段の両側に板張の古民家が建っています。なかには木造3階建てもあって、見応えのある古民家群です。江戸時代から他領への漁業が盛んでした。
諸国廻船の寄港で賑わいました
 瀬戸内方面に水運も開けており、多くの村民が従事。また天然の良港のため、諸国廻船の寄港で賑わいました。そしてなにより、和歌山城下への直通船が通い、常に賑わいを見せていました。 
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは塩津漁港駐車場(1日510円)に停めました
 
 ○阪井(さかい)/海南市阪井
 
   
▲山本家住宅/国の登録文化財  ▲国道沿いに古民家が点在します
石高7000石分に及ぶ新田開発
 坂井、堺とも書きました。南北朝時代から秀吉の紀州攻めに至るまでの間は粉河寺の支配下と推測。江戸時代は和歌山藩領。藩直営工事による亀池の築造で、当村を含む10ヶ村340余町歩、石高7000石余の田を灌漑したそうです。
江戸末期、百姓一揆が勃発
 寛延4年(1751)の年貢免状では村高940石余。江戸末期の文政6年(1823)になると紀ノ川流域の百姓一揆に際し、亀池周辺でも一揆が発生しました。いま古民家は、阪井郵便局近辺と国道370号線沿いに散見されます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは阪井郵便局のお客さま用駐車場に停めました
 
 ○金屋(かなや)/有田川町金屋
 
有田川沿いの小集落
 町並みを探すのに苦労しました。国道480号線からさらに有田川寄りにひとつ裏手に入った道を探しましたが見当たらず、さらに川沿いへ一つ裏手に入った路地のような旧道に残っていました。中世以来、鋳物師が多く住んでいたところで、地名の由来もそこからきています。
石積みと板壁の古民家が点在
 江戸時代は旧金谷村で村高は約450石。わずかな土地での稲作、傾斜地でのミカン栽培で生計を立てていました。集落の中央に上方から熊野への脇往還が通ります。旧道を歩いていますと板壁の古民家が点在しており、他の道路沿いの光景とは別世界。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは交番横の空き地に停めました
 
○湯浅(ゆあさ)/湯浅町湯浅 
 
   
▲地元野菜の無人販売も見られました  ▲美しい町並は心に残ります 
土蔵と町家が一体
 歴史的な建物がかなりまとまって残っています。ちょうど訪ねたとき、朝日新聞記者が、町の再生・保存に力を入れてるボランティアグループを取材しているところにぶつかりました。
重要伝統的建造物群保存地区に選定
 元々、湯浅は日本の醤油醸造の発祥の地として知られています。またみその醸造も盛んで、蔵造りの建物が多いのもこのためです。土蔵と瓦葺きの町家が一体となった町です。長年、住民たちによる重要伝統的建造物群保存地区選定への運動が実って喜んでいるとか。

 地名の由来は、古名の「湯傘」(ゆかさ)が転訛したという説がありますが詳細は不明。 
感動度★★★★
  もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは酒蔵見学者用の無料駐車場に停めました
 
○道町(どうまち)/湯浅町湯浅 
 
   
▲蔵造りの商家など町家が続きます  ▲立石茶屋/熊野古道沿いにある 
熊野古道沿いの集落です
 町内を南北に貫く熊野古道を、この辺りでは道町通りといいます。道町は島内、鍛冶町、中町、浜町など市街地12町の1つで、陸上交通の要となったところです。
銅板壁の町家が並ぶ
 道町通りを歩いていますと、銅板壁や看板建築など、“伝建地区”よりもやや新しい建築が目に付きます。いわゆる近代木造建築というべきか。ただ土蔵などの古建築は壊されていく運命のように思えます。
 
  感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは湯浅町営駅前駐車場(1時間100円)に停めました
○栖原(すはら)/湯浅町栖原 
 
