長崎県(ながさきけん)

○南山手(みなみやまて)/長崎市南山手町 
 
   
▲いつ行っても静かな雰囲気   ▲建築が見え隠れします
素朴なたたずまい
 大浦天主堂やグラバー園などがあるにもかかわらず,その裏手に広がる南山手の洋館群を見るために歩く人はほとんどいません。急な斜面に建つ洋館,和洋折衷館などの町並みと港の眺望など,実にすばらしい光景が見られます。ただいくつかの空き地も目立ちます。
 著名な建物の周辺は,観光客相手の土産物店や喫茶,レストランが目立ちます。しかし南山手の良さは,一歩裏に入った旧居留地のたたずまいが感じられます。南山手は素朴です。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 路面電車で大浦天主堂下車徒歩10分
○東山手(ひがしやまて)/長崎市東山手町 
 
   
▲近代建築が続きます   ▲オランダ坂/ロケ地としてよく登場  
こぎれいな町並み
 南山手と違って遊歩道や洋館などは,きちんと整備されており,足下に気を配ることなく歩ける町です。観光客にも開放している洋館もあって,のんびりと歩けます。東山手は4~5回訪ねていますが,道路が比較的直線になっており,歩きやすいのに気がつきます。とくにオランダ坂は誰もが訪れるところです。石畳は濡れていると,意外に風情があるものです。この東山手を歩き,そのあと南山手にある大浦天主堂,グラバー園に行くのが定番コースです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 路面電車で大浦天主堂下車徒歩10分
○寺町(てらまち)/長崎市寺町 
 
   
▲龍馬通り/亀山社中へ通じます  ▲大音寺へ向かう静かな通りです 
極端に少ない観光客
 2社14ケ寺が集まっているのが風頭山の麓に連なる寺町通りです。しかも枝道には龍馬通りや弊振坂など,趣のある坂町があります。ここまで足を伸ばす人は少ないようです。
亀山社中の同士たちも行き来していました
 深崇寺と禅林寺の間から龍馬ゆかりの地・亀山社中跡を経て風頭公園にいたる坂道。坂本龍馬をはじめとした亀山社中の同士達が、どこへ行くにしても、この通りを上り下りしていました。
亀山社中は倒幕を目的とした結社で商社…
 ところで亀山社中は、慶応元年(1865)薩摩藩や長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて、坂本龍馬のとその同士により設立された結社。徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うと共に、船の回送や運送業、銃器のあっせんなどの商業活動も行い、「日本初の商社」ともいわれています。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 路面電車で思案橋下車徒歩10分
○館内(かんない)/長崎市館内町 
 
   
▲ 石畳と煉瓦壁が似合います  ▲唐人屋敷があちこちにありました 
異国情緒・唐人屋敷通り
 江戸幕府は外国人との交流を避けるために,オランダ人は出島に,唐(中国)人は唐人屋敷と決めました。唐人屋敷は館内町全域にあたり,元禄2年(1689)以降,他の町に住むことを禁止しました。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 路面電車で築町から徒歩10分
○丸山(まるやま)/長崎市丸山町 
 
   
▲史跡・花月(現・引田屋)   ▲今も残る長崎検番  
かつて日本3大遊郭の一つ
 長崎一の歓楽街・思案橋に隣接する町です。なかにしれい原作の小説『長崎ぶらぶら節』の舞台で,吉永小百合主演で映画にもなりました。映画では料亭花月が舞台になりますが,今でも「引田屋」として江戸時代の姿をとどめています。
 丸山遊郭は京の島原,江戸の吉原と並ぶ3大遊郭の一つといわれています。丸山本通りには長崎検番が残されていますし,桃園通りへと入ると,格子窓のある木造2階建ての町家が続きます。ここは最も丸山らしい光景が見られます。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 路面電車で思案橋から徒歩10分
○古町(ふるまち)/長崎市古町
 
 ●昔,遊女町と呼ばれた
 中島川沿いの町で,江戸時代は寄合町と言われましたが,その後古町と命名。もっとも古い町だから、というわけで命名。このときはこのあたり一帯を遊女町と言われたりしました。今では往時の面影は全くありません。近くに1986年に復元された古町橋があります。
洪水で何度も何度も流された不運の古町橋
 実に美しい橋です。で、昔は石橋群の通し番号で第5橋と呼びました。明治15年に固有の名前・古町橋をつけました。創設者は河村嘉兵衛の母・妙了で、貿易で蓄えた財を投じて元禄10年に完成しました。ところが24年後の享保6年(1721)の洪水で流失。そこで18年後の元文4年(1739)に再建。ところが57年後の寛政8年(1796)の洪水で流失。今度は奉行所の命令で7年後の享和3年(1803)に3度目のアーチ橋が完成しました。ところが179年間無事だった橋も昭和57年の洪水で流されました。そこで昭和61年4月に階段で登る高い石橋が完成しました。しかし文化財指定は解除されました。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 路面電車で公会堂前から徒歩5分
○端島(はしま)軍艦島(ぐんかんじま)/長崎市端島
 
 ●上陸可能になった軍艦島
 かつて写真家・奈良原一高氏の軍艦島などをテーマにした写真集『人間の土地』を見て,からだがブルッと震えたことがあります。以後,観光船で島の周囲を回ったことはありましたが,上陸するのは今回が始めてです。端島が古い町並みに入るのかどうか疑問ですが,個人的には入れておきたいと思います。
 端島(通称・軍艦島)は三菱石炭の海底炭坑口にあたり,最盛期には人口5000人を超えており,鉄筋による高層アパート建築も日本初。そんな端島も1974年1月に閉山となりました。 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 長崎港から観光船(予約制)
○出津(しつ)/長崎市西出津町
 
