栃木県

○小幡(おばた)/宇都宮市小幡 
 
   
▲蔵造りの豪華な店蔵が点在し、江戸時代大変な賑わいを見せました
二つの街道の分岐点
 古くは小旗とも書きました。日光街道,奥州街道の分岐点にあたる宿場町です。江戸時代は本多氏の城下町,市場町としても繁栄。小幡は城郭外の西方に配置された足軽組屋敷のあった場所の一つ。城郭外、特に街道口の防備の役割をを担ったものと考えられます。
明治以降は裁判所が移転、閑静な住宅地となります
 明治17年(1884)に県庁が栃木市から移転,名実と共に中心地となりました。明治21年始審(ししん)裁判所が曲師(まげし)町から移転、町域のの半分の約1万坪が裁判所の敷地となりました。始審裁判所とは従来の地方裁判所のことで、軽犯罪の裁判が中心。その後再度地方裁判所の名称に変更されます。これにともない弁護士や代書人の事務所が多くなり、従来の武家屋敷群と合わせて、閑静な町並みとなります。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東北本線宇都宮駅から徒歩30分
 
○大谷(おおや)/宇都宮市大谷町 
 
   
▲国の登録文化財・旧大谷公会堂  ▲至るところで石蔵を見ます 
さすが石の町です
 大谷に来ると,むき出しの岩肌など独特の景観に驚きます。大谷石で造った高さ27mの平和観音像,巨大な地下採石場などもあります。観音付近には、石材、土産物の店が並び門前町を形成しています。
採石場の地下空間を生かした大谷資料館
 地下採石場跡には大谷資料館が建っています。広大な地下採石場を生かして地下空間に広がっています。さすが石の町だけに,大谷石で造られた家屋が所どこに見かけます。数は少ないです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○白沢(しらさわ)/宇都宮市白沢町 
 
奥羽街道の宿場町
 日光街道の宇都宮から別れた奥羽街道の宿場町です。天保14年には本陣,脇本陣,旅籠が13軒を数えました。白沢宿は正確に言うと、隣の上岡本村の一部を含んで形成。上岡本村の福田家は白沢村の宇加地家とともに代々問屋、名主、脇本陣を勤めています。
馬市が立ち、買い入れ金の一部を藩が補助
 街道に面して茶屋、諸商店が軒を連ね、アユ、白沢ゴボウなどの料理が名物でした。また馬市も開かれ、一時期500頭もの馬が集まったこともありました。と言うのも宇都宮藩が馬の買い入れ金の一部を補助していました。
堀割にコイを流す
 いまは堀割に鯉を放流し,水車を回したりして,宿場町の雰囲気を盛り上げています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは河内郵便局に停めました
 
○徳次郎(とくじろう)/宇都宮市徳治郎町西根 
 
奇妙な石の町並み
 “とくじら”ともいいます。で,ひと気のない奇妙な町でした。旧日光街道沿いの町ですが、石でできた町なのです。蔵も町家も石なのです。もちろん普通の木造や鉄骨造りもあります。小さな農村ですが、石は裏山から切り出した徳次郎石といわれ、大谷石と同質だそうです。
珍しい石瓦葺き屋根
 江戸時代は宇都宮潘で,日光街道の宿場町でした。かつて石瓦葺きという屋根でしたが、今は少なくなってきたそうです。それにしても石瓦葺きは中国貴州省ではなんども見ましたが、日本でははじめてです。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○雀宮(すずめのみや)/宇都宮市雀の宮 
 
江戸末期には越後国出身の遊女がいた
 日光街道の宿場町です。元和年間(1615-24)に街道が形造られましたが,雀宮宿は新しく造られた宿場だそうです。江戸の末期には本陣,脇本陣が各1軒,旅籠は38軒。この旅籠には40人の飯盛女(遊女)が居て,ほとんどが越後国の蒲原郡出身者だったとか。やはり同郷の人たちでかたまるものである。
徳川将軍が立ち寄った雀宮神社も近い
 国道4号線とほぼ重なっていますが,ところどころに板塀で囲まれた町家があって,ちょっと落ち着きます。徳川将軍が日光社参の折りに必ず参拝する雀宮神社もすぐそこにあります。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東北本線雀宮駅から徒歩10分
○鹿沼(かぬま)/鹿沼市上材木町 
 
