滋賀県(しがけん)

山中(やまなか)/大津市山中町 
 
山中越え沿いの小さな集落
 比叡山山中の小さな集落で、山中超え(大津市-京都市)に沿っています。クルマを走らせた感じでは、大津市に出るよりも京都市に出たほうが便利だと思いました。それはともかく早朝に訪れました。朝靄が集落を幻想的な雰囲気にしてくれます。バス停に立つ古老によると最近では珍しいそうです。
壬申の乱の敗残兵
 かつて壬申の乱(672)で追われた敗残兵が、この地に隠れて田畑を開いて一村をなしたとか。江戸時代は、京の二条家の所領で180石余といいますから、谷間以外にも広い土地を持っていたのでしょう。明治5年に滋賀県の所属。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
坂本(さかもと)/大津市坂本 
 
   
▲中世は大都市で2000軒の焼失記録があります  ▲室町時代は“質屋”が軒を連ねたそうです 
延暦寺・高僧たちの隠居所
 比叡山の東側に位置し,昔から比叡山延暦寺の護法神としての日吉大社の門前町として発展しました。安土桃山時代から江戸時代にかけて延暦寺の高僧たちが引退し,麓の里坊(隠居所)に住み、そこから独特の文化を生み出しました。
生活感のない静寂な町
 建物や池泉式庭園,野積みの石垣,緑深い樹木や水路など、ほとんど往時の姿をとどめています。また西近江路に接し、東の下坂本は延暦寺の外港の役割果たし、水陸交通の要衝。このあたりを歩いていますと別世界のようです。家屋も石垣に囲まれているせいか外から見えず,生活が感じられません。重要伝統的建造物群保存地区。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩15分
堅田(かたた)/大津市本堅田 
 
   
▲かつての堅田商人の商家群  ▲浮御堂/芭蕉も愛した近江八景 
延暦寺の力を背景に堅田商人が交易を広げる
 平安時代末から延暦寺領の荘園でもあります。また延暦寺の湖上関が設けられ、絶大な力を持っていました。港も整備され、陸上、湖上交通の要衝で、とくに日本海沿岸各地との交易を手がけ、その中心となったのが堅田商人です。湖西地方の経済の中心地でもあります。しかし湖東六角氏が湖上流通路を支配したために、延暦寺の湖上支配は次第に衰退していきます。
湖畔の港町で町家が結構残っています
 琵琶湖畔の港町というが,いまは面影はほとんどありません。ただ古い町家はそこかしこに見ることができます。格子のある平入の町家が多く,漁業,水運の拠点でもありました。浮御堂へは少し歩くだけで行けます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR堅田駅から江若バスで堅田出町下車徒歩5分
 
 北小松(きたこまつ)/大津市北小松
 
   
板壁の続き町家が“詰まっています”  ▲蔵も漆喰と黒板壁の組合せが美しい
境界線をめぐって隣村との争いが続きました
 江戸時代はほぼ幕府領で大津代官所支配でした。また荒れ地や湿地帯などの新田開発が進み、隣村との境界線争いが絶えませんでした。特に慶長(江戸時代初期)検地に端を発した鵜川(うかわ)村との境界紛争は明治時代まで続きました。しかも両村の主張の論拠となった古文書や絵図に細工が加えられたとして、北小松村の百姓3人が流罪になっています。
切妻型の町家がギッシリ!
 住民の大部分は農業のかたわら漁業を営んでいました。ヒウオ、シジミなどが獲れたそうです。また地引き網や河川のヤナで獲れた小アユを甘く煮詰めた飴煮は、いっとき名物にもなりました。西近江路を代表する光景です。板壁をめぐらした切妻型の町家がギッシリ詰まっています。   
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマはJR湖西線北小松駅前の広場に停めました
長浜(ながはま)/長浜市元浜町 
 
町のにぎわいぶりに驚き
 かつて,NHK大河ドラマ『功名が辻』の舞台になったからか,いまでもにぎわっています。もちろんそれだけではありません。住民と行政がともに町おこしに力をそそいだからです。
 それはともかく、駅前の駐車場にクルマを置いて駅前通りを歩きました。まず人の多さに驚きます。そして、北國街道へ曲がるとそこは歩行者天国になっていて、とてもにぎやかです。遠方からの観光客を含め、近在近郊からやってくる人が多いように思えます。
明治期の建物が多い
 北國街道沿いは、明治期の建物が多いようです。銀行や学校、古民家など昔ながらの建物が残されています。ゆっくり歩くという感じではなく、混雑しているせいか、人を避けながら歩くという感じです。和風喫茶、ガラス細工店、美術館、土産物店などが軒を連ねています。
町全体がレトロ風
 南北を通る北國街道沿いだけではなく、東西の各道路もすべてレトロ風になっています。浜京極、博物館通り、表参道(写真上)、大手門通り、ゆう壱番街などいくつもの通りがありますが、町全体が、伝統的なイメージで統一されています。
 長浜が城下町として飛躍的に発展したのは、1575年秀吉が今浜に築城し、名を長浜に改名してからといいます。 
  感動度★★★★ 
もう一度行きたい度★★★
  交通 クルマは駅前の有料駐車場に停めました
朝日町(あさひちょう)/長浜市朝日町 
 
