奈良県(ならけん)

○奈良町(ならまち)/奈良市元興寺町 
 
   
▲格子窓と虫籠窓が美しい   ▲瓦葺きの低い家並みに風情 
「寺町」から「ならまち」へ
 誰が付けたのか「ならまち」とは絶妙の名前です。手元にある30年前のガイドブックには、「奈良町」という地名は出ていません。知る限り、このあたりはいくつかの寺があった、「寺町」の印象が強かったのが実際です。それはともかく、たいへんなにぎわいぶりです。ほとんどの建物が、喫茶店、土産物店、手作りの店、各種資料館、ギャラリーに変身。今回は早朝に訪れたためか静かでした。
雑然とした建物の集合体
 格子戸、虫籠窓など統一された形はなく、建物にちょっと雑然とした感じを受けました。それが「奈良町」という枠の中で生きているのでしょうか。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 近鉄奈良線近鉄奈良駅から徒歩15分~30分
○今御門(いまみかど)/奈良市今御門町 
 
池畔の飲み屋街
 奈良町から北の方向に歩いて10分、猿沢池のほとりにある町です。正式には「北御門商店街」といいます。一般の商店もありますが、どちらかといえば飲み屋街といったほうがわかりやすいでしょうか。
明かりの灯るころが美しい
 江戸時代は「南都の旅籠の町」と言われるくらい旅宿が多く,しかも他の町と客の奪い合いが繰り広げられ,奈良奉行所に訴えが絶えなかったそうです。格子戸によしす張り、古都のイメージを出しています。町家特有の低い2階建てです。明かりの灯る頃が美しいのかもしれません。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 近鉄奈良線近鉄奈良駅から徒歩10分
○元林院(がんりいん)/奈良市元林院町 
 
   
▲明治、大正から戦前にかけて市内で最も近い遊郭があったところです  
江戸時代は絵師や仏画師などが住んでいました
 興福寺別院の元林院があったことが町名の由来だそうです。また江戸時代に絵師や仏画師が住んでいたことから絵屋町とか、画屋町ともいったそうです。またいわゆる奈良町と隣接しているので、商家がずらりと並んでいます。だがちょっと違うのは、スナックやバーなどの飲み屋が点在していることでしょうか。
大正から昭和にかけての花街
 明治初期から花街となり、大正年間から昭和の戦前期にかけて市内で最も近い遊郭でもありました。置屋12軒、最盛期の芸者は200余人を数えたそうです。もちろん娼妓も含まれています。料理屋などは昭和40年代でほぼ壊滅、今はわずかに往時の風情を町並みに留めています。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 近鉄奈良線近鉄奈良駅から徒歩10分
○木辻(きつじ)/奈良市鳴川 
 
西鶴『好色一代男』にも登場する南都最大の旧遊郭
 寛永6年(1629)に虎蔵、竹蔵の二人が太夫・万戸と共にココに遊里を造ったと『大和名所図絵』にあります。また明暦3年(1657)に江戸・新吉原が開くにあたり、遊女を湯女として派遣したそうです。また近隣の東山町遊郭・洞泉寺遊郭(いずれも大和郡山市)にも、遊女22人を酌婦として派遣しています。しかし天保の改革で禁止されたそうです。ということは、かなりの組織だった遊里であったと思われます。井原西鶴の『好色一代男』にも木辻町が登場します。
明治になるとさらに発展
 明治に入ると南都最大の遊郭に発展し、貸し座敷が20軒前後、娼妓200人以上を抱えるまでになりました。いま東木辻町なども歩いて見ますと、往時の面影は全く見られません。唐破風のある旅館、下見板張りや2階手すりのある古民家は少々点在するのみです。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR桜井線京終駅から徒歩15分
 
○京終(きょうばて)/奈良市北京終町 
 
   
▲木下照僊堂/創業150年・朱墨、朱印、朱液など朱専門店(瓦堂町)  ▲JR京終駅/観光案内所も併設、平成31年2月にリニューアルしました  
薪能に出演する能役者の宿泊所もありました
 鎌倉時代から見られる町名です。町名の由来は平城京の果て(終)にあるからか。江戸時代は、屋敷町は京終町、耕作地は京終村と称したとか。また薪能に出演する能役者や春日若宮祭に参勤する大名役人衆などに宿泊を提供する宿割町にもなっていました。
京終駅のリニューアル
 訪ねた日は、京終駅リニューアルのセレモニーが終わったあとでした。それは紅白の幕でわかりました。駅から北へ小さな商店街があり、少し先に東西に旧街道が見られます。その東西の旧道に沿って、飛鳥神社や古い町並みが連なっています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR桜井線京終駅から徒歩3分
 
○奈良きたまち(ならきたまち)/奈良市法蓮町 
 
   
▲旧奈良女子高等師範学校本館/国の重要文化財・明治41年築  ▲旧鍋屋交番/昭和3年築・おしゃれに改装されています。現・観光案内所  
生活感あふれる町家がすてきです
 実際のところ“きたまち”の範囲が広すぎます。近鉄奈良駅から北側はすべてきたまちだそうです。遠くは旧少年刑務所や正倉院、転害門、大仏殿も含むと言うから節操がないというべきでしょうか。県職員などから聞くと、観光政策上決定したという。たしかに奈良町の大ヒットに比べて、北側は住宅街で目玉がないだけに商工業者はツライでしょう。
実際はマンションや寮が多数
 ともかく、きたまちはいわゆる町家が少ないのは事実です。マンションや大学や企業の寮などがあり、あまり見るべきところがありません。ただ奈良町と違って、きたまちの町家は生活感があって、“生きている”という感じがします。またところどころ、雑貨店やカフェなるものが誕生していますが、やはり寂しい限りです。社寺や美術舘などの掘り起こしが期待されます。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄奈良線近鉄奈良駅から徒歩15分
 
○油阪(あぶらさか)/奈良市油阪町 
 
標準的な商家の造り
 地名の由来に、春日大社に油を納めたあとの空き樽を坂で転がしていたからという説があります。また旧名を府坂といいますが、春日大社で使用する灯明用の油を、府坂の油工業社から献納されていたから、油坂と呼ぶようになったという説もあります。真偽のほどはわかりませんが、春日大社で使う灯明用の油だったようです。油商家が並んでいたことは事実。ちなみに近世以前は油坂と書いたようです。
かつて近鉄油阪駅がありました
 いま歩いて見ますと、切り妻造の平入りで、本瓦葺きの標準的な2階形式が中心。かつて近鉄奈良駅が地上駅だったころ、ココに油阪駅がありました。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 近鉄奈良線近鉄奈良駅から徒歩10分
 
