徳島県(とくしまけん)

 ○秋田町(あきたまち)/徳島市秋田町
 
   
▲歓楽街は、栄町、鷹匠町へと広がっていきました。大空襲でほぼ壊滅しました 
江戸時代は武家地でした
 江戸時代は徳島藩領。武家地で、足軽鉄砲組や中級。下級武士が多く住んでいました。また隣の栄町は定普請丁と呼ばれ、普請組と呼ばれる武士団が住んでいました。幕末は絵師・原鵬雲、箏曲家・原検校が居住。また戦前には写真家・立木真一が住んでいました。
『秋田町遊郭』として一躍有名になります
 しかしながら、秋田町を一躍有名にしたのは、県令によって遊郭が設置され、公娼地となりました。明治11年のことです。富田新地(のちに南新地)といいますが、実際は地名をとって「秋田町遊郭」と呼ばれました。明治44年貸し座敷数は69軒、娼妓104人。これが昭和初年になると、82軒に増えています。娼妓も250人に増え、見番はもちろん愛正病院も存在しました。しかし昭和33年4月の売防法が施行されたときは、廃業72軒、廃娼妓176人だったそうです。
NHK朝ドラ『なっちゃんの写真館』の舞台
 立木写真館が2020年3月16日、徳島地裁に自己破産を申請し、破産手続きに入り、事実上倒産しました。NHK朝ドラ『なっちゃんの写真館』(ヒロイン・星野知子/1980年)の舞台になったところです。また写真家立木義浩氏の実家でもあります。なっちゃんというのは義浩氏の母親で、その半生を描いたドラマでもあります。
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交通 クルマはコインパーキングに停めました
○かちどき橋(かちどきばし)/徳島市かちどき橋 
 
空襲で生き残った奇跡の武家屋敷
 空襲で灰燼と帰した徳島市内にあって、難を逃れた武家屋敷が原田家住宅(写真)です。徳島藩最後の藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)が明治初年に藩の重臣でその後、名東県(みょうどうけん)の大属(だいぞく)であった原田一平に譲り渡した住宅です。明治15年に城下から現在地に移築されました。名東県は、阿波国、讃岐国、淡路国の3カ国を領域にした県です。大属は地位の高い高級官僚のこと。徳島市内で武家屋敷が残るのは珍しく、国の文化財に登録されています。
縁もゆかりもない橋名に反対者が続出
 昭和16年に、それまで渡船しかなかった新町川に架橋された橋の名前から名付けられました。当時日中戦争で連戦連勝を続けていたことから、中村四郎知事が「勝鬨橋」と命名。一応、橋名は一般公募したとあります。ところが市民の間で、地元に縁もゆかりもない橋名に反対する人たちが続出。改称を望む案で、市議会で反対決議されましたが、変更されませんでした。後に、難読ということで「かちどき橋」に変更されました。 
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交通 クルマはコインパーキングに停めました
 ○福島(ふくしま)/徳島市福島
 
   
▲洗い場/これ、コインランドリー  ▲勢玉酒造/国の登録文化財 
港を中心に大きな城下町が形成されていました
 戦国時代、福島右近が城主の福島城がありました。その後、蜂須賀蔵人に下賜されたとか。ただ、いまは遺構すらありませんが四所神社周辺が推定されています。江戸時代は徳島藩領。昔から大きな船が出入りしていました。福島の大部分は武家地で、船大工は大工島、加子居住地は安宅(あたけ)に住まわせていました。東部には藍作に従事する村が残されていました。また西端には町人町が形成。のちに南端の築地周辺にもにぎやかな集落が形成されました。また多くの寺院が集まり、城下町として、たいへんな賑わいをみせたのです。ちなみに加子(かこ)とは、下級の船乗りとでもいおうか。
藩主の“海の参勤交代”の出発港
 もう一つの歴史に徳島藩水軍組織があります。藩では100隻以上の船を持ち、大工島には多くの優秀な船大工を住まわせていました。藩主が参勤交代には、大小70隻にも及ぶ大船団を構成。これらは阿波水軍による働きが大きく、徳島藩も大事にしました。“海の参勤交代”といわれるゆえんでしょうか。
勢玉酒造の酒蔵が連なります
 明治維新後、旧藩士たちのほとんどが移転し、跡地は耕地となり外面だけの家並みが連なっていたました。もちろん商売人たちも転居。目に見えて衰退していきます。そしてとどめを刺したのが、大坂商船が徳島港に転港。福島港は補助港としての役割を果たします。荷役も激減、寂しい街になるのです。いまは蔵通りに酒蔵が連なり、レストランなどに変身。勢玉酒造も、自社の店舗で販売するだけの量しか製造しないとか。 
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交通 クルマは福島第2コインパーキングに停めました
○寺町(てらまち)/徳島市寺町
 