   
▲県の文化財である出津教会/フランス人神父が設計した教会で明治15年に完成その後幾度か増改築が行われました 
隠れキリシタンの教会が世界文化遺産に登録
 キリシタン信仰の土地で,住民は極貧であった。明治に入ってフランス人のド・ロ神父が教会を建設すると共に,住民たちの救済に力を入れた。いま,教会のほか資料館や博物館を結ぶ道を歴史の道という。なおきょうかいがユネスコの世界文化遺産に登録されました。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは出津教会の駐車場に停めました
 
○戸町(とまち)/長崎市戸町 
 
   
▲高台には閑静な住宅が広がります ▲かつての遊郭の面影が残ります
戸町トンネルの開通が戸町遊郭の繁栄を支えます
 戸町遊郭は明治初年ごろに始まったとされます。戸町港にあって、漁船員相手のこぢんまりとした遊郭でした。明治末年から大正年間が全盛であったといわれています。しかし昭和8年に戸町トンネルが開通してからは、人の流れが大きく変わります。それまでは、長崎へ行く場合、汽船とサンパンという手こぎ船か人力車でした。その人力車も国分町海岸を迂回するしかなかったのです。
あふれる労働者を一手に引き受けます
 昭和14年ごろ2階、3階建て妓楼が軒を並べるなど繁栄します。トンネルの開通で木造船の修理業、造船業、製氷業、鉄工会社、水産工場などが林立。というのもバス路線(野母バス)の開設で通勤もラクになったといえます。逆に丸山遊郭への流出も避けられませんでした。また漁船も100艘前後の出入りがありました。しかし第二次大戦で町は壊滅。遊郭も売防法を待たずして徐々に消えていきます。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはセルフまつお戸町店の駐車場に停めました
○深堀(ふかほり)/長崎市深堀町 
 
今も残る長崎市内唯一の武家屋敷通り
 深堀地区は長崎港の入口にあたり、江戸時代以前から城下町として形成され、長崎市内で唯一武家屋敷があったところです。いまも野面(のづら)積みの石塀や外敵を防ぐ直角の街路が形成、保存されています。2011年、そんな町に長崎大学・水産環境科学総合研究科の調査が入りました。武家屋敷通りからの眺めの保全、水路の排水管の処理の提案。石塀補修のための石バンクの設立。各種サインの統一など、ルールや提言を盛り込んだガイドラインを作成されました。
江戸時代は長崎港の警護を務めていました
 江戸時代は佐賀藩深堀領で深堀郷に属します。佐賀藩家老の深堀鍋島氏が当地に陣屋を構え、知行地である深堀郷を支配しました。生産は農業のほか、漁業、造船、鍛冶が中心。一方武士は、寛永年間(1624-44)以来、長崎港の警護役を務めました。遠見番所・石火矢台場の施設があり、佐賀水軍の波止場は御船手(おふなて)と呼ばれています。御船手とは藩主が乗る御座船の警護する人たちのこと。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは長崎市深堀地域センターに停めました
○脇岬(わきみさき)/長崎市脇岬町 
 
江戸時代、司馬江漢がやってきた
 江戸時代は佐賀藩深堀領。一時期、脇御崎とも書きました。地名の由来の一つに、脇津と岬の独立した集落が合併したという説もありますが、定かではありません。脇岬村となるのは、明治22年市制町村制施行によります。ところで天明8年(1788)、絵師で蘭学者の司馬江漢は長崎に1ヶ月間滞在しましたが、藩内各地をまわり脇津の観音寺に宿泊したとの記録が残ります。
漁村特有の雰囲気は少しずつ失われつつあります
 集落は漁村特有の板張りの民家で、狭い路地が港を中心に広がっています。しかし大部分は改築されており、面影は少しずつ失われています。また昭和61年に樺島とをつなぐ樺島大橋が完成。脇岬全体が野母崎観光の中心地なっています。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 漁港の駐車場に停めました
 
○樺島(かばしま)/長崎市野母崎樺島町 
 
   
▲新町には古民家が多数残ります ▲「樺島遊郭」の面影を見ます 
   
▲特大のオオウナギ。2匹も展示  ▲意外に質素なオオウナギの展示場 
中世末期、多くの神父や修道士が立ち寄る
 樺島を語る場合キリシタンとの関係は欠かせない。中世、長崎や平戸へ向かう神父や修道士たちは、船の風待ちなどで寄り、宿泊の間に布教を続けました。フランシスコ・ザビエルもその一人で、鹿児島から平戸に向かう途中、脇岬に寄ったそうです。樺島は島原藩で、藩主の有馬義直自身もキリシタンでした。そこで樺島の領民にも信仰を勧め、島全体で最盛期に約400人もの信者がいたそうです。しかし島原の乱後は幕府領となり、長崎代官の支配地となります。キリシタン禁止令後、教会もことごとく壊され、信者は潜伏の時代へと入ります。
明治時代、大きく繁栄した「樺島遊郭」
 町は大きくわけて新町と古町に分かれます。新町を歩きましたが、古民家が多く残されており、蔵造りの主屋や商家などが残りますが、妓楼と思われるような建築も残されています。いわゆる貸し座敷です。明治15年現在で、貸し座敷が9軒、娼妓39人が記録されており、近郊の島原湊、口之津港につぐ数で、樺島港の繁栄ぶりがわかります。
あまりの大きさに驚くオオウナギ
 昭和61年1月に樺島大橋が架かり、本土との交通が一気の向上し交通が便利になりました。そこで観光の目玉の一つに天然記念物のオオウナギは欠かせません。オオウナギは熱帯性で、樺島が北限とされています。共同井戸に古くから住み着き、大正12年3月に天然記念物に指定されています。いまは水槽で保存、展示されており、いつでも見学できます。不謹慎ながら「食べたらうまいのか」と思いました……。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは港近くの空き地に停めました
○大村(おおむら)/大村市玖島
 