 ○門前町(もんぜんちょう)/生駒市門前町
 
   
▲戦後の建物です。平日の夕方はガラ~ンとしていましたが、ときおりアジア系外国人観光客が通ります  
旧赤線地帯「生駒新地」の面影を探しました
 文字通り宝山寺の門前町です。大阪方面からも参拝する人が多く、「生駒の聖天さん」として知られています。国の重要文化財など数多くの文化財があります。それはともかく、「聖と俗は隣合わせ」のことば通り、「生駒新地」と呼ばれ、旧赤線地帯でもありました。「宝山寺新地」と呼ぶ人もいます。石段の両側には旅館、料理屋、土産物店がギッシリと並び、シーズンになると多くの参拝客でにぎわいます。宿泊客が宴会で芸者を呼ぶこともできますが、娼妓が来ることもあったようです。
いまはアジア系の団体観光客を誘致
 しかし宴会客も減り、旅館の廃業が相次ぐなか、いまでは外国人観光客、特にアジア系外国人客の宿泊に活路を見いだし、成功しているようです。
この日もマイクロバスからスーツケースを持った団体客がやってきていました。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 生駒ケーブル宝山寺駅から徒歩5分
 
○箱本(はこもと)/大和郡山市本町 
 
   
▲杉山小児科医院/国の登録文化財  ▲浅井邸/元造り酒屋 
   
▲中村邸/元造り酒屋   ▲西脇邸/3階建ては比較的珍しい 
十三の各町の町名がそのまま残る
 箱本という名は地図を見ても見当たりません。天正16年(1588)に十三の町ができあがり、城下町を形成しました。豊臣秀吉の弟、秀長は町の運営について制度を定めました。その制度が、明治維新まで続く城下町運営の基礎となった「箱本十三町」です。いまでも本町、茶町、雑穀町、奈良町、蘭町など十三町の地名が昔のまま残り、生活に根付いています。
「箱本」がくると城下町全体の治安、消火、伝馬を担当
 箱本というのは、特許状の入った「朱印箱」を置き、「箱本」と染めた小旗を立て各町をまわします。担当した町は城下町全体の治安、消火、伝馬の世話を行っていました。これは1ヶ月の当番制。この十三町を歩いて見ますと、往時の姿が見られます。観光客も少なく表通りや裏通り、路地などのんびりと歩けるのがいいです。 
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄橿原線近鉄郡山駅から徒歩20分
○紺屋町(こんやまち)/大和郡山市紺屋町 
 
町家が続きます
 大和郡山市は、県下最大の城下町でした。そのせいか、町のいたるところに武家屋敷、町家、商家が点在しています。ただまとまっているところが少なく、町並みを形成している、という感じではないのです。
 紺屋町は、中央に水路が通り、その両側に町家が続きます。箱本一三町の中核を成しています。町名の由来は、文字通り紺屋(染め物屋)が集まっていたからだそうです。
「紺屋」は染め物の展示など観光案内所の役割も
 そのうちの1軒、江戸時代の町家を改造して「紺屋」という名の店を開き、藍染めを展示しています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 近鉄橿原線近鉄郡山駅から徒歩5分
 
○洞泉寺(とうせんじ)/大和郡山市洞泉寺町 
 
   
▲旧川本家住宅(町家物語館)/木造3階建ての妓楼建築で国の登録文化財  ▲望楼の付いた大型の木造建築3階建てで旧妓楼です  
洞泉寺には重要文化財など多数
 江戸時代は郡山城下27町の一つ。町名の由来は町内にあった洞泉寺にちなむ。境内には源九郎稲荷神社があります。洞泉寺は浄土宗の寺院で、鎌倉中期の快慶様式の立像・阿弥陀三尊が国の重要文化財に指定されています。
●格子窓の美しい木造3階建ての妓楼が見られます
 とういうものの、地元の人たちにとっては、お寺さんより「とうせんじ」は遊郭として知られています。最盛期には貸し座敷17軒、娼妓たち150人いたといいます。小雨の降る夕暮れ時に訪ねました。3階建ての旧妓楼は3棟確認しました。いずれも美しい格子窓のある建物です。ほかに2階建ての棟割り長屋式のこれまた格子窓の映える妓楼が見られます。
市議会で紛糾! 木造3階建ての妓楼
 木造3階建ての妓楼(現・町家物語館)を文化財に指定するとき、地元議会でも「女性に対する尊厳等で」一時紛糾したそうです。でも残しておいて良かったと思うときが必ずやってきます。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄橿原線近鉄郡山駅から徒歩15分
○柳(やなぎ)/大和郡山市柳 
 
   
▲和田徳呉服店/景観建築賞受賞   ▲元旅館・花内屋/江戸時代から続く 
城下十三町の一つで高野街道に沿った集落
 江戸時代は郡山藩で城下十三町の一つ。高野街道に沿った町並みで、建物の大部分は建て替えられていますが、それでも往時の面影を見ることができます。歩いていても、虫籠窓や格子戸などのある町家がけっこう残されています。軒の低い町家は、意外に気持ちをホッとさせてくれます。
参拝客や遊郭へ通う人たちでにぎわいました
 ところで柳という町名の由来は、細長い形にちなむとか、柳がたくさん植わっていたからなど諸説あります。高野山への参拝客や隣接する東岡遊郭へ通う人々で、大いに賑わったそうです。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄橿原線近鉄郡山駅から徒歩15分
○東岡(ひがしおか)/大和郡山市東岡町 
 
   
▲木造3階建ての妓楼は至るところで見られます 
木造3階建ての妓楼群に圧倒されます
 大和郡山市の言わずと知れた二大遊郭の一つです。一部一般住宅にもなっていますが、区画整理のためか櫛の歯が欠けたような町並みになっています。それでも木造3階建ての妓楼群が数多く見られます。
区画整理で消えつつあります
 一時期、郡山新地と呼ばれたことがありました。しかし洞泉寺遊郭と比較して、ちょっとボロく、衰退度が高すぎます。洞泉寺遊郭は文化財として手厚い保護がされているからか、余計に思います。 それでも妓楼群はその多さに圧倒されます。貸し座敷(この地では揚屋といいます)21軒、娼妓190人とか。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄橿原線近鉄郡山駅から徒歩15分
 
○稗田(ひえだ)/大和郡山市稗田町 
 
   
 ▲道は狭く迷路になっています  ▲土塀が残されています 
珍しい環濠集落
 環濠集落というものをはじめて見ました。村の周囲に掘り割りを造り、外敵を防いだのです。行政は整備再現しようと賢明になっています。まだ半周ほどしか出来ていませんが、それでもここまで残っているのは珍しいそうです。おもしろいのは環濠内です。クルマも通れない細い通りが迷路のようになっていて、土塀に囲まれた民家が残されています。江戸時代の土蔵や民家も残っています。近くに、もう一つの環濠集落・番条もあります。
壬申の乱にも登場する地名
 飛鳥時代から見える歴史あるところです。壬申の乱の際、大海人皇子に仕える将軍・大友吹負は「乃楽」に向かう途中、この稗田で、河内からの軍勢が来襲しつつあることを知ったそうです。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 近鉄橿原線近鉄郡山駅から徒歩25分
 
