渋谷区
○渋谷(しぶや)/渋谷区渋谷 |
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●昭和のレトロ感あふれる飲み屋街・のんべい横丁 渋谷はまさに東京を代表する繁華街です。近年、東急グループによる大開発が進み、大人の楽しめる町へと脱皮しつつあるようです。そのなかで昔からある大人の町がのんべい横丁です。まるでタイムスリップしたかのようなレトロ感が漂います。JR山手線の線路沿いに40軒近い個性的な飲み屋さんがギッシリ。 この日は、昼間外国人観光客がゾロゾロと見学していました。また別の日には、俳優の舘ひろしさんがドラマの撮影で活動されていました。 ●もとは国策の飲食店街 もともと昭和25年に国の規制と指導で造られた国策の飲食店街。希望者を抽選で40軒選んだというわけ。しかし今となっては、昭和の生き証人となりました。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★★ 交通 JR山手線渋谷駅から徒歩5分 |
○猿楽町(さるがくちょう)/渋谷区猿楽町 | |
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▲旧朝倉家住宅/関東大震災以前の大正期の建物で、国の登録文化財になっています。近代の和風建築の重要な資料となっています | |
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▲猿楽塚/鎌倉将軍・源頼朝が猿楽を催したという説があります | ▲猿楽祭/中世の音楽隊が路地から路地へと練り歩きます |
●猿楽町の町づくりに朝倉家の意向が働く 猿楽町を語る上で朝倉家住宅を知ることが必要。というのも隣接するヒルサイドテラスの広大な敷地も朝倉家のものでした。戦後、相続税の支払いで自宅を売却。またその広大な用地の再開発に関して、朝倉家の和風建築の保存という目的に合わせて、建築家・槇文彦によって町づくりが行われました。本来なら、法的にも高層ビルを建てることができますが、朝倉家の意向で、低層の建物を主体としました。昭和44年(1969)にA・B棟が完成。以後C、Dと続き、平成4年(1920)にG棟が完成。さらに平成10年(1998)にヒルサイドウエストが竣工しました。 ●猿楽塚には源頼朝の伝説が残ります 『新編武蔵国風土記稿』によれば、このあたりは豊島郡中豊澤村の“猿楽塚”という小名になっています。鎌倉将軍・源頼朝がこの地で猿楽を催し、使った道具を埋めたという説があります。また塚に登ると富士や筑波、房総の山々の景色が素晴らしく、暗い気持ちが晴れることから「去我苦塚」(さるがくづか/私の苦しみが消えてしまう)と呼ばれた説もあります。いずれにせよ江戸時代は名所の1つに数えられていました(江戸名所図会)。 ●にぎやかな猿楽祭を体験しました 訪れたこの日は猿楽祭(さるがくまつり)が行われていました。市が立ち、各種イベントもいっぱい。またワークショップも盛んです。確かに低い建物が多いですが、代官山駅周辺は高僧マンションが林立しています。喧噪から離れて路地を歩いています、ポツン、ポツンと古民家が見られますが、いずれもファッション関などオシャレな店です。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 東急東横線代官山駅から徒歩5分 |
○鶯谷(うぐいすだに)/渋谷区鶯谷町 | |
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▲石段(写真は二号階段)があったり谷筋の両側は現代住宅が密集 | |
●三田用水の支流に架かる小さな鶯橋から命名 鶯谷といえば、山手線の鶯谷駅(台東区)が知られています。文字通り野鳥のウグイスから命名されています。しかし渋谷の鶯谷は、鶯橋の名前から名付けられました。鶯橋は地区内を流れる三田用水の細い支流・鉢山口分水に架かる小さな橋のこと。そして周囲は桜丘、鉢山、代官山に囲まれた谷筋にあたることから鶯谷となったわけです。 ●変化にとんだ谷筋を歩きます 鶯谷の谷筋を歩きますと、ときには狭い道になったり、急な石段(1号階段、2号階段)があったりと変化にとんでいます。ホントに都会の谷間を歩いている感じです。とはいものの、集合住宅や現代住宅の裏手だったりと、住宅自体にあまり変化はありません。 ●谷間に住宅が密集しています 谷間の町といっても、平地はたくさんあります。そんなところに住宅が密集しています。戦後の現代住宅で、棟割り長屋など古い民家が見られます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR山手線渋谷駅から徒歩10分 |