千葉県

 稲毛(いなげ)/千葉市稲毛区稲毛
 
   
▲愛新覚羅溥傑仮寓/中国清朝の最後のラストエンペラーの実弟の仮住まい  ▲千葉トヨペット本社/明治32年築。何度も移転し現在へ(国登録文化財) 
   
▲旧神谷伝兵衛稲毛荘/浅草「神谷バー」創業者の別荘(国登録文化財) 
明治時代以降は別荘地として発展
 地名の由来は諸説あります。「稲置(いなぎ)」という役職名からの説。川崎を拠点とした鎌倉幕府の有力御家人・稲毛三郎重成との関連説。砂が堆積したところを意味する「いな」が由来とする説などいろいろ。明治時代以降は千葉街道(国道14号線)に沿った河岸段丘を利用して別荘地となりました。また海水浴場もできて、保養所としての性格も濃く、地形的には千葉街道を境に、海と陸に分かれたわけです。
古民家がポツン
 京成稲毛駅を出て街道に向けて歩きますと、店蔵などの古民家がポツンと建っています。また裏道にも古民家が見られます。
 
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 交通 京成千葉線京成稲毛駅から徒歩10分
浦安(うらやす)/浦安市堀江 
 
   
 ▲旧大塚家住宅(江戸末期?建築) ▲地元の守り神・清瀧神社 
今は『東京デズニーランド』、昔は『青べか物語』
 最近では東京デズニーランドの所在地としても知られています。それまでは文豪・山本周五郎『青べか物語』の舞台となった所で,東京湾の一漁師町でした。江戸時代は幕府の直轄地で製塩業が盛ん。しかし江戸川からの淡水が流れ込み,製塩も壊滅。その後漁業の町となりました。同時に海苔養殖が盛んになり,大塚家は当時の海苔で繁栄しました。大塚家に面した境川は漁業や水運,生活用水を依存してきた歴史があります。
かろうじて残る古民家
 しかし昭和46年(1971)の漁業権放棄で,町は一気に変わります。東京湾の埋め立てで急激な都市化が進んだのです。地名は浦安村の起立時に、魚浦の安泰を願い命名したそうです。 
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 交通 地下鉄東西線浦安駅から徒歩10分
行徳(ぎょうとく)/市川市本行徳 
 
   
▲加藤家住宅/国の登録文化財  ▲旧浅子御輿店/国の登録文化財 
   
 ▲旧平川医院/昭和元年築・和洋折衷  ▲澤木酒店/昭和初期の建物 
塩田で働く人たちの住まいが集中
 江戸川河口の三角州に立地。歴史は古く南北朝時代にその名が見られました。徳川幕府は,直轄地として塩造りを保護し盛んにしました。その塩田で働く人たちの住まいが,本行徳から行徳街道沿いに広がっていったのです。また江戸からの玄関口として船着場も設けられ,成田への参拝客や荷物を運ぶ行徳船と呼ばれる定期船が往来し,宿場町として発展しました。その行徳街道が今の成田街道です。
街道沿いにかろうじて残る古民家
 歩いていますと,所々歴史的建造物が見られ,国の登録文化財も幾つか現存します。また指定を受けなくても,熱心に保存活動をされています。 
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 交通 地下鉄東西線行徳駅から徒歩15分
妙典(みようでん)/市川市妙典 
 
   
▲街道沿いには旧商家を思わせる建物も見られます  ▲編んだ竹を利用した塀はとてもおしゃれ。いわゆる建仁寺垣です 
塩田開発は幕府の最重要課題!
 江戸時代,幕府領でした。慶長元年(1596)、代官の吉田佐太郎は当村の治郎右衛門に対して、諸役を5年間免除する代わりに塩田開拓を奨励しました。つまり幕府にとって塩田の開拓至上命題だったのです。
江戸からの成田山詣ではこの地で上陸
 一方、江戸から水路でやって来た成田山詣での参拝客は,行徳河岸を下船後,この下妙典村,上妙典村を通って佐倉道と合流して成田に向かいました。途中買い物をしたり休憩したりで,たいへん賑わいました。地名は法華教を意味するそうです。
 
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 交通 地下鉄東西線妙典駅から徒歩15分
 
船橋(ふなばし)/船橋市宮本 
 
宿場町,門前町で賑わう
 成田街道と千葉街道の合流点で,宿場町,船橋大神宮の門前町として発展しました。徳川家康の鷹狩りの場でもあります。いまは宿場はずれの船橋大神宮の北側に幾つかの古民家が残る程度です。地名は舟を並べて橋の替わりにしたから。
船橋大神宮灯明台は文化財指定
 船橋大神宮の境内には常灯と呼ばれる灯明台があります。明治22年の設置といわれており、木造瓦葺き3階建てで、高さが12mもあります。千葉県の文化財指定、船橋市の重要景観指定になっています。
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 交通 京成線大神宮下駅から徒歩10分
 
中山(なかやま)/船橋市本中山 
 
   
▲朱塗りの三門は通称赤門ともいう  ▲市川市東山魁夷記念館 
法華経寺の門前町
 旧日蓮宗五大本山の一つ,法華経寺の門前町として発展してきました。ところが実際は市川市に建っています。というのは,駅を降りて黒門をくぐると市川市で,電線が地中化され参道も整備,とてもきれいな町並みになりました。
小ぎれいな町並みは市川市、古い町並みは船橋市
 一方,黒門の手前,いわば駅側(船橋市)は,昔のままで電柱も残り,昔の古民家を改造した店舗が並んでいます。そこで古い町並みの残るのは船橋市、ということで船橋に入れました。なお中山競馬場、JR下総中山駅、京成中山駅は船橋市域にあたります。 

 江戸時代の法華経寺は50石余の寺領がありました。また中山村は成田道・八幡宿の助郷でもあったのです。 
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 交通 京成線中山駅から徒歩8分
 