規模の大きい宿場町です
 江戸時代末期の天保14年(1843)には,鹿沼宿の人口は2844人,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠21軒とこのあたりとして,そこそこ規模の大きい宿場でした。
田町は日光街道壬生通り、内町は例幣使街道を名乗る
 ところで昔からある田町とそして新興の内町との対立は利権争いを生みました。というのは,街道,宿場の整備で,宿場入口が内町に設けられたことから田町との対立が激化。一説には内町通りは日光例幣使街道を名乗り,田町通りは日光街道壬生(みぶ)通として,お互いの利権を守ったとか。いま例幣使街道沿いには,古民家が散見されます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武日光線新鹿沼駅から徒歩20分
 
○楡木(にれぎ)/鹿沼市楡木町 
 
日光街道壬生通り沿いの宿場町
 元もと日光街道壬生通りの宿場でしたが,京都から例幣使が通るようになってから例幣使街道と呼ばれ,一気に発展。隣の奈佐原宿と相宿を構成。当時の記録を見ますと宿割りは寛永年間(1624-44)に実施されました。『楡木宿割帳』によれば1軒の間口が7間半(13.63m)と定められ、60軒が割り当てられています。
かろうじて残る町家
 本陣は仲町に1軒、脇本陣は仲町に2軒,旅籠は15軒などが整備されていました。もちろんそんな面影は見られません。古民家もかろうじてポツンと残っている程度。
 
感動度★
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 交通 東武日光線楡木駅から徒歩10分
 
○喜連川(きつれがわ)/さくら市喜連川本町 
 
   
▲蔵造りの町家と御用堀  ▲寒竹囲いの武家屋敷 
御用堀と寒竹囲いの家と「やすらぎの散歩道」
 喜連川藩主・煕氏は飢饉や大火から町を守るために生活用水の確保に走りました。平成2年,現存する御用堀の改修工事を行ない,鯉を放流して「やすらぎの散歩道」として開放。裏に寒竹囲いの家が続きます。寒竹囲いとは、板塀などは製作維持がたいへんなので、笹の密集を利用して、生け垣にすることです。
野口雨情の夫人は喜連川出身
 詩人・野口雨情の夫人「ひろ」は喜連川の出身です。旧家の高塩家から明治37年11月に北茨城・磯原の雨情のもとに嫁ぎました。
廻米を巡る奥州街道VS各脇往還の争奪戦
 江戸や大坂に送る御用米、すなわち廻米(かいまい)を中心とする荷の取り合いが街道別に激化していました。つまり奥州街道の問屋と各脇往還の問屋との争いです。元禄8年(1695)には、奥州白河の問屋が陸奥白河藩藩主・松平氏に、奥州街道経由の廻米の許可を求めたため、関街道沿いの1町9ヶ村および喜連川村など奥州街道沿いの8町との間に論争が起きました。これは抜本的な解決策がなく、このあとも延々と続くのです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは本町交差点角の無料駐車場に停めました
 
○櫻野(さくらの)/さくら市櫻野 
 
奥州街道沿いの集落
 奥州街道沿いの集落です。江戸時代,宇都宮藩と下総の佐倉藩とが交互に入封したこともありました。また奥州街道氏家宿の助郷でもありました。
大相撲・12代行司木村庄之助と瀧澤家住宅
 櫻野を語るとき相撲を切り離すことはできません。12代木村庄之助は心願成就のため土俵一式を奉納,以後櫻野八幡宮の奉納相撲が行われてきました。
同時に近くの瀧澤家住宅で、相撲との関わりを知る写真や、文書、行司衣装、軍配などの展示も行われます。旧奥州街道を歩きますと,古民家がところどころ見られます。特に瀧澤家住宅は,伝統的な板塀と立派な長屋門などの屋敷構えは往時の面影を残しています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは八幡宮に停めました
 
○大田原(おおたわら)/大田原市中央 
 
城下町と宿場町で発展
 大田原藩1万2400石余の城下町で,同時に奥州街道の大田原宿としても発展しました。同時に日光への日光北街道、塩原街道も通る要地で那須北部の交通の中心地でした。
1万石クラスの大名が堂々の城構え
 ところで大田原藩は慶長7年(1602)、城主・大田原晴清が4500石を加増され、合わせて1万2416石とギリギリ大名の資格を得ました。一般に1万石クラスの大名は城はなく陣屋がが通例でした。ところが大田原藩は堂々の城構え。以後、明治維新まで変わることなく居城していました。その後、戊辰戦争で旧幕府軍による攻撃で三の丸が炎上、明治6年(1873)、廃城令により廃城となります。
蔵造りの民家が見られます
 町並みに城下町としての面影は感じられませんが,所々蔵造りの民家が見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは栃木県庁那須庁舎に停めました
 
