埼玉県

○浦和(うらわ)/さいたま市浦和区岸町 
 
徳川家康が鷹場に指定してから一気に発展
 秀吉の時代にはすでに市が立つなど,かなり発達し宿駅の原型が見られました。江戸時代には,紀伊徳川家の00鷹場に指定されたのをきっかけに中山道の宿場町が設立されたのです。
 天保14年(1843)には本陣1,脇本陣3,旅籠15を数え,本陣は星野権兵衛家が勤めていました。また毎月2,7の付く日には六歳市が開かれ,交易が盛んであったそうです。
かろうじて残る浦和宿
 いまは浦和駅から10分ほどの所に,わずかに古民家が残り,往時を偲ばせますが,いつかは消えて行く運命か……。

 ところで地名は、海浜をさしますが、由来は諸説合ってよくわかっていません。結局、中世以来の郷村名から、そのまま名付けられました。 
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 交通 JR京浜東北線浦和駅から徒歩10分 
○沼影(ぬまかげ)/さいたま市南区沼影
 
   
▲細渕家住宅/国の登録文化財   ▲沼影観音堂の六地蔵
大きな屋敷が点在
 駅前の高層ビル群を抜けると、すぐ地方都市の光景になります。街道沿いに幾つかの大きな屋敷が目に付きます。なかでも細渕家は歴代の名主で、多くの古文書が残されているとか。江戸時代ははじめは幕府領、正保年間(1644-48)は旗本・宮崎氏の知行。のち幕府領となります。農村地帯で村高は350石前後。
鶴岡八幡宮(鎌倉)とのつながり(?)
 鶴岡八幡宮(鎌倉)は、佐々目郷の政所に百姓たちの強訴の企て対して、悪党の打ち払いと百姓15人の取り締まりを命じています。この15人のなかに沼影の百姓たちの名が連ねています。つまり沼影は佐々目郷内にあったことがわかります。このことから間接的に鶴岡八幡宮とつながっていたのです。
 
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 交通 JR埼京線武蔵浦和駅から徒歩5分
 
 ○大戸(おおと)/さいたま市中央区大戸
 
   
▲料亭・二木屋/国の登録文化財  ▲古くからの住宅街です 
旧名主や豪農の面影
 JR埼京線が開通していらい、住宅地として爆発的に発展しています。それでも歩いていいますと旧豪農や旧名主と思われる旧家が、あちこちに散見されます。
江戸時代は新田開発が盛んでした
 江戸時代は新田開発が盛んで、かつて「○○新田」の地名が多く見られます。例えば「持添新田」、「高沼新田」、「砂原新田」など検地のたびに登場します。また用水は高沼用水を利用し、流域の21ヶ村が組合を作っています。しかし上流にあたる西郷村(浦和)などと、水争いが絶えませんでした。
地名の由来は鴻沼への入口を意味するのか
 地名の大戸は、入口の意味を持ち、鴻沼への入口を指すものと推定されます。なお江戸時代は、はじめは幕府領で、後に旗本・牧野氏の知行となります。 
 
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 交通 JR埼京線南与野駅から徒歩15分
 
 ○大門(だいもん)/さいたま市緑区大門
 
   
▲大門宿本陣表門/ 県の指定史跡  ▲大門宿脇本陣表門/市指定文化財 
本陣、脇本陣の残る宿場町
 日光御成(おなり)街道の宿場町です。日光御成街道は本郷追分(東京都文京区)で中山道と分岐し、幸手宿(幸手市・さってし)の南で日光街道と合流するまでの街道です。江戸から3番目の宿場にあたります。江戸時代末期の天保14年(1843)当時は戸数180軒、896人で旅籠6軒でありました。大門宿本陣は会田家が勤めており、名主でもあり、問屋、旅籠も経営していました。
長屋門や板壁のある古民家
 いま街道を歩いていますと、塀のほとんどがブロック塀ですが、長屋門や板壁の古民家が見られます。
地名は、大きな門、すなわち大興寺か大門神社に由来するのではないかと推定されます。 
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 交通 JR武蔵野線東川口駅から徒歩20分 
○大間木(おおまぎ)/さいたま市緑区大間木 
 
   
▲大熊家表門(旧浦和宿表門)/市の文化財  ▲旧家の長屋門も見られます 
赤山街道沿いに長屋門
 江戸時代は幕府領。特に紀伊徳川家の御鷹場の支配を受けていました。化政期(1804-30)は家数は18軒で村内を赤山街道が通っており、今も旧農家の長屋門があちこちに見ることができます。地名は、古代の牧場に由来するとかで、定かではありません。
赤山街道と伊奈氏
 ところで赤山街道という聞き慣れない街道があります。江戸時代に関東地方発展のために関東郡代・伊奈氏(伊奈半十郎忠治)が、拠点とした赤山陣屋(現・川口市赤山)から工事現場までの連絡や物資輸送の目的で設けた道路です。現在3つの道筋が確認されています。①大宮道は越谷を通りさいたま市西区の永田陣屋まで。②越谷道は越谷市を通り、松伏町の杉浦陣屋まで。③千住道は足立区へ向かい、綾瀬の小菅御殿まで。大間木は①の大宮道沿いにあたります。
蘭学者・高野長英が身を隠す
 弘化2年(1845)、火災のため牢から解き放たれた高野長英(江戸後期の医者で蘭学者)は、当村の門人・高野隆仙のもとに身を隠したといわれています。
 
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 交通 JR武蔵野線東浦和駅から徒歩20分
 
○芝原(しばはら)/さいたま市緑区芝原 
 
旧家の土蔵や屋敷林
 江戸時代、旧三室村の一集落です。当時は山崎、宿、松ノ木、芝原、馬場の五つの集落から成り立ち、それぞれの村に名主がいました。さらに見沼新田のなかにもそれぞれが新田を持っていましたが、天保年間(1830-44)に三室新田として分村。芝原の地名の由来は、単純に芝(柴)の原が広がっていることからです。
自然に恵まれた見沼田用水あたり
 芝原の西端に、江戸時代に造られた灌漑用水・見沼代用水(みぬまだいようすい)が引かれており、とても自然に恵まれています。また郊外の住宅団地の合間に旧名主と思われる旧家や屋敷林、土蔵などが点在しています。 
 
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 交通 JR武蔵野線東浦和駅からバスで芝原下車、徒歩10分 
○蕨(わらび)/蕨市中央 
 
江戸を出て最初の宿場町
 何もないだろうと思って歩いていましたら,意外にも古い町家が残っていました。旧中山道沿いの江戸を出て最初の宿場町です。慶長年間(1596-1615)、初期の蕨宿は蕨城付近にかけて形成されていました。当時の中山道は曲がりくねっており、道幅も狭かったので、天和3年(1683)、幕府の命令により現在の直線的な往還が建設されました。
地名は在原業平や源義経の命名説?
 歩いているとところどころに古建築が見られて,うれしくなります。市名は藁火(わらび)が転訛したとか。というのは、藁(わら)に火を付け、煮炊きや暖をとったそうです
。在原業平や源義経の命名説があります。 
感動度★★
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 交通 JR京浜東北線蕨駅から徒歩20分 
○白子(しらこ)/和光市白子 
 
