中央区

○銀座(ぎんざ)/中央区銀座 
 
   
▲和光/昭和7年(1932)築。文字通り銀座を象徴するビル  ▲電通ビル/昭和9年(1934)築。エレベータホールのモザイク模様が注目 
   
▲鈴木ビル/昭和4年(1929)築。1階は森岡書店。昔のこのあたりは木挽町 ▲第一菅原ビル/昭和9年(1934)築。旧菅原電気で旧名が表示されている 
   
改造社書店/昭和5年(1930)頃築。ビルの右半分がはがされてしまった  ▲丸嘉ビル/昭和4年(1929)。森山松之助の設計で清水組が施工
   
▲岩瀬博美商店/昭和3年(1928)築。設計は中村庸二で、昭和8年に41歳で逝去 ▲秩父錦/昭和2年(1928)築。いまは居酒屋だが、昔は練炭店とか 
   
▲奥村ビル/昭和7年(1932)築。ドラマのロケが多い。昔風のエレベータに注目 ▲MUSEE GINZA/昭和7年(1932)。お洒落なファッションビル
   
▲ビヤホールライオン/日本最古のビヤホールで国の登録文化財  ▲豊岩稲荷神社/路地奥の小さな神社で恋愛パワースポット 
それでも近代建築が生き残っています
 文字通り日本を代表する町並みです。江戸時代の初期、駿府にあった銀座が新両替町2丁目あたりに移転してきたために銀座町と呼ばれました。その後紆余曲折があったものの、明治2年に新両替町の名前を廃止して、銀座にかわりました。先の大戦で空襲にあい、町は壊滅状態となりましたが、それでも幾つかのビルが焼け残りました。いま耐震化による改造で多額の費用がかかることから、取り壊すオーナーが多いようです。
銀座ガス灯通り沿いに昭和30年代のビル
 さてレトロなビルが点在していますが、唯一連なっているいるところがあります。昭和30年代のビルで、銀座ガス灯通りで煉瓦亭や旧白ばら(キャバレー)のあったあたりです。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄銀座線銀座駅から徒歩すぐ
 
○三原橋(みはらばし)/中央区銀座5丁目 
 
昭和感いっぱいの「三原橋横丁」
 晴海通りの下にある地下街を三原橋地下街といいますが、ここが閉鎖され埋め立てられて無くなりました。その旧地下街と三原小路のあいだにある横丁です。いろいろ増減はあるようですが、5軒のテナントが入居されています。正式には銀座田村ビルといい、横丁自体が突き当たり状態になっており、“昭和感”まるだしの建物です。「銀座の店」といえば聞こえはいいですが、はじめて来る人はビックリするらしい。それでも昼間のランチタイムになると、ビジネスマンやOLたちで行列ができます。
配管や配線のむき出し具合がいい
 2階建ての棟割り長屋ですが、昭和30年代に建てられたとか、いや昭和25年の建築だという人などさまざまです。よくわかりませんが、配線や配管のむき出し具合がちょうどいい感じで、ときおりTVドラマの1カット用のロケ地に利用されます。  
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 地下鉄銀座線銀座駅から徒歩5分
○築地(つきじ)/中央区築地 
 
   
▲築地市場の周辺には、市場関係者の物と思われる住まいが見られます 
   
▲場外市場/今でも残る商店街です。今でも一年中賑わっています  ▲築地本願寺/アジアの古代仏教建築を模した。国の重要文化財 
まだまだ残る銅板葺きの古民家
 ここ数年、「築地」の有明移転にともない、メディアに名前の出なかった日はないくらい、なにかと騒がしい年が続きました。ただ市場が有明に移転しても、築地の賑わいは変わりません。やはり「築地」ブランドの威力は強いようでした。いまは場外に古民家が残りますが、銅板葺きの家屋がいまだに見られます。
周辺に市場で働く人たちの住まいが集中
 また市場周辺にも、市場関係者の住まいがたくさんあります。それは有明に移転しても変わりません。マンションなどの高層住宅に移る市場関係者も多いですが、むかし市場で働いた人たちはやはり棟割り住宅などに、肩を寄せ合って住んでおられます。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄日比谷線築地駅から徒歩10分
○勝どき(かちどき) /中央区勝どき
 
