富山県(とやまけん)

 ○梅沢(うめざわ)/富山市梅沢町
 
   
▲光厳寺/ドラマのロケ地用に登録 ▲大法寺/富山藩2代目藩主の菩提寺 
廃仏毀釈、空襲などの災難を乗り越えて寺町が復興
 江戸時代、富山城下南面の防備のため、約60の寺院を集めて寺町を形成。古くからあった古寺町に対してこの地は新寺町(通称)と呼ばれました。明治3年(1870)の廃仏毀釈に先駆けて富山藩は合寺令(ごうじれい)を公布して、藩内205の寺院を七宗七寺に統合。これによりこの辺りの寺院は打ち壊され荒れ果てました。しかし翌年の廃藩置県の後に寺院復興運動が盛んになり、少しずつ寺院が集まりだしました。しかし第二次世界対戦の空襲により再び壊滅。戦後になって復興しましたが、往時の面影はなくなってしまったそうです。
鉄筋の寺院が多い
 いま歩いて見ますと鉄筋コンクリート製の寺院ばかりで、風情は感じられません。しかし仏像や書画、典籍など貴重な文化財が残されたのが救われます。ところで、地名、梅沢の由来は「合寺令処理事務所」となった持専寺の山号・梅沢山の名を取ったことから梅沢町に変更したとか。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは市営城址公園駐車場に停めました
○西町(にしちょう)/富山市西町 
 
   
▲日枝神社/山王さんと呼ばれている ▲再開発で消えゆく飲食店街 
江戸時代は富山城下の中心地
 地元の守り神・日枝神社(山王さん)のあるところです。江戸時代の富山城下を大別すると、北西部は城郭、北東部は商人町、南西部は武家町、南東部は寺町でした。この西町はそれらの交差する中心部にあたり、高札場も設けられたのです。城下にやってきた農民たちの一揆が起こったのもこの辺りが最初。やはり城下の中心地だけに大勢の人々が集まるところでもあったわけです。
市街地開発で消えゆく寂しい町並み
 門前町は山王町から西町、大田口通りにかけて広がっていますが、グランドプラザなど市街地開発が進んでいるのが実情です。で、残された町並みの寂しい風情は、一部飲み屋街として残されているものの、廃墟のようでちょっと悲しくなります。幾筋もある通りの一つをよくよく観察しますと、「聖と俗の隣合わせ」理論から、かつての“青線”らしき雰囲気も感じられます。ともあれ、市街地開発で消えゆくちょっと寂しい町並みでした。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは市営城址公園駐車場に停めました
○新世界(しんせかい)/富山市中央通り3丁目 
 
   
▲見た目はごく普通の飲み屋街になっています 
かつては富山を代表する一大遊郭でした
 中央通りはアーケード街で富山を代表する繁華街でもあります。しかしながら中央通りも3丁目あたりまでくると、道も狭くなり静かな町並みになります。このあたりが、かつて赤線地帯と呼ばれ、昭和34年4月の売防法が公布されるまで旧遊郭のあったところです。しかし明治時代は、「東遊郭」とよばれ、娼妓300人以上いたと推定され、妓楼や貸し座敷、料理屋は150軒を越えたという一大遊郭でもありました。
飲み屋街に変わっていますが…
 しかしそれも第二次世界大戦の空襲で壊滅的な打撃を受けて消滅。その後新世界として細々と復活したわけです。いま細い路地を歩いていますと、スナックやバーなどの飲み屋街に変わっていますが、2階の窓辺の造りを見てみますと、なにやら往時の貸し席を彷彿させるような生々しさがよみがえるようです。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは市営城址公園駐車場に停めました
○水橋(みずはし)/富山市水橋西浜町 
 
   
▲幾筋もの川が流れています  ▲古民家が点在しています 
戦国武将も重要視したところです
 日本海に面し、白岩川が流れる浜辺の町です。地名は平安時代からあるとされるほど歴史があります。加賀藩政期、すでに東・西の水橋浦(幕府から公式の港として認可)が存在していたことでもわかります。戦国時代の有力武将の手紙にも、いたるところに「水橋」の見られ、それは越後-魚津-富山ルートで交通上、軍事上とても重要視されていた証拠です。特に常願寺川を大軍が渡航するさいの重要ルートでもありました。
下条川に架かる小橋を行ったり来たりして古民家を探す
 いま町を歩いてみますと、白岩川に流れる下条川沿いにいくつかの古民家が見られます。夕暮れ時、下条川にかかる小橋に夕日が映え、とても美しい光景を見ることができました。
 
  感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは白岩川沿いの空き地に停めました
○岩瀬(いわせ)/富山市東岩瀬 
 
 小さな町並みでも整備保存
 古くは石勢とも書きました。また「以波世」や「伊波世」と記した典籍もあります。神通川の河口を挟み、右岸を東岩瀬地区、左岸を西岩瀬地区と呼んだそうです。江戸時代は加賀藩の港町として栄えた小さな町並みです。100mほどを石畳を敷き、風情を醸し出しています。建物は富山の町家の様相を示しています。また回船問屋も残っています。
戦災から逃れた奇跡の町
 先の第二次世界大戦で、火の海となった富山市にあって、こうした古い町並みが残っていることに、感動を覚えると同時に、たとえわずかな建物でも後世に伝えていくべきでしょう。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
交通 クルマは海岸沿いの灯台前駐車場に停めました
 
○新庄町(しんじょうまち)/富山市新庄町 
 
金岡邸は薬種商の薬業資料館
 薬種商は富山県では交通,金融,教育,電力などあらゆる分野で力を発揮しました。県道316号線沿い(旧北陸道)に,300年の歴史を持つ金岡邸(国文化財)のほか何軒かの薬店が往時の面影をとどめています。特に万延元年(1860)の薬たんすは、当時の様子をそのまま伝え、富山の薬売りの歴史が感じられます。
全国を歩き回り薬を配置する
 富山の薬売りは、富山藩二代目藩主・前田正甫(まさとし)が江戸城で急病になった大名を薬で救い、各大名から薬の販売を頼まれたことがそのはじまりです。その後、薬売りは全国を歩き回り、薬を配置し、ふるさとへ帰ると“薬種商”として、原料を仕入れ自ら処方して次の旅の準備を整えたといわれています。
後で使用した分だけの代金を徴収するシステム
 長期信用取引制度といわれ、お得意さんに先に薬を預けておいて、後で使用した分だけの代金を徴収するシステム。現金収入の少なかった江戸時代にたいへん喜ばれ、富山の薬売りが発展、存続の大きな要因の1つです。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 富山地鉄立山線東新庄駅から徒歩5分
○八尾(やつお)/富山市八尾町諏訪町 
 
