大分県(おおいたけん)

○戸次本町(へつぎほんまち)/大分市中戸次戸次本町 
 
島津-大友の激戦地
 戸次という地名は、古代、中世の戸次荘にちなみます。室町時代の戸次氏は将軍家奉公衆。天正14年(1586)豊後に進入した島津勢は、戸次荘利光の鶴城を攻め、城主・利光宗魚とのあいだで攻防が行われました。大友義統は戸次荘内の青蓮寺領を安堵し、代官職を勝光寺に設けています。
江戸末期の帆足家は百姓一揆の標的
 江戸時代は臼杵藩領。文政6年(1823)当時は、市村(いちむら)と楠木生村(くすぎうむら)の2村からなる戸次市組の属していました。この戸次市組に大庄屋・帆足家がありました。以後、町の発展は帆足家を抜きに語れません。ただ大富豪だけに、近隣の百姓からは白い目で見られるの仕方ありません。江戸末期の文化8年(1811)、5000~6000人の百姓一揆の標的にされ、破却されています。
歴史的景観の復活を積極的に推進
 いま江戸時代末期から昭和初期にかけて,蔵造り,商家,町家など様々な歴史的家屋が建ち並んでいます。大分市はこれら歴史的町並みの環境整備を積極的に実施。国の登録文化財でもある帆足家本家・富春館は市に寄贈されるなど積極的に進めています。建物だけも40棟余りが建て替えられました。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○生石港町(いくしみなとまち)/大分市生石港町 
 
久しぶりに見た妓楼建築群
 これだけの数の妓楼建築を見たのは久しぶりです。窓や玄関周りにアルミサッシなどで改装されていますが,往時の面影はたっぷり残っています。
「大分港遊郭」の面影をみます
 かつて菡萏(かんたん)と呼ばれた地区で,いまはバス停の名前に残っています。かんたんとは華やかな様子,蓮の花を意味するとか。明治17年に港が完成してから船員や乗船客相手の遊郭が軒を連ね,最盛期には貸し座敷22軒、200人近い娼妓がいました。代表的な貸し座敷に大和楼、花月楼、中川楼支店などがあります。しかし昭和33年の売春防止法成立とともに,町は衰退していきました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは生石港に停めました
 
○鉄輪(かんなわ)/別府市鉄輪上 
 
別府八湯のひとつ
 鉄輪温泉は別府八湯のひとつで地獄の名の付いた温泉が多い。昔から土地の人々が温泉のことを地獄と読んでいたことから,仏教でいう鉄輪(かなわ)地獄にちなんだとか。
●別府最古の木造温泉旅館のあたりに古民家
 別府石を積み上げた板塀に囲まれ,石畳み道と植栽が似合う坂道が続きます。別府市内で最古の木造温泉旅館が富士屋旅館(写真)です。寄せ棟造りの2階建てで,さらに周りにも古民家が散在します。賑やかな温泉街から少し離れた所に位置するため,格別の静けさを誇っています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは大谷公園駐車場に停めました
 
○浜脇(はまわき)/別府市浜脇 
 
かつての歓楽街「浜脇遊郭」の面影
  江戸時代から湯治客中心の温泉場でしたが,明治35年,それまで船だまりであった朝見川右岸を埋め立てて旅館,料亭,妓楼が建てられました。その後大正,昭和と浜脇温泉を中心とした浜脇遊郭として歓楽街を形成。貸し座敷が48軒、娼妓270人余とかなりの大きさ。
しかし昭和33年の売春防止法施行で急速に町は衰退していきました。

大部分は民家に転用されています
 今は湯都ピア浜脇という大きな温泉ビルが建っているその先に,ひっそりと旧妓楼群が残されています。大部分は普通の民家に転用。路地を歩いていますと,往時の面影を感じます。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○竹瓦小路(たけがわらこうじ)/別府市元町 
 