小室(こむろ)/船橋市小室町
 
大規模な開発の裏に残る古い町並み
  昔から北総線沿線の開発はかなり進んでおり、どこの駅を降りても、マンション群と戸建ての住宅団地が広がっています。ここも同じで、駅を出るとショッピングセンターやレストランがあります。しかし、一歩裏手に回りますと、昔からの町並みが神社や寺院を中心に残されています。集落に足を踏み入れますと、そこは別世界。土蔵や長屋門など古民家が残ります。
江戸時代は教育者を輩出
 古くは古牟呂とも書いたそうです。江戸時代は旗本・朝岡氏と内藤氏の両方で治める相給。村高は約110石程度なので、小さな集落です。しかし医業のほか私塾を開いた教育者も輩出。
 
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 交通 北総線小室駅から徒歩10分 
松戸(まつど)/松戸市松戸 
 
江戸時代は食糧基地としての役割
 矢切の渡しがあったり,二十世紀ナシの生誕地であることは意外と知られていません。古くから常陸,武蔵へ通じる交通の要衝として発展しました。江戸時代は幕府直轄領,旗本領でもありました。幕府は江戸川沿いに新田開発を積極的に進め,江戸への食糧基地としての役割を果たさせたのです。
古民家が少し残る程度
 もう一つ江戸川と水戸街道の交差するところで,銚子からの鮮魚の中継河岸としての役割もあり,さらに宿場町としても大きく発展しました。今はポツンポツンと古民家が残る程度。『更級日記』に「まつさと」とあるのが地名の語源とか。 
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 交通 JR常磐線松戸駅から徒歩7分
小金(こがね)/松戸市小金 
 
小金を通過した大名は14家にのぼる
 水戸街道沿いの宿場町です。ここには他藩とは別に,水戸藩専用の本陣があって水戸御殿と呼ばれていました。この御殿は,小金城主・高城氏の家臣の日暮氏が世襲で管理していました。また天明年間(1781-89)の通過大名は,14家でした。小金城は江戸川と低湿地帯を見下ろす下総台地の一画を占め、関東平野を一望する戦略上の重要な拠点でもありました。
●文化財級の旅籠・玉家
 江戸時代は,湿地の多くが新田開拓に利用され,人口が急増する江戸の食糧基地となるのです。現在,往時の面影を残すのは,鈴木家所有の旅籠・玉家で,江戸時代後期の旅籠の原型を留めています。
 
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 交通 JR常磐線北小金駅から徒歩15分 
千駄堀(せんだぼり)/松戸市千駄堀 
 
   
▲安蒜家長屋門/松戸市文化財・天保11年(1840)築  ▲土屋家長屋門/松戸市文化財・江戸末期~明治初期築  
●迷路の中を探し当てました
 この地にたどり着くのに苦労しました。迷路のような郊外住宅群の間をを通り抜け、小高い丘を上ったところにあるのですが、地図(松戸市文化財マップ)を片手に歩いてもわかりにくいところ。
中世の城館・千駄堀館
 かつて中世の城館・千駄堀館があったところとされ、いまもその跡地(推定)は更地になっています。またこの地には安蒜姓の家が多いのですが、高城氏家臣・安蒜氏の子孫ではないかと推定されています。江戸時代は、文禄元年(1592)までは武田信吉領、のち幕府領を経て幕府領と旗本・土屋氏の相給、このあと幕府と各藩との相給が続きます。
●旧家の邸宅があちこちに見られます
 それらはともかく、旧家と思われる大きな宅地が散在しています。いずれも名主など豪農だったのでしょうか。台地上のゆったりと構えた旧家群と、麓のギッシリ詰まった現代住宅群を見るに付け、住宅事情を垣間見る感じです。 
 
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交通 JR武蔵野線新八柱駅から徒歩30分
 
花野井(はなのい)/柏市花野井 
 
   
 ▲旧吉田家住宅/国の重文が8棟 ▲長泉寺/ボケ封じに効果あるとか 
 ●国の重要文化財が8棟
 江戸時代は旧花野井村で、幕府と田中藩の相給。特に醤油造りで田中藩の御用達を務めた吉田甚左衛門は、この地に広大な敷地を保有。「小金牧」という幕府直轄の牧場を管理する牧士という地位を与えられ名字帯刀を許され、武士と同等な扱いを受けました。さらに各方面に進出しましたが、関東大震災で工場の倒壊、第二次大戦中は、軍部に土地を接収されました。いまは、歴史公園として開放されています。
古民家の大部分が吉田家関係
 周辺は吉田家関係の古民家が散在していますが、他の地域ではほとんどが現代住宅で占められています。
 
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 交通 JR常磐線柏駅からバスで花野井入口下車、徒歩10分 
大室(おおむろ)/柏市大室 
 
 ●吉祥院付近で農村風景
 駅を出ると広大な宅地開発にぶつかります。でも気にせずに吉祥院を目標に歩きます。周辺はおだやかな農村風景が広がります。田畑や山林の合間に古民家が見られるのです。一時期よりもかなり減りましたが、農家らしいたたずまいがうれしくなります。
吉祥院に小学校の開設
 
吉祥院は明治6年に公立共醒学校を開設されました。当時、教員1人で生徒数は39人で、後に大室小学校に改められました。このころ利根川対岸(現・茨城県)とに渡船場が開設され、生徒も若干増えたそうです。 
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 交通  つくばエキスプレス柏田中駅から徒歩15分
白井(しろい)/白井市白井 
 
 ●木下(きおろし)街道沿い宿場町
 利根川岸から東京湾岸に至る木下(きおろし)街道沿いの宿場町。しかし明治10年,利根川に川蒸気船が運行すると,この街道は一気に衰退しました。昭和5年に成田自動車が木下駅-白井新田間を運行、丸石自動車が白井新田-下総中山間を運行することで、川蒸気船も衰退します。明治、大正、昭和と交通革命が次々と起こったのです。
神崎川近くに蔵造りの商家
 現在の県道59号線の神崎川近くに蔵造りの商家が見られます。地名はきれいな湧水「知る井」が転訛。
 
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 交通 北総線白井駅から徒歩20分
神々廻(ししば)/白井市神々廻 
 
