鳥取県(とっとりけん)

○立川(たちかわ)/鳥取市立川町 
 
「立川焼」ってなに?
 江戸時代は鳥取城下四十八町のひとつで町人の住む町でした。鳥取城の下を流れていた立川が町名の由来だとか。江戸末期の文化7年(1810)に隣接した矢津村より出火した火災は、立川を含む山の手一帯を焼き尽くしました。寺院や商家、一般の町屋など焼失家屋は1235軒にも及んだとか。通称゛立川焼゛と呼ばれたそうです。
寺院の周囲に土蔵造り
 目につくのは、天台宗大雲院です。鳥取東照宮の別当寺院に建立。明治2年に現在地に移転。また寺院の周囲に土蔵造りの古民家が見られます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマはコンビニの駐車場に停めました
 
○鹿野(しかの)/鳥取市鹿野町鹿野 
 
   
▲白壁と板塀が美しい鹿野往来沿い  ▲格子のある商家が多く残っています 
城下・宿場町の名残り
 関ヶ原の戦いで鹿野城主の亀井茲矩は徳川方に寝返り,その功績により石高は加増につぐ加増で3万8000石にまでになりました。その亀井氏の時代に,現在の城下町がほぼ形成。
 城下町ですが鹿野往来(伯耆中道)が通り,江戸時代初期から宿場町として発展。牛市も開かれるなど,在郷町としての賑わいを見せていました。
商家や武家屋敷などの古民家が多数残ります
 今は商家などの町家が多く残されており,武家屋敷の名残も見られます。これほど数多くの古民家が残されていますと,本当にうれしくなります。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは鹿野往来交流館童里夢駐車場に停めました
 
○青谷(あおや)/鳥取市青谷町青谷 
 
藩政時代からの街道沿いで、西国廻船の寄港地
 伯耆(ほうき)街道沿いの宿場町です。米子往来,鳥取往来,また因幡(いなば)往来ともいいます。鳥取から米子に至る街道で,ほぼ国道9号線に沿っており、藩政時代からの街道です。戸数48の集落ですが,制札場,本陣,藩倉などがあり西国回船の寄港地でもあります。そのためかなり繁栄したようです。
古民家がギッシリ詰まる
 白壁のある土蔵造りの商家,格子戸のある町家などギッシリ詰まった美しい町並みでした。しかし今は空き家,廃屋が多く,鉤型に屈折した道筋が往時の面影を残しています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは勝部川沿いの道端に停めました
 
○長瀬(ながせ)/鳥取市河原町長瀬 
 
●河川交通の要でした
 鳥取から京都に至る智頭街道(上方往来)は,千代川の舟運を乗降を繰り返しながら用瀬宿へと続きます。この地は,智頭川と八東川の合流点で,河川交通の要でもありました。米や薪,炭を高瀬舟で鳥取へ運び,智頭方面からは筏流しの中継点でもありました。同時に酒造業も盛んで,豊富な伏流水と良質の米に恵まれたからです。
●豪壮な屋敷が消えていました
 そこで,千代川沿いに多くの土蔵や酒蔵が林立すると聞いて,出かけましたが,見事に消滅し,その後には戸建て住宅団地が形成されていました。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 長瀬公民館駐車場に停めました
 
○用瀬(もちがせ)/鳥取市用瀬町用瀬 
 
智頭街道沿いの宿場町
 江戸時代は鳥取藩領。智頭街道(上方往来)沿いの宿場町として栄えました。また隣の佐治村へ行く佐治往還の出発点でもありました。参勤交代の休憩所として藩主以外にも上級藩士専用の御茶屋もあって,藩の重要宿場でもあったのです。街道沿いには8町(約900m)も続く町並みに,毎月6度(2,7の日)の市が開かれました。
土蔵造りの商家や格子窓のある町家など多数
 JR因美線の東側に旧智頭街道があります。土蔵造りの商家や格子窓のある町家など多くの古民家が残り,往時の繁栄ぶりが偲ばれます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは山陰合同銀行用瀬支店駐車場に停めました
○網代(あじろ)/岩美町網代 
 