   
▲本行寺/日蓮宗で勝瑞地区からこの地に移転させられました  
城下の防衛の役割を担った寺町
 藩政時代から続く町並みです。藩主・蜂須賀家政は徳島城下の建設に際し、寺院を各地から集め、最初は寺島に集め、その後、眉山山麓の当地に移転させました。寺町は、戦時下で兵站として利用され、防衛上重要な機能を持っていました。また藩士や町人の“旦那寺”として役割も担っていたのです。旦那寺とは寺の行事を檀家がお布施等で支える寺のことです。
本行寺門前の銀竜水は、かつて市民の飲料水でした
 本行寺の門前にかつて銀竜水という水汲み場がありました。眉山から流れる清水で、大正15年に徳島市の上水道が完成されるまで、水桶を汲んだ車を曳く水屋が、市中で販売していました。各家庭の軒先に「水入用」の木札を出しておくと給水する仕組み。市民生活にとって重要な役割を担っていたのです。
歌舞伎や浄瑠璃の演目にもなった京島原の遊女・夕霧
 もう一つ、本行寺には、京・島原の遊女・夕霧の墓があることで知られています。夕霧は歌舞伎『夕霧名残の正月』、浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』などに登場するヒロインです。夕霧は実在の人物で、境内に「夕霧塚」として供養されています。
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交通 クルマは市営新町駐車場(有料)に停めました
○鮎喰(あくい)/徳島市鮎喰町 
 
上方から江戸へ向かう四国各藩の基点
 江戸時代から四国の玄関口で,伊予街道は京・大坂から江戸へ向かう四国各藩にとって重要な街道でもありました。鮎喰はその起点となったところです。鮎喰は鮎を食べていた人が多かったことから命名されたとか。
●重厚な町家がそこかしこに見られまた
 表通りの現伊予街道(国道192号線)は騒音と渋滞でクルマがあふれています。しかし一歩なかにある旧伊予街道沿いの町並みは,とても静かです。重厚な町家もそこかしこに残っています。また地酒『眉山』,『南国一』の吉本醸造の建物も歴史的景観に花を添えています。
 
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 交通 クルマはコンビニの駐車場に停めました
○島田(しまだ)/徳島市北島田町 
 
裏作に麦や藍を生産し、輪作が行われました
 江戸時代は徳島藩領。村高は1000石を越えていました。吉野川の支流・鮎喰(あくい)川の右岸に位置することから、良質の土と水が豊富でした。島田村の庄屋・吉左衛門によって袋井用水が完成したため、米の生産を中心にして、裏作として麦、藍の輪作を実施。また畑地も麦、藍を中心にした輪作が行われました。
2つの神社が合併して“両八幡”と言われました
 八幡神社(通称・両八幡神社/南島田)は、天文2年(1533)の創建と伝えられています。戦国時代に兵火にかかりましたが、延宝6年(1678)に蜂須賀家によって再建。このとき神木八幡宮を合併して以来、両八幡と呼ばれました。
讃岐街道沿いに古民家が連なります
 いま讃岐街道を歩きますと、久保津神社付近に古民家が連なっています。地名のの由来は、川や水路に囲まれた島状の田地が多かったからと言います。なお昭和18年に中島田、北島田、南島田に分割されました。 
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交通 クルマは久保津神社付近の道端に停めました
○撫養(むや)/鳴門市撫養町南浜 
 
撫養街道は吉野川左岸沿いの街道
 徳島藩の時代,阿波五街道の一つ撫養街道の起点となった村です。撫養街道は吉野川左岸沿いに池田に至る道です。
極貧の村が塩田で大成功
 江戸時代,貧しい畑地でしたが一方では塩浜を築き,良質の塩が取れることで,塩屋12カ村と称するほど豊かになりました。文政年間(1818-30)には16カ村にまで発展しました。元もと,淡路や播磨からの移住者が多く,塩田の技術を持っていたからでしょう。

●ほとんど改築、改造された古民家
 いま町並みを歩きますと,格子窓のある家や蔵造りの建物が多くの残っていますが,ほとんど改築,改造されていました。また昭和初期には遊郭が残り、貸し座敷が20軒、娼妓は約100人いたそうです。 
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 交通 クルマは西楽庵臨時駐車場に停めました
○斎田(さいた)/鳴門市撫養町斎田 
 