 ●おわら風の盆で人気爆発
 越中おわら節は,この地方の民謡ですが,特に「おわら風の盆」は哀愁を帯びた独特の音色が多くの人たちを虜にしました。そしてここ十数年,著名人たちの紹介もあって,一気に人気が出てきたのです。9月の盆踊りには,数万人が訪れ,大幅な交通規制が行われます。
飛騨と越中を結ぶ交通の要衝でした
 八尾は飛騨と越中を結ぶ交通の要衝で,養蚕,和紙など取引が行われいました。建物は,ほとんどが昭和時代のものですが,町並みを守ろうという意気込みが感じられます。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
○太田南(おおたみなみ)/富山市太田南町 
 
   
▲円光寺鐘楼/ドアを開けて梵鐘へ  ▲浮田家住宅/国の重要文化財 
歴代の藩主は農民一揆との戦いでした
 戦国時代は太田本郷村と称しました。歴代の藩主たちは農民一揆との戦いの歴史でもありました。江戸時代は加賀藩領。村高は2500石とかなりの穫れ高を示しています。
●加賀藩の森林保護や国境警備を務めた浮田家
 代々加賀藩の奥山廻り役を務めた浮田家は森林保護や国境警備にあたり、所蔵文書が多く残されています。いま当時の役宅をそのまま残されており、国の重要文化財に指定されています。なお、昭和17年に太田南町に変わりました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは浮田家前の駐車場に停めました
 
○上滝(かみだき)/富山市上滝 
 
   
▲旧遊里の面影はありません。改築、改装されており一般住宅化しています 
連なる古民家の果てに旧遊里の面影を見ました
 江戸時代の万治2年(1659)ころは家数6軒、後に16軒となり百姓は13軒で貧農村に変わりありません。農閑期には、柴や“ねず板”を城下に売ったり、成願寺川普請の日雇いで賃金をもらったりしていました。しかし、地理的にも交易に適しているということから、藩に何度も「市場開設願い」を出していましたが、天保2年(1831)にやっと許可がおり、市場町として急速に発展を遂げました。同時に近郊近在から、次男、三男の移住が盛んになり、林産物の集散地になっていきます。
一時期の賑わいはどこに?
 さらに立山参拝の入口にあたり、常願寺川の作業員の常駐などもあってたいへんな賑わいとなったのです。いまは往時の面影はなく、ひっそりとした町並みとなっています。県道43号線を渡り、富山地鉄上滝線の踏切近くにかつて遊里と思われる建物も見られました。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは北國銀行上滝支店の駐車場に停めました
 
○舟見(ふなみ)/入善町舟見 
 
   
▲大型の切妻型住宅が旧道沿いに点在しており、迫力のある建築です 
加賀藩主も泊まった北陸道・宿場町
 江戸時代は加賀藩領。加賀藩主らが参勤交代時、宿泊、休憩に本陣を利用しました。北陸道の宿場町として発展したのです。布名美、宇奈美とも書いたそうです。舟見のいわれは、海上を走る舟が見えたことによるとか。正保4年(1647)時の村高は885石で、水の便が悪いために灌漑工事を続け、寛政10年(1798)に愛本新用水が完成して、水田の開発が一気に進みました。そんな繁栄に引かれて、越後や信濃から越境する者が多く、加賀藩は鉄砲御渡を設置して取り締まったそうです。
舟見七夕まつりのにぎわい
 静かな町並みを歩いていますと、年に一度の「舟見七夕まつり」の賑わいはウソのようです。マラソン大会、花火大会、小唄町流し、鼓笛隊のパレードなどが行われます。町家は雪国に多い、特徴的な切妻型で真壁造りが見どころです。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは社会体育館駐車場に停めました
 
○生地(いくじ)/黒部市四十物町 
 
   
▲蔵造りの旧商家や町屋が並ぶ  ▲古民家がけっこう残っています 
   
▲魚の駅・生地/富山湾での獲れたての魚介類が並びます。レストランもあり 
漁場争いの歴史でした
 黒部川扇状地の末端にあるため、江戸時代から漁業の盛んな集落でした。そのため他村との漁場争いが絶えず、まさに漁場争いの歴史といっても差し支えないくらい。藩から出漁禁止の命令さえ出たこともありました。魚問屋も多く、住民の多くは漁業関連で生計を立てていたのです。幕末になると、新たに“新川木綿”が産業として生まれ、織り屋が20軒もあり年間18万反も取引をしたという記録が残っています。
漁村特有の切妻型の民家が見られます
 生地村は昭和29年に黒部市の大字となりましたが、生地のなかに四十物町、大町、宮川町などの通称名があり、今も残っています。いま通りを歩きますと、旧問屋とおもわれる土蔵や漁村特有の切妻型で板張りの家屋が連なっています。風向きによっては潮風の香りがする町並みでした。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは魚の駅生地に停めました
 
○本町(ほんまち)/魚津市本町 
 
   
▲町を歩いてみても、歴史のある町であることはわかります
魚津は加賀藩の越中支配の要
 江戸時代は加賀藩前田家の所領。文禄4年(1595)ごろには、旧松倉城下から寺社、町人たちが移住し、魚津は城下町として発展しました。元和元年(1615)の一国一城令により魚津城は廃城となりましたが、港町、北陸街道の宿場町として発展。富山、高岡に次ぐ加賀藩の越中支配の要となりました。その後、度重なる大火にも臆することなく、市街地は拡大します。幕末に30町を越え、人口も8000人を超えたそうです。
旧城下町でポツンポツンと出し桁造りが見られます
 現在の本町あたりが旧魚津の中心街で、荒町や馬出町、大町、寺町、元町、餌指町、下新町が集まっていまの本町になりました。本となった町ということで本町という名になったとか。いま本町辺りを歩いていますと、旧町名の解説板「旧町名の由来」を見かけます。歴史を大切にしている町だなあと感心します。また雪国らしい出桁造りの町家が点在しています。ちなみに魚津は、魚の集まるところという意味です。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは電鉄魚津駅前の駐車場に停めました
○滑川(なめりかわ)/滑川市大町 
 