片隅から棟割り長屋の息づかいが聞こえます
 勝どきは中央区の人口急増地区の一つで、高層マンションが林立し始めました。先ごろ地下鉄勝どき駅の大改造も終えましたが、それでも朝の混み具合は異常です。勝どきの名は、日露戦争時、旅順陥落の勝利の歓声(かちどき)にちなむそうです。手こぎの渡し船「勝ち鬨の渡し」がありましたが、その後昭和15年に船舶が通過する際に、架橋部分が開く橋が架かり、かちどき橋と命名されました。地名もそこからきています。
まもなく消えつつある古い町並み
 いま勝どきを歩いて見ますと、高層マンション、物流の倉庫群が目に付きます。それでも町の片隅に木造の棟割り長屋が点在するのを見ると、なにやら息づかいが聞こえてきてホッとします。都心からの至近距離に位置するだけに、古い町並みはまもなく消えていくのでしょう。  
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 都営地下鉄大江戸線勝どき駅から徒歩10分
○月島(つきしま)/中央区月島 
 
   
 ▲大人気のもんじゃストリート ▲最近では路地にも店が増えてきた 
「もんじゃ焼き」で一躍全国銘柄に
 明治に入って埋め立てられたところです。かつて海中に突き出し、お月見に格好の地であったことから、築き島と名付けられたとか。また埋め立て地が月の形に似ていたからとか、いろいろな説が飛び交っています。いまは名物「もんじゃ焼き」の町として、全国にその名が知れ渡りました。 
路地から路地へと歩くと町の魅力がわかる
 月島もんじゃストリートの両側には約70店舗がひしめき合っています。「文字焼き」が語源だそうですが、修学旅行生も訪れるようになって、週末はたいへんな混みようです。歩いていて、路地から路地へと歩くと、下町の雰囲気が味わえます。
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 都営地下鉄大江戸線月島駅からすぐ
 ○佃(つくだ)/中央区佃
 
   
▲天安/佃煮の老舗。創業は天保8年   ▲佃の船だまり/ドラマのロケが多い
   
▲住吉神社/1664年開基、大阪の住吉大社から勧請  ▲佃には至るところで木造板壁の古民家が見られます 
摂津国・佃島の住人を移住させる
 東京でも下町風情が色濃く残っている地域です。江戸時代からの町名で島でもあります。江戸幕府が摂津国(大阪)の佃村の住人を移住させて島を与えて漁業を営ませました。そのときに佃島と命名。毎年11月から翌3月まで白魚を取り、将軍に献上しました。
かつての漁師町らしい路地の入り組んだ町並み
 昭和39年(1964)に佃大橋(800m)が完成し、それまであった佃の渡しは廃止されました。最盛期には1日に70往復もしたそうです。いま佃を歩いて見ますと、広い通りから左右に路地が入り組んでおり、かつて漁師町らしい雰囲気を見せてくれます。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄有楽町線月島駅から徒歩10分
 ○明石町(あかしちょう)/中央区明石町
 
   
▲つきじ治作/区内最大級の料亭建築  ▲築地カットリック教会/昭和2年築 
   
 ▲トイスラー記念館/昭和8年築  ▲聖路加国際病院本館/昭和8年築
虫食い状態の空き地に古民家
 高層マンション以外に、とても住民が住んでいるように思えないのがこの町。ところが高層ビル横の狭い道を入ると、突然開けた空き地に出て、民家が連なっていました。ただし、空き地は虫食い状態。まもなく民家は消えていく運命にあるとわかります。
●“播州赤穂藩の里”に近代建築が残る
 地名の由来は江戸時代、播州赤穂の漁師が移り住んできたことに由来する説、海の風景が明石浦に似ているという説などさまざま。そういえば聖路加国際病院横に赤穂藩・浅野家上屋敷跡の碑がありました。つまり明石町は播州赤穂藩の里でもあります。ちなみに赤穂事件のあと、上屋敷は幕府に没収されました。
空襲から空襲から逃れた町
 いま歩いて見ますと、古建築が残るなど、意外に空襲から逃れた地域が広いということに気がつきます。米軍は日本占領後、聖路加国際病院(アメリカの宣教師・ルドルフ・トライスラー博士が1902年に創設)を利用することを考えていたので、明石町一帯は焼夷弾を落とさなかったと語りつがれています。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 地下鉄日比谷線築地駅から徒歩10分
 