   
▲竹瓦温泉(国の登録文化財)大正10年  ▲別府の飲み屋街は路地が面白い 
ガラス葺き木造アーケード
 木造のアーケードは全国にも幾つか残っていますが,ガラス葺きは珍しい。平成21年に近代化産業遺産に認定されました。両側には2階建ての棟割り長屋が続き,隣には竹瓦温泉が建っています。
濡れずに竹瓦温泉に行けるように
 大正時代、初代別府市長・神澤又一郎が所有していた土地を伊予銀行頭取・佐々木長治が買い上げ大正10年(1921)にアーケードが完成します。旧別府港(楠港)に着いた観光客が、雨に濡れずに竹瓦温泉に行けるようにすることが目的だったようです。通りの両側は土産物店が軒を連ねていました。
港が移転すると次第に輝きを失います
 しかし港が現在の国際観光港に移転すると、しだいに賑わいを失いました。その結果、櫛の歯が欠いたような通りになったのも事実です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマはコインパーキングに停めました
 
○杵築(きつき)/杵築市北台 
 
   
▲江戸時代は杵築藩の城下町です  ▲坂の多い城下で“重量級”といえます 
県内町並みは大きい
 なんと表現していいかわかりませんが、”重量級”の古い町並みといっても過言ではありません。杵築だけではなく、大分県内の古い町並みは規模が大きく、それでいてきちんと残っているのです。
坂の多い町並みです
 それにしても杵築を歩くと疲れます。坂道が多すぎるのです。10月の土曜日でしたが、まだ日差しが強く汗だくだくでした。坂道の両側には、白壁や土塀が続き、歩いているとなにやらタイムスリップした感じになります。
 武家屋敷群、商家群、寺院群、町家などがうまく分かれており、構造自体はとりたてて珍しいものではありません。それにしても、これだけの規模の町並みが残されていることに驚きました。でも重要伝統的建造物群保存地区ではありません。一部の住人のなかに選定に反対する人たちがいるのでしょう。残念です。文化庁の内規では,関係住民の80%以上の賛成がないとだめだそうです。
空港からも直行可能
 大分空港から直行の路線バスが出ていて便利です。もちろんJR杵築駅からもバスが出ています。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 大分空港から国東観光バスで杵築バスターミナル30分(720円)
 
○日出(ひじ)/日出町本町 
 
いまは石垣と門などが残ります
 慶長6年(1601),播磨の姫路城主・木下延俊が5000石を加増されて入封。以後,築城にかかり,翌年に完成しました。断崖の上に三層の天守閣,それを取り囲むようにして二の丸,三の丸を配置しました。今は石垣と藩校の致道館,武家屋敷の地割り,門,塀などが残っています。日出藩は以後,16代270年間にわたって幕末まで領有しました。
●城下カレイは庶民には手の届かない「殿様魚
 本丸下の海岸は,通称・城下海岸と呼ばれており,全国的に有名な城下(しろした)かれいは,この城下海岸からきています。江戸時代、日出藩の参勤交代の際には将軍家へ干物を献上し、4年に一度の閏年(うるうどし)には端午の節句に間に合うように生きた「城下カレイ」を江戸まで運んだそうです。当時は庶民には手の届かない「天下の高級魚」、「殿様魚」の別名もありました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○鶴川(つるがわ)/国東市国東町鶴川 
 
商家が続く商店街
 かつて中心地を形成する商店街でした。国東半島東部の中心ともいえます。とはいうものの,やはり賑わいは感じることもなく,ちょっと寂しい限りです。むしろ国道213号線沿いに飲食店や小売業,官公庁が林立しており,西側に重心が移っています。文化財は多く800年の歴史を持つ旧県社・桜八幡神社には,多くの文化財があります。
かつては老舗が軒を連ねていました
 鶴川商店街を歩いていますと老舗らしき雰囲気の店が続きます。ほとんどが改修,改築されていますが,往時の雰囲気は感じられます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは大分銀行鶴川支店に停めました
 
