大磯町(おおいそまち)
○大磯(おおいそ)/大磯町大磯 | |
▲大磯教会/国の登録文化財 | ▲旧木下家別邸/国の登録文化財 |
▲日本三大俳諧道場の一つ鴫立庵 | ▲旧東海道を散策する人は多い |
●歴史の道として再現 江戸から8番目の宿場町。本陣3軒,旅籠66軒で、長さ29町33間(約3.2km)と、かなり大きな集落でした。今は碑が立つのみです。歴史の道として石を敷き詰めています。また著名人の別荘や邸宅があることで有名。 ●江戸の末期、遊女の客引きが目に余る…… 文政6年(1823)6月、関東取締出役は東海道各宿場の飯盛女(遊女)の取り締まりを行っていました。しかし大磯宿の飯盛女たちは、終夜の差別もなく宿場内を騒ぎ歩き、ことさら「いかがわしい風儀にて往帰する」として、風俗を改めるように申し渡したそうです。つまり、昼間から卑猥な格好で客引きが目立つということです。 ●伊藤博文や山県有朋、吉田茂の別荘地が建つ 明治18年、軍医総監・松本順の提唱で、日本で最初の海水浴場が開かれました。のちに、伊藤博文、山県有朋、吉田茂らの別荘も建ちました。さらに東海道大磯駅の開設で注目され、昭和に入るとホテルや企業の保養地が林立しました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR東海道本線大磯駅から徒歩10分 |
○小磯(こいそ)/大磯町東小磯 | |
▲旧島崎藤村邸/静子夫人と共に東京から移住。そして終焉の地となりました | |
▲翠渓荘/旧林董の別邸でした | ▲東海道並木道/後世に残したい光景 |
●『吾妻鏡』、『源平盛衰記』、『平家物語』、『太平記』…… 小磯という地名は古代から大磯とともに存在していました。鎌倉時代、『吾妻鏡』にも北条政子が産気づいた時は、加持祈祷を命じられた寺として、小磯は新薬寺、大磯は高麗寺があげられています。『源平盛衰記』にも和田義盛が石橋山の合戦にはせ参じたときも、大磯、小磯の光景を描写しています。また『平家物語』にも平重衡が源氏に捕らえられ鎌倉に護送されるシーンにも小磯が登場します。南北朝時代成立の『太平記』にも小磯が描写されています。このように古くからの史料では大磯と小磯は対になって登場します。 ●江戸時代初期に東小磯と西小磯に分かれる(?) 江戸時代は幕府領で、幕末は小田原藩領。では東小磯、西小磯に分かれたのはいつごろか、というと詳しくわかっていません。江戸時代初期、寛文年間(1661-73)の『三郡高帳』に、それぞれの村の穫れ高が明記されています。『新編相模国風土記稿』には大磯宿の“加宿東小磯”として登場します。また助郷・小磯とありますが、これは村高の高い西小磯を指すものと思われます。加宿(かしゅく)とは、大磯のように人家も人馬も少ない場合、隣接する村々が支援に加わる意味で費用を負担することです。実際はかなり過酷だったようです。 ●「翠渓荘」は明治の政治家・外交官の林董の別邸 大磯町役場でパンフをもらい、海辺沿いの東小磯を歩きました。大磯とはまるで別世界。大きく高い塀が張り巡らされ、高級住宅地感があふれています。特に翠渓荘は東小磯の風情を象徴するかのような建物。現在は東証一部上場の金属加工機械メーカの保養所ですが、以前は林董(はやしただす)の別邸。大磯に日本初の海水浴場を開いた松本順の弟のことです。林董は明治の外交官で政治家でもありました。また日英同盟の立役者でもあります。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR東海道本線大磯駅から徒歩20分 |