ユニークな地名の由来
 江戸時代は旗本領でしたが,神々が次々に廻ってくる所,という地名の由来説があります。しかし後世の人が後付けでもっともらしく名付けたようです。有力なのは,東西南北(四至)を狭い谷津で仕切られた,すなわち四至(しし)に狭間がある場所という説です。
旧家を思わせる豪農屋敷
 木下(きおろし)街道沿いを歩いていて,横道に入いると,植栽をめぐらした旧豪農らしき土蔵などの建物が,あちこちで見られます。1軒あたりの宅地面積が大きい分,名主や裕福な農家が多かったのか。そのためか徳川将軍の鷹狩りのときは、近隣の村々とともに人足の負担を強いられていたそうです。 
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 交通 北総線白井駅からバスで神々廻下車徒歩5分
平塚(ひらつか)/白井市平塚 
 
   
▲滝田家住宅/国の重要文化財/江戸時代の旧家で築300年を経過 
江戸時代から続く農村集落
 このあたりの字名は舟戸といいます。「ふなと」は「ふなつ(舟津)」と同じ意味。江戸時代の手賀沼は手賀浦と呼ばれ,衣川を経由して海につながっていました。銚子の漁場が開かれた頃には鮮魚を平塚まで舟で運んで陸揚げ,ここから江戸まで運ばれていたのです。締め切られて沼となってからも船着場が昭和初期まで存在していました。滝田家は江戸時代から舟戸に現在も住まわれています。
屋敷林に覆われた古民家
 閑静な農村集落です。古民家も戸別ごとに深い屋敷林の中に隠れています。地名は古墳時代後期、盛り土の低い古墳が多かったことからざぶとん古墳と称され、「ヒラツカ」が誕生。
 
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 交通 北総線西白井駅から循環バスで滝田家住宅下車すぐ 
今井(いまい)/白井市今井 
 
   
▲今井の水塚/今井に11カ所現存  ▲いたる所に旧家が見られます 
旧家が軒を並べる
 江戸時代、手賀沼開発で新田としてスタート。当初は「名内村下」とよばれていましたが、その後「今井新田」となりました。手賀沼の水害は止まることもなく、村全体が水没したこともありました。「金山落とし」と呼ばれる水路があります。これは江戸時代に度重なる手賀沼の氾濫に対して、享保12年(1727)に排水路として整備されました。いまでは桜の名所として、すっかり市民に親しまれています。
地名には厳しい生活が反映……
 「今井」の地名には厳しい生活で「もう、いまい(いたくない)」という由来もあるようです。 
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 交通 北総線西白井駅から循環バスで斉藤布団店下車、徒歩5分
名内(なうち)/白井市名内 
 
鮮魚(なま)街道沿いの集落
 『元禄郷帳』にでは名内を「ナヲリ」とルビを振っています。古くは「ナオリ」と呼ばれていたそうです。中世の城館跡があり名内城だったとか。また東光院所蔵の地蔵菩薩立像は、元亀2年(1572)の作とされており、市の文化財に指定。これは胎内から発見された銘文に記されていたとか。集落を横断する古代からの古道があり、これは銚子から江戸に向けて鮮魚の輸送ルート。俗に鮮魚(なま)街道と呼ばれていました。
明治7年に小学校が開設
 明治7年に東光院を仮校舎とした名内小学校が開校しています。集落は丘陵地にあり、バスを降りると、坂の上に土蔵や白壁のある古民家などがあり、東光院も残っています。 
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 交通 北総線西白井駅から循環バスで今井ゲートボール場入口下車、徒歩10分
 
泉(いずみ)/印西市泉
 
駅前の高層住宅群を抜けると静かな町へ
 駅前は高層住宅が林立し,ビジネス街も高層。さらに県道61号線の改良工事,環状道路の設置工事など,駅周辺は今も工事中です。そんななかを抜けると,妙に静かな町並みに出逢います。木下(きおろし)街道沿いの町です。
大型の板張り2階家が続く
 江戸時代は幕府領で旧和泉村が開拓した新田集落で,肥沃な下総台地にあります。戦後しばらくは純農村地帯でしたが,いま周辺は大きく変貌しようとしています。家屋は切り妻の板張り大型2階家が多く,近代住宅として手入れも良く,整然とした町並みです。

 帰路につくため集落から一歩外に出ると、住宅団地や道路の開発が目前に迫っていました。 
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 交通 北総線千葉ニュータウン中央駅から徒歩15分
 
木下(きおろし)/印西市木下 
 
   
▲岩井家住宅(国の登録文化財)  ▲旧道沿いに古民家が点在 
河川港として発展しました
 江戸時代は船でこの地で下船し、木下(きおろし)街道で船橋、市川を経て江戸に向かいました。しかし利根川に川蒸気船や鉄道の開通で、その後町自体が衰退。いまは新道沿いの六軒の交差点付近にいくつかの古民家が見られます。
大消費地・江戸と最短で結びました
 木下街道とは市川の行徳から八幡、鹿島、白井を経て利根川沿いの集落・木下へ至る40㌔弱の街道をいいます。江戸時代の重要な輸送ルートでもあったわけです。
 
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 交通 JR成田線木下駅から徒歩8分
我孫子(あびこ)/我孫子市本町
 
●脇本陣の茅葺き屋根住宅
 我孫子宿も道路の拡幅に見舞われています。その中で生き残った古民家が数軒あります。それにしても茅葺き屋根は目立ちます。脇本陣ですが,内部は非公開。また旅館,料理屋などの木造建築も残っています。 ところで宿場は鉤型(かぎがた)の町並みになっています。変則的な十字路にすることで、見通しを悪くするのです。
助郷が29ヶ村、加宿が23ヶ村という極めて大がかり
 問屋は4人の名主が月番(つきばん・毎月交代制)で勤めました。決まった助郷(すけごう)は29ヶ村、加宿(かしゅく)は23ヶ村というから、かなりの大がかりなシステムになっています。水戸藩をはじめ多くの大名たちが利用しているため、村民の負担は想像を絶したといえます。
野口英世の育ての親
 余談ですが、明治3年に生まれた血脇守之助は歯科医の地位向上に尽くしました。が、それより野口英世の育ての親として知られています。
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 交通 JR常磐線我孫子駅から徒歩7分
 
