高津区(たかつく)
○二子新地(ふたごしんち)/川崎市高津区二子 | |
▲二子の渡し跡/大正14年まで渡し船を利用していました | ▲二子神社/境内の片隅の柱に「二子三業組合」の紋章がある |
●大山参りの参拝客でにぎわう 江戸時代から“二子の渡し”で知られており,対岸の世田谷区の玉川地区と結んでいました。大山街道,厚木街道が通り,溝口,有馬方面から薪など生活物資,帰りは下肥を運ぶ重要なルート。また大山参りの参拝客で賑わいました。 ●大正~昭和は花街を形成 大正時代に入ると,多摩川の新鮮なアユが名物となり,料理屋,旅館などが建ちます。大正14年(1925),県から三業地の指定を受け,対岸の玉川三業地と一体となって花街を形成。今は往時の面影は見られませんが,ポツンと旅館が残っていました。三業地(さんぎょうち)とは、芸妓屋、待合(まちあい)、料理店からなる三業組合が組織されている地域のこと。警察署の指定した地域のみで営業できます。 ●対岸にもうり二つの町が形成、そこで「ふたご」 地名の由来は、東京側にもうり二つの町が形成されているところから、双子が転訛したとか。ちなみに対岸の世田谷区(東京都)では、「ふたこ」とにごりません。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急田園都市線二子新地駅から徒歩5分 |
○溝口(みぞのくち)/川崎市高津区溝口 | |
▲溝の口駅西口商店街/まさに昭和の香りのする飲食店街です | ▲宗隆寺/陶芸家・人間国宝・濱田庄司の墓があります |
●大山街道沿いの宿場町 戦国時代は溝ノ口,溝乃口とも書きました。江戸時代,江戸から大山阿夫利神社へ詣でる道を大山街道といい、その街道沿いの宿場町です。天保9年(1838)には,旅籠が6軒,居酒屋4軒などがあり,大いに賑わったそうです。 ●蔵造りの商家が残ります いまは蔵造りの重厚な町家が、点在しており往時の面影を少し感じられます。なお駅名は、東急電鉄は「溝の口」、JRは「武蔵溝ノ口」と書きます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 東急田園都市線高津駅から徒歩5分 |
○千年(ちとせ)/川崎市高津区千年 | |
▲橘樹郡家跡(たちばなぐうけあと)の発掘踏査中で、川崎市では初の国の史跡に指定されました | ▲影向寺/7世紀後半に創建と推定。本尊の薬師三尊像はケヤキの一本造りで11世紀後半の作。国の重要文化財 |
●橘樹郡家の正倉跡が発掘され、古代史ファンが殺到! 千年(ちとせ)には古代からの遺跡や寺院があることは知れていました。ところが近年の発掘調査で、千年伊勢山台から、東西南北の方位に整然と並ぶ複数の掘立柱跡が発掘されたのです。これが橘樹郡家(たちばなぐうけ)の正倉跡とわかりました。今から1300年前、大和の都から遠く離れた南武蔵の橘樹(たちばな)の地に白鳳文化が花開いたのです。正倉とは、税として納められた稲を収納する橘樹郡家の倉庫です。この発掘で、首都圏から多くの古代史ファンが殺到しました。いまはフェンスで囲まれていますが、現地で教育委員会の職員から説明を受ける機会を得ました。将来は歴史公園に正倉の建物を復元する計画もあるそうです。 ●かつては「千歳村」といいました 江戸時代は、清沢村と岩川村でしたが、明治8年に合併して“千歳村”になりました。さらに明治22年に橘村の大字になりました。このころは米作が中心で、裏作では麦を作るほか、雑穀類も作りました。また副業として養蚕も盛んに行われていました。地名は縁起がよい、という意味で名付けられたそうです。 ●郊外住宅団地と農村が併存した集落 第二次大戦中に登場した木炭バスは蟻山坂(ありやまざか)を登り切れず、乗客は坂上まで歩かせることもしばしばあったそうです。戦後、昭和24年に切り通しにより、坂を低くする改修工事が完了しました。いまは「蟻山坂改修記念碑」が残ります。歩きながら気がつくのは、まだまだ農村風景が見られることです。坂が多く、道は迷路のごとくうねっています。ただ駅に近いところや平坦な地は近郊住宅団地として開発されています。それでも、ところどころに古民家や蔵が残ります。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR南武線武蔵溝ノ口駅からバスで千年下車、徒歩5分 |