○牧志(まきし)/那覇市牧志 | |
▲観光客で賑わう牧志公設市場 | ▲商店街の大部分は観光客向け |
●いまは中国人観光客に圧倒的人気 牧志公設市場を中心に幾つかの商店街としその周辺で構成されています。観光客に圧倒的に人気のあるところ。一時期、中国人観光客に占領された感じがします。建物はほとんどが鉄筋で,裏道に行くと幾つかの琉球風の木造建築が見られます。 ●人口過剰の小禄から6軒が分家移住したのが始まり 牧志は首里と那覇の間に位置しますが、ガーブ川沿いの低地と周辺の松林の低い丘陵地には、墓地が点在するだけで住む人が居ませんでした。そこで王府の呼びかけで、人口過剰だった小禄(おろく)から6軒が分家移住したのが、牧志の起こりだという説があります。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 ゆいレール牧志駅から徒歩10分 |
○桜坂(さくらざか)/那覇市牧志 | |
●かつての桜坂社交街 那覇の一番の繁華街は国際通りですが,かつては桜坂でした。現在の桜坂劇場を中心に市民の生活に密着したものがあふれていたのです。また居酒屋,スナックなどの飲み屋が多く,松山地区を上回る勢いがあって,那覇の奥座敷とも呼ばれていました。いまは都市計画道路が町を二分するような感じになっていますが,密集した飲食店街は変わりません。 ●花街を形成していました かつての桜坂社交街は花街でもありました。のんびり歩いていると,それらしき建物が残されているのがよくわかります。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 ゆいレール牧志駅から徒歩8分 |
○栄町(さかえまち)/那覇市安里 | |
▲ゴーヤチャンプル(500円/玉の屋) | ▲泡盛コーヒー(500円/茶わき) |
●地元民に密着した商店街 昭和の時代を感じさせる迷路のような狭い路地,日用品雑貨店,居酒屋,総菜店,肉屋,鮮魚店など店頭からあふれており,地元の人たちに密着した商店街です。 ●戦後のヤミ市の雰囲気 戦前,通称ひめゆり学園(県立第一高等女学校/焼失)のあった場所に,数店舗の店が誕生したのが発祥といわれています。その後,那覇市は都市化が進みましたが,栄町はそのままの姿を残しているのです。歩いているとなんとなくヤミ市の雰囲気もあり,木造建築が不思議な魅力をたたえています。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 ゆいレール安里駅から徒歩3分 |
○金城(きんじょう)/那覇市首里金城町 | |
●赤瓦の屋根と石畳通りが似合います 地元の人は「カナグスク」といいます。首里城の南側に狭い坂道があって、石畳通りと名付けられています。赤瓦の屋根と石畳が妙にマッチしているのです。この日は地元のボランティアが、草むしりや清掃作業にいそしんでおられました。急坂の作業はたいへんなようです。 ●首里城からだと下り坂なので歩きやすい 途中に「金城村屋」という休憩所があります。また石畳通りを横に入ると、廃屋がいっぱいあって状況は一変します。クルマの入れない坂道の生活は、かなりの負担になるのでしょうか。首里城側から歩けば,ずっと下りなので楽です。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 ゆいレール首里駅から徒歩25分 |
○壺屋(つぼや)/那覇市壺屋 | |
●石垣と方形屋根 那覇には何度も訪れましたが、壺屋ははじめてです。ここは焼物のふるさとでもあります。独特の焼き物で、根強いファンも多いとか。そのせいか訪れる人も多くいようです。 細い道をくねくねと歩きますと、ツタのからまる家屋があったり、古い窯の跡を見つけたりします。石垣と方形屋根の家々と、沖縄の伝統的な町家が並びます。土産物店も多く、ほとんどが壺屋焼を並べています。なお国際通りの牧志や桜坂からも,上りになりますが徒歩で行けます。 ●窯の煙害で深刻な公害問題が発生 昭和21年、壺屋、牧志を中心とする地域が米軍から開放されました。ところが陶業従事者以外の一般市民の住宅がが多くなりました。そのため窯から輩出する煤煙が公害問題となり、燃料を薪からガスに切り替えざるをえません。しかし従来の方式を守るため読谷村(よみたんそん)へ移る窯元も出ました。読谷村は、良質な陶土が豊富にあったことから、陶工にとって最適の場所となり、あいつで転居。いまは多くの作家たちが制作にいそしんでいるそうです。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 壺屋バス停下車徒歩5分 |
