佐賀県(さがけん)

○柳町(やなぎまち)/佐賀市柳町 
 
凝縮された古建築群
 長崎街道沿いに広がっています。歩いていて気がつくのは,旧古賀銀行の近代建築,馬場家や中村家住宅の町家,武家屋敷風の古賀家住宅などさまざまなど年代を超えた歴史的建造物が凝縮していることです。 
江戸時代は47の屋敷がありました
 江戸時代は佐賀城下33町の1つ。町の長さは113間9尺(約206m)で、東の角と西の蓮池町の境の2カ所に木戸が設けられていました。元文5年(1740)の記録では屋敷数は47で武士や足軽などが最も多く、桶屋や提灯屋などの職人もわずかに住んでいたようです。
著名の人材を輩出した蘭学医・島本良順の墓があります
 一向宗専福寺の境内には幕末の蘭学医・島本良順の墓があります。島本は長崎でオランダ医学を学び、蓮池町で蘭学塾を開校。後に藩医学寮の寮鑑に任じています。何より彼の功績は、伊東玄朴、山村良哲、大庭雪斎などの著名な蘭学医を輩出したことです。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは佐賀市歴史民俗資料館に停めました
 
○八幡小路(はちまんこうじ)/佐賀市八幡小路 
 
たびたび火災に見舞われる旧武家屋敷群
 江戸時代からの呼び名です。佐賀城の北側に位置する上級武士たちの武家地です。弘化2年(1845),居住する武士は28人で総石高は1707石だそうです。ところが,このあたりは度々の出火で,多くの家屋が焼失しています。そのこともあるのか,文化年間(1804-18)の古地図を見ると,北半分が切り離され、町家になっています。町方役所が設置されたからです。
長屋門などが立つ落ち着いた町並み
 いま歩いてみますと,各役所や国の出先機関などが集まっていますが,長屋門などいくつかの古民家も見られ,落ち着いた町並みを見せています。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは護国神社駐車場に停めました
 
○水ヶ江(みずがえ)/佐賀市水ヶ江 
 
佐賀城下で最大の武家地でした
 佐賀城の東側にあり,長崎街道から南に下がる位置にあり,江戸時代は水ヶ江小路ともいいました。弘化2年(1845)には,武士数が54人,総石高3120石,中級武士は23人で,諸小路のなかで最大級の武家地でした。
大隈重信の旧宅が大隈記念館に
 明治に入ると佐賀-諸富間に馬車鉄道が当地を経由しています。ところでここで忘れてはいけないのが,大隈重信です。旧宅は国の重要文化財に指定されています。このあたり,武家屋敷の門だけが残ったりしていますが,往時の面影は薄くなっています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは佐賀県立病院好生館駐車場に停めました
 
○与賀(よか)/佐賀市与賀町 
 
   
▲島薬局(昭和12年築)偽洋風建築で円形が特徴  ▲与賀神社/朱塗りの楼門は国の重要文化財です 
水路は江戸時代のまま残ります
 地図を広げると佐賀城の西側は水路の多いのがわかります。江戸時代は武家地でしたが,いまは住宅地になっています。しかし水路は江戸時代とほとんど変わらず残っています。
与賀神社周辺にも古民家
 もうひとつ佐賀市の西半分の守り神だったという与賀神社がど真ん中に鎮座。祭神は与止日女神(よどひめのかみ)で,朱塗りの楼門は室町時代後期に建立とされています。なお楼門は重要文化財です。この与賀神社の周辺に,幾つかの古民家が残されており,散歩にはいいかもしれませんが,交通量の多さが難。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは護国神社駐車場に停めました
 
○長瀬(ながせ)/佐賀市長瀬町 
 
   
▲藩内の長崎街道は、塩田川の氾濫でしばしばルートが変更になっています 
地割りがノコギリ型の家並み
 佐賀城の北側に折れ曲がりながらも続いている長崎街道が通っています。そのなかで長瀬町,八戸町あたりに地割り(上の写真参考)がノコギリ型状の家並みがあります。ノコギリ型は全国各地の城下町に見ることができます。
長瀬村から鍛冶師を移住させたことが地名の由来
江戸時代は佐賀城下三十三町の1つです。町名の由来は、藩主・鍋島氏が佐賀城下建設にあたり、城北の長瀬村に居た刀匠・肥前国忠吉ら鍛冶師を当地に移住させたこととか。このほか、御鞘師(おんさやし)、御弓師(おんゆみし)、御鉄砲師(おんてっぽうし)、など武具を扱う御用職人や鋳物師・谷口家など職人の多い町でした。幕末には141世帯、704人が住んでいたとされています。
長崎街道沿いに往時の面影を残します
 戦いのときに,家の鉤の部分に隠れ,外敵を防いだという説もあります。このあたりには白壁の土蔵,レンガ造りの蔵,黒塀の商家など,かつての面影をみることができます。また街道沿いには,エビスの石像も見られますし,長瀬町には「長崎街道」の古い道標もあります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 佐賀バスターミナルからバスで長瀬町下車徒歩5分
 
