島根県(しまねけん)

○松江(まつえ)/松江市北堀町 
 
松江市の美観地区
 松江は好きな町の一つです。今回で3回目の訪問です。小泉八雲旧居や武家屋敷などのたたずまいを残しているところです。堀沿いの老松も風情を添えています。堀川には観光用の舟が往来しています。かつては水運の盛んなころを彷彿させます。
小泉八雲は松江をこよなく愛しました
 松江をこよなく愛した文豪・小泉八雲は、武家屋敷に住んでいました。いまでも往時のままの姿を保っています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR山陰本線松江駅からバスで小泉八雲記念館館前下車すぐ
 
○美保関(みほのせき)/松江市三保関町美保関 
 
雨に濡れると青く見える
 青石畳通りというので,どのくらい青いのか,と期待したのだが普通の色だった。実は雨に濡れると青く見えることから,その名が付いたようです。
北前船の寄港地で、町はにぎわいました
 北前船の寄港地でもあっただけに農産物,工芸品の出入りが激しく,たいへんな賑わいぶりでした。また対朝鮮貿易の拠点でもあったのです。また美保神社の門前町でもあります。

 そのため商家が中心で,格子戸のある2階屋で平入の建物が,ギッシリと詰まっています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○野波(のなみ)/松江市島根町野波 
 
   
▲江戸時代初期に生まれた石州瓦  旧道沿いも下見板張の壁が多い  
藩の要請で油桐の生産に力を入れました
 江戸時代は松江藩領。村高は500石弱とわずかに米が獲れますが、漁業も盛んな半農半漁の村でした。しかし藩の殖産奨励で、油桐実(あぶらぎりのみ)の生産に力を入れ、藩内一の生産高を誇りました。油桐は、和紙に油を染み込ませ、傘や提灯、雨合羽などに使われました。とはいうものの、海岸沿いにの集落は漁村特有の形態で、漁業が中心であることはいうまでもありません。
●石州瓦葺きの漁村特有の集落
 板壁の町家が路地を挟んでギッシリと詰まっています。瓦は赤い石州瓦で、美しい町並みを形成しています。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは野波海水浴場の駐車場に停めました
○加賀(かか)/松江市島根町加賀 
 
   
▲狭い路地も縦横に走ります  ▲潮音寺川沿いに広がる集落 
傘や提灯用の油桐の増産
 古くは加々、賀々とも書きました。中世の荘園名は加賀荘。後鳥羽上皇の手紙などに「加賀荘」の文字が見られるとか。江戸時代は松江藩領。藩の殖産奨励となった産物はハゼ、油桐、ミツマタなどですが、特に傘や提灯の和紙に染み込ませる油桐はかなり増産されました。
天然の良港を生かした水産業が明治中期まで繁栄
 とはいうものの、目前に天然の良港があることから、産物の搬出、搬入が盛んになりました。藩は防波堤を築き、番所を置き、出入りの船の監視と徴税に当たります。また諸国の帆船も風待ち港としての利用も増え、明治の中頃まで繁栄が続いたそうです。各種商家、廻船問屋、旅籠、料理屋などもあり港町、漁港として賑わいました。
●潮音寺川沿いに連なる古民家群
 いま町を歩いてみますと、潮音寺川沿いに古民家が連なっています。また漁村らしい、迷路のような路地も見られます。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはJAしまね島根支店の駐車場に停めました
 
○大芦(おわし)/松江市島根町大芦 
 
迷路が続く漁村特有の板壁の町並み
 「おあし」ともいいます。ただ現代は「おわし」に統一されています。江戸時代は松江藩領。藩の奨励作物で、油桐実に力をいれたことで、藩内でも屈指の生産量を誇りました。村高は600石弱で人口は1200人前後。海岸沿いの集落は漁業が中心です。全体としては半農半漁の集落といえます。
多種多用の家屋が見られます
 クルマを海岸沿いの空き地に停めて小高い集落に分け入りますと、漁村特有の板壁の町家が続き、しかも道幅は狭く迷路。急階段の両側にも町家が続きます。白壁の続く旧家や寺院、石積みの古民家、土蔵などいろいろな家屋が見られるのが、実に楽しいです。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○古浦(こうら)/松江市鹿島町古浦 
 
塩は御用塩として藩に上納
 江戸時代は松江藩領。村高はわずか50石足らずと小さな集落です。海岸線に砂丘が広がり、稲作はわずかで大半が製塩、漁業。特に砂止め造林が盛んでもありました。また塩は御用塩として藩に上納されていたとか。
ポツン、ポツンと残る板壁の民家
 いま町を歩いてみますと、かつての漁師町が見られます。板壁の妻入りの漁師町特有の建物ですが、クシの歯が抜けたようにポツンポツンと残されています。ちょっと寂しげです。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは漁港の空き地に停めました
 