○湊(みなと)/中央区湊 
 
   
▲福井家住宅/和館と煉瓦貼りの洋館  ▲日比家住宅/旧洋菓子製造販売業 
   
▲池田靴店/タイル貼りの看板建築  ▲日本不動産(株)/銅板貼りの事務所 
   
▲鉄砲洲稲荷神社/船乗りの信仰が厚い ▲旧中井鋳物工場/町工場兼住宅例 
裏手に住宅群が見られますが……
 もともと江戸時代から沼地でした。そこで地元の人たちが埋め立てなどで開発。その後、多くの漁船や諸国廻船の出入りが多くなり、湊と呼ばれるようになったそうです。歩いて見ますと、住宅地がまだまだ残っていますが、隅田川沿いのかつての倉庫群が高層マンション群に変わりつつあるようです。たまたま地元の祭礼にぶつかり、子どもたちを含め大勢の人たちで賑わっていました。いずれにせよやはり都心に近いことからか、このままいくと下町の風情が見られなくなるようです。
鉄砲洲ってなに?
 湊には鉄砲洲稲荷神社があります。その鉄砲洲というのは、寛永年間(1624-44)に幕府鉄砲方の井上・稲富両家がこの地で、試射稽古したことにちなみます。ただもうひとつの地名の由来に『江戸名所記』には、「この出洲の形状、その器(鉄砲)に似たる故の号なりともいえり」と明記されています。 
感動度★
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交通 地下鉄日比谷線八丁堀駅から徒歩10分 
○入船(いりふね)/中央区入船 
 
   
▲鵜澤家住宅/近代和風建築の代表例  ▲久長家住宅/元米屋として天井が高い 
看板建築や一般住宅の多さに気がつきます
 江戸時代は武家地でありましたが、明治に入ると外国人居留地を設けました。そのとき近くに入船川があったことから地名に採用。その後外国人居留地は廃止され、近くの明石町に移転。残された周囲の地区を合わせて編成し入船となりました。
地元の中学生は銀座中学校に通学
 ところで歩いていて気がついたのが、建物の名前に「銀座」、「築地」などの“全国銘柄”の地名を付けていることです。でもちょっと多い(爆笑)。もちろん「入船」の付いたビル名もありますが…。入船じゃインパクトが弱い? 地元の中学生は、学区制の関係上、銀座8丁目にある区立銀座中学校に通います。300人近い生徒が通っているそうです。入船の人たちは銀座のほうがなじみがあるのでしょうか。 
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交通 地下鉄有楽線新富町駅から徒歩10分
 
○新富(しんとみ)/中央区新富 
 
   
▲角地型看板建築/独特の意匠です ▲店舗兼住宅の看板建築/多く見られる 
   
▲旧井筒屋/マンサード屋根のある銅板貼り住宅。都内ではとても珍しい屋根  ▲新富座跡/税務関係の合同ビルに建て替え中でした(2019年11月)
旧新富座跡に税務署が建つ
 新富といえばかつての新富座を思い起こす人がいるかも知れません。明治初期にあった芝居小屋で、歌舞伎を演じていました。明治22年に近くに歌舞伎座が開場してから経営不振となり、その後いろいろ復活を試みますが紆余曲折の末、廃業となりました。その後跡地は京橋税務署・中央都税事務所(新富2丁目3-1)となり、2019年11月現在、8階建てに建て替え工事中でした。
店舗兼住宅の看板建築が目に付きます
 さて、歩いて見ますと木造2階建ての看板建築の多さに驚きます。広い通りから路地の奥まで続きます。しかしそれらも再開発で消えて行く運命でしょうか。この地には文化財として価値の高い近代木造建築がたくさん残っていましたが、ほとんど消滅してしまいました。珍しいといえばマンサード屋根のある看板建築を見つけました。岩手県の農村で多く見かけましたが、農村では穀物や牧草を保存しておく建物として利用するもので、実際は農機具などの倉庫になっていました。それにしても都心に残っているのは貴重です。 
 感動度★
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交通 地下鉄有楽町線新富町駅から徒歩10分
○八丁堀(はっちょうぼり)/中央区八丁堀 
 
