鶴見区(つるみく)

○生麦(なまむぎ)/横浜市鶴見区生麦5丁目
 
   
 ▲早朝からオープンしています ▲JR国道駅/無人駅でドラマのロケ地 
旧東海道沿いの魚河岸
 江戸時代の末期、文久2年8月21日薩摩藩士がイギリス人4人を殺傷した事件が世に言う生麦事件です。この事件のおかげで、小さな集落が全国に一気に知られるようになりました。そんな歴史的なところに、魚介類の卸屋さんがずらりと並んでいるのです。通称「生麦魚河岸通り」といい、一般客も詰めかけます。
JR国道駅はドラマのロケ地として頻繁に登場
 この日は土曜日の朝7時、半分は休業で、開いている店も後片付けで忙しいのです。この通りは旧東海道でもあります。戦後の建物ばかりですが、黒瓦2階建て平入りや看板建築がほとんど。降り立ったJR国道駅はドラマのロケ地によく使われます。また生麦事件の碑や墓もあり、旧東海道散策に寄る人が多いとか
。 
地名ナマムギの由来は諸説紛々
 ところで地名の由来ですが、いろいろな説が流布しています。①砂丘のなめらかな形状を表している。ムギには砂丘などのむき出しになってよく見える地形の意味があるからです。②徳川家康が入国のころ、生麦を刈って街道を開発していていたから。これは『新編武蔵国風土記稿』に載っています。③また、この村が礫まじりの砂場であるところかとか。『新編武蔵国風土記稿』には鶴見川の運搬した土砂が堆積してできた土地だから……。いろいろあります。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR鶴見線国道駅から徒歩すぐ
 
○本町(ほんちょう)/横浜市鶴見区本町通
 
旧カフェ街の面影
 京浜工業地帯の鶴見地区のど真ん中にある旧カフェ街です。鶴見小野駅から歩くこと10数分,住宅街のなかでやっとそれらしき建物を見つけました。「鶴見入船カフェ街」の一部です。不思議なことに1回見つけると,それらしき建物が次々と見つかるのです。
大工業地帯を背景にした住宅街
 商店街を含め大工業地帯を背景に大きく発展した町です。逆に言えば工業地帯の盛衰と運命を共にする地区でもあります。今は普通の住宅地になっています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR鶴見線鶴見小野駅から徒歩12分
 
○仲通(なかどうり)/横浜市鶴見区仲通 
 
   
▲ところどころ古い建物が残ります ▲おきなわ物産センター/ここだけが沖縄? 
NHK朝ドラ『ちむどんどん』の舞台を歩きました
 NHK朝ドラ『ちむどんどん』で一躍全国的に有名になった沖縄タウンです。戦後の高度成長期には3万人もの移住者がやってきました。沖縄はまだ米軍の統治下にあり、貧困地域でもありました。京浜工業地帯の工場労働者として従事するのが主目的ですが、ほかに過酷な肉体労働に汗を流しました。さらに沖縄人に対する差別と偏見に絶えながら、いまは2世、3世の時代になったのです。
仲通商店街の飲食店に「オキナワ」が見られます
 仲通や潮田町、汐入町などに沖縄の人たちが住んでいました。しかし沖縄らしさを探すのはほとんど無理。普通の住宅地です。それでも仲通商店街に飲食店が少し残り、沖縄物産センターがあって、観光客で賑わっています。『ちむどんどん』で描かれた光景は見られません。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR京浜東北線鶴見駅から横浜市営バスで仲通3丁目下車すぐ
 
 ○獅子ヶ谷(ししがや)/横浜市鶴見区獅子ヶ谷町
 
   
▲旧横溝家住宅/獅子ヶ谷村名主  ▲神明社/獅子ヶ谷集落の守り神 
農村から郊外型住宅地へと変遷
 古くは鹿谷と書きました。熊野権現の所領で,獅子舞を受け持った,ということが地名の由来とか。小机城の支城と思われる獅子ヶ谷城址も発掘されています。
いまも残る名主・旧横溝家住宅
 江戸時代は典型的な農村ですが,名主を思わせる旧家も点在。旧横溝家(横浜市指定文化財)は養蚕も行なっていました。戦後は野菜畑が広がり、都市への供給地として発展。昭和50年代後半から宅地開発が進み、いまでは近くに大型のスーパーもでき,現代住宅も建ち並ぶ典型的な郊外型住宅地に変貌しました。
それでも旧市街地が神明社付近に広がっています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東急東横線綱島駅からバスで神明社下車徒歩10分
 
 ○馬場(ばば)/横浜市鶴見区馬場
 
   
▲旧藤本家住宅/主屋は江戸末期から明治初期にかけて建築。港北区篠原から当地へ移築・上棟されました。茅葺き屋根で歴史的建造物指定(馬場花木園)
   
▲旧藤本家住宅の納屋を東屋(茶室)に改造されて公開。茅葺き屋根  ▲馬場赤門/安政2年(1855)築。紅殻塗りの格式高い門(馬場赤門公園) 
いろいろな説がある地名の由来
 馬場の地名の由来は数多くあります。小田原北条氏の家人・諏訪三河守が居城し、馬場を設けたという説。また神社の神事の場として流鏑馬(やぶさめ)が行われた説。鶴見川右岸の舌状台地に位置することから馬場は“ハバ”を意味し、「山上に平坦地」という地形説もあります。
東海道・宿場町の助郷でした
 元禄(1688-1704)時代、幕末は幕府領といわれています。元禄以前は東海道神奈川宿、保土ケ谷宿の大助郷村でした。その後、馬場は元禄7年に神奈川宿の大助郷村となります。助郷(すけごう)とは、伝馬制度を維持するために、各宿場に人足や馬を用意。しかし交通量の増大や参勤交代時には周辺の村々から人足や馬を補充し、宿場を助けました。この助郷制度が、後々周辺の村々を苦しめることになります。
古民家を楽しめる馬場花木園
 建功寺周辺に古民家や緑道など見られます。急坂や石段も多く、歩くのにちょっと大変です。馬場花木園には旧藤本家住宅があって、無料で公開されています。丘陵に挟まれた谷戸だった所で、雑木林、竹林、池など変化にとんだ公園になっています。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 東急東横線菊名駅からバスで西寺尾建功寺前下車すぐ
  

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