○宍道(しんじ)/松江市宍道町宍道 
 
 ●松江藩主の本陣で重要文化財
 旧山陰道沿いの宿場町です。松江藩主の本陣が残されており、現在では旅館(写真)に活用されています。重要文化財に指定されています。道路もきれいに整備されていますが、印象の薄い町でした。
めぼしい建物が見られない
 このあたりの建物のほとんどが切り妻平入りで2階建てです。本陣もそうです。ただこれ以外にめぼしい建物が見られません。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 山陰本線宍道駅から徒歩3分
○揖屋(いや)/松江市東出雲市揖屋町 
 
松江藩は海岸沿いを積極的に開発します
 戦国時代、揖屋荘は出雲国惣社、大社という宗教的権威を背景にして存続し続けました。江戸時代に入って松江藩領となり、村高は1500石前後とかなりの穫れ高を示しています。藩は積極的に新田開発を行い、特に海岸付近の開発は著しものがありました。これは幕末から明治に入っても変わらず、農業の発展は飛躍します。
街道沿いに2階建ての古民家が残ります
 特に明治41年の山陰本線の開通は劇的に変わりました。もちろん漁業、商業も大きく発展、漁業組合の設立、果樹、養蚕など目を見張ります。いま歩いて見ますと、往時の面影は見られませんが、戦前戦後の2階建て町家が街道沿いに残されています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはコンビニに停めました
○安来(やすぎ)/安来市安来町 
 
   
▲江戸時代から交通の要衝に立地したことから豪商等が誕生しました 
酒田から大坂へ西回り航路の中継地
 江戸時代は松江藩領。番所やお茶屋、制札場が置かれていました。そして町場は大いに発展したのですが、その原因は交通の要衝であったことです。まず酒田(山形県)から逢坂(大阪府)への西回り航路の中継地で米の積出港でした。また隠岐の物産の陸揚港でもありました。また内陸河川とも密接につながり、積出港の役割を果たしていました。さらに陸路では、山陰路の宿場町で、幾つもの街道の交差路でもありました。
『安来節』の流行は交通網の広さが一因
 元禄年間(1688-1704)に生まれた労働歌、庶民の唄『安来節』が、いとも簡単に全国的に流行ったのも、歌詞のおもしろさ以外にも交通網の広がりがあったからでしょう。
廻船問屋、豪商などの大型の町家が軒を並べる
 いま町を歩いてみますと、廻船問屋、豪商などの大型の町家が軒を並べて、往時を偲ばせます。また国の登録文化財として保存されています。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 観光交流プラザ利用者専用駐車場に停めました
○荒島(あらしま)/安来市荒島町 
 
地元の広田亀治はイモチ病に強い稲を開発しました
 室町時代から荒島という集落は存在したようです。江戸時代は松江藩領。埋め立て地も含め米作に恵まれた肥沃な土地でした。そのため村高も1700石弱と穫れ高が高い。明治に入っても地元の農家・広田亀治は、イモチ病に強い稲の品種「亀治種」を開発し普及しました。JR山陰線荒島駅近くに銅像が建っています。
改築、改装で虫籠窓や出格子が消える
 いま町並みは旧山陰道沿いに広がり、虫籠窓や出格子などがありましたが、大部分は改築により消えてしまいました。しかし赤瓦葺きで庇の突き出た出桁造りが軒を並べ、落ち着いた町並みを形成しています。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは海岸通りの道端に停めました
 ○母里(もり)/安来市伯太町母里
 
   
▲至るところに町家が残っています  ▲路地にも板壁などにも古民家 
●藩主が国元に帰ったのは、幕末の1回のみ
 江戸時代は松江藩領。貞享元年(1684)に支藩として1万石を与えられ以後100年以上続きました。藩主の松平氏は参勤交代はせず、江戸定府大名で、江戸に在住。国元に帰ったのは幕末の慶応2年(1866)の第2次長州征伐のときのみでした。その後、藩領は母里県となり知事として活躍したそうです。陣屋跡は伯太中学校付近にあったとされ、碑が立っています。
●古い町並みがしっかり残っています
 それにしても、赤瓦葺きの古い町並みがしっかり残っています。出桁造りや板壁の棟割り長屋、蔵も幾つか見られますが、改築、改装を重ねています。それでも往時の面影を見ることができます。
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマははくた文化学習館の駐車場に停めました
 
