中央区(ちゅうおうく)

○北浜(きたはま)/大阪市中央区北浜 
 
   
住友三井ビルディング,大正15年,昭和5年,住友本店臨時建築部設計  ▲石原ビル・昭和19年築 眞水・三橋建築事務所設計・右隣は旧美津濃本社 
   
▲北浜レトロビル/今は喫茶店・明治45年築登録文化財  ▲ルポンドシエルビル/大林組旧本館・大正15年築 
戦災に遭わずに残る建築
 江戸中期,金相場会所が設けられたり,両替商が集中したりと金融の中心として発展。元禄時代(1684-1704)は川船、諸国廻船の発着場で船問屋、各種問屋が集中。また眺望もよく、旅館、料亭が連なり小規模の遊郭もあったようです。いまは証券会社や銀行などが集まるビジネス街となっています。そしてかろうじて戦災から逃れた建物が残っています。上の写真は適塾(緒方洪庵住宅)で,重要文化財に指定。江戸時代末期の建築と推定されています。
地名の由来はさまざまあります
 町名は土佐堀川(大川)に沿う浪花の北方にある浜からといいます。また土佐堀川を前にして店がすべて北向きであったことが町名の由来だとか。定かではありません。  
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 地下鉄北浜駅から徒歩すぐ
○今橋(いまばし)/大阪市中央区今橋 
 
   
▲新井ビル/大正11年・登録文化財  ▲今橋ビル/大正15年築 登録文化財 
   
▲大阪市立愛珠幼稚園。実際に園児が通園・国の重要文化財 
天王寺屋、平野屋、鴻池などの豪商を住む 
 江戸時代初期に架けられた橋です。「今あらたに架けた橋」という意味で命名されたそうです。当時は両替商など富裕な町人屋敷が建ち並んでいました。天王寺屋五兵衛,平野屋五兵衛,鴻池善右衛門らが代表格。鴻池善右衛門は大名貸を中心に諸藩の蔵元・掛屋となり代々栄えました。今橋1丁目には、天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛が住んでいて、五と五を足して「十兵衛横町」の異名で呼ばれていました。この二人は大坂の両替商の鼻祖(びそ/元祖)と伝えられています。
井原西鶴『好色一代男』にも登場する浮世小路
 また下駄職人が多く住んでいたことから下駄屋町、播磨国の眼科医・真島安徳の邸宅があったことから、真島町と俗称されていました。また近くに浮世小路がありました。風呂屋、餅屋、音曲師、質屋などがあり、井原西鶴は『好色一代男』で「柿染め暖簾ををかけて女一人暮らせる」と書いています。
重文や登録文化財が多い
 いまは金融街で、それほど広い町ではありませんが、国の登録文化財が多く、近代建築ファンには欠かせない町となっています。なお重要文化財の愛珠幼稚はが異色です。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄淀屋橋駅から徒歩すぐ
○高麗橋(こうらいばし)/大阪市中央区高麗橋 
 
   
▲高麗橋野村ビル/昭和2年築/2010年改修  ▲三井住友銀行大阪中央支店(旧三井銀行/昭和11年築 
発掘調査で、朝鮮半島からの遺物が多数出土
 東横堀川に架かる橋の名前です。大坂夏の陣以前から架橋されていたことは判明しています。また高麗橋筋の町並みは慶長3年(1598)に船場が開発される以前から開けていました。地名の由来は高麗は朝鮮国の古い国名で、朝鮮国使を迎えるために橋を架けられたため。もう一つは橋の東側に古代の難波高麗館が置かれていたからという説もあります。また古代国家・難波津の有力な推定地の一つです。実際に、周辺の発掘調査でも、朝鮮半島からもたらされた遺物が多く出土しています。このことから、海外との交易に関係する地であったと思われます。
裏道にも近代建築が点在します
 かつて三越百貨店大阪店のあったところで,市民には比較的知られた地名でした。いまは隣の今橋と共に証券会社、銀行が並ぶ金融街を形成。歩いていて気がつくのは,裏道に無名の近代建築が目に付くことです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 地下鉄北浜駅から徒歩すぐ
 
