高槻市(たかつきし)

○富田(とんだ)/高槻市富田町 
 
   
板張りと漆喰を組み合わせた蔵  ▲板張りの古民家が縦横に見られる 
大きな寺社が多い
 16世紀中ごろ教行寺を中心に寺内町として栄えました。教行寺は真宗の北摂津の布教の拠点でもあります。その後普門寺などの名刹も建立され,今でも静かな佇まいを見せています。さらに江戸時代初期は,紅屋を中心とする酒造業が盛んになりました。しかし江戸中期ともなると,池田,伊丹,灘などの酒造場に押されて衰退していきます。現在では2軒の酒蔵が伝統を守っています。
「歴史の散歩道 町家・酒蔵コース」
 普通の住宅地から突然,切妻造り,漆喰塗りの虫籠窓,格子窓の続く町並みに遭遇します。地元では「歴史の散歩道・町家・酒蔵コース」として整備しています。週末には、多くのハイカーで賑わそうです。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 阪急京都線富田駅から徒歩10分
○芥川(あくたがわ)/高槻市芥川町 
 
西国街道の重要性が高まるとともに繁栄
 鎌倉時代後期には芥川宿が形成されていました。一時期衰退しますが、江戸時代に入って街道の重要性が増すと同時に整備されました。西国街道は京都(伏見)から山崎,芥川を経て西宮で山陽道とつながります。文字通り,西国に直結する街道ゆえに,多くの大名に利用されました。芥川宿は17世紀にはじめに宿場として本格的に整備され,本陣,伝馬などが置かれ,旅籠も多くありました。
江戸時代はほとんどが草葺きの平入り入母屋造り
 『高槻の民家と町並』(高槻市教育委員会刊)に享保19年(1734)に描かれた芥川宿の絵図が載っています。家数が157軒、宿の外れの殿垣内(とのかいと)の村を含めると168軒になります。かなり大きな宿場だったようです。本陣と教行寺は瓦葺きですが、多の町家は草葺きで平入り入母屋造です。

鉄道開通後、古い町並みが少しずつ衰退
 近年,鉄道開通後,駅(JR高槻駅)から近いことから,古い町並みが年々衰退し,多くの町家,旅籠などが消えていきました。いまでは中2階建て漆喰塗りの虫籠窓,格子窓のある切妻造りの伝統的な町家が,若干残されています。地名の由来は、阿久刀(あくた)神社の転訛説などいろいろ。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは近くのコンビニに停めました
○梶原(かじわら)/高槻市梶原 
 
西国街道沿いの集落
 古くは楫折(かじおれ)とも枻折(かいおれ)、梶折とも称したとか。梶折れの地名は、唐船が淀川を上って入港(津)したとき、このあたりで梶が折れ、帆を失ったことにちなむという。それはともかく京を出発して西宮の山陽道とつなぐ西国街道沿いの集落です。京・相国寺の高僧・瑞渓周鳳は山崎宿で食事をして,梶原を経由して秀吉も好んだ有馬温泉に出かけたとか。
幹線から外れたことが幸しました
 地図を見るとわかりますが,名神高速,新幹線,東海道本線,阪急電車,国道171号線が狭いところに集中しており,まさしく交通の要衝でもあります。しかし梶原集落はこれら交通幹線から一歩奥に入ったところで取り残された地域。だからこそ、昔のままの姿を保った集落が残ったといえます。
狭い旧道を歩きますと,板塀や土蔵のある町家が残されています。ホントに交通量の少ない田舎町です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○上本町(かみほんまち)/高槻市上本町 
 
   
▲本行寺とその周辺は小規模な寺町を形成(大手町)しています  ▲城北町もところどころ城下町の名残が見られます 
繁華街の近くに城下町の面影
 高槻城城下町の中心地・本町の上手にある所から名付けられました。ほとんどが住宅地として発展していますが,所どころ黒漆喰の商家など豪商らしき建物も見られます。駅前の繁華街を離れると,そこは寺院や商家,土蔵,板塀など城下町の趣が見られる散策コースが至近距離にあります。
江戸時代初期の町家は草葺き屋根でした
 とはいうものの、江戸時代の城下町の町家の大半は、周辺の農家と変わりない草葺き屋根で田の字型の間取り。つまり草葺き屋根が続く光景は農村と変わりがないようです。江戸時代後期になると瓦葺きに変わっていきます。これは武家屋敷も同じです。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 阪急京都線高槻市駅から徒歩10分
 