○蓮池(はすいけ)/佐賀市蓮池町蓮池 
 
くど造りが残る町並み
 江戸時代は蓮池藩の旧城下町。城内に旧蓮池藩館跡(現蓮池公園)がありました。そして城下町の町並みの一画にくど造りの建物が残されています。窓はアルミサッシに改造,屋根は茅葺きから鉄板葺きに改築されていますが、往時の面影は十分に感じられます。
くど造りは「台風に強いですよ」とは地元の声
 くど造りとは佐賀平野に広がる特徴のある建物で,竈(かまど)のくどの意味や苦土で地盤が弱いという意味など諸説がありますが,かまど説が有力。この通りだけで5軒ありました。地元のご婦人は「台風に強いですよ」と説明。間近で見ると建物の大きさに圧倒されます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○早津江津(はやつえつ)/佐賀市川副町早津江津 
 
ところどころにくど造りが残ります
 筑後川の支流の一つ早津江川沿い右岸にある集落です。江戸時代は佐賀藩領。そして漁業の町でもあります。有明海の海苔養殖の根拠地でした。また魚問屋,各種販売業,運送業などが盛んでした。集落を南北に歩きますと,いまでもくど造り(いまはトタン貼り)があちこちに見られ,往時の面影を偲ばせます。特にコの字型(写真)のくど造りは典型的で,見ものです。
日本赤十字社の父・佐野常民の出身地
 また日本赤十字社創立の佐野常民(さのつねたみ)の出身地で,豪華で近代的な佐野常民記念館が建っています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは早津江川堤防上に停めました
 
○大詫間(おおだくま)/佐賀市川副町大詫間 
 
   
▲大詫間のあちこちを歩くと茅葺き屋根の農家が見られます 
   
▲縦横に張り巡らされた水路沿いにも古民家が残ります 
筑後川の河口にできた三角州
 筑後川河口にできた三角州上にある集落。寛永(1624-44)のころ干潟が成長したことで肥前、筑後の境界争いが起きました。元和元年(1615)、高良大社と千栗神社の神幣を流して境界を決定したそうです。そころ佐賀城下の豪商・武富家が竜王社の北東の土地に搦(からめ/一種の堤防)50町(約5.5km)を築いて、大詫間と称したといいます。
山口家住宅の珍しい「じょうご造り」
 佐賀空港からレンタカーで直接訪ねました。国の重要文化財・山口家住宅です。19世紀初頭の建築と推定されています。屋根の形が特徴で、棟が四方に回っていて内側がじょうご状になっていて、雨水は中央に集まる仕組みになっています。このような口の字形の屋根は「じょうご造り」といい、この地方独特の建築です。なおコの字型の「くど造り」とは若干違います。
水路が縦横にめぐり、“水郷の町”のようです
 町中を歩いてみました。縦横に水路が巡り、さながら水郷の町という感じです。ところどころ茅葺き屋根の農家が見られます。また水路沿いには古民家が建ち、農村風景が見られます。
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 山口家住宅の駐車場に停めました
 
○上無津呂(かみむつろ)/佐賀市富士町上無津呂 
 
   
▲吉村家住宅(重要文化財)/かまどや囲炉裏を配するほうに煙だしを有します  
歴史の古い淀姫神社
 江戸時代は小城藩領。村高は700石弱。落合に淀姫神社があります。歴史が極めて古く、文久3年(1863)9月に「千三百五十年祭」が催されたという記録があります。
県下で最古の吉村家住宅
 山間の小さな集落です。田畑が少なく林業が主要な産業です。細い一本道を歩いていますと,甲造りの大きな農家が続きます。今はトタン葺きです。その先の吉村家住宅も梁もかなり大きく、豪農であったようです。天明9年(1789)建立の墨書きが発見されており、現存する民家のなかで県内で最古の建築です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは吉村家住宅駐車場に停めました
 