   
▲漁村特有の迷路のごとく狭い道  ▲栖原家旧邸/荒れる国登録文化財 
江戸時代に北洋漁業開拓に活躍した栖原家
 古くから漁業が盛んで、北洋漁業の開拓者・栖原家は遠く関東から樺太沖まで漁場開発に出かけました。その間、千石船で往来し活躍したそうです。また江戸・日本橋に出店(書房・須原屋)した豪商・北畠氏もいました。大活躍した栖原家主屋が、国の登録文化財にもかかわらず、荒れ放題とは残念です。
水路に沿って古民家が広がる
 町を歩いてみますと、網の目のように用水路が造られており、その流れに沿って古民家群が形成されています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマはJA有田マルス共選所の駐車場に停めました
 


                             ▲ページの先頭にもどる

○広(ひろ)/広川町広
 
   
▲旧家を思わせる大型の町家も多い  ▲下見板張が続き庇が突き出ています 
   
▲濱田家住宅/本宅は1707年築、本座敷は1820年築、三階建/1908年築   ▲稲むらの火の館/津波防災教育センターと濱口梧陵の記念館を兼ねる 
   
▲東濱口公園/旧東濱口家の庭園の一部を開放していいます  ▲いたるところに虫籠窓や格子のある町家が続くので飽きません
濃密な古民家群
 黒江(海南市)や湯浅(湯浅町)に勝るとも劣らない町並みです。古民家群としては、濃密なかたまりといってもいいでしょう。歴史は古く平安時代から広荘という名の荘園が記録されています。
漁業の範囲は房総半島かた五島列島まで
 江戸時代の村高は1500石にのぼり、人口も2000人弱と言うからかなり大きな集落。漁業の範囲は房総半島から五島列島まで広い。また醤油の製造も盛んで、濱口家は銚子(千葉県)にまで進出していました。町を歩きますと、旧家を思わせる商家、土蔵、切妻型の町家などがぎっしり並び、さながら古民家の博物館のようです。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは稲むらの火の館駐車場に停めました
 
○網代(あじろ)/由良町網代 
 
   
▲重厚な建築の漁師町  ▲碁盤の目のような区割り 
隣の神谷浦との漁業権の争いが絶えない
 早くから漁業が盛んでしたが、由良湾の最奥に位置するため、漁場が狭く、入漁料を払いながらも、湾内の他村との争いが絶えなかったとか。明暦2年(1656)、隣村・神谷浦との漁業協定を結んで、3分の1の入漁料を払っていますが、後の元禄11年(1698)、享保8年(1723)には神谷浦と争っています。延享元年(1744)には、代官所に訴えました。このときは、網船頭8人と村役人が越訴の罪で罰せられました。
整然とした区割りの漁師町
 通りを歩いていますと、路地などを含め、整然とした区割りは、一般的な漁師町とは違う感じがしました。
同じ木造住宅でも、網代は重厚さがあります。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは由良体育センター駐車場に停めました
 
○三尾(みお)/美浜町三尾 
 
進取の気性を持つ漁民たち
 江戸時代から山地が海岸近くまで迫る地形のため、耕地を拡張できないことから、村の発展・人口の増加は漁業の発展に寄るところが大きい。海士(あま)は最古の伝統を持つ漁法ですが、藩主の許可が必要でした。また、“叩き網”、“海瀬捕獲”、“縛り網”など、漁師たちは次々と漁法を考案します。しかし他の地引き網漁村と激しく対立しました。さらに販売面でも、地元の魚商人たちは大坂で三十石船に積み替えて京へ直送。上方市場と直結していました。すなわち、地元だけではなく、他の地区へと積極的に販路を広げるという進取の気性を持っているのでしょう。
風波から家屋を守る
 岬状の地形のため風波が襲い、多くの犠牲者が出たのも事実。瓦は漆喰で固め、石積みで強風から家屋を守りました。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○御坊(ごぼう)/御坊市御坊 
 