“斎田塩”は徳島藩の大きな財源になりました
 江戸時代は徳島藩。享保10年(1725)の『撫養塩浜起書』によれば、馬井七郎兵衛と大谷五郎右衛門が播州荒井からやって来て、塩田を開拓したと言います。慶長年間(1596-1615)のころだそうです。最初の土地が大斎田、中斎田、大黒崎、小黒崎の4地域で斎田4組が成立します。以後各地に広がります。まさに斎田はこの地の塩田業の先駆者といえます。しかも良質で生産量も多かったためか、食塩は上方や江戸にまで“斎田塩”の名が広がりました。当然、徳島藩の大きな財源になったのはいうまでもありません。
往時の面影は消えつつあります
 もちろん塩だけでなく、莔麻(いちび)、茄子、足袋、紋派(もんぱ/足袋の底に使う織物)などがあります。莔麻というのは1年草で、主に薬用として重宝されていました。いま旧撫養街道を歩いても、改築、改装した古建築がわずかに残ります。 
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交通 クルマはうずしおふれあい公園の駐車場に停めました
 
 ○高島(たかしま)/鳴門市鳴門町高島
 
   
▲福永家住宅/国の重要文化財・江戸初期から代々塩業を生業としていました。写真左は、鹹水溜(かんすいだめ)で海水を溜める所、写真右は主屋です 
入浜式塩田が保存されています
 鳴門市の北東部にある島、といってもクルマを走らせていますと島に渡ったという感覚はまったくありません。県道11号線で小鳴門大橋を渡って左に入りますと、福永家住宅があります。藩政初期から塩業を生業としており、今では珍しい入浜式塩田が保存されています。
高島周辺を流れる海水の塩分濃度が高かった
 江戸時代は徳島藩領。慶長元年(1596)の大地震で、撫養塩田の地が隆起したことを聞いた孫左衛門が翌2年に塩田築造を始めたそうです。島の周辺を流れる海水の塩分濃度が高いことが塩田が設けられました。当初無人島だった島も、塩田に従事する村民たちが集まりました。耕地は乏しく、生活物資は他の町村から購入しました。
製塩法の技術革新で大争議に発展しました
 しかしながら製塩法も技術革新が続き、入浜式塩田がイオン交換膜樹脂法に変わると、広大な土地も不要になり大幅な人員削減となりました。そのため大争議が起こり、大阪からの労組応援部隊も加わり警官隊まで出動する騒ぎに発展。当時の塩業家は浜元、労働者が浜子という関係で、親分、子分の雇用関係。徒弟制度のような労使関係が長く続いていただけに、反発も強かったのですが、雇用関係や賃金も近代化の波に押されました。大幅な合理化で失業が続出。さらに電気製塩法の導入により、その歴史は終わりを告げました。
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは鳴門塩田公園駐車場に停めました
 
○池谷(いけのたに)/鳴門市大麻町池谷 
 
   
▲松浦酒造の大部分が国登録文化財 ▲福壽醤油は文政9年(1826)創業 
承久の乱で土御門天皇が流刑の地・池谷村で崩御
 古代の官道・南海道が東西に貫いていますが、江戸時代に入って撫養(むや)街道として整備されました。また承久の乱(1221年)で敗れた後鳥羽上皇の息子・土御門天皇(つちみかどてんのう)でありながら、処罰を逃れたのは忍びないとして、自ら流刑を申し出て、土佐に配流、後に阿波国に移されています。そして池谷村で崩御。火葬塚も存在します。
良質の伏流水で酒や醤油の製造が盛んになります
 江戸時代は徳島藩領。村内は農業用の溜池が多数設けられています。それほど水が不足している地域なのです。なのに酒造業、醤油業が盛んになったのは、幕末の頃、大谷川の伏流水による良質の清水が湧いたからです。
旧撫養街道沿いに2社の蔵群が往時の風情を醸し出す
 いま旧撫養街道を挟んで北側に福壽醤油、南側に松浦酒造が向かい合いっています。早い話、このあたりの古い町並みはこの2つの企業(工場)で形成されています。たまたま訪れた日に、福壽醤油の見学会が行われていて、たいへんな賑わいでした。蔵と蔵に挟まれた旧撫養街道は、往時の面影を感じられます。
感動度★★
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交通 クルマは空き地に停めました
 
○徳明(とくめい)/藍住町徳明前須西 
 
   
▲藍の館・大門/徳島城の古材を使用  ▲藍の館・東寝床/藍栽培の展示場
藍の歴史は平安時代にまでさかのぼります
 なんといっても日本最大の藍作地帯として知られおり、その起源は平安時代までさかのぼります。戦国時代まで阿波では、葉藍を水に漬けて染め液を作る沈殿(ちんでんあい)藍の技術しかなかったのですが、天文18年(1549)に三好義賢が上方から青屋四郎兵衛を呼び寄せました。青屋の持っていたすくもを使った染めをはじめ、製法を伝えたことで、やがてこの地が全国的な藍の生産地となるのです。
藍が貨幣経済の波に洗われて豪商が誕生
 徳島藩が政策の一環として藍の奨励に努めだしたのは、寛永12年(1635)ごろといわれています。宝暦12年(1762)の藍の生産額は20万両でしたが、寛政年間(1789-1801)には72万両、天保元年(1830)135万両と増加しています。ただ藍は商品作物だっただけに、貨幣経済の波に洗われることが多かったのです。そのなかで農民層の貧富の差が著しく大きく、大坂や江戸へいち早く藩外へ移出する商人が誕生。徳明では奥村家を頂点に、多くの藍師が登場したのです。
瓦葺きの古民家や蔵などが点在しています
 藍の館(旧奥村家)を出て、周辺を歩きます。瓦葺きの古民家が点在しています。また漆喰を塗り込めた蔵も見られます。ただ奥村家の豪邸を見たあとでは、ちょっとしょぼい感じがしますが、これは気のせいです。シーズンオフだったせいか、ノンビリと歩くことができました。
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは藍の館の駐車場に停めました
 