○黒羽(くろばね)/大田原市黒羽向町 
 
   
▲この地も石蔵が点在します ▲国の登録文化財・足利銀行 
要塞堅固な黒羽城
 黒羽藩の城下町です。慶長5年(1600)、徳川家康は上杉征伐にあたって、陸奥との国境の軍事的要衝として重視。そのため役人らが派遣されました。さらに家康の特命で、防備強化のため城を改築したそうです。黒羽城は那賀川と松葉川(前田川)に挟まれた丘陵の崖上に築城された山城です。
12月「暮市」はたいへんな賑わい
 城下町は、特に向日町は関街道の陸運,さらに那珂川の水運を利用した交通の要地で,3,8日は市が立っていました。なかでも12月は18、23、28日の市は「暮市」と呼ばれかなり賑わったそうです。いま町を歩きますと,蔵造りや平入りの古民家が点在。かつての繁栄ぶりを偲ばます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは足利銀行の駐車場に停めました
 
○馬頭(ばとう)/那珂川町馬頭 
 
   
▲国の登録文化財・飯塚家住宅  ▲古民家も改築改装されています 
江戸時代は交通の要衝
 江戸時代は水戸藩領でした。水戸から黒羽へ向かう往還と奥州棚倉から江戸へ向かう往還が合流する交通の要衝。特に煙草,米の出荷,積み出しでにぎわい,多くの人たちで賑わったそうです。
地名は水戸黄門が馬頭村に改名
 地名の由来は、もともと武茂(むも)村といいました。元禄5年(1692)、水戸藩藩主・徳川光圀が当地を訪れて十輪寺を参拝。そのとき本尊が馬頭観世音であることを知り、寺を馬頭院と改称させました。さらに村名も馬頭村と名付けたそうです。  
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは那珂川町役場に停めました
 
○烏山(からすやま)/那須烏山市中央 
 
絶えず変わった藩主が江戸中期で落ち着く
 江戸時代,烏山藩は領主が絶えず変わっていました。享保10年(1725)になって近江国から若年寄の大久保常春が2万石で入封し,ようやく藩主として定着します。以後,明治維新まで8代,約150年にわたって在封。
古民家が消えていく町
 で,町を歩いていると,いたるところで道路の拡幅をしており,片っ端から蔵など古民家を壊している光景を目撃しました。道路を拡幅して町おこしに成功した例はありませんが、難しい問題です。

 それでも,あちこちに土蔵造りの商家や格子のある民家が残っています。 
感動度★
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 交通 クルマは足利銀行の駐車場に停めました
 
○石橋(いしばし)/下野市石橋 
 
日光街道・宿場への助郷負担に苦しむ村民たち
 日光街道の宿場町の一つ。本陣,脇本陣が各1軒,旅籠が30軒と中規模の大きさでした。日光街道は,日光社参など公用に伴う通行が多く,助郷を含めて大変な負担だったとか。そのため人馬の割り当てを担当する元締め・宿問屋と争いは各地で勃発しました。寛永3年(1626)、徳川家光の100回忌にあたり、石橋宿と助郷村(12ヶ村)との間で、問屋不正をめぐる大騒動が起きました。
●消えつつある往時の面影
 駅から近いので、ちょっと歩いてみました。歩きながら古民家の少なさに驚きます。残念な町並みでした。
 
感動度★
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 交通 JR東北本線石橋駅から徒歩10分
 
○小金井(こがねい)/下野市小金井 
 
土蔵造りの古民家
 日光街道15番目の宿場で,家数は126軒あったそうです。本陣,脇本陣,旅籠は40数軒もありました。一方,米造りは盛んでしたが,江戸への搬出は半田河岸の河川港を利用しました。また農家が旅籠,茶屋を営む者もでたとか。五穀栽培のほか,野菜造りや男は往還稼ぎや草履造り,女は木綿織を行なっていました。
一里塚は国の史跡に指定
 いまは国道4号線とほぼ重なっており,一里塚は国の史跡に指定されています。将軍家の休憩所となった慈眼寺は,新田義兼が一族の祈願所として建立。 
感動度★
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 交通 JR東北本線小金井駅から徒歩12分
 
○小山(おやま)/小山市中央町 
 
「小山評定」はあるや無しや!?
 中世は小山氏の居城で,慶長13年(1608)ごろから元和5年(1619)までは小山藩主・本多正純の城下町を形成しました。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いを前にして、有名な「小山評定(おやまひょうじょう)」が開かれました。徳川家康が上杉討伐に向かう途上、小山に本陣を置きます。そのとき、石田三成の挙兵の一報が入り、翌日家康は急遽諸将を集めて軍議を行います。いわゆる小山評定です。ただ、一次資料がないことから、後世の創作、家康の神話作りであるとする歴史研究者の多いのも事実です。
古民家風の建物が…
江戸時代は日光街道・小山宿でした。いま小山宿通りを歩きますと,道路の拡幅で宿場の雰囲気はゼロ。少しばかりの古民家風の建物が残っています。
 