「八丁堀のダンナ」が闊歩した時代を妄想!
 江戸時代、水運の利便性を図るために隅田川まで開削された水路です。堀の長さが8丁から名付けられました。しかしそんな事よりも「八丁堀のダンナ」で呼ばれた奉行所の与力、同心の組屋敷が置かれてことのほうが知られています。
看板建築や棟割り長屋
 いまは堀も埋められて、組屋敷の面影もありません。空襲で壊滅的な被害を受けたため、建物はすべて戦後に建てられたものばかり。店舗兼住宅の看板建築や棟割り長屋など下町特有の光景を見せてくれます。
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 地下鉄日比谷線八丁堀駅から徒歩10分
 
 ○日本橋(にほんばし)/中央区日本橋
 
   
▲日本橋野村ビル/安井武雄の設計。三層構成の東洋風。昭和5年(1930)築  ▲日本橋/日本の道路の起点。明治44年築(1911)築、国の重要文化財 
デパートで初の重要文化財に指定された高島屋
 慶長8年(1603)、日本橋川に架けられた橋の名。江戸の中心で、諸国へ向かう人々の起点でもあることから日本橋の名付けられとか。町名も橋の名前から引用。いまは中央通り沿いにデパートや各種金融機関が並び、たいへんな賑わいを見せています。特に高島屋は、日本ではじめて重要文化財に指定されました。定期的に店内の見学会を実施しており、いつも満員だそうです。
●歴史の重みを感じる町
 いつしか東京の賑わいが新宿や渋谷に移りつつありましたが、ここ数年日本橋界わいにも外国人を含め、多くの買物客が戻ってきました。やはり積み重ねた歴史の重みを感じる町であるからでしょうか。  
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄銀座線日本橋駅からすぐ
○室町(むろまち)/中央区日本橋室町 
 
   
▲三井本館/昭和4年築。アメリカ人の設計。西洋の銀行建築、国重要文化財。ドラマ『半沢直樹』の東京中央銀行として登場 ▲日本銀行/明治29年築。本館は辰野金吾の設計。国の重要文化財。ネオ・バロック様式で壁面はルネサンス様式。
   
 ▲近三ビル/旧森五商店で村野藤吾の設計。内装がすばらしい。昭和6年築 ▲三越本店の天女(まごころ)像/佐藤玄々氏が10年の歳月をかけて完成 
   
▲常磐橋/都内で最も古いとされる石橋。地震の被害と経年劣化で復旧整備され、令和3年(2021)に完成。日銀の隣にあって2連アーチが特徴です
   
▲木造の名店も裏通りに点在  ▲ビルの谷間の福徳神社参道
重厚な近代建築が軒を並べます
 江戸時代からある地名です。家康が入封したころ、アシの生い茂っていた村を新鳥越(しんとりごえ)に移転させ、そのあとに町家を造り開発を進めました。町名は京都の室町にならったものです。このころ同時に大坂・堺から船運を利用して開発のための多くの資材や将軍家に対する貢ぎ物が送られてきます。そんな激しい荷動きとともに多くの人々も集まってきました。
江戸一番の商人の町発展します
 商家や各種問屋のほか裏通りには湯女を置いた風呂屋もあったという。浮世絵を販売する店、畳屋、漆器、下駄屋、飛脚屋などあらゆる店が軒を並べました。まさしく江戸で一番の繁華街、そして商人の町へと発展していきます。
三越も国の重要文化財に指定
 いま町を歩きますと、数年前から日本橋が再開発され、多くの高層ビルが立ち並んだ光景に目を見張ります。低階層に商店が入り、外国人観光客を含む多くの買い物客であふれています。なお三越本店も高島屋に続いて重要文化財に指定されました。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄銀座線三越前から徒歩すぐ
 