○小城(おぎ)/小城市小城町 
 
小城藩は鍋島藩の支藩です
 小城藩の城下町です。小城城は城はなく館(陣屋)でした。これは佐賀鍋島本藩に対する支藩という位置づけだったので,城を築くことができなかったそうです。いまでは小城の中心地で,官庁や金融機関などが集中しています。というのは,いま小城駅前の県道42号線の拡幅工事が行われ,町の改造を実施。
●裏通りに集中する古民家
 歴史的建造物群は,この駅前大通りの一歩裏に入ったところの南北の通りに集中しています。大手口の石垣や伊万里実業銀行小城支店などが往時を彷彿させてくれます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○神埼(かんざき)/神埼市神埼 
 
櫛田宮周辺が目印
 長崎街道の宿場町です。神埼駅から歩くこと約15分,櫛田宮(くしだぐう)にやってきます。この周辺に商家や町屋が残されています。土蔵造りでも,実際は大きな看板や開口部のアルミサッシによる改装などで,見た目はちょっとわかりません。
シーボルトも『江戸参府紀行』でも記述しています
 櫛田宮の門前町でしたが、江戸時代になって宿場町として発展しました。現在でも宿場町当時の街道が残り、5カ所の曲がり角も確認されています。また宿場の中心地は四日市でお茶屋があり、駄賃馬と人足を置いた問屋場もありました。またシーボルトの『江戸参府紀行』にも神埼宿が登場し、街路が交差する都市部とは違い街村の形成具合を述べています。  
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR長崎本線神埼駅から徒歩15分
 
 ○多久(たく)/多久市多久町
 
   
▲旧レンガ書庫/郷土資料館収蔵庫・大正14年築で高取伊好氏の寄付 ▲寒鶯亭/大正14年築の旧公会堂・国の登録文化財
武士も農民や町人と一緒に暮らしていました
 江戸時代は佐賀藩領。藩の親類同格と扱われた多久氏の陣屋を中心に形成され、2万1000石を知行しました。元禄15年の絵図によれば、居住区は厳密に区別されておらず、武士も農民や町民と一緒に暮らしていました。
伊万里往還の宿駅として発展しました
 多久は伊万里往還の宿駅でもありました。多久宿から川吉宿までは2里半(約9.8km)、反対の別府宿までは1里31町(約7.3km)とそれほど離れていません。3と9の付く日は六斎市が開かれるなどたいへん賑わったそうです。また町外れから杵島郡を経て歩きますと長崎街道へとつながります。
重要文化財指定の多久聖廟は3番目に古い孔子廟
 「歴史の散歩道」という名に引かれてやってきました。ただ、古い町並みは見当たりませんでした。ポツンポツンと古民家が見られる程度。ところが、散歩道のはずれに「多久聖廊」に驚きました。いわゆる孔子廟のことですが、足利学校(栃木県)、閑家学校(岡山県)に次ぐ古い建物で、現在は国の重要文化財に指定されています。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは西渓公園駐車場に停めました
 
○白石(しろいし)/白石町堤 
 
堤は広大な田園地帯です
 静かな田園地帯をクルマで走りました。なかなか気持ちのいいドライブです。ところが堤というところ探すのに苦労しました。あまりにも広いのです。堤は鎌倉時代に築いた須古城の麓に位置し,室町,江戸と受け継がれてきました。
妻入り土蔵造りの商家が残ります
 江戸時代は須古鍋島の知行地で,商家の集まりでもありました。妻入りの土蔵造りで,往時の城下町の雰囲気を彷彿させます。堤の集落自体は小さく,周りは田んぼです。また杵島山の中腹にある歌垣公園には,7万本のツツジと240本の桜が咲き誇るとか。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○新明(しんめい)/佐賀県白石町新明 
 
町全体が新田というのも珍しい
  全町域が新田というのも珍しい。まさしく有明干拓地の中心地です。干拓は江戸時代から始まっていましたが、明治、大正と干拓事業は続きました。しかしながら洪水、台風による高潮による堤防の決壊、堤防の沈下などなかなか進みませんでした。戦後、政府は食糧不足を懸念し、昭和21年になって、それまでの事業主体を県営から国営事業に移管され、干拓のスピード化が図られました。昭和26年に干拓地の最終締め切りに成功、昭和26年に初めて228戸の入植者が決まりました。
黄金色の稲穂と連なる作業小屋
 黄金色に耀く広大な稲穂を見ていますと感動的です。ときおり走る軽トラが小さく小さく感じるぐらいです。古い町並みといっても、いずれも戦後の建物ばかりです。自宅と農作業小屋とが分かれており、田んぼの面した方が作業小屋(写真)、反対側の水路に面した方が自宅となっています。自宅はどこにでもある一般的な建物です。
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは有明干拓記念碑前の駐車場に停めました
 