感動度★
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 交通 JR東北本線小山駅から徒歩10分
 
○間々田(ままだ)/小山市乙女 
 
   
▲小川家住宅(国の登録文化財)  ▲いしや呉服店/地元の老舗です 
日光街道の宿場町
 江戸時代は日光街道の宿場町として発展しました。本陣,脇本陣のほか旅籠50軒,居酒屋16軒もあったとか。交通機能は河川もあり,乙女河岸は周辺地域のから江戸への米の積出港でもありました。
宿場の長さが1km余
 
宿場の長さは南北9町50間(1072.7m)とけっこう大きい。地子免許は3600坪にわたる広範囲を指定しています。地子(じし)とは、町屋敷などにかける税のことで、農村の年貢米にあたります。つまり宿場を形成するうえで、商人を誘致する条件のひとつで期間限定で税を免除するというもの。 
 感動度★
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 交通 JR東北本線間々田駅から徒歩10分
                
             
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○栃木(とちぎ)/栃木市入舟町 
 
   
▲重厚な建物が残っています  ▲街道沿いには店蔵がギッシリ 
蔵の町が都市景観賞を受賞
 巴波川沿いに黒塀に囲まれた8棟の蔵(写真上)が並んでいる写真は有名です。しかしそれだけではく、日光例幣使街道沿いには黒漆喰で造られた見事な土蔵が並んでいます。聞けば栃木市内には約400もの蔵が残っているそうです。1995年には都市景観大賞「景観100選」を受賞しています。まさに「蔵の町」です。
栃木城の打ち毀しが商人の町になるきっかけ
 江戸時代に栃木城が出来て,19年後には打ち壊されました。これで城下町から商人町へと転換することで,町の性格が激変したことが大きいようです。 
感動度★★★
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 交通 クルマは近くの駐車場に停めました
 
 ○嘉右衛門(かうえもん)/栃木市嘉右衛門町
 
   
▲例幣使街道の入口の登録文化財が目立ちます  ▲天明年間創業,味噌・田楽の油屋傳兵衞本店 
歴史的建造物が連続して続きます
 街道が穏やかなカーブになっており,両側には歴史的建造物がズラリと連続しています。かつての日光例幣使街道を彷彿させるような感じです。交通量も比較的少なくのんびりと歩けました。見世蔵,白壁土蔵,町家,さらに近代建築と続きます。
岡田嘉右衛門が独力で開発する
 天正年間(1573~92)に,岡田嘉右衛門が独力で新田開発,その後岡田家は畠山氏の陣屋となりました。また巴波川(うずまがわ)舟運が開かれ,栃木町を中心に大きく発展。現在岡田記念館として広大な敷地と数々の宝物が残されています。
なお、実際には「かえもん」と呼んでいます。 
感動度★★★★
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 交通 東武日光線栃木駅から徒歩25分
 
 ○金崎(かなさき)/栃木市西方町金崎
 
   
▲旧本陣跡(古澤家)  ▲街道沿いの大きな旧商家です 
日光例幣使街道沿いの町
 正保年間(1644-48)に京都からの例幣使が定例化すると,例幣使街道の宿場町として発展しだしました。明和元年(1764)から道中奉行支配となって正式に金崎宿となりました。ちょっと遅いような気もします。
加宿や助郷がどんどん増えるほど発展する
 本陣1軒,旅籠12軒,人馬継問屋1軒とそれほど大きくないことから、加宿(かしゅく)として深見内、新宿の2ヶ村と助郷4ヶ村が指定。明和3年(1766)には和久井、真名子など15ヶ村が助郷となりました。加宿とは宿場での事務や人馬の用を補助するす役目を担う隣接の村。つまり、加宿や助郷がどんどん増えることは、宿場が発展していることになります。しかし助郷に指定された村の負担の苦しみは想像を絶するものであったでしょう。
古民家が点在
  いまは県道131号線の両側に古民家が少々残る程度です。
 