○本町(ほんちょう)/中央区日本橋本町 
 
   
 ▲大勝軒/銅版貼りで昭和32年築 ▲かつ平/旧「まるたか」著名人が多い 
天正年間から町づくりがスタート
 江戸幕府開府前は福田村といい、一寒村に過ぎなかったのです。天正年間(1573-92)、秀吉の命を受け徳川氏が入国。最初に行った地割りで本町と命名。そのころから本格的に町づくりをスタートさせます。各地から商人を招くなど、日本橋の大通りができる前から多くの商家が軒を並べ、まさに江戸の中心地として発展します。
ビルの谷間に看板建築や古民家が佇む
 いまは室町と隣接していますが、室町の華やかな商業ビルと比較してやや地味なオフィースビルが並んでいます。そんなビルの合間に、看板建築や古民家がひっそりと佇んでいるのです。味わいのある町並みです。
 
○兜町(かぶとちょう)/中央区日本橋兜町 
 
   
 ▲東京証券取引所/資本主義の象徴 ▲山二證券/西村好時設計、大正末築 
   
▲成瀬証券/西村好時設計、昭和10年築 ▲阪本小学校/復興小学校、昭和3年築 
源義家の兜を納めて塚を築く
 かつてここに兜塚があったことが町名の由来です。源義家が奥州から凱旋した際、東夷鎮護のため日本武尊の故事に習い、この地に自身の兜を納めた塚を築いたとか。
●大小の証券会社が点在する資本主義を象徴する町並み
 歩いてみますと、証券会社の多さに気づきます。小さな証券会社でも歴史のある会社です。まさに日本資本主義を象徴する株の取引所のど真ん中にあります。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄日比谷線茅場町駅から10分
 
○茅場町(かやばちょう)/中央区日本橋茅場町 
 
茅を売る人たちが住んでいました
 もともとこのあたりは南茅場町といわれており、茅(かや)を売る人たちが大勢住んでいたことが地名の由来だそうです。また町内には日本橋川が流れ、その河岸を茅場河岸といわれていました。荻生徂徠が居住していたことでも知られています。
●ごくごく平均的な町並みでした
  町を歩いていても、ごく平均的な町、すなわちビジネス街でもありますが、裏手にも看板住宅などの町家も連なっています。写真のビルは第二井上ビルといい、堀沿いの建物でこのあたりではランドマークの役割を果たしているようです。1927年築で1ヶ月の家賃は14万円前後。
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 地下鉄日比谷線茅場町駅から徒歩10分
 
○人形町(にんぎょうちょう)/中央区日本橋人形町 
 
   
▲花柳界だったころを彷彿させる町並み。小料理屋などの飲食店が並ぶ ▲武家地でもありましたが、広い敷地を細分化したために間口が狭くなった 
   
▲ぎっしりと詰まった飲食店街。下町の人情あふれる雰囲気が感じられます  ▲うぶけや/昭和2年創業。外部は凝った意匠で内部は数寄屋風の陳列棚 
   
▲今半/昭和31年に浅草本店から独立、比較的新しい。赤い壁が印象的  ▲京粕漬魚久/大正3年創業。窓枠や軒周りの装飾が洋風意匠、昭和初期築 
   
▲よし梅芳町亭/昭和初期の数寄屋風建築。国の登録文化財  ▲濱田家/大正元年(1912)に料亭として開業。明治時代は芸者の置屋 
   
▲甘酒横丁/明治初期、尾張屋という甘酒屋が由来。三味線、つづらなどの老舗  ▲人形町からくり櫓時計/定期的にからくり人形が回り、時報を知らせます 
江戸時代は華やかな花柳界と芝居小屋
 この町はいろいろな顔を持っています。江戸時代初期は人形町通り(当時)の裏手には吉原(元吉原)と称する遊郭がありました。大門通りはその名残りです。また寛延年間には多くの歌舞伎を演じる芝居小屋、さらに人形浄瑠璃、人形芝居の小屋も増え、一大歓楽街を形成。
江戸で最大の男娼ゾーンが誕生
 一方で元禄年間(1688-1704)からは、10代の美少年たちが男娼となって働く陰間茶屋が爆発的に増え、江戸では最大の男娼ゾーンが誕生。20軒近くにまで増えたそうです。ただ男娼は超高額なため庶民には手が届かなかったとか。しかし江戸末期には幕府の取り締まりが強化され、消滅。
『新参者』や『人形佐七捕物帳』の舞台
 ところで最近、観光客が増えてきた原因の一つに、東野圭吾原作『新参者』がドラマ化され、刑事役で主演の阿部寛が人形町界隈を歩き回った場面が放映されことが上げられます。時代劇ファンなら横溝正史原作『人形佐七捕物帳』があります。松方弘樹や要潤、堤大二郎、若山富三郎らが演じました。
水天宮参拝者で賑わう町
 また水天宮へ向かう際の日比谷線や都営浅草線の降りる駅が人形町駅でもあります。すなわち水天宮参拝者で賑わっていることのほうが大きいと言えます。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 地下鉄日比谷線人形町駅から徒歩10分
 