 布佐(ふさ)/我孫子市布佐
 
   
▲集落内を歩きますと農家でも旧家が続きます 
新田開発の農村集落
 手賀沼から流れる木下川沿いの干拓地で,近辺では新田開発として最古のもの。かつて干拓による新田開発が進んだために,利根川の洪水,手賀沼の増水で水害を繰り返しました。しかし1区画あたりの面積は広く,今でも広大な屋敷が並んでいます。
井上家は手賀沼の干拓事業に参加
  特に井上家は、手賀沼の干拓事業に参加するために江戸から移住。当時の布佐は、利根川の船運で栄えた集落で、井上家はその後名主として力を発揮しました。現在の建物(写真上)は、江戸末期から大正にかけて建てられたもので、国の文化財として登録されています。
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 交通 JR成田線布佐駅から徒歩15分
流山(ながれやま)/流山市流山
 
   
▲旧道沿いに残る古民家群  ▲寺田園旧店舗(国の登録文化財) 
街道沿いに残る見世蔵
 江戸時代は新田開発が盛んに行われ,その良質米で酒造業,とくにみりん製造がいまでも主産業となっています。旧流山街道沿いには店蔵がいくつも残っています。
焼酎をみりんで割った“みりん直し”
 江戸川の舟運は、寛文・延宝年間(1661-81)から元禄年間(-1704)にいたると、船問屋が川沿いの各地に建ち並び活況を呈していました。本多河岸、加村河岸、天谷河岸などの流山河岸も繁栄したのです。みりん製造では、紋次郎・三左衛門製造の白みりん、みりん直し
(焼酎をみりんで割ったもの)が有名でした。
近藤勇が官軍に自首する
 慶応4年(1868)4月に、大久保大和と称した近藤勇が、醸造業・長岡屋に宿泊中、官軍に捕獲されるという事件が起こりました。近藤は会津に向かうために、できるだけ官軍の手薄な道を選んだようです。このとき、流山の町を兵火に巻き込むことを嫌った近藤勇は、ここで自首したのです。 
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 交通 流山鉄道流山駅から徒歩10分
佐原(さわら)/香取市佐原 
 
   
▲街道沿いに商家が残っています  ▲店蔵が軒を並びます 
   
▲橋の両サイドも風情がある  ▲小野川の岸辺に古民家が並びます 
小野川両岸に商家や問屋
 仕事では何度も来た町です。小野川の領域,それに続く町並みも少しずつ整備されてきました。そのせいか平日でも,団体客でたいへんな賑わいです。
 江戸時代,利根川を利用した水運が便利になってからは,米や酒,醤油の製造が盛んになりました。そのため荷物の運搬に便利な小野川沿いに,商家や問屋が集中しました。
重要伝統的建造物群保存地区です
 さらに大正時代に入ってからは銀行も建ち並び,当時の洋風建築も保存されています。明治末期の土蔵から近代建築まで楽しめます。地名は、堆積地を示す「砂原(さわら)」、または香取神宮の祭礼用土器「浅原」に由来するとか、諸説あり。重要伝統的建造物群保存地区。
 
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 交通 クルマは観光客用の無料駐車場に停めました
 
小見川(おみがわ)/香取市小見川
蔵や洋館が見られる
 小見川藩は利根川沿いの目立たない小藩でした。城跡もわずかな石垣が残る程度。町並みは蔵造りや洋館が点在しています。ちょっと平凡な町ですが,裏道にはきれいな植栽をほどこした住宅も見られます。地名は小見川河畔に立地するからだそうです。
江戸時代に特権を持った「小見川船」が活躍
 利根川水系でも古くから舟運
の要衝にあたり、元禄3年(1690)には江戸への廻船米の運賃が100石につき3石7斗と認められるなど、城米積み出しの河岸場として公認されていました。このときに「小見川船」はいろいろな税を免除されるなどの特権を持t、享保3年(1718)には49艘がいたそうです。
感動度★★
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 交通 クルマは大きな商店の駐車場に停めました
飯沼(いいぬま)/銚子市飯沼町
古民家が点在しています
 「観音様にお参りして,縁日を見て,食事をする」が人々の楽しみでした。また地域で最大の花街を形成。まさに“娯楽の殿堂”でもありました。今は衰退し,見る影もありませんが,一歩裏手に入れば古民家など,往時を彷彿させる光景も見られます。もともと半農半漁の村で、特に干鰯生産が盛んでなところ。高瀬舟も49隻もあり、問屋も10軒余もあったそうです。
花街でも大受けの『銚子大漁節』
 元治元年(1864)の春、未曾有の豊漁で、漁民は川口神社で大漁祭を催すことになり、網元や俳諧師など3人の有力者が松本家の離れ座敷で合作したのが『銚子大漁節』。しかも清元の師匠・きん子が振り付けを担当。この踊りが花街の芸者衆に大受け、郭では替え歌まで登場したそうです。
You Tubeでは芸者さん踊っていましたが、「一つとせ~」が始まりで二十まである数え歌です。
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交通 銚子電鉄観音駅から徒歩15分
港町(みなとちょう)/銚子市港町 
 
 ●漁師町特有の板張り家屋
 明治時代中期,飯沼村から本銚子町,銚子町へと変わり,昭和9年に港町など27ヶ町に分割されたそのうちのひとつです。利根川沿いの町で住宅街が大半ですが,ほとんどが漁業関係の仕事に携わっていました。
漁師町特有の板張りの住宅が多い
 江戸時代初期,利根川を利用してそのまま江戸への水運が活発になると,房総回りは激減し,ますます町が発展。川沿いには倉庫が建ち並びました。今でも倉庫に出入りする大型冷凍トラックが多数見られます。そのためか銚子水産加工組合などをはじめ、水産関係の会社が多いのも特徴です。海のにおいのする町を歩いて,漁師町特有の板張りの木造家屋が幾つも見られます。
 
 感動度★
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 交通 銚子電鉄本銚子駅から徒歩15分
外川(とかわ)/銚子市外川町 
 