○大城(おおぐすく)/北中城村大城 | |
▲中村家住宅/1972年に沖縄が返還されるのを機に国の重要文化財に指定 | |
●古から有力な集落でした 15世紀前半に琉球王国の按司(あんじ)・護佐丸(ごさまる)の弟・安里太親が大城掟となり、安里大親家・賀氏(がうじ)が護佐丸の行政・礼式の顧問となって当地に居住したという伝説があります。また護佐丸の兄で、台グスク(中城村久場集落の背後にある)の城主であった伊寿留(いじゅる)按司の住居跡も伝わっており、古くから有力な集落であったらしい。 ●元地方の豪族や首長を最高地位「按司」を与えました ところで按司(あんじ)とは、琉球国の官名のの一つ。古くは各地の豪族・首長を称していましたが、琉球王国の確立にともない、首里に居住させられました。当時としては最高位の地位とされています。主に王族から任じられて、地方行政区画である間切(まぎり)の領有が認められていました。 ●石垣で囲まれた上層農家・中村家住宅 18世紀中ごろ,琉球王朝時代に建てられた上層農家です。中をのぞいて見ますと,超々々上層農家で,豪華すぎます。太平洋戦争の被害にもあわず,奇跡的に残りました。外は,石垣と石畳みで静かな小路が続きます。国の重要文化財に指定されています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは中村家住宅の無料駐車場に停めました |
○名護(なご)/名護市大中 | |
●那覇まで乗合自動車で3時間と大幅に短縮 名護といえば、名護市辺野古における米軍基地の移設問題で、すっかり有名になりました。名護が本格的に発展したのは、那覇-名護間に県道が開通したのは大正4年3月ごろといえます。客馬車輸送業が誕生したのもこのころです。那覇まで2昼夜の旅程が馬車で半日、さらに乗合自動車(T型フォード)で3時間に短縮されました。さらに郡道も名護を中心に網の目のように開通し、物資の移出や人の動きが盛んになりました。 ●すべて戦後の建物 太平洋戦争で何度かの空襲と米軍侵攻で壊滅したため,建物はすべて戦後のものです。屋根はセメント瓦で,独特の方形屋根の町家が裏道に沿って見られます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名護BTからバス停名護十字街下車すぐ |
○津波(つは)/大宜味村津波 | |
●セメント瓦に方形屋根 反対側は山で,海岸沿いの細長い小さな集落で,独特の方形屋根の町家です。ブロック塀で福木で囲っています。ところで町名は津波の被害が多かったから名付けられたという,ウソのような本当の話。 ●戦前は那覇へ材木の移出を行う 津波村の南側に平南村が隣接していました。津波の被害を受けた平南村の住人は津波村に移り住んだといいます。第2次大戦前は材木などを那覇に移出し、大正~近年までは茶栽培が盛んに行われていました。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
○喜如嘉(きじょか)/大宜味村喜如嘉 | |
●赤瓦の残る静かな里 戦時中,一時途絶えた芭蕉布を戦後,地元の婦人団体が復活。昭和49年に国の重要無形文化財に指定されました。赤瓦に方形屋根の残る静かな里です。 ●安室奈美恵さんの実母が殺害されました 平成11年(1999)3月,喜如嘉で歌手の安室奈美恵さん(当時21歳)の実母(当時48歳)が、再婚相手の義理の弟(当時44歳・安室奈美恵さんとは血縁関係はありません)に殺害されました。犯人の義弟は、事件から4時間後に山中で死亡しているところを発見。農薬による服毒自殺でした。 ●終戦後は収容所となり1万人を収容しました 沖縄戦が激しくなるにつれ、島尻方面などからの避難民が増加、大宜見村(おおぎみそん)では各集落ごとに避難小屋を設置しました。喜如嘉では1438人が割り当てられ、山中の谷間に小屋5棟を建てましたが収容しきれず、民家に分散収容となりました。終戦後は収容所となり、大宜見村の一部住民と、他町村の疎開者を含めた合計1万人を収容しました。 ●地名の由来は『おもろさうし』に見える「きとかさ」が転訛? 喜如嘉は、方言では一般に「チジュカ」といいます。地元では「キザハ」と呼びます。キザハは切り立った場所の意味があるそうです。沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』(国の重要文化財)には「きとかさ」とあり、これらの詞が転訛したものでしょうか。詳細は不明です。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは芭蕉布会館の無料駐車場に停めました |