板壁の美しい生活感のある町並み
 安土桃山時代から明治初期まで長く瀬田町でした。戦後、幾つかの町名を集めて、未来永劫発展するようにと、昭和40年、朝日町と命名されました。レトロ風の元浜町とは違い、生活感のある町並みです。土蔵や虫籠窓のある旧商家など町家がギッシリ。普段は静かな街並みですが、朝は通勤、通学する人たちで賑わいます。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは駅前の有料駐車場に停めました
大宮町(おおみやちょう)/長浜市大宮町 
 
   
▲かつて南片町遊郭と呼び、その一部が大宮町、朝日町で存続しました 
むかし八幡神社の門前町でした
 天正年間(1573-92)、豊臣秀吉の長浜城下の造営によって成立した町で宮町と命名。町名の由来は八幡神社の門前町からきています。戦後になって大宮町となりました。
旧南片町遊郭が残っています
 交通量の多い駅前通りから裏手に入っても、なかなか探しきれませんでした。ベンガラ格子の建物が目印です。かつて貸し座敷15軒、娼妓は50人余だったそうです。「聖と俗は隣合わせ」を地で行く感じです。いまは旧料亭や旧妓楼などが残されていますが、一部は小料理屋、スナックなどに変わっています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは駅前の有料駐車場に停めました
 
鍛冶屋(かじや)/長浜市鍛冶屋町 
 
   
 ▲入母屋造の大型の家屋もいくつか残っています ▲人との出会いは少ないですが、町並みはとてもきれいでした 
鍛冶屋が集まってできた町
 鍛冶屋という町名は、琵琶湖周辺にいくつもあります。いずれもその名の通り、鍛冶屋が集まってできた町です。この町も秀吉の長浜城下造営にともない出来た集落。
チリ一つ落ちていない清潔感のあふれた町並み
 江戸時代は朱印地で、幕府から租税徴収の特権を保証されていました。朱印地とは寺社の経済を支えるための土地で、売買は禁じられていました。町を歩きますと虫籠窓や土蔵など町家が軒を並べます。建物は手入れが行き届き、チリ一つ見かけない実に美しい町並みです。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは孝太郎会館前の駐車場に停めました
 
大浦(おおうら)/長浜市西浅井町大浦 
 
   
▲旧家と思われる町家が続きます   ▲珍しい望楼が目に付きました
歴史のある集落です
 平安時代からある集落で、荘園・大浦荘が開発したところですが、大化以前から存在したという説もあります。それにしても歴史のある集落です。集落の支配は天皇御領、公卿領、さらに寺領と変遷しますが、天文期(1532-55)以後、浅井氏の所領となります。
古代から湖上交通の要衝
 また、古代から湖岸各地と船で結ばれ、まさに湖上交通の要衝となりました。それは江戸時代に入っても変わらず、問屋や商家が軒を並べ、北国路への中継地となりました。

旧問屋、土蔵など町家が連なります
 いま町を歩いてみますと、白壁の土蔵や虫籠窓のある町家、板壁の旧商家など、繁栄した往時を彷彿させます。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは湖岸緑地大浦園地駐車場に停めました
 
菅浦(すがうら)/長浜市西浅井町菅浦
 
   
▲NHK『小さな旅』(2020年8月)で菅浦の生活をルポしていました
鎌倉時代初期、高倉天皇から“供御人”の認定
 夕暮れどき、急斜面沿いの道をクルマで走っていますと隔絶の地に向かうという感じがしてきます。鎌倉時代初期、高倉天皇は菅浦の住人に対して、“供御人(くごにん)”の認定を与えました。朝廷に対して品質の高い農産物や特産物を提供するという特別な身分です。そのため京、大和、大坂を自由に動け、他の商人とも同等の交渉力を持っていたとか。また古代から菅浦も湖岸交通の要衝でした。
石積みが残る集落
 いま、集落のあちこちに石積みが残っています。これは風水害を防ぐための先人の知恵。まつては伝統的な沖すくい漁が盛んでしたが、いまは長島さん1軒のみだそうです。住人の半分以上が70歳以上の高齢化のためか。
いまも続く「ヤンマー菅浦農村家庭工場」
 かつては陸の孤島と呼ばれ、舟でしか行くことができませんでした。昭和35年(1960)、ヤンマーディーゼル創業者の山岡孫吉が、長浜の工場に労働力を集めるだけだはなく、農業や漁業のかたわら作業ができるようにと各家庭に小さな作業場を作りました。いわゆる「ヤンマー菅浦農村家庭工場」です。部品は定期的に長浜の工場から送られてきます。今も数軒の作業場が稼働中です。労働力の確保と同時に地方を衰退させないという事業でした。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
柳ヶ瀬(やながせ)/長浜市余呉町柳ヶ瀬 
 
   
 ▲街道沿いには古民家が連なります ▲入母屋造りの古民家も健在です 
北国街道沿いの宿場町
 江戸時代の初期は有力者の鈴木氏の知行地でしたが、まもなく彦根藩の所領となり、幕末まで続きます。鈴木氏宅は本陣跡で、江戸時代の遺構を留めています。北国街道沿いの宿場町で若狭街道との分岐点でもありました。この分岐点には彦根藩の柳ヶ瀬関所が設けられていました。
トタンに葺き替わった古民家が見られます
 町並みを歩いていますと、トタンに葺き替わった入母屋造も点在しています。かつて交通の要衝でした。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは柳ヶ瀬公民館前駐車場に停めました
 