急な坂道に残る宿場町
 川越街道は中山道の板橋宿の追分から始まる街道で,距離は10里(39.3km)ほどです。しかし江戸への生活物資等の供給路として重要の役割を果たしています。上板橋宿,下練馬宿につぐ3番目の宿場町です。白子大坂の急坂を上り,台地を超え次の膝折宿へと向かいます。

帰化した新羅の僧が住み着いたという説
 天平宝字2年(758),帰化した新羅の僧が住み着き,新羅(しらぎ)が転訛して白子になったという説があります。江戸時代、家康の入国の翌年に、伊賀衆に恩賞として当地を給付したとか。五と十の付く日に六斎市が立って,たいへんなに賑わいぶりだったようです。 
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交通 地下鉄有楽町線地下鉄成増駅から徒歩15分
 ○志木(しき)/志木市本町
 
宿場町と河川港の町
 古くは引又宿と呼ばれていて,鎌倉と奥州に通じる小さな宿場町でした。ところが明暦2年(1656)、川越藩主の命令により,引又河岸ができてからは、六斎市が立ち、賑わいをみせるのです。つまり河川港から大消費地・江戸へ米,麦,大豆,小豆,そばなどを運び,帰りには米ぬか,灰などの肥料、日用品を積んでくるのです。一種の港町ともいえるでしょう。しかし鉄道の開通と同時に舟運も衰退し、野菜栽培が中心となりました。
両側に蔵造りの商家
 志木駅からまっすぐ志木市役所方面に歩くと両側に蔵造りの商家がポツンポツンと見ることができます。
 
 感動度★
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交通 東武東上線志木駅から徒歩20分
○膝折(ひざおり)/朝霞市膝折町 
 
   
 ▲高麗家住宅(旧脇本陣) ▲街道を歩く楽しみの多い町です 
旧川越街道の宿場町
 中世末には宿場が形成されていたが、江戸時代になって川越街道の重要性が高まり、現在地に移転したそうです。文明年間(1469-87)には4,9の六斎市が立っていました。本陣を中心に南北方向に約1kmの町並みを形成。白子宿、大和田宿との馬継ぎを行っています。中世の六斎市は江戸時代に徐々に衰退していきます。そのかわり、年末の12月24日の地蔵市に賑わいを見せました。
「名馬・鬼鹿毛が膝を折って死ぬ」
 奇妙な地名は、小栗小次郎なる者が名馬・鬼鹿毛で逃れてきましたが、その馬が膝を折って死亡したということによるそうです。
 
感動度★
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 交通 東武東上線朝霞駅からバスで朝霞警察署前下車、徒歩5分
 
 ○根岸(ねぎし)/朝霞市根岸台
 
   
▲旧高橋家住宅/国重要文化財・江戸時代中期の豪農の建物と推定されます  
国の重要文化財1軒
 語源は台地の周辺部にあって、張り出したところを根岸といい、一段と高いところを根岸台といいます。江戸時代のはじめは、旗本・内藤氏、松平氏の知行地と幕府領地。のちに幕府領のみとなります。膝折宿への助郷を勤めています。
市内最古の木造建築・金剛寺の山門
 歩いていますと、都心に通勤する人の郊外型住宅がギッシリ。そのなかに土蔵や漆喰の白壁などが見られます。金剛寺には市内最古の木造建築・山門(桃山様式)が残っています。 
 
感動度★
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 交通 東武東上線朝霞駅から徒歩20分
 
○大和田(おおわだ)/新座市大和田 
 
   
▲善光明寺山門/豪壮な江戸時代建築  ▲鎌倉古道/善光明寺の横に残る 
川越街道の宿場町
 江戸と川越を結ぶ道筋にあり、柳瀬川の渡河地が宿場になりました。この街道は小田原北条時代の街道で、川越街道の発展にともなって、大和田町は新たに形成されました。江戸時代のはじめは旗本の知行地、その後高崎藩領となります。村高は300石前後でしたが、幕末に向かって増えていきます。天保時代(1830-44)は980石弱にまで増えました。これは、幕府や藩の原野開拓の奨励策が進んだことによります。
旧茅葺き屋根や土蔵など見られます
 駅付近から歩きましたが、旧道の「大和田中町」の交差点から先に古民家が見られます。茅葺きをトタンに張り替えた農家や土蔵、植栽に囲まれた土蔵など散見できます。
 
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 交通 JR武蔵野線新座駅から徒歩20分
 
○片山(かたやま)/新座市片山
 
   
 ▲植栽の美しい旧家が続きます ▲新座市立歴史民俗資料館 
「黒目の里」と「片山七騎」
 黒目川の開けた沖積低地に位置し、「黒目の里」と呼ばれていました。江戸時代は黒目川沿いに幾つかの村々が成立。「片山七騎」と呼ばれる旗本たちに知行され、明治維新まで幕府領との相給でした。ところで片山七騎とは、旗本桜井、神谷、田中、荒川、木村、柘植、小野で、後に米津を入れて片山八騎と称しました。
●旧農家の片隅に残る
 いま古民家はほとんど見ることもありません。旧農家の片隅に見られる程度です。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 西武池袋線ひばりヶ丘駅からバスで片山小学校下車、徒歩15分
 
○道場(どうじょう)/新座市道場 
 
   
▲塀越しに古民家がのぞきます  ▲法台寺/創建時は念仏道場 
法台寺の念仏“道場”が由来か? 
 旧片山村の大字でしたが、分離独立して現町名に。法台寺が創建時、念仏道場として多くの学僧たちが学んだことが町名の由来とか。法台寺には県指定の文化財である、板碑11枚が保存されています。
古民家が点在
 歩いていて、古民家もわずかになりましたが、一歩裏手に入ると土蔵や板壁の民家を見ることができます。ただ畑地などが急速に宅地化が進んでいます。 
 感動度★
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交通 西武池袋線ひばりヶ丘駅からバスで片山小学校下車、徒歩10分
 ○金山町(かなやまちょう)/所沢市金山町
 
   
▲野老澤町造商店(元町)/江戸末期  ▲美しい看板建築/偽洋風建築の代表例 
街道沿いに残る商家
 所沢駅周辺は、高層マンションが林立。特に小金井街道沿いの古民家群は崩壊寸前です。しかし元町からさらに金山町を過ぎると、店蔵などの商家が見られます。所沢は江戸時代、秩父と江戸を結ぶ重要な宿場で、多くの市が立ち、物資の集散地。 今はわずかに街道沿いに古民家が見られます。 
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 交通 西武新宿線・池袋線所沢駅から徒歩15分
 
○寿町(ことぶきちょう)/所沢市寿町 
 
裏手に古民家群
 確かに駅付近や主要街道沿いは、高層マンションが林立しています。ところが一歩裏道に入ると、御幸町などと同様に、昔ながらの木造住宅が残されているのです。軽自動車がやっと1台通れるほどの狭い道。江戸時代の区割りがそのまま路地となって見られます。昭和43年8月1日に大字所沢の一部が分離独立して寿町になりました。 
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 交通 西武新宿線・池袋線所沢駅から徒歩6分
 ○久米(くめ)/所沢市久米
 
