長野県(ながのけん)

 ○大門(だいもん)/長野市大門町
 
商家の蔵造りが多い
 善光寺町の中心を成す8町の一つで、かつては南大門ともいいました。門前の南に南北に延びる町並みで,江戸時代は本陣,問屋など約30軒の旅籠が連なっていました。大正時代に道幅が拡張されたそうです。それ以後の洋館も残っていますが、やはり以前の土蔵造りの商家が圧倒的に多いようです。しかも景観を維持するために、新しい建物にも周囲に溶け込むようなデザインになっています。
一年中、朝から晩まで混んでいます
 大門町は、1年中にぎわっており、のんびり歩くというわけにはいきませんが、午前中がやはりベストでしょう。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 jR篠ノ井線長野駅からバス善光寺大門下車すぐ
 
○東鶴賀(ひがしつるが)/長野市東鶴賀町 
 
   
▲東鶴賀を歩くと面影が見られます  ▲かつての特飲街の名残りか 
   
▲歓楽街から取り残された鶴賀地区 ▲「鶴賀新地」の碑のある三神社 
鶴賀新地の面影
 明治11年,東鶴賀一帯の約1万坪の地域に,公認の遊郭・鶴賀新地が設置されました。40軒余の妓楼や多くの貸し座敷が軒を連ねました。ときおり坊さんも通うそうで、娼妓から抹香の香りが漂うとか。大正15年、長野電鉄の須坂-権堂間が開通。さらに昭和3年に長野駅まで全通しました。鉄道の発展は、遊郭の発展につながり、権堂駅周辺は県下一の歓楽街として残っています。
「鶴賀新地」の碑が残る
 戦後は特飲街に変わり,昭和33年に売防法の制定とともに消滅。今は特飲街の頃の建物が残り往時を彷彿させます。
なお三神社(さんじんじゃ)の鳥居の足下に「鶴賀新地」と記された碑が立っています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 長野電鉄権堂駅から徒歩10分
 
 ○松代(まつしろ)/長野市松代町松代
 
   
▲武家屋敷が移築、復元、修復を重ねてしっかりと保存されています
城下町全体で1万人が住んでいました
 戦国時代末期,武田氏により海津城が置かれ,のち真田10万石の城下町として栄えました。それは明治維新まで続きました。横田家住宅(重文)など武家屋敷がけっこう多く現存しています。土塀や生け垣などきとんと整備されており,江戸時代の町割りがそのまま残っています。武家町と町人町の堺には寺院を配置して寺町を形成。人口も多く、武家、町人合わせて約6000数百人ともいわれています。さらに町外に住む人も約2700人が存在し、城下町全体では1万人近いと推定されています。山間のこんな一地方都市に1万人も住んでいたとは驚きでもあります。
松代城跡で城門や石垣が復元
 いま市内は真田邸(新御殿)、松代藩文武学校などもあり、のんびり散策できます。一方,北側にに松代城跡があります。城門や石垣などが復元されており,今は桜の名所だそうです。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは城近くの市営無料駐車場に停めました
 
 ○川田(かわだ)/長野市若穂川田
 
   
▲屋根裏は蚕室だったのでしょう  ▲景観重要建造物・西澤家住宅 
北國街道脇往還の宿場町として発展
 千曲川右岸の保科川・赤野田川流域に位置する集落で、弥生中期の土器が発掘されるなど、早くから人が住んでいたとされ、歴史ある土地です。江戸時代は松代藩領。村高は2000石を越えるという大きな村。慶長16年(1611)に北國街道脇往還の宿場町として成立。街路は典型的なコの字型をしており,土壁で造られた倉庫群が美しい。
景観重要建造物の西澤家・北村家が健在
 本陣で問屋でもある西澤家は現存しており,漆喰を塗った白壁で目立つ存在です。
ただ大名や役人の宿泊は少なく、西澤家は問屋も兼任していました。米、穀物類のほか、からし、茶、繰り綿、水油など物産などが中心で、物流で稼いでいたとされます。西澤家のほかに北村家の倉庫類も健在です。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
  
 ○新町(しんまち)/長野市信州新町新町
 
   
▲人通りの少ない古民家の建つ通りは往時の面影を見ることができます  
河岸港として発展した町です
 犀川沿いの舟運の中心地で河岸港として発展しました。1日艘の発着で,下り船は1日,上り船は3日で松本まで行けました。下り船は米穀類、酒、炭、薪、材木、竹、石、土瓦などで、牛馬の運搬に比べて物流量は飛躍的に伸びました。荷物には細かく規定があり、積み荷の種類、積載量で善光寺街道筋の業者と常に紛争があったそうです。
いまは裏通りが見どころです
 いまは拡幅した道路よりも狭い裏通りに往時の面影を見ることができます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは八十二銀行新町支店駐車場に停めました
 ○長沼(ながぬま)/長野市大町
 