○伏見(ふしみ)/大阪市中央区伏見町 
 
   
▲伏見ビル・大正12年築・登録文化財小さなビルですが意匠がいい 
京都・伏見から町人を呼び寄せて開発
 大坂夏の陣で疲弊した大坂の町を復興させる目的で,京都伏見茶屋町の町人が招致されて開発、住んだことから,伏見の名がついたそうです。はじめは伏見呉服町と呼ばれていましたが、のちに伏見町と呉服町の2町に分かれました。
総合商社・双日の発祥の地
 天正年間、加賀国から斉藤九郎右衛門が豊臣氏に従って大坂にやってきて、“唐産茶番御用”を勤め、それによって居住を許されました。以来、唐物問屋の集合地となり、斉藤氏の子孫はいすれも加賀屋を名乗りました。唐物とは生糸、反物を取り扱う商人で、そのなかから後の岩井産業、日商岩井(いずれも現・双日)へと発展していきます。
●ビルの谷間に登録文化財 
 歩いていますと現代ビルの間に,古めかしいビルや蔵造りの商家が見えます。小さな町ですが、おもしろいです。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄北浜駅から徒歩すぐ
○道修町(どしょうまち)/大阪市中央区道修町 
 
 ●蔵造りの住宅(重文)は傑出
 江戸時代初期の寛政年間(1624~44)に薬種屋が集まりだし,「薬種仲買仲間」を結成し,次第に「くすりの町」に発展しました。田辺製薬(現・田辺三菱製薬),武田薬品,塩野義製薬は御三家といわれています。また小林製薬、大日本住友製薬、吉富薬品、扶桑薬品工業、小野薬品工業、エビス薬品などが輩出。このあたりは、大阪都市景観資源に登録されています。
ドラマのロケ地として利用されています
 ちなみに武田道修町ビルは昭和3年の建築。また旧小西家住宅(重文・写真)の蔵造りは傑出。ドラマのロケ地としてよく使われています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄北浜駅から徒歩5分
 
○平野町(ひらのまち)/大阪市中央区平野町 
 
   
▲生駒ビル/昭和5年築 登録文化財  ▲小川香料ビル/昭和5年築 登録文化財 
かつては市内五大商店街の1つでした
 もともと西方に隣接する御霊神社の祭神が百済(くだら)氏の出身である早良(さわら)親王といわれ,京都平野神社が百済氏を祀ることから,平野町と名付けられたとか。江戸時代から御霊神社の門前町として発展。特に日用・雑貨品の買い物町として賑わい,1日と6日は浪花名物の夜店が開かれました。それは明治末期まで続き,市内五大商店街の一つまでに成長しました。
見応えのある近代建築
 しかし昭和に入ると地下鉄の開通や道路整備で,客はキタやミナミに奪われました。いまは完全なオフィス街となり,週末は人が途絶えます。ただ近代建築は見応えがあります。
 
 感動度★★
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 交通 地下鉄北浜駅から徒歩7分
 
○淡路町(あわじまち)/大阪市中央区淡路町 
 
   
▲船場ビルの吹き抜け・登録文化財  ▲清水猛商店・大正13年築登録文化財 
“大塩平八郎の乱”の主戦場でもありました
 明治時代には文楽座が置かれ、御霊文楽座と呼ばれました。また御霊神社の近くに幾代亭という桂派の寄席がありました。このように文化の拠点でした。しかし何より有名なのは,天保8年(1837)の大塩平八郎の乱の主戦場となったところで、大塩たちは当町の堺筋まで追い詰められたそうです。大塩平八郎は大坂町奉行の元与力で、門人たちとともに起こした江戸幕府に対する反乱です。当時は未曾有の大飢饉で農民300人を集めて「救民」の旗を立てました。しかし幕府の軍勢によってその日のうちに鎮圧、平八郎は自害しました。
●船場ビルの吹き抜けは秀逸
 今は平凡なビジネス街ですが,近代建築としては、船場ビル(写真上)の中庭(吹き抜け)は見もの。
 