    
▲明治、大正期は繁栄しましたが、戦後は衰退します  ▲格子や虫籠窓が見られる町家が残ります
ミニローカル鉄道・紀州鉄道の始発駅
 ところで御坊と言えば、全国の鉄道ファンにはなじみの町です。わずか2.7km、1日約500人が乗り降りするミニミニローカル鉄道・紀州鉄道の始発駅のあるところです。駅舎はなくホームはJR御坊駅を間借りしており、平均時速20㌔のノンビリ走行。特に「学問」駅は、受験生には人気が高いようです。
意外な所に古い町並み
 それにしても御坊市にこれほどの古い町並みが残っているとは驚きました。浄土真宗日高別院を中心に発展した門前町でもあります。また宝暦年間(1751-64)ごろから蝋、蝋燭、寛政年間(1789-1801)ごろからは砂糖など特産物に携わる問屋、職人を多数輩出しました。ほかに、酒、醤油、酢、薬、古手(古着など)など、日常需要の種々の品物を扱う職人、商人が居住。
大坂-江戸を結ぶ千石船を所有する廻船問屋
 同時に大坂-江戸を結ぶ千石船を扱う廻船業としても活躍。人口も1000人を超えました。その後日高地方で唯一商業地として発展。今では商家,町家などがひとかたまりになって残ります。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは御坊市役所に停めました
 
○薗(その)/御坊市薗 
 
   
▲薗家/江戸期は廻船業を営む  ▲旧商家が蔵とともに軒を並べます 
日髙廻船業(大坂-江戸間)の栄枯盛衰
 江戸時代、藩主の別邸(薗御殿)が造られました。また当時から商工業の中心地でもありました。特に日髙地方廻船業の本拠地として繁栄。日髙廻船は17世紀前半、菱垣廻船結成するや大坂-江戸間の輸送幹線の有力メンバーとなっています。薗の所有船は寛文7年に29隻、元禄6年には44隻と勢力を誇りました。しかし初期の小型船からしだいに1000石船へと大型化し、日髙大廻船組が結成されるまでに至りました。しかしながら次第にその力は衰退。嘉永年間(1848-54)には、その姿は消えていきます。
旧商家が軒を並べる
 大正時代の人口は5000人を超えました。いま歩きますと、旧商家などの家々が見られ、往時の活況を彷彿させます。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは天性寺の駐車場に停めました
 
○北塩屋(きたしおや)/御坊市塩屋町北塩屋 
 
歴史の厚み、建物が重厚
 江戸時代は和歌山藩領。北塩屋村は、「北塩屋浦、天田村、猪野々村」の三か村で構成されていました。全体で家数は306軒、人数は1147人というから、かなり大きな村落を形成していました。 村高は合わせて約600石。主要産業はやはり網漁を中心とした漁業です。
江戸-大坂の幹線航路に11隻の廻船が参加
 また江戸-大坂の幹線航路にも就航。当地からは11隻の廻船が日髙廻船に参加しました。しかし廻船の難破も多く、さらに酒造業の自前による搬送などで廻船業も衰退しつつありました

 通り(熊野街道)を歩いていて、南塩屋より歴史の厚み、建物の重厚さを感じました。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは日髙港塩屋緑地の駐車場に停めました
 
○南塩屋(みなみしおや)/御坊市塩屋町南塩屋 
 
旧廻船問屋など旧家
 江戸時代初期から南塩屋村が存立していました。村高は約500石で家数170軒、人口800人というから中ぐらいの規模か。農業と同時に、漁業が盛んでした。地引き網など網を使った漁が中心。日髙廻船業の創始以来参加しており、大坂-江戸の幹線航路で営業を行なっていました。最盛期には日髙廻船55隻中、6隻が南塩屋村から出ています。また熊野街道沿いに立地することから、お茶屋を営む者まで出現したそうです。
塩屋地方の中心地
 ごく普通の住宅と並んで、板張の旧家、下見板張の蔵なども多く見られます。また郵便局や小学校もあって、今は塩屋の中心
地です。
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは日髙港塩屋緑地の駐車場に停めました
 
○印南(いなみ)/印南町印南 
 
すきま無く続く町家
 平安時代にすでに印南庄が存在したそうです。室町時代は「六ヶ村、500軒」という記述もあるくらいで、印南庄には6つの村があって、500軒も家数があったというからかなり発展していたのでしょう。だからか、いま実際に歩いていてもクルマで走っていても、家々が隙間なくギッシリと続く光景に驚きます。
房総沖や五島列島付近まで進出
 江戸時代は熊野街道沿いで、印南川河口にあるため漁業基地としての役割が大きい。最盛期には房総沖、五島列島付近まで進出したそうです。いまは2階建ての棟割り長屋、旧廻船問屋、虫籠窓や格子のある町家が見られます。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは印南町役場の駐車場に停めました
○北道(きたどう)/みなべ町北道 
 