   
▲銚子電鉄外川駅/大正12年築  ▲外川ミニ郷土資料館/地元民が設立 
NHK朝ドラ『澪つくし』の舞台になりました
 江戸時代から漁港として繁栄しました。特に万治元年(1658)紀州から来た崎山治郎右衛門が漁業指導とともに,碁盤の目状の街を造りました。坂にできた町並みは迷路状が多いだけに,美しい町並みを形成。また漁師町は飲み屋や酒屋のほかに遊里もありましたが,今は往時の面影は見られません。昭和60年(1985)NHK朝ドラ『澪つくし』が放映され、主演の沢口靖子さんの初々しさが印象的でした。
●改装,改築が進む古民家
 外川駅を出て3分ほど歩くと,下り坂にぶつかります。今では坂道に通り名が付けられ,わかりやすくなりました。ただし、町割りはほとんど江戸時代のままになっています。逆にいえばとても貴重な町といえます。町家のほとんどは改装,改築されたり,現代住宅に変わっています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 銚子電鉄外川駅から徒歩10分
長崎(ながさき)/銚子市長崎町 
 
消えつつある石垣の里
 犬吠埼や外川町の関東ローム層からなる洪積層の台地から急坂を下った海抜1m未満にできた町並みです。周囲は高い防潮堤に囲まれ,家々の周囲も風除けの強固な石垣が造成。でもその石垣も堅固な現代住宅には必要なくなり,石垣も消えつつあります。いま石垣が残されているのは、集落の外周のみ。ブロック塀に変わっていくようですが、いつも強い風の吹き付ける町だけに,背の低い民家が多いのが特徴です。
江戸時代は「長崎古湊」の名が見られます
 町の先端は長崎鼻といい,細長く突き出た形が地名の由来だとか。元禄7年(1694)の記録には「長崎古湊」の名前があり,意外に歴史は古い!
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 銚子電鉄外川駅から徒歩20分
 
宮小路(みやこうじ)/佐倉市宮小路町 
 
土塁で固めた武家屋敷街
 茅葺き屋根の武家屋敷は珍しくありませんが、黒塀や土の壁ではなく土塁で屋敷の周りを固めていました。これでは要塞です。これにはビックりです。下級武士は外堀のさらに外に住んでいて、より警固にするためでしょうか。城外といっても、もっとも城に近い位置でした。大手門まで約180間(327.24m)で、元気な侍ならばひとっ飛び!
下級、中級武士などの屋敷がいっぱい
 もともと麻賀多神社から延びる小路でした。そこで“宮”小路と名付けられたとされます。建設当時は道の両側に一戸建ての侍屋敷が建ち並び、寛文年間(1661-73)になると境内東側は町家となりました。大手門外の南側の空濠付近は中級の侍屋敷が続き、妙隆寺境内西側は、小役人の長屋がありました。
  
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました 
新町(しんまち)/佐倉市新町 
 
   
 ▲市はどのように使うか検討中  ▲黒漆喰の土蔵は、かなりの大店 
   
▲市立美術館(旧川崎銀行佐倉支店)  ▲明治23年築の旧堀田家(重文) 
太平洋戦争で激戦地区を転戦した佐倉連隊
 佐倉藩11万石の城下町です。年配の方なら,第二次世界大戦が始まると同時に,満州,グアム,レイテと過酷な転戦を続けた佐倉連隊を思い出されます。しかし今は平和な時代です。佐倉兵営跡(自由広場)に立つ碑ぐらいしかありません。
街道沿いに残る商家
 成田街道沿いの新町周辺は高台で,商業や手工業などで城下の最もにぎわった所です。町家がつづきますが,寺院も多く往時の面影を少し残しています。また市立美術館は,旧川崎銀行佐倉支店で,千葉県の文化財に指定されています。京成佐倉駅からの徒歩は、長い坂を上ることになります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京成佐倉駅から循環バスで市立美術館前下車すぐ
 
海隣寺(かいりんじ)/佐倉市海隣寺町
 
   
▲立派な商家で、改築されています   ▲茅葺きの建物は個人宅です 
時宗の寺院・海隣寺
 成田街道が台地上(新町)へ向かう途中の急坂にあります。海隣寺は戦国期,小田原北条氏と同盟関係にあった千葉氏の庇護の元で興隆を極めましたが,千葉氏の滅亡とともに勢力は次第に衰えました。今は見る影もありません。
急な坂道の両側に古民家
 街道の急な坂道の坂を上りきったところに木戸がありました。江戸時代は武家屋敷の外側にあたり,このあたりは商家が連なっていたそうです。古民家もあって,落ち着いた町並みです。田町から新町への街路を海隣寺並木と呼ばれていました。町名は佐倉城下にあった「海隣寺門前」から「海隣寺町」に明治9年に改称しました。
近くに国立歴史民俗博物館
 数年前、近くの国立歴史民俗博物館の『歴博講演会』に3年間ほど毎月通ったことがありました。京成佐倉駅からの行き帰りの途中で、茅葺き屋根のお宅を見ながら、いつまでも保存されるように、祈っていたのを覚えています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京成線京成佐倉駅から徒歩15分
臼井(うすい)/佐倉市臼井 
 
 ●成田街道の宿場町
 平安時代末期から鎌倉時代まで千葉氏の一族臼井氏が築城した臼井城に始まります。また成田街道の宿場町として栄えました。旧街道沿いに往時の面影が見られます。天保9年(1838)、定助郷は19ヶ村、ほかに大助郷がなんと66ヶ村にのぼります。やはり佐倉城下に近い宿場ということでも栄えたのでしょうか。
成田詣での人々で栄えました
 文政年間(1818-30)以降は成田参りが多くなり、茶店、旅籠屋、馬方、駕籠人足が増え、宿場町として活気がありました。また鷹匠組合の根村で、鷹匠衆の宿泊地・拠点でもありました。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京成線京成臼井駅から徒歩15分
 
八日市場(ようかいちば)/匝瑳市八日市場町 
 
 ●黒漆喰塗りの老舗
 黒漆喰塗りという,豪商の土蔵造りが点在しています。坂本総本店や新井時計店は国の文化財に登録されています。また長徳寺の仏画は重文でもあります。歴史の香りのする古い町並みです。地名は毎月8日に三斎市が開かれていたことに由来します。
年貢米の流通もきちんとしていました
 文禄元年(1592)の八日市場領の年貢勘定証文を見ますと、当時の八日市場領の領主は井田因幡守で、天正19年(1591)年分の年貢は、当地から佐倉・公津(こうづ)までは荷駄(にだ・人や馬で荷を運ぶ)で、公津から関宿へは舟で運送されたとあります。これらから見ますと、中世の時代から流通網がしっかりしていたようです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはコンビニの駐車場に停めました 
山崎(やまざき)/野田市山崎 
 