○西里(にしさと)/斑鳩町法隆寺西 
 
多くの宮大工が住んでいましたbン
 法隆寺の南西側にあるために、観光客の運転する車が駐車場探しで迷い込むらしい。狭い道だけに、クラクションの鳴らしあいになるとか。昔は多くの宮大工が住んでいて,この地から巣立っていったそうです。特に江戸時代、近畿地方の大工支配にあたった中井家も西里の出身です。
清潔感のある集落
 歩いて見ますと、民家中心の構成になっているのがわかります。ときおり手入れに行き届いた垣根や土塀が見えます。とても清潔感にあふれた集落です。住民たちが、美しい町を保存しよう、という心意気がかいま見える町でもあります。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR大和路線法隆寺駅から徒歩20分
○龍田(たつた)/斑鳩町龍田 
 
 ●江戸から大正の建物
 西里から徒歩20分のところに龍田(竜田とも書きます)の集落があります。途中の「業平の道」は宅地開発でズタズタでした。残念です。地元の人は「たった」と呼びます。龍田神社を中心に広がる門前町です。法隆寺から竜田川方面へ向かう街道沿いに、町家、商家が連なっています。江戸時代末期から大正時代にかけての建物が多く残されています。国道25号線を北へ一歩入った通りです。
竜田揚げとから揚げの違い
 「竜田山」、「竜田川」として『万葉集』、『古今集』をはじめ勅撰集、和歌集に登場する超々有名どころです。また「竜田揚げ」の由来がこの地だとか。肉の赤い色とコロモの白い色を竜田川の白い波の上に浮かぶ赤いモミジに見立てたという風流な説もあるということです。ですからから揚げと竜田揚げは違うのです。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR大和路線王寺駅から国道横田行きバス斑鳩交番前下車徒歩10分


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 ○結崎(ゆうざき)/川西町結崎 
 
ひとかたまりとなった古民家群はかつての農村集落
 川西町役場の近くにひとかたまりとなった古民家群があります。かつての農村集落の中心地。下半分が板張りの蔵が、ほとんどの家々に備わっています。ちょっとタイムスリップした感じです。
能楽・観世座の発祥地
 結崎は鎌倉時代からある地名で、「夕崎」、「遊崎」、「魚崎」とも書いたそうです。また能楽・観世座の発祥の地としても知られています。さて江戸時代は当初、御番衆(地元の豪族など)と幕府の相給。その後、元和元年(1615)から郡山藩領となりました。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄橿原線結崎駅から徒歩20分
 
 ○山坊(やまのぼう)/河合町山坊
 
   
▲板壁の大型民家が並びます  ▲板壁の蔵も点在します  
   
▲塊村内の道は迷路のようです  ▲佐味田川沿いの農村集落です 
佐味田川沿いの農村集落です
 「山之坊」、「山ノ坊」とも書きます。江戸時代は元和元年(1615)から郡山藩領。村高は200石前後とわずか。人口180人とありますが、大部分が本百姓。また商家のうち酒造屋、塩屋、油屋など少し。
左味田川を渡ると別世界
 駅から歩いて佐味田川を渡ると、そこは別世界です。農家がギッシリかたまって建ついわば塊村にあたります。塊村のなかは迷路が続き、神社、寺院もあります。田畑、林は周辺に位置するのです。集落はなだらかな坂に立ち並び、とても静かです。ちなみに地名の山坊は『和名抄』(911)の広瀬郡山守郷を指すのではないかという説が有力です。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄田原本線池部駅から徒歩15分
 ○畠田(はたけだ)/王寺町畠田
 
   
▲板壁や蔵造りの家屋に水切りの庇を付けています 
●聖徳太子葬送の道・太子道沿いに連なる集落
 推古30年(622)、聖徳太子が斑鳩(いかるが・奈良県斑鳩町)で亡くなり、お墓のある磯長(しなが・大阪府太子町)まで葬送されました。その道を太子道といいます。古民家群はその太子道沿いに連なります。江戸時代は郡山藩領で村高は1000石弱でかなりの穫れ高といえます。
お伊勢参りの賑わいは「宗教危機」?
 この集落が発展したもう一つの理由は、お伊勢参りの通りでもあったといえます。江戸時代末期にわずか1年という短い期間でしたが、明神山に「送迎道」がありました。大阪府柏原市国分から奈良県王寺町内を通り当麻道へつながる道のことです。その明神山山頂に「送迎大神宮」が造られ、伊勢参りと称しておかげ参りで賑わいました。ところが郡山藩はこれを宗教危機と捉えて弾圧、この大神宮を焼き払いました。

商人の力の存在を浮き彫り
 これらのことから意外にも農家の他に、酒屋、味噌屋、旅篭屋、木綿屋、質屋、荒物商、煮売り、茶屋、くだもの出売り、等々とかなりの商人が存在。その賑わいぶりがうかがえます。いま歩いて見ますと、旧商家と思われる町家がけっこう残っています。格子窓、虫籠窓の特徴のほかに、板壁や漆喰壁に「水切り」が付けられています。雨の多い地方の土蔵に見られる建物ですが、このあたりも多かったのでしょうか。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 JR和歌山線畠田駅から徒歩10分
 ○穴虫(あなむし)/香芝市穴虫
 
   
▲格子戸や虫籠窓、板張りの蔵など旧家の重厚な町家が続きます 
古くから大坂とつがる
 大阪府との境にある集落で、近くの穴虫越(穴虫峠)は河内から大和に通じる古代の大坂道ではないかと推測されています。古代の大和では、このあたりで採掘される凝灰岩を「大坂の白石」と呼んで観賞用に重宝されていました。すなわち、古くは大坂と呼ばれたとも考えられます。
穴虫道は重要度が高い
 江戸時代は郡山藩と幕府との相給。一部の古文書には穴蒸村とも書かれています。村高は600石弱。ところで穴虫越は、河内を出て大和とつながり當麻寺、石光寺、火葬墓などが立地し、かなり重要度の高い街道だったと思われます。

狭い古代の旧道沿いに重厚な旧家が見られます
 いま二上駅を出てメインの道から裏手に入り、やや坂になった狭い旧道を歩きます。大和地方で多く見られる、下半分が板張りになった蔵や塀、虫籠窓、格子窓のある町家が続きます。軽自動車がやっと通れる道幅です。対向車が来るとお手上げ!? さらに路地をのぞくとさらに重厚な町家が見られます。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄大阪線二上駅から徒歩10分
 ○櫟本(いちのもと)/天理市櫟本町
 