○天神(てんじん)/石井町高川原天神 
 
   
▲田中家住宅(高畑)/藍の製造する建物が残っています。重要文化財指定 
藍作で超・大富豪が誕生し、藩の経済活動にまで“主導”
 古くから肥沃な土地と言われていました。原因の1つに、吉野川の氾濫のたびに上流の栄養分たっぷりの土砂が流れてきて、それが堆積したとか。興隆を極めた阿波の藍作地帯の中心地の1つでもあります。そんな肥えた土で藍作が盛んになり、豪農たちは藩内だけではなく、日本各地の藍市場に進出。超々・大富豪となっていきます。一部は幾多の献金により、苗字帯刀御免などの特権を得て、藩の経済活動を“主導”したとまでいわれています。しかし明治に入ると、藍作の衰退が始まり、米作へと移ります。
武知家の藍の寝床は重要文化財です
 阿波藍で大成功を収めた武知家の古民家が残されています。武知家は「天元」の屋号で藍商として名を馳せた家です。今でも木造の藍寝床(写真)が残っています。藍寝床とは、藍の葉を寝かせて発酵させ、すくもを製造するところです。文政年間(1818-30)の建築で、国の重要文化財に指定されています。
菅原道真が土師郷に祀られたことが地名の由来
 ところでなぜ天神という地名なのでしょうか。『和名抄』では古代の豪族・土師氏(はじし)が治めた土師郷は、この地と推定されていました。そのことから土師氏を祖先とする菅原道真(天神さま)が土師郷に祀られました。ゆえに天神と称したそうです。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは天満神社の駐車場に停めました
○山川(やまかわ)/吉野川市山川町西久保 
 
藩の奨励策で大成功
 江戸時代から稲作は乏しく,耕地面積の90%は畑作でした。勢い他の産業へと手を伸ばしますが,特に手すき和紙と凍み豆腐は,藩の奨励もあって一大産業へと発展しました。さらに他の町と同じように,平坦地では藍作も盛んになりました。
伊予街道沿いの見ごたえのある旧郵便局
 町名は阿波富士と言われる高越山の「山」と吉野川の「川」を合わせて「やまかわ」と命名。意外と単純な名付けでした。いまは県道244号線,旧伊予街道沿いに細々と古民家が残されていますが,旧郵便局(写真)が見ごたえがあります。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
○穴吹(あなぶき)/美馬市穴吹町穴吹 
 
 ●かろうじて残る蔵造り
 江戸時代は徳島藩領で,穴吹川沿いを木屋平街道が通っていました。かつては剣山本街道ともいい,剣山講に向かう信者で賑わったものです。穴吹川上流は木屋平川と名を変え,川沿いは今では超過疎地で,限界集落も数多くあります。
今はバス交通の要になっています
 交通は吉野川に沿った伊予街道が中心で,JRもありますが,バスで高松に行けるなどバス交通の要となっています。この吉野川の反対側にある脇町は観光客で賑わっているのと対照的な町並みです。今はわずかに蔵造りの家屋が残る程度です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは平野整形外科駐車場に停めました
 
○脇町(わきまち)/美馬市脇町 
 
   
▲ドラマのロケ地として利用されます  ▲裏道も白壁や腰板壁が続く  
藍の積出港で繁栄、大富豪が次々に誕生
 10年ぶりの2度目の訪問です。整備、修復中だった建造物もきれいになっていました。江戸時代は藍の積出港として、吉野川を利用していました。京や大坂、徳島、高松への交差点のような町で、大いに発展し、豪商たちが豪華な土蔵造りの建物を建てたそうです。
●うだつのある街並みはロケ地に利用
 全国に「卯建」(うだつ)はありますが、脇町のそれは豪華です。防火の役目から美術的な側面ももっているように思えます。重要伝統的建造物群保存地区です。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR徳島線穴吹駅から町営バス15分脇町下車5分
 