   
▲路地の両側の漆喰や板貼りを利用した古民家  ▲本瓦や赤瓦で葺いた屋根が多く見られます 
江戸時代からある歴史ある漁村
 日本海に突き出た浦富海岸の西端にある江戸時代から続く漁村です。すでに鎌倉時代の古文書にはその名が見られます。で,網代とは,漁師が網の所有者から売り上げ高に応じて天引きされることを「あじろ」「あみしろ」と言われたことに由来。
路地の両側に古民家がギッシリ詰まる
 歩いていると,漁港の空き地でつり下げられたイカの天日干しを見つけました。漁村らしい光景です。その足で狭い道を奥深く入っていきますと,蔵や板壁の民家や土蔵造りの商家などがギッシリと並んでいます。潮の香りが心地良い町並みでした。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○田後(たじり)/岩美町田後 
 
   
▲路地や石段の両側にも民家がギッシリと連なります 
●延々と続いた防波堤造り
 文禄年間(1592-96)に、石見国の漁師が住み着いたそうです。江戸時代は浦富村の一集落でしたが,明治時代に分村。純然たる漁業の町です。嘉永年間(1848-54)に1000両も投じて築かれた田後港築堤は、明治23年の大激浪で壊滅しました。その後延々と復興工事が行われました。それは戦後なっても、防波堤造りが続きます。
木造3階建てが続く漁村
 家屋はわずかな平地に木造3階建てが並び,さらに狭い急坂や石段、路地の両側にも続きます。ほとんどが戦後の建物です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは田後漁港の駐車場に停めました
 
○岩井(いわい)/岩美町岩井 
 
   
▲町の至る所に古民家が見られます  ▲大通沿いには多くの旅館が林立 
小さな川沿いに風情あり
 鳥取藩初代藩主池田光仲は,岩井温泉を藩の直営温泉とし,以来湯村と呼ばれました。江戸末期には温泉場が8カ所あったとか。
山陰本線の激しい誘致運動
 明治43年に山陰本線岩井駅が開設されました。この鉄道誘致運動は県政史上、もっとも激しい運動だったと言われています。地元が海岸線派と岩井温泉を通過する温泉派のふた派にわかれたそうです。結局、折衷案として現在の位置に決まりました。また駅名についても激しく争い、時の総理大臣・桂太郎の判断で群名の「岩美駅」となりました。
大正時代が岩井温泉の全盛時代
 大正11年の岩井軌道の開通は岩井温泉の全盛時代を迎え、京阪神から多くの入湯客を呼びました。当時、県内にはあまり温泉がなく、岩井温泉だけで県内宿泊者の半数以上を占めたそうです。芸者、娼妓、貸し座敷も増え、遊郭もかなり賑わったそうです。
人力車や乗合馬車が20台も運行
 町を歩いていますと、木造3階建て旅館が残ります。また娼妓の通った貸し座敷など、花街風情も見られます。華やかさの中にも落ち着いた町並みが見られます。
当時芸者は30人ほど。人力車や乗合馬車など20台もあったそうです。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
○用呂(ようろ)/八頭町用呂 
 
   
▲用呂は小さな集落で、路地が続きます  ▲歩いていますと土壁の蔵が目立ちます 
豊臣秀吉の来襲で兵火に遭う
 古くは養老とも書いたそうです。天正年間(1573-92)の豊臣秀吉の来襲で、古刹・祥雲寺は灰燼に帰し、天正16年(1588)に当村に帰農した矢部氏の子孫により再興されました。
目を見張る矢部家住宅
 江戸時代は鳥取藩。村高は600石弱。矢部家は江戸時代から代々大庄屋を務めており、その豪農ぶりには目を見張ります。建物(写真)は江戸中期の建築といわれ、県下でも最古の民家のひとつだとか。国の重要文化財に指定されています。矢部家の周辺は普通の農村で、その落差に目を引きます。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
○若桜(わかさ)/若桜町若桜 
 
   
▲カリヤ通りには、庇(ひさし)の突き出た豪雪地帯特有の町家が見られます 
●裏通りを「蔵通り」という
 JR鳥取駅から若桜鉄道に乗ってやってきました。駅を出た瞬間、意外に発展しているな、という感じでした。町から受ける感じというか、なにか匂いというべきか、歴史のある町から受ける感じです。
 若桜は裏通りが、蔵通り(写真上)といいます。蔵の窓にいろいろな形があって、見ているだけで楽しいものです。壁の下部は板塀で囲み、上半分は土壁や漆喰で固めたものなど、いろいろです。
●表通りのカリヤは雪国特有
 表通りをカリヤ通り(写真下)といいますが、カリヤとは家屋から突き出た庇(ひさし)のことで、雪国特有の風景です。かつてはこのようなカリヤがずっと続いていたそうです。雨でも雪でも傘がいらのは、うれしい造りです。ちなみに青森県ではコミセ,新潟県では雁木(ガンギ)といいます。なお2021年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
大阪から特急バスで3時間
 大阪から特急バス(日交)なら3時間で着きます。帰りはバスで帰りました。バス停は駅前ではなく、10分ほど離れた、国道29号線沿いにあります。当初、このバス停を探すのに苦労しました。ただし若桜停車は1日2本のみです。 
感動度★★★
 