○広瀬(ひろせ)/安来市広瀬町広瀬 
 
   
▲大部分の町家は改築、改装  ▲漆喰に板張りの珍しい大きな酒蔵 
江戸時代は松江藩の支藩でした
 中世から出雲国の国守が居住する富田(とだ)城の城下町として開け、市街地を形成。広瀬と言う地名は、富田が洪水で壊滅したため、新たに生まれたそうです。江戸時代は松江藩領の支藩となり広瀬藩が誕生しました。寺子屋、神社仏閣、商店、旅籠、武家屋敷などが集まり、出雲地方の中心都市の一つとなりました。特に反物、鬢付け油が評判で松江に出荷していたそうです。明治中期、酪農が盛んになったこともありました。また大火、洪水がたびたび発生しましたが、その都度立ち直ってきました。
●酒造会社を中心に見られる古民家群
 いま中心街には酒造所や商家などが軒を並べています。しかし大部分が改築、改装されていますが、往時の面影はしっかりと残っています。また大きな酒蔵の残る吉田酒造近辺にも、古民家が見られます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 安来市役所広瀬庁舎の駐車場に停めました
 
○布部(ふべ)/安来市広瀬町布部 
 
かつてたたら製鉄でにぎわった町
 江戸時代は松江藩の支藩の広瀬藩領でした。また雲州鋼の製鉄の一大生産地でもありました。家島家は樋廻(ひさのこ)炉を中心にした製造、駄馬で安来港まで運んだそうです。家島家のほかに小林家もたたら製鉄を営んでいました。
最盛期には旅館や商家、料理屋が軒を並べました
 最盛期には、多くの人々が集まり、旅館、商家、鍛冶屋、医院、料理屋などが軒を並べていました。もちろんいまは往時の賑わいはありませんが、町並みを眺めていると賑やかな声が聞こえてきそうです。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
○小伊津(こいづ)/出雲市小伊津町 
 
海岸沿いの急斜面に現代住宅が密集!
 クルマで一歩集落に踏み入れたとき、「お~」と声をあげました。古民家群ではありませんが、海岸沿いの急斜面にギッシリと民家が密集しています。階段も急でちょっと大変な感じです。江戸時代は松江藩領で、村高はわずかに10石前後。つまり米がわずかに獲れる程度。大部分が漁師で、幕末には数軒の廻船業が営まれていました。しかし廻船業と名ばかりで、実際は周辺の藩米を集め大坂へ、いわゆる“廻米”です。それなりに賑わったようです。
山頂付近まで棚田で埋まった時期もありました
 昭和30年頃の写真を見ますと、周辺の山々の頂上付近まで棚田が連なっているのがわかります。急な階段を上りますと、基礎は鉄筋で漁具などを収納する倉庫。その上に木造、プレハブ等の住宅が建てられています。典型的な漁師町です。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは小伊津漁港の広場に停めました
 
○平田(ひらた)/出雲市平田町 
 
   
▲伝統的な蔵造りの町並み  ▲かつて木綿街道と呼ばれた 
一畑電鉄から降りたら川のある町でした
 ローカル鉄道・一畑電鉄に乗って平田駅で降りました。いいものです。ここは川沿いの町です。川があると古い街並みも、より美しく見えるものです。
木綿街道を歩きました
 江戸時代、もともと木綿の商いが盛んで、後世になって木綿街道と名付けました。ほとんどの建物が2階建て妻入りの土蔵です。また格子戸のある町家もあり、この町の古さを感じさせます。そしてこの通りも,地割りはノコギリの歯の状態でした。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 一畑電車北松江線雲州平田駅から徒歩10分
 
○猪目(いのめ)/出雲市猪目町 
 
幕末になると商家も誕生します
 江戸時代から交通の不便なところでした。谷あいの狭い土地でしたが、弥生時代から古墳時代の遺跡が見つかっているところから、古くから開けたところ。古くは井呑と書いたそうです。生業は漁業が中心で、稲作はわずか。松江藩時代の村高は、わずか2石で人口は300余人。船が27艘あったと言うことは漁師として生活していたのでしょう。幕末には回船業者がいたことから、“廻米”である程度にぎわっていたのでしょう。船で大坂など上方との交流がありました。
虫籠窓のある旧商家が見られます
 いま歩いて見ますと、改築はされていますが虫籠窓のある旧商家が散見できます。また港近くまで行きますと板壁、板塀の続く漁村特有の町並みが見られます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○鷺浦(さぎうら)/出雲市大社町鷺浦 
 