感動度★
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 交通 東武日光線金崎駅から徒歩5分
 
 ○富田(とみだ)/栃木市大平町富田
 
徳川家康の柩が通過しました
 元和元年(1615),徳川家康の棺を日光に埋葬するために,富田宿を通過したときにはすでに,宿場としての機能が備わっていました。正保3年(1646),幕府から例幣使街道の伝馬宿に指定されとか。のちに宿場は,新町,上町,中町,荒町,下町の5町で構成され,かなり大きな宿場であったことが想像できます。
趣のある洋館も見られる
 富田交差点の一画に,本陣跡の石碑が建っています。古民家もわずかながら見ることができます。また旧大平下病院の板壁の洋館は趣があります。 
感動度★
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 交通 東武日光線新大平下駅から徒歩5分
 
○合戦場(かっせんば)/栃木市都賀町合戦場 
 
皆川宗政と宇都宮忠綱と戦った戦場跡
 地名に惹かれてやってきました。かつて皆川宗政と宇都宮忠綱とが戦った古戦場(川原田合戦/大永3年・1523)にちなむそうです。このとき皆川氏が勝利しましたが、多くの家臣も討ち死にしたそうです。
例幣使街道の宿場です
 例幣使街道の宿場町でもあります。毎年4月,朝廷から幣帛(へいはく)のための例幣使が京都から派遣されていた時の街道です。幣帛とは神道の祭事において神に奉納するものを指します。本陣や脇本陣は普通の民家になって往時の面影はありません。ただ磐根神社に向かう道筋に古民家が残っていました。
日立製作所の創業者生誕の地
 もう一つの自慢は,日立製作所創業者・小平浪平の生誕の地(写真)でもあります。建物は街道沿いに残されています。  
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 交通 東武日光線合戦場駅から徒歩7分
 
○野木(のぎ)/野木町野木
 
宿場としての歴史は古い
 もともと野木神社の周りに住居が集まってきたのがはじまりです。その後,街道筋に出て馬継が開始され野木村が成立。さらに慶長7年(1602)に本野木村と新野木村が合併して野木宿になりました。それから整備が進められたのです。
●横道に入ると往時の面影
 このあたりの日光街道は,国道4号線とほぼ重なっています。ところどころ古民家が見られますが,往時の面影は見られません。「野木宿入口」の小さな立て札があります。そこで一歩,横道にそれますと,一気に雰囲気がよくなるのです。
 
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 交通 JR東北本線野木駅から徒歩20分
 
○真岡(もおか)/真岡市荒町 
 
   
▲町家風木造住宅もの多い  ▲石蔵を民家に改造されています 
真岡木綿の生産拡大で一気に発展します
 江戸時代,寛文5年(1665)ごろには下野(しもつけ)木綿として生産されていたとされています。そして徐々に知名度を増して、享保年間(1716-36)には真岡木綿の名で江戸に広がりました。もともと農家の農間余業として行われ、のちに買い取り問屋主導の家内工業に発展していきました。真岡木綿の発展に寄与したのが渋川屋とされています。江戸で「冬暖かくて、夏用いて涼しく、肌触りよい」と行商に力を入れ、ついに大丸との取引に成功。さらに大丸のつてで、京都・朝廷に献上して、一気に全国展開。
意外にも多い古民家
 そのせいか町には商家が目立ちます。ところが文政年間(1818-30)に効率のいい足利木綿に圧されて消えていきます。意外にも古民家が多かったように思えました。
感動度★★★
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 交通 クルマは真岡信用組合の駐車場に停めました
 
○益子(ましこ)/益子町益子
 
瀬戸から技術を導入して特産物に指定
 焼き物のふるさとでもあります。江戸時代,黒羽藩が当時瀬戸から伝わった焼き物・瀬戸焼を藩の特産物として,奨励保護しました。そして農家の余業として徳利,土鍋,土瓶などを鬼怒川を利用して江戸に運んだそうです。その「後御産物瀬戸物役所」まで置いて支配したとか。
茅葺き屋根の民家や商家
 瀬戸物市に何度か訪問したことがありますが,ふだんはとても静かな町です。駅前や県道沿いに益子焼きの専門店がありますが,人は見かけません。歩いているとところどころ茅葺き屋根の民家や商家を見かけます。
 
感動度★★
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 交通 クルマは町営駐車場に停めました
 
○七井(なない)/益子町七井
 
   
▲真岡鐵道七井駅  ▲旧七井村農業倉庫/石蔵造り 
江戸時代から交通の要衝
 江戸時代からの交通の要衝で,奥州街道喜連川宿や白沢宿,日光街道宇都宮宿の助郷を勤めたところでもあります。そのせいか天保年間(1830-44)には,喜連川藩,大田原藩,黒羽藩,幕府など多くの藩の所領でした。 
地名は七つの井にちなむそうです
 なだらかな台地上に位置します。地名は、蟹の井、滝の井、室の井、蓬莱の井、亀の井、愛宕の井、桜の井の7井にちなんでいますが、もちろん異説もあるようです。
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 交通 クルマは真岡鐵道七井駅前広場に停めました
 
