●世田谷(せたがや)/世田谷区世田谷1丁目 | |
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▲世田谷代官屋敷/大場氏は井伊家世田谷領の代官職。江戸中期の茅葺き屋根で国の重要文化財に指定。子孫は世田谷区長にもなりました | |
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▲中華そば(500円・味の大ちゃん) | ▲ボロ市そば(750円・いづみ家) |
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▲ラーメン(500円・来々軒) | ▲ラーメン(780円・品芳斎) |
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▲正油ラーメン(500円・美幌ラーメン) | ▲ラーメン(500円・あづま) |
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▲カレーライス(500円・やまぐち) | ▲薬きょう(1個50円) |
●大山道沿いの代官屋敷 江戸中期以来,彦根藩領であったのですが,世田谷20カ村の代官を世襲したのが大場家で,大場代官屋敷ともいわれています。大名領の代官屋敷としては都内ではココだけです。 表門(写真)は茅葺きの長屋門です。主屋も茅葺き屋根,寄せ棟造りで何度か改修・増築されたようです。 ●毎年12月と1月にボロ市が開催 現在の世田谷通りから一本南側に江戸と小田原を結ぶ大山道があります。かつて大山参拝でにぎわった街道ですが,いまは毎年2回,ぼろ市で賑わっています。なお上記のメニューはボロ市開催時の価格。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急世田谷線上町駅から徒歩5分 |
●豪徳寺(ごうとくじ)/世田谷区豪徳寺 | |
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▲豪徳寺/世田谷城主吉良氏が建立 | ▲井伊家2代藩主・井伊直孝の墓所 |
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▲世田谷城址公園/吉良氏の居城 | ▲古道沿いに板張りの民家が点在 |
●古道・瀧坂道が世田谷区を縦断 区民にもあまり知られていない瀧坂道(たきさかみち)が世田谷を縦断しています。江戸時代の初期,甲州街道が開設される以前,江戸(青山)と府中を結ぶ重要な街道でした。この街道,豪徳寺界隈で90度に曲がったり,S字カーブを繰り返します。中世になって吉良氏が居館をこの地に設けましたが,高台や湿地帯を利用しながら防衛目的で整備されたとか。 ●世田谷区の風景資産 いま歩いてみますと,大部分が現代住宅に変わっています。ときおり茅葺きをトタンで葺き替えた町家も見られます。世田谷区が風景資産として紹介しています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急世田谷線宮の坂駅から徒歩5分 |
●池尻(いけじり)/世田谷区池尻 |
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●村高はわずかに45石! 中世から重要な街道でしたが,江戸時代に入るや,大山詣でアッというまに賑わいました。江戸時代は元禄年間(1688-1704)から幕府領。村高は45石前後とわずかです。土質が悪いことと、目黒川の氾濫が原因とか。 ●大山道沿いに旧家 で、いま歩きますと,わずかに古民家や旧家が残されていますが,過日の古街道の面影はありません。「大山道」の石碑や貼り紙が見られる程度。一部の古文書には「池ノ尻村」と記されているそうです。地名の由来はよくわかっていません。一説には池上(いけのうえ)に対する意味があるとか。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急田園都市線池尻大橋駅から徒歩5分 |
●三宿(みしゅく)/世田谷区三宿 | |
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▲萩原家住宅/国の登録文化財 | ▲廃屋(?)も見られます |
●建築家・遠藤新の作品が文化財に 江戸時代は大山道沿いの集落として発展。地名の由来は上、中、下の三宿があったからというが定かではありません。関東大震災後,三軒茶屋周辺は郊外住宅地として開発されました。萩原家住宅はその初期の時代の建築で,しかも遠藤新(えんどうあらた)の作品として貴重な存在です。周囲は現代住宅がギッシリ詰まっており,ときおり古民家を散見。 ●江戸期はやせ細った土地 江戸時代は寛永2年(1625)より旗本・ 竹尾四郎兵衛の知行。元禄8年(1695)から幕府領となります。村高は80石弱とわずか。この地は黒土に赤土が混ざった痩せていました。米わわずかで、雑穀、蔬菜を生産していました。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急田園都市線三軒茶屋駅から徒歩10分 |