菅並(すがなみ)/長浜市余呉町菅並 
 
   
 ▲菅並東/高時川を挟んで東側にも古民家群が見られます 
トタン屋根に替わっても…
 米国人で東洋文化研究家のアレックス・カーさんも絶賛した集落です。「まだこんな所が残っていたのか」という驚きとともに、日本の専門家たちも保存を訴えています。すべてトタン屋根に葺き替えられました。でも観光地ではないだけに貴重な存在です。
東洋文化研究家・アレックス・カー氏も絶賛した町並み
 アレックス・カーさんは司馬遼太郎も絶賛した随筆集『美しき日本の残像』の著者で、ペンシルベニア出身のアメリカ人。イエール大学で日本学を学び、卒業後、日本に住居を定め、四国に茅葺きの古民家を買って住むなど、日本と深く関わってきました。現在、亀岡市(京都府)に住む。日本に関する数多くの著書があり、新潮学芸賞、2019年に文化庁長官から表彰を受けています。 
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは菅並集会所前の駐車場に停めました
 
 伊部(いべ)/長浜市湖北町伊部
 
   
▲下見板張の蔵も点在しています  ▲浅井氏の居城・小谷城址への入口 
 ●激しくなる武士による荘園浸食
 平安時代末期には存在していた歴史ある集落です。しかしその後、武士による荘園浸食は激しいものがありました。中世は田川荘伊部郷の一部でしたが、すでに町としての機能、特に問屋の存在が知られていました。江戸時代はおおむね彦根藩の所領。村高は2500石余というから、土地は肥えていたようです。また酒造業も盛んだったようです。
北国脇往還の宿場町
 元禄8年(1695)の人口が550人で北国脇往還の宿場町として、本陣や旅篭が整備されました。上の町、中の町、お屋敷などの集落名が見られます。古民家は旧道沿いに見られ、往時の雰囲気を感じ取ることができます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマはひばり山交流会館駐車場に停めました
 
速水(はやみ)/長浜市湖北町速水 
 
平安時代から続く歴史のある集落
 古くは早見、速見とも書きました。平安時代から続く集落です。速水郷が速水荘に荘園化し、江戸時代は元禄年間(1688-1704)の幕府領をのぞいて、ほぼ淀藩領で幕末を迎えます。村高も1400石前後とかなり地味は肥えていました。山地が少なく、平地ばかりで、米作のほか桑園で養蚕業を営む農家も多かったとか。特に明治後期、蚕種の製造する農家は、他県にまで売りに出ました。
規模の大きい町家が残っています
 町の中央を北国街道が通り、交通の便が良かったことも一因でしょう。町を見ますと虫籠窓のある商家や土蔵、入母屋造の豪華な町家などが軒を並べます。
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
木之本(きのもと)/長浜市木之本町木之本 
 
「うだつの町並み」が続く
 小さな町です。駅から5分ほどで、北国街道にぶつかります。このぶつかったところに、浄信寺があります。この浄信寺を中心に広がった門前町でもあり宿場町でもあります。そしてこの浄信寺を中心に200mほどの街道沿いが「うだつの町並み」と地元では呼ばれ、古い町並みが続いています。近世には、北国街道と北国脇往還の分岐点でもありました。うだつとは、日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は火事が燃え移るのを防ぐために造られた壁です。
歴史的建造物が街道沿いに続きます
 旧本陣や酒蔵、旧庄屋、商家、民家など、伝統的な建物がそのまま残っています。町名の由来は、古くにヤナギの大木があり、柳之本(やなぎのもと)と読んだのが、元となったとか。 
感動度★★★
  もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは駅横の有料駐車場にとめました
 
 大音(おおと)/長浜市木之本町大音
 
   
 ▲大音軍治宅/集落内最古の住宅  ▲美しい幾何学模様(真壁)  
交通の便の悪い山間の集落
 古くは「大杜」とも書き、「おとう」とも詠みました。江戸時代は彦根藩領で幕末まで続きました。村高は950石前後で、そこそこの収穫があったようです。この村高も幕末まで変化が無いというのも珍しい。国道8号線から外れ、交通の便の悪い山間の集落です。訪れる人も少なく、大型の家屋が残されています。
白壁の真壁は美しい
 土壁の蔵は珍しい。また幾何学的な意匠の切妻型真壁(しんかべ)造りは美しい。幹線道路から外れていたために、開発が遅れたことが幸いして、古い町並みが残されたのでしょう。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
杉野(すぎの)/長浜市木之本町杉野 
 
   
▲古民家が連なる美しい旧道  ▲茅葺きの小さな宿もありました 
茅葺き屋根のある宿
 「すいの」と呼ぶ人もいるようです。江戸時代は彦根藩領で村高は約430石。幕末まで藩主、村高に変化がなかったと言うから、争いのない静かな集落だったのでしょう。村名は杉野谷に由来します。白壁の土蔵、板塀のある町家などが続く美しい集落です。
戦国武将・石田三成の出生地(?)
 なお、『近江輿地志略』(おうみよちしりゃく)に戦国武将・石田三成の出生地とありますが、これは長浜市石田町の誤りでしょう。
『近江輿地志略』は近江の自然、歴史などについてまとめた地誌のことです。膳所藩士・寒川辰清(1697-1739)が享保19年(1733)3月に完成させました。101巻100冊の大作で、いまでは近江を研究する上での基礎資料となっています。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
本町(ほんまち)/彦根市本町 
 