○一宇(いちう)/つるぎ町一宇 
 
貧しい村ゆえに作物を年貢として納入
 地元の人は「いっちゅう」と呼んでいます。江戸時代は徳島藩領で一揆の絶えない貧しい農村でした。真綿、茶、半紙、煙草、薪などで年貢として納入していました。このうち檜、五葉松、栂(つが)などの材木は宍料(ししりょう)といわれ、山村特有の商品価値の高い貢ぎ物でした。
典型的な「代表越訴型一揆」
 ところが正徳元年(1711)8月13日、宍料代納銀札の4.8倍もの値上げを藩が要求。そのため一宇山全山に一揆が広がります。いわゆる「土釜・鳴滝騒動」です。このとき農民に加担し、越訴した庄屋・谷貞之丞は死刑、妻子は牟岐浦の出羽島に流刑。しかし宍料はそのままとされ、一揆勢の要求は通りました。学問の世界では典型的な「代表越訴型一揆」とされています。
なぜかホコリまみれの集落でした
 明治に入り一宇街道を拡充,整備。葉たばこ,シイタケ,ソバ,干し柿など農産物を積極的に販売しました。いま街道沿いに古民家がわずかに見られます。
なぜかホコリまみれの集落でした。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは一宇公民館に停めました
○半田(はんだ)/つるぎ町半田 
 
吉野川の船頭が半田素麺を考案
 江戸時代からいろいろな産業が発展しましたが,なによりも素麺がその後の半田経済を支えていきました。天保年間(1830-44),吉野川の貨物運搬船の船頭が作り出したのが最初で,アッというまに広がりました。吉野川の川面を吹く冬期季節風は適度な湿気を含み,素麺の乾燥に適していたそうです。同時に鉄分の少ない良質の湧水にも恵まれていました。
半田商人が活躍しました
 また他の産業から手延素麺製造業に転職する人たちが絶えず,半田商人が生まれる素地があったのです。いま町を歩いてみても、当時の面影は見られません。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは建神社に停めました
○貞光(さだみつ)/つるぎ町貞光 
 
   
▲うだつの家は脇町に負けていない   ▲路地にも古い町並みの面影 
もう一つのうだつの町並み
 2度目の訪問です。当初,こんな山の中に古い町並みがあるなんて信じられませんでした。脇町を小振りにした感じです。貞光のうだつは,脇町ほどの派手さはありませんが,それでも立派な造りです。観光客もチラホラと見られます。
物々交換の市も立ち、集落自体は繁栄
 江戸時代初期に町作りが始まり,中期になって繁栄しました。山村で収穫した葉たばこ,繭,こんにゃくなどと引き替えに,農具,日用品,薬品などを購入するために市が立ち、多くの人たちでにぎわっていたのです。それでも生産農家は苦しかったそうです。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR徳島線貞光駅から徒歩10分
○井川(いかわ)/三好市井川町辻 
 
1kmも続く多様な造りの古民家群
 古い町並みは辻地区の真ん中の約1kmに渡って続きます。実際に歩いて見て,これほど古民家が残っていると思いませんでした。虫籠窓のある蔵造り,庇の突き出た造りなど多様な形の町家があります。
刻み煙草の生産・販売で繁栄
 もともと江戸時代から明治にかけて,刻み煙草の生産,販売で繁栄した集落で,周りは生産農家が多かったのです。そのため比較的裕福な農家が多かったようです。それは,辻町水力電気(株)を設立し,四国ではじめて電気を販売したのもココということでもわかります。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○池田(いけだ)/三好市池田町 
 
   
▲この町もうだつの家が多かった  ▲たばこ資料館/うだつの家です 
うだつのある町です
 脇町もそうですが、この池田もうだつの町でした。多くの土蔵造りの民家は、明治時代の建物です。とくに葉たばこを扱う商家が多いことから、けっこう裕福な家だったのでしょう。(写真下右)うだつの家であり、たばこ資料館として公開しています。
“阿波九城”の一つでした
 江戸時代は徳島藩領。城下町は村方と町方に分かれていました。天正13年(1585)蜂須賀氏は阿波入国とともに、伊予・土佐への押さえとして池田にある池田大西城を“阿波九城”一つとして家臣・牛田掃部尉一長を池田城番としました。以後、城番は中村氏になり、配下に与力を置くなど体制作りに着手しました。  
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは県職員専用駐車場に停めました
○落合(おちあい)/三好市東祖谷落合 
 