○奥(おく)/国頭村奥 | |
●方形屋根の民家 沖縄本島・那覇市から最も遠い集落です。国道58号線の本島の起点でもあります。 かつては茅葺き屋根の民家がたくさんあったとされる集落でした。いまでは、母屋は方形屋根にほとんど変わりました。方形屋根の民家は、都心では珍しく、沖縄県でも地方に行かないと見れなくなりました。 ●島津藩の琉球侵入で敗れた琉球兵が逃げ込んできました 古くから与論島などと往来があり、嘉靖18年(1539)、毛姓4世盛美が国頭から与論島以北の島々にかけてを管轄を任じられています。また慶長14年(1609)、島津藩による琉球侵入のときに、敗れた琉球兵が逃げこんできました。 ●辺土名バスターミナルから村営バス なお、路線バスは終点の辺土名(へんとな)バスターミナルまで。ここからは奥集落まで村営バスがあります。奥から先の東海岸(太平洋側)へは、レンタカーでしか回れなので、名護市で借りました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
○安波(あは)/国頭村安波 | |
●なんと茅葺き屋根が 茅葺き(草葺きという人もいる)屋根があると聞いて、探しに探したのがココでした。この安波集落は、元もと茅葺きの建物が多かったそうです。近づいて観察してみると、物置になっており人の住んでいる感じはしません。電気が引いてあったりするので、一応生活感はありました。 それにしても沖縄で茅葺き屋根の建物が本当に存在するなんて驚きでした。安波集落では、もうこの1軒だけになりました。 ●安波港で日本船の船員が乱暴を働き逮捕! 安波村には琉球国の広大な杣山(そまやま)を有していたために、1735年に山林の伐採、密売の取締りと港での船改めをする勤番の詰所が設けられました。そして明治41年、国有林野法の施行以後、安波保護区に指定されました。19世紀中ごろ、安波港に日本船が停泊して乗員が乱暴を働き逮捕されたり、日本船が難破して救助されたこともあります。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました |
○仲宗根(なかそね)/今帰仁村仲宗根 | |
●戦後の建物が中心 大正時代,運天にあった今帰仁村役場を経済活動の中心であったこの地に移したのが始まりです。先の太平洋戦争で,近くの運天港に魚雷艇隊や特殊潜航艇隊などが配置されていたため,激しい爆撃にあい,この仲宗根も被害にあいました。今の建物は戦後のものです。 ●国道から一歩裏手に入ると方形屋根に出会えます 国道505号線沿いは,鉄筋住宅が並んでいますが,一歩裏道に入ると板塀に四角形の屋根など独特の風景に出会えます。屋根はほとんどセメント瓦で葺いています。その周辺は広大なサトウキビ畑です。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名護BTからバス20分の仲宗根下車すぐ |
○伊是名(いぜな)/伊是名村伊是名 | |
▲銘苅家住宅/明治39年に再建。沖縄戦の被害も免れ、保存状態も良好です | |
▲夕食(6000円/なか川館) | ▲三枚肉そば(650円/かみやま) |
●尚円王の出身地で別格扱いの地 琉球王朝の国王・第二尚氏の始祖・尚円(しょうえん)王の出身地であることから,別格扱いを受けていました。また尚円の叔父を始祖とする旧家が,銘苅家住宅(写真・重要文化財)なのです。 ●球王朝時代そのままの地割り そしてもう一つの特徴は,琉球王朝時代の地割りがそのまま残っていることです。特に銘苅家付近は顕著です。ほとんどの石垣はテーブル珊瑚で,屋敷林で風を防ぎます。戦後の農地改革が及ばなかったところと言えるのでしょう。畑も地割り内の屋敷跡にあるのです。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 伊是名港からレンタバイクで5分,銘苅家住宅に停めました |