彦根城の西側に広がる
 第11代藩主・井伊直弼は、万延元年(1860)3月3日、江戸城桜田門外において、攘夷派に襲われ、波乱に満ちた生涯を閉じた、ということはあまりにも有名です。彦根城はその井伊家の居城であります。天守閣は国宝です。その城の西側に、古い町並みが広がっているのです。
 彦根は中山道の宿場町や、湖上交通の中心地・松原湊に代表されるように、水陸交通の要衝で、湖東、湖北の中心地でした。明治以降もその重要性は変わりません。
職業別に住んでいました
 白壁と黒色の格子、軒の傾斜もそろえるなどして、歴史的景観を大事にした通りを「夢京橋キャッスルロード」といいます。レストラン、土産物店、銀行、商店などが軒を連ねているのです。古い町並みはその裏側にあります。今は本町と呼んでいますが旧町名も併記されています。歩きながら「上魚屋町」「職人町」、そして「桶屋町」など職業別に住み分けていた往時の様子がよくわかります。
歴史の香りのする通り
 建物も低層の2階建て木造の町家がずらりと並んでおり、歴史の香りがします。ただここまで入ってくる観光客は皆無に等しく、夢京橋キャッスルロードの買い物で満足するとか。地名の由来は、活津彦根命(いくつひこねのみこと)からという説があります。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは有料駐車に停めました
 
寺町(てらまち)/彦根市本町 
 
   
▲ 大信寺/藩主の歯骨を祀っている  ▲願通寺/妙徳寺の分寺である 
彦根城下を守るための防御線
 彦根城下を守るために、武家屋敷や寺院を濠沿いに配置しました。寺町から紺屋町にかけての通りには、来迎寺や大信寺、願通寺が並びました。いわゆる城下の防御線となったていたのです。そして最も外側に足軽屋敷を設けたのです。
朝鮮通信使一行も宿泊しました
 元禄14年(1701)の大火は寺院や町家を焼き尽くしましたが、藩の資材援助で復興がなされました。一方、江戸時代の朝鮮通信使一行は、彦根では有力町人や寺院を宿舎にあてられました。いま四番町スクエアやキャッスルロードのあいだにあっても、とても静かで、歩いてもいても別世界にいるような気がします。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★

交通 JR東海道本線彦根駅からバスで四番町スクエア下車、徒歩6分 
芹橋(せりばし)/彦根市芹橋 
 
   
▲吉居家住宅/旧善利組足軽屋敷(江戸期)・市の指定文化財  ▲服部邸住宅(左)/旧善利組足軽屋敷(江戸期)・市の指定文化財  
彦根藩の足軽組屋敷群が残る
 藩政時代は善利(せり)組一丁目から十五丁目までありました。それは善利組と称する足軽組の屋敷が集中的にあるところです。当時、城下を取り囲むようにして外濠の外側に屋敷を連ね、彦根城と町を守る役割を果たしていたのです。道路は直線を避け、道を狭くして「くいちがい」や「どんつき」などを設け、いまもそのまま残されています。
NHK『ブラタモリ』にも登場!
 屋敷は、木戸門と塀に囲まれた庭付き一戸建てで、玄関、台所、納戸、座敷が田の字に連なる武家屋敷としての体裁を整えています。また辻番所といって、内部から外を見張る小窓を設けた番所(上の大きな写真の右奥の建物)も見られます。なおNHKの『ブラタモリ』でも紹介されました。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR東海道本線彦根駅からバスで四番町スクエア下車、徒歩3分
 
河原町・芹町(かわらちょう・せりまち)/彦根市河原・芹町
 
   
▲旧滋賀中央信用金庫銀座支店/国の登録文化財・大正7年築   ▲旧川原町郵便局(現・高橋家住宅主屋)昭和9年築 
   
▲2階の格子をはめた虫籠窓をはじめて見ました(多分後付け?)   ▲旧石橋家住宅/国の登録文化財・明治時代後期築  
重要伝統的建造物群保存地区に選定
 彦根城南東の片隅にある町人町です。城下町と中山道、さらに水運・芹川の往来に沿った町並みでもあります。平成28年(2016)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
●S字カーブを描いた街道筋に伝統的な建築群
 ゆるやかなS字を描き、幅二間(約3.6m)の街道筋で、切妻型で瓦葺き、2階建ての伝統的な町家が軒を並べています。さらに銀座交差点に近づくにつれ、近代建築も目に付きます。これだけの歴史的建造物が残されているに、訪れる人が少ないのは、彦根城から遠いからか。
 
