西成区(にしなりく)
○玉出(たまで)/大阪市西成区玉出 | |
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●横道に入ったアーケード街 このユニークな地名の由来は諸説あります。神話の海神の豊玉彦に由来する「井戸の御社」の場所を「珠出岸」(玉手の岸)にちなむ説。仁治年間(1240-43)に開発され、住吉神社領となったとき「玉出の里」と呼ばれたとか,玉出嶋と称したとかさまざまないわれがあります。その後の幾多の町名変更の際でも、玉出が受け継がれてきました。 ●昭和の香りがプンプンします 駅を出ますと玉出本通商店街のアーケードがあります。昭和の香りがプンプンするところです。ほとんどが看板建築ですが、アーケードで隠れています。でも横道に入った薄暗いアーケードの商店街こそ面白みがあります。 ●玉出といえば「スーパ玉出」の本社 大阪の人にとって、玉出といえば、超激安で知られるスーパー玉出。市内各所にありますが、しかし梅田周辺や阪急沿線の北側だけはいまだに進出できないでいます。一度進出したものの、あえなく撤退ということがあったようです。どうも「玉出」という名と、「1円でも安く」という価格競争とは無縁の地域だからだといいますが…。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 南海本線岸里玉出駅から徒歩5分 |
○山王(さんのう)/大阪市西成区山王 | |
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▲動物園前駅からのやや寂れた通りを歩くと芸人横丁へたどり着く | ▲「てんのじ村記念碑」の横に「上方演芸発祥の地」の銘板があります |
●今でも残る「てんのじ村」の旧芸人横丁 昭和46年にNHKテレビ『新日本紀行・浪華芸人横丁』が放映されました。それが平成20年に最近の映像も加えて再放送された『よみがえる新日本紀行 浪華芸人横丁-大阪天王寺・山王町』を見て、現地を訪ねました。通天閣やジャンジャン横丁周辺との景観の落差に驚きますが、長屋、横丁がそのまま残り、親しみの持てる町並みでした。ただ再開発の標的にされており、空き地が目立つようになりました。 ●戦災で焼き出された芸人たちが住みました 昭和初期に活躍した漫才師・松鶴家団之助(しょかくやだんのすけ)が、戦後になって焼き出された芸人たちを集めて近所の焼け残った長屋に住まわせたました。そして団之助が自ら芸能社の社長になり、金に困っていた芸人たちに仕事を斡旋。それを伝え聞いた多くの芸人たちが集まりだしたのが芸人横丁のはじまりです。芸人たちは、親しみを込めて「てんのじ村」と呼びました。夢路いとし・こいし、海原お浜・小浜、中田ダイマル・ラケット、ぼやき万歳の人生幸朗・生恵幸子などが住み、後に巣立っていきました。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 大阪メトロ御堂筋線動物園前駅から徒歩10分 |
○飛田(とびた)/大阪市西成区山王3 | |
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▲窓のデザインに凝っていますが(?)飲食店もあります | ▲木造モルタル塗り2階建てで長屋風看板建築 |
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▲鯛よし百番/国の登録文化財・遊郭をそのまま料亭して活用 | ▲味噌汁のミニ焼きサバ定食/早朝に利用しました(360円/街かど屋) |
●ユニークな建築群 江戸時代は、市内七大墓地の一つで、刑場もありました。大正7年(1918年)に飛田遊郭が開業しました。これは明治45年にミナミの大火で焼け出された業者が新天地を求めて,この地に来たといいます。そして大正末期には,松島とともに大阪の2大遊郭といわれました。大正5年末に貸し座敷187軒、娼妓2300人、芸妓15人。そして戦前の娼妓の数は1628人というからまさにマンモス遊郭 ●いま中国人観光客が団体で殺到! この発展は,飛田の郊外にまで及び,そのうちの一つ通天閣横のジャンジャン横丁の発展にもつながっています。いま外国人、特に中国人観光客が団体で殺到しているそうです。 朝7時ごろ訪ねました。さすが夜の町,静まり返っています。飛田の周囲はマンションなどの高層住宅が建ち並んでいますが,景観の落差に驚きます。 ●旧「遊郭」が登録文化財 『鯛よし百番』は国の文化財に登録。今は普通の料理屋です。近辺にはまたカフェを思わせる疑洋館風も多い。 *飛田は現役のソープ街です。撮影は慎重に。早朝がいいでしょう。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄阿倍野駅から徒歩10分 |