新発田市(しばたし)

○寺町(てらまち)/新発田市諏訪町 
 
   
▲宝光寺/新発田藩主の菩提寺  ▲三光寺/天正10年(1582)開基? 
   
▲福勝寺/佐々木因幡守重家の墓  ▲寺町たまり駅/休憩所で情報発信 
16ヵ寺の寺院が集中
 どこの城下町も同じですが,新発田藩も築城の際,城郭の防衛の一端を担うために城下の寺院の大半を集めて寺町としました。現在,道幅の広い寺町通りは,藩政時代の遺構です。寺町とその周辺には,16ヵ寺の寺院が集中。なお町名は元禄元年、鍛冶町から諏訪神社が移転されてきたことによります。 
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 交通 クルマは大光銀行新発田支店の駐車場に停めました
 ○大手町(おおてまち)/新発田市大手町1丁目
 
雁木のある旧下町通りに古民家群
 堅牢な雁木を設けた旧下町通りは,新潟方面に向かう重要な街道でした。「下町」は武家や潘お抱えの高級職人などが住む「上町」,「中町」の成立から少し遅れて成立しました。潘は「下町」に住居を希望する人に家屋の間数に応じて労働役を命じたとか。ユニークな手法です。
「下町」で垣間見る旧遊郭
 もうひとつの顔は,三宜町遊郭と重なります。戦前は妓楼19軒,娼妓110余人,戦後は貸座敷20軒,娼妓150人といわれています。地域としては御幸町1丁目とも重なります。通りを歩くと,料亭や妓楼と思わしき建築を多く見かけます。昭和34年(1959)の売春防止法施行で一気に衰退しました。 
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 交通 クルマは竹町パーキング(30分200円)に停めました
○御幸町(みゆきちょう)/新発田市御幸町1丁目 
 
旧紺屋町の白勢長屋
 町名の由来は,明治天皇の行在所があったから。しかし江戸時代は四ノ町(しのちょう)と総称され,材木町,紺屋町,上定役町,築地通りの4町が新発田川の南に新町として発展しました。で,ココは旧紺屋町にあたります。
明治の建築で8軒長屋は圧巻!
 明治20年(1887),新発田市金塚の“千町歩地主”の白勢家が12軒長屋を建築。昭和の初めまで所有していました。現在は8軒で,5軒が現役です。それにしても,明治の建築で8軒長屋は圧巻です。部分的に改装されていますが,庇の深い,雪国らしい建物です。ただ建物を注意深く見ますと、貸座敷などに使われていたように思えます。
 
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 交通 クルマは竹町パーキング(30分200円)に停めました
 
○山内(やまうち)/新発田市山内 
 
   
▲会津藩と新発田藩の境界に位置  ▲切妻型真壁造りも改築されています 
会津街道の宿場町
 江戸時代は新発田藩領で、会津街道の宿場町。同時にもう一つの役割が、警護でした。会津街道の藩の境界に位置する唯一の口留番所でもありました。新発田藩は意外に番所の少ない方で、この山内口留番所は代表例といえるでしょう。さらに番所の他にも山内御殿も建設されたのです。山内口留番所の歴史は古いのですが、往時は「桂の関」と呼ばれていました。
トタン葺き古民家が多数
 旧街道を歩いていますと、トタン葺きの三角形の農家が幾つも見られます。また立派な長屋門や真壁造りの古民家など飽きることはありません。広い道幅も往時のままだそうです。
 
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 交通 クルマは道端に停めました
 
○赤谷(あかたに)/新発田市上赤谷 
 
真壁や出し桁などいろいろ
 江戸時代は会津藩領。集落内には赤谷街道(越後街道)が通り、新発田から会津へ向かう重要な道筋になり、宿場を形成しました。街道の両側には、松川屋、吉野屋、中村屋、小川屋などの旅籠が軒を並べたとか。
明治に入ると近代化がすすむ
 明治に入ると鉱山開発が進み、旧藩士たちも加わり村は一気に発展します。搬出のための鉄道も敷かれました。それも昭和50年代に終焉を迎えます。

広い道路は明治の鉱山開発用
 いまは広い道路の両側に出し桁のある建物や白漆喰を生かした真壁造りなどいろいろ見られます。あまりにも広い街道に違和感を覚えますが、明治に入っての鉱山開発のために拡張したのか。
 
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 交通 クルマは道端に停めました