 感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★★★
交通 近江鉄道ひこね芹川駅から徒歩5分


                        ▲ページの先頭にもどる

 醒ヶ井(さめがい)/米原市米原町醒井
 
   
▲夕暮れ時は穏やかで美しい   ▲日本武尊の伝説もあります 
夕暮れどきの美しい宿場町です
 旧中山道の宿場町です。着いたのが夕暮れ近くでした。水量豊富な地蔵川の横を街道が通り、水音が響きとてもさわやかな感じの町並みです。街道も川も一緒にゆるやかに蛇行しています。そのカーブがとても優しい感じを与えています。
旧醒ヶ井郵便局の洋館
 2階建て商家がところどころ立っています。また旧醒井郵便局の洋館もありました。夕暮れの街道は静かで帰りの駅ではすっかり闇に包まれたのです。
 地名の由来は、街道沿いの加茂神社の居醒泉(いさめのいずみ)によるという、古来有名な湧泉からきているとか。『古事記』にもこの地が登場します。 
 感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR東海道本線醒ケ井駅から徒歩10分
米原(まいはら)/米原市米原 
 
   
▲薄暗くなるころの米原宿です  ▲店頭の明かりが暖かく感じます 
「まいばらし まいはら」の理由
 長年疑問だった「米原」の読み方がわかりました。他の町村と合併する前の旧町名は「まいはら」と清音でした。合併後、市になることをきっかけに、すでに駅名で採用されていた「まいばら」を採用。しかし旧町名は「まいはら」のままとすることになりました。そこで、ココは「マイバラシ マイハラ」となるわけです。
虫籠窓や格子のある町家がけっこう残されています
 それはともかく、北國街道の宿場町。米原駅周辺は閑散としていて寂しいところですが、宿場町も静かで寂しい。夕方に到着しましたが、駅から降りて出てくる人も少ない状態。古民家もけっこう残されており、虫籠窓や格子戸のある町家も見られました。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR東海道本線米原駅から徒歩5分
 
春照(すいじょう)/米原市春照 
 
   
▲旧北國脇往還沿いに連なる古民家群。ほぼ改築、改装されています  
古くは水上と書いたのは、水が豊富だったから?
 難読地名の一つです。古くは「水上」と書いたそうで、伊吹山麓の“水の上にあった村”の意味だとか。どうも水の豊富な地域だったようです。というのも姉川の下流域の村々と水争いが絶えなかったからか。姉川で思い出すのは、元亀元年(1570)徳川家康が戦勝祈願を行っています。このあたりの様子はNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれるでしょう。
北国脇往還の宿場町
 江戸時代は彦根藩領で北国脇往還の宿場町。本陣、問屋、旅篭、商家などが軒を並べていましたが、今は見る影もありません。古民家がわずかに点在しています。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは米原市役所伊吹庁舎に停めました
番場(ばんば)/米原市番場 
 
蓮花寺で一族郎党432人が自害! 血が川となって流れる
 古くは「馬場」とも書いたとか。聖徳太子が原野に馬を放ったという伝説があります。中世は戦乱の地で、蓮花寺(れんげじ)には血塗られた歴史が残されています。元弘3年(1333)六波羅探題北方の北条仲時が、東国へ落ちのびる途中、行く手を佐々木導誉が差し向けた野武士に塞がれて蓮花寺にやってきます。そこで本堂前で一族郎党432人とともに自害しました。そのときの血が川のように流れたそうです。
中山道沿いに古民家
 江戸時代は彦根藩。中山道・鳥居本宿と醒ヶ井宿の中間に位置し、摺針峠にさしかかるところの宿として繁栄しました。一時期、馬宿と呼ぶ人もいたとか。天保年間(1830-44)の人口は800余人、家数178軒で、かなり大きな集落であったと想像できます。村高は560石とわずか。

 いまは静かな集落で、ときおりハイカーが通り過ぎます。往時を偲ぶ古民家もわずかに点在しています。  
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
近江八幡(おうみはちまん)/近江八幡市新町 
 
   
 ▲どこを切り撮って“江戸時代”です  ▲板壁や白漆喰、黒板塀の似合う町 
時代劇ファンの聖地
 何度も訪れたところです。時代劇ファンにとって,近江八幡は聖地でもあります。特に掘り割りは,あらゆる時代劇に登場するので、ひと目で近江八幡であることがわかります。映画やTVドラマのエンドロールのクレジットで、撮影協力の項目で「八幡堀を守る会」が明記されています。なお重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
西武グループの発祥地
 近江八幡は豊臣秀吉が城を築き、城下町を整備しました。また近江八幡は近江商人の発祥の地とされており、西武グループも元はといえば、近江商人の出だそうです。そのためか近江鉄道グループは西武鉄道の傘下です。

 町を歩いていると、いたるところに土蔵や商家が見られます。切り妻平入りが多く、格子戸のある町家が中心です。日本有数の水郷景観とともに保全の対象地になっています。
ドラマ『剣客商売』でたっぷり描かれる水郷の景観
 水郷は池波正太郎の時代小説『剣客商売』のドラマでたっぷり描かれています。
ちなみに茅葺き屋根の秋山小兵衛宅はセット(京都市・嵯峨野にある広沢池畔)です。 
  感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR東海道本線近江八幡駅から徒歩15分
武佐(むさ)/近江八幡市武佐町 
 