 ●静かで清潔な感じです
 大村純忠は大村家第18代領主で,1563年に洗礼を受けて日本で最初のキリシタン大名になりました。そんな歴史のある町にもかかわらず,いつも長崎空港からそのままバスで長崎市内に向かっていたのです。改めて市内をじっくり歩き回ると,静かで清潔でとてもいい町並みであることに気がつきました。
 肥前大村藩2万7千石の城下町です。いくつかの武家屋敷街が残されています。石垣の植栽が大きいため,中をうかがうことはできません。しかし漆喰で固めた五色塀が見所です。 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは大村公園の無料駐車場に停めました
○神代乙(こうじろおつ)/雲仙市国見町神代乙 
 
   
▲旧島原街道沿いに豪壮な古民家が続きます。交通量も少なくノンビリムード 
佐賀藩領で神代鍋島氏の本拠地でした
 重要伝統的建造物群保存地区でもある神代小路のある所から北へ島原鉄道を挟んだ北側にある街道筋の町並みです。かつて神代乙は神代東村と神代西村に分かれていました。この地区は神代西村にあたります。単に西村といいました。江戸時代は佐賀藩で神代鍋島氏の本拠地でした。そして一説には、キリシタン騒動で揺れた島原藩を監視するのが主な役割とか。
旧島原街道沿いはのんびり歩けます
 古い町並みは島原街道沿いに広がっており、蔵造りの豪華な商家や一般の町家などが続きます。神代鍋島氏の館もあり、神代の商業の中心地でもあります。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは空き地に停めました
○国見(くにみ)/雲仙市国見町神代小路
 
   
▲長屋門のある武家屋敷跡  ▲整然とした石積みのある小路 
高校サッカーで有名
 訪れたのは5月の暑い日でした。重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことを長崎新聞で報じられているのを知って、飛んできました。駅から歩いたのですが、どこだかわからず、ウロウロしました。まだ駅からの案内標識がなく、まさに知る人ぞ知る、という感じの町並みでした(今は案内板があるとか)。
 国見といえば、高校サッカーであまりにも有名なのに、古い町並みの存在は知りませんでした。
本当に美しい町です
 それにしても、あまりの整備の良さに驚きました。石垣、竹の垣根など歴史的町並みにふさわしい光景が広がっていたのでした。
 特に神代小路(こうじろくうじ)は、佐賀鍋島藩の領地で、武家屋敷跡地や明治時代の建物、庭園、上水路などきれいに残されています。こんな田舎(失礼!)にこれだけのもが保存されているのは、本当にうれしくなりました。
駅近くにスーパーあり
 まだ観光客も少なく、土産物店や食堂もありません。神代駅近くにスーパーがあります。 
 感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 島原鉄道神代駅下車10分
○富津(とみつ)/雲仙市小浜町富津
 
 ●島原半島・石垣の里
 島原半島の西側には,いくつものの小さな集落がありますが,ほとんどが石垣で造られています。急斜面に広がる民家は,1軒,1軒石垣の上に建てられています。四国や九州,瀬戸内のなど西日本の海岸で急斜面の集落に多く見られる光景でもあります。
 近くには大正末期から昭和の初めまで鉄道が通っていました。またミカン栽培や漁業が盛んで,比較的温暖な土地柄でもあります。また弘法大師が杖で大地の一画を突くと水が湧いたという井戸もあります。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは漁港沿いの空き地に停めました
○千々石(ちぢわ)/雲仙市千々石町甲
 
 ●旧道沿いに並ぶ古民家
 南北朝時代から続く歴史のある町です。千々石街道は島原から分かれて約21㎞の街道で,山中を一気に歩きます。
 また遣欧使節団の一人,キリシタンの千々石ミゲルの出身地でもあります。
 街道沿いには,出桁造りの町家が並んでいます。ただ開口部のほとんどがアルミサッシに変わっていました。住人の方に聞くと「私がお嫁に来たときからの家で,100年は経っています」とのこと。千々石は白砂青松100選に選ばれるなど風光明媚なところでもあります。 
  感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは千々石川沿いの空き地に停めました
○島原(しまばら)/島原市下ノ丁
 
武家屋敷通りに水路あり
 武家屋敷通りにほとんどの観光客がやってきます。島原城に隣接していることからまわりやすい,ということでしょう。
 通りの中央に水路が設けられており,島原を特徴づけています。大内宿や海野宿などの通りにも水路があるように,きれいな水は気持ちのいいものです。
 下級武士の住まいだったそうで,短冊形の敷地にギッシリと並んでいたようです。また町の中心街を歩きますと,旧島原街道沿いに,わずかですが町家群が見られます。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 島原鉄道島原駅から徒歩15分
 
 ○白土(しらち)/島原市白土町
 
   
▲「島原大変」で陥没した江東寺 ▲今も白土湖から流れる音無川 
眉山が崩壊し、町が陥没した「島原大変」
 島原城下の1町。寛政4年(1792)4月、眉山の大崩壊の際に善法寺から江東寺にかけて陥没。自噴した水で長さ10町(約1091m)・幅3~4町(約327~436m)の湖が出現しました。白土湖と称しました。いわゆる「島原大変」のことです。自噴した大量の水を海に流すために、藩は大量の人夫を集めて排水路を造りました。これが今も流れる音無川です。環境省の「名水百選」に選ばれています。のちに「島原大変 肥後迷惑」ともいわれ、津波や地震で肥後から大きな被害が出ました。
わずかな古民家が旧道沿い残ります
 享保17年(1732)の大火では白土から出火。延焼300余戸というからスゴイ。いま町を歩きますと古民家は旧島原街道沿いに広がっていますが、その数はわずかです。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 コインパーキングに停めました
○寺町(てらまち)/島原市寺町 
 
