練馬(ねりま)/練馬区練馬 | |
▲快楽院/文禄3年(1594)に開基 | ▲仁寿院/千葉周作の墓 |
▲本性院/蓮誉台休和尚が開基 | ▲假宿院/文禄4年(1595)に開基 |
▲得生院/龍誉上人が開基 | ▲稱名院/寛永年間(1624-44)開基 |
▲林宗院/岡部覚弥の墓 | ▲受用院/池永道雲の墓(文化財) |
▲宗周院/寛永年間(1624-44)開基 | ▲九品院/新築工事中(完成予想図) |
●田島山十一ケ寺の寺町 たくさんの寺が並んでいますが,かつて浅草にあった田島山誓願寺の支院です。本山は知恩院です。関東大震災後,この地に移転してきたのです。だから宗派も浄土宗のみ。本寺の誓願寺はは東京都府中市に移転しました。現在は誓願寺と田島山十一ヶ寺とは関係ないそうです。駅近くにも関わらず人も車も少ないのがうれしいです。 ●九品院の蕎麦食い地蔵って何? 明暦3年(1657)の大火で江戸の町は焼け野原になりました。その後、浅草広小路のそば屋・尾張屋に一人の気品ある僧侶がやって来てきました。店主は「きっと徳の高い僧にちがいない」と思い、あつくもてなし、蕎麦を食べさせました。僧侶は大変感謝して帰っていきましたが、翌日も翌々日もやってきたのです。毎回、蕎麦を御馳走していた店主も、「これはおかしい」と思い僧侶のあとをつけました。すると僧は近くの誓願寺の地蔵堂のなかに消えていったのです。 ●蕎麦のもてなしに感謝した僧侶のお礼は? その夜、店主の夢の中にお地蔵さまが現れて、「いままでのあついもてなしに感謝して、お礼にあなたの一家を災いからまもりましょう」とお告げがありました。その後、江戸中に悪い病気が流行したときも、尾張屋は難をのがれたそうです。その逸話が広がり、お地蔵さまは「蕎麦食い地蔵」と呼ばれるようになりました。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 都営地下鉄大江戸線,西武豊島線豊島園駅から徒歩3分 |
江古田(えごた)/練馬区栄町 |
●その昔、板橋区江古田町でした 元は上板橋村の小名として『新編武蔵国風土記稿』に記載されています。昭和7年(1932)に東京市に編入された際には板橋区江古田町でした。昭和22年から練馬区に所属となったのですが、昭和35年に中野区の江古田と区別するために、町名を改称したのです。 ●北口の路地は昭和の香り さて、大正11年武蔵大学,昭和初期に武蔵野音楽大学,日本大学芸術学部が開校。戦後は学生の街として賑わい,生活必需品が安く買えるとあって多くの人たちが集まりました。北口は迷路のような昭和の香りがします。なお、駅名は「えこだ」と読ましています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 西武池袋線江古田駅から徒歩4分 |
小竹(こたけ)/練馬区小竹町 | |
▲佐々木家住宅・国の登録文化財 | ▲当時は1区画100坪以上でした |
●昭和初期の分譲地の面影 同潤会はアパートだけではなく、郊外にも分譲地を開発し、木造分譲住宅事業も行っていました。江古田分譲住宅は1934年に、3500坪の土地を30分割し30棟を販売。和風でも洋間があったりと、和洋折衷が多かったとか。佐々木家住宅は、その代表例です。佐々木家に限らずいまほとんどが改築、改装されています。 ●「江古田富士」は文化財に指定 浅間(せんげん)神社には、人造富士が存在します。「江古田富士」として親しまれており富士講の中心地です。高さ8m、直径30mの大きさで天保10年(1839)に、富士山の溶岩で覆われています。都内の富士塚のなかでもかなり大きいものです。区の文化財に指定されています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 西武池袋線江古田駅から徒歩10分 |
羽沢(はざわ)/練馬区羽沢 | |
▲青柳家住宅/国の登録文化財 | ▲板塀と美しい植栽が残ります |
●植栽に隠れた古民家 昭和初期の江古田駅周辺の宅地開発の一環として建てられた住宅地です。世代も変わり、ほとんどが改築されています。歩いていますとなかには生い茂った植栽に隠れて、本瓦葺きの木造の民家が見えてきます。地名の由来は飛来した鶴の羽が多く落ちていたからとか。 ●元の読みを伝えているのが「羽根沢稲荷神社」です もともとの地名は羽根澤と書きました。明治以降、羽沢前、南羽沢、北羽沢など“根”を省略して書くことが多かったようです。昭和37年に練馬区南町を細分化するとき、羽沢と命名されて昔の地名が復活。呼び名も「はざわ」と“ね”を抜いて表現。いま元の呼び名を伝えているのが「羽根沢稲荷神社」です。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 西武有楽町線新桜台駅から徒歩5分 |
