静岡県(しずおかけん)

 宇津ノ谷(うつのや)/静岡市駿河区宇津ノ谷
 
   
▲急峻な坂道の両側にも古民家  ▲古代は「蔦の細道」に異名もあります 
山あいにひっそりと佇む
 全く期待しないで訪れました。予想外にきちんと整備されていて、うれしいものです。この集落も,宇津ノ谷峠の手前の山あいにひっそりとたたずんでいました。かつて豊臣秀吉が北条征伐の帰途に立ち寄ったとされ,そのとき地元の石川家に羽織を与えたそうです。いまでも「お羽織屋」として残っています。
 ゆるやかな坂に石畳が敷かれています。また家々の軒先に下がった屋号に往時の姿が忍ばれます。
数多くの文学作品に登場します
 古代から東海道の官道であったために、多くの文学作品に登場します。『平家物語』、『源平盛衰記』、『太平記』などの軍記物。『新古今集』などの歌集など数多い。『伊勢物語』では長々と紹介しています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道の駅「宇津ノ谷」に停めました
 
蒲原(かんばら)/静岡市清水区蒲原 
 
   
 ▲旧佐野屋/重量感のある建築です ▲旧五十嵐邸/大正時代は歯科医院 
古民家の多い宿場町
 戦国時代は今川、小田原北条、武田、徳川などの戦国大名の支配を受けていました。江戸から15番目の東海道蒲原宿です。現在でも本陣やなまこ塀の土蔵造りが点在しています。そのほとんどが平入の出桁作りで,1階の開口部が建物から出っ張っています。
ほとんど大正時代の建物です
 また元禄年間(1688-1704)の大津波で,集落は壊滅しましたが,そのあとすぐに復興しました。現在残っている建物のほとんどは,大正時代に建てられたものだそうです。もちろん江戸時代に建てられた旅館の和泉屋は構造をそのまま残しています。また近代建築もあって,古民家の多い宿場です。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
由比(ゆい)/静岡市清水区由比寺尾 
 
   
▲小池邸/ 由比の旧名主の館明治時代築。国の登録文化財 ▲あかりの博物館/明かりに関する物品、文献が展示されています 
東名高速の海岸にあるパーキングエリア
 東海道の宿場町です。古くは湯居、湯井、由井とも書きました。ところで由比といえば,東名高速の海岸ギリギリにあるパーキングエリアとして知られており,よく仮眠をとっていました。今回,まちなかを歩くのははじめてです。
●慶安の乱の首謀者・由比正雪の出身地
 由比は大きくわけて2カ所にあります。一つは由比川近くのあたりで,由比正雪(ゆいしょうせつ)の生家などがあります。このあたりは,連なって古い町家があるわけではありません。ところで由井正雪は江戸時代前期の軍学者で、慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者です。文学や映画の素材にもなっています。
あかりの博物館付近にも古民家
 もうひとつは,寺尾あたりで,あかりの博物館を中心に広がっています。油あんどんなど各種明かりを展示しています。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはあかりの博物館横の無料駐車場に停めました
海光町(かいこうちょう)/熱海市海光町 
 
   
▲黒塀と石畳は似合います。でも石畳は歩きづらい  ▲こぢんまりした石畳の町ですが人影がありません 
石垣と石畳の似合う町
 相模湾に面した昔からの別荘地帯ですが,最近はリゾートマンション,企業の寮などが進出。少しずつ景色が変わりつつあります。町全体が石畳で、とても静かな町並みです。
江戸時代は伊豆山権現300石の社領
 江戸時代は伊豆山村で、中世以来伊豆山権現の社領でしたが、徳川家康から改めて200石の寄進を受けました。慶長14年(1609)にさらに100石の加増。そのまま幕末を迎えます。明治22年に熱海村の一集落になり、昭和44年に一部が海光町となります。結局、大きな事変もなく戦後を迎えたわけですが、東京から近く風光明媚なところで、別荘地としてよりいっそう注目されたのでしょう。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR東海道本線熱海駅から徒歩15分
 
春日町(かすがちょう)/熱海市春日町 
 
   
 ▲旧日向別邸/国の重要文化財 ▲遠く海を見渡せる一等地です 
海の見える高級別荘地
 熱海駅を出ると左方向に小高い丘が目に入ります。遠目はマンションが林立しているように見えますが、急坂を上りますと企業の保養所や高級料亭、別荘地などがギッシリ詰まっています。風情ある古民家は各石段を海側に降りると点在しています。しかしマンション群が迫ってきています。
旧伊豆山村でした
 小高い丘というのは、海光町と同じ旧伊豆山村で、伊豆山権現の社領地。海光町よりも2年前の昭和42年に春日町に町名が変更されました。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR東海道本線熱海駅から徒歩12分
 
 糸川(いとかわ)/熱海市中央町
 
   
▲かつての遊里の面影が見られます  ▲廃業店と営業店が入り混ざっています 
流行歌『金色夜叉』で一躍全国に知れ渡ります
 熱海を一躍有名にしたのは明治30年から読売新聞に連載された尾崎紅葉の小説『金色夜叉』(こんじきやしゃ)でした。さらに大正7年に後藤紫雲・宮島郁芳の作った同名の流行歌が大ヒット,まさに全国的な温泉地となったのです。さらに東海道本線が開通すると,東京の奥座敷として一気に盛り上がり,大衆化するのでした。
糸川沿いの旧花街はけた違い
 糸川沿いは三業地区(花街)として賑わいましたが,今は過日の面影は見られません。しかし建物は残されており,かろうじてスナックや居酒屋などの飲食店が営業しています。夜ともなれば、飲食店の灯りがわずかに光っています。しかしふたたび熱海ブームが来ており、改築やビル化などどんどん変わりつつあります。昭和30年発刊の『全国女性街ガイド』によれば、貸し座敷が74軒、娼妓約300人。で、これだけではなく、一般の芸者が約300人。さらに
いまでいうマッサージ嬢が320人というから桁違いの数字です。さすが大温泉地です。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR伊東線来宮駅から徒歩10分
 
昭和町(しょうわちょう)/熱海市昭和町 
 
   
▲起雲閣/大正8年(1919)築の別荘で、熱海観光の基点。『花子とアン』のロケ地  
   
▲起雲閣庭園で文豪たちの記念写真  ▲コーヒー・ダンゴ付き(500円・福屋) 
東京から直通運転が可能になります
 明治40年(1907)にそれまでの人力鉄道から蒸気機関車にかわり,便利になりましたが,関東大震災で壊滅。しかし大正14年に東京から直通で乗り入れが可能になり,一般大衆が一気に利用するようなりました。乗降客は20倍に増えたとか。
NHK朝ドラ『花子とアン』のロケ地
 戦後の熱海ブームで旅館が増え,料亭,茶屋,妓楼などもこの地まで広がり好景気を迎えました。超豪邸の起雲閣も旅館に生まれかわり,多くの著名人が宿泊。平成26年NHK朝ドラ『花子とアン』(主演・吉高由里子)のロケ地のうち九州の石炭王・嘉納伝助の屋敷として利用されました。ところで昭和町は和田川の形成する扇状地にできた人口密集地です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで起雲閣前下車すぐ
 