脇往還松代道の宿場町
 北國街道脇往還松代道が通り,慶長16年(1611)に長沼宿が起立後,長沼藩ができると,城下町になりました。千曲川左岸に位置し,北に浅川が流れます。河川に囲まれた低地のため,農民たちは度々の水害に悩まされました。
往時の洪水対策の理念を受け継ぎ
 そのため,町を歩いていると,古民家の多くに石垣,土蔵,半2階の家屋が見られます。これらは往時の水害対策の建築理念を受け継いでいるのでしょうか。

 大型の木造建築の屋根には風抜き(煙だし)があって,一時は養蚕も試みられたとか。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは林光院駐車場に停めました
 
○戸隠(とがくし)/長野市戸隠 
 
   
 ちょっと近代的な宿坊です  ▲旧茅葺き屋根のある宿坊です
   
▲土蔵は飲食店になったりします   ▲ざるそば(850円・二葉屋)
戦国時代は上杉、武田の紛争地
 『平家物語』にも登場する歴史あるところ。平安時代は著名な歌枕、霊験所として、全国的に知られていました。修験道も全国的な信仰を集めていました。また戦国時代は武田・上杉の争乱に巻き込まれ、その都度信徒たちは逃げて、また戻ってきます。武田は上杉の滅亡を祈り、上杉は武田の滅亡を祈願したそうです。この地でこんなことを繰り返したそうです。
茅葺き屋根の宿坊と蕎麦
 それにしても多くの宿坊のなかに,茅葺き屋根も幾つかあり,歴史の重さを感じます。もうひとつ欠かせないのが戸隠蕎麦です。山岳信仰の栄えた戸隠には、古くから修験者が多く集まり、彼らの携行食糧としてそばが戸隠に入ってきたとされます。当時は、蕎麦がきや蕎麦餅のような形態であったそうです。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは戸隠神社中社に停めました
 
○飯山(いいやま)/飯山市愛宕町 
 
地方都市で見た驚きの仏壇街
 もともと寺めぐりを撮るつもりでいましたら、単なるハイキングコースでした。それであきらめて下山したとたん、この仏壇街にぶつかったのです。正式には雁木通りというそうです。
 それにしてもこんな田舎町に仏壇店がこんなにたくさんあるのは驚きです。商いが成り立つのかと心配します。この日は日曜日の早朝なので人はいませんでした。文豪・島崎藤村が「奥信濃の小京都」と称した町でした。ビルとビルの間にある木造の古民家は駐車場になっていました。
仏壇の制作は元禄年間から 
 もともと寺院は江戸時代に各地から移転、その門前まちとして発展。仏壇の制作は元禄年間(1688-1704)より行われ、仏具、線香の販売も盛んになりました。同時に荒物などの日用雑貨、さらに古道具屋までも登場しました。愛宕町には飯山城下の腕のいい職人たちが集まっていたのです。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR飯山線飯山駅から徒歩6分
 
○渋温泉(しぶおんせん)/山ノ内町平隠 
 
   
 ▲登録文化財の金具屋・斉月楼 ▲裏道も魅力的な町並みです 
佐久間象山も愛した温泉
 神亀年間(724~729)に行基が発見したとか。戦国時代は武田信玄が川中島の戦いで傷ついた兵士を療養。江戸時代は松代藩士がたびたび訪れました。特に九湯巡りは、九(苦)労を流し、念願成就、不老長寿の御利益があるとされていました。松代藩士で思想家の佐久間象山もたびたび訪れています。
木造3~4階が見られます
 いまは石畳の道の両側に木造3~4階建てが見られます。
 狭い裏道には小さな飲食店や多くの外湯もあり、温泉街を醸し出しています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
○小布施(おぶせ)/小布施町小布施 
 
   
▲今では珍しい土壁を生かしています   ▲蔵造りの商家も目に付きます
町中がレトロな雰囲気
 江戸時代は善光寺平の河東地方を貫く谷街道と上州に通じる毛無街道の分岐点で,六斎市が立つなど商業の栄えた町でした。また葛飾北斎ゆかりの町、栗の里として知られています。幕府に小布施栗として献上されたくらいです。いまあちこちに栗の木が植えられています。景観を保つ事業が生きており、町中がレトロな雰囲気に包まれています。
土蔵や蔵造りの商家が点在します
 中心地から少し離れと所にも蔵造りの店や土蔵などが残されています。のんびりと歩ける町です。
意外に団体客の多い町であることに気がつきました。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは町営駐車場(1回300円)に停めました
 