 ●明治維新より遙か前に、歩車分離!
 日光街道には幾つかの裏街道がありましたが,ここを通る日光東往還もその一つ。江戸時代は30数軒の家があり,道幅が八間(約14.5m)で,両側にはなんと人道がありました。つまり人よりも農産物などの物資の移動が激しかったようです。ということは歩行者と荷車の通行が分離されていたということでしょうか。日本の歩車分離の思想は明治維新からが定説です。
街道の裏道や横丁に古民家が残されています
 本陣や脇本陣はなく,その都度名主や問屋が集まって協議して,本陣を決めていました。

 現在流山街道の拡幅工事で大半の町家が消えましたが,街道の裏道や横手に,板塀の続く古民家が残されています。ほとんどが名主など豪農だったとか。地名の由来は、往時の太日川(江戸川)流域の河岸段丘の先端を意味していました。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武野田線梅郷駅から徒歩8分
 
野田(のだ)/野田市上花輪 
 
   
▲茂木佐平治邸・現市民会館/国の登録文化財・大正末期築  ▲キノエネ醤油(醤油蔵)/天保元年(1830)創業とか 
   
▲旧野田商誘銀行/醤油の文字にちなんで商誘と名付けたそうです ▲興風会館/大森茂設計で近世復興様式・国登録文化財・昭和4年築 
どこでも醤油のにおい
 町を歩いていると、どこからともなく醤油のにおいが漂います。だれもが知っているキッコーマン醤油の本家本元の町です。またキノエネ醤油(写真上)の本社もあり、蔵も情緒が感じられます
 流山街道を歩きました。この通りに神社や古い建物がそこかしこに建っています。一歩中に入ると、キノエネ醤油があり、向かいに大きなマンションが建っています。対照的な光景です。途中、旧野田商誘銀行、興風会館(登録文化財)なども見られました。
醤油とともに町が発展
 江戸時代初期から醤油醸造で栄え、多くの人たちが輩出しました。江戸の発展に伴い需要の拡大と江戸川を利用した水運の整備により,多くの豪商や豪農が醤油の製造に参入したのです。江戸の中期には,上方の「下り醤油」を駆逐し,銚子の醤油を押しあげました。現在ではキッコーマン醤油だけで,全国生産量の約28%を占めるに至りました。
 なお醤油醸造家・高梨家は上花輪歴史館になって、公開されています。この近くにはキッコーマン醤油御用蔵、煉瓦蔵などもあって、時代を彷彿させます。地名の語源は、低湿地を意味する「ニタ」、「ムタ」の転訛説が有力ですが、野田右馬介(うめのすけ)の所領であったからという説もあります。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 東武野田線愛宕駅から徒歩15分
 
中里(なかざと)/野田市中里 
 
江戸時代は本陣、脇本陣もありましたが…
 地名は「里、中地」などと共に、古代律令制による「郷里制」の名残りかと考えられ,それだけに繁栄したと思われます。事実,隣の山崎宿よりは規模も大きく,本陣,脇本陣もあり,100戸近くの家屋がありました。また馬や荷物の差配を行う問屋場は4家の名主たちが交代で行いました。もともと江戸時代初期は関宿城主松平因幡守康元の領地でした。その後旗本の都築,太田両氏の知行地となり、幕末を迎えます。
面影もない寂しい宿場町
 旧日光東往還の宿場町でしたが,面影はなく,料理屋のノレンに「中里宿」の名が見られるくらい。寂しい町でした。 
 感動度★
 もう一度いきたい度
 交通 東武野田線川間駅からバス川間局入口下車徒歩5分
関宿(せきやど)/野田市関宿台町 
 
   
▲関宿城を模した県立関宿博物館  光岳寺/山門に三つ葉葵の紋
   
▲宗英寺/藩主・松平康元が創建  ▲寳相寺/代々の藩主の位牌が安置 
「利根川は江戸城の外濠」 
 天正16年(1590),徳川家康が江戸入府を果たし,江戸周辺に普代家臣を配置しました。関宿には家康の異父弟・松平康元が入城。ここは幕府の北の防御要地として重視され,「利根川は江戸城の外濠」といわれ,早くから川関所が設けられるくらいでした。これは舟運の活発化という事情がありました。
寺院とわずかな古民家
 いま町並みには城下町の風情は感じられません。しかしよく見ると点々と古民家が残り,横丁に入ると美しい植栽を生かした農家が見られます。なお寺院の多さが目にひきます。地名は、水運の要衝として関所を設置、宿場でもあったことに由来。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武野田線川間駅からバスで局前下車徒歩5分
成田(なりた)/成田市仲町 
 
   
▲成田山新勝寺/節分の豆まきが有名  ▲三橋薬局/国の登録文化財 
望楼付きの旧旅館・大野屋
 成田といえば国際空港と成田山新勝寺で知られています。古い町並みは、新勝寺へ向かう表参道沿いに点在しています。特に木造3階建+望楼付きの旧旅館大野屋が国の文化財に登録されています。成田市では最初の登録です。今はレストランのみ営業となっています。
●門前町に外国人観光客がやってくる
 ほかに薬局、洋装店など、蔵造りの商家が点在しているのです。新勝寺の門前町だけに、外国人の含めて、とてもにぎわっています。平成17年(2005)に美しいまちなみ優秀賞(国交省)を受賞しました。

 地名は熟田(なるた/豊作の水田の意味)が転訛したとか。 
 感度度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR成田線成田駅から徒歩10分
安食(あじき)/栄町安食 
 