   
▲廣野家住宅と中川/国の登録文化財  ▲北陸街道の旧滑川宿  
北陸街道沿いの宿場町・滑川宿
 旧北陸街道沿いの宿場町。戦国時代から滑川城を中心に兵馬の往来が盛んになり、江戸時代になって加賀藩が宿駅に指定しました。寛永2年(1625)にこの地の大町に藩主の休息所・御旅屋(おたや)を設置するなど、宿場町と同時に交易の町としても発展しました。
大火や高波にも屈っせず、その都度立ち直る
 もう一つの特徴に、大火があります。数百軒単位で何度も何度も大火にあいながらも、そのつど立ち直ってきたことです。また高波に襲われることも多かったようです。このように「水攻め、火攻め」の町でもありました。いま旧街道沿いに歩いていますと、出格子や袖壁を設けている町家などが続きます。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは滑川市役所の駐車場に停めました
 
○瀬羽(せわ)/滑川市瀬羽町 
 
   
▲旧宮崎酒造/国の登録文化財   ▲菅田家住宅/国の登録文化財  
   
▲旧土肥家住宅/国の登録文化財   ▲城戸家住宅/国の登録文化財 
北國街道沿いに国の登録文化財が4軒
 中川を挟んで東の大町とともに滑川の中心的町並みを形成。それにしても旧北陸街道沿いのわずかな距離に国の文化財が4軒もあるのは驚きです。しかも何度も大火に襲われながらも残った建造物だけに、よけいに貴重な存在です。
かつては滑川銀座とよばれ映画館もありました
 明治時代は、銀行、肥料商、米問屋、籐細工問屋や多の老舗が軒を並べ、近郊近在からの客で賑わったそうです。昭和に入ると滑川銀座通りとも呼ばれ、映画館まで開かれたとか。いまは静かな街道筋で、賑やかな往時の面影は見られません。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
交通
 クルマは滑川市役所の駐車場に停めました
 ○加島(かしま)/滑川市加島町
 
   
▲黒板塀の蔵を見つけました  ▲大幅に改築、改装された町屋 
   
▲獨勝寺/曹洞宗・役行者の寺院です ▲加積雪嶋神社/境内の芝生は最高 
加積雪嶋神社の広大な芝生は境内(?)
 旧北陸街道沿いの集落です。戦後、堺町、西町が合併し、さらに南町も合併。町名は加積雪嶋神社(かずみゆきしまじんじゃ)に由来します。街道を歩いていますと、松の合間から海を背景に加積雪嶋神社が見えます。広々とした境内(?)のなかにあるせいか、清々とした感じを受けます。神輿は市の文化財に指定されているそうです。また獅子舞も伝承されています。
防火の役割を担った袖壁のある町家が多い
 街村でもある集落は大部分が住宅地で、袖壁のある古民家もけっこう残っています。袖壁は、防火の役割をもっており、2階軒下の両方の妻に突き出した壁で、大火の多い地区で見かけます。
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通
 クルマは滑川市役所の駐車場に停めました
○領家(りようけ)/滑川市領家町 
 
袖壁と格子の美しい町家が並ぶ
 江戸時代は加賀藩領。海沿いを走る旧北陸街道沿いの集落です。村落は230石前後で農業、漁業が盛んでした。袖壁の残る町家も多く、かつて大火に見舞われたこともあるからか。細かい格子模様が美しい町家も見られます。歩いていて道幅がかなり広いので、静かでやや寂しい感じを受けてしまいました。
養照寺は加賀藩の本陣・脇本陣として利用
 ところで領家町は、二つに分断(飛地)されており、河端町に隣接する領家町には、養照寺があります。明応8年(1499)に創建された古刹で、寛永元年(1624)にこの飛地に移転してきました。寛政・天保年間(1789-1844)には加賀藩の本陣や脇本陣として利用されています。 
 
  感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは滑川市役所の駐車場に停めまし

                      ▲ページの先頭にもどる

○大門新(だいもんしん)/射水市大門新 
 
   
▲板壁の倉庫も林立しています  ▲石川屋/和菓子の老舗です 
江戸時代は加賀藩の中心地
 江戸時代は加賀藩領。承応2年(1653)に大門村から分離独立したことで“新”という字を与えられました。かつては庄川には渡しがありましたが、寛文6年(1666)に長さ42間(76m)、幅2間(3.6m)に橋が架かりました。ただ洪水も多く、その後いく度となく流されています。それでも町の中心地であることには変わりません。また北陸道・放生津宿へ向かう道を大門往来と呼んでいましたが、浜道と結ぶ重要な街道でした。ただそのルートは洪水で橋が流されるたびに変更されていました。
大型の板壁の建築群はみごと
いま町を歩きますと、和菓子屋「石川屋」の奇妙な建物に目が行きます。でも斜め向かいに“下見板張り”の建物群は石川屋以上に見事です。またここから先へ行くと遊郭も存在しましたが、いまはその面影も見られません。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
○二口(ふたくち)/射水市二口 
 
   
▲いまは往年の賑わいがうそのようです。古建築の意匠が美しい 
「二口熊野新宮」の参拝客であふれる
 江戸時代は加賀藩領。この辺りは平坦な土地ゆえに、穫れ高も高く村高も1000石を越えています。家数は112軒とさすがに多いです。慶長14年(1609)熊野山中(水戸田)鎮座の熊野神社は、前田利長によって高岡城の守護神として移そうとしました。移送の途中、この地にその一部で一社を創建したのが「二口熊野新宮」と呼ばれました。その後参拝客であふれ、“道番”を置くまでになりました。井波往来の二口十字路に「二口道番」が置かれました。
●漆喰の白さと木目の組合せが美しい
 ところで地名・二口の由来は、その昔、村々との間に重要な分水口があり、事態によってはこれを塞ぐので“塞口”(ふさぐち)と呼ばれ、それが転訛して二口になったそうです。境内の広い誓光寺にクルマを停めて集落内を歩きました。切妻型の真壁の町家が点々とし、白い漆喰の美しさが目に入ります。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは誓光寺の駐車場に停めました
○水戸田(みとだ)/射水市水戸田 
 
   
▲旧道沿いに古民家が続きます  ▲水戸田稲荷神社/旧道沿いに立つ 
相次ぐ大火が地名の由来か?
 もともと北の惣分にありましたが、大火のため全焼。そこで新しい村づくりを北陸往還筋に求めました。永禄(1558-1570)のころと言われています。西方寺も永禄5年(1562)にこの地にやってきました。まだ民家は6軒しかなく、やっと村づくりがスタートしたのです。もとは水土田、三戸田と書きましたが、藩政期になって宿駅となりましたが、相変わらず火災が多く、村民たちは火難を恐れて、水によって防ごうという民俗信仰に発したのが地名になったという説が有力とか。
幕府の巡見使が見回った街道沿いの宿場町
 宿駅には幕府の巡見使の宿がありました。また高札場、道番なども設置されています。いまは宿場の面影は見当たりませんが、旧家と思われる大型の町家が見られます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○海老江(えびえ)/射水市海老江 
 