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○八本木(はちほんぎ)/鹿島市浜中 
 
   
▲多良海道沿いに美しい古民家  ▲とりわけ蔵造りの大きさに驚きます 
近世から昭和まで多彩な古民家群
 長崎街道の一つ、多良海道(たらかいどう)の両側に、近世後期から昭和に至るさまざまな時代の建物が建ち並んでいます。特に醸造業を中心にし発展した町で、酒蔵や町家などが残されています。また洋風建築、武家屋敷などもあり多様性が特徴です。
2階建ての大型土蔵が圧巻!
 駅を出てしばらく行くと、崩れかかった土蔵がいきなり並んでいます。まずこの光景に驚かされるのです。特に土蔵2階建ての大型のものが十数棟残っています。重要伝統的建造物群保存地区に選定
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR肥前浜駅から徒歩10分
 
○浜金屋(はまかなや)/鹿島市浜町 
 
   
▲現役の茅葺き屋根の民家です  ▲一般公開している古民家もあります 
茅葺き屋根の町家
 八本木宿の多良海道を抜け、浜川を渡ると、浜金屋町です。そして通りは狭くなりますが、何よりも茅葺き屋根の民家が、何気なく建っているいるのです。しかも現役で、表札もあります。それがあちこちに見られるのです。茅葺きの町家と瓦葺き町家とが混在しており、なんとなく気分的にも落ち着きます。
有明海・海上交通の要衝
 長崎街道多良(たら)海道沿いの集落ですが,有明海の海上交通の要所としても発展した町です。また,万一長崎に異変が起こったときの“出動基地”の役割も持っていました。
多良海道は永昌宿-塩田宿のルートさします
 多良海道とは長崎街道多良往還、多良道、諫早街道などと呼ばれ、永昌宿(長崎県諫早市)-塩田宿(佐賀県嬉野市)間のルートをさします。総距離は12里8町(約48km)。途中、湯江追分からは山あいのルートと有明海沿いのルートの二手に分かれ、その後多良宿で合流します。有明海沿いのルートを竹崎街道と呼ぶこともあります。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR肥前浜駅から徒歩20分
 
○高津原(たかつはら)/鹿島市高津原 
 
江戸末期に鹿島城は新築移転
 「たかつばる」ともいいます。もともと鹿島城は低湿地で水害の多い北部にありました。そこで文化4年(1807)に丘陵地帯であったこの地を開墾し新築移転したのです。このとき家臣たちも移り住みました。この通りと,大手門から表門(赤門)の間に武家屋敷が建ち並んでいました。
往時の面影を残す武家屋敷通り
 特に,城近くには高禄の家臣を配し,約400坪の土地を支給。屋敷の周りは石垣を構え,茅葺きの主屋に多数の部屋を備えました。屋内は土間面積の割合が少なく,大黒柱は細く,極めて珍しい造りになっています。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○三河内(みかわうち)/鹿島市三河内 
 
神社参道に茅葺き屋根
 この地の氏神である三岳(三嶽)神社は,はじめ蔵王権現,のちの吉野水分神を祭ると言われ,御嶽信仰と関係が深いと言われていました。それはともかく,その三岳神社参道に幾つかの茅葺き屋根の農家がありましたが,いまはわずかです。また少し離れたところにも,茅葺き屋根の農家が点在します。
茅葺き屋根の衰退は時間の問題(?)
 また丘陵地でもあることから米作のほかにミカンなどの柑橘系の栽培が多いとか。いずれにせよ,茅葺き屋根の衰退は時間の流れでもあるようです。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○有田(ありた)/有田町幸平 
 
   
 ▲陶磁器を生かした塀はユニーク ▲陶器の倉庫や展示会場などに利用 
江戸時代初期に陶石の発見で町は一変します
 2度目の訪問です。1620年前後,朝鮮陶工・李参平が陶石を発見して以来,町の歴史を一変させました。今も町自体,陶磁器産業で成り立っているため、建物もメインの皿山通り沿い(約700m)は江戸から明治にかけての2階建て妻入り型が残っています。また洋館風の建物があったりと歩いていて楽しい町並みです。
「手づくり郷土賞」を受賞
 また有田は裏通りを歩くのもおもしろいです。登り窯を解体したレンガで造ったトンバイ塀、白壁の蔵などがあります。旧建設省からは手づくり郷土賞も受賞しています。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR西有田駅から徒歩10分
 