   
▲櫟本駅/駅舎(木造)と跨線橋は明治31年(1989)開業当時の原型をほぼ保つ  ▲櫟本分署跡参考館/天理教教祖・中山みきが拘留されていた 
古くから街道が交差し商業が盛んでした
 奈良時代の荘園名として残されています。また「一本」、「市本」とも書いたそうです。というのは、上街道(上ツ道)と高瀬街道の交差するところで、古くから市場が開かれ、商業が活発だったところから小名にも「市場」が付いていました。上街道から東へ高瀬街道に沿ってのびた部分を「馬出」(うまだし)とよび、主に大和高原(福住方面)から薪炭を乗せて下り、この地で荷を降ろし帰りに食料品や日用品を買って帰る人馬で賑わったところでもあります。
●江戸時代は2000石の東大寺領!
 ところで江戸時代の村高は2000石を越え、人口も1250余人とかなり大きな村でした。そのうち東大寺が2000石と大部分を占めています。大きな村のために各集落ごとに大庄屋を置きました。いま町並みを歩いて見ますと、虫籠窓や細い格子のある旧商家が散見できます。このあたりを、天理市では「馬出」の町並みと名付けています。なお地名の由来は、「市場」からの説と巨大な櫟(いちい)の根元があったという説などと専門家のあいだでも分かれています。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR桜井線櫟本駅から徒歩12分
 ○丹波市(たんばいち)/天理市丹波市町
 
   
▲これだけの歴史的建造物をまとめて見られるのも珍しい  
古代の官道・上ツ道(上街道)沿いの町並みです
 平安時代にすでに「丹波庄」という荘園名として存在していました。その後中世に入って市場町として江戸時代まで繁栄を続けます。南北に貫く上(かみ)街道沿いの集落で、江戸時代に入ると幕府領でその後伊勢津藩領となります。一時期お伊勢さんへの「おかげ参り」でかなりの人で賑わったようです。それはともかく上街道は古くは上ツ道(かみつみち)と呼ばれ、古代日本における官道の一つ。奈良盆地を南北に縦断するために整備された道です。
平安時代に一時期衰退します
 平安遷都後、利用者は激減しますが、江戸時代になってさらに街道として整備されました。歩いていますと、デザインの違った虫籠窓や出格子、庇の突き出た出し桁、袖壁など町家特有の形を残した建造物が見られます。一部改築、改造はされているものの、往時の面影は十分に感じ取れる町並みといえます。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR桜井線天理駅から徒歩20分
 
 ○田原本(たわらもと)/田原本町戎通
 
   
▲駅前近くに遊郭のたたずまいが…  ▲蔵造りの町並みも残ります 
江戸の面影を残す陣屋町・寺内町の寺向き通り
 江戸時代は旗本・平野氏の知行地でもありました。5000石ながら、交代寄合として大名格の待遇を受けていました。また真宗・教行寺の寺内町として発展。その後寺院の退去、誘致などの変遷があって、本誓寺、浄照寺が中心となりました。
駅近くの「寺向き通り」に古民家が残ります
 田原本は町方と地方に分かれて運営されており、古い町並みは町方に存在しています。駅近くの交通量の多い、狭い「寺向き通り」に古民家が残り、江戸時代の趣を見ることができます。明治10年の天皇行幸の際の道路でもあります。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄橿原線田原本駅から徒歩10分
 ○三輪(みわ)/桜井市三輪
 
三輪山は超パワースポット!?
 三輪そうめんや最近では超パワースポットの三輪山などで三輪の名が知れ渡っていますが、地名の由来を考えますと、はるか昔にさかのぼり、諸説入り交じっています。それらの説明ははぶくことにします。では江戸時代は、大神(おおみわ)神社、平等寺、大御輪寺の門前町でもありました。しかし、奈良から初瀬、伊勢への上街道沿いの集落としても発展したのです。
中世は宿駅ではなく「宿駅に準じる」扱い
 中世の三輪市、そして門前町が合わさってたいへんな賑わいを見せたのですが、宿駅ではありませんでした。もちろん人馬の継立てもあったのですが、「宿駅に準じる」扱いになったのは、もっとあとになってからです。

今西酒造本店付近に古民家群
 産業にひとつ三輪そうめんがありますが、生産は女の仕事だったようです。いま町を歩いていますと、ところどころに三輪そうめんののぼりを立てた飲食店や土産物店が見られます。そして格子のある商家が軒を並べています。ところで人の流れはJR三輪駅を出て右方向の大神神社へ向かいます。しかし古い町並みは、駅から左方向へむかって歩き、今西酒造(本店)付近に集中的に見られます。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR桜井線三輪駅から徒歩7分
 
 ○初瀬(はせ)/桜井市初瀬
 
 ●『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』
 文字通り長谷寺の門前町として発展しました。参拝客用の旅篭屋も多く、ねずみ屋、ごま屋、高田屋、扇子屋、吉野屋などかなりの数の宿が古文書に書き上げられています。また高取藩主の参勤交代用に本陣、脇本陣が置かれ、町場として繁栄しました。長谷寺詣では平安時代から盛んに行われ、多くの貴族や文人たちが書き記しています。『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』などにも登場します。
にぎわう参拝客の争奪で激しい利権争い
 江戸時代に入って、従来の長谷寺詣で加えて伊勢神宮参拝の順路にあたり、これが後の伊勢本街道に発展していきます。このため門前は多くの人たちで賑わい、同時に飴売り一つとっても場所や利権争いとなったようです。
初瀬街道沿いに古民家が軒を並べています
 この日は朝から雨が降り続いており、参拝者の歩く姿も無く静かな町並みを呈していました。蔵造りや格子窓、虫籠窓のある漆喰の美しい町家が軒を並べています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄大阪線長谷寺駅から徒歩15分
 
 ○今井町(いまいちょう)/橿原市今井町
 
   
▲中橋家住宅/国の重要文化財  ▲文化財がギッシリ詰まっています  
豪華な町家に驚く
 一般的な奈良の町家とちょっと違うような気がしました。今井町のほうが、豪華で重厚な造りなのです。たぶん、豪商がたくさん住んでいたのでしょう、というのが歩いて感じました。しかも碁盤の目のようにきちんと区割り、整備されており、かなり力の強い人たちが居たようです。
大半が江戸時代の建物
 建物の大半が江戸時代のものだそうです。重要文化財も多数あるとか。とにかくかなり古いのに、きちんと保存されているのです。これは住民がかなり苦労されているなあ、ということがわかります。例えば道路は極端に狭いので、消防車も入れません。そのため防火体制もきちんと整えられています。もともと環濠集落、すなわち町の周りを堀を巡らして、外敵からの進入を防いだのです。これは、大和郡山市,木津川市(京都府)でも同じような集落を見てきました。ただし、今井町の環濠は道路になってしまったのが残念です。
外は暑くても中は涼しい
 訪ねたのは真夏の暑い日でした。奈良の夏は盆地のせいか、めちゃくちゃ暑いのです。風もなく汗を拭きながら歩きました。ただ公開されている町家に入ると、風が通り、比較的涼しいのです。
 公開されている町家はたくさんあります。奈良市の旧市街地とは若干違っているので、興味がありました。今井町のほうが、お金持ち、という感じです。なお重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは今井町周辺の駐車場に停めました
 
