西区(にしく)

○松島(まつしま)/大阪市西区九条1丁目 
 
   
▲2階の手すりが特徴的  ▲玄関の千鳥破風が面白い 
   
 ▲「待合」が続きます  ▲きつねうどん(300円・大和庵)
独特の町並み・松島新地
 一歩足を踏み入れて驚きました。何か別世界に入った感じがします。独特の千鳥破風(?)というべきか,妻入り,平入りなどいろいろありますが,やはり「遊郭造り」というべきでしょうか。
 旧松島遊郭は明治2年に町の繁栄を目指して,行政が設置しました。当初、松ヶ鼻新開地を松島と改称しました。そして市内各所に点在していた貸座敷を集めたのが、その後の発展へとつながりました。最盛期には260軒、娼妓は3700人という驚くべき数です。行政の都市計画のうえにできた町だけに,歩いてみて整然としているのが特徴といえます。
●一般住宅化しつつあります
 このあたりは戦災にあわなかったせいか,戦前の建物もいくつか残っているようです。ほとんどが木造モルタル塗りです。ただ端の方から一般住宅に変わりつつあるのが現状です。

2階の手すりがいい感じ
 松島という名は現在「松島料理組合」に残っています。昭和33年4月に売春防止法が公布されましたが,いまは「小料理」,「待合」という名で生きていますが衰退しつつあるようです。2階の手すりがいい感じです。 ▲現役のソープ街だけに夜の撮影には注意
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 大阪メトロ中央線九条駅から徒歩5分
 
○九条(くじょう)/大阪市西区九条3丁目 
 
蔵造りの町家が多い
 江戸時代,土豪や庄屋など実力者たちがどんどん開発していきました。しかしながらその開発が淀川の流れを悪くし、たびたび洪水に見舞われたのです。貞享元年(1684)、幕府は河村瑞賢に命じて当地を縦貫する安治川を開削。その後新地33町が誕生。そのため水運が発展し,交通の要衝となりました。
河村瑞賢が幕命により安治川の開削
 河村瑞賢(かわむらずいけん)は江戸時代の土木家。江戸屈指の材木屋でもあります。明暦の大火では木曽福島の材木を買い占め、巨万の富を築いたそうです。河川工事や航路の整備しました。特に寛文12年(1672)に酒田から下関を通り、大坂・江戸へ向かう西回り航路を整備しました。整備というのは、途中寄港する港の改良、食糧・水の調達、寄港地の各商人との取り決めも含みます。
いろいろなタイプの町家が集合
 町並みは豪農や庄屋,料理屋が混ざった複雑な様相を示しています。意外に蔵造りが多い感じがしました。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 大阪メトロ中央線九条駅から徒歩15分
 
○堀江(ほりえ)/大阪市西区北堀江 
 
   
▲阿弥陀池の欄干に「堀江廊」とある ▲古典落語の舞台にもなった和光寺
河村瑞軒が開削した堀江川
 元禄11年(1698)、河村瑞軒(かわむらずいけん)が開削した堀が堀江川にあたります。長堀川と道頓堀川の間を東西に流れます。そして川によって新たに造成された北側を北堀江、南側を南堀江とし、両者で24の町に分けました。また幸町など他の町を合わせて“堀江三十三町”とも称したとか。なお南堀江は大坂相撲発祥の地でもあります。
たいへんな賑わいを見せた堀江遊郭
 北堀江には和光寺があります。別名が阿弥陀池(あみだいけ)ともいいました。江戸時代の建立で、たいへん賑わった所です。境内には浄瑠璃の席、講釈の寄席、軽業師の見世物、物売りの店が並びました。特に富くじと植木市が有名。周辺は「いろは茶屋」と称する47軒の遊郭があったとか。遊郭は、明治5年の明治政府の遊女解放令で廃止されますが、貸し座敷として戦後まで続きます。『全国遊郭案内』(昭和5年刊)によれば、貸し座敷が155軒、娼妓43人。ただ芸妓が約800人居るとこのとです。いま歩いてみますと、往時の面影は全くありません。
尼寺・和光寺にピストル強盗が入る……
 ところで和光寺は尼寺です。そこで上方落語の演目『阿弥陀池』(明治39年初演)の舞台になっています。
 「新聞を読んだことがない」と豪語する喜六が物知りの隠居から、先日尼寺の和光寺にピストル強盗が入ったことを知らされます。尼僧は強盗に「日露戦争で、私の夫・山本大尉は乳の下、心臓を一発のもと打ち抜かれて名誉の戦死。私も同じ死ぬなら、夫と同じ所を撃ってほしい」と胸をはだけて懇願。すると強盗は「山本大尉は命の恩人、申し訳ない」とピストルをこめかみに当てて自殺しようとする。尼僧は「おまえは根っからの悪人ではない。誰かが行けとそそのかしたのであろう。誰が行けと言うた?」。強盗は「へえ、阿弥陀が行け、と言いました」。
 隠居からこの話を聞いた粗忽者・喜六は、オチに感心してあちこちでしゃべろうとするが失敗ばかりするという内容です。桂米朝、桂枝雀、桂ざこばらが得意ネタとしています。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 大阪メトロ千日前線西長堀駅から徒歩5分
 