集落内は道が狭く迷路状態
 山あいの道を抜け,くねくねと曲がった海岸道路を走ると,突然古い町並みにぶつかるのです。集落内の道は狭く,軽自動車がやっと通れるくらいの幅しかありません。
銅の積み出し港で繁栄
 屋根は島根地方ではおなじみの赤い石州瓦です。海岸縁にギッシリと密集するように建っています。建物の外壁の下半分は黒塀で囲み,上は漆喰で固めています。建物自体は重厚な蔵造りです。かつて北前船の寄港地だっただけに,銅の積み出し港として繁栄した面影が残っています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは海岸通りの道端に停めました
 
○鵜峠(うど)/出雲市大社町鵜峠 
 
江戸時代中期に杵築大社領となります
 古くは宇道、宇峠とも書きました。江戸時代は松江藩領でしたが、宝暦2年(1752)に松江藩より杵築大社に寄進され、以降は杵築大社領となりました。村高はなしで、しかも村名の記載すらないことがあったようです。
漁村特有の板壁と路地の町
 幕末になると、鵜峠鉱山の開発が進み銅の産出が盛んになりました。ただ江戸時代から続くのは基本的に漁業で、実際に歩いて見ても漁村特有の集落を見せています。ワカメ、テングサのほかにイカ、タイ、アワビなどは、杵築村へ送ったそうです。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○宇龍(うりゅう)/出雲市大社町宇龍 
 
●人口が100人ほどで、船が110艘もある景気の良さ
 なんといっても中世の時代から宇龍港の発展が町を支えたといっても過言ではありません。大社領七浦のなかでも、ダントツに賑わいを見せていました。江戸時代に松江藩。出雲の鉄の積出港、さらに北前船や各種商船、御用船、さらに天然の良港を生かした風待ち港。なんといっても沖合は、イワシ、アジ、サバ、イカなどの好漁場で漁業が盛んでした。人口100人余で集落なのに、漁船の数が110艘以上というからかなり景気がよかったのでしょう。
単なる漁師町ではなく、商業も発展しました
 いま町を歩いてみると、漁師町特有の路地や板壁の町家が多数残っています。また2階家の改造された虫籠窓のある町家も見られます。つまり単なる漁師町だけではく、商店や旅籠、料亭などの賑わいぶりを想像させます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○大津(おおつ)/出雲市大津町 
 
旧山陰道の一本道
 大津町駅から斐伊川方面に向かって一本道です。旧山陰道です。ところどころに切り妻平入りの建物が見られます。市の文化財に指定されている建造物もありますが、古い家屋は壊されていく運命にあるようです。この日も2カ所で、壊され平地に整備されていました。また廃屋同然の建物は見られます。寂しい限りです。
初めての出雲なのに出雲大社は素通り
 出雲は初めての訪問ですが、出雲大社には行きませんでした。ほかに見どころはたくさんあるのですから。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 一畑電車北松江線大津町駅から徒歩すぐ
 
○斐川(ひかわ)/出雲市斐川町斐川 
 
こんな大きな防風林は始めて見ました
 いろいろな防風林を見てきました。日本海からの風がいくら強いからといって,これほど大きい防風林を見たのははじめてでした。こんな大きな防風林はたぶん斐川地方だけではないでしょうか。
刈り込まれた築地松
 築地松ですが,きちんと刈り込んでおり,維持するだけで金銭的負担もすごいのではないかと思います。ただこれらの美しい風景を保つために,行政も力を入れだしたそうです。ぜひ後世にも伝えてほしい風景です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 


                        ▲ページの先頭にもどる

○江津(ごうつ)/江津市本町 
 
   
▲水路が町に潤いを与えてくれる  ▲近代建築も残されています 
静かなたたずまいです
 予想外のうれしい町並みでした。掘り割りに水が流れ、白壁に赤瓦の町家などが、静かにたたずんでいました。
 数年前、神奈川大学建築学科(建築史)の学生と地元の建築士会と共同で、本格的な調査活動を行なったそうです。そしてその後の地元説明会で、逆に地元民の自らの町並みや建築や歴史のすごさに、改めて保存しなくてはいけないと認識したとか。各地をまわっていて、地元の人たちの意外な「冷たさ」に驚いたことがあります。江津ではそういうことがなかったことがうれしいです。
江戸から明治の建物
 江戸から明治にかけての建物が残されており、特に江戸時代の建築物、藤田邸、高原邸、豪商・沖田屋のあった横田邸、飯田邸などが残されています。また明治初期のモダンな郵便局もそのままの姿を保っているのです。まだ保存整備に手つかずのところが多いようです。
駅から徒歩20分程度
 江津駅を降りてタクシー(550円でした)を使用しました。帰りは歩きましたが、徒歩20分程度でした。バスもあるそうですが本数は少ないようです。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR山陰本線江津駅から徒歩20分
 ○温泉津(ゆのつ)/大田市温泉津町
 