早宮(はやみや)/練馬区早宮 | |
▲内田家住宅/大きな屋敷林の中 | ▲旧宅の1区画は広大な敷地です |
●屋敷林周辺に点在 典型的な郊外の住宅地。関東大震災以降に人口が増えた地域です。高低差のある所で、古民家は少なく、内田家住宅の屋敷林周辺に、少し残されています。練馬区は屋敷林をできるだけ保存すようにしています。地名は小字の早渕と宮ヶ谷戸を合成しました。 ●アンケートの結果、早宮と決まりました 昭和40年(1965)に誕生した地名です。区は新地名の命名にさいしアンケートがとられました。結果、①桜川、②双葉、③早宮、④開進、⑤鈴代……となりました。①の桜川はすでに存在し、②や④は学校名として存在していることから、③の早宮に決まったそうです。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 都営地下鉄大江戸線豊島園駅から徒歩10分 |
春日町(かすがちょう)/練馬区春日町 | |
▲相原正太郎家住宅/区登録文化財 | ▲春日神社/昔から地元の守り神です |
●鎮守の春日神社周辺に 町名自体は新しく、旧上練馬区内の幾つかの集落が集まって、昭和7年に板橋区練馬春日町になりました。由来は上練馬の鎮守であった、春日神社にちなむそうです。春日神社周辺に幾つかの古民家が見られますが、大半は現代住宅です。なお春日町にあった銭湯・鹿島湯は惜しまれながら廃業しました。 ●相原家は農村における商家の実例建築 寄せ棟造りで茅葺き(現在は鉄板葺き)、妻入りの商家住宅です。改造も少なく、建築当初の推定復元が可能で、江戸時代末期の商家住宅例として意義があります。なにより農村における商家住宅のあり方を考えさせらます。相原家は非公開です。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 都営地下鉄大江戸線練馬春日町駅から徒歩10分 |
田柄(たがら)/練馬区田柄 | |
▲相原家薬医門/区の指定文化財・南部藩との関係から「南部の赤門」の異名 | |
●広大な敷地に残る旧家 『新編武蔵国風土記稿』には、上練馬村と下練馬村の両方に小名として記載。江戸時代は農村風景を見せていたとか。いま歩いていますと、旧家と思われる広大な敷地に、古民家が点在。また畑も至る所に残されており、ノンビリとできるところ。 ●薬医門は「南部の赤門」と呼ばれていました 相原家はこの付近一帯の組頭を務めた豪農で、奥州・南部藩と関係があったとようです。そのため「南部の赤門」と呼ばれています。薬医門は切妻破風(きりつまはふ)造りで茅葺きです。木部全体にベンガラ(当初は渋柿)が塗られています。江戸時代の建築様式が伝えられています。もちろん区の文化財です。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 都営地下鉄大江戸線光が丘駅から徒歩10分 |
谷原(やはら)/練馬区谷原 | |
▲増島家薬医門/区の登録文化財 | ▲白漆喰の土蔵も見られます |
●美しい植栽の向こうに町家 古くは「やわら」と読みました。江戸時代は旧谷原村で幕府領。田が少なく畑ばかりの地で、ダイコンとカブしか採れなかったとか。歩いていますと、美しい植栽が目に付きますが、増島家は旧家にふさわしく、木造の重厚な建物です。地名の由来は湿地帯や泥湿地の意味とか、諸説あり ●薬医門は江戸時代末期の建築 増島家は長命寺を開いた増島重明を祖先とする谷原地域の豪農。薬医門は江戸時代末期の建築と考えられています。ただ冠木(かぶき)や垂木(たるき)などは明治と考えられる部材が多く使われています。 ●薬医門は屋根の重量の支え方が違っています ところで、薬医門は二本の本柱があって、その背後に2本の控え柱があります。2本の本柱に切妻型屋根を載せます。控え柱はその上の梁(はり)と軒の部分だけの重量を支えます。屋根全体の重量は本柱と控え柱の4本で支えます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 都営地下鉄大江戸線光が丘駅から徒歩15分 |
高松(たかまつ)/練馬区高松 | |
▲宮本家住宅/江戸末期築・非公開 | ▲奥に見えるのが宮本家の石蔵 |
