小田原市(おだわらし)

○曽我(そが)/小田原市曽我別所 
 
山腹の小路沿いに農家
 曾我兄弟が親の敵討ちを描いた『曽我物語』の舞台となったところです。同時に梅林でも有名で,小高い山腹を縫うように巡る小路の両側に広がっています。また富士山の眺めは絶景とか。そんな小路の両側に素朴な農家の土蔵や古民家が点在しています。ちなみに城前寺には曽我兄弟の供養塔があります。
村の境界線が錯綜するほどでした
 江戸時代は曽我別所村。幕末まで小田原藩領、村高は400石余で小田原宿へ助郷を務めています。山腹を通る小路が入り組んでいるのですが、『新編相模国風土記稿』によれば、他の4村を合わせて曽我5村と呼んでいるそうです。ところがその土地が錯綜し村の境界線が複雑怪奇ゆえに、村単位の家数は記載できないとあります。迷路の理由がわかります。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR御殿場線下曽我駅から徒歩15分
 
○鴨宮(かものみや)/小田原市鴨宮 
 
   
▲岩瀬家住宅/国の登録文化財  ▲蔵もいたる所で見られます 
茅葺き屋根が見られます
 古くは柳の老樹が多かったので柳下とよばれましたが、地元の守り神である加茂宮とし、江戸時代に鴨宮の字が当てられました。いま歩いていますと、昔からの町並みも新し住宅に変わってきていますが、ときおり茅葺き屋根も見られます。 
小田原城の火消し役村
 江戸時代は鴨宮村で、幕末まで小田原藩領でした。村高は800石前後で小田原宿へ助郷を務めています。おもしろいのは、小田原城火消し役村の一つであったことです。江戸、京、大坂など大都市には大名をはじめ、町方などに火消し役を組織化しています。小田原藩はさらに周辺の村々にも火消し役を命じ、そのため村は人足を派遣していました。やはり火災が多かったのでしょう。
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR東海道本線鴨宮駅から徒歩12分
 
○本町(ほんちょう)/小田原市本町 
 
   
▲だるま料理店本店/国登録文化財   ▲佐藤和夫法律事務所/昭和7~8年築 
   
 ▲ 旧明和銀行/昭和3年  ▲S邸/昭和初期の建築と推定
江戸時代からある町名“本町”
 本町と名の付く地名は全国各地にありますが、その大部分は戦後の町名改正で名付けられました。ところが小田原市の本町は江戸時代からの歴史ある町名なのです。『新編相模国風土記稿』によれば、小田原北条氏の時代には「通小路」でしたが、江戸時代前期に、この町を基準に町人町を左右に町割りしたときに「本町」と改められました。その後、隣の宮前町とともに小田原宿の中心地となりました。
●ビルの谷間に近代木造住宅群
 ビルの谷間に、近代木造住宅群が「風情のかたまり」となって佇んでいるのです。なんとも楽しい散歩になりました。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩15分
○かまぼこ通り/小田原市本町3丁目 
 
   
▲ 小田原宿なりわい交流館/昭和7年に造られた旧網問屋を改築したもの。小田原の典型的な商家の造りです。市内の観光案内やトイレ休憩に最適です
朝鮮通信使往来の時はみやげ用として魚類を並べる
 古来から商人が座を構えて魚市立てていたところです。別に名主・組頭が置かれており、地子(じし/地代)は免除されていました。貞享3年(1686)、『小田原町明細書上』によれば宮前町や千度小路(せんどこうじ)など、75軒の魚座役屋敷がありました。朝鮮通信使往来のの際は、藩主から与えられた竹木で、魚店をちょっと見栄え良く修築、みやげ用の魚類を並べたそうです。
老舗の2代目が集まりかまぼこで町おこし!
 明治に入ると幾つかの魚市場が消えていきます。千度小路の山田小兵衛、山田又市の市場が合併、さらに代官町の二見初右衛門の市場とも合併し小田原魚市場となります。しかし昭和43年に早川漁港に移転。以後、町は急速に寂れます。それでもかまぼこを製造、販売する店は残ります。この町の特徴に、干物屋なども含めて水産業に関わる人たちが多く住んでいることです。老舗店の2代目が集まり「かまぼこ通り活性化協議会」を結成して、今日に至っています。
旧東海道と千度小路に老舗かまぼこ店
 十数軒のかまぼこて店を中心に、かまぼこの食べ歩きができる町を目指しているとか。本町は小田原宿でもっとも賑やかで中心地でした。そんな雰囲気をも生かしながら町を歩きます。かまぼこ通りは2本の通りから成り立っています。旧東海道と千度小路です。いずれも老舗のかまぼこ店が軒を並べています。   
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩15分
 