○大名小路(だいみょうこうじ)/唐津市大名小路 
 
すがすがしい大名小路
 それにしてもきれいな小道です。すがすがしく,ゴミ一つ落ちていません。ふだんから清掃が行き届いているのでしょう。
 ここは唐津城下の町です。武家屋敷がかつて並んでいたのであろうと思わせます。石垣,笹垣などが多く残っています。ただし武家屋敷は残っていません。
歴史の香りのする町並み
 一方,大石町には町屋がそこかしこに残っています。さらに駅近くの中央商店街には,蔵を利用した商家が残されています。唐津は唐津城を中心にした歴史の香りが残っています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR唐津駅から徒歩15分
 
 ○北城内(きたじょうない)/唐津市北城内
 
   
▲炭鉱王・旧高取邸は近代建築の至宝ともいうべき豪華な意匠 
江戸期は北部の湿田から蓮根が獲れました
 戦後、町名は唐津市唐津から一部が独立して城内西になり、さらに昭和41年北城内へと変遷を重ねました。江戸時代はもちろん唐津藩領。まだ未開の地で、北側の西の浜一帯は湿田地で蓮根が獲れたそうです。また城下町境を沿う道は、幕府の巡見使が通ったことから巡見道と呼ばれました。また西の浜には藩の刑場があったとか。
武家屋敷から閑静な住宅地へ
 実際に歩いてみますと、ほとんど人影を見ることはありません。美しい植栽と石積みが連なり、かつての武家屋敷を彷彿させます。いまは閑静な住宅地を形成しています。
贅の限りを尽くした炭鉱王・高取邸は重文指定
 町の一角に明治時代の炭鉱王・高取伊好(たかとりこれよし)の大邸宅があります。海岸沿いに約2300坪の敷地に大きく2棟の建物が建っています。平成10年に国の重要文化財の指定を受けました。贅の限りを尽くした邸内の調度品や意匠は近代和風建築の素晴らしさを堪能できます。 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは松林の空き地に停めました
 
○東城内(ひがしじょうない)/唐津市東城内 
 
   
▲古い町並みといっても普通です  ▲天守閣へは至近距離です 
唐津城天守閣に最も近い町並み
 唐津城は唐津藩初代藩主・寺沢志摩守が慶長7年(1602)から築城に着手、慶長13年(1608)に完成しました。松浦川左岸に設けられた平城ですが、現在の天守閣は41年10月に鉄筋コンクリート造で復元されました。東城内は、天守閣に最も近い町並みといえます。大駐車場や天守閣への石段、エレベータなどはこの地を基点にしています。ちなみにエレベータは片道100円で、70歳以上は無料です。
登城する石段付近に古い町並み
 もともと城内東と城内西の一部が昭和41年に合併してできた町です。松浦川河口には、東松浦(虹の松浦)と間に渡船が通っていました。しかし昭和28年に舞鶴橋が架かり交通の便が格段に向上しました。東城内は、かつて武家屋敷多かったのですが、いまは学校や閑静な住宅地となっています。古い町並みは天守閣へ登城する入口付近集まっていますが、ごく平凡な町並みです。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは唐津市駐車場に停めました
 
○大石町(おおいしまち)/唐津市大石町 
 
唐津城下で賑わった町筋です
 江戸時代は唐津城下十二か町の1つで外町にあたります。町人の町ですが、農村との境界地に位置し、四つ角には幕末に石造の恵比須像が建立されました。この恵比須角から東裏町にかけての町筋は恵比須小路といわれて、幕末から明治初期まで市がたち、たいへんな賑わいを見せていました。
唐津藩に多額の借金を残して逃げた商人
 唐津でも最も古い町の1つだけに、歩いていても蔵造りの商家や虫籠窓や格子のある町家など、重厚な古い町並みを感じさせます。藩御用達のお店も多かったとか。おもしろいのは、寛政11年(1799)に油屋利右衛門が藩から銀102貫匁余(約2億4480万円/1匁を2400円として換算)、銭1万6215貫文余(約4億8645万円/1文30円として換算)を借り入れていましたが、返済できずに出奔して闕所(けっしょ/財産の没収刑)となりました。この時期、大名貸で負債がふくれあがるという話はよくありますが、藩に借金した商人というのは珍しいのでは。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは材木町有料駐車場に停めました
 
