千代田区

 丸の内(まるのうち)/千代田区丸の内
 
   
▲三菱一号館/コンドルの設計。いったん解体されましたが、平成21年に復元  ▲東京中央郵便局/日本郵政によって高層化。内部も往時の面影を残している   
   
▲DNタワー21/戦後進駐軍が入居した歴史的建造物。昭和13年(1938)築【雪】 ▲明治生命館/重厚で装飾がすばらしい。昭和9年築。国の重要文化財 
東京駅建設が発展のスタート
 江戸時代は大名屋敷が建ち並ぶ地域で、大名小路と呼ばれていました。細川家(熊本)、山内家(高知)、蜂須賀家(徳島)など、譜代の小大名、外様の大大名の屋敷が並んでいました。明治に入ると大名屋敷は公有地となります。さらに横浜との鉄道が開通して以来、次々に鉄道網が広がり、明治22年(1889)、政府は東京の市区改正計画において、鉄道網の中心に中央停車場を設けることと決定。全体計画は、お雇い外国人・バルツアーの提案にまかせ、東京駅の設計は日本銀行を設計した辰野金吾に依頼し、大正3年(1919)に開業しました。それまで三菱に払い下げられた“三菱が原”も変貌していきます。丸の内の発展は、東京駅の建設によってもたらされたといえます。
景観維持の“100フィート”論争
 丸の内を歩いて、ビルの高さを見ていますと、大部分が高層化されていますが、一定の高さのところで“区切り”が入っているのに気づきます。いわゆる後の100フィート(約31m)論争の元となった長さです。ロンドンの高さ制限100フィート(日本では百尺制限)をそのまま応用して、丸の内も高さを制限。ところが戦後その規制が無くなったのですが、認可された高層建築に「景観破壊」の罵声が飛びます。とりわけ皇居に面したビルに対する改築には厳しいものがありました。いまでは懐かしい出来事ですが、その名残りで低層階と高層階を“区切る”デザインとなったといわれています。
城内をさす丸の内
 ところで地名の由来は、堀で囲まれた内側という意味で城内を指します。だから丸の内は全国各地に存在する地名です。千代田区に丸の内の地名が登場するのは、比較的新しく昭和4年(1929)です。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR東京駅から徒歩5分
 霞ヶ関(かすみがせき)/千代田区霞が関1丁目
 