   
▲ 所沢郷土美術館主屋/旧平塚家住宅(国の登録文化財)  ▲手入れの行き届いた植栽に囲まれた旧家が点在します
戦国時代に「久目河宿」がありました
 地名の由来は、久米某という者が居住していたからといいますが定かではありません。戦国時代の古文書に、久米川畔に「久目河宿」があったと明記。かなり賑わっていたようです。
鎌倉古道が通ります
 鎌倉古道が通るなど、交通の要所。しかも南に駿河、甲斐、相模、上野、下野、信濃、伊豆、常陸の八国が眺望できるという八国山があります。古民家もあちらこちらに見られます。
 
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 交通 西武池袋線西所沢駅から徒歩20分
 
 ○林(はやし)/所沢市林
 
   
▲小野家住宅/江戸中期国重要文化材 ▲茶畑の合間から美しい古民家 
茶畑のなかに土蔵が点在
 地名の由来は、『新編武蔵国風土記稿』によれば、旧林村には林が多くあったとか。江戸幕府の直轄地で、江戸時代中期から本格的な開墾が進んだようです。狭山丘陵の北側に位置します。歩いていますと「狭山茶」の看板や幟が、広大な茶畑のあいだから見え隠れします。小売店や問屋も散在し、土蔵や美しい植栽も目につきます。
金井ケ原古戦場は後世に作られた古戦場名
 ところで、正平7年(1352)、新田・足利両氏の合戦場・金井ケ原古戦場の一部といわれています。ところが金井ヶ原古戦場は、その後の調査で、後世に作られた古戦場名であることがわかりました。金井ケ原という地名は、大正時代初期、陸軍測量部による地図ではじめて使われた地名で、明治時代前期の測量図にには、そんな地名は存在していないことがわかったのです。
平成21年度 第2回所沢市文化財保護委員会の会議(平成21年10月1日)で明らかにされました。その結果、文化財指定は解除されたのです。 
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 交通 西武新宿線新所沢駅からところバスで林下車、徒歩13分
 
○三ヶ島(みかじま)/所沢市三ヶ島 
 
   
▲旧和田家住宅/国の登録文化財・「クロスケの家」として活用
土蔵が見られます
 地名の由来は、『新編武蔵国風土記稿』によれば、開墾以前は原野で、人家が3区に分かれて集落を作っていました。それが三つの島のようであったことからとか。武蔵野台地は一般的に水利が悪く、陸稲や畑作、養蚕が中心でした。しかし今は、この辺りは茶畑が一面に広がっています。その中に土蔵などの古民家が散在。 
「トトロのふるさと基金」
 自然を守るために「トトロのふるさと基金」が活動しています。クロスケの家は基金の活動拠点でもあります。 
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 交通 西武池袋線小手指駅から西武バスで大日堂下車、徒歩6分
 
○坂之下(さかのした)/所沢市坂之下 
 
   
 ▲黄林閣(柳瀬荘)/国重要文化財・江戸時代・天保年間の民家の特色あり 
屋敷林のなかの古民家
 江戸時代は幕府と旗本の相給。武蔵野台地上の集落ですが、旧城村から見ると全体として坂の下にあるところから命名。しかし集落自体は台地上にあります。急坂を上ると茶畑が広がり、深い屋敷林が点々とします。なかをのぞくとかつての養蚕農家を想像します。
電力王・松永安左エ門の別荘・黄林閣
 電力の鬼といわれた実業家、また茶人としても名高い松永安左エ門の旧別荘「柳瀬荘」の主要建物です。柳窪(現・東京都東久留米市)の大庄屋であった村野家の住居として、天保15年(1844)に建てられ、昭和5年(1930)に松永氏が譲り受け、現在地に移転したものです。戦後、東京国立博物館に寄贈されました。
 
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 交通 西武新宿線・池袋線所沢駅からバスで西側下車、徒歩10分
 
 ○大井(おおい)/ふじみ野市大井
 
   
▲街道の横道や裏道にみどころ ▲旧大井村役場/国の登録文化財 
川越街道の宿場町です
 川越街道大和田宿(現・新座市)に続く宿場町。次はいよいよ川越城下という好立地にあります。本陣は有力農民大井4人衆の系譜をひく新井家が務めていました。明治に入って3度の大火(明治6年、14年、15年)にあい、いまは往時の面影はほとんど見られません。ただ古民家は裏道に点在しています。
川越藩の農兵隊組織に反対する農民たち
 慶応2年(1866)川越藩の農兵隊組織化に反対して、9ヶ村の代表が江戸の上屋敷に嘆願のために出かけました。そのあと、大井宿の旅籠屋や村役人宅に約400人が分宿して待機するという“事件”が勃発しました。農兵隊は農民が主体になって闘う組織ですが、時には一揆を鎮圧することもあるようです。 
 
 感動度★
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交通 東武東上線ふじみ野駅からバスで上苗間下車、徒歩15分
 ○川越(かわごえ)/川越市幸町
 
   
▲大正・昭和の時代も残る  ▲「時の鐘」は川越のシンボル 
   
▲大沢家住宅は明治の大火にも残る  ▲おぼろ豆腐ごはん(780円/近長) 
   
▲焼きだんご(1本80円/松山)  ▲抹茶クリーム(315円/悠々庵) 
重厚な蔵造りに驚く
 何度も訪れましたが,祭りにぶつかったのは初めてです。ただ歩行者天国になったので,写真は撮りやすかったです。
 蔵の町といわれていますが,日本でもその規模はかなり大きいほうです。川越は,1893年の明治の大火でそのほとんどが焼き尽くされました。ところが大沢家住宅の蔵が残っているのを見て,普通の商家が競って蔵造りにしたそうです。
 江戸に近いだけあって,商いも大きくその繁栄ぶりを彷彿させています。蔵も重厚で,あまりの立派さに驚かされます。市名は古代の河越(河肥)荘の名に由来します。
明治・大正・昭和・平成へ
 1番街は明治の建物が中心ですが,さらに南側の裏道を大正時代の建物を復元しています。なかなかおしゃれな喫茶店があったりします。さらに南側を昭和時代を,さらに駅近くは平成を表すとか。
 近年,蔵だけではなく,銀行などの近代建築も注目されています。これら市民による街並み、景観保護を守ろうという意識の表れでしょう。一度じっくり見てまわりたいと思います。ところで,一時的に日曜日歩行者天国が実施されました。クルマと観光客の接触事故が多かっただけに,朗報でした。
妓楼20軒、娼妓81人……
 喜多院近くに赤線すなわち廓町がありますが、『全国女性街ガイド』(昭和30年刊)によれば、妓楼が20軒、娼妓81人が居たそうです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 小江戸巡回バスで蔵の街下車すぐ 
○西小仙波町(にしこせんばまち)/川越市西小仙波町 
 
暗躍した天海大僧正
 江戸時代は川越潘領でしたが,慶長17年(1612)に家康の命により喜多院領(約580石)となりました。このとき力を発揮したのが、徳川家の参謀・天海大僧正といわれています。これにより幕府役人の干渉を受けず,御神領ともいわれました。
大正時代の妓楼も残る
 小仙波は喜多院が中心となっていますが,特に西側の西小仙波町1丁目は,料亭,旅館などが軒を並べていました。いわゆる花街です。ほとんどが建て替えられて,一般住宅になりましたが,それでも大正時代の妓楼も残されています。手すりや破風などの玄関回りを,ひと目で旧遊郭とわかります。
 
