奥多摩町(西多摩郡)
古里(こり)/奥多摩町小丹波 |
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●甲州裏街道沿いの宿駅 もと大丹波,川井,梅沢,丹三郎,小丹波,棚沢,白丸の7カ村が合併して古里村となり,昭和30年(1955)に氷川町,小河内村とさらに合併,奥多摩町になりました。かつての小丹波の中心地がJR古里駅辺りとなります。甲州裏街道(今は青梅街道)が通り小丹波宿を形成,次の氷川宿へと継いでいました。 産業の大部分が林業。江戸時代は良質の杉を産出し、「青梅丸太」と称して重宝されていたそうです。今は駅近くの街道沿いに古民家が点在し,往時の面影が感じられます。地名の由来は、棚沢(たなさわ)の小字・垢離尽(こりつき)によるとか。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR青梅線古里駅から徒歩5分 |
丹三郎(たんざぶろう)/奥多摩町丹三郎 | |
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▲丹三郎屋敷長屋門(都の文化財) | ▲吉野街道沿いで見つけた長屋門 |
●吉野街道沿いに茅葺き この妙な地名は人名説が有力です。戦国時代,原嶋村(埼玉県熊谷市)に丹次郎友一と丹三郎友連の兄弟がいて,共に北条氏に仕えていました。そしてこの地で開拓。死去したあと江戸期も丹三郎村として残ったとか。産業は江戸期からスギ材を中心にスギ皮,コウゾ,炭など。もう一つの地名の由来は、原嶋友連が勧請した鎮守・丹生明神社の社名であるとか。 古里駅前の青梅街道から吉野街道が分岐。その吉野街道沿いを歩きますと幾つかの長屋門、納屋門など,茅葺き屋根の古民家が点在しています。さらに一本裏道に入ると,寺社や民家の板塀が続きます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR青梅線古里駅から徒歩20分 |
氷川(ひかわ)/奥多摩町氷川 |
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●甲州裏街道の拠点 江戸期は幕府領で小さな宿場を形成。山から炭を出荷する場合,奥氷川神社周辺で他の物資と交換していたそうです。そのため甲州裏街道の拠点として発展したとか。全体として畑作は2割、杉材や炭など山林は8割を占めていました。その里物と山物との交換の場も兼ねていました。いわば流通の拠点でもあったわけです。今も木造2階建ての古民家が多数残ります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR青梅線奥多摩駅から徒歩8分 |
桧村(ひむら)/奥多摩町境 |
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●わずかに古民家が見られます 桧村は境地区にあり東京都の浄水場や交番などがあり、人口も多く中心的な役割を果たしています。『新編武蔵国風土記稿』によれば、旧境村の小名にあたると明記。国道411号線から分かれてのびる急斜面に沿った道の両側に、現代住宅がつながります。バスを降りてからそんな道を歩き回りましたが、古民家らしきものは見当たりません。結局、元来た411号線に戻ると、意外にも古民家が見られたのです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR青梅線奥多摩駅からバスで桧村下車徒歩3分 |
境(さかい)/奥多摩町境 |
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●廃線跡が望める多摩川沿いの古民家 江戸時代は三田領、幕府領と変遷。『新編武蔵国風土記稿』によれば、「山林が七分、畑が三分」と明記されるぐらい、奥多摩の山深い、谷あいの集落でした。村高は35石余と貧しく、炭焼き、材木、シイタケ、川ノリ、ワサビなどで生計を立てていました。天保年間で57戸で、農閑期には氷川へ出稼ぎにでていたという。 バスを降りたあと、多摩川沿いを下流に向かって歩きます。しばらくすると、集落全体を見渡せる高台に出られます。もうほとんどが現代建築に変わっており、いかにも古民家という建物は見ることができません。しかし集落へ入る川沿いに蔵や2階建ての古民家が残されていました。ちなみに地名の由来は、氷川と小河内の境だからという説、元は甲斐と武蔵の境があったからという説など諸説あります。歩いていて、高いところにある廃線跡が気になりました。地元民は「氷川から小河内ダムへセメントを運んだ鉄道跡」と言われました。まだ残っていました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR青梅線奥多摩駅からバスで境橋下車徒歩15分 |
中山(なかやま)/奥多摩町境 | |
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▲急斜面に建つ中山集落 | ▲蔵や大型の入母屋造が点在 |
●旧青梅街道沿いの急斜面に建つ「天空の村」 『新編武蔵国風土記稿』では旧境村の小名にあたります。いまは全長9.4kmの「奥多摩むかし道」沿いの小さな集落。まさにこのむかし道が旧青梅街道と呼ばれていた道の一部で、氷川から小河内に達するまでの道にあたります。さらにその昔は甲州裏街道と呼ばれたとか。奥多摩むかし道のなかで最も標高の高いところが中山にある浅間神社で標高620m。集落はその浅間神社のそばを通るむかし道沿いにあります。集落の入口までは舗装道路がありクルマが入れますが、その先は幅1mほどの山道です。 集落は谷あいを見下ろすような斜面にあって、人は「天空の村」と呼びます。入母屋造や兜造の大型の民家があり、白壁の蔵が点在しています。狭くわずかな段々畑に自家用野菜を植えられています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR青梅線奥多摩駅からバスで中山下車徒歩20分 |
川野(かわの)/奥多摩町川野 | |
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▲廃寺となった浄光院は川野生活館となっていました | ▲川野トンネル(140m)の横にも住宅が見られます |
●旧道にも古民家が点在 古くは河野とも書きました。川野集落は戦国時代から定住者がいました。杉田重直氏が始祖といわれ,江戸時代には名主となりました。寛延3年(1750)には人口516人というから,山奥にもけっこう人が住んでいたようです。というのも米以外の麦,大豆,ヒエ,イモ類,淡水魚,猪肉,鹿肉,鳥肉など、意外にも食糧が豊富だったからといえます。 今回,できるだけ旧道を歩きました。川野トンネルを避けて旧道を大回りします。途中に幾つかの古民家があり,いずれも戦後の建物。廃業した旅館,料亭もみられました。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR青梅線奥多摩駅からバス大津久下車徒歩5分 |
留浦(とずら)/奥多摩町留浦 |
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●青梅街道沿いに点在 語源に「藤ヅル」が多かったとか、湖に面し「浦の留まり」,「禁漁の浦」など諸説があります。江戸中期には留浦村全体で人口約500人。今は青梅街道沿いに古民家が点在し,小留浦には文久3年(1863)築の文化財・太子堂舞台があります。太子堂舞台は集落で唯一の娯楽施設だったという意味もあったようです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR青梅線奥多摩駅からバスで小留浦下車すぐ |
日原(にっぱら)/奥多摩町日原 | |
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▲日原ふるさと美術館 | ▲日原森林館 |
●山伏が開いた集落 山岳宗教である修験道の信仰から開かれたところです。修験道の信者を山伏といいますが,青梅の西方,御岳山(みたけさん)から日原西方の雲取山,秩父の三峰山へと歩いたそうです。今の日原鍾乳洞近くにある一石山神社は,山伏の道場でした。 江戸時代は鷹狩りに使う鷹を育てるところでした。集落の南側に鷹ノ巣山がありますが,その北斜面が育てていたところ。寛文から延宝年間の家数は21戸とありますが、化政期には70戸が中腹に散在していたという記録もあります。いまは往時の面影はありませんが,日原街道沿いに古民家が点在しています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR青梅線奥多摩駅からバスで東日原下車徒歩2分 |