   
▲漁村特有の板壁を中心にした建築で、歩いていますと潮の香りがします 
中世は京都・加茂神社の所領
 砂丘に面して発展した漁村集落です。中世は射水郡倉垣荘の内で、京都・加茂神社の所領。地名の由来は、海老潟があって、エビの生息地であったというが定かではありません。江戸時代は加賀藩領で村高は680余石で、さらに漁獲高がプラスされます。そのため廻船業を営む者も輩出。
板壁の町家が点々と見られます
 また旧北陸道の東岩瀬と放生津(ほうじょうづ)を結ぶ“浜往来”の中継点でもあるため、人馬の往来も盛んでした。魚を売買する兼業商人も多く、村は発展し続けます。さらに薬の行商を行う商人も出現しました。いま町並みは、漁村特有の板壁の続く町家が所々見られます。しかし往時の面影は少なくなっているのが現状です。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは海老江海浜公園駐車場に停めました
○山ケ(さんが)/射水市三ケ(白銀町) 
 
   
▲赤壁家/寛政2年創業の醸造家  ▲中村楼/文政7年創業の料亭  
北陸道沿いの宿場町・陣屋町
 富山地方には三ケと名の付く地名が多いようです。大部分が最初に3軒の農家があったからというのが、地名の由来のようです。旧小杉町では、小杉駅を中心に大きく広がっています。いわば大字にあたります。字名として白銀町、本中町、一番町などがあります。江戸時代は北陸街道の宿場町、陣屋町として大きく発展しました。これは加賀藩藩主前田利長が富山から高岡城に移ると、新たに北陸街道として整備されたものです。
いにしえの面影を感じ取れます
 本通りである街道沿いには本陣、商家などの町並みを形成。歩いていますと千本格子の赤壁家や寺院が見られ、往時の面影を感じ取ることができます。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはあいの風とやま鉄道小杉駅前駐車場に停めました
○戸破(ひばり)/射水市戸破(新町) 
 
   
▲竹内源造記念館/国の登録文化財  ▲小杉展示館/国の登録文化財 
   
▲旧小杉郵便局/大正13年築   ▲森永酒店/1902年創業  
「新町」に旧北陸道沿いの集落を見ます
 かつては「へわり」と読んでいました。「へわり」と記載されている辞典もあります。その昔、水不足なった時に、信州・戸隠へ雨乞いに行ったところ、たちまち戸を破るような大雨になったなどという伝説があります。戦国時代は、京都・加茂神社の荘園・倉垣荘でもありました。江戸時代は加賀藩領。旧北陸道は、江戸時代に入ると整備され、藩主の参勤交代に利用されると、町並みの基礎となる「新町」が誕生します。
文化財級の古建築が軒を並べます
 茶店や両替商、製陶業、油、味噌など多くの商家が軒を連ねました。いま下条川に架かる鷹寺橋を渡ると、やや道幅が広くなり、改装、改築された古民家が連なります。そんなに距離は長くないですが、往時の趣が感じられます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★★

交通 クルマはあいの風とやま鉄道小杉駅前駐車場に停めました 
○下村(しもむら)/射水市加茂中部 
 
   
▲いまは静かな旧北陸道  ▲格子のある町屋も点在 
北陸道沿いの宿場町
 江戸時代、旧下村下地区だけで穫れ高が3000石を越える大きな村でした。そのため政治経済の中心でもありました。加賀藩主・前田利長は高岡城築城と同時に町や街道の整備に着手。一時期廃れた北陸道を復活、参勤交代時の街道に使用しました。そのため小杉と同様に下村も宿駅に指定。伝馬や人足が置かれました。
最盛期の人家が200軒で、そのうち100軒が商家!
 最盛期は人家が200軒もあり、うち商家は100軒に及んだとか。いまは旧家と思われる屋敷が幾つか残されています。また格子のある町家も点在しています。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは下地区コミュニティセンター駐車場に停めました
 
○堀岡(ほりおか)/射水市堀岡 
 
   
▲旧道の裏道は路地のような狭い道  ▲渡船で対岸の越ノ潟駅から市街へ 
渡船のある町で知られるようになりました
 この無名の町が一躍知られるようになったのは、富山新港造成工事にともなう“港口切断”により廃止された富山地方鉄道と県道の代替えの交通手段として、渡船が設けられたことです。その間の反対運動は県外にまで広がり、堀岡の名前を知らしめるようになりました。それはともかく、堀岡の住民が高岡市街地に出かける場合、渡船を利用すれば、対岸の越ノ潟駅で万葉線に接続しているから比較的便利。それでも渡船の利用者は年々減少しているそうです。
旧道沿いに町並みが形成
 かつての旧道沿い街村を形成しており、木造の板壁を中心にした町家が多い。漁師町特有の町並みですが、商家らしき建物も見られます。港口切断工事により県道が途切れたことから、新しいルートは新湊大橋近辺に移ることで、少し寂しくなりました。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは県営渡船場前駐車場に停めました
○放生津(ほうじょうづ)/射水市放生津町 
 
   
▲内川/運河沿いを再開発し、「日本のベニス」として売り出し中! 
旧道沿いと川沿いの二つの町並みが見られます
 江戸時代は当初加賀藩領、のちに富山藩領となりました。町は漁業と外海廻船業や航海業が盛んでした。五箇山の木材はイカダで庄川を下り、放生津で船積みして小矢部川を上って城下に搬送、高岡城建築資材として利用しました。そのため放生津から高岡へ移転した住民も多かったそうです。
 それでも鍛冶職、船大工、油屋、たばこ屋、質屋、古道具屋など所業が活発になっていました。富山の代表的産業でもある5軒の売薬行商がおり、武蔵、越前、信濃、越後などに行商しました。
「日本のベニス」として売り出し中!
 町は江戸時代から東西に延びる街道沿いに広がっており、それは今も変わりません。改築、改装がすすみ古民家は数えるくらいになりました。しかし街道と平行して内川(運河)があり、近年「日本のベニス」として再開発しており、川沿いに町家が連なる光景は、もう一つの町並みを見ることができます。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは観光客専用駐車場に停めました
○港町(みなとまち)/射水市港町 
 