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 交通 小江戸巡回バスで喜多院下車,徒歩15分 
 ○久保町(くぼまち)/川越市久保町
 
   
 ▲七曲がり(路地)の出入り口   ▲今ではやや広くなった七曲がり 
県道沿いに参拝客を相手にした土産物店
 喜多院の北側に位置する町並みです。また成田山別院の不動尊があります。そのため県道沿いには参拝人を相手にした土産物店,仏具屋,絵馬屋、だんご屋など並びます。看板建築や木造2階建ての棟割り長屋など,ごく普通の光景です。
裏手に屈曲した「七曲がり」
 ところが県道北側の裏手に入りますと,道が細く路地のような迷路となります。かつて武家地であった所。川越潘は,襲撃に備えて屈曲した路地,いわゆる「七曲がり」を造ったのです。地割りは江戸時代のままですが,都市計画等のセットバックで,一部広くなったりしています。七曲がりは今でも見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 小江戸巡回バスで喜多院下車徒歩10分 
 ○藤間(ふじま)/川越市藤間
 
川越街道沿いの集落
 川越と江戸を結ぶ旧川越街道沿いの集落です。街道は村内を南北に貫いています。江戸時代は、はじめ旗本・米津氏の知行で、元禄11年(1698)からは川越藩領となります。明治6年(1873)に藤馬村から藤間村に改名,現在に至ります。
街道から横道に入ると往時の面影
 未だに古民家が残り,横道に入ると往時の面影が感じられます。しかしかつて名物だった杉並木も,今は寂しい限りです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 東武東上線上福岡駅から徒歩20分 
○岸(きし)/川越市岸町 
 
江戸との物流は街道と舟運が中心
 江戸から歩いて不老川にかかる田代橋を渡ると岸の集落に入ります。また不老川はまもなく新河岸川と合流するのですが,江戸との物流は街道と舟運が中心。特に新河岸から積み込んだ,川越周辺の農産物は,そのまま江戸まで直行。また逆に新河岸で陸揚げされた荷物は,市内の問屋へ運ぶとき,必ずこの先の急坂で難所・烏頭坂(うとうさか)を超えます。坂の途中には地元の守り神・熊野神社があり,いまは桜の名所になっています。
街道筋と裏道に残る古民家
 もともと、畑作を中心の農家が多かったのですが、今は郊外型住宅地。古民家は,街道筋と裏道にわずかに残る程度。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武東上線新河岸駅から徒歩15分
 ○笠幡(かさはた)/川越市笠幡
 
   
▲笠幡駅近くで横道に入りました  ▲高麗街道でのもう一つの長屋門 
   
▲笠幡の守り神・尾崎神社  ▲このあたりは通称さざんか通り 
高麗街道沿いの長屋門
 江戸時代は川越藩領。高麗(こま)街道沿いの集落で,いまでは数軒の長屋門のある農家が見られます。また街道沿いにある尾崎神社は杉の木で覆われ,森閑とした雰囲気。このあたりは下の宿,神田宿とも言われています。
昭和15年に川越線・笠幡駅の開設で発展!
 村内には日光・八王子往還が通ります。ひょっとして“千人同心”が通過したかも知れません。明治に入って生徒数68の公立小学校が開設されました。昭和15年川越線笠幡駅ができると、周辺の宅地開発が一気に進みます。  
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR川越線笠幡駅から徒歩25分
 ○高麗本郷(こまほんごう)/日高市高麗本郷
 
   
 ▲5棟が残る旧新井家住宅   ▲春は桜と菜の花の巾着田 
 ●豪華な古民家と巾着田
 なんといっても巾着田(きんちゃくだ)で知られています。高麗(こま)川の蛇行で造られた田んぼで,その形が銭を入れる巾着袋に似ている所から名付けられたとか。その巾着田へ行く途中にわずかな古民家が見られます。
豪壮な旧新井家住宅
 また県道15号線沿いには,大きな石垣で造られた立派な古民家がそびえています。江戸時代末期から明治時代にかけて造られた住宅で,主屋,客殿,納屋,土蔵などで構成。平成20年,日高市が約1億6千万円で買い上げました。今後は観光の拠点にするとか。「高麗」とは、駿河、甲斐、相模などに居住していた高麗人を武蔵国に移住させて、高麗郡を設置したそうです。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 西武池袋線高麗駅から徒歩15分
 ○飯能(はんのう)/飯能市仲町
 
点々と残る蔵造りの商家
 仲町から本町にかけて、市内でも飯能銀座のある最も賑わうところです。通りに沿って蔵造りの商家や瓦葺きの出格子窓のある町家も残り、それらが混在している町並みです。ただ、ずーっとつながって残っているのではなく、あちこち散らばっているのです。
古民家はいずれ消えゆく運命…
 ほとんどが明治時代中期の建物です。ただ、都市化の波が押し寄せており、いずれの古民家も消えゆく運命です。また洋館も少し残っている程度。

 市名は、中世の武蔵七党の一つ丹(たん)党に属する判乃(はんの)氏が所領することに由来するそうです。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 西武池袋線飯能駅から徒歩10分 
 ○吾野(あがの)/飯能市坂石町分
 
山間の小さな宿場町
 元禄13年(1700),坂石村のうち秩父往還沿いの宿場部分が分村し独立したのです。宿場といっても当初は馬継ぎとしての役割りでしたが次第に発展,盆と正月には市が立ちました。それでも山間地域だけに,わずかな畑地の他に炭焼き,木材の伐採,荷物担ぎなど。また女たちは養蚕,機織り,紙漉などで日銭を稼ぎました。
往時の面影を残す
 秩父往還沿いには,いくつかの宿場の面影を感じるところがありますが,吾野宿はもっとも色濃く残しているところでしょうか。吾野は合併前に上我野郷に属していたことから命名。正丸峠下に位置した静かな宿場町です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 西武池袋線吾野駅から徒歩10分 
○東松山(ひがしまつやま)/東松山市本町 
 
二つの街道の宿場町
 徳川家康の関東入国にともない,松山城には松平家が1万石で入封。しかし慶長6年(1601)に浜松城に移封され,松山城は廃城となります。とはいうものの、日光裏街道や比企松山道の宿場町として,在郷町として,依然賑わいを見せていたのです。江戸の後期になると,杉戸宿,桶川宿はもちろん,遠くは品川宿,藤沢宿への助郷を命じられるという無茶な命令に,徐々に農民の疲弊が始まります。
愛媛県松山市と区別するために“東”を付ける 
 本町1丁目や材木町周辺には,蔵造りの商家や昭和初期の近代住宅等が混在している光景を見られます。ところで、なぜ東松山かというと、愛媛県松山市と区別するためだとか。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 東武東上線東松山駅から徒歩20分
 ○桶川(おけがわ)/桶川市寿
 