西山町(にしやまちょう)/熱海市西山町 
 
   
▲凌寒莊/詩人・佐々木綱吉の旧宅   ▲潤雪庵/文豪・谷崎潤一郎の旧宅
   
▲連月莊/木造建築最古の現役旅館  ▲古くから美しい植栽の多い別荘地 
大火から逃れた古民家群
 熱海は昔から津波の被害や火災の多い所でした。特に東部地区から発生した昭和25年の大火は,繁華街を中心に市内の4分の1を焼き尽くしたそうです。しかし西山町は,幸いにも大火から逃れることができたため,古民家が残りました。
●文豪たちの別宅がズラリとそろう
 急坂の続く西山通り沿いには,戦前から別荘地が並び,今は保養所,寮なども見られます。歴史のある地域だけに,多くの文化人に愛されましたが,その後,企業や旅館に買い取られました。それでも残され,一部は公開されています。南部に来宮神社があり、毎年7月の念仏踊りは県の民俗文化財です 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR伊東線来宮駅から徒歩15分
 
和田町(わだちょう)/熱海市和田町 
 
   
▲路地から路地へと歩くと少し疲れます ▲山田湯/温泉マニアが注目する 
迷路の果てにたどりつく古民家
 和田川に沿った急斜面の町。狭い路地のような道が入り組み、歩いてバス通りに出るまでが一苦労します。そんな迷路のような町を歩くと、あちこちに古民家に出会います。そこには一大観光地・熱海とは別の姿があります。少々疲れますが、歩いて楽しい町(?)。もともとは熱海村大字熱海の一部が町名が変更になったのです。
迷いながら探した共同温泉・山田湯
 熱海にもいつでも誰でも入れる幾つかの共同温泉がありました。しかしいまは老朽化による廃止が目に付くようになったのも事実です。山田湯は、迷路のなかに埋もれるように元気で頑張っています。昭和30年ごろのオープンで、昭和37年に浴場を男女別にしたそうです。看板がないので道に迷わないように。
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで染殿橋下車、徒歩15分
 
上多賀(かみたが)/熱海市上多賀 
 
   
▲駅近くにも古民家が連なります ▲そば処多賀/江戸末期の建築 
江戸城修理用の石を搬出
  歴史的に有名にしたのは、慶長年間(1596-1615)以降、江戸城の修理に使う石の切り出しを行った所だからです。良質の石が採れ、採掘は大正時代まで続いたとか。特に曽我石、青石は重宝されたそうです。昭和10年国鉄伊東線熱海-網代間が開通し、同年に伊豆多賀駅が開設されてから一気に開発の手が入りました。
●古民家は坂道や枝道に点在
 古民家は駅から下る道の両側や枝道に多く見られます。また海岸沿いの街道沿にも点在しています。
 
感動度★
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 交通 JR伊東線伊豆多賀駅から徒歩20分
  
下多賀(しもたが)/熱海市下多賀 
 
   
▲飲食店も古民家を改造しています  ▲下多賀神社/古代の遺跡が発掘  
熱海宮川沿いに見られる
 江戸時代は幕府領から小田原領、石見国浜田旛領、旗本の知行地など藩主が絶えず変遷。昭和10年伊豆多賀駅の誕生をきっかけに町は大きく賑わいました。古民家は少なくなりましたが、熱海宮川沿いに下多賀神社をはじめ、点在しています。
古代遺跡が集中しています
 ところで意外にも、古代遺跡の集中しているところです。縄文時代も向山遺跡、ダラゴ遺跡、縄文・古墳時代の田原遺跡、縄文時代・平安期の薮ノ内遺跡、縄文・弥生時代~平安時代の新釜遺跡があります。古代史、遺跡ファンには欠かせない所です。
感動度★
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 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで下多賀下車、徒歩3分
 
 中野(なかの)/熱海市下多賀
 
   
▲川沿いに多くの家屋が集中します  ▲津島神社/夏祭りが知られています 
離合集散を繰り返した村落
 『増訂豆州志稿』によれば、かつて中村と呼ばれ、多賀村の小名にあたると明記されています。すなわち一色、新釜、中村(今の中野)、小山、和田木の5カ所の小さな集落がありました。慶長15年(1610)には上多賀村と下多賀村に分かれていました。その下多賀村も一時期“下多賀中村”と“下多賀和田木”分村していたのです。
川沿いの上流に残っています
 中野は仲川と鍛治川の2本の急峻な川沿いに発展しました。家屋も川沿いに集中。洪水に悩まされながらも、果物、薪なども生産していました。いまは河川は改修され、古民家も上流で見られる程度です。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度
 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで中野下車すぐ
 
和田木(わだき)/熱海市下多賀 
 
江戸時代は小田原藩領、幕府領……
 『増訂豆州志稿』によれば下多賀村の小名にあたり、一集落でした。その後多賀村に併合されますが、天保年間(1830-44)に今度は隣の中村(現・中野)集落と一緒になって下多賀村となりました。江戸時代は小田原藩領、天明5年(1785)に幕府領となります。村高は111石の小村でもありました。
看板建築に改修・改築がすすむ
 歩いていても古民家は見かけることは少なく、戦後まもない建物ばかりで、ほとんどが看板建築風に改造改築されています。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR伊東線網代駅から徒歩5分
 
 網代(あじろ)/熱海市網代
 
   
 ▲漁師町特有の町並みを形成 ▲平井家住宅/国の登録文化財 
古民家も残っています
 漁師町です。地名の由来も、生業が漁労であることからきています。天正8年(1580)5月22日、小田原北条氏が干し鯉60枚、スルメ500枚を小田原城に持参せよと命じるなど、戦国時代から漁業で発展。回船問屋も多かったとか。古民家も路地などにも多く、典型的な漁師町を形成しています。
重厚な平井家住宅は国の登録文化財
 平井家は網元として栄えました。大正8年(1919)の建築で、寄せ棟造りで瓦葺き、木造2階建てです。内部の見学はできませんが、外観は重厚な姿を見せてくれます。
 
感動度★
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 交通 JR伊東線網代駅からバスで網代小学校下車、徒歩10分
  


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 湯川(ゆかわ)/伊東市湯川
 
   
▲温泉共同浴場/弁天之湯といい、誰でも気軽に入浴できます  ▲木下杢太郎の生家/市内最古の木造住宅・市の文化財指定 
意外に温泉宿は少ない
 地名は、温泉が流れて小川を形成していることに由来。共同温泉はあるものの、温泉宿は意外に少なく、むしろ駅裏や大川沿い、修善寺街道沿いなどに集中しています。古民家は街道の裏手にあって、あまり見かけません。やはり大火や水害の影響が大きいからか。
戦国時代から存在した集落
 戦国時代から見られ、歴史のある集落です。江戸時代は、幕府領、小田原藩領など幾つものの藩政がかわり、文化8年(1811)に旗本・大久保氏の知行地となって幕末を迎えます。 
感動度★
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 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩10分
  
猪戸(ししど)/伊東市猪戸 
 
   
▲戦後のカフェを思わせます  ▲路地奥には廃屋化した建物も 
イノシシが傷を癒やしたとか
 伊東温泉の歴史は明確ではありませんが、和田湯は江戸時代初期には湯小屋があったそうです。もう一つの元湯・猪戸の湯は、傷ついたイノシシが傷を癒やしているのを土地の人が見て、温泉を発見したという伝説があります。
遊里「猪戸新地」の面影
 温泉を中心とした観光都市となるのは伊東線の開通後(昭和13年)です。それにともない遊里が形成されます。猪戸は戦後の温泉ブームにのる形で発展。妓楼が立ち、娼妓も多く、料亭、旅館も一気に増えました。置屋が48軒、一般の芸者180人。しかしそれとは別に、妓楼や貸し座敷約50軒、娼妓150人というからかなり多い。しかし、戦後の売防法制定により、赤線からカフェ街へと移行していきます。いま、スナック、バー、居酒屋などに変わっていますが、建物にかつての遊里の面影を見ることができます。  
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩10分
伊東(いとう)/伊東市東松原町 
 