   
▲漁村独特の潮の香りがします  ▲隣家の境に防火が目的の袖壁 
浜街道、氷見道、高岡道の三本が通る
 江戸時代は富山藩領。といっても長徳寺村、六渡寺村、三箇新村など4か村に分かれていました。いずれも庄川や日本海での漁業を生業としていたのです。廻船問屋や各種商家などが集まり、浜街道(往還道)、氷見道、高岡道が通り、この3街道の交わる三叉路を追分と呼んでいました。
生活感あふれる下見板張りの見られる町
 町名は紆余曲折を経て、昭和42年4月に旧町名を合わせて命名。港をはじめ各施設を充実するなどして、富山県を代表する漁港として発展しました。いま活気ある港を少し離れて路地から路地へと歩きますと、漁村独特の香りと板壁の町家が並んでいます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは新湊漁港の駐車場に停めました
 
○庄西(しょうせい)/射水市庄西町 
 
   
▲改築、改装の手の入った古民家群  ▲道路に面した玄関先が主な改築場所 
漁師町ですが、木材の搬出港の町でもありました
 江戸時代の旧中伏木村は加賀藩領、六渡寺村は富山藩でした。その二つの村が元になって、現在では庄西町を形成しています。富山湾に面し、庄川の河口付近に町が形成されています。漁業が盛んでしたが、木材の搬出港でもありました。
改築、改装の手が入った古民家が連なる
 通りを歩いていますと、町家がギッシリ詰まっており、最近では高岡市への通勤客が多くなりました。万葉線六渡寺駅が近いこともあるかも知れません。極端に古い民家は見当たりませんが、間口の狭い木造の板張り住宅がかつての漁村を思わせます。しかも大部分が改築、改装の手が入っています。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは庄西コミュニティセンター駐車場に停めました
 
○山町筋(やままちすじ)/高岡市御馬出町 
 
   
▲旧北陸道に発展した商人町   ▲加賀藩2代目藩主・利長が開いた 
 ●土蔵造りが建ち並ぶ
 旧北陸道の両側に広がる城下町です。明治の大火にも蔵造りの建物だけが焼失を逃れました。ほとんど2階建て,切り妻造り,平入り,瓦葺き屋根,黒の漆喰塗りなどさまざまな形の建造物が見られます。さらに洋風のレンガ造りの建物 など,デザイン的にも優れたものが多いのです。
加賀藩主が隠居のために選んだ町
 加賀藩二代目当主の前田利長が隠居するのに選んだ土地といわれています。2000年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 
  感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 あいの風とやま鉄道高岡駅から徒歩10分
○金屋町(かなやまち)/高岡市金屋町 
 
鋳物師を移住させて造った町
 山町筋から徒歩10分のところにある町並みです。もともと近郊の金屋村から鋳物師を移住させて造った町です。
千本格子と石畳の美しいある町並み
 金屋町通りの両側には格子のある建物が並んでいます。石畳と千本格子がとてもマッチしていて,蔵の町・山町筋と違って,とても優しい感じがします。距離はそれほど長くありませんが,交通量も少なく落ち着いた町並みですので、ノンビリと歩けます。山町筋と同様に,重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 あいの風とやま鉄道高岡駅から徒歩20分
○伏木(ふしき)/高岡市伏木 
 
北前船の寄港地で京・大坂・江戸とつながる
 江戸時代はもちろん加賀藩領。それまで細々と漁業で生計を立てていた一寒村が、慶長20年(1615)に一大転機が訪れます。13隻による佐渡への運行が藩より許可。さらに幕府より、全国で13カ所の港に高札を立てるのですが、伏木がその一つになったのです。そのことは大き出来事で、その後海運取引関係の民家や旅籠、料理屋、倉庫などが建設されます。さらに加賀藩の積出港の一つとなり、北前船などで京、大坂、江戸への船運が盛んになりました。安政6年(1859)にロシア船が表れたときは、富山藩が軍勢を総動員し大砲を四方に配置したという騒ぎになっています。
ところどころ歴史的建造物が残ります
 偶然というべきか、観光地図で見つけた町並みです。実際に行って見て,洋館や平入りの蔵造りの建物が点在しています。規模はそれほど大きくありませんが,かつて北前船の寄港地であったころの面影は見られません。それでも趣のある歴史的な建物が残っています。
 
  感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR氷見線伏木駅から徒歩8分
○吉久(よしひさ)/高岡市吉久 
 
まだ観光客のいない古い町並み
 伏木から小矢部川の「如意の渡し」を経て対岸に渡りました。高岡から万葉線という路面電車が通っています。高岡から直接来るなら吉久駅で下車。観光客のほとんどいない古い町並みです。
幕末から昭和初期の建物
 人気のない町並みをのんびりと歩きます。吉久2丁目,3丁目あたりが目的地です。かつて米穀商たちが造り上げた町並み。主に幕末から昭和の初期に形造られました。平入りでひさしが突き出た雪国独特の建物です。なお2020年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 万葉線吉久駅から徒歩10分
○太田(おおた)/高岡市太田 
 
   
▲武田家住宅(国の重要文化財)/漆塗りの客室天井に驚きました 
測量のために伊能忠敬が通過
 江戸時代は加賀藩領で村高は1600石余とかなり大きな村でした。国泰寺は宝永5年(1708)、徳川綱吉から臨済宗の一派である法燈派総本寺を命名。しかしながら明治維新の廃仏毀釈で、相国寺に吸収され衰退。享和3年(1803)、測量のため伊能忠敬が通過したという記録があります。
築200年の重要文化財・武田家住宅
 重要文化財指定の武田家住宅は、寛政年間(1789-1801)から安政年間(1854-60)にかけて伏木勝興寺本堂が再建されたときの余材で建てられたそうです。周囲は古民家が点在し、切妻型で真壁(しんかべ)の民家が見られます。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★い
交通 クルマは武田家住宅の駐車場に停めました
○福岡(ふくおか)/高岡市福岡町福岡 
 