○小網町(こあみちょう)/中央区日本橋小網町 
 
   
▲うなぎ喜代川/調理と飲食が分離した料亭建築。国の登録文化財、昭和2年築  ▲Architects Office/倉庫建築の特徴を残しています。大正時代初期築
   
 ▲三田商店東京支店/葛西萬司の設計、タイル貼りの外壁特徴。昭和5年築 ▲喫茶軽食桃乳舎/2階円柱など個性的な看板建築。昭和2年築 
歴史的建造物が点在しています
 徳川家康が天正18年(1590)、江戸に入府した際、小網稲荷の名前をとって町名にしたという。途中、寛永年間(1624-44)に番匠町ともいったそうですが、以後現在の令和に至るまで町名は変わっていません。歴史のある町名です。さて江戸時代は日本橋川の河岸地なので、日本各地からの船が頻繁に出入りしていました。そのため廻船問屋、諸国物産問屋が軒を並べ、かなり繁栄していました。
「三軒長屋の看板建築」
 ところで、歩いていますと看板建築の多さに気がつきますが、なかでも「三軒長屋の看板建築」(写真)が秀逸です。同一のモチーフで、仕上げやデザインにわずかに変化を持たせています。とてもリズミカルで鮮やかな家並みを生み出しています。
江戸時代、女流俳人や歌人を輩出
 余談ですが、江戸時代の女流俳人・菊后亭秋色(きくごていしゅうしき)は菓子屋の娘。また狂歌で知られ、大名とも付き合いのあった女流歌人・月花永女(つきはなのながめ)も小網町の金鳳堂という菓子屋の女房で、おえいといいました。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄日比谷線人形町駅から徒歩10分
○蛎殻町(かきがらちょう)/中央区日本橋蛎殻町 
 
   
▲旧小川歯科医院/ずいぶん前に廃業 ▲水天宮/コンクリ造に改築されました 
水天宮が赤坂から移転してくる
 もともと埋め立て地で大部分が武家地でした。寛政12年(1800)に銀座が新両替町から移転し、明治元年に造幣局が新設されるまで、銀貨、銭貨の鋳造はこの地で行われていました。一方、安産の神さまとして知られた水天宮は、明治5年に港区赤坂から、この地に移転。たいへんな賑わいを見せました。
店舗併用住宅の看板建築が多い
 いま歩いてみますと、コンクリートで固められた水天宮の異様さは別にして、周辺は大部分が町家。「伍徳」(上の写真の右端の建物)が代表されるように、1階庇部分に銅版を貼り、看板建築を取り入れています。つまり町家から看板建築へ移行する過渡期の建築物。これが関東大震災前の店舗併用住宅の典型といえます。看板建築の多さに特徴があると言えるでしょうか。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 地下鉄半蔵門線水天宮前駅から10分
 