    
▲矢部家住宅店蔵/市の指定文化財   ▲島村老茶舗/国の登録文化財
   
 ▲島村家三階建て蔵/国登録文化財 ▲小林家住宅/国登録文化財 
   
 ▲レンガ造りの倉庫も残る ▲街道の風景に溶け込みます
蔵造りの商家がいたるところに残る
  旧中山道の宿場町の一つで,江戸時代から良質な麦や紅花の集散地として栄え,市のシンボルにもなっています。本陣や脇本陣は残っていませんが,蔵造りの商家や町家は点在し,往時の面影をあちこちに残しています。
国鉄桶川駅開設で商店街を形成
 古くは桶皮とも書きました。江戸時代のはじめは旗本・西尾氏の知行。元和4年(1618)から幕府領、寛永16年(1639)からは忍藩領。明治16年に国鉄高崎線が開通、明治18年に桶川駅が開設されました。すると駅中心に商店街が形成されます。
絶えない明治からの風水害
 しかしいいことばかりではありません。明治23年、明治31年ともに荒川・元荒川の氾濫による風水害で、しばしば大きな被害を受けます。とりわけ昭和22年のカスリン台風では田畑7町余の被害を受けました。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR高崎線桶川駅から徒歩10分
 
○鴻巣(こうのす)/鴻巣市本町 
 
   
▲加賀藩の紋所の入った法要寺   ▲木村木材工業(株)/事業所と住宅
中山道7番目の宿場町
 鴻巣といえばひな人形で有名です。天正年間(1573-1644年)、京都から伏見人形師が移り住んだためとか。今でも人形感謝祭が毎年開催されています。
 さて鴻巣宿は,江戸時代に整備され,中山道・日本橋から数えて7番目の宿場町です。また4,9日の六斎市場町としても発展。ところどころに蔵造りの商家や町家などが見られます。

徳川家ゆかりの勝願寺、加賀藩ゆかりの法要寺
 鴻巣宿には二つの名刹があります。一つは瓦に葵の紋所を入れた徳川家ゆかりの勝願寺,瓦に加賀藩の紋所を入れた法要寺があります。地名の由来は、古代武蔵国の国府で「国府の洲」(こうのす)だそうでが、諸説入り乱れています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR高崎線鴻巣駅から10分
 
○草加(そうか)/草加市神明 
 
日光街道2番目の宿場
 東京のベッドタウンとして,大きく発展していますが,日光街道の千住宿についで2番目の宿場町であることは,あまり知られていません。草加宿が開かれて400年になり,「今様,草加宿」と称して,数々のイベントが実施されています。
名物の「草加せんべい」が目立ちます
 とはいうものの,往時の面影を探すのは難しいのが実情です。旧日光街道を歩きましたが,古い町並みは残っていません。かろうじて点在する程度で,ほとんどが明治の建物です。歩いていると名物の草加せんべいの看板が気になりました。地名の由来は、松尾芭蕉『奥の細道』の第一宿である草加宿からだそうです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武伊勢崎線草加駅から徒歩10分
 
○越谷(こしがや)/越谷市越ヶ谷 
 
宿場町としては県内最大規模を誇ります
 草加宿につぐ江戸から3番目の宿場です。東京からすこしずつ離れると,さすがに古い建物が残るようになってきました。というのも越ヶ谷宿は埼玉県内でも最大規模を誇る宿場町です。徳川家康も,鷹狩りでたびたび訪れたそうです。そのせいか本陣,脇本陣などがありました。
蔵造りの商家が点在
 越谷は人口約32万人と県下では5番目に人口の多い町でもあります。地名の由来は、“越しの谷”、すなわち台地の麓の低湿地帯に位置したからといいます。
 越谷駅を出て,旧日光街道を歩きます。交通量は意外に多く,ところどころ蔵造りの商家が目に付きます。しかしその数はかなり多いように思えました。  
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武伊勢崎線越谷駅から徒歩10分
 
 ○粕壁(かすかべ)/春日部市粕壁
 
   
▲浜島家住宅土蔵/国登録文化財  ▲古民家/裏通りに多く見られる 
日光東照宮が完成してから賑わう
 日光街道の粕壁宿は,千住宿から数えて,4番目の宿場町でもあります。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成してからは,将軍家や諸大名の参拝で宿場はたいへんなにぎわいとなります。
 粕壁宿は,上宿,中宿,下宿,新宿など8つの集落に分かれており,名主3軒,本陣,寺院8軒,旅籠45軒もあり,さらに商家,農家の家並みなど159軒にのぼった大きな町を形成していました。
土蔵造りも見られます
 いまは,土蔵などが点在する程度で,ちょっと寂しいですが,少し離れた所には木造の古民家群も元気で見ることができます。地名・春日部の由来は、新田義貞の家臣・春日部氏によるそうです。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 東武伊勢崎線春日部駅から徒歩10分
○倉常(くらつね)/春日部市倉常 
 
   
 ▲新井家住宅/国の登録文化財 ▲家屋を覆い隠す大きな屋敷林 
遠くに富士山が見られます
 沖積地で比較的肥沃な土地ですが、江戸時代の村高は約800石。広々とした田畑を歩いていますと、遠くに雪をかぶった富士山が見えます。広く見えるのも屋敷林が点々とあり、奥行きが感じられるからでしょうか。散居村(さんきょそん)の典型が見られます。地名の由来は、人名からとも言われますが、詳細は不明。
こぢんまりとした散居村
 散居村とは、広大な耕地のなかに民家(孤立住宅)が散らばって点在している集落です。ポツンと一軒、屋敷林に囲まれていることが多い。一般的は島根県の出雲平野、香川県の讃岐平野、富山県の砺波平野が典型例です。
 
感動度★
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 交通 東武スカイツリーライン東武動物公園駅からバス中椿下車、徒歩25分
○立野(たての)/春日部市立野 
 
   
▲旧名主を思わせる大きな旧家   ▲植栽や大きな樹林で家屋を守る
旧家が点在しています
 江戸時代は幕府領で、初期から新田開発が盛んでした。当初の立野新田から立野村に改名したのは延宝3年(1675)と推定。村高は580石の農業地帯ですが洪水の被害が絶えなかったとか。いま広々した畑作地域を歩いていますと、旧家を思わせる農家が点在しています。
村民たちの困窮具合を語る天明の飢饉の史料
 筒井家の古文書に、天明の飢饉で立野村に関する「夫食拝借金額」には、当時の村民たちの困窮具合が明記されていて、貴重な資料とされています。 
感動度★
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 交通 東武スカイツリーライン春日部駅からバスで立野下車、徒歩10分
 
○樋籠(ひろう)/春日部市樋籠 
 
江戸時代に下総国から武蔵国へ編入
 江戸時代は幕府領で幕末続きます。寛永年間(1624-44)に下総国から武蔵国に編入されました。ところで村名の由来は、諸説ありますが、「ヒゴメ」が本来の読み方。樋とは用水の樋、すなわち水を遠くへ運ぶトイ、管などのこと。「コメ」とは集まるという意味で、用水の管などが集まるところという意味になります。
金野井往還沿いに旧家
 集落の端を金野井往還が通ります。今の県道321号線(樋籠-西金野井)とほぼ重なります。旧往還沿いに旧家が点在します。かつては名主クラスだと推定。外塀が石積みの上に腰板塀と瓦葺き、重厚さを意識させてくれます。 
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 交通 東武スカイツリーライン春日部駅からバスで東高校入口下車すぐ
 