   
▲対岸の松川遊歩道から見た旅館街  ▲旅館街の端にある土産物店
昔ながらの旅館街
 伊東には何度も来ていますが,古い町並みがあるとは気がつきませんでした。伊東の旅館街は,ほとんどが改築,改造されて昔の面影はありません。しかしここの松川通りは,東海館,いな葉などの木造の建物が建っています。
外国人の宿泊が多い登録文化財
 特に東海館やいな葉には,望楼があって,大川を挟んだ松川遊歩道から見ることができます。東海館は平成9年に閉館し,そのあとは資料館として,一般に無料開放されています。美しい和風建築を堪能することができます。なお、隣の外国人の宿泊が多い「ケイズハウス伊東温泉」は国の登録文化財となっています。玄関の唐破風が印象的です。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩15分
 
銀座元町(ぎんざもとまち)/伊東市銀座元町 
 
   
廃業の店が多くシャッター通りと化す  ▲ 観交番/国の登録文化財 
公共機関の移転が大きかった
 元は松原でした。昭和48年の住居表示にともなって銀座元町になりました。それにしても静かな町並みです。平日の昼間でも人が全くいません。かつては、町の中心地でした。やはり役所や警察署など公共機関が手狭になって移転したのが大きいようです。
看板建築がギッシリ
 駅から遠く、徐々に足が遠のいたのでしょうか。商店や飲食店は大川(松川)の左岸に固まっています。右岸に位置する銀座は遠い!? それにしても看板建築の宝庫といえます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩20分
 
川奈(かわな)/伊東市川奈 
 
   
▲手入れの行き届いた植栽が続きます ▲親子丼(650円・まんまや) 
名門のゴルフコース
 川奈といえばゴルフ好きに知られている川奈ホテルゴルフコース・富士コースのあるところです。日本でも歴史は古く、昭和3年オープンのトップクラスのコース。世界ベスト100のなかにも入るそうです。
●いたるところに手入れの行き届いた植栽
 江戸時代は三島宿への助郷の役割を負わされていました。昔から漁業が盛んで,イルカの追い込み漁は有名。いまはサバ,イカ,サザエなどが中心だそうです。駅から急坂を下る途中に,美しい植栽を見かけます。かなり大きく、やはり海風が強いので防風林の役割があるのでしょう。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線川奈駅から徒歩10分
 
富戸(ふと)/伊東市富戸 
 
   
▲民宿が多いのが特徴  ▲こぢんまりした伊豆急富戸駅 
江戸城築城の石を切り出した
 東伊豆のこのあたりは,江戸城築城のための石を切り出した所として知られています。富戸には尾張家や毛利家の名前が絵図に見られるそうです。また江戸時代は文化8年(1811)から沼津藩領。三島宿への助郷,東浦筋(伊豆東海岸)の街道の普請,酒匂川架橋など,公役を負わされていたのです。
石垣と古民家
 富戸駅から町の中心である海岸までは細い道が続き,しかも急坂です。道沿いには石垣が組まれた所に古民家が見られます。美しい植栽も見られますが,大部分が現代家屋です。地名の由来は、古くは栗、豆の田を富戸と呼んだことにちなむとか
。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線富戸駅から徒歩20分
 
城ヶ崎海岸(じょうがさきかいがん)/伊東市富戸 
 
   
▲古民家風の別荘も見かけます  ▲ログハウス風の城ヶ崎海岸駅 
東京から直行の別荘地
 昭和35年(1960)に伊豆急行線が全線開通から遅れること昭和47年に城ヶ崎海岸駅が開業。東京から直行でき,一気に別荘開発が進みます。しかし初期の建物は築50年近くなり,一部では建て替え時期が来ています。
絶景のリアス式海岸が4km続く
 城ヶ崎海岸は富戸と八幡野間約4kmの海岸がリアス海岸状に入り組んだところ。多彩な海岸地形からかなりの絶景となっています。
また弘化年間(1844-48)に造られた川奈砲台跡や、日蓮上人ゆかりの史跡など人気の高い海岸といえます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線城ヶ崎海岸駅から徒歩10分
 
八幡野(やわたの)/伊東市八幡野 
 
   
▲朱塗りの参宮橋近くにも古民家  ▲伊豆高原駅の階段がひな壇 
石垣,植栽,白壁が残る
 江戸時代は小田原潘領,浜田潘領(島根県),沼津藩領と変遷しました。また東海道三島宿への助郷を負わされていました。八幡野自体は,浜と岡の2つの集落に分かれ,半農半漁で生計を立てていました。古からの集落は,どちらかといえば浜の八幡野港周辺に残っているとか。しかし岡にも石垣に植栽,白壁の民家が残っています
伊豆急開通で別荘の分譲開始
 ところで八幡野が大きく変貌するのが昭和35年(1960),伊豆急行線の開通からです。同時に伊豆高原の分譲を開始,一気に高級別荘地として発展しました。地名の由来は、地区内に八幡宮にちなむそうです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線伊豆高原駅から徒歩15分
 
大川(おおかわ)/東伊豆町大川 
 
   
▲古民家が点在しています  ▲露天風呂/もちろん誰でも入れます 
もともと半農半漁
 江戸時代の藩主は絶えず代わりましたが,後期になると沼津藩とに落ち着きました。寛政年間(1789-1801)で家数は48軒,人口は308人で交通の便の悪さを考えると,そこそこの大きさです。もともと半農半漁の村で,魚介や天草,また山での使役で税を納めたとか。秋から冬にかけては薪を切り出し,他村から船を借りて江戸へ出荷しました。
石蔵や古民家を散見
 町を歩いていて,石蔵を見つけました。この地は江戸城や大坂城の修復用石材の切り出しを行われていたところです。また古民家もあり歴史を感じます。地名は『増訂豆州志稿』によると地区内の大川に由来するとか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆急行線伊豆大川駅から徒歩10分
 
熱川(あたがわ)/東伊豆町奈良本 
 
   
▲鉄道の開設で別荘地としても人気  ▲自噴源泉/島見の湯で100度 
濁川沿いに広がる温泉街
 天城山の南東斜面の海岸部に立地します。まさしく東伊豆を代表する温泉地で湯量もトップクラス。町の中心部に濁川が流れ,その両側に温泉街が広がっています。かつて自噴する温泉が川に流れ込み,冬になると川からモウモウたる湯気が上がっていることから「あったかな川」が地名の由来だとか。
大部分は戦後の建物です
 室町時代に太田道灌が発見したという伝説があります。しかし飛躍的に発展したのは,伊豆急行線の開通によります。歩いていますと,大きな石垣のあるカフェなどがありますが,大部分は戦後の建物です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線伊豆熱川駅から徒歩15分
 