○浜町(はまちょう)/小田原市浜町 
 
寺院が多く、線香の煙が絶えなかった
 この日は山王神社の例大祭で,町中だんじりや子ども御輿などが出ていました。男たちのはっぴには抹香町(まっこうちょう)という名前が染めてあります。そうココはかつて抹香町と呼ばれていた,いわゆる遊郭。地名の由来は近くに十王堂(閻魔堂)や寺院が多く、線香の煙が絶えなかったからといいます。
●面影が残る旧遊郭・抹香町
 小田原市内にはこの日3つの大きな神社の例大祭が行われており,朝からとても賑やかです。そんななかを路地から路地を歩いていますと,黒塀があったり妓楼や待合を思わせるような建物が見られます。娼妓は30人前後いたとか。地名の浜町の由来は海岸沿いに位置するところからだそうです。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩20分
○手代町(てだいちょう)/小田原市栄町4丁目 
 
   
▲小田原カトリック教会/昭和6年築。設計したルイ・マトンは司祭でもあります  ▲笠守稲荷神社/新開地で働く娼妓の信仰が厚く“瘡守”神社とも呼ばれた 
古民家が点在し、城下町の面影を感じます
 江戸時代の町名です。『新編相模国風土記稿』では「まち」と明記されています。この地の北西角に手代が住んでいたそうですが、実際は30石から150石の武士が住んでいました。ところで手代は商家の者ではなく、奉行や代官の下役(足軽)のことです。この辺りは古民家が点在しており、城下町の面影が見られます。なお、元禄16年(1703)の大地震で、全戸倒壊したそうです。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩20分
 ○国府津(こうづ)/小田原市国府津
 
明治、大正は箱根への乗り換え駅でにぎわう
 驚きました。古い洋館や看板建築などが途切れ途切れに並んでいるのです。なぜこんな町に,と疑問が湧いたのです。
 明治,大正時代は箱根方面への小田原馬車鉄道への乗り換え駅で,たいへん賑わったそうです。さらに東海道本線が御殿場線経由で開通すると,国鉄の連結作業のため多くの人が集まり、町はますます発展したとか。しかし丹那トンネルが開通すると,一気に寂れます。
古い洋館や看板建築がズラリ
 いま歩いて見ますと、カラフルな建物やオシャレなデザインの看板建築が見られます。ところで地名は、平安時代、国府の外港にあったことに由来するそうです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR東海道本線国府津駅からすぐ 
○西海子小路(さいかちこうじ)/小田原市南町 
 
   
▲小田原文学館/白壁の洋風建築で、屋根はスペインから輸入された瓦 
旧武家屋敷通り
 江戸時代は17の武家屋敷がずらりと並んでいたところです。いまはたまに車が通るオシャレな住宅地でもあります。もちろん武家屋敷を思わせる建物はありません。歩道には桜が植わっており,春ともなれば花見客でにぎわう小路でもあります。
 また多くの文学者が居を構え,文学活動が盛んに行われていました。この小路の一画にある小田原文学館は,北村透谷,北原白秋,谷崎潤一郎など,小田原にゆかりのある文豪の資料を展示しています。
サイカチはバラ化科の植物名
 ところでこの奇妙な地名は、この地に「サイカチ」の木が植えられていたことが由来だとか。
サイカチとはバラ科の木で、15mくらいの高さにまでまっすぐに伸びます。幹や枝にはするどいトゲがあるので、街路樹として嫌われたかも知れません。ほかにも地名の由来があるようです。
黴毒病院がこの地に移転
 これは余談ですが、明治21年(1888)に黴毒病院がこの地に移転。娼妓たちは強制的に検診を受けさせらていました。 
  感動度★★★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩20分
○諸白小路(もろはくこうじ)/小田原市南町 
 