○寺町(てらまち) /唐津市十人町東十人町
 
唐津城下の一つでした
 十人町(じゅうにんまち)は唐津城下の一つでした。東西に延びる町筋で、どちらかといえば下級武士の居住地です。ところが現在の十人町は多くの町が合併して、範囲が広くなってなっています。このあたりの旧町名は「東寺町」(ひがしてらまち)にあたります。東寺町の唐津城下の一つにあたり、東西に伸びる寺院町にあたります。
江戸期の「東寺町」が中心です
 唐津藩初代藩主・寺沢摩守広高が築城時に町割りを定めた際に、防衛の目的で城下の外郭に寺院を集めました。それも陣屋式御堂をもつ寺院に絞ったのです。陣屋式御堂とは、はっきりしない概念ですが、戦いにふさわしい堅固な社殿があるとでもいいましょうか。比較的大きな寺院です。なお東寺町に対して西寺町もありました。
小さな寺町をノンビリと歩きます
 いま歩きますと小さな寺町です。聖持院、少林寺、教安寺などが並びますが、いずれも正保年間(1644-48)の絵図に登場します。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは材木町有料駐車場に停めました
 
町田(ちょうだ)/唐津市町田 
 
   
▲お茶盌(わん)窯通り/石畳の道です  ▲国史跡・肥前陶器窯跡/ほぼ旧状 
唐津城築城当時に成立した農村でした
 町田川流域に位置する集落でした。正保年間(1644-48)の絵図では唐津村とは別に長田村として描かれています。町田は、唐津城築城当時に城郭周辺に住んでいた農民をこの地に強制移住させて成立した農村。農民たちは元の土地を懐かしんで町田と称したそうです。町田川を挟んだ対岸が城下町で、町田川口橋が架かり城下への出入口となっていまそた。また町田の南部に唐人町があります。唐人町は、秀吉の朝鮮出兵で連れて帰ってきた陶工が住むようになったところ。
お茶盌窯通りの裏手が趣があります
 戦後の町田は住宅地として開発され、団地や郊外住宅が連なります。明治期の一時途絶えたものの復活した中里太郎右衛門窯や国の史跡・お茶碗窯跡があることで、「お茶盌窯通り」として街並みが復活しました。歩いていてお茶盌窯通りは普通でした。しかし、一歩裏手に入ると、光景は一新され狭い路地が続きます。漆喰を盛り上げたなまこ壁が連なり、趣のある。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは中里太郎右衛門窯の駐車場に停めました
○五反田(ごたんだ)/唐津市浜玉町五反田 
 
遣唐使の船が着いたという説
 古代には,このあたりまで海が迫っていて,遣唐使の船が着いたという説があります。真偽のほどは別にして,多くの遺跡があり出土品の多いのも事実。
旧道沿いに並ぶ古民家
 旧浜玉町ですが,明治から昭和30年代まで玉島町(村)で,いまでも玉島の名前があちこちに見られます。玉島川両岸の飲食店ではアユ,ツガニ,シラウオなどの川魚料理が名物になっています。またミカンなどの果実栽培も盛んです。国道から一歩なかに入った旧道沿いに蔵造り,格子窓,出桁造りなど見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○呼子(よぶこ)/唐津市呼子町呼子 
 
朝市以外にも見所あり
 朝市で有名ですが,漁師町としての町屋も見所です。玄海の豊かな漁場を背景に発展した町ですが,唐津市の指定文化財の住宅地もあります。他の漁師町と違うのは,道路も広く密集度が低いことか。
タイやアワビを年貢代わり上納
 古代から中世にかけてこの付近一帯は、玄界灘を控えて大陸への渡航の港として利用されました。江戸時代は唐津藩領。一時期幕府領でもありました。ところでおもしろいのは、当村の徴税です。浦分と釣分、海士(あま)分に分かれています。浦分は一般の漁村と変わりありません。問題は釣分です。藩の台所用にタイを本役として年に20匹、はぎ役は3匹を上納。上納不足のときは、タイ1匹に対して米1升2合5勺を上納しなくてはいけません。海士役にもアワビが1日に1個といろいろな規則が設けられていました。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 唐津バスターミナルから呼子行終点下車
 