○勢理客(せりきゃく)/伊是名村勢理客 | |
●地割りが琉球時代のまま 伊是名と同様,琉球王朝の地割りをそのまま残しています。ただ空き地が目立ちます。ところで歩いていて、地名の「せりきゃく」と呼ぶ人は一人もいませんでした。会った人全員が方言の「ジッチャフ」と言います。かろうじて、国土交通省の道路案内に勢理客と明記。 ●窮民の救済や土帝君を石造り改めるなど筑登之を褒賞 乾隆57年(1792)、勢理客村の新城・筑登之(ちくどう)は21年間も耕作担当の職にありました。33反余の苗代田に水を引き、植樹を行い、土帝君(とていくん)を石造りに改めました。さらに村有船の建造や窮民を救済したことによって褒賞されました。土帝君は、県内のあちこちで見られる小さな祠です。いわゆる土地の神さまで、農耕の神さまですが、最近では子育て祈願なども見られます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊是名港からレンタバイクで10分 |
○我喜屋(がきや)/伊平屋村我喜屋 | |
▲チャンポン(600円/花結) | ▲夕食(5000円/伊平屋観光ホテル) |
●稲作も盛んです 伊平屋島の中央部に位置する集落です。地元では「ガンジャ」と言う人も多い。戦前は役場が伊是名島に置かれていて不便を被ったそうです。産業はサトウキビ栽培のほか,稲作も盛んなのは意外。 ●まだまだ多い珊瑚の塀 テーブル珊瑚を積み上げた垣根がズーッと並んでいます。ところどころブロック塀も見られますが,まだまだ珊瑚の塀が残っているのです。赤瓦も多く見かけますが,セメントで造られた瓦も見かけます。しかし空き地になっているところは畑になっていたりと,寂しい気がします。 ●台風に強い珊瑚の塀 珊瑚でできた塀は隙間が多く、風が通り抜けるために強風でも崩れないといわれています。ただ風化した珊瑚の清掃、小動物の巣になったりとマイナス面の評価もあります。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 前泊港からレンタカーで3分,道端に停めました |
○田名(だな)/伊平屋村田名 | |
●消えつつある赤瓦と珊瑚塀 伊平屋島では最北端の集落で,最大の面積を誇っています。しかも最初に形成された集落だとか。斜面と平地からなる町並で,独特の赤瓦や珊瑚の塀が消えつつあります。比較的道幅は広いので,奥までクルマが入れるのが高齢者には利点。 ●消えつつある島唄・『大田名節』 田名を語るとき、『大田名節』(おほだなぶし)という古い島唄を欠かせません。伊平屋島で最初に住んだのが田名集落。作者不詳で600~1000年前ぐらいの歌ではないかという人もいます。いま歌える人は少なく、このままだと消えゆくのみと憂います。YouTubeで三線(さんしん)に合わせた素朴な唄を拝聴しました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 前泊港からレンタカーで15分,脇道に停めました |
○島尻(しまじり)/伊平屋村島尻 | |
●まだまだ残る珊瑚の塀 貝塚がたくさん発見されており,考古学の分野でも注目の集落です。それにしても歩いていますと,珊瑚の塀がまだまだ残っており,家屋も平屋が多く,開放感があります。 ●水不足との闘いでした 飲料水は上之川を利用していましたが、集落から遠く毒蛇も多いため、乾隆年間(1736-95)の中ごろ、集落近くに前の夫地頭(ぶじとう/地頭の補佐役)だった西銘親雲上が井戸を掘りました。また威豊年間(1851-61)の初期に、伊礼・筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん/いわゆる下級士族)と村人5人が各銅銭1000貫文を出し、海の崖付近の湧泉から集落へ水に引いたそうです。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 前泊港からレンタカーで約10分,雑貨店に停めました |
○野甫(のほ)/伊平屋村野甫 | |