○茂木(もてぎ)/茂木町茂木
 
明治にたばこ産業の発展
 ところどころ土蔵造りの商家が見られます。明治以降の建物です。以前から煙草の生産が盛んに行われてきましたが,明治に入って,葉たばこ,刻み煙草の生産額が急速に伸び,西の広島県と肩を並べるにいたりました。7つの委託工場4000人近い従業員がいました。それに伴い,多くの飲食店,芸者の置屋などもあったりしたのです。
煙草生産の委託が止まると大不況が…
 煙草は東京や茨城方面へ幾つかある茂木街道を利用して出荷。しかし煙草生産の委託が解消されると一気に大不況がやってきたとか。
 
感動度★
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 交通 クルマは足利銀行駐車場に停めました
 
○壬生(みぶ)/壬生町通町
 
小藩でも徳川の譜代大名!
 江戸時代,壬生城下は3万石前後の領主が絶えず入れ代わりましたが,小藩といえども,いずれも幕府の要職に就いた譜代大名。また日光街道・壬生通りの宿場町としても発展しました。
●美しいまち賞を受賞
 古い町並みは蘭学通り約800mの両側に広がっています。平成6年,通学路の整備と商店街の活性化を目指して,電線の地中化などを行ない平成14年に完成しました。このあたりは,医者が多かったことから「蘭学通り」と命名されたとか。このことから栃木県経済同友会が「美しいまち賞」に指定しました。
 
感動度★★
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 交通 クルマは足利銀行駐車場に停めました
 
○文挟(ふばさみ)/日光市文挟町
 
壬生道の小さな宿場町
 江戸時代は日光神領(にっこうしんりょう)で日光街道壬生道の宿場町。旅籠は14軒と小規模な宿場でした。それでも本陣1軒、脇本陣2軒ありました。いまは,古民家は所々に残されていますが,消えてゆく運命にあるかも知れません。
地名の由来はいろいろあって定説ナシ
 ところで地名の由来は、火夾(ひばさみ)からとか、行川(なめかわ)と武子(たけし)川に挟まれた段丘上に位置することから2本の川に挟まれた、などがありますが定かではありません。 
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 交通 JR日光線文挟駅から徒歩5分
 
○板橋(いたばし)/日光市明神
 
板橋藩は廃藩でも日光神領で残る
 板橋藩は江戸時代初期の極小藩で,2代藩主・松平成重は,大坂の陣の功績により,三河国西尾に2万石で転封となり,板橋藩は廃藩となりました。廃藩となっても日光神領になったので,宿場は残ります。本陣,脇本陣,旅籠は25軒あったそうです。また茶店,各種商店,問屋なども多く,男は宿駅まで駄賃稼ぎをしたとか。
道路の拡幅で古民家が…
 いま,板橋付近は,道路の拡幅,バイパスの建設等で,街道の様子が変わってきました。かろうじてポツンと残る古民家が数軒あります。
 
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 交通 東武日光線明神駅から徒歩25分
 
○今市(いまいち)/日光市今市
 
3つの街道が合流するため人馬の継立ては驚異
 日光街道,例幣使街道,会津西街道が合流する宿場町だけに,交通の要衝でもありました。宿場の長さは6町(約654m)、家の数は186軒もありました。物資の集散,人の往来は盛んでした。元禄8年(1695)には,輪王寺門跡、例幣使、祭礼奉行らの通行のため、周辺の宿場への人足の継立ては延べ1万3500人余、馬1万8660頭という驚くべき負担となっていました。
名主が朝鮮人参の世話人に任命される
 宿場の大通りの中央に掘りがあり、両側に本陣や旅籠屋、問屋が並びます。なかには御米蔵と並んで朝鮮人参畑がありました。文政6年(1809)、名主の大橋善兵衛は朝鮮人参の世話人に任命されています。同時に有力者が“御用作人”となって朝鮮人参の育成に当たっていました。朝鮮人参は超高価な輸入品のため、支払いの銀が不足するというので、徳川吉宗は国産化を奨励しました。 
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 交通 東武日光線下今市駅から徒歩15分
 