○豊後高田(ぶんごたかだ)/豊後高田市新町 
 
昭和30年代の輝きを知らしめる
 現存する昭和時代の建物を生かして,「昭和の町」として売り出したとたん,今や全国的にその名が知れ渡りました。特に昭和30年代の輝きを取り戻した商店街です。全長600mほどの商店街に「1店1宝」、「1店1品」などと,各店の特徴を店頭に並べたのです。なにやら1980年代の平松守彦知事の「一村一品運動」を思い出します。
昭和のごく普通の建築物です
 建物はごく普通の黒瓦葺き平入の2階建てです。漆喰で固めた白壁が清潔な感じがします。確かに昭和の時代を彷彿させます。『昭和の絵本美術館』,『駄菓子屋の夢博物館』なども見所です。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○田ノ平(たのひら)/豊後高田市鼎(かなえ)田ノ平 
 
沈み橋を渡って行く集落
 桂川の支流・都甲(とごう)川沿いの県道29号線を走っていると,川の向こうに石垣を巡らした集落が一瞬見えたので,早速探索しました。都甲川に架かる沈下橋歩いて渡りましたが,大分県は沈下橋の多い所で,200カ所以上あるといわれています。もっとも大分県では沈み橋というそうです。
石垣を巡らした小さな集落
 石垣を巡らした家屋が続きますが,小さな集落でした。市の「急傾斜地崩壊危険箇所 田ノ平地区」の看板が不気味です。なお山腹には天明2年(1782)造の庚申塔があります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは都甲川沿いの空き地に停めました
 
○長洲(ながす)/宇佐市長洲 
 
区画整理で消える古民家
 宇佐は日出に出る道と国東へ向かう分岐点でもあります。また伊勢神宮に次ぐ第2の宗廟として崇拝された宇佐八幡宮があり大変な賑わいでした。もう一つ周防灘に面して漁業が盛んでした。明治に入っても長洲の産業別人口は,1位の漁業と2位の商業で町を支えていました。江戸時代に何回かの大火災,駅館(やっかん)川の氾濫で危機に瀕しましたが,その都度立ち立ち直りました。
道路の拡幅で消えつつある古民家群
 いま町は区画整理で道路が拡張され古民家が消えつつありますが,外れたところに商家がわずかに残っています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは長洲漁港に停めました
 
○下市(しもいち)/宇佐市安心院町下毛 
 
鏝絵のふるさとといわれます
 鏝絵(こてえ)のふる里といわれ,約100カ所に点在しているとか。鏝絵は左官が白壁の漆喰を塗ったあと,絵を立体的に盛り上げ,なおかつ色を混ぜた色漆喰を更に塗りつけます。いまでは明治,大正,昭和の鏝絵が残り,平成に入っても住民たちは描き続けています。
本町通りに鏝絵と古民家
 このあたりは道路拡張工事や大火災,戦災にも遭わず,古民家ともども残ったわけです。同時に江戸時代から比較的裕福な商家が多いせいか,蔵造りの建物が多く,とりわけ本町通りには集中的に見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは下市観光憩いの広場駐車場に停めました
 
○龍王(りゅうおう)/宇佐市安心院町龍王 
 
かろうじて残る蔵造り商家
 龍王の左官たちが鏝絵を広めたといわれています。いまは少なく寂しい限りです。江戸時代は龍王城の城下町でしたが,寛永9年(1632)、松平重直が3万7000石で領主として龍王城に入部。寛永17年(1640)、居城を豊後国東郡高田へ移し、龍王城は廃城となり、町も次第に衰退しました。
段丘上に残された小さな城下町
 下毛からクルマを走らせました。龍王山麓から道路の両側を生い茂った坂道を行きますと、突然視界が開けます。段丘上に開けた小さな旧城下町(城内町とでもいいましょうか)です。石垣のそばに町指定の龍王城跡の看板が目に付きます。また木々に生い茂った古民家がポツンポツンと目に付きますが、大半が空き家のようです。蔵の壁面には鏝絵が残されており、この集落も鏝絵が盛んだったことがわかります。写真は古在家住宅です。  
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○大(だい)/宇佐市安心院町大 
 