   
▲街道横に入っても古民家が続く  ▲大江家住宅/国の登録文化財  
虫籠窓や格子のある町家
 江戸時代は和歌山藩田辺領。旧北道村の村高が170石弱、やや小ぶりな村です。ただ田畑のほかに、鍛冶、紺屋、桶屋など農閑で稼ぐ者もいます。熊野街道沿いの集落で、北側に位置することかが、地名の由来。歩いていますと、虫籠窓や格子のある旧商家がギッシリと建ち並ぶ光景が見られます。
東海地方の土器が発見されました
 ところで、高見遺跡から弥生中期の壺形土器2個と土器片がわずかに発見されました。驚いたのは壺形土器ほうで、東海地方に見られる形式で、県下ではほかに例がありません。そのころから交流があったのでしょうか。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマはJA紀州南部出張所に停めました
 
○下屋敷(しもやしき)/田辺市下屋敷町 
 
   
▲下級藩士の邸宅でもありました  ▲赤別荘/旧長井邸・大正8年築 
江戸詰め、和歌山詰めの藩士を急遽受け入れる
 元もと人家はありませんでした。明治元年、田辺藩成立に伴い江戸詰や和歌山詰めの中級・下級藩士の受け入れのため住宅地として開発。その数210軒、約1000人! まさに大問題! 急遽松林などを切り開いて宅地化が推し進められたのです。ところが隣村の湊村まで開発の手が及び、地籍が湊村になっていることから、明治22年市制町村制の施行にともない地籍の変更がなされました。
狭い地域に住宅がギッシリ詰まる
 狭い土地に大勢の藩士を受け入れた影響は今も見られ、狭い地域に、2階建て木造住宅の町家がギッシリ詰まっています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマはビジネスホテルアオイプラザに停めました
 
○福路(ふくろ)/田辺市福路町 
 
   
▲旧蒲鉾店も見られます  ▲旧商家が点々と見られます 
数多くの商家が見られます
 通称「かまぼこ通り」と呼ばれています。田辺城下八町のうちの1つ。田辺藩主がこの町で魚を売ることを許可しました。しかし腐るがはやいので、日持ちをさせるために蒲鉾作り始まったそうです。いま老舗が数店舗残されています。また旧商家も点在しており、往時の面影を彷彿させます。
袋町が転訛して福路町になったという説
 片町から続く水路が袋状の船だまりになっているからという説。城の大手門横手に袋小路の造ったことに由来すると言う説(ふくろまち)。その袋町がその後転訛したようです。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 クルマは銀座の路上駐車場に停めました
 
○上屋敷(かみやしき)/田辺市上屋敷 
 
   
 ▲南方熊楠も通い続けたそうです  ▲旧料理屋、貸席などが見られます
田辺藩・重臣たちの住居でした
 
 江戸時代、藩の重臣たちの住まいでした。藩の詰所、船蔵、砂糖役所、勝手方役所など支配機構のほか安藤氏直属の25家が配置。すなわち家老、用人、頭役など上級武士層の屋敷が建ち並んでいました。しかし経済上の問題から、維新後は他地へ転出する者が続出。跡地は民間に払い下げられ耕地となりました。しかしその後、官公庁が移転してきたために、政治・経済の中心地となりました。が、それも戦後になると転出が相次ぎ、官公庁の町というイメージは薄れました。
田辺新地と旧遊郭
 大正9年(1920)、市内に点在していた料理屋、茶屋、妓楼などを集めて新地ができたのです。いま料理屋もありますが空き家も目に付きます。最盛期には、芸妓、娼妓、酌婦など150人前後がいたそうです。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは銀座の路上駐車場に停めました
 