片瀬(かたせ)/東伊豆町片瀬 
 
“海防”のための松の植林
 片瀬の海岸には松がギッシリ植えられています。江戸時代の中期,海防問題がにわかに高まり,寛政5年(1793),幕府は沿岸諸藩に海防を命じると共に,老中松平定信自ら伊豆の海岸を巡視。その結果,海防のために松を植えるように指示しました。いま当時の松は数本残るだけ。耕作地や家屋を守るためだけではないようでした。
古民家も植栽で隠れる
 いま歩いてい見ますと,内陸でも家屋の周囲は風よけに植栽で覆われています。そのため古民家も外からうかがい知れません。地名の由来は『増訂豆州志稿』によれば、片菅の転訛説や「川の瀬」の転訛説などがあります。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線片瀬白田駅から徒歩15分
 
稲取(いなとり)/東伊豆町稲取 
 
   
▲旧カフェを思わせます。曲線が独特 ▲路地にも石蔵を改造した古民家 
江戸時代から漁業が発展
 江戸時代からテングサと石材産出で知られ,東伊豆有数の漁港があります。特にテングサの生産・流通のすべてを沼津潘の直営として独占。そのため江戸市場との結びつきを強め、生鮮魚を中心にかつお節、干物などの水産加工も発達。また当時から人口も多く,かなり繁栄したようです。
港周辺に古民家が集中
 昔から温泉街で人口も多く、観光客も多いとなれば、自然発生的に遊郭が誕生します。詳しいことはわかりませんが、建物を見ているとわかります。ただ遊郭というより、“青線”に近い感じでカフェ街のような町並みがあったかもしれません。古民家は,それらを含め港の周辺に固まっており,路地歩きの楽しい町並みです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線伊豆稲取駅から徒歩20分
 
見高(みだか)/河津町見高 
 
   
▲狭い道を入って行くと蔵が立つ  ▲赤や青の瓦が続く2階家 
   
▲蔵造りの町屋がけっこう残ります   ▲海岸近くにも漁師町特有の古民家
江戸文化が入り歌舞伎役者を生む
 今井浜海岸の名で知られていますが,もともと半農半漁の町でした。江戸時代は,伊豆の産物を回船を使って江戸へ出荷していました。同時に江戸文化が逆に入ってきたのです。幕末には歌舞伎役者・市川小団次を生むことになります。明治に入っても,石材,木材など多数の産物を東京へ出荷,見高港は賑わいます。さらに,温泉,海水浴と観光客も増加しました。
急斜面の路地が迷路
 それにしてもこれほど古民家が残っているとは予想外。斜面の迷路のような路地の両側にギッシリ。地名の由来は地区内の見高神社によるとか。戦国時代、「耳高」の記載もあります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
交通 伊豆急行線今井浜海岸駅から徒歩15分
 
 浜(はま)/河津町浜
 
   
 ▲浜地区の美しい植栽 ▲河津川堤防の桜のトンネル 
美しい植栽と古民家
 桜の開花シーズン(毎年2月頃の早咲)に訪ねたため,とんでもないラッシュにぶつかりました。しかし浜地区は名所とは反対方向なので、シーンとした静寂さを保っていたのが幸いでした。なっといっても植栽が美しいく,歩いていてホッとします
素朴な戦前の建築物が見られます
 江戸時代に入って,伊豆はそれまでの北条氏から徳川領になって,幕府,旗本らの支配下となりました。浜地区には往時の面影はありませんが,石造りや板壁,板塀を施した戦前の建築物が残っています。河津川に近づくにつれ,観光客で混み合いますが,早朝(6時半頃)だったので桜見物ができました。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆急行線河津駅から徒歩8分
谷津(やつ)/河津町谷津 
 
河津温泉郷の一つ
  河津川の支流谷津川沿いに成り立つ集落です。もともと耕地面積が狭いせいか,薪や炭,木材などを回船を利用して江戸へ出荷していました。また一部では隣の浜村と共同で漁業を生業とする者もいたようです。温泉は伊豆では最古と言われいるとか。昭和初期には29の源泉がありました。今は河津温泉郷の一つとして賑わっています。
●谷津川沿いの温泉町
 谷津川沿いにところどころ旅館が見られます。建物は比較的新しく,戦後の建物が多い。しかしポツンと離れた石田屋に趣があります。地名の由来は、『増訂豆州志稿』によれば古くは谷の出口付近を「ヤツ」と呼んだから
だそうです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆急行線河津駅から徒歩20分
 
峰(みね)/河津町峰 
 
   
▲木村家住宅/国の登録文化財   ▲桜並木から離れた所に古民家 
   
▲河津川沿いで最も美しい桜並木 ▲自噴する峰温泉の源泉 
江戸時代は飢餓が発生するなど貧しい村
 江戸時代は茶を年貢にするなど貧しい村であったと思われます。農閑期は天城山の雑木を炭にして江戸に出荷していました。しかし河津川の氾濫は明治に入るまで続き,治水工事の途切れることが無かったそうです。また飢餓が発生するなど、困窮を極めたとか。
明治に入って養蚕、大正は温泉で村を救う
 明治に入って養蚕業が活発化。また大正15年に温泉が噴出,伊豆急行線や路線バスの開通などで,一大観光地に発展しました。河津温泉郷では最大の旅館数とか。

河津川の桜並木は歩行者天国
 それにしても河津川の桜並木は歩行者天国並みの混雑ぶり。一方,桜並木を離れると 昔ながらの旅館や住宅などが所々に見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆急行線河津駅からバス停峰温泉で下車すぐ
 
 湯ヶ野(ゆがの)/河津町湯ヶ野
 
   
 ▲石畳みの坂道が多い温泉街  ▲狭い坂道が縦横に通ります
   
▲川端康成がかつて逗留した福田家  ▲福田家近くにある「伊豆の踊子」碑 
文豪・川端康成も宿泊
 江戸時代は上質のヒノキ,マツなどが生育していることから幕府直轄領となり,指定の9木を伐採禁止としました。そのかわり他の雑木は伐採を許可したそうです。いまは河津川沿いの小さな温泉地です。しかしなんといっても文豪・川端康成の『伊豆の踊子』の舞台となったことが、この地を有名にしました。作者自身が福田家に宿泊して執筆したとか。休廃業の旅館が続くなか,その福田家だけが健在で今では一人勝ち状態です。
ふるさとの坂道30選
 手作り郷土賞の中部地方「ふるさとの坂道30選」に入選。石畳の美しい街並みが評価されました。歩いていても、狭い石畳が温泉旅情を誘います。地名の由来は「野から湯が出る」にちなむとか。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆急行線河津駅からバス停湯ヶ野で下車徒歩3分
 
梨本(なしもと)/河津町梨本 
 
   
▲石積みのある古民家が多い ▲旅館もわずかに見られます 
江戸時代中期に発展した下田街道
 江戸時代中期になって伊豆の南北を結ぶ陸路が急速に整備されました。東海岸は崖に阻まれたり,橋がなかったりで船運が発展。その点小田原-三島-下田ルートは,かなりきついが安定した歩行ができるので,人馬の往来が急増しました。いわゆる下田街道です。
昔ながらの旧道が残ります
 梨本は人馬継立場でしたが,旅籠などもできて宿場町として発展しました。昔ながらの旧道が残り,商店もなく河津川沿いの小さな集落ですが,白壁や土蔵などが目に付きます。またときおりハイカーなども見かけます。
 
感動度★★
もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆急行線河津駅からバス停川合野(かわいの)で下車徒歩3分
 