急斜面でクルマが必要
 2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された集落です。どうもいままでの古い町並みと趣が違うので、現場に立っても、とらえどころがないのです。しかも全体としてとらえるためには、反対側の斜面に立たなくてはいけません。これがまた疲れるので、クルマがないと回れないのです。
建物や石垣の分布に注目
 祖谷(いや)は平家の落人の里として知られており、日本の三大秘境の一つだそうです。家屋自体が急斜面に建てられているので、まずしっかりと石を積み上げています。石垣は350カ所もあるそうです。それも4種類にわかれています。
 落合集落を回っていると、とこどころ廃屋や荒れ放題の敷地があったりします。やはり過疎の村の宿命みたいなものでしょうか。急坂が続くので、息が切れてしまって歩けないのが都会人の弱点であります。
駐車場は『そば道場』近辺
  なお落合での駐車場は、道路が極端に狭いため、停めるところがなかなか見つからないのです。とりあえず蕎麦屋『そば道場』付近が唯一広いので、ここで停めました。落合集落でただ一つの食堂です。 
感動度★★
 
もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマはそば道場近辺の道端に停めました
 
○中庄(なかしょう)/東みよし町中庄 
 
吉野川の小さな河川港として発展
 中庄の江口渡船場は舟運の中心地で,吉野川を利用して徳島,鳴門方面へ藍,薪,木炭や旅人などを搬送していました。船宿も数軒あり、そこそこにぎわいました。
空き屋の古民家が多い
 吉野川沿いや山奥の村々は,江戸時代から困窮が続き,特に中庄を中心とした農民一揆は,一部の豪農への打ち壊しからはじまり,周辺地域までアッというまに広がり,世に言う“加茂山騒動”と呼ばれました。いま歩いて見ますと,完全な過疎の集落で,空き屋が多く,自然消滅を待つのみと言った感じです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは国道192号線沿いの空き地に停めました
 


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○小松島(こまつしま)/小松島市小松島町 
 
   
▲ところどころに町家が連なります  ▲外開川/川沿いはレンガ風の遊歩道 
源義経が駒(馬)を松につないだ……
 地名の由来がおもしろい。源義経が当地に上陸したとき、駒(馬)を松につないだため、「コナツナギ島」と称し、これが小松島になったといいますが、定かではありません。
定職もなく定住しない人たちの急増のわけは水軍……
 江戸時代は徳島藩領。中世から海賊が横行していた地域ですが、江戸時代に入って、阿波水軍として藩は他の海賊船と区別していました。明和8年(1771)の記録によれば、家数700軒のうち、603軒は加子(かこ)、来人(きたりびと)、見懸人(みかけにん)だといいます。人数にして1000人を超えます。加子とは一般の船乗りのことで、荷物の上げ下ろし、艪を漕いだりなど雑役をこなします。また来人や見懸人は他藩や他村の人々で、定住しているわけではないので、阿波水軍の拠点の1つであったことが推定されます。
藍を扱う豪商が次々に誕生
 港町としての漁業や商工業もしだいに発展します。特に阿波の特産物でもある阿波藍の取引も盛んになり、大坂、江戸をはじめ全国に販路を拡張していきました。そのため幕末期になると、藍商は大富豪となって、松島あたりに大邸宅を構えます。
かつて繁栄したといわれる日の峰通りに残る町家
 大正時代、鉄道の開設、道路の整備、千年橋の架橋などによって市街地が一気に活気づきます。とくに日の峰通りを中心に商業地区が形成されたのです。いま日の峰通りを歩きますと、静かでかつての繁栄ぶりを感じとることができません。木造2階建ての町家が連なりますが、ちょっと寂しいです。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは徳島赤十字病院の駐車場に停めました
 
 ○松島(まつしま)/小松島市松島町
 
   
▲旧阿波商業銀行小松島支店・大正15年築/現在は個人宅です  ▲昔ながらの古民家が点在しており、改築、改造がすすんでいます 
元禄年間から町並みが形成されてきます
 江戸時代は徳島藩領です。江戸時代は地蔵寺を中心として、元禄年間(1688-1704)から東西に町並みが形成され発展しました。阿波藍が興隆を極めた頃、藍の豪商たちの多くが集まり、ここを拠点にして全国に販路を広げました。
藍商人の豪邸がいまなお残っています
 地蔵寺付近から東方向に歩きました。住宅の密集地帯や古民家が連なる通りなど、光景が変わります。そして、かつて藍商人の大豪邸が点在しています。歩いていると、周囲の住宅とは違った異彩を放っています。豪商が集まると銀行も集まり、四国各県からの銀行の支店が開業。まさに松島は、阿波藍とともに生きた街といえます。ちなみに、地名の由来は、松島デルタ地帯の高位置にあって、松が生い茂っていたそうです。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは徳島赤十字病院の駐車場に停めました
○橘(たちばな)/阿南市橘町 
 