地元の人は「おおむら」と呼んでいました
 地元の古老たちは通称の「おおむら」と呼んでいます。これは深見河内守一族の大村城があるからでしょう。もっとも大永3年(1523)に大友義鑑らに攻められ,深見一族は全員自決したそうです。
明治の鏝絵が数点残る
 集落は深見川沿いの平坦地にあります。歩いて見ますと,蔵造りの家屋が残されていますが,ほとんどが無人でした。道路の端には疎水があり,静かに流れています。この集落にも明治時代製作の鏝絵が数点残されています。『雁と人』,『浦島太郎』は傑作といわれています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○中津(なかつ)/中津市金谷西 
 
   
▲城下町らしい落ち着いた町並みです  ▲むろや醤油/老舗の新たな挑戦 
●細川忠興が城下町を造る
 
元和6年(1620)、細川忠興は家督を忠利に譲り、翌7年忠興は隠居と称して中津に移りました。このころ中津城がやっと完成を迎えます。そして城下町造りに本格的に取り組むのです。金谷堤防を築き、氾濫を防ぎます。また山国川の水を城内に水道として引き入れました。町割りも計画的に行われたのです。
●中津城下の情緒
 金谷武家屋敷跡は土塀や白壁が残っています。またここから2分ほどのむろや醤油(写真右)の周辺にも古い町並みが続いているのです。中津城・城下町の面影が見て取れます。
13代当主の急逝で大変革した「むろや醤油」
 むろや醤油は享保元年(1716)創業。中津市内でも最も古く、全国的にも珍しいといえます。13代目当主の急逝により休業。しかし親族である自動車整備販売会社「カートピアキクチ」の社長・菊池徹氏が経営に参加。醤油プリンのプリンなど、新製品の開発に力を入れています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 車は道端に停めました
 
○日田(ひた)/日田市豆田町 
 
   
▲建物中心に撮るなら早朝がいい   ▲石畳が古い町並みににあいます
天領祭りの当日でした
 まったく偶然に、「天領祭り」の早朝に来ました。各商家では幕を張り、提灯に灯が入っていました。日田は江戸時代に天領として栄えたとかで、豪商が経済を握っていました。建物をみるとその力がわかります。特に花月川寄りの白壁の土蔵造りに当時の豪商たちの力を感じさせられます。
電柱、電線類は地中化しました
 豆田地区は、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。御幸通りと上町通りの2本の通りの両側が見どころになります。特に御幸通りに豪商たち商家や格子のはまった町家など、いろいろな建物が混在しています。
また、電線類などはすべて地中化され、すっきりとした町並みになっていいます。
早朝撮影はつまらな
 JR日田駅から徒歩でたぶん20分以上かかると思います。前夜のホテルから30分以上かけて歩きました。早朝なので、人はそれほど歩いていません。重要伝統的建造物群保存地区に選定されたばかりなので、今後は観光客が増えることが予想されます。あまり早い時間帯の散策は、店が閉まっているのでおもしろくありません。
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR九大本線日田駅から徒歩20分
 
○隈(くま)/日田市隈 
       
歴史的建造物が多数残る
 日田温泉のど真ん中で,城下町でもあります。しかも幕府直轄地として栄華を極め,町人文化が花開いたところ。日田祇園祭やお雛さまなどの行事も残っています。町には蔵造り,格子のあり町家など古民家多数。
伊能忠敬が隈を測量
 九州の中央、筑後川流域の交通の要衝に位置することから豆田町とともに仲介業で繁栄します。その結果、鍋屋などの掛け屋が生まれました。江戸後期にはその資本力で金融業が盛んになります。日田金融と呼ばれて大名貸も行われました。文化8年(1811)7月1日に伊能忠敬が隈を訪ね測量しました。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは市営駐車場に停めました
 