○杉戸(すぎと)/杉戸町杉戸 
 
かなり賑わっていた宿場町
 日光街道粕壁宿の次の宿場が杉戸宿です。千住宿から数えて5つめです。天保14年(1843)の調査によると,当時は本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠46軒,家屋数は365軒あったと記されていました。また人口は男789人,女874人だったそうです。また月の5と10の付く日に市が開かれていて,かなり賑わっていました。
●日光街道沿いを歩く
 杉戸駅を出てると,県道373号線に出ます。そこを左折してしばらく歩くと,古い町家などが見ることができます。土蔵や格子のある商家が懐かしいです。地名の由来は、近世の宿場町からとったそうです。でも語源は日光へ杉並木が続く入口にあたるという説もあります。
 
感動度★★
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 交通 東武伊勢崎線杉戸駅から徒歩15分
 
○椿(つばき)/杉戸町椿 
 
農業を中心にした集落
 中川左岸の沖積地に位置する農業を中心とした集落。古墳時代の住居跡も確認されており、比較的肥沃な土地だったと思われます。
典型的な散居村です
 いま歩いていますと、屋敷林があちこちに点在しています。そしてその周囲は田畑で、つまり典型的な散居村(さんきょそん)といえます。もちろん現代住宅や、物流センターに転用されたりと、一部の景色に変化が見られますが、小規模とはいえ散居村の姿をとどめているのは珍しいといえます。屋敷林のなかをのぞきますと、土蔵などの古民家も見られます。ところで地名の由来は、崖地の「つばける(崩れる)」の転訛説が有力です。 
感動度★
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 交通 東武伊勢崎線東武動物公園駅からバスで中椿下車、徒歩10分
 
 ○幸手(さって)/幸手市中
 
   
▲岸本家住宅(国の登録文化財)   ▲平井家住宅・大正11年築(1922)
   
▲飯村医院・大正12年築(1923)  ▲高浜商事・昭和9年(1934)築 
   
▲竹村家住宅・昭和初期築  ▲永文商店・築年不明 
かなり残っている商家群
 江戸中期には,本陣1,旅籠27,人口も4000人弱と大きくふくれあがりました。これは日光街道と日光御成街道の合流点の宿場であったことが大きいでしょう。また元和3年(1617)、徳川家康の遺骸を久能山から日光へ移すとき、この地の聖福寺に一時安置しました。いずれにせよ農民や有力な商家の層も厚く,かなり繁栄しました。しかし正保4年(1645)には、そんな有力商家も村民たちの打ち毀しにあっているのも事実です。
地名の由来にアイヌ語説もあります
 今、改装した建物を加えると古民家はかなりの数が残っています。地名の由来は乾いた(サッツ)原野からその名が起こったというアイヌ語説もあります。
 
感動度★★
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 交通 東武日光線幸手駅から徒歩10分
 
 ○栗橋(くりはし)/栗橋町東
 
日光街道で唯一関所あり
 江戸時代は利根川を越えるための旧日光街道・宿場町として発展。本陣,脇本陣,旅籠などが多く存在しました。また北の外れに,日光街道ではただ一つの栗橋関所がありました。また渡船場もあり,現在は碑が建てられています。現在も多くの古民家が点在していますが,ほとんどが看板やシャッターなどで,建物全体を見ることができないのが残念です。
静御前の終焉の地
 栗橋宿は静御前(しずかごぜん)の終焉の地だそうです。栗橋駅前に墓(碑)が立っており,花が絶えません。町名の由来は、江戸時代初期、栗橋村(現・茨城県五霞町)の移住者によって開墾されたことからだそうです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武日光線栗橋駅から徒歩20分
 
○加須(かぞ)/加須市中央 
 
古民家も残る宿場町
 江戸時代は、加増とも書かれました。また河洲(かす)の転訛説もあります。中山道の脇往還(鴻巣宿~栗橋宿)の宿場町で,近隣の宿場への人馬継立をする役目もありました。毎月5と10日の六斎市が開かれ,賑わいました。
家康の鷹狩りで急遽造られた加須鴻巣道
 加須は加須鴻巣道沿いの集落で、脇往還でした。中山道鴻巣宿から分かれて加須で忍栗原(おしくりはら)道に接続します。実は、慶長12年(1607)、徳川家康が鷹狩りに出かけることが決まったため、永井信濃守が普請奉行となり、沿道の9ヶ村の村民を総動員して突貫工事をしたという道路です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武伊勢崎線加須駅から徒歩10分
 
 ○騎西(きさい)/加須市騎西
 
   
▲大和屋商店/土蔵を改築  ▲騎西城の模擬天守・中は資料館 
城下町から在郷町へ変遷
 寛永9年(1632)、藩主の大久保忠職(ただもと)が美濃国・加納(岐阜市)へ転封により廃藩、騎西城は廃城となり,城下町から在郷町として変換していきました。『新編武蔵国風土記稿』では、騎西町場と明記され、私市(きさいち)城(山根城)で、武家地を根古屋と呼びました。他の商家などのある地域を騎西町と呼んだという。
川越藩からさらに前橋藩へ変遷
 廃城から幕府直轄、さらに川越藩へ移るのです。さらに前橋藩へ変わります。いま国道122号線沿いに,少し古民家が散見できる程度で,残念です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武伊勢崎線加須駅からバスで、騎西総合支所前下車すぐ
 
 ○行田(ぎょうだ)/行田市行田
 
   
▲残された足袋蔵で町おこし  ▲普通の棟割り長屋も多数残る 
明治には鉄道馬車や電話も開通!
 江戸時代は忍(おし)藩領。また日光・八王子道の宿場町でもあります。城下町,宿場町,古墳の町ですが、明治32年に当時としてはまだ珍しかった鉄道馬車が行田-吹上間を走ったそうです。さらに明治42年に電話が開通、かなり繁栄した町だったと想像できます。
●珍しい足袋蔵の町で町おこし
 そして足袋(たび)蔵の町でもあります。一時は足袋の生産額は全国で7割を占めたこともあります。市内には約70棟の足袋蔵が残っているとか。
その足袋蔵を生かして、町おこしをはじめています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 秩父鉄道行田市駅から徒歩10分
 
 ○熊谷(くまがや)/熊谷市仲町
 
   
▲熊谷聖バウロ教会/大正9年築。設計はウイリアム・ウイルソン  ▲星渓園/回遊式庭園を中心に
数寄屋風建築が並ぶ
   
▲熊谷寺/“ゆうこくじ”と読みます。
建久6年(1195)の創建
  
旧中山道/いま歩いてみますと、古民家が残り往時を彷彿させます 
旧中山道の宿場町に登録文化財
 創業100年を超える地元の老舗百貨店・八木橋の近くに旧中山道の碑が建っています。江戸時代は宿場町として発展しました。いまのんびりと歩ける距離はわずかですが、幾つかの古民家を見ることができます。また八木橋の裏手には、国の登録文化財の聖パウロ教会、熊谷寺があり、歴史の中心地。また一ノ谷の戦いで名をはせた熊谷直実ゆかりの地でもあります。
曲谷(くまがや)が転じた?
 市名の由来は、この地が荒川の扇状地で、なおかつ氾濫源だったところから、“曲谷”(くまがや)が転じた説など諸説あります。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR高崎線熊谷駅から徒歩10 分
 