 ○八木(やぎ)/橿原市北八木町
 
   
▲河合家住宅/国の登録文化財  ▲河合源七郎家住宅/国登録文化財 
   
▲谷三山生家/幕末の儒学者  ▲福島家住宅/高取藩の下屋敷 
   
▲西の平田家住宅/旧旅篭  ▲八木札の辻交流館/市指定文化財 
古代から幹線道路が交差する要衝
 古代、政治の中心地でもあった奈良盆地には、早くから多くの幹線道路が整備されていました。例えば都から大陸への玄関港である難波の津(大坂)を結んでいた横大路。また藤原京から北に向かって中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)と呼ばれる道路が存在し、八木は横大路と下ツ道との交差点を中心に形成された町なのです。
古代から近世に至るまで、常に賑わいの中心地
 江戸時代は高取藩領で河内(大坂)から伊勢に通じる道・横大路は「伊勢本街道」、「初瀬街道」と呼ばれ、下ツ道は「中街道」と呼ばれ吉野、熊野方面へ通じていました。つまり古代から近世にいたるまで多くの人たちで、町は賑わいを見せていたのです。

伝統的な上質の町家が300軒近くも残る「町家の宝庫」
 いま八木を歩いてみますと、蔵造りの商家が多く残り、美しい格子窓、虫籠窓、時代を帯びた看板などが見られ、約300軒近い伝統的な町家が残っています。しかもいずれも人々が住み、生活を営む生きた町並みなのです。なかには高校の校舎、旧銀行など近代建築も残されており、“古建築の博物館街”といった様相を見せています。 
 感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 近鉄大阪線大和八木駅から徒歩10分
 ○小房(おうさ)/橿原市小房町
 
おふさ観音の門前町として発展
 古くは旧下ツ道(中街道)沿いに発展した集落です。江戸時代は高取藩領。集落の中心にある小房(おふさ)観音は癪(しゃく)通に悩む人に御利益があるというので、江戸時代中期から多くの人が押し寄せ、門前町の様相を見せています。癪というのは、さしこみともいい、胸や腹の激しく痛む病気。現代風にいえば胃けいれんなどもソレ。
いまも年中行事のたびに賑わいます
 吉野、熊野方面への旅人とおふさ観音の参拝者が押しかけたことで、街道筋は賑わいました。いまは「バラまつり」や「風鈴まつり」などの行事があると、善男善女で境内はいっぱいになります。中街道を歩いてみますと、蔵造りや袖壁のある商家、長い板塀のある旧家など古民家がギッシリ並んでいます。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 JR桜井線畝傍駅から徒歩10分
 ○醍醐(だいご)/橿原市醍醐町
 
中世は環濠集落だったとか
 中世は環濠集落だったとか。江戸時代は、当初二見五條藩、幕府領、郡山藩など変遷し、江戸時代末期に高取藩となり、幕末を迎えました。村高は700石弱とそこそこです。養蚕も盛んになったそうです。
藤原宮のあった歴史ある集落
 ところで藤原宮の大極殿跡は、醍醐集落の東南の隅に位置します。地名も大極殿跡にちなむのでしょうか。いま歩いて見ますと漆喰の蔵造りが並び白壁が印象的です。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 JR桜井線畝傍駅から徒歩20分
 ○内本町(うちほんまち)/大和高田市内本町
 
専立寺を中心に発展した寺内町
 中世の奈良県や大阪府には多くの寺内町(じないまち)がありました。なかには環濠や土塁をめぐらしており、大寺院を中心にした自治集落でもありました。ココ内本町も専立寺(せんりゅうじ)を中心に発展した町です。大和五御坊の一つで高田御坊と呼ばれていました。寺内町の特徴に、商業が活発化し、財政的に豊かな“自治地区”であることがあげられます。また横の結束力も強く、時には権力者に立ち向かうこともありました。
圧倒される古建築群
 町を歩いていますと、旧商家と思われる町家が軒を並べています。漆喰と虫籠窓の組合せは、とても似合います。またやや細い格子窓は格調高く見えます。同時に何軒かの旧家も残されており、重要伝統的建造物群保存地区に選定するくらいの価値のある建築群だと思いました。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 JR和歌山線高田駅から徒歩10分
 
 ○永和町(えいわちょう)/大和高田市永和町
 
国道の元祖「横大路」沿いの古民家群
 永和町の昔は三倉堂と高田の一部が合体して誕生しました。それぞれに歴史ある地名でした。が、それよりも永和町と南側に隣接する北方塩町の間に、日本でいちばん古い官道(いまでいう国道の元祖みたいな)が通っていました。これを「横大路」といい、西は難波(大坂)から飛鳥、伊勢に通じ東西を結ぶ大道でした。今では太古の道の名残はありませんが、いにしえの人々や物資の往来が盛んであったところなのです。
「竹内街道・横大路」が日本遺産に認定
 また平成29年に「竹内街道・横大路」が日本遺産に認定されています。いま歩いて見ますと、漆喰もありますが土壁に虫籠窓という組合せに感動を覚えたりしました。太い千本格子も力強く、奈良町辺りの古民家とはひと味違いました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄南大阪線高田市駅から徒歩10分
 
 ○松塚(まつづか)/大和高田市松塚
 
   
▲環濠内には旧家が多く見られます  ▲軽自動車1台がやっと通れる  
   
▲かつての環濠集落の片鱗が…  ▲下見板張の蔵が多く見られます  
わずかに環濠集落の片鱗が見られます
 奈良県下には環濠集落が多かったようです。いまは大部分が消滅していますが、それでも幾つか残されて観光の対象となっています。この松塚もかつては環濠集落であったと思われます。いまではわずかに残る堀割、迷路のような路地が続き、蔵造りや土壁の続く旧家がギッシリ詰まっています。しかし駅から近く、どんどん大阪への通勤圏に入り、周囲は住宅団地として開発されていきました。
低地で水害も多かったようです
 中世は松塚氏の所領。江戸時代は新庄(布施)藩領。村高は900石前後とそこそこの穫れ高ですが、二つの川に挟まれた低地でもありました。そのため水害が多発。集落の周囲にため池、用水樋などを設けました。地名は江戸時代の古地図のなかに「王塚」という古墳が記載されていますが、、この塚によるともいわれています。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄大阪線松塚駅から徒歩5分
 ○藤森(ふじのもり)/大和高田市藤森
 