 ○須坂(すざか)/須坂市中町等
 
   
▲街角に白壁の蔵が残ります  ▲商家以外に町家として存在します 
土蔵造りの商家
 夕方近く須坂に入りました。中心市街地区近くでも人出は少ないほうでした。歩いていて気が付いたのは土蔵造りの商家がたくさんあることでした。製糸業が大きく発展し、その繁栄が町に寄与したのでしよう。ところで、地名の須坂は古代・日本神話に登場する墨坂神(すみさかのかみ)に由来し、転訛したと言い伝えられています。
川越と似ている?
 須坂藩の城下町です。夕暮れ時のまちなかを歩いていますと、ふと「何やら埼玉県の川越に似ているなあ」と思いました。川越も蔵造りの町並みで有名です。実質的には、須坂のほうが蔵はたくさんあります。川越と違い、普通に住宅として住んでおられます。そのため散在する面積もはるかい広いように思えます。
“ぼた餅”が選定理由の1つ???
 今回、重要伝統的建造物群保存地区に選定された理由の一つに、製糸業の隆盛があげられました。やはり近世をとおして、街道が交差する重要な地点であるからでしょう。もうひとつ、“ぼたもち石積み”があげられます。ぼたもちのように丸々とした石積みを主屋や脇門に使用されています。こんな“ぼた餅”(笑)が選定理由の一つとすれば、楽しくなってきます。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました
 
○福島(ふくじま)/須坂市福島町 
 
   
 ▲珍しい土壁の蔵が残ります ▲いろいろな古民家が楽しい 
街道の交差点
 江戸時代,北國街道脇往還松代道の重要な宿場町でした。慶長16年(1611)松平忠輝が宿駅の保護,制度化を目指した伝馬宿条目により,南北600mの町並みと北と南の防御を兼ねるため枡形にしました。当時は道の中央に水路がありました。またこの街道は千曲川を渡り越後へ向かうのでした。
福島-西大滝村に船が通うと物量が一気に増えました
 寛政2年(1790)に福島と千曲川左岸の西大滝村と通船が許可されると,荷揚げされた貨物,特に穀物が大笹街道を経て江戸に向かう量が増えたのです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは勝楽寺駐車場に停めました
 
○小野(おの)/辰野町小野 
 
交通量が多く危険な町
 それにしても騒々しい宿場町です。国道153号線に両側に広がっているだけに、クルマの騒音がすごいのです。それと歩くだけでも、まさに命がけです。白線の内側を恐る恐る歩くのです。
落ち着いた感じの家並み
 撮影した日は、地元の御柱祭で、紅白のポールやロープが街道沿いに張り巡らされていました。古い家は、町家が10数軒あるそうです。この地方特有の下見板塀,出格子,本瓦葺き屋根などで,落ち着いた感じの家並みです。とにかく飛ばす車に気をつけてください。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○青鬼(あおに)/白馬村青鬼 
 
   
 ▲民家の一部を開放しています ▲水田の向こうに古民家が見える 
アマチュアカメラマンや日曜画家にも人気
 車でくると突然視界が開けてきます。青鬼には,14軒の茅葺き屋根(現在は鉄板葺き)の農家があります。しかもかなりの大型建築。集落の後方に棚田が広がり、前方には白馬連峰が横たわります。この景色を目当てにカメラマンだけでなく、日曜画家もやってきます。
集落内は住民以外のクルマ乗り入れ禁止
 クルマは集落入口に広い無料駐車場が設けてあり、集落へのクルマの乗り入れは、住民以外は禁止されています。集落の長さは200mほどで、幅2~4mほどの2本ののどかな道が貫いています。クルマで見学するなど不粋な行為は似合いません。まさに日本の原風景を見る思いです。
江戸時代末期から明治にかけての建物
 建物は江戸時代末期から明治にかけて建てられたものです。最も古い建物は、集落のいちばん奥にある降旗(ふるはた)家住宅と推定されています。なお重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 駐車場 クルマは集落入口の無料駐車場に停めました
 
○北城(ほくじょう)/白馬村北城 
 
茅葺き屋根の民家が数軒
 茅葺き屋根の里を見て慣れている人にとって,小さな集落に若干寂しい気もしますが,それでもうれしいものです。近くに大出吊り橋があり,そばに茅葺き屋根の土産物店もあります。
馬方、牛方、歩荷の仕事に従事
 江戸時代は,松本藩領で河川の氾濫で必ずしも恵まれた土地ではありませんでした。明治に入っても、新道ができるまでは、千国街道の物流に関わる馬方(うまかた)、牛方、歩荷(ぽっか)に従事する人が多かったようです。馬や牛、人に荷を背負わせて運搬する仕事です。
 一方、大正にかけて,大麻や養蚕が盛んにでしたが,いずれも衰退。昭和30年代から観光業に力を入れました。

小さな水路の音が心地いいです
 歩きながら小さな水路の音に,こころが洗われる思いです。生活感のある集落でした。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○大町(おおまち)/大町市大町 
 