●石垣に野甫石を使用 石垣に野甫石を使用しているのが特徴です。四角く加工して積み上げており,伊平屋村全体で使われています。路地から路地を歩いていますと,廃屋や空き地が目立ち,ちょっと寂しい感じがしました。 ●野甫大橋の架橋で水不足が解消 野甫島は最高標高が43mで低い島。野甫集落の周囲はサトウキビ栽培が盛んです。昭和54年に伊平屋から大橋が架橋されました。これによって、電気、水道、交通が伊平屋島と直接つながり、離島苦が解消されたのです。かつて絶対的に飲料水が不足していたため、島民の水の苦労は絶えなかったそうです。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 前泊港からレンタカーで約15分無料駐車場に停めました |
○大川(おおかわ)/石垣市大川 | |
▲旧宮良殿内・国の重要文化財/庭園は国の名勝に指定されています | |
▲マンボウの刺身(700円/しま膳) | ▲やらぶ丼(600円/やらぶ食堂) |
●市街地のど真ん中の静寂 琉球王朝時代,八重山群島の役人・宮良親雲上富演が1819年に建造した私邸を中心にした町並です。伝統的な琉球の建築様式で,国の重要文化財に指定されています。周辺にも古民家を見かけます。 ●人口2110人の登野城村を半分に割って大川村として独立 乾隆(けんりゅう)15年(1750)、人口2110人の登野城村は、下知(げじ/命令)にも差しつかえるので、他村へ寄百姓(よせびゃくしょう/百姓を移住させる制度)していましたが、廻船所があり臨時の寄夫も多いことから、村の西半分の1050人を分けて独立したいと願い出ました。首里王府は乾隆22年(1757)に許可し、大川村として独立しました。 ●独立したのはいいけど、年貢が滞り出しました いよいよ大川村の誕生です。ところがどっこい、独立時から年貢が滞りがちでした。そこで役人たちは勧農に務め、倹約の奨励、牛馬の井戸掘り、用水の整備などに励み、王府から表彰されました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 石垣バスターミナルから徒歩10分 |
○白保(しらほ)/石垣市白保 | |
▲自然保護のしらほサンゴ村 | ▲八重山そば(400円・民宿マエザト) |
●サンゴの石塀の復元運動 歴史のある集落ですが,過去に大津波に襲われ,壊滅的な打撃を受けました。その都度,波照間島から農民を移住させて,「独立村」となっています。 自然に恵まれた地域ですが,サンゴを守る運動の拠点にサンゴ村が設立されました。またサンゴの石垣を復活させる運動も積極的に行われいます。サンゴの垣根は,積み上げれば年月が経つほどに,かたく固まってくるのです。至るところにサンゴの石垣が見られ,沖縄の風景を象徴しています。 ●戦時中、白保の人口94%がマラリアに感染しました 昭和19年、日本陸軍は白保の土地を接収して白保陸軍飛行場を建設に着手し、石垣島内や離島住民まで動員されました。やがて疎開がはじまります。白保住民ははじめ大俣・桃里方面へ、次いで大浜の武那田原の山林に移ります。ところがそこでマラリアに感染しだしたのです。昭和20年の人口が1255人のうち94%の1184人が発病し、169人が死亡しました。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマはしらほサンゴ村に停めました |
○明石(あかいし)/石垣市伊原間明石 | |
●開拓村は植栽の垣根 明石は伊原間(いばるま)の小字に当たります。古くから牧場でしたが,昭和30年代,政府計画移民として県内各地からの入植でできた新しい村です。そのせいかサンゴの石垣ではなく,植栽で垣根が作られ,他の歴史ある集落と印象が違っています。 ●島田紳助さんのお店は撤退されています ココにはタレントの島田紳助さんのお店「トムル」がありましたが、すでに完全撤退されています。いまは「カフェ・はるやマリナーダ」に変わりましたが、伸助さんの等身大の人形は敷地内に立っています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
○川平(かびら)/石垣市川平 | |