                       ▲ページの先頭にもどる

○臼杵(うすき)/臼杵市二王座 
 
   
▲茶房長屋門・旧稲葉家住宅  ▲二王座・町家が密集しています 
いろいろな造りが混在
 大分県の古い町並みは、いずれも規模が大きい。臼杵もそうですが、城下町で、寺院、町家、商家、武家屋敷が混在しています。だから町並みがにとてもぎやかで、おもしろのが特色です。
二王座は城下町の面影が残ります
 メインは二王座です。阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘で、あちこちの岩を削り取って道を通しました。狭い路地のいたるところに城下町の面影が残っていて、高い石垣、重厚感のある瓦屋根、白壁の建物や多くの寺院が坂道沿いに続きます。ゆるやかな坂道が続く、静かな町です。

作家・野上弥生子の生誕地
 町家も狭い路地に密集している感じで、迷路のようです。作家・野上弥生子はこの町の造り酒屋・小手川酒造で生まれました。それにしてもかなり広い地域なので、急がずのんびりと回りことです。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR日豊本線臼杵駅から徒歩20~30分
 
○湯平温泉(ゆのひらおんせん)/由布市湯平温泉 
 
   
▲花合野川(かごのがわ) 沿いの温泉 ▲懐かしいボンネットバスです 
ボンネットバスが運行していました
 JR湯平駅に着いたら運行したばかりのボンネットバス(期間限定)が停車していたのがラッキーでした。このバスは、車掌さんがいて、JR由布院駅バスセンターから運行されており、のんびりと走っています。
共同浴場5軒あります
 湯平温泉は、鎌倉時代の開湯といわれていますが,諸説あります。鉄骨造りや木造3階建てなど、ほとんどが戦後の建物です。狭い石畳が、ゆるやかな坂道を造っています。石畳(一部)は亨保年間(1716-36)のままだそうです。こんな小さな温泉町なのに、共同浴場が5軒もあります。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR久大本線湯平駅からボンネットバスで20分
 
○竹田(たけた)/竹田市殿町 
 
   
   
滝廉太郎も住んでいました
 一度きてみたかった町です。作曲家・滝廉太郎のふるさとでもあるからです。生家も古い町並みの地域にありました。駅を出てパンフレットの道順に歩きます。途中の“滝廉太郎トンネル”には驚きました。蓮太郎は12歳から14歳まで住んでいて、「荒城の月」は、竹田の岡城をモデルにしたと言われています。
殿町と寺町
 武家屋敷群のほかに、町なかの古町や本町にも蔵作りの商家が点在していました。殿町は上級武士の居住区といわれました。一方寺町には多くの寺院が集中しています。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR豊肥本線豊後竹田駅から徒歩10分
 
○玉来(たまらい)/竹田市玉来 
 
肥後街道の旧宿場町
 肥後(熊本)への交通の要所として,14世紀ごろには数十軒の町家が並ぶ宿場町を形成していました。そこへ志賀氏房が飛田川の騎牟礼(きむれ)城に入ってから城下町としてもさらに発展したのです。ところがその後中川氏によって,53軒の商家を竹田に移転,玉来は急速に寂れました。しかし岡藩が京の島原,長崎の丸山を模して遊郭を設けて大きく繁栄しました。
●商家や町家に往時の面影を見ます
 蔵造りの商家や瓦葺きの町家など,アルミサッシで改装はされていますが,往時の面影を見ることができます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはスーパーサンリブに停めました
 