二つの街道が交差する
 近江八幡駅から一つ目の武佐駅周辺の宿場町です。伊勢と近江を結ぶ八風街道と中山道が交差するところにあります。昔ながらの商家が軒を並べ,格子と防火の役割を果たす土塀や防火戸などが見られます。本陣,脇本陣,旅籠は23軒もあったそうです。つまり江戸時代は要衝でもあったわけです。
地元小学生が歴史的建造物の解説しています
 駅を出ると狭い道が歩くうちの広くなってきます。感心するのは,地元の小学生が作った,歴史的建造物の解説をわかりやすく書いた表札が,あちこちにたてられていることです。地名の由来は古代・牟佐氏の本拠地であったことからという。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 近江鉄道武佐駅から徒歩5分
 
五個荘(ごかしょう)/東近江市五個荘町 
 
   
▲白壁が続く落ち着いた町並み  ▲土蔵がやたらと目に付く町です 
西武グループは近江が発祥地
 2度目の訪問です。地名が金堂(こんどう)というので、金ピカの家でもあるのかというイメージで行きました。でも普通でした。近江は文字通り近江商人発祥地です。西武グループも元はといえば、近江が発祥地です。近江商人の特徴は、物産を行商し、全国を回って巨万の富を築いたことです。
用水路が印象的です
 歩いていて、水の豊富なところだなあと感心しました。用水路が縦横に走っています。石積みに板囲いの土蔵がいたるところに目に付きます。ほとんどが江戸の末期から明治、大正にかけての建物です。重要伝統的建造物群保存地区。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 近江鉄道五個荘駅から徒歩20分
 
政所(まんどころ)/東近江市政所町 
 
   
▲三角形のトタン屋根が点在しています  ▲木地師の往来で政所茶が広まる 
木地師発祥の地
 「政所畑村」ともいいます。百済寺政所の畑だったという説もあります。またこの辺りの小椋谷(おぐらだに)が最初の木地師発祥の地とされています。木地師とは、ろくろを用いて椀や盆などの木工品を加工、製造する職人のことです。
本居宣長も絶賛した“政所茶”
 江戸時代は幕府領から元和3年(1617)に彦根藩領となり、以後幕末まで続きます。村高はわずかに87石余。むしろ林材、製材、薪などの生産が中心です。また政所茶が木地師により、天下の銘茶として知れ渡り、医師で国語学者の本居宣長(もとおりのりなが)も絶賛しました。
山深い集落にトタン屋根の民家が残る
 それにしても山深いところにあります。周囲はすべて鈴鹿連山です。トタン屋根の葺き替えた家屋がまだまだ残ります。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
 大溝(おおみぞ)/高島市高島町大溝
 
江戸時代の区割りが残っています
 琵琶湖畔の城下町です。往時の区割りがほぼそのまま残っています。特に水路はむかしのままで,道路の端にあったり,道路の中央にあったりとなかなかおもしろいです。
伝統的町家を改修して特産品の販売
 築100年前後の商家が何軒か残っています。地元の高島商工会は「びれっじ」と称して,改修して特産品の販売や,地元民の交流に使われたりしています。現在,4号館まであり,ステンドグラスやキャンドルの手造りを体験できるそうです。

大溝藩は焼け落ちた比叡山諸堂の復興に力をつくしました
 江戸時代、大溝藩は信長によって焼かれた比叡山諸堂の造営のために奉行を命じられ、力を発揮したそうです。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR湖西線近江高島駅から徒歩5分
田中(たなか)/高島市安曇川町田中 
 
中世は京都の寺院の影響が強かったようです
 鎌倉時代は、田中郷で郷内に10余か村あり、領主はわかりませんが、南北朝時代は北野天満宮領とされていたようです。その後、足利義政は法眼禅親に治めさせたという。ほかに仁和寺や明王院などの名前が見られます。どうも京都・寺院の影響力が強かったようです。
旧道に入母屋造や切妻型古民家
 江戸時代に入ると、朽木頼綱を出自とする田中氏が上寺城に居住していたそうです。漁業権や水利でたびたび紛争が起きています。旧道には入母屋造、切妻型の古民家が軒を並べています。 
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
佐賀(さが)/高島市安曇川町田中 
 
戦後になって開拓された農業地域
 元禄14年(1701)の郷帳には、旧田中村には31の村があり、佐賀はそのうちの一つでした。泰山寺野台地の東端に位置し、荒れ地で村高もわずかでした。戦後になって開拓された農業地域でもあります。
黒板壁の2階家が続く
 いまでも専業農家の多い地域とされています。旧道を歩きますと、黒板壁のある2階家が続きます。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 朽木(くつき)/高島市朽木市場
 
   
▲丸八百貨店/国の登録文化財   ▲旧朽木郵便局舎/昭和13年築 
   
▲熊瀬家住宅/旧商家・町家建築  ▲旧道沿いに茅葺き屋根の民家 
鯖街道沿いの宿場町
 歴史のある集落です。奈良時代は、東大寺の建材用の一部がココから、安曇川(あどがわ)でイカダで流し、琵琶湖、淀川、木津川から荷車で奈良坂を超えて奈良に運ばれたそうです。地名の由来もクツ木はクチ木が転訛したもので、クチとは樹木繁栄の地、という意味があるそうです。
関ヶ原の戦いで東軍に付いたので繁栄
 朽木氏は、関ヶ原の戦いで東軍に付いたために、その功績で禄高もどんどんと加増していきました。また平安時代から、若狭の海産物が京都に運ばれていました。鯖の道と呼ばれ、宿場を形成。江戸時期にはさらに発展し、本陣や旅籠、商家など並び、大いに賑わいました。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
安井川(やすいがわ)/高島市新旭町安井川 
 