   
 ▲木造3階建ての旅館も見えます ▲重厚な蔵も残っています  
伝統的建築群が健在
 早朝の雨上がりの日です。バスがまだなかったのでタクシーと思ったのですが、たまたまタクシーもなく、歩きました。海に向かって20分ほど歩くと温泉街に到着。ちょうど「祝・重要伝統的建造物群保存地区選定」の横断幕が小さな港の向こうにかかっていました。
回船問屋の土蔵
 ちらほらと、浴衣姿の温泉客の散歩が見られます。温泉街の入口付近に、重厚な土蔵が並んでいます。回船問屋だったところです。この温泉津港は、北前船の寄港地とともに、石見銀山の積見出しも少し行なっていたそうです。また銀山で働く人たちの湯治の役割も果たしていました。
各時代の建物があり
 木造3階建ての建物も残り、途中には共同浴場もいくつかあります。特に大正時代に建てられた洋風の共同浴場は珍しいそうです。江戸、明治、大正、昭和と各時代の建物が元気で残っています。
 また石見地方独特の赤瓦を葺いた町家と旅館が混在しています。ここは港町と温泉町が一緒になっているのです。 
 感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR山陰本線温泉津駅から徒歩20分
○大森銀山(おおもりぎんざん)/大田市大森町 
 
   
▲商家、町家、武家屋敷が混在  ▲石見銀山大森郵便局/長~い局名 
約1㎞ののんびりコース
 延々1㎞に渡って続くのが、石見(いわみ)銀山遺構への銀山通りです。石見銀山は世界でも有数の鉱山だったそうで、重要な交易の品物でした。そのため、江戸や京都と同じくらいの都市が形成されていました。しかも平地だったそうで、こんな山の中に…、と思うと当時はとんでもなく繁栄していました。
 で、なぜ大森銀山というのかは、町並み保存地区が大森町と銀山町にまたがっていたからです。そうです重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また世界文化遺産にも登録されました。
民家や武家屋敷が混在
 この通りを歩いていて、ちょっと気になったのが商家、民家、土塀のある武家屋敷が混在していることでした。身分が違うのだから、当然それぞれ固まって住むのが当たり前の時代でした。身分による棲み分けがはっきりしていなかったのです。
 JR大田市駅から石見交通バス約30分大森代官所跡で下車(片道560円)して、そこからのんびり歩いてください。龍源寺間歩へはさらに銀山バス(片道100円)がでています。また広島市からの都市間バスが、大森代官所跡に停まります。駐車場もあります。宿泊は、日本海海岸にある温泉津(ゆのつ)温泉がぴったりです。ここも先ごろ重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
土産物店,食堂など…
 銀山通りには石見銀山大森郵便局という、日本でいちばん長い呼び名の郵便局があります。ほかにレストランや土産物店、資料館などいろいろあって、飽きることはありません。4月に行きましたが、夏は暑そうですね。 
 感動度★★★★
 
もう一度行きたい度★★★
 
交通 JIR山陰本線大田市駅からバスで大森代官所跡で下車
○加茂中(かもなか)/雲南市加茂町加茂中 
 
   
▲出雲街道沿いに旧家が続きます  ▲幕末から明治にかけての建物  
特産の木綿は京、大坂、近江、播磨まで取引が広がる
 江戸時代は松江藩領。地名の由来は加茂神社からといわれています。江戸中期の村高780石と周辺の村々と比較して上位に位置しています。特産は木綿とニンジン。農家が余暇ではじめた綿栽培が盛んになり次第に木綿市が立つまでになりました。その取引は京、大坂、近江、播磨にまで及んだそうです。一方のニンジンは藩の奨励作物となり、気候風土が適していたせいか生産は良好でした。とはいうものの、赤川の水害は藩の重要問題で頭を悩ませました。
白壁の蔵造りの商家が軒を連ねます
 いま町を歩いて見ますと、旧道沿いに蔵造りの旧商家が軒を並べ、往時の繁栄をうかがえます。近年、出雲市や松江市への通勤客が増えており、朝夕の道路の混雑度は高まっています。この日も早朝、出雲市から車を走らせましたが、出雲市方面に向かう反対車線はかなり混雑していました。 
 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは赤川だんだん広場に停めました
 