○本田(ほんでん)/大阪市西区本田 
 
蔵造りの商家や2階建て棟割り長屋が点在
 幕末の慶應3年(1867)に、幕府は隣接する川口(現・港区)に外国人居留地を設置し、欧米などの列強国が進出しました。その時、当地・本田は「雑居地」に組み入れられ、外国人と日本人の両方が住んでもいいことになりました。そのため中国人がどんどん移入してきました。明治政府も幕府の政策を引き継いだのですが、大型商船の接岸に不向きであることなどで、貿易は下火になり、中国人たちは神戸の居留地区に移転。結局ごく普通の大阪の町になったのです。
空襲から逃れた奇跡の町並み
 隣の川口は戦災に遭いましたが、本田の一部は空襲にも遭うことなく、昔ながらの町家が残されました。格子戸や虫籠窓のある町家などが点在しており、大阪独特の2階建て棟割り長屋も数多く見られます。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 大阪メトロ中央線九条駅から徒歩20分
○川口(かわぐち)/大阪市西区川口 
 
   
▲日本聖公会川口基督教会聖堂/大正9年築・国の登録文化財 ▲木津川から見た川口の町並み。木造建築が残っています 
『信長公記』にも登場する川口
 古くは河口と書きました。『信長公記』の元亀元年(1570)8月日条に「川口」の名が出てきます。続いて信長公は天王寺に御居陣なりとあります。つまり織田信長は野田、福島の三好党攻略のために、当地一帯を陣とったのです。
明治初期に外国人居留地がありました
 とは言え、川口の名が広がったのは慶応4年(1868)の大阪開港で、外国人居留地を設置したことです。早速26区画を諸外国への競売を実施。即完売し居留地に接する地も外国人雑居地となりました。付近には大阪府庁舎、大阪市庁舎などを建設。さらに大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェなどが登場。まさに川口は文明開化、近代化の象徴のような町でした。
水深が浅く短命に終わった居留地
 ところが安治川左岸の水深が浅く、大型船舶が入港できず貿易量が次第に縮小。多くの外国人達は、良港を抱える隣の神戸に移転しはじめ、川口外国人居留地の役割は短命の終わったのです。いま、地味な倉庫街となりましたが、大正時代末期の大きな旧川口アパートが残ります。またレンガ造の川口基督教会も存在感を示しています。
大阪初のカフェが誕生しました
 明治末期に大阪で初めてカフェが登場したのが川口です。店名は『カッフェー・キサラギ』です。現在の川口基督教会の南東に位置していました。木津川沿いにあって、窓からモダンナ旧大阪府庁を望むことができました。店に入るとクツを脱ぎ、スリッパに履き替えます。板敷きの中央には大きなストーブが置かれ、その周囲に木製のテーブルやイスが無造作に置かれていたとか。大阪初のカフェとあって、文化人や芝居役者など連日押しかけたそうです。店のスケッチ画が本田小学校のフェンスに飾ってあります。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 大阪メトロ中央線阿波座駅から徒歩10分



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