   
▲今では珍しい板壁の蔵  ▲旧道沿いに町家が残ります 
地名の由来は単純な合併による命名
 安曇川扇状地の頂上部に位置します。地名は明治に入って、安養寺村、井ノ口村、川原市村の頭文字をとって命名。単純な名前で意味はなし。意味の無い町名って悲しいものです。
旧道沿いに蔵や商家
 明治時代の人口は700人弱ですが、土地は肥沃で農業が主体ですが、安曇川の氾濫がたびたび農民を苦しめたそうです。こんな町のほぼ中央を南北に旧北国街道が通ります。その旧道沿いに蔵や商家など町家が多く見られます。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは子安延命地蔵横の駐車場に停めました
熊野本(くまのもと)/高島市新旭町熊野本 
 
   
▲堀が縦横に通っています  ▲旧道沿いに古民家が残ります 
剃刀は江戸や京に販路を持っていました
 江戸寺時代から農機具や剃刀の生産が盛んで、特に剃刀は江戸や京に販路がありました。北国街道沿いの集落ですが、大津道も交わっており、交通の要衝でした。
古民家は旧道沿いに集中
 地名は、饗庭野(あえばの)の古くからの名前・熊野山に由来するとか。古民家は旧道沿いに集中しています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは今市会議所前に停めました
 
 針江(はりえ)/高島市新旭町針江
 
   
▲水風景が美しい生水の里  ▲日吉神社の周辺に点在する古民家 
生水(しょうず)の里・水風景
 安曇川扇状地の北端に位置しています。琵琶湖に流れる針江大川の流域は、水資源が豊かで独特の景観を保っています。特に氏神でもある日吉神社付近に土蔵や板壁や板塀のある古民家が集中しています。自宅に水を引き、生活用水として利用。昔から豊かな水と共に生きる集落です。いまは生水の里と呼ばれ、観光客もボチボチ訪れます。
●江戸時代は幕末まで旗本の知行地
 江戸時代は旗本の知行で、村高も1200石弱とかなり豊かで幕末まで変わりません。ということは平穏な生活であったのでしょうか。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
深溝(ふかみぞ)/高島市新旭町深溝 
 
   
▲切妻型の古民家が多い  ▲水路が集落を通ります 
古文書にも「稲がよく成熟した」と記載
 江戸時代、旧深溝村の村高は1300余石とかなり豊かでした。古文書などにも稲がよく成熟したと記載されています。元和3年(1617)、旗本・佐藤氏の知行地で216石、元和5年(1619)から大溝藩領となり、残りの1084石を分け、相給となります。
旧道沿いに切妻型古民家
 また明治17年に港湾が設置されますが、昭和6年の鉄道開設で衰退。いま旧道沿いに蔵や切妻型の古民家が数多く見られます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
藁園(わらその)/高島市新旭町藁園 
 
   
▲古民家と水路の組合せが美しく、迷路のような路地歩きも楽しい 
織物生産と漁業で駄賃稼ぎ
 江戸時代。地質は石が多く、収穫も少なかったとはいうものの、村高は2000石前後もありました。そのうち1200石余は大溝藩領へ。残りは上野高崎藩領へ配分。しかしその後幕府領、さらに旗本領へと変遷。副業の織物生産や漁業が収入を支えたようです。
旧道と水路沿いに古民家が広がる
 集落全体に水路が縦横に走り、旧道と水路沿いに、板壁の古民家が広がります。また路地は迷路状態で、街歩きが楽しい集落です。 
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
今津(いまづ)/高島市今津町今津 
 
   
▲今津基督教会館/国登録文化財  ▲今津ヴォーリズ資料館/国登録文化財 
湖上交通の要衝で金沢藩領です
  中世に入ると、若狭国小浜からの北陸物資は、今津から琵琶湖を経て、京、大坂へと船で運搬され、湖上交通の要衝となりました。浅野長政や豊臣秀吉も今津の通行税徴収などの政策を保護。江戸時代は加賀国金沢藩領となります。若狭国小浜への九里半街道と西近江路の分岐点であるため、大津への積出港、竹生島参拝、湖東への乗り継ぎ港としての役割が大きくなりました。
江戸の商家から近代建築まで
 古民家は湖岸道路沿いに広がっており、商家、土蔵などの町家、さらに国の文化財に登録されている近代建築などが幾つか現存しています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマはアヤハディオ今津店駐車場に停めました
 
海津(かいづ)/高島市マキノ町海津 
 
『源平盛衰記』や『太平記』にも登場する地名
 古くは甲斐津、萱津、貝津とも書いたようです。大和・山城と北陸を結ぶルート上にあり、湖上運送の要港でもあります。『源平盛衰記』や『太平記』などにも出てくるほど著名な集落。江戸時代は北陸街道の要路として、塩津と競った宿場町です。北陸の城米などの貨物を大津、大坂へ移送した積出港。つまり水陸継立ての要地でした。
江戸時代から残る石積みは重要文化的景観
 この辺りは高島市の重要文化的景観に指定。海津の石積みは、江戸の中期(元禄時代)、たびたびの大波で、家屋や街道が被害を受けたことから築造されました。いまでもそこかしこに古民家とともに点在しています。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
浦(うら)/高島市マキノ町浦 
 