 感動度★
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 交通 地下鉄本町駅から徒歩10分
○備後町(びんごまち)/大阪市中央区備後町 
 
   
 ▲綿業会館・昭和3年築・重要文化財 ▲村野藤吾設計の繊維輸出会館
江戸時代は職人の町
 慶長5年(1600年),東横堀川に架かる備後橋が町名の由来。江戸時代初期から町名は変わっていません。また江戸時代は比較的職人が多かったようです。八百屋町筋には「飛禽肆」(飛ぶ鳥を売る店)が多く鳥屋町と呼ばれました。また御堂筋には張人形屋、張箱屋、箪笥屋が集中。栴檀(せんだん)木橋筋には戸棚屋、湯風呂細工職人などが住んでいました。しかし明治以降は、呉服、木綿太物問屋が多くなったようです。太物というのは、絹織物を呉服というのに対して、綿織物、麻織物を総称した呼び名。
圧巻! 綿業会館の内装
 なにより備後町を代表する近代建築は綿業会館(写真左)です。外壁は地味,でも上の写真で見るように内装はスゴイ! 贅の限りを尽くした建物で、いかに綿業が盛んだったことかがわかります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄本町駅から徒歩7分
 
○本町(ほんまち)/大阪市中央区南本町 
 
江戸時代は繊維・衣料関係の商店が中心
 関ヶ原の合戦時代から変わらずに続く地名。近世大坂の重要な位置にあったからが地名の由来だとか。元禄時代(1688-1704)は家数は35軒前後とか。また繊維・衣料関係商業の中心地でした。また古手屋(ふるてや)が軒を並べ、歳市も有名。古手屋とは中古品や質流れ品の衣料を売買する商人のことで、上方地方の呼び名。北御堂前には木偶(でく)店が多く、北御堂の人形の店と言われていました。
●少ない近代建築
 比較的近代建築が少ない町です。上の写真は明治屋ビルで、大正13年建築、曾禰達蔵氏の設計で外壁はタイル貼りです。
 
 感動度★
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 交通 地下鉄堺筋本町駅から徒歩すぐ
○心斎橋(しんさいばし)/大阪市中央区心斎橋 
 
   
▲大丸心斎橋店・2019年秋竣工(HPより)  ▲島之内教会・登録文化財 
江戸時代から続く名店街
 言わずと知れた大阪を代表する繁華街です。1年中にぎわっており,道頓堀までブラブラと歩く人が多い。ただし心斎橋そのものは横堀川の埋め立てで消滅。江戸時代から小売業,卸売業が集まる名店街です。
江戸時代の絵図には「しゅんさいばし」と明記
 地名は長堀川を開削した岡田新三が後に美濃屋新三と名乗り、心斎と号しました。号というのは、文人や画家が本名のほかに用いる雅名。で、その屋敷前の長堀川に架けた橋が起源とされています。明暦3年(1657)発行の『新板大坂之図』には「しゅんさいばし」と明記されています。
 