●太子堂(たいしどう)/世田谷区太子堂 |
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●源義家が奥州征伐の途上、この地で酒宴を開く 戦国時代、源義家が奥州征伐の途上、一行らを休めて酒宴を開きました。そのとき酒宴に使用した土器を埋めたのが土器塚であるという伝説があります。この土器塚は旧代田村との境界にあるそうです。 ●住宅密集地帯でも古民家も多く残る 町名の語源は,法明院円泉寺の境内に長さ1尺1寸の弘法大師作の聖徳太子像をまつる太子堂があるのにちなんだとか。江戸時代は太子堂村で,範囲は変わっても現代まで町名に変化はありません。住宅の密集地帯ですが,古民家も散見されます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急田園都市線三軒茶屋駅から徒歩7分 |
●若林(わかばやし)/世田谷区若林 | |
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▲松下村塾(模造)/松陰神社境内にあり、土日祝日のみ雨戸を開けます | ▲東京聖十字教会/「かまぼこ型合掌造」と称される・昭和36年築 |
●歴史ある若林 若林という地名は室町時代からあったと思われ、『私案抄』(深大寺僧侶・長弁の文集)にも登場します。江戸時代は荏原郡若林村。村高は120石余と地味はやせていたようです。しかし交通は意外に便利で、甲州街道瀧坂道が村の中央を、矢倉沢往還(大山道)が村の南端を東西に走っていました。 ●吉田松陰の遺骨を改葬して松陰神社へ 幕末期、吉田松陰らの遺体が回向院(荒川区)で埋葬され、のちに改葬されて遺骨を松陰神社に移されました。明治15年(1882)のことです。なお萩・松陰神社へは遺髪が送られました。 ●古い住宅はわずかとなりました 若林は住宅の密集地域でもあります。一部は迷路となり、タクシーの運転手でも迷うとか。しかしほとんどが現代住宅で、古い住宅はわずかとなりました。なお東京聖十字教会の設計はアントニン・レイモンドで、内部の長椅子もレイモンドのデザインです。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 東急世田谷線松陰神社前駅から徒歩6分 |
●三軒茶屋(さんげんぢゃや)/世田谷区三軒茶屋 | |
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▲大半はスナック,バー,食堂などの飲食店が中心です | ▲アーケードのあるエコー仲見世商店街には21店舗 |
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▲明太カルボうどん(380円・楽釜製麺所) | ▲ゆず鶏ほうれんそうそば400円富士そば |
●戦後の闇市を彷彿させる 国道246号と世田谷通りに挟まれた三角地帯に,再開発から取り残された町があります。土地等の権利関係の複雑さから,手つかずの状態になっているのです。町並みは大きく分けて,雑貨店や呉服店などのあるアーケード街とバー,スナック,食堂などの飲食店街の二つに分かれます。最近は「三茶三角博覧会」と名乗るイベントを開催。 ●3軒の茶屋がありました 江戸時代,大山へ向かう参詣道の分かれ道に3軒の茶屋があったことが地名の由来。今,商店街は再開発派と現状維持派に分かれているとか。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 東急田園都市線三軒茶屋駅からすぐ |
●用賀(ようが)/世田谷区用賀 | |
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▲無量寺/約400年前に開基 | ▲真福寺/北条氏の家臣が開基 |
●新旧の大山道の合流地 江戸から相模に向かう新旧の大山道(矢倉沢往還)はこの地で合流します。街道沿いには,醤油屋,油屋,紺屋,酒屋,料理屋,後に旅籠もできます。江戸後期になると相模から江戸への物資の輸送,人々の往来も盛んになります。特に大山参拝の道筋にあたり,用賀村は大変賑わったそうです。 ●地名の由来は仏典語からでた言葉 世田谷の郷土史家・鈴木堅次郎氏は用賀は仏典語から出た言葉で,瑜伽(梵語・ユガと読むが、原語はヨーガ)が,わかりやすい用賀になったと指摘。いまでは定説となっているとか。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急田園都市線用賀駅から徒歩5分 |
●岡本(おかもと)/世田谷区岡本 | |
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▲武家屋敷門/江戸中期の建物 | ▲岡本民家園/旧長崎家住宅 |
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▲静嘉堂文庫/大正2年(1913)築 | ▲旧小坂家住宅/昭和12年築 |
