大田区

○蒲田(かまた)/大田区蒲田 
 
   
▲京急蒲田駅を出ると、飲食店街が密集しています。 
城南地区最大の風俗地帯
 日本初のトーキー(有声)長編映画は,昭和6年公開の『マダムと女房』でした。撮影したのが蒲田撮影所です。現在の「アプリコ」周辺です。また東京・城南地区では五反田(品川区)と並んで二大風俗地域と呼ばれており,いまでも朝まで賑わっています。そして旧赤線地帯でもあり,城南地区の労働者を一手に引き受けていたと言われていました。
 いまは過日の面影はありません。居酒屋,小料理屋,スナックなどの飲食店,ラブホテルなどが密集。ほとんどが木造2階建ての建物です。
地名の由来にアイヌ語説もあります
 呑川下流南岸に位置します。地名の由来は、アイヌ語を語源とする説があり、アイヌ語で飛び越えた土地、沼の中の地という意味があります。また泥深い田地の意味である地質説が存在しますが、定かではありません。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 京急本線京急蒲田駅から徒歩5分
 
○羽田(はねだ)/大田区羽田6丁目 
 
   
▲大部分の漁師は釣り船に転換 ▲赤レンガ堤防/約1.6kmの昭和遺産 
終戦直後の住民の大移動
 羽田には幾つかの歴史の転換期があります。一つは,日本の敗戦直後,米軍に空港が接収されましたが,そのとき空港周辺の海老取川から東地区の羽田鈴木町,羽田江戸見町,羽田穴守町の3町の住民約1200世帯3000人に対して,「48時間以内に退去せよ」という命令が下されました。終戦直後で男手のなかった時代,老人,女,子どもたちだけの着の身着のままの姿で、知人や親戚を頼って海老取川を越えました。そのため海老取川以西の羽田地区はますます密集地帯となったのです。空港側から見ますと、海老取川沿いには、現在もかなり大きくてきれいな広告看板が並んでいますが,そんな密集地帯を隠すために立てられたと昔から噂されています。
漁業権放棄で大きく変わる
 もう一つは,海洋汚染とともに東京オリンピックを控えて高速道路などのインフラ整備で漁業業者にピンチがおとずれます。結局,昭和37年に漁業権放棄することで,漁師たちは釣り船業に転換するなど羽田地区の生計は大きく変わります。
昭和遺産の赤レンガ壁
 いま羽田を歩くと本当に住宅が密集しています。すべて戦後に建てられたものですが,昭和3年(1928)に造られた多摩川河口に赤レンガ造の堤防(1.6km)が残されています。昭和遺産ともいえます。地元教育委員会は,昭和の建造物として保存しようとしています。登録有形文化財としての価値はあるでしょうか。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 京急空港線天空橋駅から徒歩15分
 
○池上(いけがみ)/大田区池上 
 
   
▲本門寺を中心に多くの寺院が集まって寺町を形成しています 
   
▲歴史を誇る寺院が多いです  ▲本門寺アイス(380円・お休み処) 
24か寺で寺町を形成
 地名の由来は,洗足池が本門寺のふもとまであり,周辺の村であったという説と,鎌倉時代の領主・池上宗仲公の姓からつけたという説があります。1282年,日蓮聖人は病気療養のため身延山を下山し,常陸の湯に向かいましたが,途中池上公の館で亡くなられました。そこで池上公が寄進し,池上本門寺となったのです。
 池上本門寺は日蓮宗本山の一つで,現在,支院を含めた24カ寺で寺町を形成しています。関東で最高の五重塔(重文),宝塔(重文)などがあります。 
吞川沿いにも寺院が並ぶ
 東急池上線池上駅を降りて,門前町でもある商店街を抜けますと,吞川(のみがわ)にぶつかりますが,その川沿いに寺院が続きます。川沿いをのんびり歩くと,気持ちのいいものです。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 東急池上線池上駅から徒歩15分
 ○武蔵新田(むさしにった)/大田区矢口
 