大鷲神社の門前町として発展
 もともと利根川の支流・長門川を利用した水運で栄えた町でもあります。周辺の農産物の集散地でもあり,大鷲神社の門前町でもありました。門前にはなにやら古めかしい旅館が見られます。大鷲神社は地元では「お鷲さま」として親しまれています。
古民家は大鷲神社付近に広がる
 この大鷲神社のすぐそばの国道356号線がL字型に曲がるところに古民家が集中しています。ほとんどが瓦屋根の2階建て寄棟造りで,商家1階の開口部は,ガラス戸が収まっています。地名の由来は、水害に悩む住民が五穀神を祀って駒形神社を創建。翌年五穀豊穣となり、以後食に安んずるようになったことにちなむとか。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大鷲神社の駐車場に停めまし 
横芝(よこしば)/横芝光町横芝 
 
江戸時代は将軍の鷹場でした
 古くは「横柴」とも書きました。近くには戦国時代末期の城郭・坂田城跡があります。その後、小田原の後北条氏に滅ぼされたのです。寛文8年(1668)からは旗本井戸氏と永田氏の相給。相給(あいきゅう)とは、一つの村落に対して、複数の領主が割り当てられる状態をさします。比較的旗本に対しての知行形態が多いようです。また、江戸時代には、御鷹場・横柴組に属していました。鷹場とは将軍が鷹狩りをしたり、鷹匠が鷹を訓練する場所をさします。
さりげなく古民家が建つ
 街道は銚子方面に向かう銚子道があり,その宿場町です。ところどころに古民家がさりげなく点在しています。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはコンビニに停めました
九十九里(くじゅうくり)/九十九里町片貝 
 
   
▲美しい植栽のある木造大型家屋  ▲看板建築もあり、一時期町は繁栄 
イワシ漁で発展しました
 江戸時代は幕府の直轄地。しかし九十九里のイワシ漁は戦国時代に遡ります。紀州から伝わった小規模な曳き網漁法でしたが,江戸時代から大規模な地引き網が考案されて,町はいっそう発展しました。その後も漁法が改善されていきます。
屋根の低い納屋家屋
 一般の民家は防風林で囲まれていますが,納屋家屋は屋根の低い小さな形が特徴です。しかも海に向かって路地のような道が,何本も向かっていて,漁師町特有の景観を見せています。また洋館も見られ,景気のよかったころを彷彿させます。

地名の由来に源頼朝説
 地名は、源頼朝が1里ごとに矢を立たせたら99本に達したという説があります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは千葉銀行の駐車場に停めました 
東金(とうがね)/東金市東金 
 
養蚕業が盛んでした
 東金はこのあたりで最も大きな農村集落で,農業や養蚕業などが盛んで,農家のほか商家も見られました。いまでも蔵造りや木造3階建ての商家が目に付きます。
「御成街道」、「一夜街道」、「提灯街道」の異名
 徳川家康が土井利勝に命じて,鷹狩りのために造らせた道路が東金御成街道(船橋市-東金市・約37km)といいます。利勝は沿道96ヶ村の農民を総動員して、わずか一夜(?)で完成させました。一説のは三日三晩で完成させたといわれています。そのため「一夜街道」の異名。また歴代将軍の東金への「お成り」から「御成街道」。街道を一直線にするために、夜間工事は見通しをたてたるために提灯を並べた突貫工事。そのために「提灯街道」ともいわれました。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
本納(ほんのう)/茂原市本納 
 
本納城が落城し、黒熊氏は自害
 本納は戦国時代には,黒熊大膳の勢力下にあったのですが,永禄7年(1564年)、国府台合戦で里見氏が北条氏に敗れたため,里見氏の援軍をあてにしていた黒熊氏の本納城は落ち,自害し果てました。
点在する古民家
 江戸時代は毎月1,6日に六斎市がひらかれ,塩や農具,日用雑貨などが並べられ,賑やかな町でもありました。しかし本納の町を歩いていると,歴史の香りは,かなり薄い感じがします。また古民家も幾つかが点在しています。

 地名の由来は、日本武尊の弟・橘姫命の遺物を埋めて陵を築いたら船のに似ているので御船型・帆丘と称され、転じて本納に。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは本納公民館の駐車場に停めました
椎木(しいぎ)/いすみ市岬町椎木
 
房総東往還に沿った集落 
 いすみ市は岬町などいくつかの町が合併してできた町です。かつて椎木宿として発展した町ですが,商家などの古民家が点在しています。
 もともと中世初期の大武士団で,一宮の神の権威を背景に上総氏一族の椎木氏の本拠地でもありました。その名前が地名の由来でしょうか。房総東往還に沿った集落で、江戸時代は2,7日の市立てが許可。
昭和初期の建物が多い
 街道沿いをゆっくり走りますと,「う~ん残念」とうなるくらい,ちょっと平凡な町並みでした。建物のほとんどが戦前のものです。ただ看板で隠れている建物が多く,蔵造りも見えます。
 
  感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは郵便局に停めました
勝浦(かつうら)/勝浦市浜勝浦 
 
   
▲蔵造りの商家が多い  ▲妓楼の面影を残しています 
浜に豪華な回船問屋などの古民家群
 勝浦といえば,朝市で知られています。天正19年(1591年)に領主の植村土佐守泰忠が,産業振興のために開設したと伝えられています。ざっと400年の歴史を有する朝市で,年間30万人の人が訪れます。日用雑貨や各種食材が並びます。
 さて古民家は勝浦町内のいたるところに点在していますが,浜勝浦地区は,豪華な回船問屋が数軒,そのまま残っています。とにかく豪華な建物です。いまでも魚介類の加工を行なっているのです。作業場が隣接しています。地名の語源は、もともと勝は「潟」を意味し、浦は「海浜」を意味します。
魚介類がうまいぞ
 勝浦漁港では,初カツオの水揚げ高は,全国でもトップクラスです。ほかにマグロ,タイ,サバ,イカ,アワビなど豊富な魚介類がいっぱい獲れます。市内の食堂で食べると量,大きさに驚きます。サンマが2尾も付いていました。 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは市民会館の無料駐車場に停めました
木更津(きさらづ)/木更津市中央 
 