もう一度行きたい度★★
  交通 若桜鉄道若桜駅下車徒歩6分。大阪から直通バスあり
 
○茗荷谷(みようがだに)/若桜町茗荷谷 
 
但馬道北往還沿いの村で木地師が居住
 春米(つくよね)川上流の過疎の小さな集落です。一周しても15分もあれば十分。そんな村ですが江戸時代は鳥取藩領で,村内を氷ノ山越えの但馬(たじま)道が通り,奈良尾に達する但馬への北往還の役割を果たしていました。いまは国道482号線がやや離れた所を通っています。またかつて木地師が居住していたのは,良質の木材があったのでしょうか。
典型的な農村風景が見られます
 のんびりと村内を歩いていますと,土壁の蔵や白壁の蔵,板貼りの古民家など,典型的な農村の姿を見ることができます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○岩屋堂(いわやどう)/若桜町岩屋堂 
 
二つの川沿いに古民家
 天正9年(1581),秀吉の鳥取城攻略時に岩屋堂村は灰燼に帰しましたが,この岩屋堂だけが残ったそうです。山間の小さな集落で,古民家は吉川川,八東川沿いに板壁の町家が少し残っている程度です。
因幡の黒皮不動とも称された
 窟堂とも書きました。本尊の不動明王は弘法大師の作で、江戸の目黒・目赤の両不動尊とともに本朝三不動の一つで、因幡(いなば)の黒皮不動と称されたそうです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは岩屋堂駐車場に停めました
 
○落折(おちおり)/若桜町落折 
 
平家落人伝説の集落で平姓が多い
 国道29号線を県境に向かって進みますと,小さな『平経盛・隠棲伝説の地』看板が見えます。平家の落人が居住したことから落居村と呼び,後に落折村に変わったとか。もっとも平家の落人伝説は中国山地や九州の各地にあって,それほど珍しいことではありません。ただ落折集落の全員が,明治時代から平姓を名乗っています。
旧道沿いに古民家が集中
 江戸時代鳥取藩は,この戸倉峠越えの道を播州に至る本道としました。急な坂道を峠に向かって歩きますと,板塀や板壁の古民家が多く見られます。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○智頭(ちず)/智頭町智頭 
 
   
▲町の至る所に古民家が見られます  ▲西村克己映画記念館 
山間に開けた宿場町
 鳥取藩では最大の宿場町と言われました。本陣や商家、町家、土蔵などいたるところに往時の面影をみることができます。ここは畿内と結ぶ智頭往来と備前街道の分岐する要衝だったからでしょう。とくに庄屋として豪商でもあった石谷家住宅は,国の登録文化財となっています。他にも文化財が多数あります。
吉永小百合や山口百恵主演映画を撮った西河克己監督
 街道を歩いていて気がつくのは、酒屋でもないのに、ほんんどの民家の軒先に杉玉が下がっているのです。また山口百恵や吉永小百合主演映画などで知られる西河克己監督の記念館もあります。西河克己は父親の就職で一家が東京に移るまでの4年間、この地で過ごしたそうです。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR因美線智頭駅から徒歩10分
 
○板井原(いたいばら)/智頭町市瀬板井原 
 
   
▲板井原川に沿って立つ古民家群  ▲豪雪の中でも営業するカフェ和佳
豪雪地帯の農村集落
 智頭駅前には積雪は見られなくても、ひと山超えると豪雪地帯です。そのうちのひとつ板井原集落は、茅葺きなど伝統的な村が形成。一時は完全な過疎となりましたが、少しずつもどりつつあるそうです。工芸村として生きていこうということです。その中心地が茶店「野土花」(のどか)。冬場でもただ一軒、明かりが見えます。最近「古民家カフェ・和佳(のどか)」に店名が変更になったそうです。
板井原川に沿って立つ古民家群
 さて、土蔵や民家、農家など板井原川に沿って建っています。県道は除雪も行われているので安心ですが,裏は完璧な雪道です。ラッセルしながら歩きました。鳥取県伝統的建造物群保存地区に選定
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR智頭駅からタクシーで往復3000円でした
 