   
▲袖壁が特徴の2階家の古民家  
   
▲ミュゼふくおかカメラ館/平成12年に開館。安藤忠雄氏設計  ▲めづらしい近代木造建築もそこかしこに見られます 
●“福岡商人”を輩出するまでに発展
 高岡街道沿いにあるために、近世初期から市場として発展しました。承応年間、加賀藩の米蔵が移転してきて、町はますますにぎわいました。しかし米蔵が廃止されても、引き続き跡地を開発され、町の発展は止まることもなく、発展し続けます。のちに“福岡商人”よ呼ばれるようになるほど、商いを活発化させます。
出格子、虫籠窓、袖壁などのある古民家群
 特に特産の菅笠は全国各地に知られるほどの有名になり、仲買人14軒、仕入れ問屋11軒を中心に、さらに茶屋、油問屋、質屋、豆腐屋、蝋燭屋など数多くの商家が軒を並べるにいたりました。ちなみに加賀藩主の参勤交代時の休憩所として利用されるほどです。また特産の菅笠は第二次世界大戦後もアメリカに輸出され、珍しがられたそうです。いまは街道沿いに袖壁のある蔵造りの商家や出格子、虫籠窓のある町家などが見られ、往時の面影を彷彿させます。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはミュゼふくおかカメラ館の駐車場に停めました
 
 ○簑島(みのじま)/高岡市福岡町簑島
 
   
▲ 佐伯家住宅/国の重要文化財・1767年築で当時の豪農の様子がわかります 
真壁の切妻型民家が見られる農村
 純農村といってもいいのでしょうか、幹線道路が交わる十字路に立つと、のどかな田園風景が広がります。江戸時代は加賀藩領で村高は250石前後と小さい村でした。その十字路の脇に重要文化財の佐伯家住宅が建ちます。佐伯家は明和4年(1767)に東礪波郡福野町で今の住宅を買い取り、小矢部川を舟で運んできて今のところに建てたそうです。また十字路近くにある地域の守り神である三野(みの)神社は佐伯家が創建したと伝わります。
農村風景が広がります
 ところで、地名の簑島は、庄川流域の乱流荒廃した土地に自生していた菅草で蓑を作っていたことに由来するとか。いま歩いていますと、農村風景が広がりますが、ところどころ数軒の民家の塊が見られます。遠くには切妻型の真壁が見られますが、いずれもかなり大型の民家です。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○戸出(といで)/高岡市戸出町 
 
   
▲蔵造りの町屋が点在しています  ▲戸出御旅屋の門/市の文化財指定 
上使街道と高岡街道が交差する宿場町
 江戸時代は加賀藩領。はじめは灯油田(とうゆだ)と呼ばれていました。元和5年(1619)、16軒で村を起立。その後上使街道沿いに家屋が建ち、六斎市が開かれ新開地もでき繁栄しました。江戸後期には3代藩主・前田利常が御旅屋を建て、さらに千保川を舟運に用いられました。上使街道と交わるように高岡街道沿いにも家屋が建ち並びました。
大火のあと、定火消し30人が置かれる
 文化11年(1814)に117軒が焼失する大火が発生、その後、定火消し30人が置かれています。いま御旅屋の門が修復され市の文化財に指定されています。また蔵造りや大型の町家があちこちに見られます。
 
  感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは戸出コミュニティセンターの駐車場に停めました

                       ▲ページの先頭にもどる

○中央町(ちゅうおうまち)/氷見市中央町 
 
   
 ▲旧商家が軒を並べていますが、改築、改装が進みます
個性的な町が昭和43年4月に合併 
 それぞれ性格の違った町が昭和43年4月に合併して中央町になりました。漁業を商いとする人たちが多く住む旧今町、料理屋や妓楼などの花街が色濃い入船町、江戸時代は加賀藩領で、2000石前後の村高を持つ旧加納村など、なかなか個性のある集落でした。当時の記録を見ますと、芸者が30人、酌婦(娼妓)が約70人とか。
漁師町や旧遊里、商家が混じり合った個性的な町並み
 いま歩いて見ますと、海岸沿いには漁師町らしく、魚取社の鳥居も見られます。また商家や遊里と思われるような建物も並び、なかなかおもしろい町並みが見られます。歩いていて楽しい町並みです。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました
○今石動(いまいするぎ)/小矢部市今石動町 
 
   
▲旧道沿いに宿場が広がっていました  ▲旧家と思われる屋敷も健在です 
大地震で城が倒壊し、現在地に移転
 天正13年(1585)に大地震が起こり、小舟城が倒壊。城主・前田秀継夫妻は圧死。ゆえに城下町が崩壊の末に解散することになりました。その後嫡子・利秀が、今のところに城下町を築き、旧城下から住民を迎えて新たな町を造りました。地名はこのころに起こったといわれています。
北陸道の宿場町として発展しました
 その後、北陸道の要地となり、軍事、経済の中心地として発展します。年貢米の集散地となり、加賀藩の町奉行も置かれました。本陣、脇本陣、旅篭、茶屋などの施設が建ち、藩主の参勤交代や鷹狩りに使用されます。 いまは昔ながらの町家がポツンポツンと見られます。低い2階家で格子を張り巡り、防火の袖壁などを設けています。大部分は改築、改装されていますが、それでも昔ながらの面影を感じ取れます。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは福町神明宮の駐車場に停めました
○埴生(はにゅう)/小矢部市埴生 
 
   
▲源平の郷 埴生口/館内で木曽義仲をNHK大河ドラマに誘致の署名活動中 
倶利伽羅(くりから)峠越えの入口にある宿場町
 平安時代から戦国時代、江戸時代と続く歴史ある村名です。村高は1500石を越えるとか。北陸街道の倶利伽羅(くりから)峠越えの登り口にある宿場町で、休み茶屋、各種飲食店、商家が軒を並べたいへん賑やかな町を形成していました。また月に6日間、藩は馬借(馬による運送業者)を助成。当時馬は40匹余がいたそうです。
工芸品にも進出し盛況を誇る
 天保年間以降、木綿、糸挽きが盛んになり、さらに茶碗、香炉、水指、小火鉢などの作陶が盛り上がり、「竹亭焼」として称して工芸品にも進出し成功しました。いま旧街道沿いを歩きますと、静かで人通りが少なく、格子のはまった窓のあるたたずまいが続きます。ところで、地名は埴土(はにつち)すなわち赤土が生成した地帯だから名付けられたという説も。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは倶利伽羅源平の里の駐車場に停めました
○福野(ふくの)/南砺市福野 
 
   
▲料亭、妓楼などが見られます  ▲恩光寺山門/市の文化財に指定 
旧遊里の痕跡がわずかに見られます
 南砺市の遊郭跡は福光が有名ですが、ココ福野にもわずかに痕跡が見られます。恩光寺周辺に、料亭、茶屋、妓楼などの建物が残されており、まさに「聖と俗が隣合わせ」を見る思いです。江戸時代は加賀藩領。藩主の新田開発と用水の開削は同時に進められ、人口も年を追うごとに増えていったそうです。また農閑期で始まった木綿織りも、江戸時代からの基幹産業となりました。
いたるところに残る古民家
 さて、いま裏通りを歩きますと、古民家がそこかしこに残っています。地元では一般に福野というと、旧福野小学校の校区を指すとか。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは恩光寺境内に停めました
○福光新町(ふくみつしんまち)/南砺市福光新町 
 