○妻沼(めぬま)/熊谷市妻沼 
 
   
▲坂田医院旧診療所/国の登録文化財   ▲妻沼聖天山/本殿聖天堂は国宝
妻沼聖天山・本堂は国宝!
 この一風変わった地名は、中世、利根川右岸に洪水によって2つの沼ができました。女体様を祀る沼を女沼といい、近世になって目沼となり、さらに妻沼となったわけです。
 しかし妻沼を関東一円に一躍有名にしたのは、妻沼聖天で、町は江戸時代からの門前町として発展しました。近代になって、本堂の「聖天堂」は国宝に指定されており、参拝客が1年中絶えません。
聖天さま南通沿いに広がる古民家群
 古民家は、聖天様南通り沿いにあり、雑貨店、土産物店などが並んでいます。さらに通りから一歩裏手にも土蔵や商家、旧養蚕住宅などが散見。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR高崎線越谷駅からバスで妻沼聖天前下車すぐ
○樋春(ひはる)/熊谷市樋春 
 
   
▲平山家住宅/江戸時代中期の典型的な農家建築。国の重要文化財 
大正時代に乗合馬車が開通
 町名は旧樋口村の「樋」と旧春野原(しゅんのはら)村の「春」を組み合わせて命名。荒川の右岸にあり、農業が盛んで、大麦の生産が多かったようです。大正時代までは乗合馬車が一日数便通っていました。他の地域と比較して、開通が遅かったようです。やがて自動車の発達で、バスに代わります。戦後は近代農業経営に変わりました。
国の重要文化財・平山家住宅
 樋春地区の北部にある平山家住宅は、江戸時代中期の建物で、関東地方でも有数の農家住宅です。入母屋造りの大屋根は低く巨大。60畳敷の土間と5つの部屋を有します。昭和50~52年にかけて解体修理を行っています。いま町並みを歩いて見ますと蔵や旧養蚕住宅などが見られます。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR高崎線熊谷駅からコミュニティバスでJA直売所・なご味下車徒歩5分
 ○冑山(かぶとやま)/熊谷市冑山
 
   
▲根岸家住宅/江戸時代は名主まで務めた豪農。市の指定文化財  ▲友山武香ミュージアム/根岸家住宅長屋門の一部をを改造 
『新編武蔵国風土記稿』の出版と販売
 冑山の豪農で名主の根岸武香は内務省地理局から『新編武蔵国風土記稿』の出版と販売を獲得。さらに明治22年に15年間の期限付きで版権を譲受。図版の版木の一部が残されています。今このあたりに農家があちこちに見られます。
名主の根岸家は武州一揆の来襲を受ける
 戦国時代の根岸家は松山城主・上田宗調に仕え、天正18年(1590)に徳川家の旗本になっています。同家は、慶応2年(1866)の武州一揆には、6月15日と17日に一揆の来襲を受けています。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR高崎線熊谷駅からコミュニティバスで箕輪下車、徒歩10分
 
 ○深谷(ふかや)/深谷市田所町
 
   
▲市内にはレンガ造りが残ります  ▲街道の裏手にも古民家が多数 
造り酒屋が頑張っています
 旧中山道の宿場町で江戸から数えて9番目にあたります。旅籠,各種商家などが多く,商人の町と言えます。本陣1軒,脇本陣は4軒あったと伝えられています。また造り酒屋も多く,現在でも滝澤酒造、藤橋藤三郎商店、丸山酒造などが頑張っています。
看板の後ろに蔵造りの商家が見え隠れ
 歩いていますと,いくつかの蔵や格子戸のある町家を見ることができます。しかし多いのが,看板に隠れた商家です。正面から見るとわかりませんが,斜めから見ると蔵造りであることがわかります。またレンガ造りの建物が目につきますが,これは日本最初のレンガ工場ができたからです。地名は台地の下に位置する深い谷が由来だそうです。

新一万円札に地元出身の実業家・渋沢栄一
 20年ぶりとなる新しい紙幣が2024年7月3日から一万円札が発行されました。一万円札の肖像が深谷市出身の実業家・渋沢栄一が採用されたのですから、地元は大騒ぎです。。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR高崎線深谷駅から徒歩10分
 
 ○中瀬(なかせ)/深谷市中瀬
 
100円バスが深谷ネギ畑を走ります
 豪華なレンガ風の深谷駅前から,市の100円バスに乗ります。車窓からは,名産の深谷ネギの育った光景が広がり,とてもいい気分です。
●大型の旧養蚕住宅がチラホラ
 利根川沿いに広がる中瀬地区には,通常の2階建ての屋根の上にさらに小降りな長い屋根が造られています。いわゆる越屋根というもので,その大きさに驚きます。川沿いのため屋内の通気性を保つためとか,明かりとりの役割があるとか。しかし養蚕住宅であったことに気づく人は少ないようです。

 歩きながらや,車窓からなど数えて,ざっと5軒ほど目に付きました。まだあると思います。交通の便が悪く、帰りはタクシーで帰りました。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR高崎線深谷駅からくるりんバスJA中瀬支店前下車徒歩10分
○本庄(ほんじょう)/本庄市中央 
 
   
▲旧本庄商業銀行倉庫/国登録文化財  ▲街道沿いには多くの古民家 
   
 ▲旧本庄警察署/県指定文化財 ▲仲町郵便局/国登録文化財 
   
▲金鑚(かなさな)神社/文化財多数 ▲多くの看板建築も見られます 
中山道では最大の町へと発展
 中山道の本庄宿は,江戸日本橋を出発して10宿目にあたります。そして越後,信州の分岐点となったところだけに大きく発展します。天保14年(1843)には人口4500余人,家数1212軒にまでふくれあがるのです。文句なしに中山道では最大の都市へと発展します。それは同時に養蚕の町としても発展します。
町や街道沿いに蔵が多い
 旧中山道を歩いていますと,驚くことは蔵がいたるところに見られるのです。商家,寺院も多く,ところどころ洋館や看板建築もたくさん見ました。県や市指定の文化財の多いのが特色。地名は武蔵七党の一つ、児玉党に属する庄氏の末裔・本庄氏の居城名からも由来説。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR高崎線本庄駅から徒歩15分
 
 ○児玉(こだま)/本庄市児玉町児玉
 
武蔵七党・児玉党のゆかりの地
 戦国時代,武蔵七党の一つ児玉党ゆかりの地で,鎌倉街道の宿駅でもありました。また古来は所沢から藤岡(群馬県)へ通じる児玉往還の道筋で,藤岡から先は信濃,越後へと通じました。しかし江戸時代に中山道が整備されると,中山道の脇往還になってしまいました。
佐渡へ配流途中の日蓮が宿泊
 文永8年(1271)10月、児玉六郎時国の館に、佐渡へ配流(はいりゅう・島流し)途中の日蓮がこの地に宿泊。文永11年(1274)に日蓮が赦免されたあと、時国は日蓮の法華宗に深く帰依しました。日蓮亡き後、自らの館を捨てて寺を建立、東光山・玉蓮寺としました。境内は児玉氏の館跡だったといいます。
古民家が看板で隠れる
 江戸後期は穀物や絹などの商いが盛んで,市が立ち大変な賑わいでした。特に付近でとれる良質の粘土を原料とした児玉瓦は有名。いま古民家は多いのですが,看板等で覆われているのが残念です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR八高線児玉駅から徒歩12分
 