単一の商店会の長さが1600m
 武蔵新田駅前に広がる武蔵新田商店街は1600mで,「単一商店会」としては都内で最長の長さを誇ります。
●知られざるカフェ街
 そんな商店街の裏手が,戦後まもなくカフェ街として発展しました。「日本婦女子の純潔を守るため」という理由で,米軍相手に吉原や洲崎の業者が一気に羽田,大森などに流れてきてました。その一部がこの地に店を開き,工場労働者や羽田空港建設労働者を取り込んでいったのです。いまは,全くの往時の面影はありません。 カフェとは表向き飲食店ですが、娼妓を女給に換え、2階を貸席として商売。そんな町並みをカフェ街といいました。昭和30年発刊の『全国女性街ガイド』によれば、独立家屋70数軒に、娼妓は170数名とあります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東急多摩川線武蔵新田駅から徒歩1分
 ○大森(おおもり)/大田区大森
 
   
▲銭湯もポツンと建っています  ▲旧東海道もごく普通の商店街 
海苔で発展した旧東海道の間宿
 東海道品川宿と川崎宿の間にある宿で,品川宿の助郷でもあります。大森海岸は野鳥が多く,将軍の鷹狩りがしばしば行われました。
 また大森の名産は海苔ですが,大田区には大森地区を中心に54軒もの海苔問屋があります。これは江戸時代から海苔の養殖で栄えた町だからです。そして幕府に御用海苔として献上されていました。
大森漁民は浅草から移転、海苔問屋は信州出身が多い
 ところで大森漁民は浅草から移転した人が多く,海苔問屋は信州出身の人が多いとか。これはある海苔問屋のご主人の話でした。旧東海道はところどころ古民家が見られます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京急本線大森海岸駅から徒歩15分
 
○大森東(おおもりひがし)/大田区大森東3丁目 
 
   
▲町を歩いてますとトタン貼りの家屋が点在します。まさに海苔の町を象徴
   
▲海苔問屋も産地問屋から消費地問屋へと衣替えしていきます ▲トタン貼りの家屋で、鮮魚店を営んでいます。歴史を感じさせます
   
▲大森海苔のふるさと館には,海苔の歴史が詰まっています(文化財も多数)  ▲大森第一小学校資料室に,寄贈された海苔の漁具が展示されています 
かつて浅草のりの大部分は大森で生産
 かつて浅草海苔の大部分は大森で生産されていました。しかし東京オリンピックを控えた昭和37年に漁業権放棄。同時に生産集落が大きく変貌しました。いまではわずかに残った水路,かつての船大工,海苔問屋などがかろうじて残っている程度です。
●数多いトタン貼りの家屋
 また海苔を干すときに大量にトタンを使用するそうです。そのトタンを家屋の壁に貼り付けて,潮風から守ったとか。劣化するとコールタールで表面を何度も塗り替えました。町を歩いていて,トタン貼りの家屋が多いのは,当時の名残です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 京急本線平和島駅から徒歩15分
 
○山王(さんのう)/大田区山王2丁目 
 
   
▲塚崎家住宅/スクラッチのタイル貼りで玄関はライト風・国の登録文化財  ▲昭和11年築・スペイン風のデザインで内部はスコットランド風(Y家) 
   
▲金森邸・自ら考案した「鉄筋煉瓦造り」で建築。かなり珍しかったそうです  ▲昭和8年築・購入時の価格は1万?玄関ポーチまわりは当時のまま 
かつて別荘や保養地でした
 明治30年代から郊外住宅地として大森は注目されましたが,実際に住民が増えだしたは,大正に入ってからです。三井,三菱の財閥所有地が多いせいか,高級サラリーマンや軍人が数多く住みだしました。このころ企業の別荘地や保養地の役割もあったのです。ちなみに海沿いに、ガス会社の工場があったせいか、邸内にいち早くガス灯を導入したのも山王の住民たちです。
戦後ドイツ学園周辺にドイツ人が住みだす
 そして昭和に入ってから,交通の便や環境の良さなので,住民が増え出します。さらに戦後,ドイツ学園ができ,周辺にドイツ人が大勢住みだし,都内でも有数の高級住宅地として発展していきます。
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR京浜東北線大森駅から徒歩10分
 