紀貫之が『土佐日記』を書くために寄港
 古くは橘の産地であったそうです。近隣には椿や桑の名の付いた地名もあります。また紀貫之が『土佐日記』を書いたときの寄港地でもあります。ちなみに橘は、果実は小さいうえに酸味が強いので、生食には向きません。文化勲章はタチバナの花をかたどったものです。
朝鮮出兵や島原の乱に動員される
 江戸時代はもちろん徳島藩領。橘は加子(かこ/最下層の水夫など)が多く住んでおり、豊臣秀吉の朝鮮出兵には、文禄元年(1592)に30人、慶長2年(1597)30人が参加。島原の乱には寛永15年(1638)に50人が動員されました。
古くから災害との闘いでした
 昔から津波、火災、伝染病の被害に遭うことが多い地域でした。正徳4年(1714)には漁ができず、183人が飢餓に直面。4石余の救助米を受けています。安政元年(1854)の地震では高波が押し寄せ堤防がことごとく決壊しました。このとき、新野村との境界にあった一升ケ森の山頂の土が、1升分しか残らなかったとい伝説があります。また明治、大正とコレラが発症しています。
旧土佐東街道沿いの集落
 旧土佐東街道または土佐浜街道と呼ばれています。集落はそんな街道沿いに連なります。徳島藩が制定した阿波五街道の1つです。歩きながら見ますと、古民家もかなり改築、改装されています。いまはごく平凡な町家が見られます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはスーパーセブン橘店の駐車場に停めました
 
 ○椿泊(つばきどまり)/阿南市椿泊町椿泊
 
 ●木造2階建ての古民家が1kmほど続きます
 江戸時代,阿波水軍の本拠地でした。クルマ1台通るのがギリギリという狭い道が1㎞ほど続きます。木造2階建ての町家が両側に建ち並んでいますが,同じ徳島県の漁港の鞆浦や甲浦と違って,ミセ造りが見られません。ミセ造りは板をたためば雨戸になり,開けば縁台になるという,理にかなったものでした。
漁師町の雰囲気はたっぷり残ります
 建物はほとんど戦後の建物ですが,地割りはむかしのまま。古くなった民家も改築されています。それでも漁師町の雰囲気はたっぷり残っています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○東由岐(ひがしゆき)/美波町東由岐 
 
   
▲“ミセ造り”がかろうじて残ります  ▲空き家となった古民家も多い 
五島列島では由岐の漁民たちで賑わったとか
 江戸時代は徳島藩領。『元禄郷帳』には、東由岐浦と西由岐浦、志和岐浦を合わせて「由岐浦」と記載されています。由岐浦の石高は145石で、東由岐浦だと45石とわずかです。というのも海に面した愛宕山麓のわずかな耕地だからか。そのため古から漁業が盛んで、東由岐浦は近隣中では随一の水揚げを誇ったとか。明治に入ると、九州方面、特に五島列島方面にまで出漁し、東由岐や西由岐の漁民たちで賑わったそうです。
“蛙石”の運搬は徳島藩二大巨石の運搬の1つ
 西由岐の枝村・由宇が明治5年に東由岐に編入されました。『由岐町史』によれば、由宇小島の磯に“蛙石”と称する雄雌一対の巨石がありました。文政11年(1828)12代藩主・斉昌は、このうち雌石の巨石を石井村桜間の池畔に運んだのですが、これがタイヘン。この輸送に巨大な筏が3、曳き船3000雙、浮き桶が1000個、挽き夫がなんと延べ6000人というからスゴイ。4年の歳月を要し、徳島藩二大巨石の運搬の1つとして知られているそうです。いろいろな記録があるものです。
古からの建築様式の“ミセ造り”が残ります
 漁村らしく、路地を張り巡らした集落です。軽自動車がやっと通れる道幅です。美しい出格子があったり、蔵造りの町家も見られます。歩いていますと、この地方でよく見られる“ミセ造り”と呼ばれる蔀帳(ぶちょう)を持つ民家が多かったようです。いまはめっきり少なくなりました。ミセ造りとは玄関横の雨戸に工夫を凝らした戸板で、物を置いたりするところで、折りたたんだり、取り外したりできます。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました
 
 ○伊座利(いざり)/美波町伊座利
 
「ああ……陸の孤島」
 伊座利は漁りとか漁労の意味があるそうです。三方を山に囲まれて、海に開けた集落です。ここが「陸の孤島」と聞いて出かけたのです。確かに曲がりくねった県道26号線を走ると、かなり遠いなあ、という気になりました。
娘たちは頭上に籠を載せ、峠を越えて隣町まで行商
 古くから漁場としての好条件を示していました。しかし生活物資は、幅1mほどの山道を通って、人馬が荷を背負って椿町から通ってきます。そして伊座利からは獲れたばかりの魚を天秤棒でかついで、椿町へ行商。また娘たちは、20~30㎏の昆布やワカメなどの入れた海産物を籠に入れ、それを頭上に載せ、黒の手甲(てこう/手首を守るもの)に白の脚絆(きゃはん/膝から下の防寒)姿で、行商に出かけました。「阿波のいただきさん」と呼ばれて、明治から大正にかけてその名を知られるようになりました。しかし昭和34年7月に由岐-伊座利間に県道が開通。阿南市に出るにも便利になりました。
人の気配が感じられませんでした
 人影らしい者は全く見かけません。小さな港は空っぽの状態。釣り船で生計を立てている人が多いとか。そのあと集落内を歩きました。ほとんどが空き家でした。洗濯物が干してあるので、人の気配が感じられます。いわゆる漁村で見かける迷路のような路地は、ここでは無縁です。わずかな耕作地に周囲に古民家が連なります。静かな集落です。
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もう一度行きたい度★
交通 クルマは漁港の空き地に停めました
 