○久住(くじゅう)/竹田市久住町久住 
 
   
▲昭和元年(1926)築の佐藤酒造/望楼に時計塔をプラスした重厚感があります  
肥後熊本藩五宿の一つ
 江戸時代は、はじめ岡藩領。寛永6年(1629)に肥後熊本藩領となります。藩主はおなじみの加藤清正です。久住は藩主が江戸への出府に備えて肥後往還に5宿場を設けた1つです。清正の本陣となる御茶屋が小高い岡上に設けられ、細川氏もこれを継承しています。
幾つもの街道が交差する交通の要衝
 宿場の町並みは、2カ所で鉤の手に曲げた形のひと筋町です。いわゆる一本道のことです。御茶屋を基点に、まっすぐに南に伸び、やや下り勾配で113間(約205m)続きます。また久住は交通の要衝で、肥後熊本とと大分郡鶴崎を結ぶ肥後往還のほか、久住から小国を経て玖珠(くす)や日田(ひた)に至る街道。また南下して岡城下の竹田町に至る街道。さらに東の岡藩領・巧網(くたみ)地方に至る街道などが交差していました。
佐藤酒造の近代建築に驚嘆
 いま街道筋を歩いて見ますと、古民家が少なくなっていますが、佐藤酒造の近代建築の重厚さに驚嘆します。またたの建築群は改築,改装が行われていますが,切妻型の蔵造りの商家が見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○犬飼(いぬかい)/豊後大野市犬飼町犬飼 
 
病気になった鷹狩りの猟犬が看護したところ?
 岡藩藩主が鷹狩りのとき,猟犬が病気にかかり,それを看護したところから犬飼という名が付いたという説もあります。実際は真偽のほどは不明です。
造りの町家が多く残る
 さて大野川に沿った集落ですが,江戸時代初期,参勤交代船の船着場が大野川に造られると同時に,多くの町家も築造され賑わったとされます。寛文2年(1662)までには,藩の屋敷,御茶屋,蔵所などが設けられ,同時に多くの町家も築造されました。つまり河川港として発展した町。今は蔵造りの豪壮な町家が多く残されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは豊後大野市役所犬飼支所に停めました
 
○三重町市場(みえまちいちば)/豊後大野市三重町市場 
 
「よそ者は商売するな」
 古代から日向-三国を結ぶ交通の要衝で,「三重駅」がありました。駅馬は5疋に決められていたそうです。江戸時代になるとますます利便性が高まり,六歳市が立つわけですが,他の地域から勝手に入り込んで商売をするため,地元民は「よそ者は軒下や村はずれでの商売を禁じる願い」を提出して認められました。それほどにぎやかな町でもあったのです。
●国の登録文化財が目に付く
 豪商も多く,蔵造りの町家が今でも目に付きます。ほとんどが明治の建物で,麻生家住宅は登録文化財に指定。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは豊後総合庁舎に停めました
 
○下自在(しもじざい)/豊後大野市緒方町下自在 
 
落ち着いた水路のある町
 緒方平野を穀倉豊かにしている原因の一つに,縦横にはりめぐらされた井路(いろ)にあります。井路とは地方によって呼び名がちがいますが,感慨用水にあたります。江戸時代,岡藩では財政の困窮を救うために早くから井路の開削を行なったそうです。
遺産になった「サイフォン式水車」は珍しい
 また明治に入ってサイフォン式水車なるものを導入,50m離れた高台の田んぼに送水するなど,最盛期には先を争うように造ったそうです。いまは遺産として残されています。
造り酒屋があって,幾つかの古民家が残っています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○佐伯(さいき)/佐伯市城下西町 
 
天然の流路を生かした佐伯城
 
慶長6年(1601)佐伯に入部した毛利氏は、当初、旧佐伯氏居城・栂牟礼(とがむれ)城に入居しましたが、どうも気に入りませんでした。慶長9年(1604)ごろ八幡山頂に佐伯城(鶴屋城)を新築。同時に山麓平野部に城下町の建設を進めました。番匠川の最下流部の左岸にあたり、佐伯湾にも隣接し、交通至便! この天然の流路を生かして防衛線を張るのに適していることを見抜いていたのです。
●「日本の道100選」
 この日、始めて訪ねました。意外にもきちんと整備保存されていました。「歴史と文学の道」と名付けられています。石垣と漆喰の塀で仕切られた武家屋敷が連なります。「日本の道100選」にも指定されています。のんびりと歩ける町並みです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○小野市(おのいち)/佐伯市宇目小野市 
 