○日光(にっこう)/日光市上鉢石町
 
手前の鉢石宿で隊列を立て直して、日光宿を堂々と歩く
 言わずと知れた徳川幕府の聖地。江戸時代前期に日光山貫主の天海僧正が徳川家康をまつるために東照宮を建造した所です。背後には家康の墓もあります。徳川将軍の行列は日光街道の終着,鉢石(はついし)宿入口(JR日光駅付近)で,いったん身繕いをし,乱れた列を立て直して,宿場内を堂々と進みます。そして神橋で駕籠を降りて歩いて参拝に向かうのです。
古民家は土産物店に変身
 いまは駅から神橋まで,蔵造りや瓦葺きの古民家など大部分が土産物店になっています。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 東武日光駅から徒歩10分~30分
 
○湯西川(ゆにしがわ)/日光市湯西川
 
交通不便な最奥の温泉地
 福島県境の奥深くにあり,平家落人の里ともいわれる交通の不便なところ。戦前は4軒の湯治宿があった寂しい温泉地だったそうですが,昭和30年代の温泉ブームで,一気に注目されました。ただ歴史は古く,開湯は天正元年といわれています。江戸時代は日光山の寺領となっていました。将軍家の日光参拝の折りには,人足を出すなど日光と深い関係がありました。
湯西川沿いに茅葺きの古民家
 いま町を歩きますと会津西街道に沿った湯西川沿いにあり,茅葺き屋根の民家,鉄板葺きなどの古民家も見かけます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは日光市営駐車場に停めました
 
○松原(まつばら)/日光市足尾町松原
 
   
 ▲通洞駅も国の登録文化財に指定   ▲渋川橋梁も国の登録文化財です
   
▲看板建築/板張りの木造です  ▲旧カフェを偲ばせる建物も残る
国の登録文化財2件
 江戸時代は一寒村でした。ところが銅山の発見により,幕府直轄の陣屋が置かれ,役人,銅山師,作業員,商人などが往来。明治10年(1877)に古河市兵衛が経営すると,一気に町は発展しました。そして大正元年に通洞駅が開業すると,足尾の中心地となったのです。
町は衰退しても銅山観光の基点
 しかし度重なる火災,銅山の衰退で足尾の町も寂れていきました。ただ今でも銅山観光の起点でもあります。明治の旧家は消えましたが,それでも銅街道沿いに古民家は残っています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 わたらせ渓谷鉄道通洞駅から徒歩5分
 
○足尾(あしお)/日光市足尾町足尾
 
   
 ▲足尾キリスト教会(明治41年築) ▲足尾駅も国の登録文化財です 
足尾駅も国の登録文化財
 慶長年間(1596-1615)には銅が発掘されていましたが,慶安2年(1649)に足尾陣屋から利根川河川までの銅山街道(銅街道)が整備されます。宿場が整備されるにつれ町は発展していきますが,明治,大正になると最大級の繁栄を迎えます。
「日本の公害原点」ともいわれます
 しかし負の遺産,すなわち公害が表面化し,鉱毒事件,争議,集団脱走,天皇への直訴などが相次ぎます。「日本の公害原点」ともいわれています。

わずかに近代建築が残ります
 足尾駅近辺はわずかの古民家が残る程度ですが,迎賓館・古河掛水倶楽部など近代建築が見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 わたらせ渓谷鉄道足尾駅から徒歩10分
 
○下間藤(しもまとう)/日光市足尾町下間藤 
 
   
▲間藤駅/大正6年開業・無人駅 ▲今でも残る銅山の旧社宅群  
小さな集落に人口が1000人を超えました
 上間藤,赤倉と共に一大商業地となりましたが,明治の末期に足尾銅山に“工作課”が,大正6年に“分析係”が開設されました。大正3年の足尾鉄道の終点・間藤駅の開業も含めて一気に工業地となりました。さらに貨物線が精錬所専用の本山駅まで延長。このときの人口が1000人を超えていました。足尾銅山の社宅が建設され、商店街が形成されていました。昭和期に入ると、足尾製作所、足尾機械が設立され、それなりに賑わいを見せていました。しかし戦後、昭和22年の人口は592人と最盛期の半分以下となり、少しずつ衰退していきます。
街道沿いに土蔵や商家
 いまは土蔵や商家が街道沿いに残る程度です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 わたらせ渓谷鉄道間藤駅から徒歩8分
 
○佐野(さの)/佐野市本町 
 
意外に多かった蔵造り
 地味な町です。佐野ラーメンで知る人ぞ知るという町です。ところが、かつての本陣、問屋、町家などが集まる日光例幣使街道の宿場町(天明宿)でした。また渡良瀬川を利用した水運の町でもありました。現在は本町を中心に蔵造りの商家が残っています。黒塀のある蔵、共通しているのは黒瓦葺きで,蔵造りの建物が意外に多かったのが印象的。
「佐野ラーメン」の幟が目に付きました
 はじめて訪ねた町です。ところどころ赤い布に白い文字の「佐野ラーメン」ののぼりが目に付きます。味は、あっさり目です。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR両毛線佐野駅から徒歩15分
 