○川口(かわぐち)/川口市本町 
 
   
▲銅板葺きの町家2軒が川口宿入口の目印です  ▲鋳物工業で財をなした人の家屋が見られます 
   
▲錫杖寺は徳川将軍の休憩所  ▲川口宿本陣門を移築されました 
   
▲旧鋳物問屋鍋平邸・国登録文化財  ▲レンガ造りの発電所跡
   
▲永瀬家の3代目が居住  ▲永瀬留十郞工場・明治4年操業 
吉永小百合主演『キューポラのある街』の舞台
 江戸時代は日光御成街道の宿場町,市場町として栄えました。しかし川口の名を一躍全国に広めたのは,吉永小百合主演の『キューポラのある街』の舞台になったからです。近くを流れる荒川の水運は鋳物で作った日用品生産を飛躍させました。しかし,騒音や地盤沈下で軽工業は衰退。キューポラ(鋳鉄溶鉱炉)の数も激減しました。
いまもわずかに残るキューポラ
 いま本町にはかろうじて蔵造りの古民家が残されています。またキューポラも一部で残されており、工場見学で運が良ければ見られるかもしれません。ただ隣の金山町には,鋳物で繁栄した当時の豪邸が残されているのが注目されます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR京浜東北線川口駅から徒歩15分
 
 ○鳩ヶ谷(はとがや)/川口市桜町
 
日光御成道の宿場町
 旧鳩ヶ谷市です。日光御成道というのは,日光街道と中山道の中間にある街道で,江戸の駒込追分から岩渕宿,川口宿を経て,鳩ヶ谷宿へと続いたのです。本陣は真光寺に移築されており,残っているだけでも幸いです。
郷土資料館で資料をもらってから歩く
 鳩ヶ谷駅から10分ほど歩くと,日光御成道に突き当たります。郷土資料館で資料をもらって,のんびり歩けばいいのですが,この日は突然の豪雨で,しばらく雨宿り。蔵造りの建物や石造りの洋館などが点在していました。市名の由来は、『和名抄』の発度郷(はつどごう)の発度が鳩に転訛したという説。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 埼玉高速鉄道鳩ヶ谷駅から徒歩15分
 
 ○小川(おがわ)/小川町大塚
 
   
 ▲街道沿いには古民家が続きます ▲割烹旅館二葉/国の登録文化財 
   
▲町屋も下見板壁で風情があります  ▲長い壁も落ち着きます 
「小川和紙」の生産で発展
 小川町といえば「小川和紙」で知られています。小川和紙は,江戸時代商人の大福帳としての需要が拡大し,一大産地として発展しました。そのような和紙を中心に発展しただけに,商家も和紙が中心で,紙漉き屋は1000軒もあったそうです。
「武蔵野の小京都」
 今は往時のほどの生産されているわけではないですが,和紙が見直されているのも事実です。和紙工房も多くなりました。駅周辺を歩きますと,土蔵や格子戸のある商家などが目に付きます。「武蔵野の小京都」といわれるゆえんです。

 地名は町内を流れる兜川を小川とよんだことが由来です。
駅前に情報センター
 駅前にある壱押屋は,喫茶店でもありますが,市内の各種パンフレットなどがたくさん置いてあって,情報センターの役割を果たしています。この日はたまたま暑い日だったので、かき氷を注文して一息つきました。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 東武東上線小川町駅から徒歩10分
 
○越生(おごせ)/越生町越生 
 
絹織物産業繁栄の名残り
 越生といえば梅林が有名です。毎年シーズンになると大勢の花見客で賑わいます。そんな越生は,江戸時代から養蚕が盛んに行われ,市場が開かれていました。特に明治,大正,昭和の初期までは,絹織物の集散地として繁栄したのです。
蔵造りの商家が点在
 町を歩きますと,1200年の歴史を誇る法恩寺なども見られますが,かつての絹織物の盛んだったころの蔵造りの商家などが,点在しています。
なおモダンな大正時代の洋館・絹織物組合会館は,新築中でした。町名の由来は、鎌倉時代の武蔵七党の一つ児玉党に属する越生氏の所領・越生郷からきたとか。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武越生線越生駅から徒歩5分
 
 ○秩父(ちちぶ)/秩父市本町
 
   
▲武甲酒造柳田総本店/国登録文化財   ▲市内には数多くの古民家が点在
   
▲街道沿いにもたくさんの町家残る  ▲秩父鉄道を走るC58蒸気機関車 
最近では蒸気機関車で有名になりました
 夜祭りや札所巡り、セメント業などで知られた町です。国道299号線(旧秩父往還)が町の中央を走り、その両側に町家や蔵造りの商家などが見られます。また地下水が豊富なためか、造り酒屋も多い。
秩父は裏道が面白いです
 この街道沿いのにぎやかさとは逆に、ちょっと裏道に入ってみますと、昔ながらの町家が多く見られます。町並みは裏道が面白いです。秩父市では伝統的建築物を登録文化財として、積極的に保存に乗り出しました。市名の語源は、イチョウの木を古語で“チチ”といい、イチョウの生える地、チチ生(ちちぶ)からきたという説もあります。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 西武秩父線西武秩父駅から徒歩15分
 ○贄川(にえがわ)/秩父市荒川贄川
 
秩父甲州往還の宿場町
 秩父甲州往還では秩父に次ぐ宿場町。上州や甲州への分岐点であったために,物資の集散にも好都合で,六歳市や雛市も開かれました。江戸時代のはじめは幕府領、続いて館林藩、川越藩、前橋藩と変遷。村高は400石とわずか。絹、タバコ、横麻(横糸に麻、縦糸に絹)、大豆、楮、干し柿などを出荷。農閑期には材木を筏に流して、駄賃稼ぎをしたそうです。
街道沿いに古い町並みが残っています
 こんな山のなかでも江戸時代は36軒の家並み続きました。いまはわずかですが、街道に沿って短冊状に古い町並みが見られます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 秩父鉄道三峰口駅から徒歩10分
 
 ○小鹿野(おがの)/小鹿野町上町
 
上州街道の宿場町
 どのような町なのか、全くわからずに行きました。「小鹿野歌舞伎」で有名だ、と言われてもわからなかったのです。秩父往還から分岐した上州街道沿いの町です。どちらかといえば,中山道の裏街道の役割を果たしていたようです。
多くの歴史的建造物が残ります
 現在,小鹿野役場前から原町交差点までに集中的に残っています。江戸時代末期の蔵が残されており、町の文化財に指定されています。また代官の本陣も残されています。意外にも古い町並みが残されていたので、驚きました。ちなみに地名の由来は、『和名抄』に見える巨香(おが)郷の地であることからだとか。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 西武秩父線西武秩父駅からバス小鹿野役場前下車5分
 

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