住宅と寺院が混在した町並みです
 寺町といっても4つ程度の数です。一般住宅地のほうが圧倒的に広く、住宅と寺院が混在した町並みです。寺院自体は江戸初期に次々に建立され、叶寺も藩主・高力忠房の時代に建立されました。
島原藩初代藩主・高力忠房の見事な復興政策
 ところで島原藩初代藩主・高力忠房(こうりきただふさ)は3代将軍・徳川家光の信頼厚く、島原の乱で荒廃した町を復興させました。農民には1年間の年貢の免除、浪人らの移民奨励など次々に復興政策を採用。島原を見事に復興させました。 
 感動度★

もう一度行きたい度★
交通 クルマはコインパーキングに停めました
○白谷(しらたに)/島原市白谷町 
 
   
▲瓦葺きの大型の家屋は圧巻です ▲古民家も石積みに支えられます 
   
白谷集落を歩きますと廃屋となった石積みの塀にも石が残ります
傾斜地集落特有の石積みの風景が広がります
 もとは中木場(なかこば)村で、昭和49年、新町名設置により一部地域が白谷町となりました。もともと農業地域で、タバコやミカン、ブドウなどの果樹栽培が盛んな地域でした。集落全体がゆるやかな傾斜地にあって、傾斜地特有の石積みの風景が広がります。
塀の上に石を積み上げる(?)光景が見られます
 歩いて気がついたのは、石垣やブロック塀の上に乱雑(?)に積み上げられた石があちこちで見られることでした。石積みの風習は全国各地に見られます。子どもも含めた死者を弔う意味があり、狛犬や燈籠にまで積み上げる光景が見られます。白谷集落でも、昔からの風習が残るのでしょうか。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
○天神元町(てんじんもとまち)/島原市天神元町 
 
   
▲古民家と石積みの組合せが美しい ▲天満宮が地名の由来です
「島原大変」で水源が枯れました
 眉山南麓の丘陵地に位置する集落で、旧中木場村の一部です。地名の由来は地域の守り神・天満宮がこの地に鎮座していたからとか。この神社の境内には清水川という小さな水路があります。これは人口の水路。というのも寛政4年(1792)の「島原大変」で、旧中木場村内の水源が枯れました。そこで当時の庄屋・下田吉部衛が岩上山の麓に水源を発見。そこで村人総動員で用水の設備を造りました。これが清水川です。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 

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 ○下京町(しもきょうまち)/佐世保市下京町
 
江戸時代は湿地の多い一寒村でした
 佐世保川の集積地に位置し、江戸時代は平戸藩領で小佐世保村でした。といっても佐世保村から分村したのではないかと言われている。『元禄12年郷村帳』には佐世保枝村と明記。もともと、このあたりは湿地帯で、江戸時代後期には一部干拓しながら耕地化していきました。
明治になって軍都としての性格が強くなります
 明治19年に鎮守府設立後、市街化が進みました。さらに明治31年の佐世保駅の開業で町は発展します。明治40年、新町名設置により下京町が誕生したのです。ただ日露戦争の影響で軍都としての傾向が強くなります。鎮守府というのは、日本海軍の高等司令部のことです。
飲食店が密集する繁華街と発展
 戦後は朝鮮戦争の特需で繁栄します。さらに買い物客もあふれ繁華街へと発展。いまは買い物客があふれ飲食店が密集します。建物も大部分が現代の建物ですが、古民家を改築、改修した町家も見られます。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはコインパーキングに停めました
○戸尾(とのお)/佐世保市戸尾町 
 
   
▲とんねる横丁の裏手には町家  ▲早朝のとんねる横丁は静かです 
「防空壕を戦後に掘る」ってどういうこと???
 いまや観光に欠かせないのがとんねる横丁です。防空壕を利用した飲食店街です。で、佐世保市教育委員会の案内板を見ていますと「おやっ??」と思いました。大半の商店は戦後に掘った“防空壕”なのです。防空壕を戦後に掘るとは??……。
とんねる横丁は観光のスポットになっています
 戦後、このあたりはバラックや路上店などがあふれかえり、一種の闇市状態となっていました。昭和21年、市は戦災復興都市計画を策定。戦後の町づくりがスタート。そこでバラックや路上店を一掃するのです。このとき市当局と激しく対立しますが、行政指導がますます厳しくなります。そこで防空壕なら路上じゃないからいいだろうといことで、崖の窪みを見つけては穴を掘り出したのです。これが“戦後になって防空壕を掘った”理由です。それが後の“とんねる横丁”となります。 
感動度★
もう一度行きたい度
交通 クルマはコインパーキングに停めました
 
○勝富(かつとみ)/佐世保市勝富町 
 
   
▲閑静な住宅地を歩いていますと、貸し座敷だったころの面影を見ます
日本海軍のとともに遊郭も発展します
 江戸時代は小佐世保村といい平戸藩領で畑地と荒れ地でした。こんな一寒村が鎮守府ができ軍都として発展すると、あと必要なのは遊郭だけです。まさに日本海軍とともに発展しました。軍隊と遊郭は表裏一体、とはよくいったものです。佐世保ではいくつかの遊郭が誕生しますが、明治19年(1886)に鎮守府が設置された翌年に木風町に「木風遊郭」の設置が認められ、海軍や工事関係者が客となりました。
一時期、丸山遊郭と並ぶほど繁盛した勝富遊郭
 勝富遊郭は明治26年に免許がおりました。当初は地名から小佐世保遊郭と呼んだようです。一時期、日本三大遊郭のひとつ長崎の丸山遊郭とも並ぶほど賑わったというからスゴイ。『全國遊郭案内』(昭和5年刊)によれば、貸し座敷16軒、娼妓150人。ただその後、明治43年に登場した花園遊郭に客が流れていきます。
閑静な住宅地に往時の面影がわずかに残ります
 いまなだらかな坂道に往時の面影がわずかに残ります。貸し座敷や妓楼と思わせます。しかし全体的には閑静な住宅地となっています。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはコインパーキングに停めました
○干尽(ひづくし)/佐世保市干尽町 
 