古代官道“駅”があった所
 旧宇目(うめ)町の中心地でした。古代の官道が三重駅から日向の長井駅にかけて通り,小野市はその中間点に“駅”があったところです。この官道は後の日向道の原型となった街道です。水田は少なく,林業とシイタケ栽培が主要産業でもあります。戦国時代は,薩摩と豊後との戦いが続き,豊薩戦争とも呼ばれました。
街道沿いに立派な町家が残されています
 いまは山間のとても静かな町並みです。空き家も多く,寂しい感じがします。ただ町家は立派な家屋が多く,改装,改築されていますが,かつての問屋など商家の面影を残しています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○木浦鉱山(きうらこうざん)/佐伯市宇目木浦鉱山 
 
鉱山町の繁栄が偲ばれます
 鉱山は今から約850年ほど前に発見され,江戸時代に入って本格的に開発されました。鉱脈は多く,錫,銅,銀などが産出。開発当初は数千人が働いていたといわれ,ほぼ露天掘りに近い採掘法だったそうです。錫は本邦無二,銀は我が国四大銀山の一つとして栄えました。
10歳前後の多くの娘たちが子守で働いていました
 住人全員が鉱山で働き,さらに近隣各地,なかには日向から10歳前後の多くの娘たちが,子守のため年季奉公に来ていました。さらに遊郭も立ち,たいへんな賑わいでした。いまは旧遊郭や町家が目に付く程度です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは木浦名水館に停めました
 
○帆波浦(ほばうら)/佐伯市鶴見有明浦帆波浦 
 
三尊仏の入った一石五輪塔
 佐伯湾に面する小さな漁村です。この小さな漁村を有名にしたのは,鎌倉後期の作と言われている三尊仏の入った一石五輪塔は珍しく,特に内部に穴が空いているのは国内ではココだけといいます。平成17年に市の文化財に指定されています。江戸時代は佐伯藩領で伊能忠敬が当地を測量したという記録があります。
●壁と石垣が一体となった建築物
 町を歩いていると,建物の海側に面した壁と石塀が一体となっているのに気がつきます。全国各地の海沿いの集落に多い造りで,暴風対策のためです。しかし帆波浦もそんな建物は少なくなってきました。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは帆波浦漁港に停めました
 
○日野浦(ひのうら)/佐伯市鶴見有明浦日野浦 
 
強風除けの石垣のある町
 佐伯湾沿いの県道604号線を快適なドライブ中で見つけた石垣の町並みです。強風の多い町で見かける光景ですが,草木が覆い,かなり年季の入った強風対策の石垣に見えました。石垣は海岸沿いだけではなく,横丁に入っても続きます。
伊能忠敬も測量しました
 江戸時代は佐伯藩領。この地も伊能忠敬が測量したそうです。この県道沿いの町は旧鶴見町で,当時漁業中心の産業構造をいっそう発展させるために,水産センター等の研究機関の誘致。今では海岸沿いに日水の研究施設が建っています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは日本水産大分海洋研究センターに停めました
 
○吹浦(ふきうら)/佐伯市鶴見吹浦大河原 
 
板壁の多い漁師町
 吹浦集落は比較的大きく,人口も150人を超えるとか。なかでも海岸沿いの大河原地区に板壁を張り巡らされた家屋がポツンポツンと散在しています。路地を入っていきますと,廃屋があったりしますが,漁具があったりして,海の匂いがします。
江戸時代は干鰯が名産でした
 江戸時代は佐伯藩領で,漁業を中心にした集落でもありました。なかでもイワシ漁は盛んで,干したイワシ,つまりメザシの出荷が多いようです。いまは後背の斜面ではミカンの栽培が盛んで,半農半漁地区といえるでしょうか。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 

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