●政財界人の別邸が並ぶ 江戸時代は慶安4年(1651)までは幕府領,以後彦根藩井伊家領。江戸時代から風光明媚な景勝地でした。明治時代後期から昭和初期にかけて,政財界人などの別邸が建てられました。 ●“東京の軽井沢”の異名で分譲地も 昭和初期の新聞広告を見ますと,“東京の軽井沢”の異名で分譲も始まっています。というのも国分寺崖線が通っているため,台地から多摩川や富士山が遠望できたからです。今は近代木造住宅も10棟未満に落ち込んでおり,古民家も皆無に近いですが,文化財が点在しており,年中ハイカーが絶えません。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急二子玉川駅から生育医療研究センター行きバスで静嘉堂文庫下車すぐ |
●喜多見(きたみ)/世田谷区喜多見 | |
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▲氷川神社/区内で最古の石鳥居 | ▲次代夫堀公園民家園/文化財多数 |
●犬公方・綱吉の時代に1万3000余匹の犬を飼う 江戸時代,世田谷城主・吉良氏の家臣であった喜多見氏は文禄元年(1592),喜多見村の旧領地を与えられ,2万石の大名までになります。その後,犬公方として知られる徳川綱吉への背信行為をしたとして、喜多見氏はお家断絶。その後幕府領となり、中野村(中野区)などと同じように犬小屋が設置されます。最大1万3千余匹が飼育されたそうです。 ●土蔵など少し残る いまは住宅地として発展しており,往時の面影は全く見られません。歩きますと土蔵や板塀のある町家は少し見られます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 小田急線喜多見駅から徒歩20分 |
●上野毛(かみのげ)/上野毛3丁目 | |
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▲日本の古美術が中心の五島美術館 | ▲不老門/不老長寿を願う意味を持つ |
●国分寺崖線に連なる高級住宅 「ノゲ」は古文で崖という意味だそうで,上野毛は「崖の上」になります。このあたりは国分寺崖線(がいせん)といいい,立川市,国分寺市から崖が連なるところです。多摩川が10万年以上かけて武蔵野台地を削り取ってできた崖なのです。そんな所を世田谷区は「おもいはせの路」という散歩道を設定しました。 ●季節やときの流れを捉える「おもいはせの路」 おもいはせの路は、古代から現代までさまざまな顔が見える散歩道です。文化財を多数有する九品仏浄真寺からはじまり、途中は23区内随一の渓谷・等々力渓谷や上野毛自然公園、最後はオシャレな町・二子玉川までの約6.7kmのコースです。 ●国宝『源氏物語絵巻』所蔵の五島美術館 東急の創始者・五島一族の邸宅のあるところです。周辺は超豪邸が並びます。また五島慶太氏が集めた美術品は第一級品で,国宝,重文クラスが五島美術館に多数収納。特に最高傑作といわれる『源氏物語絵巻』(鈴虫一、鈴虫二、夕霧、御法)を所蔵。いずれも国宝で、定期的に公開されますが、公開日は見学者で長蛇の列となります。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 東急大井町線上野毛駅から徒歩8分 |
●等々力(とどろき)/世田谷区等々力 | |
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▲鈴木家住宅穀庫/世田谷区文化財 | ▲等々力渓谷/東京都指定名勝 |
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▲街は国分寺崖線に近づくほど閑静 | ▲等々力駅近辺で見かけた古民家 |
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▲等々力不動/満願寺別院です | ▲玉川神社/文亀年間の創建とか |
●国分寺崖線上の近代建築 この妙な名前の由来ははっきりしません。「兎ゞ呂城(とどろき)にある満願寺」とか,滝音に由来するなど様々です。しかし吉良氏と関係の深い満願寺になんら関係があるのではないか,という説が有力なようです。 ●近代木造建築が見られます 御岳山(おんたけさん)古墳,等々力渓谷横穴群もあるなど等々力地域は広範囲にわたります。昭和2年(1927)に大井町線が開通してから沿線は一気に開発が進みます。そのため一部で近代建築が残っているのです。特に武蔵野台地端の崖線(上)沿いは閑静な住宅が多く見られます。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 東急大井町線等々力駅から徒歩15分 |
●尾山台(おやまだい)/世田谷区尾山台 |