   
▲超大型のレンガ倉庫は圧巻です ▲黒瓦葺きの倉庫もありました 
軍都・佐世保を彷彿させる遺構・レンガ倉庫群
 大正時代から昭和10年代にかけて建てられた旧軍需部の倉庫が現存しています。このうち西九州倉庫(株)が使用している1号倉庫(旧第五水雷庫)、7号倉庫(旧弾丸庫)、8号倉庫(旧兵器倉庫)と西日本冷凍(株)前畑工場(旧第四炸薬弾丸庫)の4棟が特に大きいそうです。これらの大型倉庫と共に昭和期の木造倉庫群が残されていることも珍しいといえます。つまり対岸の前畑地区には火薬類が保管され、干尽地区には魚雷、機雷、砲弾類が保管されていたのです。そして両者の間に兵器をに火薬を装填する火工工場が置かれていました。そのため干尽地区は大型の倉庫が多数建設されたというわけです。
日本遺産「旧第五水雷庫と軍需部倉庫群」に指定
 このちょっと変わった地名は、元禄12年の『松浦壱岐領分絵図』にあった「ひつくしの浦」から採用されたとか。もとは旧国有地で、いまは港湾関係の施設でいっぱいです。国や県の出先機関、海上自衛隊関係の施設もあります。大型車両が頻繁に通行するので、クルマを道端に停めるのにも神経を使いました。歩いてまわりますと、レンガ倉庫の大きさに圧倒されます。ちなみに「旧第五水雷庫と軍需部倉庫群」として日本遺産に指定されています。一般的には「西九州倉庫(株)前畑1号倉庫と干尽倉庫群」と呼ばれているようです。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
○立神(たてがみ)/佐世保市立神町 
 
海上自衛隊の現役の補給所です
 海上自衛隊佐世保修造補給所立神西倉庫と長い名称。現役の自衛隊の施設です。そのため立ち入り禁止となっています。でも門が開いていて、望遠レンズで撮ったのが上の写真です。一般にはフェンス越しにしか見学できません。
日本遺産「旧佐世保鎮守府武庫倉庫群」に指定
 かつてこのあたり一帯は鎮守府第一期工事の際に中央の兵器廠で製造した兵器を受領・保管する武庫が置かれていました。明治21年完成のの弾庫、小銃庫から大正2年完成の弾丸庫まで、9棟の煉瓦倉庫が残されています。それぞれの時代に特徴的な倉庫が建てられており煉瓦庫から鉄骨煉瓦造への移り変わりが観察できる興味深い倉庫群です。この地も日本遺産「旧佐世保鎮守府武庫倉庫群」として指定。一般的には「立神煉瓦倉庫群」として知られています。
町全域が佐世保重工業と米軍施設
 もとは旧国有地です。旧海軍用地が第二次大戦後、米軍に接収されました。しかし昭和26年の日米講和条約成立後の日本に返還されます。その後町全域が佐世保重工業の用地とアメリカ海軍への提供施設になっています。地名は旧字名タチガミが由来です。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
○江迎(えむかえ)/佐世保市江迎町長坂 
 
平戸往還は交通の要衝でした
 江戸時代は平戸藩。当初、江迎村は見当たらず長坂村に併合されていたのではないかと推定。写真でもわかるように、山地がすぐ海辺までせまるような土地。わずかな江迎川の三角州が土地造成のきっかけとなり、新田開発がすすめられました。こんな狭い土地でも街道は平戸へ向かう陸運(平戸往還)の要衝。藩は宿駅や街道の整備を積極的に行います。
長崎警備のため藩主や藩士が宿泊・休憩した宿場
 さらに異国船の出没が頻繁になると、幕府直轄の長崎代官所は平戸藩に長崎警備の役を命じます。そこで藩主や藩士が平戸城下と長崎を頻繁に往来する途中の江迎宿が宿泊や休憩所の役割を果たすことになるわけです。
江迎本陣は景観遺産や文化財に指定
 潜龍酒造前の道路を挟んだ向かい側に江迎本陣が残されています。本陣となった山下家は元禄年間(1688-1704)に創業したといわれる造り酒屋。平戸往還で唯一当時の姿が残されています。江迎本陣跡として長崎県の文化財に指定。さらに佐世保市の景観遺産に指定されています。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは潜龍酒造の駐車場に停めました
 
○里免(さとめん)/松浦市御厨町里免 
 
御厨は皇室・神社などの御厨所に由来します
 旧町名の御厨は皇室・神社などの“御厨所”(みくりや)に由来します。里免には松浦氏の庶家(しょけ/本家から別れた一族)・御厨氏の居館とされる御厨館があって、館の字名が残ります。なお御厨氏は15世紀に滅亡したといわれています。また御厨という地名は日本各地に存在します。
県道256号線の裏手の旧道沿いに古い町並みが残る
 江戸時代は平戸藩領。御厨村には10の“免”があり、里免はその中心地です。地名の里免は、御厨村の中心地にあることを意味するとか。そのため古くから地域最大の集落でもありました。いまでも松浦市の飛地(離島)への発着船の港があり、官公庁、金融機関、各種商店などが集まっています。古い町並みは県道256号線の一本裏手の旧道沿いに見られます。商家などの町家が多く、無人と化した家屋も少なくありません。
やたらと“免”の付く地名が多い
 ところで“免”ってなんでしょうか。ひと言でいえば年貢のことですが、石高に対する年貢の割合をさします。それを地名に採用しているのが平戸藩です。そこで、佐世保市などは前近代的なイメージを持つ“免”を“町”に置き換え免を削除。松浦市の場合は「旧自治体名+免の名称」で表記し、免を生かしています。「御厨町+里免」となるわけです。
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは御厨港の駐車場に停めました
 