●風水師のお告げで移転をくりかした集落 石垣でもかなり歴史のある集落です。伝承によれば,集落発祥の地は仲間盛(なかまむり)一帯の仲間村で,その周辺に幾つかの小さな村々がありました。ところが風水師の見立てで,康熙25年(1686)ごろから明治42年ごろまでに,移転を繰り返し,現在の川平になったとか。 ●赤瓦の大きな建物が特徴 信仰の中心である宮鳥御嶽の周囲に,赤瓦とサンゴの石垣の残された町並が続きます。建物は幾つかに分かれるのではなく,つながっているのが特徴。そのせいか大きな建物です。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道路沿いに停めました |
○竹富島(たけとみじま)/竹富町竹富 | |
▲三線を聞きながらの水牛車観光 | ▲サンゴの塀はどこまでも続きます |
●極彩色の花と緑と空の島 漆喰で固めた大小の赤い屋根瓦が目につきます。白砂の道、その両側には民家の塀でもある石垣が続くのです。そして極彩色の花と緑が、強烈な太陽に映えています。 ●門も玄関もない独特の造り 門がなく玄関がないという、独特の造りに都会の人間は疑問をいだきます。屋敷を石垣で囲み、正面は石垣で造った目隠しがあり、その後ろには母屋があるのです。屋敷の大小はいろいろありますが、都会の人間からみると、うらやましい反面、用心が悪いのではないかと思ってしまいます。 ●『竹富島憲章』が生きています 昭和61年(1986)に、島の伝統文化や自然環境を守るための『竹富島憲章』が制定されました。そのなかに屋敷の周囲の囲いはサンゴの石灰岩の野面積みとする、という一項があります。島の景観保全に力を入れている証拠です。もちろん新築、解体、増改築なども細かい規定があります。重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 石垣港離島ターミナルから高速船 |
○波照間(はてるま)/竹富町波照間 | |
▲サンゴの塀は独特の景観を守ります | ▲ほとんどの家屋は屋敷林内です |
▲なんでも売っている雑貨店 | ▲民宿星空荘の夕食 |
●日本最南端の島 有人島では日本最南端の島です。東京から1泊2日で行きました。島内観光はレンタバイクを使えば十分に時間はあります。飛行機を使えば、国内のほとんどは1泊2日で行けると確信しています。 島内は赤い瓦屋根の独特に家屋が並び、サンゴの石垣に囲まれています。屋敷林が生い茂っていて、民家は石垣で見づらいですが、台風から守るためでしょう。人口は588人で265世帯です。 ●殺人事件で挙動不審者に対する目つきが変わる 平成12年(2000)10月に、ニシ浜で女性(当時26歳)が殺害されました。犯人(当時26歳)は石垣市のフェリー乗り場で逮捕されました。事件なんてめったに起こらない島内は大騒ぎ。この事件から、島内での野宿は禁止されたのですが、何より島民の観光客に対する目つきが変わったことです。明らかに観光客とわかる場合はいいのですが、男が一人でブラブラとしてると、すぐに警戒警報が島民たちに広がるそうです。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 石垣港離島ターミナルから高速フェリー |
○渡名喜(となき)/渡名喜村渡名喜 | |
▲砂地の道路は大雨でも吸収 | ▲フクギは防火にも役立っています |
●道から一段下がった家屋 観光の島・久米島に向かう途中で立ち寄る小さな島です。下船する人はきわめて少ないです。こんな小さい島でも歩くとなると,かなりきついものです。 歩いていると,何か変だなと思ったのが,道路から一段下がったところに家屋があるのです。たぶん少しでも低くして風の抵抗を弱めるためかも知れません。また石垣の内側には立派な屋敷林が生い茂っています。これも風よけです。ただし防火の役割も果たしています。石垣はテーブルサンゴやサンゴ石灰岩で野面積みです。 ●旧フル(ブタの飼育とトイレの併設)も見られます 屋敷の中央部には寄棟造で赤瓦葺きの主屋があります。そのまわりには物置やフル(飼育小屋兼トイレ)などがあります。フルというのは便所を兼ねたブタの飼育小屋のことです。ただ昭和初期、衛生上からブタ小屋と便所を併設することが禁じられました。施設はそのまま残っています。 ●大雨が降っても砂地の道路は雨を吸収 島全体が砂地であるため、道路は白砂のままです。雨が降っても吸収率が高いので、あふれることがありません。T字路の突き当たりには魔除けの石敢當(いしがんとう)や力石が置かれています。重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 那覇市泊港から船 |