   
 ▲舟岡家/神官や僧侶の法衣に使用された福光麻布を製造販売していましたが、平成12年で製造を終えました ▲松村謙三生家/戦後の農地改革、日中国交回復に大きな足跡を残した清廉な政治家。1971年死去 
   
▲雪国らしく下見板張に押縁のある町家がギッシリ続きます  
多種多様の商家がギッシリ軒を並べました
 江戸時代は加賀藩領。慶安4年(1651)に野尻村本江の阿曽三右衛門が藩に願い出て市場町として開村。それまであった福光村とは別に成立したのです。米穀商、酒屋、醤油屋、味噌屋、魚屋など多種多様の商家がギッシリ軒を並べ、かなり繁栄しました。また裕福な人々が多かったといわれ、近隣農民の金融の役割も果たしたとか。また農閑期の糸、養蚕、真綿などの稼ぎがありました。
南砺地方を代表する古民家群
 いま町を歩いてみますと、切妻型平入で袖壁のある町家が見られます。また雪国らしい下見板張りで押さえ棒(押縁)のある町家も点在しています。なお北へ歩くと南砺最大の旧遊里がありました。貸し座敷が14軒、娼妓が約20人いたそうです。 
 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは南砺市役所福光庁舎の駐車場に停めました
 ○城端(じょうはな)/南砺市城端西上
 
   
▲旧野村家の土蔵群/明治36年築   ▲桂湯/旧銭湯で昭和初期の建築  
善徳寺周辺や国道304号線沿いに見られます
 古い町並みは、浄土真宗大谷派・善徳寺周辺とその近くを走る国道304号線沿いに集中しています。この辺りは善徳寺の門前町として、さらに市場町として発達した地域で、いまでも商店街を形成しています。また五箇山の農家に貸し付けする商人、また大工、鍛冶に特権的に藩から屋敷を与えられていたり、藩の年貢米を扱う有力商人がいたりと、経済的にも大きな力を持っていました。
城端商人の遺産が見どころ
 城端商人は、その豊かな経済力を背景に文化的にも優れた遺産を残しています。善徳寺には数多くの文化財がいまも残されています。いまは国道304号線沿いに改築、改装されていますが、古民家群が見られます。また国道裏の善徳寺周辺にも格子窓や虫籠窓、出格子のある町家などが数多く見られます。特に旧野村家の土蔵群には圧倒されます。
 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは善徳寺の駐車場に停めました
○上梨(かみなし)/南砺市上梨 
 
   
▲民宿や食堂街/切妻型の大型町家  ▲村上家/国の重要文化財 
火薬の材料を生産して上納
 江戸時代は加賀藩領。元和5年(1619)の検地によれば、村高は115石と貧しい。農家は岩硝(火薬の材料)を生産し上納。また換金作物や商品は城端商人などに売ることで米と交換し生計を立てました。商品には岩硝、蓑、のし紙、中折紙などがあります。これは明治以降まで続きましたが、岩硝の衰退と共に養蚕業に転換しだしました。
いまは合掌造りを生かした民宿村として活動
 第二次世界大戦前までは典型的な農村集落を形成。戦後は国道304号線の開通で、交通量が増えさらに観光客も激増することで、民宿村に変わっていったのです。いまは小さな合掌造りの村を形成しながら、観光産業が中心となっています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました
○田向(たむかい)/南砺市田向 
 
   
▲流刑小屋/藩政時代の刑務所  ▲羽馬家住宅/国の重要文化財 
加賀藩の犯罪者の流刑の地
 江戸時代は加賀藩領。元禄3年(1690)から藩の流刑(るけい)配所村となり、幕末まで続きました。200人近い罪人が送られてきたそうで、藩内8カ所の内の一つで、現存しているのはココだけ。藩は庄川に橋を架けることを許さず、人の往来も極端に制限しました。罪人の逃亡を防ぐためですが、住人にとってはこのうえない迷惑な話です。それはともかく当時の村の戸数は30弱。村民たちは湯谷川の奥地まで畑を切り開いたそうです。年貢は塩硝、和紙などの産物を売って、これにあてました。また藩内の人形山のワサビも産物の一つとなりました。これらを合わせても、村高は120石足らずで生活は困窮を極めたとか。
雪国らしい美しい意匠の真壁造りが点在
 いまクルマで上梨集落から庄川をわたり急坂を上ると5分足らずで田向集落に着きます。切妻型の住宅で2階の庇が長く、壁は漆喰と柱を組み合わせ、外かあらも見えるようにした真壁造りです。落ち着いた典型的な山村集落です。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 羽馬家住宅の駐車場に停めました
○下梨(しもなし)/南砺市下梨 
 
   
▲地主神社の鳥居前にも古民家  ▲平坦地が広いので住宅も多い 
昔から地域の政治経済、交通の中心地
 五箇山域のなかで最も広い平坦地を持つためか中世から地域の中心地でもありました。今も昔も交通の要衝で、国道156号線と304号線の交わる所でもあります。地域の行政センターもココにあります。江戸時代は加賀藩領で村高は259石で幕末まで変わりませんでした。下梨村の産物は、塩硝(しょうせき)、中折紙、半紙、蓑などで、城端商人に売って生計を立てていたのです。
切妻型の大型家屋が目に付きます
 さて、古民家といってもかなりの大型で、板張りの壁と漆喰の組合せが似合います。いわゆる切妻型で真壁工法というべき建物。国道156号線の裏通りにけっこう残されています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました
○西赤尾(にしあかお)/南砺市西赤尾町 
 
   
▲岩瀬家住宅/国重要文化財・約300年前の五箇山最大の合掌造り    ▲行徳寺・庫裏/式台を設けるなど寺の庫裏として珍しい合掌造り
戦後もしばらくあった約50軒の合掌造りも消滅
 岩瀬家で解説をしてくれる古老は、「赤尾には戦後になってしばらくは50軒近い合掌造りがありました」といわれます。しかしそれもあっという間に消えていったそうです。山々が幾重にも重なり、岐阜県・白川郷まですぐ(16km)のところに位置しています。高速道路であっという間につながる今日ですが、藩政時代は城端や砺波に出るのに1日がかりでした。
2軒の合掌造りを中心にした小さな集落
 このあたりは塩硝(しょうせき)の一大産地で、黒色火薬の原料にもなり、藩にとっても重要な地域でした。硝石は家屋の培養土から造ります。しかしその後は塩硝の“硝酸菌”が全滅し、造ることができなくなったとか。その後は養蚕へと軸足を移します。それらはともかく、静かな町並みは国道156号線沿いに切妻型の大型家屋が連なっています。漆喰と板張りの組合せが美しく、小さな集落を形成しています。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは観光客用無料駐車場に停めました
○相倉(あいのくら)/南砺市相倉 
 