   
▲旧平林家住宅(塩の道博物館)  ▲糸魚川街道の中継地の役割 
“塩の道”の宿場町
 江戸時代は千国街道(糸魚川街道)の宿場町で,日本海側との交易の中継基地の役割を果たしました。塩の道ともいい,塩市が立ち,塩問屋もありました。いま本町や中町に古民家が残されており,平林家の蔵造りは圧巻です。
黒四ダムの愛称で一気に大町に名が広がります
 とはいうものの、大町の名が全国的に有名になったのは、昭和38年の黒四ダム(黒部川第四発電所)
が完成。同時に立山・黒部アルペンルートが開通したことが大きいです。大町がその観光ルートの出発点になったのです。
映画『黒部の太陽』が大ヒット
 さらに『黒部の太陽』の公開が人気に拍車をかけました。『黒部の太陽』は世紀の大事業といわれた苦難の建設工事を描いた映画です。出演は石原裕次郎、三船敏郎、滝澤修、志村喬、辰己柳太郎、高峰三枝子、北村谷栄など往年の名優たちがズラリ顔を揃えたのです。その後、舞台化やTVドラマ化にもなりました。そして大町には、全国から多くの観光客がやってくるのです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは塩の道博物館に停めました
 
○会(あい)/生坂村東広津宇留賀 
 
山清路の南端の集落
 旧宇留賀村の会(あい)集落です。仁科氏の支族・宇留賀氏が居館を構えて金戸山(かなとこやま)に山城を築きました。ところで,金戸山の麓を通る山清路(さんせいじ)は風光明媚なところとして知られていますが,同時に西国三十三番,板東三十三番,さらに秩父三十四番,合わせて約百体の観音さまが見られます。地元の寄進者が建てたそうです。会は山清路の南端の集落にあたります。
「会」は諏訪明神と可毛羽神が出会った所???
 いまは典型的な農村風景が見られますが,農家の規模が大きく甲造りに圧倒されます。ところで地名の由来は、諏訪明神が国内巡視中、当地に鎮座する可毛羽神(かもはじん)に会った所との伝承がありますが定かではありません。  
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○麻績(おみ)/麻績村麻 
 
善光寺街道の宿場町として発展
 慶長19年(1614),松本藩主小笠原秀政により宿場として制定されました。北國西街道(善光寺街道)の宿場町です。問屋は慶長期(1596-1615)には1軒でしたが後に2軒となり,月の前半と後半の交代制をとりました。主な仕事は輸送人馬の配置,宿の公用書状の運搬などでした。本陣は1軒で脇本陣はありません。それも定まった家ではなく,その時々に相談して年寄役が交代で勤めたそうです。旅籠は安政初年(1854ごろ)の最盛期には29軒もあったとか。
修復,再建された町並み
 町並みは整備され,古民家もきれいに修復,再建され,白壁の商家,蔵が続きます。
 なお地名の麻は“お”と読みます。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 中町公民館駐車場に停めました
 
○坂北(さかきた)/筑北村坂北 
 
旧善光寺街道の青柳宿
 戦国武将の一人青柳氏が滅亡後,江戸期に入ると松本藩領となりました。中期になると幕府の直轄となり幕末まで続きます。それは幕府にとって重要な佐渡金山からの金鉱を運ぶための“金伝馬”の割り当てがあったからと思われます。
異彩を放つ洋館・旧坂北役場
 人通りの途絶えた街道をのんびりと歩いていますと,白壁の蔵や白塀,武家屋敷の門など往時の風情が感じられます。なお,役場隣に青色の洋館・旧坂北役場庁舎が異彩を放っています。ただいま資料館として整備中だそうです。  
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは筑北村役場に停めました
 
○乱橋(みだれはし)/筑北村乱橋 
 
正式の宿場町ではなく間宿でした
 集落を歩くと,いたるところに「善光寺街道乱橋宿」の看板が目に付きます。しかし藩や幕府が認めた正式の宿場町ではなく,間宿(あいのしゅく)でした。善光寺街道が南北に通りますが,関西方面からは善光寺参り,東北方面からは伊勢参りの旅人が険しい峠を越えて通過しました。また宮沢寺という祈祷所があり,近郊近在からも大勢詰めかけたとか。ところで間宿とは、宿場と宿場のあいだにあって、旅人を休息させた村。のちには、宿泊させる村もでてきます。
中町,上町と続く古民家群
 集落の距離は長く,ゆるやかな坂道を上るにつれ乱橋中町,乱橋上町と続きます。土壁の倉庫,白壁の土蔵,庇の突き出た商家などが多数見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○西条(にしじょう)/筑北村西条 
 
ミョウバンの産出で幕府直轄領
 善光寺街道沿いの集落です。塩尻で中山道と分かれ,善光寺までゆく街道で,北国西往還とも呼ばれています。江戸時代は松本藩でしたが,後に幕府領となりました。これは,村内の5カ所からミョウバンが産出したからでしょう。ミョウバンは薬、火薬、染め物などの原料に使われていました。
白壁や土壁の町家が続く
 間宿といえども,旅籠も数軒あったようです。寛保3年(1743)の大火で町の大部分にあたる32軒を焼失。通りには,白壁や土壁の町家が続きます。入母屋造の立派な家を見ることができますが,名主だったかも知れません。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○中町通り(なかまちどおり)/松本市中央 
 