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●近代木造建築も見られます 江戸時代は小山村。明治8年になって尾山村に改称されました。閑静な住宅地が荏原台古墳群に沿っているのが興味深い。近代木造住宅も散見されます。 ●戦国時代、大平氏が百姓を入植させて開発 元もと吉良氏の重臣・大平清九郎氏の所領で,宇佐神社と共に吉良氏との繋がりを推定されています。天文21年(1552)「小山ととろき」の周辺山野を調査して、百姓を入植させて開発の許可を出しています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急大井町線尾山台駅から徒歩15分 |
●奥沢(おくさわ)/世田谷区奥沢 | |
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▲みかも(K邸)/大正末期の建築 | ▲H邸/昭和初期の建築 |
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▲M邸/大正14年の建築 | けやき道/大正時代の面影が残る |
●海軍村の面影 大正13年(1924)に地主の原氏が独力で40区画ほどの宅地開発を行いました。その前年に洗足(大田区)や田園調布(大田区)で宅地分譲が行われましたが,販売価格の高いのが難点で安く販売。そこに目を付けたのが海軍士官の親睦団体「水交社」の水交住宅組合でした。早速原氏と水交住宅組合と契約を結びます。 ●海軍の高級将校が居を構えました 海軍省のあった霞ヶ関や研究所のあった目黒,軍港の横須賀へも、全線開通した東横線利用で比較的交通至便。そこで将官や佐官などの高級将校,約30世帯が住居を構えました。いつしか地元民は“海軍村”と呼んだそうです。いまでも数軒の近代木造建築が残っています。また海軍村の小さな石碑も見られます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急目黒線奥沢駅から徒歩5分 |
●経堂(きょうどう)/世田谷区経堂 |
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●都内屈指の迷路 タクシーの運転手に言わせると、「都内23区で屈指の迷路地区」だそうです。狭い道が多く、クネクネ曲がっているから。実際、駅に歩いて戻るだけなのに道に迷いました。いまは住宅地ですが、江戸時代は荒れ地、田畑、山林。荏原郡経堂在家村、京堂在家村ともいいました。明治22年に世田谷村の大字、昭和2年に世田谷区経堂町となったのです。地名の由来は、京都の堂に似た建物があったとなど諸説ありますが不明。 ●世田谷区の地域風景資産に指定 いま「経堂五丁目特別保護区」と民有地を合わせて、区の地域風景資産に指定されています。すがすがしい町並みです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急線千歳船橋駅から徒歩15分 |
●成城(せいじょう)/世田谷区成城 | |
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▲志村邸/国の登録文化財 | ▲旧河津邸/国の登録文化財 |
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▲龍野邸/昭和13年築木造2階 | 旧山田邸/昭和初期の建築 |
●屈指の高級住宅地 都内でも屈指の高級住宅として知られています。関東大震災後,新宿(牛込)にあった成城学園がこの地に移転。さらに2年後の昭和2年(1927)成城学園前駅を開設したのです。そのとき学園主導で宅地開発が進められ,植栽や石垣塀など,住環境に配慮した取り決めが行われたのです。 ●ゴジラを生んだ東宝映画撮影所 また東宝映画の撮影所があったためか、俳優、監督、スタッフなどの映画関係者の住まいが多く見られます。いまでも時おり、映画関係巡りの散策ツアーが開かれているようです。 ●40棟前後の近代建築 ところで世田谷区には近代建築が数百棟もあると推定されていますが,成城には40棟前後(平成23年現在)の木造建築が残されているようです。そのほとんどが洋風建築です。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 小田急線成城学園前駅から徒歩5分 |
●大原(おおはら)/世田谷区大原 | |
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▲柳澤家住宅主屋(国登録文化財) | ▲廃屋も見られました |
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▲玉川上水/昭和61年(1986)に20年ぶりに水を流して再現 | ▲玉川上水・ゆずり橋/稲田石と煉瓦タイルで修景をほどこす |