年貢は硝石を銀に変えて上納
 江戸時代は加賀藩領です。村高は121石余で、幕末まで変わりませんでした。年貢は硝石(しょうせき)を売り銀に交換して上納していました。さらに畑作や薙畑(なぎばた)を耕し自給。そんな売買で藩や城端町商人との間で深い関係が結ばれましたが、生活の困窮はかわりませんでした。
重要伝統的建造物群保存地区と世界遺産
 明治23年に城端町へ新道が開通し便利になりました。しかし昭和2年の自動車道は当地を通らず、交通路線から外れました。そのうち人も通らなくなり、早い内から過疎の村へと移行していたのです。そこで村民たちは、合掌造り民家を地域の発展の材料として、地域ぐるみで史跡となりました。その後、重要伝統的建造物群保存地区と同時に世界遺産にも登録され、観光で生きるという選択をしたわけです。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは観光客用駐車場に停めました
 ○菅沼(すがぬま)/南砺市菅沼
 
硝石の生産で生活を支える
 江戸時代はもちろん加賀藩領。このあたりは他村と同じで、硝石(しょうせき)を生産し、それを金や銀に交換して年貢としていました。それらを間に入って引き受けるのが、城端商人たち。しかし硝石だけでは生活できないので、和紙などの加工品を生産することで駄賃稼ぎを行っていました。また畑作で獲れた作物は自給とは別に余剰品は、城端商人との取引で差し引き勘定としました。明治に入ると、硝石の替わりに養蚕、製糸へと移ります。
糞尿で作られる火薬?
 硝石は火薬の原料となるものですが、江戸時代は、詳しいことはよくわかりませんが、糞尿などのアンモニアと植物を混ぜて発酵させて作ったそうです。五箇山で作られるのは「塩硝」と呼ばれています。
日本の原風景を思わせます
 田植えの頃に訪ねますと,なにやら日本の原風景を思わせます。本当に美しい風景です。この地も世界文化遺産に登録されています。手と手を合わせているような姿なので合掌造りと呼ばれます。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは専用駐車場に停めました
○井波(いなみ)/南砺市井波町井波 
 
 ●加賀藩領で商業の町
 江戸時代は加賀藩領。瑞泉寺の山門に広がる門前町として発展しました。また在郷町としても発展しており、毎月1日、3日、6日、8日の十二齋市が開かれていました。井波は比較的畑が多く、絹織物、蚕種、紺屋などの産業が発展し、日雇い、諸稼ぎによって生計を立てる人が多かったようっです。文化3年(1806)の戸数が540。鍛冶屋、大工などの職人が99人、で、商売屋209軒もあったというから、商業の町といっても言い過ぎではないでしょう。米作の不振は、扇状地では珍しく、水利の悪さに影響しているといえます。
瑞泉寺の門前に連なる古民家群
 瑞泉寺の門前に長く連なる古民家に、ほとんど平入の木造2階家で,庇が長くなっています。防火壁や漆喰がちょっとおしゃれな感じがします。裏手に回りますと蔵造りの家々が連なっています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは観光客用の大駐車場に停めました
○砺波(となみ)/砺波市 
 
屋敷林が散在する散居集落
 展望台に行くまでに,狭い県道をうろうろしながら,やっと目当ての展望台に着きました。人のいない静かなところです。展望台から眺める砺波平野の光景は,広々としていて気持ちがいいです。しかし今日はもやっとした天候に,散居集落の様子がわかりません。写真を撮るなら空のスッキリした秋から冬にかけてがいいでしょう。
垣入はスギが中心にケヤキやカキが混在
 散居集落とは,きちんと区割りされた敷地に,母屋,納屋,蔵などがあり,その周囲を垣入(かいにょ)という屋敷林で囲んでいるのです。そんな屋敷林が100~200mの間隔を置いて散在しています。出雲平野も散居集落だそうです。垣入はスギを中心に、ケヤキやカキなどが混植されています。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは展望台の下の無料駐車場に停めました
○太田(おおた)/砺波市太田 
 
   
▲入道家住宅/散居集落で屋敷林を備えた大規模農家。県の指定文化財 
屋敷林(防風林)に囲まれた大型家屋が点在
 大きな平野にあるにも関わらず、一戸一戸がお互いに散らばって住んでいるところを散居集落といいます。砺波平野は、最も典型的な散居集落の地域です。防風林(屋敷林)に守られた農家の住宅は、一戸あたりの敷地面積は日本一といわれ、田畑は屋敷の周囲にまとまっています。江戸時代は加賀藩領。村高は正保3年(1646)で2000石を越え、さすがは米どころです。しかも家数が元和5年(1619)当時で27軒というから、諸々の事情(数字など)を差し引いたとしても、一軒あたりの耕地面積はかなり広かったと思われます。
隣家までかなりの距離
 いま歩いて見ますと、隣家までかなりの距離があるので、散居集落にいるという実感がわいてきます。ところで太田の地名は、昔から、初穂米を伊勢太神宮に献上していたことから、大神宮の「太」と田んぼの「田」を合わせて太田としたのが由来。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 ○金屋(かなや)/砺波市庄川町金屋
 
   
 ▲木村産業社屋/昭和4年築。昭和のモダン建築ブームの頃の近代建築 
材木とともに発展した集落
 2段にわたる河岸段丘に位置するするためか、坂道の多い集落です。金屋は古民家の多い町並みがあります。江戸時代は加賀藩領ですが、藩が発展するにつれ急激な材木の需要が起こり、庄川上流の五箇山、白川方面に材木を求めました。すでに文禄3年(1594)には、金屋に広大な材木置き場を設置。ここから用水を通して各地に運ばれたのです。金屋は材木と共に発展した集落といえます。
古民家群と昭和モダンの近代建築
 2本の国道が交わっているところだけに、交通量が意外に多く、のんびりと町並み見学のできないこともあります。古民家は板張りと白漆喰の組合せの妙が美しいといえます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました

                       ▲ページの先頭にもどる