○橋津(はしづ)/湯梨浜町橋津 
 
藩の財政を支えた潘倉の町
 鳥取藩の年貢米を収納する米蔵が設置されている所です。現存している米蔵は3棟ですが,文化5年(1808)には米蔵14棟,計屋(はかりや)1棟が建っていました。最大で約5万俵の年貢米を収納したといわれています。収納された年貢米は藩の船で大坂に運ばれ、鳥取藩の財政を潤していました。橋津の潘倉(はんそう)は鳥取藩のなかで最大規模でした。潘倉は全国的にも希少価値の高いものです。
移住者も増え、船頭や商人の出入りする賑やかな港町
 倉を警備するふだんから厳重で、倉に仕える人夫38人、各村から人夫300人が交代で責任分担して警備。もちろん火消し用具も揃っています。また年貢米を川船で運ぶ仕事は「役目札」を持つ村民の特権で、廻米津出しも村民の専業でした。近郊近在からはもちろん他国からの移住者も増え続け、船頭や商人の出入りする賑やかな港町へと発展しました。  
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○由良宿(ゆらしゅく)/北栄町由良宿 
 
   
▲遠藤家住宅(由良潘倉の役人)  ▲道祖尾家住宅(刀鍛冶の末裔) 
   
▲佐伯家住宅(旧由良本陣跡)  ▲街道沿いに古民家が見られます 
街道沿いに古民家群
 砂原の一角に小さな集落が最初。ところが藩主池田氏がこの地を水陸交通の要となることを見抜き,享保4年(1719)に潘倉を設置。さらに道路を荷車の通行出来るように拡張,近隣住民の移住の奨励により,伯耆街道(米子往来)の宿場町として形成されていったのです。
『名探偵コナン』で町おこし
 由良川支流の前川を挟んで,古民家群が街道沿いに続いています。これだけの町家が残っているのも「まちづくり運動」が盛んだからでしょうか。また地元出身の漫画家青山剛昌氏の『名探偵コナン』で町おこし。青山剛昌ふるさと館では数々のイベントを行っています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 


                       ▲ページの先頭にもどる

○倉吉(くらよし)/倉吉市魚町 
 
   
▲町中にも古民家が残っています  玉川沿いに倉が並びます 
白壁の土蔵群
 2度目の訪問です。玉川沿いに並ぶ白壁の土蔵群が印象的です。「赤瓦1号館」は,大正時代の醤油蔵を改造したもので,八号館まであります。重要伝統的建造物群保存地区に選定。
倉吉の地名は近世になってから広がる
 白壁土蔵群の南側に打吹(うつぶき)城跡があります。守護・山西氏が居城として築かれた城で、別名倉吉城とも呼ばれます。ただし、倉吉城なる呼称は近世になってからです。つまり倉吉なる地名は、打吹城築城後と推定されます。
脱穀の農機具「稲扱千歯」が全国シェア8割を占める
 名産のひとつに稲扱千歯(いなこきせんば)があります。米の脱穀に使用される器具で、県内の良質なたたら製鉄を背景に千歯の一大生産地となりました。元禄年間(1688-1904)に始まったといわれており、鍛冶町、小屋町を中心に周辺で製造しました。江戸時代は「伯耆千歯」、「倉吉千歯」の名を広めました
。とくに職人が全国をまわり、修繕、販売する独自のサービスで、全国シェアの8割を占めたそうです。  
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR倉吉駅からバス明治町下車徒歩15分
 
○八橋(やばせ)/琴浦町八橋 
 
武将たちの争奪の地
 戦国時代から水陸運の要衝です。そのため尼子軍と毛利軍の奪い合いが続きます。毛利の勝利となりますが,今度は鳥取城で豊臣側と対峙。結果,和解となって八橋は毛利氏の支配下となります。
 江戸時代になると伯耆街道(米子往来),さらに八橋往来(倉吉-八橋間)を整備し,宿場町として発展しました。
小泉八雲夫妻も訪れた格子のある町並み
 明治24年(1891)に小泉八雲・セツ夫妻が伯耆旅行の途中に訪れています。いまは,格子の美しい古民家が多く,蔵造りと共に美しい街並みを形成。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマはJA鳥取中央なでしこ店駐車場に停めました
 