                  
                 ▲ページの先頭にもどる

下田(しもだ)/下田市三丁目 
 
   
シンボルのせいか何でもかんでなまこ壁 ▲なまこ壁の多さに圧倒されます 
幕末の舞台となりました
 何度も訪問している町です。平滑川の両サイドが石畳のおしゃれな小道になっています。
 安政元年(1854),日米和親条約締結後開港され,米国総領事館が玉泉寺に置かれました。そのため一時期,日米外交の大きな舞台となった町で,幕末,維新期の史跡や建物が多く残されているのです。
ナマコ壁が町のシンボル
 いま町を歩いていますと,なまこ壁が下田のシンボルになっているせいか、なめこ壁をデザインした建物があちこちに見られます。それらを見て回るだけでもおもしろいかもしれません。地名は山手にある本郷村に対して“下手にできた田”が由来だそうです。
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは海岸沿いに停めました
 
 蓮台寺(れんだいじ)/下田市立野
 
   
▲創業130年余の石橋旅館  ▲伊豆岩のりうどん(800円・得得) 
下田街道沿いに古民家
 温泉の歴史は古く,寛永年間(1624-44)には温泉地が誕生していました。下田温泉の奥座敷として知られています。また蓮台寺川流域の集落で,下田街道の通る交通の要となる所です。街道沿いには,老舗の和風旅館や石蔵,ナメコ壁のある土蔵造りなどの古民家が随所に見られます。
数々の風習が伝わる集落
 隣接する立野(たちの)は,蓮台寺地区に連なる住宅地で,昔から正月3日まで餅を食べない風習があります。氏神が餅を食べて死んだためで,餅を食べると火にたたられると信じられています。
 古くは藤原と称しましたが、真言宗蓮台寺が創建されますと、そのまま町名となりました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆急行線蓮台寺駅から徒歩20分
 
須崎(すざき)/下田市須崎 
 
   
▲急な斜面に民家がギッシリ詰まる  ▲両神社へ向かう狭いに参道 
急な石段の両側に家々
 天皇家や皇族の別荘である須崎御用邸のあるところです。それだけに景色のとても美しいところです。ホテル,民宿,旅館,釣り宿などが集中。また須崎は伊豆の民宿発祥の地ともいわれているそうです。
 切り立った壁のようなところに家屋が密集しており,長~い石段を歩くだけでクタクタです。民家自体は戦後のものですが,風雨や高潮よけの石垣などに歴史を感じさせます。
埋め立て地周辺に散策路
 集落自体は平凡で,埋め立て地に公園や漁港が見られますが,周囲に散策路などがあってのんびりできます。「洲崎」とも書いたようで、地名は地形が突出しているからが由来だとか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは無料の駐車場に停めました
 
子浦(こうら)/南伊豆町子浦 
 
   
▲子浦西地区の漁村らしい風景  ▲ごく普通の民家もたくさんあります 
民宿の看板が目に付きます
 かつては秘境地域でもありましたが,近年は海水浴場など観光客相手に集落自体が活気を帯びてきました。歩いていると民宿の看板が目につきます。
●子浦の西地区のほうが漁村らしい
 子浦は西地区と東地区に分かれています。西子浦は,路地の入り組んだ,昔ながらの町並みです。漁村特有の木造の家(写真)も多く見られます。小さな漁港もあって漁村特有の香りがします。東子浦は建物も新しく,道幅も広い。埋め立てるなど,あとから開発されたのでしょう。見て回るなら、やはり西地区のほうがおもしろいです。

 地名の由来は、地形的に小さな湾であるところにちなむとか。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは車は道幅の広いところに停めました
 
 入間(いるま)/南伊豆町入間
 
伊豆半島南端の集落です
 国道136号線から石廊崎へ向かう県道16号線に入り,さらにくねくねとした町道に入って入間の集落に着きました。伊豆半島南端の集落です。
高い石塀が強風から家屋を守る
 小さな集落ですが,歩いていて気がつくのは,海に面した高台にある集落特有の塀の高さです。ほとんどが屋根と少しの家屋の壁が見える程度です。やはり強風から家屋を守るためでしょう。これは四国や南九州,紀伊半島南端部に見られる光景と同じです。家屋自体は最近のものです。ところで,入間にも小さな海水浴場がありました。地名の由来は二つの岡に挟まれたところという意味だとか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは無料の大駐車場に停めました
 
松崎(まつざき)/松崎町松崎 
 
   
▲なまこ壁に水切りが付いています  ▲ときわ大橋を渡りますと古民家が集中 
   
▲那賀川沿いが観光の名所でもあります  ▲桜葉もち(2個280円/桜味堂) 
歴史の香りがします
 明治時代の呉服商の建物が,那賀川に架かるときわ大橋のそばに建っています。そばに時計台もあって、町のシンボル的な役割を果たしています。その橋を渡ると、なまこ壁通り(写真上)といいますが、観光パンフレットやポスターに使われています。漆喰でしっかり固めた土蔵は、潮風にも火災にも強いのです。
なまこ壁が生活に溶け込む
 町を歩いていると、かなり古い瓦葺きの2階建ての民家が見られます。なまこ壁が生活に溶け込んでいる点が下田とは違うところです。地名は松ヶ崎が転訛したとか、『増訂豆州志稿』では嘴(くちばし)の名だとか諸説あります。
名物の桜葉もち
 松崎は西伊豆地方の中心地でもあります。交通・産業・文化などの要となっています。そんな町を歩いていますと桜葉もちの看板をよく見かけます。モチ米に塩味のきいた桜の葉で巻き付け,ちょうどいい甘さになっています。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは無料駐車場に停めました
岩科(いわしな)/松崎町岩科南側 
 
   
▲なまこ壁の土蔵も川沿いに多い  ▲土蔵も実際に使われています  
生活感あふれるなまこ壁
 松崎のなまこ壁は観光客向けに整備されすぎ,のイメージがありますが,岩科のなまこ壁のある家々は生活感にあふれています。岩科には北側,南側の二つの集落がありますが,比較的南側(なんそく)のほうにまとまって存在しています。岩科川の左岸に位置し,その支流に沿って数軒が建っています。
防水性を高めるなめこ壁
 なまこ壁は漆喰壁の防水性を高めるために,平瓦を貼り付けます。その平瓦の継ぎ目に漆喰を盛り上げるようにして塗り込む。その形がなめこのよう見えるのです。地名は『増訂豆州志稿』によれば、村は岩を段々(科々)上るような形で立地するからが由来とか。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは集落の入口近くにある広場に停めました
 
安良里(あらり)/西伊豆町安良里 
 
   
▲西伊豆地方に多いなまこ壁   ▲2階建ての棟割長屋風の古民家  
昭和の時代が彷彿する
 江戸時代からカツオ節の生産で賑わっていました。土佐から伝わった製法に改良を加えて,さらに発展したとか。また天然の良港を生かして,イルカの追い込み漁も盛んだったそうです。
作家・三島由紀夫が宿泊した宿
 また安良里には文学の宿・宝来屋旅館(写真上)が必ず紹介されます。作家三島由紀夫が『獣の戯れ』をココで執筆したとかで、部屋もそのまま保存されています。

 町内を歩くとほとんどが戦後の建物ですが,昭和初期の建物が幾つか残っています。散策するなら海のかおりのする裏道がいいでしょう。地名の由来は新たに開いた里(村)にちなむとか。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 車は漁港内の広場に停めました
 