   
▲環濠がきちんと整備保存   ▲環濠内には旧家が残っています 
市内で最も整備された環濠集落
 大和高田市には幾つかの環濠集落が残されています。そのなかでも藤森が最も整備されています。ただし環濠内の集落は、現代住宅が多く、町並みとしての見どころはあまりありません。水の利用と集落の防衛のための環濠で、室町時代には環濠があったものと推定されていますが、詳細はわかっていません。
環濠はきちんと整備されていますが、集落は現代化!?
 明応2年(1493)には片岡氏が藤森を支配していました。豊臣秀吉の朱印状から多武峰領であったそうですが、江戸時代もそのまま引き継いでいます。村落は450石前後。いま実際に歩いて見ますと、環濠はきちんと整備され歴史公園になっています。しかし集落内は普通の現代住宅に改築され、往時の面影はそれほど見られませんでした。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄大阪線松塚駅から徒歩25分
  


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○須恵(すえ)/五條市須恵 
 
   
▲商店街から一歩踏み入れますと迷路。料亭、旧妓楼などが残ります 
旧紀州街道沿いに広がる町並み
 吉野川の河岸段丘上にあり、旧紀州街道沿いに広がる集落です。JR五条駅は町の北に位置し、駅前を商店が連なっています。かつては宿場町で旅篭屋、商家が軒を並べていたこと考えますと一抹の寂しさを感じます。江戸時代は二見五條藩領、幕府領、郡山藩領、幕府領と変遷。文久3年(1863)、天誅組が五条代官所を焼き払い、桜井寺を本陣としました。
迷路の町並みに旧遊郭の面影が残されています
 明治から大正、昭和と商人宿、物品販売関係の商家は400軒近くにのぼり、大きく発展。そのため料亭、茶屋のほか芸妓置屋が7軒もありました。いわゆる遊郭を形成していたわけです。遊郭には欠かせない質屋は10軒以上もありました。

 いま町並みは商店街から裏手に入りますと、迷路が形成され、旧妓楼、料亭らしき建物も見られます。ちなみに地名は須恵器を製造した陶人たちが住んでいたことが由来という説もあります。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 JR和歌山線五条駅から徒歩5分
○五條(ごじょう)/五條市新町 
 
   
▲立派な商家が続きます   ▲色の塗った漆喰は豪商の証  
約120軒中80軒!
 それにしてもこれだけの数の歴史的建造物が残されているのも驚きです。約1㎞の街道筋に約120軒の建物のうち、80軒が江戸時代の建物とか。宿場町でもあり,街道筋には和歌山藩の本陣も置かれました。多くの商家,旅籠などが並び,陸路,河川交通の要衝でもありました。新町には2カ所の船着場あったようです。
「条里制が由来」には異論が多い!?
 地名の由来は条里制によるものというが、これには異論が多いようです。江戸時代は須恵五條村として1ヶ村でしたが慶長年間~寛文年間に分村しました。当初、二見五條藩領でしたが、その後幕府領、郡山藩領、さらに幕府領と変遷しました。
天誅組が五條新政府を唱えます
 さて文久3年(1863)、天誅組が五條代官所を襲撃。代官・鈴木源内を斬り、代官所を焼き払いました。そして須恵村の桜井寺を本陣として、五條新政府を唱えました。しかし幕府の命令で、近隣諸藩の追い打ちが厳しくなり吉野へと落ちのびながら壊滅しました。
 いろいろな歴史を考え、見て歩いているうちに,隣のJR大和二見駅に着いてしまいました。平成23年(2011)に「五条新町」の名で重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR和歌山線五条駅から徒歩10分
 
○西御所まち(にしごせまち)/御所市中央通り 
 
   
▲路地にも江戸の区割りがそのまま   ▲西御所は商業の町でした
西御所まちは、江戸時代から商都ととして発展
 いまでは「御所まち」と一括して呼ばれていますが、葛城川を挟んで西と東では様相が違います。西御所まちは嘉永年間(1624~43)には、町場が形成され環濠が取り巻く商都として発展しました。木綿の大和絣(やまとかすり)、菜種油、薬種、運送、醸造、旅籠などさまざまな商売が栄えました。
豪壮な蔵造りの商家が軒を並べる
 また元文5年(1740)に葛城川の洪水(御所流れ)が起こり、商都・西御所まちの半分が壊滅。死者は200人を越えたそうです。地形的にも葛城川西側に被害が大きくなったようです。ところで「御所まち」という呼び方は、江戸時代からあったようです。歩いて見ますと、豪壮な蔵造りの商家が軒を並べているのに気がつきます。
 
 感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 近鉄御所線・JR和歌山線御所駅から徒歩15分
 ○東御所まち(ひがしごせまち)/御所市寺内町
 
   
▲商家も多く見られます  ▲円照寺の長い白壁が続きます 
御所藩の陣屋が置かれていました
 葛城川から東を一般に東御所まちと呼んでいます。江戸時代の慶長5年(1600)~寛永6年(1629)にかけて、御所藩の陣屋が置かれ、いまでも代官町という町名が残っています。御所藩は外様の小藩。関ヶ原の戦いの軍功により和歌山藩城主・桑山重晴の次男元晴が、大和で2000石をあてがわれ、さらに父の所領のうち1万石を分与され、合計1万2000石で成立した藩です。
●寺院を中心に町が形成された寺内町
 ところで東御所の特徴の一つに、円照寺を中心にした寺内町が形成されたことです。円照寺は「大和五カ所御坊」の一つに数えられ、力のある寺院でもあります。歩いていて寺院はもちろん、商家の多さにも気がつきます。名産でもある大和かすりの問屋も残り、往時の繁栄が感じられます。
 
感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄御所線・JR和歌山線御所駅から徒歩25分
 
○名柄(ながら)/御所市名柄 
 
   
▲白の漆喰と板塀が似合います   ▲街道沿いに続く古民家群
葛城の道沿いに古民家が並ぶ
 バス停を降りて龍正寺を目指して歩きました。その近辺が歴史的建造物が集中しているところです。ここは、葛城古道と大坂からの街道が交わる宿場町だったところです。元々は金剛山へ登る人たちの宿場として栄えました。
国の重文「中村家住宅」は代官屋敷でもありました
 商家が多く、江戸末期から明治にかけての民家が多く残っています。

 国の重要文化財「中村家住宅」(写真右)は慶長年間(1596-1615)の代官屋敷でもありました。また醤油工場(写真下の左)などもあり、往時の活況が彷彿させます。いまはハイキングコース「葛城の道」として親しまれています。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 近鉄御所駅から五条行バスで寺田橋下車徒歩20分
○竹内(たけのうち)/葛城市竹内 
 