○湯峰(ゆのみね)/田辺市本宮町湯峰 
 
熊野詣の前に全身湯につかって禊ぎを行ないます
 古くは「湯ノ峰」、「湯之峰」とも書きました。温泉が開かれて1800年という,日本でもまれにみる歴史を持っています。もともと聖なる地で,熊野詣する前に,湯垢離(ゆごり)する地として知られていました。手水舎で簡易的に手や口をだけをすすぐのではなく、全身湯につかって禊ぎをおこなったそうです。特に古代から中世、京や大和の貴族たちが足繁く通ったとか。
低層の旅館街の風情
 湯ノ谷川沿いに発展した温泉地です。建物はほとんど戦後になって建て替えられたのものです。大部分が2階建てで,高層ホテルはありません。そのせいか湯の町のイメージがぴったりだと思いました。川沿いに東光寺や谷間に湧く天然の岩風呂・つぼ湯もあります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 


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○白浜(しらはま)/白浜町白浜 
 
   
▲空き地が目に付くようになりました   ▲ちょっと寂しいハマギンザ街道 
パンダのいる一大リゾート地
 関西の奥座敷として知られ、特に紀勢線開通後は一気に観光地化しました。また東京・羽田との空路が開設されると、その人気は首都圏に広がりを見せています。最近はアドベンチャーワールドのジャイアントパンダが注目されており、多くの観光客で賑わっています。リゾート地として高層ホテルが林立するなど、家族連れや団体客の訪問が絶えません。
温泉街の片隅に旧遊郭
 しかしながら、リゾート地としての白浜にもかつて遊郭があったことはあまり知られていません。いまでは寂しげな感じの「ハマギンザ街道」(銀座通り)の裏手に旧遊郭があります。最盛期には芸妓、酌婦など150人近くいたとか。地元の人たちは「新地」とか「銀座」と呼んでいます。いまはひっそりとしており、ほとんど空き家。にぎやかな温泉街とは違い、いまは静かな旧遊興の地でした。 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは白浜はまゆう病院の駐車場に停めました
 
 ○日置(ひき)/白浜町日置
 
   
▲偽洋風の建築も見られます   ▲旧街道沿いに古民家が見られます 
廻船業の商圏が広かった
 「へき」と言った時代もあったようです。と言うのも江戸時代初期には辺喜村と記したことがあったからか。江戸時代から漁業や木材の産出港でかなり賑わいました。そのため豪商が誕生。特に9家の商人が活躍し、廻船、廻船関係商売が中心でした。延享3年(1746)、薩摩藩の船が沈没し、藩士3人が検分にきたという記録もあります。このように日置の商圏は、かなり広かったようです。また元治元年(1864)、各湊の集落に御用金を課し、日置では17人が208両という大金を納めたそうです。江戸末期といえども、まだまだ日置商人の力は衰えていなかったようです。
虫籠窓のある町家が連なる
 人口も1500人前後とかなり多く、一大商圏を築きました。大坂-江戸間を結ぶルート上でもあり、廻船の寄港地でもあります。それだけに町家も多く、蔵造りや虫籠窓、格子のある旧豪商なども残されています。そんな古民家は旧熊野街道沿いや漁港周辺にギッシリと並んでおり、見どころの1つでもあります。
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
 ○周参見(すさみ)/すさみ町周参見
 
江戸時代から商業、漁業が盛ん
  この奇妙な地名の由来は、古来、波風が激しいこの海にちなみ“すさぶ海”と呼びました。さらに“すさ海”となり、“周参見”に転訛していったといいます。
 江戸時代から商業、漁業が盛んでした。村高は1000石前後とかなり高いといえます。宝永年間(1704-11)からカツオ漁が盛んになり、さらに近くの広瀬山から小型の水晶が産出。また炭や薪、物産なども集められ上方に移出しました。そのため周参見港は商港として栄えたのです。安永2年(1773)の人口が2000人を超えています。まさに一大都市!
海外への移住者が増えます
 周参見沖に異国船が出没するようになり、砲台場が設立されるようになりましたが、逆に異国への興味を抱く者もいたのも事実です。アメリカに“漂流”したという井上善助、堀弥一は両人とも周参見出身です。明治30年ごろから海外移住者が増えていきます。なかでもオーストラリアの木曜島にわたり、採貝する者が多かったようです。いま熊野街道に沿って、旧商家が軒を並べ往時を彷彿させます
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマはすさみ海水浴場の駐車場に停めました
 