感動度★★
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 交通 地下鉄心斎橋駅から徒歩すぐ
 
○難波(なんば)/大阪市中央区難波 
 
   
▲南海ビル/国の登録文化財・昭和7年築でミナミのターミナルビル ▲2階家の出窓が花街の面影を残しています。粋な意匠です
   
▲味園ビル/雑居ビルですが、特異なデザインで人気。志井銀治郎設計 ▲松竹座/大正2年築。外観を残して大改造。大阪の都市景観に指定
   
▲水かけ不動/小説やドラマ、歌にまでなった法善寺にある不動尊  ▲上方浮世絵館/江戸時代、大阪で作られた浮世絵を展示。役者絵が多い
ミナミの玄関口南海ビルは登録文化財
 一般にミナミとは,難波,道頓堀,心斎橋,千日前あたりを指します。そのなかで難波は高島屋があり,南海電車の終点でミナミの玄関口にあたります。和歌山や泉南地方(関西国際空港も)からの遊客がやってきます。いま難波は新歌舞伎座など古い建物の立て替えの運命にあります。また旧精華小学校はついに壊されました。
語源は諸説あり
 南海ビルは高島屋大阪店が入居し,国の登録文化財,大阪市の都市景観遺産にも登録されています。まさに近代建築,最後の砦といえます。なお江戸時代から続く地名ですが,元は上町台地一帯を指していたようです。古くは浪速、浪花、浪華などと表記し、「なにわ」と読みました。難波も同様に「なにわ」と表記しました。このなにわが転訛してなんばと呼んだと言いますが、当然疑義を挟む研究者もいました。語源は「縄浦」(なわのうら)であるといい、浪華とは語源が違うそうです。
江戸時代から代表的な花街でした
 ミナミを代表する繁華街ですが、1日中混雑しています。大部分がビル街になりましたが、難波1丁目の法善寺周辺は、木造建築が残されています。寛永3年(1624)、資産家で治水家の安井九兵衛(やすい くへえ)が道頓堀の繁盛を願って花街の許可を得たのが、今日の繁栄につながったといいます。『全国遊郭案内』(昭和5年刊)によれば、貸し座敷(日下茶屋)が499軒、娼妓830人余、芸妓が約2000人というからスゴイ。残された木造建築を見ていても、往時の面影を見る思いです。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 地下鉄難波駅から徒歩すぐ
○谷町(たにまち)/大阪市中央区谷町 
 
 ●急坂を下ると古民家が点在
 標高の高い上町台地の西側に、南北に通じた谷状の地形にゆらいする、というのが地名の由来でした。しかし近年の発掘調査で、単純に南北の谷筋が見られるという説はほぼ不適切となりました。それでも小さな谷が幾重にも入り組んでいるというのは事実。
相撲の「タニマチ」発祥の地
 明治の末期、大阪相撲の有力な後援者が谷町六丁目付近に住んでいました。「薄病院」(すすきびょういん)という外科の病院。院長の薄恕一(すすき じょいち)は大の相撲ファン。相撲取りからは治療代をとらず、力士から大変慕われました。ここから相撲の支援者をタニマチというようになりました。

戦災に遭っていない奇跡の町
 確かに、駅から地上に上がると町並みへは急坂を下りていきます。空襲にあっていないので、古民家が点在。銅板の壁、店蔵、棟割り長屋などユニーク。
 
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 交通 地下鉄谷町六丁目駅から徒歩10分 
 
○空堀(からほり)/大阪市中央区谷町 
 
 ●空襲から逃れた奇跡の町並み
 近代的なビルが建ち並ぶ長堀通りから一歩中に入ると,懐かしい棟割り長屋を見ることができます。つまり2軒,3軒とつながっているのです。元々,このあたりは戦争で空襲にあうことなく奇跡的に残った地域でもあります。
●明治5年建築の伊藤邸
 なかには明治5年に建てられた伊藤邸のうだつのある蔵造りも健在です。また格子窓や虫龍窓,出格子窓のある2階家が残っているのです。さらに歩きますと,若い人たちによる古民家を生かした画廊,カフェ,雑貨などの店へと続きます。秀吉の大坂城防御を固めるため、多くの堀を造りましたが、ここは水をたたえていなかったそうです。
 
  感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 地下鉄松屋町から徒歩5分
○中寺(なかでら)/大阪市中央区中寺 
 
江戸時代の雰囲気を残す
 豊臣秀吉が、大坂城築城のころから寺町の町づくりに着手したという説が濃くなっています。上町筋と谷町筋に挟まれた地区で、東から3つの寺町のうち、真ん中に位置するところから名付けられたとか。江戸時代の雰囲気を残す数少ない地域といえます。ただ空襲で大部分が焼けたのも事実です。
周囲はマンション、雑居ビルが林立
 焼け残った境内を再建のため切り売りし、マンションやガソリンスタンドが建ち、道路の拡幅とともに地下鉄・千日前線、近鉄難波線が相次いで開通。一気いに開発が進みますが、現在残っている地域は、それだけに貴重なところと言えます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 地下鉄谷町九丁目駅から徒歩5分

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