○赤崎(あかさき)/琴浦町赤崎 
 
   
▲伯耆街道を歩いていますと町家の形に飽きません  ▲改装前の古民家は空き家になっている例が多い 
●長々と続く古民家群
 これだけ長い距離に立地する古民家群を久しぶりに見ました。距離は関宿(三重県)に匹敵するかも知れません。ただし文化財級の民家が少なく,町家が多いのですが,窓のアルミサッシ化などほとんどが改装,改築など手が加わっています。
宿場町,港町の面影
 寛永年間に伯耆(ほうき)街道の宿場町,港町として開け,鳥取藩の潘倉,さらに船番所も置かれるなど要衝の地となりました。蔵造りの商家が多く見られますが,木綿を扱っていました。また菊港は鳥取藩6大港の一つにまで発展しました。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは菊港駐車場に停めました
 
 ○御来屋(みくりや)/大山町御来屋
 
   
▲街道の裏手は漁師町特有の板貼りの町家が続きます  ▲景観を守るために改装された軒下の深い古民家 
宿場町と漁師町の比較
 この変わった地名は,後醍醐天皇が隠岐を脱出し,当地に上陸した所から男嶋崎を御来屋に改名したという説が有力とか。
 中世の伯耆街道は山沿いを通り,海岸沿いは江戸初期にはいってからです。寛永14年(1637)に,領内25カ所の宿駅の一つに数えられていました。以後,宿場町として幕末まで続きます。
旧道沿いにゆるやかなカーブの続く古民家群
 ゆるやかなカーブを描く街道沿いの両側に,格子の美しい平入の町家,蔵造りの商家などの古民家が続きます。また海側に一歩裏手に入ると,総板貼りの漁師町特有の町家が並んでいました。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは御来屋漁港の空き地に停めました
 
○所子(ところご)/大山町所子 
 
   
▲江戸時代後期から町割りは変わっていません  ▲伯耆地方の伝統的な農村集落を保っています 
   
▲門脇家住宅/国の重要文化財  ▲田畑と一体となった所子集落 
美しい農村集落が見られる
 鎌倉時代は,京都の下鴨社領で,江戸時代は鳥取藩領となり現在の大まかな集落の形が出来たようです。江戸時代中期には,村の北側に門脇家住宅を中心とする新たな屋敷群が形成され,元の屋敷群をカミ,新たな屋敷群をシモと呼ぶ集落形態に発展。屋敷構えと周辺の農地,旧態を留める町割りと水路などが一体となって保存されています。
重要伝統的建造物群保存地区に選定
 いまは全体で50世帯前後で,静かな農村風景を見られます。水路の水音が意外に大きく,塗り直された黒板壁が美しさを保っています。重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○富吉(とみよし)/日吉津村吉富 
 
   
▲路地歩きが楽しくなる富吉の集落です  ▲蔵も板壁が主流になっています 
ギッシリ詰まった古民家群
 周囲を米子市に囲まれながら“孤高”を保てるのは,日吉津(ひえづ)村には製糸会社からの莫大な固定資産税が入ってくるからです。
 それはともかく戦国時代は,破壊と新田開発を繰り返す戦乱の時代といえました。しかし江戸時代に入って,田畑の開墾が進み出雲方面からの移住者もやって来るほどに発展。
美しい板壁、板塀のある集落
 古民家のほとんどが下見板壁で,さらに補強するために細い棒で押さえています。手入れが行き届き,歩いていても気持ちいい集落です。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○米子(よなご)/米子市岩倉町 
 
幼い米子藩主に代わって辣腕を振るった家老・横田村詮
 もともと小さな漁村でした。中世には伯耆(ほうき)守護。山名氏の支配を受けた東の小高城下が中心でした。
 江戸時代は関ヶ原の戦いで家康軍に加わわったことで、慶長5年(1600)、駿府城城主の中村一の子・11歳の中村一忠が米子へ移封。伯耆17万5000石へ与え城下町を形成しました。実際に城下町建設に辣腕をふるったのは、叔父で家老の横田村詮(よこたむらあき)です。
海運の遺構が色濃く残る
 江戸から大正にかけて海運が栄え,北前船の寄港地でもありました。とくに加茂川沿いとその周辺に,古い町並みが形成されています。最近は景観が壊れつつあるようです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 鳥取大学医学部駐車場(1時間100円)に停めました
 