●かつて「交通渋滞の町」として有名 大原といえば都民は交通渋滞の町という印象を持ちます。環状七号線と甲州街道の交差するところが大原交差点。さらに井の頭通りも貫きます。一時期「大原ぜんそく」で有名になったりもしました。 ●国の登録文化財が1軒 いま町は瀟洒な住宅が並び,近代木造住宅もチラホラ見かけます。なかでも柳澤家住宅は国の登録文化財となりました。 ●京王線代田橋駅付近で玉川上水がよみがえる 江戸市民の上水を賄うために承応2年(1653)に開通したのが玉川上水です。多摩の羽村からから43kmを尾根伝いに四谷大木戸まで流れ、そこから市中に分配しました。しかし明治31年(1898)に淀橋浄水場ができたことで、上水道としての役割を終えました。現在では高井戸以東はほぼ暗渠。しかし往時の玉川上水を復活させようということで、昭和61年に代田橋から笹塚にかけて約20年ぶりに水を流すことになったのです。いま京王線代田橋駅付近で、かつての玉川上水を見ることができます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 京王線代田橋駅から徒歩7分 |
●下北沢(しもきたざわ)/世田谷区北沢 | |
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▲カトリック世田谷教会/昭和23年築。戦前にフランスから輸入していたといわれる建材を利用して建築。 | ▲旧信徒会館(カトリック世田谷教会)/戦後米軍のカマボコ兵舎で放出物資。いまは倉庫になっていました。 |
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▲下北線路街/下北沢駅付近の小田急線地下化にともない誕生した街 | |
●戦後のヤミ市も小じゃれた町に変わる “しもきた”の愛称で知られる若者たちが集まる町です。かつては古着を扱う店が多かったですが、いまは飲食店のほか雑貨店が目に付きます。戦後は大きなヤミ市があり、その雰囲気は1980年代まで続きました。いまは小じゃれた店に変貌、さらに小劇場が集まり、路地裏のおもしろい町で雑多な印象が人気の的といえます。最近は、外国人の姿がめっきり多くなりました。 ●駅名に「下北沢」が残ります 世田谷区に下北沢という町名があるわけではありません。かつて世田谷郷のいちばん北にある沢の意味で、上から下まで北沢でした。のちに中流部に赤堤、松原、代田などの村々ができたために、北沢は上と下に分断。さらに上が消滅し下の北沢だけが生き延びました。そして昭和39年に北沢になりました。 ●「再開発」、「駅ビル」と無縁の新しい街・下北線路街 小田急線・東北沢駅から世田谷代田駅の地下化にともない、全長1.7kmの線路跡地(地上部分)を開発して生まれた新しい街です。飲食店だけではなく、保育園、学生寮、温泉旅館やホテルなど多種多様など地域に根付いた施設が集まりました。またイベントスペースも備え、住人も、訪問者も楽しめる街を創出。地元住民と小田急、行政など長年の話し合いのもとに整備され、いわゆる「再開発」、「駅ビル」とは無縁の街づくりとなったのです。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急線・京王線下北沢駅からすぐ |
●代田(だいだ)/世田谷区代田 | |
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▲円乗(成)院/作曲家・古関裕而の通夜、告別式が行われました | ▲ダイダラボッチの広場/世田谷代田駅前の大きな足跡が目に付く |
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▲61号鉄塔/世田谷区の風景資産に指定 | ▲送電線(駒沢線)鉄塔/住宅密集地を通る | ▲木電気/木製の電柱を見つけました |
●吉良氏の家臣・代田七人衆が帰農 縄文時代中期から人が住んでいたことを示す遺跡なども見つかっています。全く無名の土地でしたが、室町時代に世田谷を治めていた吉良氏の家臣7人(代田七家/清水、秋元、齋田、斉田、柳下、山田、大場)が豊臣秀吉に敗北後帰農し、この地に居住し開拓しました。代田七人衆ともいわれています。 ●ところどころ旧家が点在しています 江戸時代は寛永初年(1624年ごろ)までは、代田七人衆の農家と円乗院だけといわれています。元禄8年(1695)から幕府領で村高は500石余。助郷は東海道・品川宿へ、さらに甲州街道・内藤新宿にも出役。化政期(1804-30)には家数が110軒と増えてはいますが、江戸郊外の小村でもありました。いま歩いて見ますと、一部代田七人衆の家系を引き継ぐ旧家が残ります。 ●ダイダラボッチの巨人伝説 地名の由来はダイダラボッチという巨人伝説によるといわれています。ダイダラボッチを世に広めたのは、民俗学者・柳田国男です。昭和2年に『ダイダラ坊の足跡』という論考を発表。東京は巨人伝説のの一つの中心地だと述べました。というのも大正9年1月12日に代田の調査に入っています。約120mほどもあるダイダラ坊の右足足跡を発見したといいます。現在は、足跡の様子はわかりませんが、高低差のある地形が残り、低地にあった池から流れていたダイダラボッチ川の痕跡がうかがえるとか。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急世田谷代田駅から徒歩10分 |
●代沢(だいざわ)/世田谷区代沢 | |
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▲富士見丘教会(国の登録文化財) | ▲森巌寺/針供養で知られています |