 ●レンガ造りの重要文化財
 霞ヶ関の省庁や合同ビルの大部分は高層ビルになっており,このようなレンガ造りの建物はとても貴重です。警視庁の向かいに堂々と立っており,気持ちのいいものです。
法務省旧本館です
 法務省旧本館で,煉瓦造り3階建てのスレート葺きです。明治28年(1895)建築で,設計はドイツ人。ネオ・バロック様式というそうです。しかし大空襲で壁面と床を残して崩壊。戦後,復元したものです。平成6年(1994年)に重要文化財に指定されました。デザイン的にも歴史的にも価値が高いとか。館内には歴史資料室もあり、事前に連絡すると見学も可能です。上の写真も見学時に撮影しました。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 地下鉄桜田門駅から徒歩1分
 須田町(すだちょう)/千代田区神田須田町
 竹むら
 神田須田町  神田須田町
▲老舗の飲食店も多い  ▲裏道には看板建築などが密集 
 旧万世橋駅  
 ▲旧万世橋駅/商業施設として開業 ▲モーニングサービス(トリム/500円) 
豪商たちの邸宅が多かったようです
 江戸時代は「すた丁」と呼ばれ,豪商たちの邸宅が多かったとか。しかし江戸初期には「須田村」が存在したのも確か。一方,水菓子問屋,古着屋,骨董店なども多かったとか。明治に入って神田区に所属,戦後千代田区になってから須田町に神田の名が付いたのです。
老舗の飲食店がズラリ
 須田町はほとんどビル街ですが,老舗の料理屋,そば屋があって,グルメ本の東京コーナには必ずといっていいほど紹介されています。また看板建築も多く,下町の雰囲気が残されています。
 ここから電気街や古本屋街、登山道具店&スキー道具店街はすぐそばです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 地下鉄神田駅から徒歩3分
 淡路町(あわじちょう)/千代田区神田淡路町
 神田藪そば
 淡路町  淡路町
 ▲看板建築も残っています 棟割長屋も奇跡的に残っています
鈴木淡路守が近くに住んでいました
 淡路町は関東大震災,第二次世界大戦で焦土と化したところで,現在ある建物はすべて戦後に建てられました。町名の由来は諸説ありますが,寛永年間(1624-44)より鈴木淡路守が近くに住んでいたところから淡路坂に命名。さらに淡路坂から町名になったという説が有力だそうです。また神田の名が頭に付けられたのは戦後のことです。
棟割長屋や板塀のある店
 マンションや高層ビルが林立し,昔の面影が徐々に薄れていきますが,大通りから一歩なかに入りますと,棟割り長屋や板壁のあるお店などがところどころにあって,なにやら懐かしいような気持ちにさせてくれます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄淡路町駅からすぐ
 神保町(じんぼうちょう)/千代田区神田神保町
 喫茶さぼうる
 神田神保町  神田神保町
 ▲看板建築の多さが特徴といえます  ▲木造モルタル塗りの家屋が目に付く
 神田神保町  神田神保町
 ▲裏道には喫茶店や食堂が多数あります。最近はカレーショップが激増!
都心部に軒の低い町家
 神保町は,何十年も通った町です。たぶん,他のどの町よりも多く通ったと思います。元来,学生の街であっただけに,物価もいくらか安いようでした。
 靖国通り沿いに古書店がズラリと並びます。といっても店はすべて北向きになっています。本の日焼けを防ぐためです。バブルの時代,不動産屋の土地買収攻勢にも負けず,一貫して古本屋街を守ってきました。そのせいか一歩裏に入ると,木造2階建ての家屋がギッシリ詰まっています。都心部にありながら,軒の低い町家があるのも,古書店が一貫して動かず,町並みが維持されているからでしょうか。いまはカレーの町として知られています。
かつて「神田の例のヤツ」で通っていました
 ところで神保町は看板建築の多さではピカイチです。まだ看板建築の名がなかったころ、建築家のあいだで「神田の例のヤツ」で通っていました。その後、建築家・藤森照信(現・江戸東京博物館館長)らが「看板建築」と命名します。いまではすっかり定着しました。
旗本・神保家の住まい
 江戸時代,このあたりは武家屋敷でした。旗本神保家の前が神保小路と呼ばれていたから,明治に入ってから神保町と呼ばれたそうです。神保家は幕末まで屋敷を移転することなく続いた家柄です。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄神保町駅からすぐ
 多町(たちょう)/千代田区神田多町2丁目
 神田多町2丁目交差点
 豆腐の越後屋  松本家住宅
 ▲銅板葺きで側面がトタン貼り  ▲松本家住宅/国の登録文化財
 神田多町  神田多町
 ▲木造モルタル塗りの2階屋  ▲銅板葺きの家屋が見られます
国の登録文化財が1軒
 神田多町2丁目交差点が見どころの一つ。古民家がビルの間に建っているが,周囲の光景に違和感なく溶け込んでいる感じです。このたり一帯は先の大戦で奇跡的に焼け残りました。特に木造2階建ての松本家住宅は,国の登録文化財です。
江戸時代の町割りがそのまま残ります
 町家は多町大通り沿いと,裏通りに少し残る程度ですが,それでも懸命に生きています。銅板の壁は今では,東京でも珍しい部類に入りましたが,下町に似合うのが不思議です。
 江戸時代の町割りがそのままになっているのが特徴です。もっとも最初のころは田地が多いので田町と呼んでいたとか。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR山手線神田駅から徒歩4分
 鍛冶町(かじちょう)/千代田区鍛冶町1丁目
 丸石ビルジング・昭和6年(1931)築。国の登録文化財6階建てで,1階の装飾アーチやリーフレットに注目。山下寿郎設計・竹中工務店施工。
鍛冶方頭領が住んでいました
 江戸幕府の鍛冶方棟梁・高井伊織の拝領屋敷がありました。同時に鍛冶職人が多く住んでいました。著名人としては『江戸砂子』(えどすなご・江戸の地誌)の著者・菊岡沾凉(きくおかせんりょう)が居住していました。また江戸時代前期の仮名草子『紫の一本』(むらさきのひとひも)によれば、天和年間(1681-84)にこの地を掘ったところ、土製の恵比須が出土。掘った井戸を恵比須の井と命名したそうです。
●装飾の美しい近代建築
 また幾つかの近代建築があり、丸石ビル(国の登録文化財)の1階外周壁面の装飾,アーチ等が見ものです。また旧第十銀行東京支店(1930年築)もすばらしいです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR山手線神田駅から徒歩5分
 外神田(そとかんだ)/千代田区外神田2丁目
 神田明神前
 外神田  外神田
 ▲多い1階が商家で2階が住まい  ▲看板建築も至るとこで見られます
 外神田  外神田
 ▲外神田では一般的な戸建て住宅  ▲板張りの古民家も見かけます
 銭形平次と八五郎の碑  神田明神
 ▲銭形平次と子分・八五郎(右)の碑  ▲守り神・神田明神(神田神社)
   
▲井政「遠藤家旧店舗」/材木商・千代田区有形文化財 ▲中山道/神田明神前の天野屋横を旧中山道が通ります
神田祭、銭形平次、やっちゃば……
 江戸城から見て神田川の外側に位置するので,一般に外神田と言われるそうです。町家や武家が混在していたのが特徴。また日本三大祭りの一つ神田祭の神田明神,その明神下に住んでいた小説『銭形平次捕り物控』の主人公・銭形平次,日本最大の八百屋市場(通称・やっちゃば/その後移転)などがありました。
江戸っ子のど真ん中
 昔から住む人の気質は,まさに江戸っ子。でもそんな人は少なくなりました。実際、神田祭の担い手も、多くのボランティアで支えられています。いま町を歩くとビルばかりですが,その谷間に町家がひっそりと佇んでいます。こんな光景を見るとホッとします。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR山手線秋葉原駅から徒歩10分
 岩本町(いわもとちょう)/千代田区岩本町
 中小の雑居ビルが多い町
江戸時代初期は沼地でした 
 古くから沼地で,雁淵(がんぶち)とか笹原(ささはら)と呼ばれていました。お玉が池もこのあたりにあったそうです。また広大な馬の水飲み場もありました。この地がいつ埋め立てられたかは不明ですが、享保年間(1716-36)に岩本町が誕生したといわれています。明治14年、警視庁認可の古着商を集めて常設の古着市を開催。いまの繊維街の基礎となりました。
雑居ビルや看板住宅
 秋葉原の電気街に隣接する地味な町で,土日は人影が途絶えます。歩いていますと,中小の雑居ビルが林立しており,看板建築の多さも目に付きます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 都営地下鉄岩本町駅から3分

                       ページの先頭にもどる