○田園調布(でんえんちょうふ)/大田区田園調布 
 
   
▲いまやすっかり珍しくなった古い洋館や和館。少しずつ消えていきます…
   
▲屋敷林が保護樹林に指定!   ▲復元された東急東横線田園調布駅
放射線状の美しい街路
 日本の高級住宅地を象徴する町です。駅を中心に放射線状に道路が広がり,美しい街並みを見せています。大正7年(1918)に渋沢栄一らによって設立された田園都市(株)によって開発。目黒蒲田電鉄の調布駅を中心として、放射線状に電灯、上下水道の整備や公園、小学校などの建設も行なわれました。
相続税が払えず、昔からの住人が離散
 ただ近年,相続税が払えず物納が増えたため、空き地になるケースが多くなっています。そのため相続人たちを含め若者が住めなくなりました。いまは、企業の社宅などが増え、昔からの住人たちは町内の行事もできず、まさに「超高齢化社会」の現実に向き合っているといえるでしょう。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 東急東横線田園調布駅から徒歩3分
 
○長原(ながはら)/大田区上池台1丁目 
 
   
▲もう使われていない看板建築の商店も見られますが、それでも残っています
馬込村字長原……
 いま長原という地名は残っていません。かろうじて中原街道をまたぐ長原陸橋(環七)や長原駅、銀行などの長原支店などに見られます。『角川日本地名大辞典』の巻末に馬込村字長原と小さく記載。なにやら寂しい気がします。『地名語源辞典』では、どうやら南方系で“長”は蛇や竜の意味があるとか。“原”は文字通り未開拓地。馬込村の西端には洗束(足)池があり、俗に九十九谷、十三谷と呼ばれ、蛇が出てもおかしくないない所、とまあ推測? 
数多く多く残る看板建築
 長原駅を出ますと、にぎやかな商店街。周囲を眺めますといずれも看板建築です。かなりの数を見ることができます。かなり年季が入っていますが、まだ現役で使用されています。看板建築は、関東大震災以後、とりわけ昭和初期から数多く出現しました。戦後も鉄筋コンクリートを建てるだけの資力のない商店が、モルタルやタイル等で正面を覆い,一種の“擬洋風建築”として発展した町家でもあります。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 東急池上線長原駅からすぐ
 
○北千束(きたせんぞく)/大田区北千束 
 
1000束の稲が減免されたからという説
 “千束”は中世以来の広域の呼び名でした。地名の由来に洗足池が灌漑に利用されていたので、1000束の稲が減免されたからと言う説。また千僧供養料の地のため減免されていた、と言う説などがあります。また千束の一部が洗足と呼ばれていますが、日蓮が大池で足を洗ったからといわれています。それがいつのまにか“洗足”と呼ばれたのでしょう。洗足池畔に足を洗う際に、法衣を架けたという「袈裟懸けの松」が残されています。
中世から近世かけて小さな集落でした
 とはいうものの、千束はまだまだ小さな集落で一村を形成するに至らず、馬込村の小名に過ぎなかったのです。明治になっても馬込村の大字にもならかったのです。昭和7年大森区の成立で馬込町より分離独立、南、北千束町が誕生しました。
照明柱に鋳物製の「赤松商店会」の銘板が時代を語る…
 ところで大田区には、看板建築が多く残されています。東急池上線北千束駅近くにも見ることができます。かつての赤松商店会の一部にあたります。鋳物でできた照明柱には「赤松商店会」の銘板が時代を語っています。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 東急池上線北千束駅から徒歩1分

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