○安満(あま)/高槻市安満東の町 
 
京-大坂の中間点で幕府は重要視
 地名の由来は、安満寺の寺名によるとか。また古代・淀川の海士(あま)が住んでいたからといいますが、定かではありません。江戸時代は高槻藩領。領主が入れ代わり立ち代わりと変遷。しかし山城国・長岡藩主の永井直清が慶安2年(1649)、3万6000石で入封。以後永井氏が幕末まで13代在封し、安定しました。京-大坂の中間点であることから、幕府は重要視し、譜代大名をあてたのです。
古くから利用されていた西国街道
 安満は京都と西国を結ぶ西国街道沿いの集落です。幕府の街道整備で脇往還とされ、山崎道と称されました。伏見で京街道と分かれ、淀川北岸沿いを進み、西宮にいたります。淀川左岸の京街道よりも距離が短く、水害なども避けることができるとあって、参勤交代はもちろん古くから旅人に利用されていました。
ポツンポツンと残る古民家
 バスを降りて西国街道を歩きます。週末はハイカーで賑わうそうです。ところどころ格子窓のある古民家が見られます。かつては田園地帯でしたが、往来する人が増えるにつれ、民家も形を変えていきます。農家でもなく町家でもない、過渡期ともいえる家屋にポツポツと変わっていきます。中2階の虫籠窓のある建物も残りますが、今は大部分は郊外型の現代住宅群でもあります。ちなみに写真の古民家は分譲住宅として販売していました。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR高槻駅からバスで安満新町下車すぐ
 
○山手(やまて)/高槻市山手町 
 
江戸時代は“下(しも)”という地名でした
 江戸時代は高槻藩領。下村(しもむら)といい、摂津国島上郡に属します。地名の由来は檜尾川(ひおがわ)の川下に存在するかたといわれていますが定かではありません。村内の中央に西国街道が走ります。下村は街道沿いの集落にあたります。
通過する要人の人足負担が重い!
 元禄年間(1688-1704)の人口は164人で43軒と小規模。西国街道沿いに位置するために、幕府の巡見使が通行すると人足を供出しています。延享3年(1746)と宝暦10年(1760)には高浜村出迎えに人足10人を負担、天明8年(1788)の松平惣兵衛に付く人足が6人。天保9年(1838)には市岡内記の付け人に人足8人をそれぞれ負担しています。また嘉永3年(1850)の琉球人の参府では人足10人を負担しています。
名神高速道路が開通してから発展します
 昭和30年ごろから通称“山手町”が使われます。正式には昭和43年からとなりました。すなわち北部の“山地区”に名神高速道路が建設、付近に住宅が建てられ、山手地区と呼ばれたようです。いまは、街道沿いに住宅がギッシリ詰まっています。古民家は瑞應寺周辺にポツンと残っています。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR高槻駅からバスで山手下車すぐ
 
○萩之庄(はぎのしょう)/高槻市萩之庄 
 
   
▲街道の端に小さなお地蔵さま  ▲西国街道は丘陵地を走ります
交通社会の縮図!
 萩之庄は現代交通社会の縮図みたいなところです。町内に北から名神高速道路、東海道本線、阪急京都本線、現・西国街道の国道171号線、東海道新幹線と続きます。今回歩いた旧西国街道は、北端の名神高速道路と東海道本線の間を縫うように通ります。
公家・烏丸家の所領でした
 古くは萩庄とも書きました。江戸時代初期は公家・烏丸家(からすまけ)領ですが、徳川幕府の政策で、武家の高槻藩領へと吸収されていきます。烏丸家は公家の家格としては名家。国立歴史民俗博物館の調査によれば、山城国、摂津国に10ヶ村955石余の所領を有していました。その1つが萩之庄なのです。
丘陵地の狭い道を縫うように走ります
 歩いて気がつくのは、高低差がやや大きいことです。また左右に曲がりながら丘陵地を縫うように通っています。古民家もソコソコ残っており、変化があってハイカーの絶えない理由がわかります。西国街道も、府道67号線と兼用していますが、萩之庄で府道のバイパスが工事中で完成すると交通量も一気に減るでしょう。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR高槻駅からバスで萩之庄下車すぐ
 

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