○浜町(はまちょう)/中央区日本橋浜町 
 
   
▲料亭や待合の姿を留めながら住宅に改装した例は、あちこちに点在します 
   
▲飲食店街もかつての待合を改装したと推定されます  ▲浜町川緑道/浜町川を埋め立てた。新大橋通りから以南を浜町河岸という
江戸時代は武家地、明治時代は花街
 江戸時代は武家地なので、町名はありません。江戸の切り絵図を見ても白くなっています。しかし明治になって、武家地はすべて政府に買い上げられます。明治5年、それまでの俗称であった「ハマ丁」を正式に浜町1~3丁目として命名しました。ただ武家地といっても、けっこう著名人が住んでいました。蘭学者、俳人、歌人、画家……。明治に入ると日本橋あたりの大店の別宅や妾宅ができます。
お梅が嫉妬に狂って殺人事件をおこします
 しかし浜町を一躍有名にしたのは、明治20年(1887)6月9日の大川に面した“浜町河岸”で殺人事件が起きたことからです。待合「酔月」の花井梅が歌舞伎役者の女形・澤村源之助に恋をすることから始まります。しかし芸者の喜代次に源之助を取られてしまう。取られた原因は、両者の間に入って取り持っていた梅の付き人・峰吉がサボっていたからだ。というわけで、梅は峰吉を刺し殺すという事件。これが『明治一代女』や『仮名手本小梅』などで華々しく上演。詳細は省きますが、ここに登場する浜町河岸は大川端(隅田川)で、作者は浜町公園近くにあった花柳界が頭にあったからでしょう。いまは大きな防潮堤のため風情はありません。
『明治一代女』のレコードも発売! 浜町が一躍有名に
 さらにその後、芸者の市丸姉さんが『明治一代女』のレコードを発売。「浮いた浮いたと浜町河岸に 浮かれた柳のはずかしや~」(藤田まさと作詞)が大ヒット。後年、美空ひばりや島倉千代子がカバーしています。『明治一代女』の浜町河岸の舞台は大川端ですが、実際、地理的には埋め立てられた浜町川(現・浜町川緑道)の両岸を指します。しかしながら浜町河岸は明治に入って、浜町川から大川(隅田川)に転移していったものと思われます。  
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 都営地下鉄新宿線浜町駅から徒歩10分
 ○大伝馬町(おおでんまちょう)/中央区日本橋大伝馬町
 
   
▲江戸屋/大正12年築。国の登録文化財 ▲看板建築/店舗兼住宅の好例 
馬の数が小伝馬より多かったので“大”伝馬町
 江戸時代は各種問屋街でした。木綿問屋、茶問屋、薬種問屋、書籍問屋、諸国物産問屋など。そのため多くの商人たちが集まって、大きく発展しました。さて天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府。このとき人夫、駄馬を率いて出迎えたのが名主・馬込勘解由(まごめかげゆ)でした。勘解由は同地で伝馬役を受け負っていました。家康はこの出迎えを賞賛し、道中伝馬役を命じました。以来、馬込家は永住し、代々伝馬役を務めたのです。なぜ“大”伝馬町かというと小伝馬町よりも馬の数が多かったからとか。いまは馬込勘解由屋敷跡に解説板が立っています。
看板建築の飲食店街がビルの谷間に見られます
 町自体は大小さまざまな雑居ビルが林立しています。そのあいだに店舗兼住宅の看板建築が連なり、なんとなくホッとさせてくれます。飲食店街も2階建ての木造建築で、ビルの谷間に軒を連ねています。 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 地下鉄日比谷線小伝馬町駅から徒歩10分
○横山町(よこやまちょう)/中央区日本橋横山町 
 
   
▲大原第5ビル/昭和5年築。清水組が設計施工。改装で人気がでた ▲問屋街の中心地、横山大通り/繊維、小間物雑貨約400店舗の一大問屋街
日本最大の衣料・繊維・服飾問屋
 約400もの商社や商店などが軒を並べる日本最大の衣料、繊維、服飾の問屋街です。しかも決済はすべて現金。現金があれば目が点になるくらい激安で買えるそうです。それはともかく、奥州・日光街道が通っているせいか、当初は旅人向けに小間物、煙草入などの問屋が連なっていました。また両国広小路にも至近距離。多くの仕入れ客で賑わったそうです。横山という平凡な地名は、江戸時代以前に横山某が開拓したからとかなどの説がありますが、よくわかりません。明暦の大火以後、今に至るまで地名は変わりません。
大通の裏手は看板建築が軒を並べています
 この日は日曜日に出かけたせいか、大半の店はシャッターが降りていました。しかしビルを構える大きな店舗では、外国人観光客などを含め一般客にも販売しています。大通りの裏手には、小さな構えの店がギッシリと並んでいます。大部分が看板建築です。1階が店舗、2階が倉庫兼事務所になっているようです。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 都営地下鉄新宿線馬喰横山駅から徒歩10分

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