田子(たご)/西伊豆町田子 
 
   
▲山側ギリギリまで家屋が迫ります  ▲細く狭い通りに漁村らしさがみえる 
ほとんどが戦後の建物
 江戸時代は幕府領から館林藩に移り,さらに掛川藩へ変わりました。また西伊豆地方共通の産業でもあるカツオ節製造は,ここ田子でも同じです。地元では田子節とも言われています。沿岸漁業も盛んに行われていました。
山側に1歩入ると路地が入り組んでいます
 町は国道136号線沿いに発展しましたが,いずれも釣り客,観光客向けの民宿が多く,建物もほとんどが戦後のものです。しかし西伊豆共通ですが,一歩山沿いに入ると,路地が入り組んでおり,漁村らしい光景を見ることができます。

 地名は地元にある多胡神社に由来するそうです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 車は田子港内の空き地に停めました
 
瓜生野(うりゅうの)/伊豆市瓜生野 
 
   
▲窓や玄関はアルミサッシに改造  ▲ナメコ壁の土蔵も残っています 
狩野川の河川港としても発展
 江戸時代初期,近くに金山があって村は発展しますが,寛永年間(1624-44)まで約30年掘り続けて閉山。各種農作物も多く採れますが,狩野川の氾濫が絶えずあり,洪水のたびに流域が変わり隣村との境界線争いが絶えなかったそうです。しかしながら下田街道沿いの集落で,狩野川の舟着場があり,河川交通の便はよく,畑作物の運搬に利用されていました。
長屋門やナメコ壁の土蔵
 下田街道沿いの集落で,駅を出て狩野川を渡ったところから集落が始まります。交通量も一気に減り,長屋門や土蔵などもあってのんびりと歩けます。地名の由来は、瓜の生育に適していたとか、中世・瓜生氏の居住地だったとかいろいろ。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆箱根駿豆線大仁駅から徒歩25分
 
修善寺(しゅぜんじ)/伊豆市修善寺 
 
   
 ▲千鳥破風のある土蔵造り ▲立派な唐破風のある旧妓楼 
   
▲新井旅館は国の登録文化財です  ▲桂川にある独鈷の湯 
   
▲廃業した旅館も多く見られます  ▲弘法大師が開基した修善寺 
鎌倉時代の悲話『修善寺物語』
 狩野川支流の桂川沿いに開けた修善寺温泉を中心とした町並みです。古刹・修善寺から名付けられました。鎌倉時代,修善寺にまつわる話は今も語り次がれています。特に鎌倉2代将軍源頼家が幽閉,後に殺害された悲話は岡本綺堂の『修善寺物語』に著されています。また夏目漱石『修善寺日記』の舞台にもなりました。
木造3階建ての旅館も健在
 歴史のある町だけに,至るところに古民家が見られます。木造3階建ての新井旅館は注目。また幾つかの旧妓楼とおぼしき建物も残されています。最近中国人観光客が殺到。さらに閉館された旅館を中国資本が買うなど、中国の影響が強くなりつつあるようです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 伊豆箱根駿豆線修善寺駅からバスで修善寺温泉下車徒歩5分
 
横瀬(よこせ)/伊豆市修善寺 
 
坂道の両側に古民家
 狩野川と桂川の合流地点にある集落で,鎌倉時代,修善寺からのただ一つの出入口にあたります。頼家や範頼らが幽閉された理由がわかります。いまは緩やかな坂道の両側にわずかに古民家が見られます。大字修善寺の小名にあたります。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆箱根駿豆線修善寺駅から徒歩15分
原木(ばらき)/伊豆の国市原木 
 
   
▲国道136号線の裏道です  ▲改装された民家も多い 
明治に入って一気に発展
 源頼朝が旗揚げをする際,原木を通過したそうです。江戸時代は宿場町で,西浦(駿河湾)と東浦(相模湾)方面への分岐点でした。つまり人馬の継立場であったわけです。渡船場,酒造人,商家なども多く,たいへん賑わいました。明治に入って伊豆箱根鉄道が開通し,さらに発展しました。
下田街道の宿場町
 いま国道136号線は交通量が多く,旧街道の面影はありません。あきらめて裏道を探り出すと,静かな通りと対面。石垣と植栽,板塀の続く静かな道です。寺院も多く,旧街道かも知れないと思いましたが……。地名の由来は地区内の荒木神社の「あらき」が「ばらき」に転訛した
というのですが…。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆箱根駿豆線原木駅から徒歩10分
 
韮山(にらやま)/伊豆の国市韮山 
 
   
▲江川家住宅(国の重要文化財)   ▲韮山反射炉(国の重要文化財)
   
▲韮山時代劇場  ▲焼そば(550円・ひよしや) 
戦国・韮山城の攻防
 永暦元年(1160)、源頼朝は当地に流され,森山で挙兵。その後小田原北条氏の領地となります。元亀元年(1570)8月武田信玄が攻めて、韮山城下に火を放ったそうです。天正17年(1589)12月、豊臣秀吉が攻めてきました。しかし約100日間の籠城の末、開城しました。次の徳川家康は、家臣・内藤信成に1万石を与えて城主としました。しかし、関ヶ原の戦いのあと内藤信成は駿府へ移封され韮山城は廃城となりました。波瀾万丈の戦国史です。
●江川家から反射炉への道
 江戸時代中期は代官・江川氏の支配地が多く,江川家住宅が残されています。また反射炉へ行く道筋にも,古民家が見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 伊豆箱根駿豆線韮山駅から徒歩30分
 
南條(なんじょう)/伊豆の国市南條 
 
   
▲若宮神社/境内に砲弾が鎮座  ▲板塀の続く旧家 
下田街道沿いの時代と共に繁栄した集落
 江戸時代は下田街道沿いのため,人馬の往来が多く,南條宿と呼ばれたりしていたとか。狩野川には南條の渡しが設けられ,米,麦,酒などを輸送。幕末になると反射炉関係の石炭,鉄などの原材料と小銃,大砲,砲弾,さらに明治初年ごろから繭,米,酒などを輸送していました。絹糸生産を開始すると,養蚕が主産業になったのです。
裏道にも蔵や板塀など古民家
 いま歩いていますと,石垣に植栽を施したり,板壁,蔵造りの町屋など往時の面影を残しています。また裏手の通りにも古民家が見られます。地名は『増訂豆州志稿』によれば条里制遺構の北條に対することに由来します。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆箱根駿豆線伊豆長岡駅から徒歩15分
 
長岡(ながおか)/伊豆の国市長岡 
 
   
▲旧遊里の建物。千鳥破風と2階に注目 ▲この建物はかなり改造されています 
   
▲南山莊(昭和13年築)  ▲訪れる人の少ない温泉神社 
近代的な旅館やホテルが林立
 明治に入って開湯した長岡温泉を中心に発展した町です。『吾妻鏡』にも登場する,歴史ある小名温泉と合わせて伊豆長岡温泉と呼んでいます。近代的な旅館やホテルが林立しており,町の中心地でもあります。町の入口にある順天堂大学医学部付属病院のドクターヘリの離発着する音がときおり聞こえてきます。
●飲食店街の裏手に旧遊里
 ところで,この町で現在、古民家といえば遊郭以外にありません。飲食店街の裏手に回ると,静かに残っていました。かつて新開地と呼ばれた所で、妓楼が10軒ほどあったそうです。いま無人となった家もあれば,改造した家屋もあります。夢の跡という感じです。地名は長い阜(ふ/小高い丘陵)あったことに由来。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆箱根駿豆線伊豆長岡駅からバス温泉駅下車徒歩3分
 