   
 ▲今では珍しい土壁の土蔵が残る ▲シンボリックな三角屋根が点在 
美しい古民家群
 集落のなかに一歩踏み入れますと、見事な古民家群が残っていました。入母屋造ですが、屋根は茅葺きから、スレートやトタンに葺き替えられています。また今では珍しい土壁の土蔵も見られます。江戸時代は幕府のほか領主は絶えず変わりました。
小さな水路で琵琶湖とつながります
 村高は500石弱とわずかですが、土地は肥沃だったそうです。海津宿10ヶ村組合宿を構成する一村で、海津宿の入り用銀を負担したそうです。小さな水路で琵琶湖との水運を確保しています。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
在原(ありはら)/高島市マキノ町在原 
 
   
▲旧道沿いには旧茅葺き屋根の古民家や白壁の蔵などが点在しています  
歌人・在原業平のふるさと(?)
 平安時代初期の歌人・在原業平が住んでいたから、というのが地名の由来だそうですが、定かではありません。歌人にちなんで「ありわら」と呼ぶ人もいます。室町時代の古文書には、在原の地名が出てきます。つまり歴史のある集落なのです。
茅葺き屋根も少し残る
 竜田川(たったがわ)沿いの右岸に開けており、湖岸からはかなり奥に入る辺境の地。だからこそ古民家が残っているのか。江戸時代は、幕府など領主の変遷は数多く、村高も150石前後と、湖岸の他の村々に比べてかなり貧しい。いま、歩いて見ますと茅葺き屋根も少し残っています。在原業平のふる里ということで、観光客も多いようです。
 
 感動度★★
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 交通 クルマは空き地に停めました
 日野(ひの)/日野町大窪
 
   
▲平日に歩いていますと、人と会うこともなく静かな町並みです 
戦国時代から続く城下町
 歴史は古く、戦国時代から続く城下町です。音羽城や中野城が築城されていますが、蒲生定秀が築城した中野城が日野城ではないかと言われています。鍛冶町、鉄砲町、大工町など職業に応じて住み分けさせます。さらに近郊から移住させた住人の出身地を地名にしました。
城主の国替えで人口の急減、秀吉に対策を懇願
 ところが天正12年(1584)に城主・蒲生氏が日野6万石から伊勢松ヶ島12万石に国替え。このとき武士はもちろん多くの商人たちも移住してしまいました。さあ大変、日野の人口は急減します。残された町人たちは秀吉に対策を懇願しています。しかし人口増は江戸時代になって、近江商人の本格的な誕生に待つことになります。
質素で落ち着いた町並み
 岡本町と清水町,新町の三つの古い町並みがあります。板塀の家々,紅ガラの格子戸の落ち着いた町並みです。派手さのない,勤勉,倹約をモットーとした日野商人の信条が見ることができます。地名は古代の遺邇野(ひもの)、または日野牧にちなむとか。
 
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 交通 近江鉄道日野駅からバス大窪下車すぐ
 
水口(みなくち)/甲賀市水口町 
 
旅籠が40軒余のかなり大きな宿場町です
 東海道50番目の宿場町で,水口城下の町でもあります。また古くは伊勢への街道筋の集落でもあります。当時の3筋の道で構成された“紡錘型”の町並みは当時のままです。村高も2000石を越える大きな町です。人口も2000人を超えます。旅籠が41軒というから並みの大きさではありません。伊勢参拝で泊まる人が多かったようです。
あまり印象の薄い町並みでした
 ただ歩いていてわかるのは,建物が連なって残っているところは少なく,所々に見られます。2階建て平入りの低い町屋です。虫籠窓に格子戸,白壁と,古い町並みに見られる条件は全部そろっているのですが,どうも印象が残りません。近畿地方のどこにでもある町のような感じだからでしょうか。なお町名の由来は、古代・中世の宿駅にちなむそうです。 
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 交通 近江鉄道水口石橋駅から徒歩5分
 
土山(つちやま)/甲賀市土山町 
 
   
▲往時の町並みの雰囲気を生かそうとかなり努力されています 
往時の姿を再現
 江戸後期には本陣2カ所,旅籠は44軒を数えたという,東海道49番目の宿場町です。かなり整備されており,往時の姿を忠実に再現されています。鈴鹿峠の麓にある町並みで,格子のある町並みは手入れが行き届き、清潔で,歩いていてホッとします。
鈴鹿馬子唄にも登場する「あいの土山」
 土山といえば「あいの土山マラソン大会」で関西方面では知られており、毎年多くのランナーが参加します。この「あい」の意味が諸説あって、一つには労働歌説があります。箱根に次ぐ難所の鈴鹿峠は、伊勢側からの上りは急峻で、旅人たちは苦労しました。そこで、人や荷物を運搬する馬子たちが重宝され活躍します。そのとき詠ったのが鈴鹿馬子唄。歌詞の中に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」というもの。麓は晴れているが、少しずつ曇り、そのうち雨に遭うと言う意味とか。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 近江鉄道貴生川駅からあいくるバス土山支所下車
 


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