○串本(くしもと)/串本町串本 
 
   
▲改築、改装された旧商家  ▲和歌山ラーメン・750円橋杭観光センター 
漁場を守った功労者は神社に祀られる
 天然の良港である港は古くから捕鯨の町として知られています。とりわけ古座鯨方の捕鯨事業の根拠地となっていました。また鰹漁も盛んで、大坂はもちろん、遠く江戸まで送られていました。しかしながら漁業の発達につれ、近隣浦々との漁場争いが続出。慶長6年(1601)、有田との漁場争いで、串本の漁場を守った功労者・庄屋宗左衛門は、村内の岡地生(おかちうい)にある祇園神社に祀られています。神さまにまでなったというわけです。また明治に入ると、京阪神と東京を結ぶ航路の中継基地となり、ますます発展します。同時に移民ブームが訪れ、アメリカへ契約移民として渡航する町民が増えるのです。
漁師町特有の古民家も改築、改装
 いま熊野街道から一歩這い入ると漁師町特有の古民家が残ります。しかし旧商家なども、多くは改築、改装されています。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは串本漁港の空き地に停めました
 
○田並(たなみ)/串本町田並 
 
   
板壁を中心にした漁師町特有の建築  ▲田並キリスト教会/1948年築 
アメリカ本土やハワイへの移住者が多い
 江戸時代から、山火事、大火、地震、津波、飢餓など災害が多く、明治に入ってハワイやアメリカ本土などへの移民が相次ぎました。円光寺の過去帳に詳細な記録が残っています。近隣諸村との争いが絶えないのは、災害が多く少しでも耕作地、漁場を広げたいと思うからでしょうか。天保飢饉による打撃は大きく、死者は天保5年(1834)に120人、同8年には118人に達しました。安政元年(1854)には大津波に襲われ、甚大な被害を出しています。明治5年には大火にあい、約200戸が焼失。そんなこんなで、海外への移住者が続出したものと推定されます。
紀南地方の鰹「ケンケン漁」先駆けの地
 大正元年(1912)に、明治に移住した先人たちは、ハワイからケンケン船と呼ばれる1本釣り漁法を学んで導入しました。紀南のケンケン漁の先がけをなしました。春先の黒潮にのって北上するカツオ1本ずつ釣り上げる漁法です。ケンケン漁の名称について諸説は色々とありますが、ハワイのカナカ語で羽を使ったルアーをケンケンと呼んでいたことや、水揚げ時にカツオが水面をケンケンするように飛び跳ねることからともいわれています。
迷路が町深く入り組む
 
集落は迷路となっており、初めて訪問した者にとっては実に手強い町並みでした。迷路は集落深く入り組んでおり、瓦葺きに板壁を中心に建てられております。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○大島(おおしま)/串本町大島 
 
風待ち港から発展しました
 江戸時代は和歌山藩領。村高は50石前後とわずかです。つまり大部分は漁業関連の仕事に就いていました。どちらかといえば漁村というより、港町に近い感じです。つまり魚関連の商業地いえます。というのも地理的に江戸時代から風待ち港の役割が大きかったのです。
東北-江戸の西回り航路の開拓で重要視される
 上方-江戸-東北を結ぶ回船などの途中の補給基地、乗組員の休憩などにも利用されました。また東北から江戸への西回り航路が開拓されたために、大島港の重要性はますます高まったのです。そのため船宿、茶屋、遊郭などが出現、「女郎衆」の悲話も語り継がれました。貸し座敷は6軒、娼妓は34人。

迷路状態の路地に町家
 いま歩きますと、山裾のわずかな土地に、切妻型の民家がギッシリ詰まっています。 
 
  感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは大島漁港の無料駐車場に停めました
○西向(にしむかい)/串本町西向 
 