   
▲ 小田原聖十字教会/昭和2年築  ▲三好達治旧居跡の碑 
旧中級武士の屋敷町
 小田原城主稲葉正則の時代、この地に上方から酒を造る職人・杜氏を招いて諸白酒を造らせたことから、この地名が生まれたそうです。諸白酒とは、当時の濁り酒などと比べてかなり高価な酒でした。さて道の両側は中級武士の屋敷群でした。いまは高級住宅です
教会の付属幼稚園に通う子どもの親がスゴイ!
 小田原聖十字教会は明治42年(1909)の設立で歴史は古い。当時の建物は関東大震災で倒壊。昭和2年に再建されました。付属の花園幼稚園は大正5年(1916)の設立。この幼稚園には、谷崎潤一郎の娘・鮎子、北原白秋の長男・隆太郎、三好達治の娘・松子ら通ったそうです。いやはや、親の顔ぶれがスゴイ! 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩17分
 
○板橋(いたばし)/小田原市板橋 
 
   
▲ところどころに古民家が残ります ▲近代建築も生活感がでています
   
▲改築、改装された古民家は多い ▲今も静かに流れる小田原用水 
別荘地と職人の町
 旧東海道・小田原宿を出て最初の町で、職人が多く住んでいるところでした。間口が狭く奥行きのある江戸期の面影を残す町家が見られます。また豪華な蔵造りの商家がところどころに残っています。職人の町のイメージは全く残っていませんが、行列のできる豆腐屋「とうふ工房」も歴史的な建物でしたが、いまは廃業されていました。旅人は小田原宿を出て、「さあ箱根に向かうぞ!」と元気よく歩き始めた集落です。なお元禄時代からは小田原宿の助郷となっています。
裏道は一気に静まりかえります
 一歩裏側に入ると、寺院があり、一気に静かになります。このあたりは別荘地帯というのもわかるような気もします。地名は土橋が通例の時代、景観上あえて板橋と名付けたとか。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 箱根登山鉄道箱根板橋駅から徒歩10分 
○早川(はやかわ)/小田原市早川 
 
   
▲このあたりは東京の通勤圏ですが、旧熱海道沿いを歩くと古民家が見られる
旧熱海道沿いの集落
 小田原から分岐する熱海道沿いの集落です。小田原宿の助郷でもあります。藩主の熱海巡視や遊覧は,この地から船を出したそうです。今はところどころに石垣と植栽が連なり,また土蔵などの古民家も見られる美しい町並みです。
西方の石垣山は歴史の表舞台
 西方にある石垣山は藩の御用林で、北条早雲が小田原を攻める際して、石垣山に攻め登りました。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻める際に、秀吉は城を築きました。早川集落から大手口まで道程は約15町(約1636m)。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR東海道本線早川駅から徒歩10分
 
○風祭(かざまつり)/小田原市風祭 
 
   
▲旧菊地家主屋と土蔵/秋田県から移築・国の登録文化財(現・かまぼこの里)  
旧東海道沿いに古民家
 江戸時代の旧風祭村は小田原藩領で、小田原宿の助郷でした。ところで、かわいい地名は、“風”に関する農業神事からきているといわれますが、中世の地頭・風祭氏にちなんだ説もあるとか。旧東海道沿いの集落で、古民家が点在しています。
かまぼこの里に歴史的建造物群
 今はかまぼこの里に多くの古民家が見られます。このかまぼこの里は箱根駅伝の中継地としても知られています。かまぼこの里はかまぼこの大手メーカー・鈴廣が中心になって作り上げた“かまぼこのミュ-ジアム” 
とでもいおうか。歴史的建造物も多く、見ごたえのある建物にひかれます。 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 箱根登山鉄道風祭駅から徒歩10分
 
○入生田(いりうだ)/小田原市入生田
 
時期によって混雑します
 旧東海道は、ほぼ箱根登山鉄道に沿って通っています。入生田駅は県立地球博物館があるため、展示会の内容次第で混雑するとか。また紹太寺の桜の時期も同じ。しかし何も無いときは、静かな集落です。
古民家は旧東海道の両側に続く
 旧街道を歩いていますと、取り立てて東海道を象徴するような碑があるわけではありません。古民家が左右にポツン、ポツンと見られます。しかし交通量も少なく、ときおりハイカーが歩く程度の集落ですので、実にのんびりできます。
 変わった地名は、谷間に入り会う形で水田が展開していることにちなむという説もあります。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 箱根登山鉄道入生田駅から徒歩10分

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