○寺町(てらまち)/米子市寺町 
 
●9ヵ寺が一直線に並ぶ
 江戸時代は米子城下の通称地でしたが,明治に入って寺町となりました。慶長年間(1596-1615),米子城主中村氏の町づくりの一つとして,各地にあった寺が集められて寺町を形成。城の北側の砂丘地に建ち並んだ寺は,一面では城下町防衛の狙いもあったようです。実際に幕末には,寺が武士の宿泊所になったりしました。
連日、寺院で盛大な茶会を催す
 また米子は松江(出雲)と並んで茶道の盛んな所。そこで寺院を利用した盛大な茶会が開かれました。いま直線の通りに9ヵ寺が並び,著名人や武士,町人の墓地があります。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはコンビニに停めました
 ○淀江(よどえ)/米子市淀江町淀江
 
一時期、「淀江酒」が米子の酒屋を圧倒しました
 米子往来(伯耆街道)沿いの宿場町ですが,港町としても発展。また庄屋・柄川彦右衛門は摂津国・伊丹の酒造り技術をを移入,「淀江酒」として販売し,天保年間(1830-44)に造り酒屋が12軒に増えたとか。嘉永年間(1848-54)に入ると、とうとう米子の酒屋連中が「近年、淀江の酒屋に売り押されて……」と代官に嘆願したほどでした。
●街道沿いに出桁造り
 旧街道沿いを歩くと,軒の深い出桁造りの町家が見られます。
 地名の由来は、古代の淀んだ入江であったことにちなむとか。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは米子信用金庫淀江支店に停めました
 
○法勝寺(ほっしょうじ)/南部町法勝寺 
 
交通の要衝で宿場町として発展
 米子から法勝寺を経て奥日野へ通じる道と出雲国・母里(もり/現・島根県安来市)へ向かう道の分岐点にあたります。交通の要にあたるため,宿駅が設置され,さらに宿場町として発展しました。
鉄の運搬で米子や日野の馬夫たちとの争いが絶えない
 このあたりは鉄の問屋が多く,周辺の鉄を集荷し米子へ送り出していたのです。鉄の運送は馬夫たちの稼ぎとして重要で,米子や日野の馬夫たちと特権を巡って争いになっていました。また雲州木綿の出荷も盛んでした。

街道沿いに古民家がわずかに残ります
 入母屋造りや木枠を生かした本棟造り,出桁造りなどの町家が少し残っています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 南部町総合福祉センターの駐車場に停めました
 
○江尾(えび)/江布町江尾 
 
   
▲壁などは改装していますが,往時の面影が見られます  ▲切り妻で赤瓦の大屋根が特徴の町家です 
藩の番所も置かれ、物資往来の中継地
 戦国時代は江美とも記されました。江戸時代初期の古文書には,すでに宿駅として記されていました。以後,幕末まで日野往来の宿場町として機能を果たしていたのです。備中,備前,備後国から大山詣での拠点,さらに美作(みまさか)と米子を結ぶ物資往来の中継地でもあり,しかも藩の番所も置かれるなど交通の要衝でした。
まるで古民家の博物館
 歩いていても長い街道沿いの両側に古民家が残され,しかも,看板建築から蔵造り,平入り,妻入りなどの多種類の建物が見られるのです。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは総合健康福祉センターに停めました
 
○宮市原(みやいちはら)/江府町宮市原 
 
白壁の土蔵や入母屋造り
 かつて若一王子(現・宮市神社)を中心として市が立ち,近郊近在の人たちが集まったことから名が付いたとか。もともと宮市村は黒曜石や屑石,鉄鉱石などが採掘されましたが,幕府が大坂に鉄座を設け,自由販売を禁止。その後,鉄山経営は衰退し,明治に入って新田開発となり,明治14年(1881)に5戸が入植。宮市に“原のような”土地が出来,新しい宮市原が誕生しました。
懐かしい農村風景が見られます
 船谷川下流の宮市と比較して小規模の集落で,白壁の土蔵や入母屋造りの家屋が残るなど,農村風景が見られます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○下蚊屋(さがりかや)/江府町下蚊屋
 