○菅谷(すがや)/雲南市吉田町吉田 
 
古来の製鉄所の集落
 たたらとは,元来ふいごうを意味します。いまでは古来の製鉄法のことをいいます。山内(さんない)とは,鉄を作る従業員のが住んでいる地域を指すのです。今では過疎の集落で犬の遠吠えがむなしく響いていました。
「菅谷高殿」は国の重要文化財です
 たたら製鉄が操業されていた高殿と呼ばれる形式の生産施設が唯一残されており、国の重要有形文化財に指定されています。なお菅谷高殿の入館料は310円でした。なお菅谷は旧吉田村の小字に相当します。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは菅谷たたら山内の無料駐車場に停めました
 
○吉田(よしだ)/雲南市吉田町吉田 
 
紀州から移り住んだ田部家
 製鉄に従事した人々の子孫が住んでいる町です。特に田部家は室町時代に製鉄を始めたと言われています。紀州熊野から移り、寛正元年(1460)この地でたたら製鉄を開始しました。江戸から明治にかけての最盛期には、奥出雲エリアは日本全体の8割を担ったそうです。
吉田集落は田部家とともに繁栄を謳歌しました
 田部家は松江藩の鉄師頭取を務めていました。吉田集落は田部家とともに繁栄を謳歌したのです。今で言えば企業城下町といえましょうか。整然と並ぶ20棟の土蔵群は、当時の繁栄ぶりを物語っています。なお鉄の歴史博物館には,当時の賃金や鉄の製造法など当時の古文書が残されています。入館料は500円でした。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは吉田川沿いの無料駐車場に停めました
 
○民谷(みんだに)/雲南市吉田町民谷 
 
   
▲堀江家住宅/国の重要文化財(江戸時代末期)・出雲地方の一般的な形態を示す農家。内部、外部とも保存状態が極めていい 
民谷川を挟んで松江藩と広瀬藩に分断
 江戸時代は松江藩領でしたが、天和3年(1683)に支藩・広瀬藩を創設する際、民谷川で東西に分離。西側を民谷村としそのまま松江藩領、東側を民谷宇山(みんだにうやま)村と称し、広瀬藩領として幕末まで続きました。しかしその民谷宇山村も明治に入って民谷村に編入されました。
出雲地方の典型的な農村地帯
 このあたりは昔から農村地帯でしたが、田部氏経営の製鉄所が2カ所あり、それなりに繁栄していたようです。いまは茅葺き屋根やトタン葺きなどの農家が点在し、日本の原風景を思わせます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
 ○大東(だいとう)/雲南市大東町大東
 
幾つものの街道が交差する交通の要衝
 仁田街道や大原街道など幾つもの街道の交わる交通の要衝。背景には茶種を宇治から取り寄せて大東茶を栽培したこと。藩の御用釜になった大東焼は日用品のみが許可されたとか。また藩の奨励で薬用ニンジンの栽培に力を入れました。そのため人参方役所の出張所まで設立。また牛馬市の設立など、農業、産業の発展により多くの人たちで賑わいました。
街道沿いに店蔵が点在します
 町を歩いてみます、旧道沿いに白壁の店蔵が点在します。切妻型平入りの町家も改築されてはいますが、軒を連ねています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは大東総合センターに停めました
 
○三刀屋(みとや)/雲南市三刀屋町三刀屋 
 
旧道沿いに開けたごく平凡な在郷町
 中世のころ地元の豪族・三刀屋氏の支配が続きましたが、戦国大名の毛利氏の軍門に降りました。いま三刀屋石丸城など多くの山城跡が残されています。江戸時代は松江藩。町並みは旧道沿いに開けていますが、ごく普通の2階建て町家が続きます。
牛馬市、木綿市、紙市などの市が立ちました
 一時は牛馬市、木綿市、紙市が立つなど繁栄しました。そのためか通り沿いは商業が発展し、多くの人々が行き来しました。ただ歩いて見ますと、ごく普通の地方の集落という感じです。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは三刀屋総合センターに停めました
○木次(きすき)/雲南市木次町木次 
 
   
▲山陰と奥出雲を結ぶ旧道沿いに大型の切妻型町家が軒を並べます 
最大の紙の生産量を誇りました
 古くは来次とも書きました。江戸時代は松江藩領。江戸時代初期、紙市が起こりました。同時に紙座が設けられ、雲南地方の紙が集まり、舟運で各地に出荷。雲南地方で最大の紙の生産量を誇ったそうです。
「木次千歯」が大ヒットして各地へ移出
 また江戸末期に倉吉から千歯(せんば)の製法を導入し、木次千歯として各地に広がり、重要な産業として発展しました。大阪、長崎、新潟、中国地方各地などへ、その出荷数は10万挺を越えるそうです。千歯とはクシ状に並んだ先端の尖った鉄で、千歯扱き(せんばこき)は稲や麦などの粒を扱き落とす農機のこと。
長野県博物館収蔵庫から木次千歯を発見
 2018年、長野市立博物館の収蔵庫で4挺の木次千歯が見つかり、翌年に資料展で展示したとか。いま町を歩きますと、白壁の切妻型の大型家屋が軒を並べています。
 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは八日市交流センターに停めました
 