   
▲江戸時代、中町は本町とともに松本城下の経済の中心地でもありました
蔵造りの商家や町家が並ぶ
 ここまで整備されているとは思いませんでした。松本城の南側の位置にあり、商家や町家などの集まる町人の町でした。ところが明治の大火で中町の大部分が焼け出されたのです。そこで中町の土蔵は火災に耐えられるようにと堅牢な造りになったといわれています。
白壁の続くオシャレな町並み
 行政当局の景観整備に力をいれているせいか、歩いていてとても楽しいです。土蔵のほかに瓦葺き2階建て切り妻の家々が連なっています。白壁が続く美しい街並みとなっています。おしゃれな店も見られます。
 週末は多くの観光客でにぎわっています。
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR松本駅から徒歩15分。100円バスあり
 
○縄手通り(なわてどおり)/松本市大手 
 
露店が長屋門に変身
 松本城築城のとき、測量用に縄を使ったことからの命名されたとか。明治に入って、地元の人たちが土砂を自ら運んで、土手を埋め立てました。四柱(よはしら)神社の要請で興行師に一役かってもらったのが露店の始まり。
カエルを使って町おこし
 ところで、通りを歩くとあちこちにカエルをモチーフにした銅像や看板、商品など見かけます。これはかつて、“河鹿蛙(かじかがえる)”が多く生息していました。しかし川が汚れてカエルがいなくなり、通りも活気を失ってしまいました。そこで昭和47年に「かえる大明神」を祀り、単なる露店街だった店は、昔の町並み(長屋風)を再現して、今にいたっています。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 JR松本駅から徒歩20分。100円バスあり
 
○岡田(おかだ)/松本市岡田町 
 
難所の峠を目前にひと休み
 慶長9年(1604),家康の命により北国脇往還(善光寺街道)ができました。翌年には周辺の村々から人家を移し宿場の基礎となる町並みができました。というのも松本から刈谷原宿や保福寺宿へは遠く,峠も難所のため岡田宿が設けられそうです。逆に松本城下に入る直前の宿として重視されました。そこで幕府巡見使や諸大名のなかには,松本を避けて岡田を利用した者も多かったようです。
巨大な蔵造りの商家
 通りのなかほどに本陣跡の碑があり,近くに巨大な商家やいくつかの古民家も見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○稲倉(しなぐら)/松本市稲倉 
 
交通の要衝にある集落
 通りを歩きますと江戸時代の道標に『左江戸道,右みさやま(三才山)』と刻まれているのを見つけます。江戸へは稲倉峠を越えて保福寺(保福寺道)を経て上田に出ました。また三才山峠を越えて鹿教湯(かけゆ)へ出る重要な道もありました。まさに交通の要衝でした。
真壁造の古民家が連なります
 戦国時代,稲倉城主赤沢氏の家臣団が住んでいたり,赤沢氏自身の居館は上段の御屋敷平にありました。また西方の入口には木戸番所が置かれていました。いま白漆喰に柱をむき出しにした真壁(しんかべ)の家屋が連なっています。静かな町でした。真壁造とは、柱を露出する壁のことで、和室や数寄屋造り、書院造などの伝統工法が用いられた建築のことです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○刈谷原(かりやはら)/松本市刈谷原町
 
善光寺参りの善男善女で賑わいました
 北国西街道(善光寺街道)は刈谷原峠を越えて,宿場の真ん中を通っています。すでに慶長年間(1596-1615)には宿場が形成され,19軒の家屋があったようです。その後善光寺参りの人々で宿場は賑わい,旅籠のほか本陣,脇本陣が造られ,どちらも中沢家が勤めました。しかし弘化2年(1845)の大火で宿場は全壊しましたが,後に復興。
奥へ行くほど素朴な古民家
 国道から分かれてゆるやかな坂道を上ると,大型の商家や町家があります。さらに進むと土壁の古民家や庇の突き出た出桁造りの素朴な町家が続きます。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○保福寺(ほふくじ)/松本市保福寺町
 
   
▲かつて江戸道とも呼ばれた保福寺道は藩主の参勤交代時に利用したそうです
   
▲豪華な両角家の薬医門  ▲保福寺の山門 
   
▲今は交通量も少なくなりました   ▲保福寺川を渡ると宿場
宿場内の薬医門は圧巻
 江戸時代,南は七嵐峠を越えると松本城下,東は保福寺峠を越えると上田城下に至る街道が村内を縦断。松本藩主によって,宿場町が形成されました。問屋も設置され,伝馬役も課せらたそうです。さらに村の東端には松本藩によって警護のため口番所が置かれました。また戦国期に鉛鉱山が発見され,その後幕府の直轄となりました。
●両角家の薬医門は圧巻のスケール!
 保福寺川を渡る辺りから坂道の両側に土蔵や庇の突き出た板塀のある町家や出桁造りが500mほど続きます。なお両角家住宅の薬医門は圧巻です。
地名の由来は中世の時代に保福寺という寺院があったことによります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○会田(あいだ)/松本市会田 
 