○阿翁浦免(あおううらめん)/松浦市鷹島町阿翁浦免 
 
   
▲県道158号線から一歩裏手に入ると、路地の両側に民家が連なります 
漁村の生活感漂う集落です
 それにしても同じ松浦市内にあって、これほど遠いとは想像もしませんでした。長崎県の離島の多さを思い知らされたのです。それはともかく、漁村らしい狭い路地が入り組んでおり、生活感の漂う集落です。ほとんどは2階建て瓦葺きの入母屋造です。ところどころ、2階の窓に料理屋風(貸し座敷?)の面影を見ることができます。
阿翁浦免と阿翁免
 江戸時代は平戸藩領。鷹島(たかしま)の北部に位置しますが、西側を阿翁浦免、北端を含めた東側を阿翁免といい、まとめて阿翁村と呼んだ時期もありました。阿翁浦漁港から徒歩10分の白山姫神社は両地区共通の守り神として親しまれています。
天然の良港・阿翁浦免漁港
 阿翁浦免住民の大部分は漁業に勤しんでいます。もともと水深の深い港で天然の良港。定置網のほかに数々の養殖漁業が盛んです。また御厨への定期船も通っています。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは阿翁浦免漁港の駐車場に停めました
 
○福江(ふくえ)/五島市武家屋敷
 
   
▲静かな武家屋敷通り  ▲五島きつねうどん(550円・遊麺屋) 
 ●藩政時代の石垣が残る
 1634年,第2代藩主五島盛利は中央集権体制を目指し,各地に散在していた家臣を強制的に住まわせたのが,現在の武家屋敷通りで,当時の石垣として残されています。この武家屋敷通りは中級階級の武士が住んでいたそうです。
 約400mも続き,石垣を積み上げて,そのうえに「こぼれ石」と称する丸石積み重ねています。しかも両端はかまぼこ型の石で止められているのです。こんな石垣ははじめて見ました。なお二つの藩政時代の武家屋敷が残されています。
のどごしなめらかうどん
 五島うどんには椿油を練り込んであるそうで,のどごしがなめらかです。しかもコシの強いのが特徴。だしはいろいろあるようですが,アゴのスープが一般的だそうです。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 福江港から徒歩15分
 
○平戸(ひらど)/平戸市鏡川町
 
   
 ▲瑞雲寺の石積み壁沿いを歩きますと、右奥に教会の尖塔が見えます  ▲刺身盛り合わせ(300円)と魚介類の巻き寿司(400円) 
和洋折衷の珍風景
 はじめての訪問です。石垣塀に沿って歩くと,瑞雲寺の塀であることに気づきます。そして遠くを見ると,教会の塔が見えるのです。和洋折衷の風景とはこのことでしょう。テレビ番組「ナニコレ珍百景」にあたるかも知れません。教会は,1931年に建設された聖フランシスコ・ザビエル記念教会です。
 いったん坂を下って街中に出ます。シーズンオフのためにか人出の少ない商店街を歩くと,2階建ての平入り,妻入りの混じった商家が並んでいます。ほとんどが戦後の建物でしょう。
新鮮な魚介類が格安
 漁協1階の駐車場を簡易レストランにして,とりたての魚介類を焼いたり,刺身にしたりと,観光客に販売しています。酒類も販売していますので,結構にぎわっているのです。格安です。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 バス平戸市役所前下車すぐ
 
○職人町(しよくにんちょう) /平戸市職人町
 
   
▲なぜここが「横小路」なのか。石積みの続く素朴な町並みです 
平戸城下の時代は職人がたくさん住んでいました
 江戸時代は平戸城下の一つです。紺屋(こうや)町(染め物業が住む町)、鍛冶屋町、大工町、桶屋町、白銀町(金銀細工師の住む町)の五町を総称して職人町と呼んでいました。つまり正式の町名ではなかったのです。明治11年になって、それら五町が合併して職人町となりました。ところが明治16年に紺屋町が分離独立しました。いまの職人町は、四町を中心に成立しています。
「横小路」は石積みの続く町並みです
 狭い道の入口に「横小路」(よこしょうじ)の案内の札がありました。なぜ横小路なのか、ちょっとわかりませんでした。いずれにせよ、鉄工所や木工所に通勤する人たちはいますが、職人はほとんど住んでいないとのことです。 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは最教寺の駐車場に停めました 
 ○薄香(うすか)/平戸市鏡川町薄香
 
   
歩き続くと手入れの行き届いた古民家に気がつきます 
   
▲この道を高倉健さんが歩きました  ▲“平戸格子”が薄香で残っています 
遺作となった高倉健主演の『あなたへ』のロケ地
 2012年8月に公開された俳優・高倉健の主演映画『あなたへ』のロケ地です。妻(田中裕子)の遺骨を故郷の海に散骨するためにやって来たという設定。 2014年11月10日に死去した高倉健にとって最後の主演作品となりました。
かつては遣唐使船の寄港地でもありました
 戦国時代、永禄6年(1563)4月17日付けのイエズス会修道士フェルナンデスの書簡に「平戸の後方に在る薄香と称する地」として登場します。また遣唐使船の寄港地としても知られています。またかつて薄香港は海上交通の要衝でもありました。しかし対岸の生月島へ1日10便以上のフェリーが、生月大橋が完成して廃航路となり、一気に寂れてしまいました。それでもハマチの養殖やタイの一本釣りなどが盛ん。例年、多くの釣り人が訪れます。
路地を奥へ奥へと歩くと素朴な漁村風景が見られます
 三方を山に囲まれた素朴な漁村です。平戸市内はどんどん建て替えが進みますが、薄香は昔ながらの町並みが残されています。特に平戸特有の格子がこの地で見ることができます。港から奥へ奥へと歩きますと、坂道の両側に古民家が続きます。ほとんどが2階建て木造住宅です。なかには蔵造りのがっしりした町家も見られました。 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 クルマは薄香漁港の駐車場に停めました
 