後醍醐天皇が「今日は蚊帳はいらない」?
 この奇妙な名前は,カヤが生い茂っていたという説,後醍醐天皇が「今日は蚊屋(蚊帳)はいらない」といった説があるようです。
 享保年間(1716~36)に日本三大牛馬市の一つ大山牛馬市が開かれる際,美作国から助沢村を経由して市に参加していました。しかしより短距離となる当地を経由するようになったのです。そのため宿場的な要素が強くなり,物資などの通行量も増えることで発展したとか。
●入母屋造りのある純農村
 改装されていますが,大型の入母屋造りなどが並び,純農村の面影を見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは農協下蚊屋集出荷場に停めました
 
 ○溝口(みぞくち)/伯耆(ほうき)町溝口
 
駅を出ると鬼だらけ
 最古の鬼伝説があると言われており、町おこしにも鬼が使われています。鬼ミュージアムや各種鬼のモニュメントなど、町は「鬼だらけ」です。
蔵造りの虫籠窓や格子に目を引きます
 出雲街道沿いの宿場町で、松江藩主の参勤交代時の休憩所(茶屋)でもありました。またここから日野往来が分岐しており,江戸時代は交通の要衝でもありました。とりたてて著名な建造物があるわけではありませんが、商家、町家など伝統的な様式を持った建物が残っています特に蔵造りの意匠や格子は目を引きます。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 伯備線伯耆溝口駅から徒歩5分
 
○二部(にぶ)/伯耆町二部 
 
こぢんまりとした宿場町
 この奇妙な地名は,所領が“何分の二”に分割されたことに起因しているとか。江戸時代は早くから宿場として発展しており,松江藩などの参勤交代の道筋で本陣も置かれていました。
大型の入母屋造の農家などがまとまって残る
 二部地内は良質な砂鉄の産地でもあり,タタラ製鉄が盛んでした。この製鉄作業の途中で不良品が出ますが,これを“鉧(けら)”といいます。近年,この鉧があちこちで発見されています。

 旧出雲街道をのんびりと歩きますと,虫籠窓のある町家,蔵,大型の入母屋造の農家などがまとまって残っています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは農協二部支所の駐車場に停めました
 
○根雨(ねう)/日野町根雨 
 
●隣接する松江藩の参勤交代の宿場
 江戸時代は鳥取藩領で,出雲街道沿いの宿場町です。隣接する松江藩主の参勤交代の重要な宿場になっていました。また寛文年間(1661~73)には渡船場,御茶屋などが整備されたとか。
「県民の建物100選」
 本陣の門や近藤家住宅のたたずまいが往時を伝えています。近藤家は江戸期から明治,大正,昭和と産業・経済の中心となった豪商です。根雨の街並みは「県民の建物100選」に指定されています。

 米子駅から伯備線でやってきました。山間の宿場町は、静かでホンワカ気分になりました。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR伯備線根雨駅から徒歩10分
 
○黒坂(くろさか)/日野町黒坂 
 
一方で黒坂は城下町でもあります
 寛永14年(1637),日野往来の宿駅として古文書に明記されていますが,宿の機能はなく人馬継立のみを行う“駅”であったように思われます。江戸後期になると,馬は14匹に増えています。ところで,毛利氏の朝鮮出兵のおり,吉川氏に留守を命じられた所でもありました。吉川氏は黒坂に城を築き,手兵で守りを固めたといわれます。つまり黒坂は城下町でもあります。
町家が静かに並びます
 静かな町ですが人の気配はありません。町並みを眺めていますと,出桁造りの町家で,ほとんど空き家のようです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○多里(たり)/日南町多里 
 
最奥の黒坂宿よりもさらに最奥の宿場町
 鳥取藩の日野往来最奥の宿場町は,黒坂宿でした。ところがさらに奥地に多里宿が形成されたのは、鍵掛(かつかけ)峠を越えて備後,備中へ向かう道と竜駒(りゅうのこまだわ)峠を越えて出雲横田へ至る分岐点にあたることからです。さらに鉄の産出という経済上の理由もあるとか。さらに番所も置かれ,定期市の他に牛市も開催されていました。
多くの町家が改装
 かつての賑わいは見る影もなく,今は静かな佇まいを見せています。虫籠窓のある蔵造りの商家や出桁造りの町家などが見られます。ほとんどが改築、改装されています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 

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