   
▲松尾芭蕉も立ち寄ったと『更級紀行』に記載   ▲町家の大部分が整備されていて気持ちがいい
   
▲かつては交通の要衝でした ▲旧四賀村立会田中学校  
松本や上田へ向かう交通の要衝・宿場町
 会田氏の城下町がそのまま松本藩の宿場町になりました。最盛期には旅籠は12軒あり,総戸数117戸で,脇本陣、本陣もあり、松本や上田へ行く交通の要衝でもありました。またなぜか、幕末になると大火がしばしば発生しており、天保年間から安政年間(1830~59)になんと7度。ところで、貞享5年(1688)8月に松尾芭蕉が立ち寄っています。当村からは香川景樹の弟子・内山真弓の門人・堀内正忠が輩出。医学を学んだあと和歌の道に入っています。幕末には寺子屋が5軒もあったというから、向学心に燃える若者が多かったのでしょうか。
●四方に伸びる手入れされた古民家群
 いま会田宿交差点を基点に手入れされた古民家群が四方に伸びています。蔵造りの商家、瓦葺きの町家などが残されています。また大きな三角屋根の民家は、空気孔が目に付き養蚕住宅の名残です。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは旧小学校横の駐車場に停めました
○村井(むらい)/松本市芳川村井町 
 
町割りや板塀や蔵造り、虫籠窓のある町家、
 慶長年間(1596-1615),北国脇往還(善光寺街道)沿いに開かれた宿場です。宿場の大きさは,長さが5町9間,町割りは1戸分の間口6間,奥行き20~30間,江戸中期の元禄年間の記録では本屋敷,半屋敷,門屋敷など82軒の家がありました。また本陣,問屋,旅籠屋が並んでいましたが,明治27年の大火で,当時の姿をほぼ失ったそうです。しかし町割りや鍵の手,用水路には往時の面影を残しているとか。
多彩な古民家が残る
 旧街道沿いに,板塀や蔵造り,虫籠窓のある町家,門屋敷など多彩な古民家があります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは明神宮に停めました
 
○借宿(かりやど)/軽井沢町長倉 
 
中山道の間宿として発展
 江戸時代に入ると中山道が整備されると,軽井沢,沓掛,追分が急速に発展しました。さらに追分宿と沓掛宿の間に借宿の集落ができました。しかも幾つかの脇街道の入口にあたり,特に下仁田(群馬県)へ向かう下仁田道や松井田に向かう入山道などはたいへんな賑わいぶり。とうとう中山道3宿の経営が旅人の減少で難渋し,訴訟騒ぎに発展しました。
別名・女街道、姫街道ともいいました
 ところでこの脇街道は別名,女街道,姫街道ともいい,厳重な関所を避けて女人が通ったとか。

 いまは蔵造りの町家や出格子のある古民家が少々見られます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○追分(おいわけ)/軽井沢町追分 
 
人口構成はいつの時代も女子が多い宿場町
 中山道と北國街道の分岐点にあたります。さらに近くには下仁田道,入山道,日影新道,大笹道などがあって、たいへんな賑わいぶりでした。おもしろいのは,正徳年間(1711-16),天保年間(1830-44),慶応年間(1865-68)など、いずれも人口の男女比を見ると,圧倒的に女子が多かったことです。これは,茶屋,旅籠などで多くの飯盛り女(遊女)を抱えていたからです。さすが浅間三宿の一つです。
わずかに残る古民家
 いまはところどころ,庇の突き出た出格子,格子のある町家が残っていますが,消えつつあるようです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは堀辰雄文学記念館に停めました
 
○小田井(おたい)/御代田町御代田 
 
皇女・和宮が宿泊した宿場町
 中山道沿いの宿場町で,追分宿と岩村田宿の間に位置します。皇女和宮をはじめとして,公家や公家の姫君の休憩や宿泊に使われたことから「姫の宿」ともいわれました。
本陣跡が残されています
 天正16年(1588)の古文書には,このときから町割りが行なわれ,家数は26だったとか。慶長7年(1601)には,宿場間の「駄賃」が定められていますので,このころ宿場のとしての形態を整えたものと思われます。いまは本陣跡(安川家住宅)が良好に残されており,町の史跡に指定されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○小諸(こもろ)/小諸市本町 
 