   
▲宿場町としても栄えました ▲難波と大和を結ぶ街道  
日本最古の官道
 飛鳥の都と難波(大坂)を結ぶ古代の道で、『日本書紀』にも記されており、日本最古の官道と言われています。遣唐使や遣隋使も通ったほどです。竹内街道沿いには、寺院や古代の遺跡も多く、さらに独特の大和棟の民家も多く建ち並んでいます。
松尾芭蕉も訪れ、句を残す
 貞享元年(1684)、松尾芭蕉が竹内出身の弟子・千里と共に当地を訪れて。「綿弓や琵琶に慰む竹のおく」(野ざらし紀行)という句を残していますが、明治の中期まで綿打ち屋が存在していました。千里の本名は苗村甚四郎といい、郷土墓地入口に墓があります。
古い町並みは大阪へと続きます
 ゆるやかな坂道を歩きます。途中、県道を渡ると一段と古い町並みの密度が高まります。県境を越えて大阪府側(太子町)に入ると、そこにも古い町並みが存在します。 
 感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 近鉄南大阪線磐城駅から徒歩15分~40分
 ○當麻(たいま)/葛城市當麻
 
   
▲出格子と虫籠窓のある町家 ▲當麻寺/梵鐘など文化財多数  
   
▲柿の葉寿司セット(800円・ふたかみ)   ▲相撲館/国技相撲の発祥の地 
當麻寺までの一本道の両側に連なる町家群
 『古事記』など数々の書物に登場する歴史ある集落です。當麻とは、竹内峠や岩屋峠を控え、山道で歩きにくい悪路で「たぎたぎしい」土地という意味だそうです。
當麻寺は浄土宗と真言宗を兼任!
 ところで當麻寺を中心に発展したのですが、中世の時代から宗派が浄土宗、真言宗の両派を兼任する寺というから珍しい。境内寺院も浄土宗と真言宗に分かれています。また国宝、重文など文化財が多数あります。町並みは当麻寺駅からまっすぐ一本道の参道が続きます。その両側に古民家群が点在しています。虫籠窓、出格子のある蔵造りの町家が連なります。とくに虫籠窓のデザインがいろいろあっておもしろいです。 
 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄南大阪線当麻寺駅から徒歩20分
 
○新庄(しんじょう)/葛城市新庄 
 
   
漆喰と板塀の蔵並み   ▲旧商家が軒を並べます 
村高は少ないが陣屋は立派でした
 江戸時代は新庄(布施)藩領。天和2年(1682)から幕府領となります。で、村高は70石前後と微々たるもの。しかし陣屋は立派で、御殿、別御殿のほかに大奥、台所、御蔵、外御蔵、物見櫓など大小の建物が点在していました。しかも大手を除く三方に土塁をめぐらし、藩士は家老などの要人、中級藩士、下級藩士を三方に住まわせました。
●意外にも商工業を中心に発展しました
 町人たちは下級藩士の住まいからやや離れた所に町を形成。耕地は少ないのですが、瀬戸物屋、木綿屋、左官屋、提灯張り替え屋、三味線屋。おなじみの鍛冶屋、桶屋など数十にわたる職業があって、商工業中心の町として発展したのです。そんな思いを持ちながら歩いて見ますと、商家と思われる町家が多く見られます。 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄御所線新庄駅から徒歩10分
 
○榛原萩原(はいばらはぎはら)/宇陀市榛原萩原 
 
   
 ▲やまと座/大衆演劇を上演  ▲墨坂神社/宇陀川にかかる宮橋  
東大寺領→興福寺領→春日大社領……
 伊勢街道が本街道(中街道)と青越道(北街道)に分岐する交通の要所に位置します。平安時代は東大寺領、さらに興福寺領、室町時代に入ると春日大社と変遷。いずれにせよ荘園として発展したようです。江戸時代は松山藩領、幕府領と変遷。
伊勢街道沿いの集落で参拝客で賑わう
 また伊勢街道が通っていたことから、多くの参拝客で賑わいました。商家の屋号に「川口屋」、「大坂屋」、「阿波屋」など出身地を示す豪商たちが進出、参拝客は四国、上方方面まで広がっていると推定されます。こんな山の中の集落なのに、あか抜けした雰囲気が感じられるのも、昔から上方文化の移入があったからでしょうか。虫籠窓、格子窓、漆喰の土蔵など見るべき古民家は多い。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄大阪線榛原駅から徒歩15分
 
○宇陀松山(うだまつやま)/宇陀市大宇陀区上中 
 
   
▲奈良県での城下町は珍しい   ▲間口も奥行きも広い町家  
蔵造りの商家群
 奈良県内ならどこにでも見られる建物群であります。ただこれほどたくさんの古民家が保存整備されていると,重要伝統的建造物群保存地区に選定されるのも当然といえます。
 この町はちょうど,吉野への入口にあたるので,吉野くず,薬草,和紙の集散地として発展しました。豪華な蔵造りの商家を見ていますと,うなずけます。交通の便の悪いところだっただけに,保存状態が良かったのでしょうか。町の入口でもある西口関門からのんびりと歩くといいかと思います。
新たに松山町を形成
 天正13年(1585)、秀吉が大和入国により大和旧勢力が一掃されました。慶長2年(1597)に秀吉の直轄地となります。大坂冬の陣をを経て、織田信雄氏が5万石で入府。織田氏は当時の秋山城には入らず、新たに宇田川を挟む一帯に城下町を形成、松山町と称しました。
世にいう暴れん坊藩主(?)・信武の「宇陀崩れ」
 さて話はこれからです。寛永7年(1630)信雄の五男・高長が藩主となりますが、上野国・小幡藩(信雄の四男・信良の代継・信昌)との間で本家、分家争いが起こります。さらに元禄2年(1689)4代藩主・信武のとき、藩内で生駒氏らの譜代家臣と中山・浅津らの加賀衆の対立が表面化。元禄5年(1692)に信武は譜代家臣の生駒氏を逆臣として断罪。元禄7年(1694)に生駒氏の子息らと再び中山氏らと対立しますが、藩主・信武がこれらを成敗し、生駒氏ら一族を処刑します。
 このことが幕府に知れ渡り、藩主・信武と生母・春台院は自害、翌元禄8年(1695)信武の長男・信休は2万石を与えられ、丹波国・柏原に転封となりました。これを「宇陀崩れ」といいます。四代藩主・信武は生母とともに、かなりの“暴れん坊”(?)だったようです。
100軒以上の登録古民家
 緩やかなカーブを描いて伸びる街並みです。気づくのは,古民家の玄関横に「登録古民家」の看板が立っています。これは地元の保存会と行政が一体となって保存運動を行なっているのです。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道の駅大宇陀に停めました
 