町家がズラリと続く
 地名の由来は、古座湊の西向かいにあったことにちなみます。江戸時代から、木材、薪、炭、雑貨、米を扱う海運業、醤油醸造業が多かったそうです。もちろん田畑も少しはありました。旧西向村の村高は200石にも満たない小さな村落。
明治に入ると製材業が盛んになります
 しかし明治に入ると、商業と製材業が盛んになりました。また海岸道路が整備され、古座川にも橋が架かかることで、単なる木材の集積地から、蒸気機関を使った製材所が軒を並べました。やはり昭和初期の鉄道・紀勢西線開通が大きかったようです。古民家は県道38号線と熊野街道に挟まれた地域に見られます。
感動度★
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 交通 クルマは串本町役場古座分庁舎の駐車場に停めました
 
○樫野(かしの)/串本町樫野 
 
台地上にあって台風銀座と呼ばれています
 串本町の沖合にある紀伊大島にある集落です。この地は,まさに台風銀座と呼ばれるくらい,風の強い所です。しかも島の高台にあるため,より風当たりが強い集落でもあります。
●強風から家屋を守る石垣
 その強風よけのために石垣を組んで,家屋を守ったのです。日本各地には,竹塀,板塀などを使った例は多いですが,石垣は沖縄県や鹿児島県、香川県の沖合にある女木島が知られています。江戸時代は古座浦との漁業権の争いが絶えなかったとか。

 地名の由来は、字の大樫野というところに大きな樫の木があって、これが後に大を略して村名になったという。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは集落の入口付近の空き地に停めました
○太地(たいじ)/太地町太地 
 
   
▲歩いていますと豪華な造りの木造建築が見られます  ▲太地水産共同組合事務所/大正7年築・国の登録文化財 
路地が迷路で瓦葺きの庇
 中世は泰地と書きました。南北朝時代から多くの古文書に泰地村が登場します。また「泰地一族」に対して、足利尊氏は周防国・竃門関から摂津国・尼崎までの西国運送船・廻船の警護役を課しています。同時に兵庫島での通行船からの税の徴収も認めています。南北朝時代の南朝方も泰地一族に対して、軍の命令を出しており、証拠となる軍忠状が残されているそうです。いずれにせよ、太地の水軍力は一定の力を要していたようです。
捕鯨の町から観光の町へ
 江戸時代初期から捕鯨が始まり、漁業は基幹産業。近年は観光にも力を入れています。漁師町特有の迷路のように続く路地は、古民家とともに見どころの一つ。庇(ひさし)も瓦葺きです。
 
感動度★★
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 交通 クルマは太地漁協スーパー前の駐車場に停めました
 
○下里(しもさと)/那智勝浦町下里
 
    
▲町並みは美しい植栽も見られます ▲日本基督教団紀南教会/国登録文化財 
江戸時代の新田開発で形成
 古くはこの辺り一帯は遠浅で“潟”でしたが、江戸時代になって埋め立て等の新田開発を行いました。宝永5年(1708)に築かれた与根子の池から水を引き、灌漑しました。村高は600石前後。農閑は木材、薪などの山稼ぎや漁業で収入を得ました。しかしながら、漁業からの収入が多くなるにつれ、水主役(かこやく)が課せられました。水主役とは沿岸漁民・農民に課した税のことで、雑税の一種といわれています。さらに材木の集散地としての役割からあり、廻船を生業とする者まで現れました。
紀南教会周辺に見られる
 古民家は、紀南教会周辺にわずかに見られる程度です。石積みやブロック塀が多い。また美しい植栽も見られます。
 
感動度★
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 交通 クルマは空き地に停めました
  
 ○天満(てんま)/那智勝浦町天満
 
   
▲街道沿い古民家がわずかに残る  ▲丸正酢醸造元/明治12年創業  
漁業、海運業、造船業が発展します
 江戸時代はかなり繁栄したとか。田畑のほかに農閑期には、木材、薪、茶などを生産。中には漁業も行なっていました。また那智川河口に位置するため、海運業や造船業も盛んで、そのため雑税の一種である水主役(かこやく)が、米にして10石ほど課せられました。
熊野街道沿いに点々と…
 古い町並みは熊野街道沿いに見られ、商業の中心地となりました。いまは町家がわずか。地名は天神社の存在に由来するそうです。
 