大仁(おおひと)/伊豆の国市大仁 
 
   
 ▲大仁駅/明治32年開業と歴史ある ▲路地に入ると板壁の民家が続きます 
下田街道の宿場町と河川交通の要
 江戸時代は幕府領から始まり,幾多の潘領となりました。しかし変わらないのは交通の要であったことです。下田街道の宿場町ですが,同時に狩野川の渡舟場もあり陸上,河川交通が活発でした。例えば天城山で伐採した官林材を狩野川に流し,大仁で筏にして沼津へ運んだとか。さらに牧之郷村との境界付近で金の採掘が行われていたりしました。
街道沿いの古民家
 いまは街道沿いにポツン,ポツンと古民家が残る程度。改築も多いですが,独特の庇の突き出た町家を見られます。地名の由来は大仁なる人物が居住していた為とかの説が有力ですが…。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆箱根駿豆線大仁駅から徒歩3分
 


                       ▲ページの先頭にもどる

八幡町(はちまんちょう)/沼津市八幡町 
 
   
▲貸席や料亭、旅館など旧赤線地帯にわずかに残ります 
大火や戦災、道路の拡幅で古い町並みは壊滅
 大正2年の大火,戦災,さらに道路の拡幅で,町並みはほぼ壊滅状態になりました。上本町,下本町あたりが旧宿場町で最も賑わったところでした。
旧赤線地帯の面影が残る
 いま残るのは皮肉なことに,旧赤線地帯といわれた戦後の町並みです。それもわずか。昭和初期には、貸し座敷が6軒、娼妓は約60人。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線沼津駅から徒歩15分
 
原(はら)/沼津市原 
 
   
▲富士山霊水/酒造会社の横に自噴  ▲古民家はわずかに点在
●東海道でも小さな宿場町
 江戸時代は東海道の宿場町です。本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠25軒と沼津宿の半分の規模です。すなわち東海道で最も小さな宿場町でありました。本陣は歴代渡辺家が当主としてその職をつとめており渡辺本陣と呼ばれていました。本陣の玄関は松蔭寺に移築されましたが,昭和63年(1988)に解体。脇本陣は天保の大火で焼失,以後再建されていません。
江戸時代の造り酒屋が健在
 いまは往時の面影はありませんが,駅近くの江戸時代後期創業の高嶋酒造が健在なのは救われます。地名の由来は、地形的に浮島沼が作り出した浮島ヶ原を略したという説。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線原駅から徒歩5分
 
西浦古宇(にしうらこう)/沼津市西浦古宇 
 
   
▲意外と目に付く旧家の石積みと植栽   ▲西伊豆に多いなまこ壁の見られます
小田原北条氏とのつながりは深いとか?
 もともと小田原の北条氏と深いつながりのある地で,直轄地ではないかと推定されています。北条氏康の娘が今川氏に嫁ぐときも,多額の金銭や紙類等が北条氏に届けられているくらいである。でも町内には北条氏とのつながりを示す建物はないとか。
変形した蔵造りが多い
 石垣の上に植栽を行った建築物が多いようです。またところどころになまこ壁の蔵が見られます。特におもしろいのが,蔵の横に深い庇の下に半間ほどの家屋を増築して,外からも取り出せる納戸が多いようです。明治29年、西浦村が古宇村など9か村を吸収合併。古宇集落は大字となります。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは古宇公民館前に停めました
 
戸田(へだ)/沼津市戸田 
 
   
▲一歩入ると古民家が連なります  ▲天丼(1050円/食堂 の一) 
一歩中に入ると風情が漂う
 江戸時代には,幕府領でもありましたが,文化5年(1808)には沼津藩領となり,幕末にいたりました。戸田は早くから天然の良港として知られ,伊豆の西海岸の港として大いに賑わいました。特に遠洋のカツオ漁業が盛んで,名物のカツオ節を江戸に出荷していました。
 現在約100軒前後の民宿があります。ほとんどは鉄筋や普通の民家。町を歩きながら古民家を探しましたが,平凡な港町です。しかし国道から一歩山沿いに入ると,なかなか風情のある建物が続きます。
 地名の語源は、海辺の地という意味があるそうです。
江戸,明治の建物
 安政地震の津波で破損したロシア艦船のディアナ号の代船造りに,勝呂弥三兵衛(写真上)を含む7人で戸田号の建造に力を発揮したそうです。なお土蔵が江戸時代,他は明治時代の建物です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは漁港内の広場に停めました
 
三島(みしま)/三島市本町 
 
   
▲蔵造りの商家も軒を連ねます  地元民の信仰を集める三嶋大社 
東海道でもかなり大きな宿場町
 江戸から出て難所の箱根を超えて最初の宿場町です。東海道ではかなり大きな宿場町です。三島宿の村高は2500石前後とずば抜けた穫れ高を誇ります。東の箱根宿へは3里28町(約14.8km)、西の沼津宿へは1里半(約5.9km)。江戸へ向かう旅人は、急峻な箱根越えを前にしてひと休みし、早朝出かける形が多いようです。旅籠だけで80軒近くあったというから、その規模がわかります。
点在する古い建物
 かつての面影の持つ建物は点在していますが,連続して見ることができません。旧東海道が賑やかな商店街なので,改築,改造が進んだからでしょう。地名は三嶋大社からという説があります。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆箱根鉄道三島広小路駅から徒歩10分
 
加屋町(かやまち)/三島市加屋町 
 
   
▲改築、改装を繰り返しても、旧妓楼の面影は残るものです 
「三島女郎衆」の面影
 『農兵節』にも歌われた「三島女郎衆」はよく知られています。遊里は、移転を繰り返していましたが、最終的には現代の加屋町から清住町にかけて落ち着きました。また本町あたりが、雑誌等で「三島ピンクゾーン」といわれて賑わったようです。市内全体で妓楼や貸し座敷が30軒、娼妓は150人といわれてました。しかし加屋町、清住町の妓楼も徐々に消えていきます。やはり昭和34年の売防法施行が効いたようです。
往時の建物がポツンポツンと残ります
 いま歩いていても、ポツンポツンと往時の建築物が残されています。改築、改造を繰り返していますが、やはり面影は残るもの。目を凝らすと見えてきます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 伊豆箱根鉄道駿東線三島広小路駅から徒歩15分
 
大場(だいば)/三島市大場 
 
   
▲切妻型の板壁住宅は珍しい  ▲大場の久八の墓がある廣渡寺 
下田街道沿いの集落
 江戸時代の大場村は,三島宿の助郷として出役。また下田街道沿いの集落で,水利がよく比較的米,麦が多く採れたようです。大場村の村高は700石前後と比較的獲れたようです。明治に入ると、仁田大八郎(函南村出身で殖産興業に尽くした)の影響で乳牛を飼い、乳製品の出荷するようになりました。明治31年に伊豆箱根鉄道大場駅が開設。一気に発展しました。
任侠・久八の墓
 広渡(こうど)寺には上州系三代親分の一人の“任侠大場の久八”の墓があります。この親分、安政の大地震では親分・大前田英五郎と協力して義援金を募って窮民を救済したとか、品川沖のお台場建築に参加したとか、任侠社会では珍しい存在だそうです。それはともかく、町を歩きますと、古民家はポツンポツンと点在しています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅から徒歩10分
 