 ○犬伏(いぬぶし)/佐野市犬伏上町
 
例幣使街道最大の宿場町
 隣村の堀米の加宿を加えると,例幣使街道では最大の宿場町だとか。本陣2軒,旅籠は44軒,問屋2軒を数えました。毎月1と6日に市が立ち,かなり賑わったようです。いまは古民家が所々に点在しています。
地名は闘って死んだ犬を葬ったのが由来
 古くは犬臥とも書きました。地名の由来は、山伏がヒヒを退治した際、連れてきた犬が戦いで死んだので葬ったことによるとか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR両毛線佐野駅から徒歩15分
 
○田沼(たぬま)/佐野市田沼町仲町 
 
六斎市の開催で商いが活発化
 中世に建立された一瓶塚(いっぺいづか)稲荷神社の門前町として発展しました。延宝6年(1678)、名主・大串重兵衛が初午(はつうま)市の賑わいに基づいて、六斎市の開催を願い出ました。2年後に許可され、毎月4,9の付く日に市がたつようになりました。これをきっかけに商業も活発になりました。
土蔵造りの商家が点在
 江戸時代は佐野氏の改易により彦根藩領となったりと,複雑な様相を示しています。今は土蔵造りの商家がわずかです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは商店街の買い物客専用駐車場に停めました
 
○葛生(くずう)/佐野市葛生町東 
 
「葛生原人」から「葛生人」へ
 葛生原人で知られた町です。昭和25年,石灰会社の採掘場から人骨が発見され,昭和27年に直良信夫氏(早大教授)が葛生原人と命名しました。しかし平成13年に放射性炭素年代測定法で調べたら,室町時代ころの人骨と判明したのです。いまでは「葛生人」と呼んでいます。
蔵造りの町家が目につく
 石灰採掘は江戸時代からの主要な産業で,高瀬舟に積んで渡良瀬川や利根川で江戸まで運んでいたのです。また徳川将軍の日光参拝にともない,今市宿の助郷の役割を果たしたそうです。今は,蔵造りの町家が多く残っています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは「町の駅」で停めました
 
○足利(あしかが)/足利市大門通
 
江戸から明治にかけての建築物が残る
 何度か来ました。両毛線沿線の観光地では、最も集客数が多い、のではないかと思います。復元された足利学校、鎌倉時代の本堂が残るばん阿寺があり、その周りを江戸時代や明治時代の蔵が若干残っています。
古代は東山道の宿駅
 古代から交通の要衝で東山道の宿駅でもありました。また渡良瀬川を利用した舟運も発達。そして言わずと知れた足利氏発祥の地でもあります。江戸時代は宇都宮藩の陣屋が置かれ,養蚕を利用した機織り業が発展しました。戦前は東洋のマンチェスターと言われたとか。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 東武伊勢崎線足利市駅から徒歩20分
 
○八木(やぎ)/足利市上渋垂町
 
八木節発祥の宿場町
 江戸時代は八木宿村といい,例幣使街道6番目の宿場でした。例幣使一行は,毎年4月11日に太田宿に宿泊,八木宿や隣の梁田宿で小休止,12日に佐野・天明宿に宿泊するのが恒例でした。当時,本陣は1軒旅籠19軒,総数は96軒あったと記録されています。八木宿村は明治に入って福居町の一部になりました。
「八木節発祥の地」は栃木県と群馬県
 ところで,八木節は越後出身の遊女たちが「くどき節」を原型に,明治期に堀込村の堀込源太が整調したものです。
しかし群馬県も例幣使街道の木崎宿での「木崎節」が起源であるといいます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武伊勢崎線福居駅から徒歩10分
 
○梁田(やなだ)/足利市梁田町 
 
隣接する八木宿の日陰扱い
 明和3年(1766)に宿場が形成しました。江戸末期の天保14年(1843)には,本陣2軒,旅籠32軒にまで大きくなっています。とはいっても,できた当初から隣の八木宿と合わせて1宿扱いでした。実際に歩いても10分足らずで八木宿に行けました。
往時の面影はほとんどない
 明治元年戊辰の役では,佐幕派と官軍の争いとなった梁田戦争が起こり,民家40軒が兵火に見舞われました。戦死塚が長福寺にあります。いまは往時の面影はほとんどありません。宿場の案内板も薄れて読めない状態でした。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武伊勢崎線福居駅から徒歩30分
 


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