 ○中浦(なかうら)/唐津市肥前町中浦
 
斜面にたつ集落でした
 地図に名所「中浦の街並み」の記載があったのでやって来ました。入江に面した斜面に連なる“街並み”でした。でもポツンとあるだけで連なっていません。建物もほとんどが戦後のものでした。斜面にたつ集落だけに、探し回るのにかなり疲れました。
年貢米は入江から舟で唐津へ輸送
 江戸時代は唐津藩領。一時期幕府領のときもありました。村高は150石前後とわずか。米のほか茶、楮、桑などを栽培して稼ぎました。年貢米は中浦の入江から舟で唐津まで運んだといいます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
 ○大浦(おおうら)/唐津市肥前町大浦
 
集落は岡と浜の二つに分かれます
 集落は斜面側の大浦岡と浜側の大浦浜の二つに分かれています。古民家はどちらかといえば、漁港に近い浜に連なります。漁村特有の板張りの民家や狭い路地が連なります。また港に出ると、カキの養殖が盛んで、カキ小屋が見られます。
藩から強制的に煎海鼠(いりこ)を割り当てられました
 江戸時代は唐津藩領。村高は300石前後。漁民の年貢は船、網に課されます。さらに海上で60日間働く人4人、8日間働く12人の使役があります。また藩の専売品でもある煎海鼠(いりこ)が561斤(約336.6kg)も割り当てられました。煎海鼠はナマコから作る干物。古くから貴重で重要な食品でした。
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは大浦漁港の空き地に停めました
○満越(みつこし)/唐津市肥前町満越 
 
台地上に位置する集落です
 江戸時代は唐津藩領。村高は50石余とわずか。というのも台地上の集落のため、水利が悪く水田に乏しい。溜池による灌漑も追いつかない。そのため柑橘類や馬鈴薯の栽培も行っていました。近年ではイチゴ、メロンなどのハウス栽培が盛んです。昭和46年発掘された満越温泉は、いろは島の国民宿で楽しめます。そのためいろは島温泉と呼ばれたりします。
坂道の途中に土蔵が点在します
 やはりこのあたりも急坂に位置する集落です。古い町並みを探すのにかなり疲れます。地図には「満越の街並み」と書かれていたばかりに、つられてやってきました。ところどころに土蔵が見られます。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
○鶴牧(つるまき)/唐津市肥前町鶴牧 
 
明治8年の大火で8軒が全焼
 古くは鶴巻・弦巻とも書きました。江戸時代は唐津藩領。村高は300石前後で、明治6年の庄屋は永代で鶴田謙三郎でした。村の運営費として米9石余、銭1貫余が徴収されたとか。明治8年の大火で、8戸が全焼したという記録が残されています。
一時期、炭鉱で賑わいました
 これは鶴牧だけではありませんが、幕末期に石炭が発掘されました。その後、採炭が続き昭和10年に大鶴鉱業所が開坑。昭和12年に14万トン、昭和18年には13万7000トンを出炭しました。このころの人口は3070人で、炭鉱関係だけでも2795人も占めていました。しかし昭和30年に入ると石油のため石炭産業は不況になり閉山となりました。いま集落を歩きますと、わずかに古民家が残る程度で、ごく普通の地方都市という感じです。  
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
○京泊(きょうどまり)/唐津市肥前町納所
 
江戸時代初期は最果ての地であったようです
 江戸時代は唐津藩領。江戸初期の正保5年(1648)ごろは、最果ての地であったようです。京泊村は納所村に含まれていて納所(のうさ)村で生活できないような人が送られてきて漁業などに就いたそうです。当時の人口は、肝煎(きもいり/世話人)が1人、本加子(水夫)2人、子ども1人、下人1人、牢人(浪人)1人、ふり売り(行商)1人、役たたず1人の合計8人。なにやらおもしろい顔ぶれです。それでも文化年間(1804-18)は人口194人と確実に人口が増え、漁業が生業として成立しています。
幕府専売の割り当てがきつい
 とはいうものの、村高は30石前後と貧しい。年貢米の負担はありませんが、漁具や、船、漁獲高に課税されました。慶応元年(1865)の幕府専売の俵物(俵詰めした海産物)、煎海鼠(いりこ/ナマコの干物)の割当量が367斤(約220kg)というからきつい。
県道沿いは重厚な民家が続きます
 漁村特有の狭い路地を歩きます。空き家状態の民家も多いように思えます。ただ県道317号線沿いにも民家が続きますが、比較的重厚で大型の入母屋造の2階家が見られます。近海漁業が中心でイワシ、タイが中心だとか。仮屋湾と玄界灘の境界あたりにある漁村ですが、近年釣り客が殺到しているそうです。
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 肥前漁協京泊支所の駐車場に停めました
 