●古木と旧家の組合せ 江戸時代は農村地帯でした。いまでも田畑が残るなど、当時の名残が見られます。また屋敷林など、往時の面影が点在。特に宮本家は旧名主で、いまは観光農園などを営業。この辺りを歩きますと屋敷林は減少していますが、古木と旧家の組合せが絶妙です。地名の由来は梢の高い老松があったからといわれますが、詳しくはわかりません。 ●伊賀衆・服部半蔵ゆかり地 富士街道と清戸道が東西に走ます。いまではすっかり住宅街になりました。地元の守り神でもある八幡神社は、富士講の中心地です。明治初年まで高松寺(こうしょうじ)という服部半蔵ゆかりの寺がありました。服部半蔵はが奉納した仁王像は、高松寺が廃寺になったため、いまは150m離れた御岳(おんたけ)神社に移されています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 都営地下鉄大江戸線練馬春日町駅から徒歩12分 |
北町(きたまち)/練馬区北町 |
●旧川越街道・下練馬宿 中山道板橋宿から分かれ、川越城までの道を川越街道として整備されました。そして最初の宿場町・下練馬宿にあたります。この辺りはかつて上宿と呼ばれ、本陣は当初木下家、後に大木家が世襲。また脇本陣は内田家が代々世襲していました。 ●環八通りを越えたあたりから古民家が見られます 元の住所でいえば板橋区練馬北町でした。昭和24年の板橋区から練馬区が分離独立したとき、練馬の冠がとれて北町となりました。さて古民家は環八通り(環状八号線)を超えた辺りから見られ、また路地を挟んだ小さな飲み屋街も散見できます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 東武東上線東武練馬駅から徒歩5分 |
田中(たなか)/練馬区南田中 | |
▲榎本家長屋門/江戸末期築。大正13年の火災で茅葺きから鉄板の屋根葺き替えられました。長屋門は下働きの人の住居や納屋として使用されていたそうです | |
●勘蔵院周辺で古民家 江戸時代は旧田中村で、増島氏領から幕府領へ。この辺りは大部分が畑で、水田はわずかでした。江戸初期では畑が6割近くを占めていたとか。いま歩いていますと、大部分が現代住宅群で、古民家は勘蔵院周辺で見られる程度です。 ●教え子たちが建てた勘蔵院・筆子供養塔 勘蔵院の本堂へ向かう途中に筆子供養塔があります。筆子(ふでこ)とは生徒のことで、塾を開いていた僧侶が亡くなったことから、教え子たちが建立しました。区の文化財指定です。筆子塚は全国各地にあります。江戸時代、庶民の教育機関だった寺子屋や家塾で亡くなった師匠の遺徳を偲んで、教え子たちが費用を出し合って建てています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 西武池袋線練馬高野台駅から徒歩15分 |
石神井(しゃくじい)/練馬区石神井町 | |
▲旧内田家住宅/練馬区指定文化財。明治20年代初頭の建築ですが、古材の一部は江戸時代の物と判明しています。練馬区中村から移築復元されました | |
●石神井公園周辺に散在 中世の城跡でもある石神井城には、いま多くの遺構が見られます。しかし古民家は石神井公園の周辺や屋敷林に囲まれていたり、古寺の周辺にも散在しています。歴史のある集落で、南北朝時代の文献に、すでに地名が見られます。 ●古老たちは「しゃくじ」と呼ぶそうです 地名の由来は、村人が井戸を掘ったところ“霊石”が出土し、それを石神として祀り、地名となったそうです。古老たちは「しゃくじ」とも呼ぶそうです。石神井村は「しゃくじむら」と発音します。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 西武池袋線石神井公園駅から徒歩20分 |
立野(たての)/練馬区立野町 |
●屋敷林に囲まれた旧家 立野は旧上石神井村の小名にあたり、立野の人たちが入植して開いた集落です。南側のケヤキは樹齢200年以上になり、保存されています。かつてスギも多く植えられていましたが、戦後家を建て替えた折に、そのスギを伐り、自らの手で製材して使用したそうで、天井板や柱のほとんどが自らの屋敷林のものだといいます。 ●美しい植栽と黒の本瓦葺き 千川上水に接し、武蔵野市との境にあります。歩いていますと美しい植栽越しに黒瓦が見え隠れします。また周囲は畑が一面に広がっています。千川上水の土留めに孟宗竹林やシラカシの防風林が残されています |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 西武新宿線武蔵駅から徒歩20分 |