   
▲歩いて見つけた鮮魚店  ▲改築、改装された古民家群 
 ●テレビドラマや映画の舞台『木更津キャッツアイ』
 TVドラマや映画になった『木更津キャッツアイ』の舞台で,あっという間に若者たちに人気を博した町でもあります。かつては水運の中心地,漁業の盛んな町でもありました。しかし東京湾の埋め立てなどで,工業への転換が徐々に進み,湾岸地域の工場へ通う労働者の住宅地として発展。
橘姫命の「公不去(きみさらず)」が地名の由来?
 中央2丁目もかつては海のそばだったせいか,鮮魚商が多く,歩くだけで魚のにおいがしました。いまも鮮魚を扱う店がありますが,その数は激減。地名の由来は、日本武尊が東征の折り、弟・橘姫命の死を悲しみ、当地を去ることができませんでした。そこで「君不去(きみさらず)」とよび、のちに転訛した。
 
 動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR内房線木更津駅から徒歩5分
久留里(くるり)/君津市久留里市場 
 
蔵造りの残る城下町
 古くは来里、玖留璃とも書きました。久留里城を中心にした城下町ですが,名水100選に選ばれています。町のいたるところに無料で飲める水がわき出ています。町並みは白壁で蔵造りの商家が散在。
戦国時代の合戦の地
 戦国時代は上総国の要地のひとつです。天文7年(1538)の第一次国府台合戦ののち、安房国・稲村城(現・館山市)を本拠としていた里見義堯
は、上総国へ進出しました。当時上総国は足利義明の勢力下にありました。天文10年(1541)ごろ、久留里城を築城し本拠地を移したのです。 天文23年(1554)には北条氏が海路上総に入り、義堯の本拠地・久留里城を攻撃しています。この合戦は数年間続いたそうです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR久留里線久留里駅から徒歩5分
佐貫(さぬき)/富津市佐貫 
 
国の登録有形文化財
 古くは讃岐郷とよばれ、鎌倉時代は佐貫郷となりました。国道465号線沿いに何軒かの蔵造りの建物が残っています。特に佐貫交差点の角にある宮醤油店は国の有形文化財として登録されています。創業は天保5年(1834年)です。予約すれば醤油造りが見学できるそうです。
幕末には藩医が寺子屋を開設
 江戸時代は佐貫藩領で、佐貫町周辺13ヶ村で“佐貫組”を組織、佐貫の名主が責任者となっています。幕末には藩医・三枝俊徳が寺子屋を開設しています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは宮醤油店の無料駐車場に停めました 
浜金谷(はまかなや)/富津市金谷 
 
石切場跡や洞窟が残ります
 すぐ近くに鋸山(のこぎりやま)があり、房州石の産地でした。1983年ごろまで切り出していましたが,石を運んだ「車力道」はハイキングコースになっています。いまは石切場跡や洞窟などが残っています。また房州街道や久留里方面への脇往還の分岐点でもあり,交通の要衝。
房州石を使った石塀の美しい風合い
 その房州石を使った家々が,浜金谷駅周辺に残っています。いまは石塀として見られますが,歴史を感じさせる風合いが美しく,落ち着いた町並みを形成。ところで江戸時代の旧金谷村は、「岡」、「浜」の二つの集落に分かれていました。年貢などは1村でまとまりますが、入会権はことごとく対立したとか。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはフェリーターミナルに停めました 
 館山(たてやま)/館山市長須賀
 
館山城下の町
 何度も訪れた町です。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の舞台となったいわれる館山城(里見城)のあるところです。蔵造りの建物や立派な垣根を持った農家などが点在。復元された館山城は,博物館になっています。市名も里見氏が築城した館山城にちなんだそうです。
北条藩で百姓一揆が起こる
 一般に館山藩領で知られていますが、正徳元年(1711)には北条藩領となっています。長須賀村をはじめ26ヶ村の農民たちによる一揆が起こっています。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは閉店したスーパー前に停めました
長南(ちょうなん)/長南町長南 
 
重厚な蔵造りの商家
 房総半島の山間部に位置しますが,江戸時代,旅籠や商家などが集中しており,流通,経済の中心地でもあり,江戸時代は市場町として発展。その後は徐々に衰退し,今では往時の建物がかろうじて点在しています。しかし建物は重厚な感じを受けました。町名は長生郡の南にあるという意味。
長南城の城主・武田豊信が落城ののち廃城
 天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めたとき、長南城の城主・武田豊信は北条氏に属していました。そのため落城したあと廃城となっています。城址の四隅の高台の太鼓森は物見櫓の跡と言われています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは商店会の無料駐車場に停めました
大多喜(おおたき)/大多喜町大多喜
 
   
▲渡辺家住宅/国の重要文化財  ▲房総の小江戸の異名を誇ります 
「房総の小江戸」と呼ばれています
房総の小江戸」と呼ばれています。名将・本多忠勝の城下町で、元禄年間(1688-1704)にいまの町並みが形成されたそうです。房総半島のど真ん中に城下町があるのは驚きです。県道231号線(旧大多喜街道)沿いに広がる古い町並みは、古民家が所々に見られますが、行政が保存整備に力を入れています。
格子戸のある建物が増えています
 一般の民家も、格子戸のある建物に建て替えたりするなどしているのです。今回2度目の訪問ですが,ずいぶん変わりました。なお国の重要文化財1軒,登録文化財数軒があります。

 なお町名の由来は、滝が多いことにちなむそうです。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 いすみ鉄道大多喜駅から徒歩15分
鴨川(かもがわ)/鴨川市前原
 
紀州漁民の出稼ぎ地でした
 鴨川と聞くと、鴨川シーパラダイスを連想する人が多いようですが,元もと漁業の盛んな地域でした。特に前原地区は,紀州(現・和歌山県)の漁法の影響が大きく,当初,紀州漁民の出稼ぎの地でもありましたが,少しずつ定着。さらに近隣からの移転で繁栄し,鴨川市街の根幹を形成したとか。
商家や回船問屋が残る
 加茂川沿いに小規模ながら旧回船問屋も残っていますが,基本的に江戸への出荷は,荷馬車で半島(長狭街道)を一昼夜で縦断,保田港から出荷していました。これを「保田駄賃」と呼んでいます。市名の由来は、古代の豪族・加茂氏から、加茂川からなど諸説あります。  
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR外房線安房鴨川駅から徒歩12分 

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