●代沢の名は明治の時代からありました 代沢という名前自体は新しく,昭和39年に北沢,下代田町,代田の3町が合わさって起立。といっても代沢という名前は,明治時代の「代沢学校」設立書に見られます。 ●国の登録文化財1軒 登録文化財は木造2階建てのプロテスタントの教会で,昭和11年に完成。富士山がよく見えたことから富士見教会と名付けられたそうです。平成15年に国の文化財として登録されました。 ●作家・横光利一や森茉莉が住んでいました また歩いていると近代木造住宅も散見することもできます。作家の横光利一や森茉莉など、多くの文人たちが住んでいました。また代沢小学校の代用教員を務めた坂口安吾もゆかりの人です。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 京王線池ノ上駅から徒歩8分 |
●南烏山(みなみからすやま)/世田谷区南烏山 |
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●旧甲州街道の面影を見る このあたりはうっそうたる大森林でカラスが群生していたという説があります。江戸時代は世田谷領で烏山村。旧甲州街道の間宿でもありました。比較的、団地の多い町として発展。住人のほとんどが都心への通勤客といえます。 ●昭和17年築の山本善水商店が再建 山本農機・山本善水商店は,往時の面影を残しながら再建されました。もともと昭和17年の建築で、街道筋に多かった出桁造りでした。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 京王線芦花公園駅から徒歩6分 |
●烏山寺町(からすやまてらまち)/世田谷区北烏山 | |
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▲宗福寺/慶長6年(1601)開山。安政3年に火災に遭う | ▲高源院/弁天池には季節になると鴨が飛来するとか |
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▲妙高寺/江戸老中水野家の祈願所 | ▲多聞院/尊王の志士・本田種竹の墓 |
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▲源正寺/幕府御用達の釜六作の釜 | ▲乗満寺/烏山寺町形成の先がけ |
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▲称往院/宝井其角の墓がある | ▲存明寺/関東大震災後麻布から移る |
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▲善行寺/創建当初は浅草横山町 | ▲妙祐寺/画家・坂本浩雪の墓あり |
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▲浄因寺/歌人・内藤鋠策の墓あり | ▲永隆寺/尾張犬山潘藩主の墓所 |
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▲妙善寺/作家・為永春水の墓所 | ▲萬福寺/了信が寛永3年に創建 |
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▲幸龍寺/徳川家とのゆかりある | ▲専光寺/喜多川歌麿の墓がある |
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▲永願寺/越後高田武家の子が出家 | ▲妙壽寺/客殿は区の有形文化財 |
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▲妙揚寺/慶長17年に開基 | ▲源良院/火除けの火伏観音が有名 |
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▲常福寺/歌人・扇屋墨河の墓あり | ▲玄照寺/戸川家代々の墓がある |
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▲順正寺/足利時代中期の創建 | ▲西蓮寺/武家の子・宗誓上人開基 |
●26ヶ寺もある寺町は都内でも最大級 たぶん一つの地域に26もの寺が集まっているのは,都内では最大級ではないでしょうか。関東大震災後、都内各地の被災地で区画整理が行なわれ,多くの寺院もその影響を受け,郊外に移転することになりました。当時の烏山は,畑や山林などの荒れ地でした。 ●「土地を早く売りすぎた」と嘆く まず道路を造り,本堂や庫裏など順次建設を始めました。だいたい大正の終わりから昭和の初めにかけてです。その後の発展を考えると、当時の地主たちは「土地を早く売りすぎた」と嘆いたとか(郷土史家・下山照夫氏談)。 ●循環バスを利用すると便利 なお寺町通りは一方通行です。駅近くから循環バス(久我山病院行き)が出ています。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 京王線千歳烏山駅から徒歩20分(関東バスの便あり) |