 ○名護屋(なごや)/唐津市鎮西町名護屋
 
   
▲旧道沿いの両側に古民家がギッシリ  ▲路地が張り巡らされています 
   
▲名護屋城跡/30年ぶりの訪問です。規模の大きさに圧倒されます  ▲古里神社/高台にある境内から市街地が望めます 
旧道沿いに古民家が連なります
 名護屋といえば天正20年(1592)に豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地のために名護屋城を築いたことで有名です。絵図によれば五層七重の天守閣で規模の大きさに圧倒されます。だから古い町並みは城下町ならわかりますが、まさか漁村を訪問するとは思いませんでした。
唐津藩の酷税に苦しむ
 江戸時代は唐津藩領。名護屋村の村高は2000石弱とかなり多い。しかし年貢の取り立てがかなり厳しかったようです。ありとあらゆるものに徴税の網をかけていました。田畑の年貢率は5割4分4厘と半分以上が年貢です。漁業は、船、網などにも課税されます。さらにスルメ、ワカメまでに課税。また幕府専売に俵物(干しアワビ、煎海鼠)が割り当てられます。ほかに“運上銀”まであります。明和8年(1771)、虹の松原一揆の際、藩主に減免を訴えて処刑されました。金助・吾助の義民伝説が伝わっています。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは渡船場駐車場と名護屋城駐車場に停めました
○伊万里(いまり)/伊万里市伊万里町甲 
 
   
▲切妻型の白い蔵造りがと特徴  ▲普段はとても静かな町並みです 
土蔵造りの商家がズラリ
 江戸時代,有田焼の積出港として発展しました。積み出した有田焼が伊万里焼とも言われたのも,ちょうどこの頃です。特に酒井田柿右衛門の赤絵は長崎の出島を経て,海外に輸出されましたが,たいへんな評判を得たのです。明治に入って鉄道が開通すると,積出港の役割は終えますが,伊万里焼は有田焼(有田町)とともに,伝統工芸品として発展していくのです。
約1kmにわたる白い町並み
 観音通りの両側は約1kmにわたって焼き物に携わる白壁や土蔵造りの商家が並びます。一見すると白い町という感じ…。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは市営中央駐車場に停めました
○大川内山(おおかわちやま)/伊万里市大河内山乙 
 
石畳みとレンガ造りの煙突
 伊万里焼という名前が生まれる前,鍋島藩の御用窯として造られたのが「鍋島」でした。格調高く,販売目的ではなく将軍家への献上品や諸大名への贈答品でした。坂道の向こうに煉瓦造りの煙突が見え,まさに焼き物の里を象徴します。
厳しい監督のもとに高級焼物が造られました
 献上品や上納品だけに、有田皿山代官、陶磁方役人らの厳しい監督のもと、本細工所の細工人の高い技術によって焼物が造られました。藩窯が南川原から大川内山に移されたのは延宝3年(1675)といわれ、製品の様式も大川内山に移転の後に完成し最盛期を迎えます。初期は変形の小皿類が見られましたが、最盛期には規格化された尺皿、七寸皿、五寸皿などの丸皿が多く見られます。慶応3年(1867)には皿類のほか茶碗類、水指などの茶道具も目立つようになっています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは伝統産業会館駐車場に停めました
 
○塩田(しおた)/嬉野市塩田町 
 
   
整備された塩田宿/電線も埋設  ▲西岡家住宅/国の重要文化財指定 
土蔵造りが中心です
 バス停を降りてすぐのところが宿場町の入口です。電柱や電線などは一切地中に埋めていて,すっきりとしています。おしゃれな街灯が気に入りました。
長崎街道の宿場と河川港の二つの機能を持つ
 佐賀鍋島藩の領地で、長崎街道の脇道だそうですが、政治経済の中心地でもありました。水運、陸運が盛んだったせいか商家が多く、土蔵造りの建物が中心でした。豪商が多かったせいか,いまもその面影が残っています。きちんと整備され,タイムスリップした感じです。西岡家住宅など、重文指定の建物もあります。
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR長崎本線肥前鹿島駅から祐徳バスで嬉野市役所塩田庁舎前下車
 

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