吉原(よしわら)/富士市吉原 
 
   
▲平家越えの碑/和田川沿いに立つ  ▲1両編成の岳南鉄道・吉原駅にて 
横丁に古民家が見えます
 江戸から11番目の宿場です。初期の宿場から今の所に移転したが,天和2年(1682)でした。今はかつての面影もありませんが,裏道や横丁に入れば,板張りの住宅があります。戦国時代は吉原湊が栄えました。
源平「富士川の合戦」で一躍有名に!
 なによりこの地を有名にしたのは、源平合戦です。治承4年(1180)、富士川(現在の和田川付近の沼地)を挟んで平家軍が陣を構えました。夜間に平家の裏手に回り込もうと、川上を迂回した源氏の動きに水鳥の大群が一斉に飛び立ちます。で、その羽音に「すわ夜討ち」とあわてた平家軍が戦わずして京に逃げ帰ったというわけです。世に言う「富士川の合戦」です。近くの橋を「平家越え橋」と命名。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 岳南鉄道吉原本町駅から徒歩15分
 
 岩淵(いわぶち)/富士市岩淵
 
   
▲静かな旧道は人影はありません  ▲稲葉家住宅/市内で最古の現存民家 
渡船は大正時代まで続きます
 富士川に面した間宿です。慶長7年(1602)から岩淵村が,富士川渡船を幕府から請け負っていました。この渡船は意外と長く,大正13年の国道橋が開通するまで続いたのです。
富士川の河川港として発展
 東海道の吉原と蒲原両宿の間にある「間宿」として,しかも渡船で賑わい,さらに甲州からの米,塩の輸送で舟運が盛んになったそうです。つまり富士川水運の中心で、河川港として発展したのです。
 間宿といっても旅籠はなく,休憩するための小休本陣と脇本陣しかありませんでした。いまは植栽の塀や黒板塀の住宅などが散見されます。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR東海道本線富士川駅から徒歩20分
 
花沢(はなざわ)/焼津市花沢 
 
山あいにたたずむ小さな集落
 永禄11年(1568),武田軍が駿河をほぼ制圧しましたが,この地の花沢城・城主の大原肥前守だけが徹底抗戦したそうです。それにしてもこんな山深いところに、古い町並みがあるとは思いませんでした。交通の不便なところですが、東名高速の日本坂トンネルの裏側あたりになります。もともと初期の東海道沿いの集落でした。
重要伝統的建造物群保存地区に選定
 今は土蔵や黒板塀の古民家が軒を並べた静かな所。集落自体が標高差35m傾斜地に立地のため石垣を多用。近年、重要伝統的建造物群保存地区に選定されてから、訪れる人が多くなりました。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは有料駐車場(1回300円)に停めました
 
島田(しまだ)/島田市河原 
 
典型的な平入り型の宿場を復元
 大井川を挟んだ江戸寄りの宿場町です。「箱根八里は馬でも超すが、超すに超されぬ大井川」と言われたところです。幕府の政策により架橋せず,人々は川越賃を払って渡りました。宿場の建物は、ほぼ昔のまま復元されています。典型的な平入り型で、黒瓦の低い屋根の宿場ですが、農村の要素も入っているようです。
内部も公開しています
 だからいままで見てきた各地の町家とは、ちょっと違った感じです。やはり“造り物”といった感じがします。いま一部、内部を公開していますので、ちょっとのぞくのもおもしろいです
地名の由来は中州などの微高地に形成、島、洲、新田などの地名が多い所です。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
掛川(かけがわ)/掛川市掛川 
 
   
▲裏手に板壁の古民家を見つけました ▲大日本報徳社大講堂/重要文化財 
NHK大河ドラマ『功名が辻』の舞台
 掛川城は戦国時代,山内一豊が10年間城主として在城したが,やはりNHK大河ドラマ『功名が辻』で一躍有名になりました。今の天守閣は平成6年に復元されました。
裏手に昭和初期の建物
 そんな天守閣の裏手にまわってみると,意外と古い建築物が目に付きます。いくつかの古民家もありますが,報徳図書館(写真上)は昭和2年に設計建築されたものです。また隣には大日本報徳社も昭和初期の近代建築です。なお侍屋敷の竹の丸は,現在復元工事も終わり、見学可能となっています。鎌倉時代には、東海道の宿場としてすでに掛川宿の名前が見られます。市名は宿場名を採用したとか。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
日坂(にっさか)/掛川市日坂 
 
1軒ごとに屋号の木札
 このあたりの町を探し当てるには、カーナビの威力を頼ること! 時間に無駄がないのです。で、宿場町ですが、本陣、旅籠、商家など、1軒ごとに屋号の書かれた木札が、表にぶら下がっています。つまり昔は何の商売をしていたがわかるのです。これは地元のボランティア団体の発案だそうです。いまではいくつかの建物が公開されています。
見上げると掛川バイパスが……
 町並みの裏側は掛川バイパスがあります。あまり気持ちのいいもではありませんが、開発時の「折衷案」だったのか。当初、西坂と呼ばれていましたが、のちに日坂に転訛説。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
横須賀(よこすか)/掛川市大須賀町横須賀 
 
   
▲宿場町としては距離が長い  ▲横須賀城跡/明治維新で廃城 
出桁造りが目に付く
 歩いていて気がつくのは,意外にも古い町家が多いということです。それは線としてつながってはいませんが,約1㎞ほどのあいだに古民家が点在しているのです。そのほとんどが,庇が突き出て,1階が突き出た出桁造りが多いのが特徴です。
横須賀城跡は国の史跡として整備されています
 東海道の宿場町です。ふつうの町家,商家が多く本陣や脇本陣,豪商たちの建物はありませんでした。もう一つ,寺院が多いのに気がつきます。これは歴代の城主が,寺院を積極的に誘致したためです。寺院は人を集める効果があるからです。なお、横須賀城は徳川家康の命で築城されました。しかし明治維新とともに廃城になっています。近年、国の史跡として整備が進んでいます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは横須賀城跡に停めました
 
城下(しろした)/森町城下上 
 
ノコギリの歯のような区画
 全国各地を歩いていますと,いまだに明快な理由のわからないことがあります。それは,なぜノコギリの歯のような家並みがあるのだろうか,ということです。どうも統一した答えはないようです。戦いの時に兵が隠れやすいようにするためとか,社殿に向かうためだとか,いろいろです。でもそれらはあくまで推論です。
律令時代の道路と近世の道路がかみ合わずにノコギリに…
 城下の場合は,距離がかなり長く続いているのです。律令時代の地割りと,近世の道路が合わずにノコギリの歯のようになったとか。嘘のような話です。地名の由来は、天方城のある山の麓にちなむそうです。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
白須賀(しらすか)/湖西市白須賀 
 
   
▲宿場町へは坂道を歩きます  ▲宿場町の解説は「おんやど白須賀」 
「おんやど白須賀」で大津波を再現
 東海道の江戸から32番目の宿場町です。白須賀宿の歴史文化に関することは,「おんやど白須賀」に行くとほとんど理解できます。また駐車場もありますので,ここに停めて10分ほど歩くと,古い町並みに行けます。
地震・大津波で旧宿場は壊滅
 高台にある宿場町ですが,以前は海辺にありました。ところが宝永4年(1707)の地震・津波で壊滅し、以後,高台に移転したのです。

 ほとんどが平入の2階建て出桁造りです。しかも1階の開口部がかなり大きいですが,今はガラス戸になっています。また歌川広重の名画で知られる景勝地・潮見坂があります。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは白須賀小中学校付近の無料駐車場に停めました
 


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