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 交通 クルマは町立温泉病院に停めました
 
○船町(ふなまち)/新宮市船町 
 
熊野川を上下に運行する船問屋
 町名の由来は江戸時代から海運業者や木材業者が多く住んでいたからです。新宮城下・町方十一町の一つで、元和5年(1619)に成立しました。また江戸時代から大正時代まで、熊野川を上下した帆船を使った船問屋もありました。
「川原家横丁」で往時を再現
 ところで昭和の初めまで川原家(かわらや)と呼ばれる家が川沿いに百数十軒も並んでいました。釘を1本使わないで、組み立て解体が簡単にできる家のことです。洪水で水没する前に解体し避難場所まで運びます。その後水が引くと元の場所で家を組み立てるのです。いま川原家横丁として残されています。
 
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 交通 JR紀勢線新宮駅から徒歩25分
 
 ○薬師町(やくしまち)/新宮市薬師町 
 
歓楽街・大王地の面影
 第二次世界大戦で、新宮市も空襲に遭い大きな被害がでましたが、この辺りは戦災にあうことはありませんでした。そのためあちこちに古民家が見られます。しかも大型です。また裏手には旧旅館、旧料亭らしき建物も残っています。熊野速玉大社のすぐそばにあるだけに、「聖と俗は隣り合わせ」の法則から、町並みを子細に眺めていると旧遊里(?)のような匂いも感じさせてくれます。
江戸時代は町方十一町の1つ
 江戸時代は、和歌山藩新宮城下・町方十一町の一つ。明治8年からは、新宮21か町村の一つとなります。

 大地震、戦災のあと大きな区画整理事業を実施。このあたりは歓楽街を形成しました。  
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 交通 JR紀勢線新宮駅から徒歩20分
 
 ○浮島(うきしま)/新宮市浮島 
 
「浮島遊郭」の痕跡を求めて歩く
 浮島の森は数十年前に訪れましたが、当時は簡単な柵があるのみで、もう少し簡単に入れたように記憶しています。それはともかくその周辺を、旧遊郭の痕跡を求めて歩きました。
陸軍を誘致するために遊郭を設立
 「浮島遊郭」はもともと新宮町に陸軍を誘致するために、日露戦争直後の明治39年に「三本杉遊郭」を造りましたが、明治45年に火災で焼失。そこで現在の浮島に移転しました。その後、昭和21年の南海大地震による火災で焼失しました。妓楼12軒、娼妓100人余。規模としては小ぶりの遊郭だったようです。歩いて見ますと、いまは旧旅館、料亭と思われる改築後の建物が見られる程度です。
 
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 交通 JR紀勢線新宮駅から徒歩10分
 
 ○阿須賀(あすか)/新宮市阿須賀
 
   
▲阿須賀神社/世界遺産に追加登録   ▲棟割り長屋風の町家
格子窓のある2階家
 平安時代からある集落です。平安時代後期の公家・藤原宗忠の記した『中右記』にも阿須賀が出てきます。また『平家物語』や『源平盛衰記』にも見られます。いま古民家は、阿須賀神社周辺に見られます。格子窓のある木造2階建ての棟割り長屋風です。
1000年の歴史を有する阿須賀神社
 阿須賀神社は、かつて熊野速玉大社の摂社で、ともに1000年以上の歴史を有すると考えられています。摂社というのは、本社と末社の中間の位に値する神社。で、蓬莱山の南麓に位置し、昭和25年の境内の発掘調査で多くの遺物が出土されています。また昭和34年の伊勢湾台風で、蓬莱山の倒木の根元から御正体(みしょうたい)をはじめとする多数の遺物が発見されました。御正体というのは、神さまの体にあたる鏡に仏さまの姿をあらわした鏡像(きょうぞう)で、懸仏(かけぼとけ)とも呼ばれています。いずれも由緒ある神社であることが裏付けられています。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR紀勢線新宮駅から徒歩20分
 


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