○高取(たかとり)/高取町上土佐 
 
   
 ▲歴史ある壷阪漢方堂薬局です  ▲まさに歴史的建造物の宝庫 
   
▲土佐街道は歩くだけで楽しい所  ▲町の小さなクリニック石川医院 
   
▲高鳥町観光案内所・夢創舘  ▲坂を上がると建物が大きくなる 
歴史的建造物の宝庫
 これだけ歴史的建造物が残っているのに重要伝統的建造物群保存地区でないのも驚きです。高取は植村氏3万石の城下町です。山城のせいか土佐街道の麓は商家や町家、寺院、高取城に近づくにつれ、武家屋敷(写真下)になってくるのです。
藩主が山城から麓に移ると家臣も続く
 高取城は山城のなかでもかなり大きな城郭を誇り、櫓の数は27、門も33を数え、本丸のほか二の丸、三の丸、さらに多くの楼閣もあり、藩主をはじめ藩士が住んでいました。しかしながら、寛永19年(1624)~正保元年(1644-48)ごろにかけて、藩主が麓に下屋敷を建てて住むようになりました。すると藩士たちもあとに続き、高取城下が次第に形成されていきました。
大峰山・大台ヶ原が薬草の宝庫
 いま歩きますと高取は薬の町で、薬品会社や薬店を見かけます。富山の売薬は昔から有名ですが、大和の売薬も江戸時代からの歴史を持っています。これは大峰山、大台ヶ原が薬草の宝庫だったからです。
 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 近鉄吉野線壷阪山駅から徒歩10分~30分
 
○岡(おか)/明日香村岡 
 
   
▲蔵造り3階建ての町家もある   ▲美しい格子のある町家が続く  
美しい集落が続きます
 岡寺(おかでら)参道入口近くの町並みです。明日香は古代遺跡ではあまりにも有名ですが、美しい集落もたくさんあります。バスの車窓からは、それがよくわかります。特に飛鳥(あすか)寺付近も見事です。
 この集落は岡寺の門前にふさわしい商家が並び、さらに町家がそこかしこに見られます。黒瓦ぶきの2階建てで、ときおり蔵造りの3階家も見かけます。のんびりと歩きたいものです。
岡寺は天智天皇と関わりの寺院
 高市郡に住む津守氏と阿刀氏の夫婦は、長年子どもがないので、観音さまに祈ったところ、夜に芝垣の上に白い布に包まれた子どもを得ました。それを聞いた天智天皇は子どもを引き取って、草壁皇子とともに「岡宮」で育て、これがその後の岡寺となったともいいます。また岡寺は竜蓋寺ともいい、吉野の竜門寺とともに義淵僧正が国家の安泰と藤原氏の栄華を祈って建立したと伝わります。  
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 橿原神宮前駅からバス岡寺下車徒歩すぐ
 ○飛鳥(あすか)/明日香村飛鳥
 
静かで美しい街並み
 飛鳥寺(1196年焼失)を中心に発展した町です。とはいうものの、飛鳥寺はいつも元気だったわけではありません。飛鳥寺は安居院と呼ばれ、かつては元興寺・法興寺とも呼ばれ、飛鳥時代には蘇我氏によって建立された大寺院でした。ところが江戸時代に衰退しています。江戸末期の文政9年(1826)に再建されますが、堂宇のみの仮の建物となっています。
飛鳥寺の本尊は重要文化財
 昭和32~33年にかけて発掘調査が行われ、さまざまのことが判明しています。現在は本尊の金銅丈六仏(重文)のみが残っています。このあたりは写真や絵画で紹介される美しい街並みを形成。黒瓦葺きに下見板張りの塀が続きます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは飛鳥寺駐車場に停めました
 
○上市(かみいち)/吉野町上市 
 
   
 ▲北村林業/山林王・昭和5年築  ▲北村酒造/天明8年(1788)創業 
   
▲旧道沿いには改築された古民家は格子窓、虫籠窓のある町家が続きます 
江戸時代は多くの善男善女で賑わいました
 吉野の山奥にある町にも関わらず歴史のある集落です。江戸時代は伊勢詣、高野詣、山上詣などの道筋にあり多くの参拝者で賑わいました。だがなんといっても豊富な木材が産出されることから一貫して幕府領でもありました。特に山林王の異名を持つ、北村家は上市の出身で、いまでも町の基幹産業をなしています。町は下市と対をなしていて、吉野川沿いにありますが、かつて川の氾濫で町場は絶えず移動し続けました。
山林王・北村家の古民家群
 いま大和上市駅を降りて旧道を歩きます。背の低い町家が続きます。役場あたりまで来ると鉄筋の建物が見られます。北村林業や北村酒造などの北村家の古民家群は、郵便局近辺に集中しています。まさしく林業で成り立った町であることがわかります。 
 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 近鉄吉野線大和上市駅から徒歩15分
 
 ○飯貝(いいがい)/吉野町飯貝
 
   
▲川南街道沿いに旧門前町を形成  ▲太鼓楼(本善寺)/国登録文化財  
“上市御坊”本善寺の門前町として発展
 江戸時代、対岸の上市から吉野川の“桜の渡し”を利用して、ココから吉野へ向かったそうです。本善寺は集落の中心で、別名“上市御坊”とよばれ、かなりの力を持った寺でもありました。
幾多の戦乱に巻き込まれる
 天文年間(1532-55)には天文一揆の余波で、金峰山寺の僧徒に焼き討ちにあいました。また天正6年(1578)の織田信長の石山本願寺攻略にともない、筒井順慶が上市、下市をはじめこのあたりを焼き払ったといいます。このように幾多の戦乱に巻き込まれながらも、現在は多くの文化財を抱える名刹となりました。
人影の薄い静かな町並み
 かつての門前町は川南街道、すなわち吉野川の南側に位置し、今ではほとんど人影を見ることはありません。しかし吉野地方にふさわしい、出格子や虫籠窓、漆喰で固めた店蔵などが軒を連ね、往時の面影を感じることができます。 
 
 感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄吉野線吉野神宮駅から徒歩20分 
○下市(しもいち)/下市町下市 
 
   
▲旧道沿いには旧商家が見られます。蔵造りの町家も多い 
『義経千本桜』にも登場します
 古くから吉野の玄関口として栄えていました。また地名の由来は市場が開かれていたことにちなみます。江戸時代は幕府領。商工業が盛んでしたが、特に箸、三宝、神具は全国的に有名でした。特に一躍有名にしたのが、『義経千本桜』の「鮨屋の段」に出てくる宅田弥助宅は本町にあります。慶長年間(1596-1615)から仙洞御所へ鮎寿司を献上。『大和名所図会』にも登場します。
旧料亭、妓楼、貸席などが見られます
 明治に入っても商業が盛んで、造り酒屋、醤油、漆、箪笥などの木工品、染め物、下駄、散髪など。人が集まれば、料亭、茶屋、旅籠などもできます。遊女屋もでき、一大花街を形成していました。いま歩いてみますと、無人となった旧妓楼、料亭、貸席などが見られます。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄吉野線下市口駅から徒歩20分
 


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