   
▲大塚魚店旧店舗兼主屋/江戸時代後期築・国の登録文化財  ▲ほんまち町家館/大正12年築・国の登録文化財 
   
▲旧小諸銀行社屋/明治10年代築・国の登録文化財  ▲光岳寺総門/小諸城足柄門を明治5年に移築。北國街道の突き当たりです 
蔵造りの商家が残る
 小諸市は文豪島崎藤村ゆかりの町。また北国街道沿いの宿駅でもあります。約2㎞にわたって、ところどころ道の両側に歴史的建造物が残されています。蔵造り、格子戸のある商家など往時の面影を残しているのです。また、JRの線路近くには、文化財の指定を受けた旧本陣、脇本陣もそのまま残っています。そのため全部見てまわるとけっこう疲れます。
市民マラソン大会と骨董市
 訪ねた日は、市民のマラソン大会と骨董市が重なったりして、たいへんな賑わいぶりでした。懐古園は北国街道は反対方向なので、ちょっと面倒かもしれません。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 しなの鉄道小諸駅から徒歩10分
 
○塩名田(しおなだ)/佐久市塩名田 
 
丸山氏ら同族が造り上げた宿場町
 江戸から23番目の宿場町です。中山道整備にあたり,岩村田と望月の中間に位置し,街道筋でも難所のひとつでした。そこで千曲川を前にも宿が必要ということで字町田,岩下あたりに住んでいた住民40軒ほど移して宿場町を形成。開発はすべて塩名田村の豪農,庄屋,問屋ら丸山氏の同族が負担しました。
●かろうじて残る宿場の面影
 交通量の増大で,宿場は発展しますが,千曲川の洪水で橋が度々流出することで,最大の難所になったようです。
 今は出桁造りや出格子,虫籠窓のある町家が続きます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは浅科郵便局に停めました
 
○望月(もちづき)/佐久市望月 
 
   
▲真山家住宅/国の重要文化財  ▲木造3階建ての井出野屋旅館
宿場町は“書の里”でした
 江戸から数えて25番目の宿場町です。今でも脇本陣・鷹野家や真山家(重文)が残されており,往時がしのばれます。また現代書道の父・比田井天来の生誕地であることから,書の里として知られています。現代書道だけではなく、江戸時代、書道家・大森曲川は本陣・大森家で生まれました。門下生がなんと200余人。そのためか備前、紀州、有馬の各藩主、大老・井伊掃部頭などからも揮毫の依頼があったというから、「書の里」も納得。
寛文年間は暗黒の時代(!?)
 江戸時代は小諸藩、幕府領と変遷。寛文年間(1661~73)に藩主・酒井氏は窓役、おかみ(妻)役、簀子(すのこ)役、鳥類犬猫牛馬運上など多くの
課税対象を作り出したために、人々は重税に苦しみました。まさに暗黒の時代と言えるでしょう。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは望月歴史民俗資料館に停めました
 
○茂田井(もたい)/佐久市茂田井 
 
江戸の面影が見られます
 中山道沿いの宿場町で,望月宿と芦田宿の間に位置します。文久元年(1861)11月,徳川14代将軍家茂に公武合体のために降嫁された孝明天皇の妹・和宮の行列が通過しました。
逃げる水戸天狗党、追う小諸藩士400人
 また元治元年(1864)11月19日,天狗党水戸浪士の中山道通過に際し,天狗党を追ってきた小諸藩士400人の拠点になりました。このとき小諸藩士が宿泊したのが,この地で代々名主を務めていた大澤家でした。
 いまは江戸時代を偲ばせる土蔵や造り酒屋,板塀の続く町家などが見ることができます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○馬坂(まさか)/佐久市田口馬坂 
 
佐久市民も知らない辺境の集落
 群馬県の県道93号線をしばらく走ってやっとたどり着く集落です。佐久市民でもほとんど知らない集落だそうです。田口峠が県境になるはずが,東側にぐ~んと下ったところが県境となりました。その県境をさらに越えたところに馬坂があるのです。電話番号は群馬県の市外局番,電気は群馬県側から配電。でも飛び地ではありません。
旧養蚕住宅が残ります
 ところで集落に沿った馬坂川は利根川源流の一つです。昔から林業とコンニャクの生産が中心でした。また養蚕も盛んで,養蚕住宅もわずかに残っています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○芦田(あしだ)/立科町芦田 
 
皇女・和宮の大行列が通過
 茂田井宿に次ぐ江戸から26番目の宿場町です。文化元年(1804)には,本陣,茶屋6軒,商家2軒,医院3軒,髪結い2軒などがあり,農家は45軒であったと記録されています。また孝明天皇の妹・和宮の行列が降嫁の際,通過しました。
本陣は文化財に指定
 慶長初期に中山道芦田宿が設置されましたが,このとき開発にあたったのが土屋家でした。土屋家はその後の功績により,明治に至るまで本陣を勤めるにいたったそうです。現在,本陣は県の文化財に指定されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはふるさと交流館に停めました
 