○日和佐(ひわさ)/美波町日和佐浦 
 
   
漁師町特有の迷路のような路地が張り巡らされています 
   
▲うみがめの博物館/ウミガメが展示 ▲大浜海岸/産卵が極端に減りました
激減するウミガメの上陸の数
 日和佐といえば,ウミガメの上陸地点として有名です。最近では平成7年に119頭が上陸して以来,きわめて少なくなっています。平成29年(2017)のわずか27頭を最後に、あとは毎年一ケタです。徳島大学・環境防災研究センターの特命教授・中野晋氏は『アカウミガメ上陸頭数の減少と地球温暖化との関連』でウミガメの上陸数の激減の理由を探っています。ウミガメはともかく,日和佐は漁師町でもありますが,もう一つ門前町という顔を持っています。四国88カ所札所めぐりの23番札所・薬王寺が駅裏の高台にあります。
NHK朝ドラ『ウェルカメ』の舞台
 地元の情報誌に入社したヒロイン(倉科カナ)は、大海原を回遊するウミガメのように「世界につながる」雑誌編集者になる夢を追いかけます。そして改めて故郷を見つめていきます。
藩主の参勤交代時には多くの漁民が徴発される
 古くは日和射とも書いたそうです。江戸時代はもちろん徳島藩領。昔から沿岸漁業が発達。海藻の採取、魚介類の磯漁、沖合の1本釣り、網業などが盛んでした。漁民には藩から加子(かこ)役を課せられるとともに、藩主の参勤交代時には徴発を受けました。なかには徳島城下の安宅(あたけ)に住み、専従加子と活躍する者もいたそうです。加子というのは、一般的な船乗りのことで、雑役をこなします。また安宅には徳島藩の庇護下にあった水軍の拠点の1つがありました。
寺町もわずかに形成しています
 町内は,漁師町らしく古い町並みを形成していますが,わずかながら寺町をも形成しています。薬王寺から離れると,のんびりと歩けます。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは八幡神社境内に停めました
○牟岐(むぎ)/牟岐町牟岐浦 
 
秀吉の四国平定で牟岐城が廃城となります
 観音山には牟岐城址があり、、元亀元年(1570)に牟岐大膳充が築城しましたが、天正3年(1575)に長宗我部元親に降伏しました。眼下に牟岐漁港を見下ろすことができるので、海賊城でもありました。天正13年(1585)に豊臣秀吉による四国平定のあと廃城となりました。
廻船問屋などの重厚な蔵造りが残ります
 もともと一本釣りの沿岸漁業のさかんなところで,魚介類のほかカツオ節や布海苔なども徳島・大坂へも送っていました。蔵造りの重厚な商家は,回船問屋の名残りでしょうか。歴史的建築物が見られます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは牟岐町役場に停めました
 
○出羽島(てばじま)/牟岐町牟岐浦 
 
ミセもある独特に古民家群
 島に上陸してもごく普通の離島の情景です。でも歩くにつれ,奥に入り込むにつれ情景は変わってきます。庇の突き出た瓦葺きの古民家が続くのです。そしてミセ(蔀張)もあって,海南地方独特の光景が広がります。
いまはすっかり釣りのメッカ
 江戸時代,徳島藩は各種の減免など奨励策や保護政策で移住を勧めました。寛永元年(1624)には50戸だったそうです。しかし寺の過去帳や墓などから,以前から少数の住民がいたことがわかっています。いまはすっかり釣りのメッカになりました。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは牟岐港で停め、定期船で15分出羽島下船すぐ
○鞆浦(ともうら)/海陽町鞆浦 
 
ミセ造りが見られます
 海岸に面した通りから一歩なかに入った通りを歩きました。道幅が狭くクルマの通れる感じではありませんが,やや薄暗い中を歩くと,ミセ造りがありました.それも何カ所かで見られたのです。
平安時代から続く歴史のある集落
 写真のように,見た目は長いすですが,折りたたむと雨戸になります。逆に開くと縁台になるのですが,昔は漁具を干したりしていたのですが,今は野菜などが干されています。鞆浦は平安時代から続く,歴史のある集落なのです。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 

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