○川内(かわち)/平戸市川内町 
 
   
▲鄭成功記念館/鄭成功を理解できる ▲ひと目で貸し座敷跡とわかります 
江戸初期は外国船の風待ち、修理の港としても繁栄
 江戸時代は平戸藩領。川内港は江戸時代初期までは平戸港の副港(サブ港)として栄えていました。歴史は古く、かつて景行天皇の在地豪族の平定の際に寄港されたとか。湾内は広く、水深も深い。そのことから、オランダ船や中国船の風待ち、修理の港として栄えました。またオランダ商館の倉庫も多数設置。江戸中期からは漁業が発展。藩内有数の漁港として栄え、藩の番所も置かれました。
外国人慰安の場としての丸山遊郭が誕生
 ところで町を歩いていますと、ひと目で遊郭跡だとわかりました。オランダ・イギリス貿易が開始され、中国との交易も盛んになるにつれ、外国人があふれます。そこで、藩は川内港の南東の小高い丸山の麓一帯に遊郭を設けました。そして“外国人の慰安の場”として発展したのです。いわゆる「丸山遊郭」です。一説には貸し座敷は30軒もあったとされます。平戸にもあった丸山遊郭!!
中国・明の復権を願って清と戦った鄭成功の記念館
 川内を語る前に鄭成功(ていせいこう)について知る必要があります。鄭成功は、中国大陸で明が衰退し清が勃興した時代の大混乱期に「抗清復明」をかかげて活躍しました。父は中国人海商、母は長崎商人の娘の間に産まれた日中ハーフ。病気で死ぬまで明王朝の復興を願い、大陸の清と戦いました。日本では近松門左衛門の『国姓爺合戦』のモデルにもなりました。台湾では英雄として尊敬されているそうです。そんな鄭成功の記念館があります。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは川内港の駐車場に停めました
 
 ○獅子(しし)/平戸市獅子町
 
   
▲石積みの基礎や塀が連なります ▲集落の“里道”沿いに古民家
中世は「キリシタンの村」として発展します
 中世のころ、獅子は松浦家の有力家臣でキリシタンの籠手田(こてだ)一族の所領でした。弘治3年(1557)から布教がはじまり、平戸から宣教師が退去させられ、永禄7年(1564)に教会が再建されるまでのあいだキリシタンの拠点になっていました。そして平戸城下に教会ができてからは、常駐の宣教師がしばしば巡回するようになりました。永禄9年(1566)コスタ神父が滞在した記録が残ります。獅子は「キリシタン村」として、周辺の島々との交流が盛んになったのです。
石積みが連なる素朴な集落
 地名は鹿の生息地であったからが由来と推定されます。豊かな漁村でもありましたが、人口減はどこでも同じ。なだらかな斜面に沿って古民家が連なります。麓は石積みの塀や家屋の基礎が見られ、石積みの集落として知られています。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは漁港の空き地に停めました
 
○舘浦(たちうら)/平戸市生月町舘浦 
 
   
▲人影を見ることもない旧道沿い ▲石壁に囲まれた古民家 
初代藩主は“隠居領”として舘浦に奉行を置いて全島支配
 江戸時代、平戸藩初代藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は、キリシタン家臣・籠手田・一部らが退いたあと、教会を破壊するだけではなく、生月島全島を“隠居領”としました。そのとき家臣に里、そして舘浦に番所を置き全島を支配させました。鎮信の死後は、久信の弟・松浦信正が生月奉行となって領有することになります。
益富又左衛門は捕鯨で巨万の富を得ました
 舘浦は古くから漁業の町でもあります。近隣近在の町から多くの若者を集め、賑わいました。江戸時代は捕鯨が盛んで、鯨大尽と呼ばれて益富又左衛門は巨万の富を得、藩主に献金したり、黒田藩や柳川藩に大名貸しを行っていました。しかし乱獲がたたり、幕末に組織を解散します。いまは捕鯨に関する貴重な資料・文献が保存されています。
往時の面影を残す旧道を歩きました
 県道42号線の裏手の旧道を歩きますと、古民家が連なります。かつて、漁業で栄えた商家や問屋などを思わせます。しかし改築、改装する町家も多く、3階建てを新築する所もありました。 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはふれあい広場に停めました
 
○志々伎(しじき)/平戸市志々伎町 
 
   
▲集落のはずれに妓楼と思われる建物が残されていました
蒙古襲来のとき蒙古船が漂着しました
 古くは志式、志々岐とも書きました。奈良時代は志式島の表記も見られました。歴史の古い集落です。蒙古襲来(弘安の役)のとき蒙古船が1艘、志々伎神社付近に漂着したそうです。
神父が仏像を焼却するという事件が起こる
 永禄元年(1558)、平戸に滞在していたイエズス会のビレラ神父が、布教に熱心のあまり仏像を焼却するという事件が起こりました。これに対して平戸在住の僧侶たちが大激高! 特に安満岳と志々伎山という二つの僧院が藩主・松浦隆信に直談判しました。そのため隆信はビレラ神父を説諭して平戸を去れせたそうでう。このころの志々伎神社は大きな力を持っていました。
漁港の裏手に古い町並みが続きます
 古くから漁業の盛んな土地柄。沿岸は好漁場があって、沿岸漁業の前進基地となっています。古い町並みは漁港から一歩裏手に入った所にあって、古民家が連なっています。ただ改築、改装が進んでいるのが現状です。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは漁港の駐車場に停めました
 