○掛合(かけや)/雲南市掛合町掛合 
 
   
▲掛合酒造資料館   ▲竹下登記念館(元内閣総理大臣)  
元内閣総理大臣・竹下登さんのふる里
 掛合は竹下登元首相のふる里で、生家が造り酒屋です。孫がタレントのDAIGO(ダイゴ)さんで、その夫人が女優の北川景子さん。地元では大騒ぎになったそうです。
赤瓦が特徴の2階家が続きます
 さて、話はさかのぼって、江戸時代は松江藩領。安永2年(1773)当時の町並みは、長さが130間(約236m)、道幅が3間(約5.5m)で人口が142、戸数33と地方の在郷町としては平均的な大きさ。ただ活発な商業活動があったそうで、人口は増えつつあったそうです。いま歩いて見ますと赤瓦が特徴の2階家が続き、落ち着いたたたずまいを見せています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは掛合酒造資料館の駐車場に停めました
 
 ○波多(はた)/雲南市掛合町波多
 
往還沿いの宿場町
 江戸時代は松江藩領でスタートしましたが、貞享元年(1684)以降松江藩の支藩・広瀬藩領となりました。村高は750石弱。ただし当時は畑村と書いたそうです。大呂・反辺-頓原間の往還沿いの小さな宿場町でもありました。また物産など各種商品の流通路でもあったため、けっこう賑わったそうです。
●製鉄業の盛んな小さな集落
 もうひとつ、製鉄も盛んで鍛冶屋も置かれていました。明治に入ると農機具などの鉄製品の出荷も多くなります。もちろんいま歩いて見ても、往時の面影は感じられません。道幅の狭い旧道沿いに、赤瓦、トタン葺きなどこの地方独特の町家が連なります。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 
○横田(よこた)/奥出雲町横田 
 
   
▲旧山陰合同銀行横田支店・昭和15年(1940)築/現・本町会館  ▲横田相愛教会・大正12年(1923)築/国の登録文化財 
   
▲県道15号線沿いは拡張し、古い町並みを再現しています  ▲出雲横田駅・昭和9年(1934)築。大きなしめ縄が印象的です  
江戸時代は牛馬市が立ちました
 江戸時代は松江藩領。町の北側を六日市、南側を大市と呼び、いずれも町場を形成していました。また牛馬市が開催されたそうです。当時大市には42軒、六日市には16軒の町家があり、御役目屋敷などを含めるとそこそこの大きさの集落だったことがわかります。
いろいろな建物を見られます
 明治34年にナイト牧師によって伝道されたキリスト教は一気に広まり、救世軍横田小隊会館を建設(現・横田相愛教会)し、この地に根付きました。産業としては雲州ろばんが有名ですが、廃れたとはいえ今でも根強い支持を得ています。さて歩いて幹線道路から一歩裏手に回りますと、2階建ての商家がギッシリ詰まっています。変化にとんだ町並みを見られます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは出雲町役場横田庁舎に停めました
 
○三成(みなり)/奥出雲町三成 
 
揖斐川の河川港を利用した水運で発展
 江戸時代は松江藩領。藩は、仁多、飯石(いいし)の物資を松江に輸送するために水運を利用することを考案。そのために揖斐川の両岸に河川港を造りました。同時に下阿井村山根町の住人をこの地に強制移住させて、集落を成立させたのです。途中川舟の運行休止期間や大火があったものの、明治8年まで存続したそうです。大正時代に入ると次々に路線バスが開通。陸路を利用した人や物の移動が激しくなりました。
切妻型の大型の町家が続きます
 いま町を歩いて見ますと、河川港の名残は見られませんが、切妻型の平入りの大型の町家がズラリと続いています。改築、改装されていますが、窓が大きく間口の広いのが特徴か。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは奥出雲町役場に停めました
 
○八代(やしろ)/奥出雲町八代 
 
大原街道沿いの小さな集落
 江戸時代は松江藩領。また大原街道沿いの小さな集落です。村高も500石弱とわずか。でも鉄山が3カ所あったと記されていますが、明治に入っても砂鉄杭の発見が続きます。
人民共立小学校って?
 ところで明治に入って八代村の西南に“人民共立小学校”が設立されます。男子20人、女子1人が通っていました。この聞き慣れない人民共立というのは、県立でも村立でも私立でもない、住民たち、すなわち人民が出資した学校という意味だそうです。
川沿いにも古民家が続きます
 街道を歩いて見ますと、庇を突き出した切妻型平入りの町家が軒を並べます。また小さな川沿いにも古民家が見られ、風情が感じられます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○亀嵩(かめだけ)/奥出雲町亀嵩 
 