○宮ノ浦(みやのうら)/平戸市野子町宮ノ浦 
 
漁業中心のこぢんまりした集落
 江戸時代は平戸藩。早くから漁業で生計を立てており、明治に入っても漁業専業が多かった。明治初期から住民の手で石積みによる防波堤を築かれており、本格的な港の始まりとされています。現在では船引網漁船が中心で、遊漁船も多い。かつて宮ノ浦漁港と佐世保港をフェリーでつないで西海国立公園の新たな観光ルートを作る計画もありました。いまは立ち消えになっています。
改築、改装した釣り宿が目に付きました
 平戸市最西端の漁港のある町です。平戸大橋を越えてから、ここまで来るとなにやら長~い旅のような気がします。小さな集落ですが、港をとりまく道路から一歩裏手に古い町並みが連なります。釣り客も多く、民宿も目立ちます。そのためか、きれいに改築、改装した民家も多いのが現状です。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは宮ノ浦漁港の駐車場に停めました
○神浦(こうのうら)/平戸市大島村神浦
 
   
▲神浦集落の入口にある雑貨店(右)   ▲理髪店もありました 
   
▲神浦集落が重要伝統的建造物群保存地区に選定   ▲もう一つの的山(あづち)集落も落ち着いた集落です 
 ●平戸港と薄香港から
 この日は風が強いために,平戸桟橋から裏側の小さな港,薄香(うすか)港からフェリーが出ることになりました。薄香港は,美咲フェリーも的山大島(あづちおおしま)と結んでいます。つまり2系統の会社があります。
江戸時代の24棟も残る
 的山大島には,主に二つの集落があります。的山集落と神浦集落です。人口は1500人前後で毎年50人弱が減少。
 かつて捕鯨で栄えた島で,江戸時代の網工場の遺構や鯨を解体した「鯨場」も見つかっています。3mほどの曲りくねった道の両側には,町家がギッシリと詰まり,江戸時代の区割りをそのまま残しているのです。建物も江戸時代が24棟,明治時代が34棟,大正時代が11棟,昭和時代が10棟を確認されたそうです。
これから発展する集落
 曲がりくねった狭い道を歩いていると,とても静かです。理髪店,酒屋,雑貨店などが目に付きますが,大半は空き屋です。重要伝統的建造物群保存地区に選定されたばかり。景観保護か町の発展かで対立していますが,両立は可能です。5年,10年と長い目で見ていきたいと思います。 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 平戸港&薄香港からフェリーで神浦港へ
 
○波佐見(はさみ)/波佐見町井石郷
 
 「まちづくり景観賞」
 江戸時代,平戸街道川棚宿から波佐見,有田,武雄へと抜ける波佐見往還の途中に波佐見宿があります。近くには長崎街道も通っていますし,波佐見からは四方八方に往還が走っています。まさに交通の要所。
 波佐見宿は長崎県から「まちづくり景観賞」を受賞しているだけに,町並みがほどよく残されています。また蔵造りなど町家が残されており,特に今里酒造は国の登録文化財となっています。また白壁沿いの水路には,アブラボテの貴重な生息地になっています。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○面高(おもだか)/西海市西海町面高郷
 
 ●天然の良港に沿う町家
 面高港はくの字形に大きく入り込んだ天然の良港です。江戸時代から大村藩の支配下にあり,大坂への定期航路も持っていたそうです。その後福岡や鹿児島,壱岐などへも航路が開かれました。また大村藩では,港の周辺に多くの城を築いて,海からの防衛に力をいれたとか。
 面高の街路には,商家や旅館などがありますが,建物自体は戦後のものばかりです。また漁村特有の路地の発達した町でもあります。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○崎戸(さきと)/西海市崎戸町蠟浦郷
 
   
 ▲港から続く1本の遊歩道です ▲ちゃんぽん(600円/恵美福食堂) 
一時期は炭坑で繁栄
 歩いていて「おやっ」と思いました。古びたレンガ塀やレンガ造りの建物が残っているのです。これは明治末期から大正,昭和にかけて,炭坑が盛んになり人口も一時は2万人を越えるほど発展したなごりだそうです。廃業後は,炭坑住宅の廃墟群が映画のロケ地になったりもしました。レンガ造りの建物はその頃の名残なのです。
 江戸時代は,大村藩に属し,ひっそりとした漁村でした。わずかに捕鯨を中心に栄えたといわれています。江戸末期には人口500人前後だったとか。
遊歩道の両側に古民家
 崎戸港の近くから1本の遊歩道があり,その両側を古い建物が残されています。レンガ塀,白壁などが続きます。ただ,一般的な漁村風景とは違うことに気づきます。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
○厳原(いずはら)/対馬市厳原町
 
   
▲石積みの町並みに味わいがある  ▲石積みの高さに特徴がある 
独特の石垣に味わい
 建物自体はほとんどが戦後のもので、とりたてて古くはありません。でも高知県の吉良川町(室戸市)や愛媛県の外泊でもそうでしたが、台風の多いところで、強風から家屋を守るためでしょう。
 ただ、厳原の石垣はかなりの高さがあります。そのせいか、独特の光景を見せてくれます。古くから朝鮮半島との交易が盛んであったため、朝鮮文化のなごりではないかと思いますが。
 なお,強風から家屋を守るためなら,日本海側でも瀬戸内海や九州各地にも見られます。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 厳原港から徒歩20分~30分
 

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