松本清張原作の映画『砂の器』の舞台
 亀嵩といえば松本清張原作の『砂の器』で一躍有名になったところで、なんどもドラマ化されました。国道432号線沿いにJR亀嵩駅があります。といっても、実際の映画では、2つ先の古びた八川駅を使用されたそうです。
雲州そろばん発祥の地
 映画『砂の器』に登場しますが、雲州そろばん発祥の地でもあります。天保元年(1830)、亀嵩の大工・村上吉五郎は広島産の“小八そろばん”を改良し、後の雲州そろばんの製造を始めました。
庇の長い雪国らしい建物が見られます
 歩いて見ますと町家は2階建てで庇が長く,角度も雪が滑りやすいように急になっているのです。冬は雪深いところです。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR木次線亀嵩駅前の広場に停めました
○上阿井(かみあい)/奥出雲町上阿井 
 
かつてたたら製鉄で発展した町
 江戸時代は松江藩領。村高は1200石弱とかなり獲れます。だが村には鉄鉱山が5カ所もあり、たたら製鉄で栄えた村です。砂鉄を原料とする製鉄業は、地元の桜井家がほぼ独占しており、製鉄を取り巻く仕事が多く、農民たちの副業、農閑の仕事としても波及効果が高いものがあります。さらに人口急増とともに山林経営、耕地開発などにも大きな役割を果たしました。
旧道沿いに広がる集落です
 国道432号線の一歩裏手の旧道沿いに広がる集落です。いまは、往時の面影はもちろん見ることはありません。切妻型平入りの町家がズラリと続き、豪雪地帯を思わせる低い2階屋根が特徴といえましょう。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
○下阿井(しもあい)/奥出雲町下阿井 
 
鉄の生産不振と凶作が重なり一揆が多発
 江戸時代は松江藩領。村高は意外に多く、1000石強もあります。産業の中心はもちろん農業ですが、鉄山も2カ所あったようです。ただ文化2年(1805)に、鉄の生産不振と凶作が重なり、百姓一揆が起こりました。
“昭和映画”のロケ地を思い起こさせます
 いま静まりかえった集落を歩いていますと、何やら“昭和映画”のロケ地を思わせるような雰囲気を感じさせます。2階建てで切妻型平入りが多く、開口部も広い。アルミサッシなどで改築、改装されていますが、街道の宿場を思い起こさせます。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○頓原(とんばら)/飯南町頓原 
 
美しい古民家が点在しています
 松江藩の支藩・広瀬藩の飛地領です。また天和2年(1682)から4年間は大森代官所の支配下、すなわち幕府領でもありました。近郊の24か町村を所領する「郡本」と呼ぶ藩の行政庁を設け、郡代官以下、多くの役人が勤番。まさに中心地でもありました。
半夏生の日の市はたいへん賑わいました
 牛馬市も盛んでしたが、なにより半夏生(はんげしょう)の日の市は近郊近在の人々でたいへんな賑わいを見せたそうです。半夏生とは梅雨が明けた7月2日ごろを指すとか。
古民家の美しさにハッとします
 集落を歩いていますと、かつての輝きは見られませんが、美しい古民家が点在しており、のんびりと歩きたくなります。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました
○津和野(つわの)/津和野町 
 
   
▲古民家が延々と続きます  ▲酒蔵以外の蔵も多いです 
造り酒屋の多い町
 20年ぶりの津和野です。なにやら道路が広くなったような気もします。山陰の小京都といわれ、萩とともにツアー客が回るところです。森鴎外や西周の旧居、掘り割りに泳ぐコイなど、津和野を代表する光景です。もうひとつ造り酒屋の多いのも特長です。そのため、裏道に入ると白壁の酒蔵が多く見られます。
 武家屋敷もありますが、やはり商家が多く残されています。2階建て瓦屋根の木造の両側に、土蔵が挟み込むように建てられています。防火壁がわりになっているようです。
昼食は駅前食堂
 レストランや喫茶店はいろいろありますが、観光地特有の値段の高さが気になります。メニューに名物があれば別ですが、ないところでは駅前の食堂に入ります。そば、うどん、ラーメン、丼などがベストです。
石見空港が便利でした
 
津和野は意外にも石見(いわみ)空港から便利です。リムジンバスで益田駅まで出て、そのあと一本で津和野までこれるのです。そこで帰りの便に利用しました。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR山口線津和野駅から徒歩15分
 


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