○長久保(ながくぼ)/長和町長久保 
 
   
▲坂道の両側にも古民家が続く  ▲中山道では最古の本陣・石合家住宅
17世紀後半の旧本陣は中山道で最古?
 江戸前期,長窪村を長久保新町と長窪古町に分割,長久保新町に宿場町を置きました。しかし,長窪古町も助郷としての役割は持っています。本陣、脇本陣、問屋は堅町に置かれ、旅籠は横町に集中していました。旧本陣の石合家は,中山道の本陣では現存する最古の建築だとか。 
宿泊者が多いと増えるのが飯盛女(遊女)
 旅籠数は40を数えたというから、かなりの宿泊者が多かったようです。やはり目前の峠道に供えたからでしょう。で、宿泊者が多いと集まるのが飯盛女(遊女)。当初は3人程度でしたが、幕末には67人に増えています。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは歴史資料館に停めました
 
○和田(わだ)/長和町上和田 
 
文久元年3月に焼失、10月にあっという間に再建!
 中山道の宿場町です。かつては本陣,脇本陣,問屋,そして旅籠は28軒あったと言われています。ところが文久元年(1861)3月の大火で,ほとんどが焼失しましたが,10月にはほとんど再建されました。
旅籠は江戸後期の様式
 旅籠は出桁造りで格子戸の付いた宿場建物の代表的なものです。よく見ると江戸末期の建築様式を,そのまま伝えているのに気づきます。町屋は,板葺きで石を置いた屋根が多いようです。しかも2階が迫り出しています。石置きはもちろんいまでは見られません。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは旧和田村役場に停めました
 
○上田(うえだ)/上田市柳町 
 
   
▲往時の面影を見ることができます  ▲日曜日の昼頃ですが静かでした
北国街道沿いの町・柳町は城下の経済を牽引
 戦国の武将・真田昌幸が築いた上田城のある町です。城下町としてのイメージが強いですが、どちらかといえば商業の町ではないかと思います。特に北国街道沿いに発展した柳町界隈は、白壁の土蔵や虫籠窓,格子戸のある商家、町家などがほとんど残されています。江戸時代はもとより,明治から大正時代にかけて、上田の経済を牽引した役割を担ったのです。
民芸品店、酒屋など往時の面影が残ります
 
日曜日の昼頃ですが、とても静かでした。民芸品などの雑貨店,酒屋などのんびりと見てまわりました。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 しなの鉄道上田駅からバス房山下車すぐ
 
○上塩尻(かみしおじり)/上田市上塩尻 
 
紬や養蚕で栄えた集落
 北國街道沿いの集落です。江戸時代は上田藩領。ほとんどが農家ですが,“女稼ぎ”として木綿の製造がさかんでした,さらに紬(つむぎ)は“上田紬”といわれるくらい品質の高い物でした。また養蚕の製造村として名も広がり,藩の奨励策もあったせいか,上田藩領内で一番の生産量を誇っていました。販売商人の出入りも多く,村は栄えたとか。
旧養蚕住宅を偲ばせます
 街道沿いには土蔵造りの町家,土壁の養蚕業を偲ばせる,棟に通風を兼ねた“突き上げ”(空気孔)が見られます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 塩尻小学校横の道端に停めました
 

                       ▲ページの先頭にもどる

○坂城(さかき)/坂城町坂城 
 
北國街道沿いの宿場町
 江戸末期までは坂木でした。坂木という地名は,応永7年(1400)の善光寺参りに関する古文書に,坂木の宿で宿泊する旨の文字が見られることから,戦国時代初期から交通の要衝であったようです。江戸期は本陣,脇本陣,問屋などが置かれ,宿場として繁栄し,安永2年(1733)には102軒の旅籠があったとされます。
明治に入って娼妓が一気に減少
 明治に入って坂城に改名します。明治12年、新町に遊郭が置かれます。かつては娼家60軒近くありましたが、この新町に移転してから一気に寂れ、貸し座敷7軒、娼妓50人に減りました。
名主の邸宅が残ります

 いまは,旧北國街道沿いに名主の坂田家,春日家住宅,山浦家住宅などが残り,往時の面影を残しています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは坂木宿ふるさと歴史館に停めました
 
 ○力石(ちからいし)/千曲市力石
 
開発と災害の繰り返しの集落
 戦国時代から千曲川の氾濫は,多くの農民たちを苦しめてきました。そんな中,巨石が転がってきたことから村名が付いたとか。それほど洪水が多く,寛保2年(1742)には全村が流失しました。とにかく開発と災害との繰り返しであったそうです。
養蚕農家の面影
 しかし一方で舟運の要衝でもありました。特に養蚕業は飛躍的に発展し,文化・文政年間(化政期・1804-30)では,松代藩内でも上位の生産高を誇りました。いまでは,かつての養蚕業を名残りとする建物や蔵造りの町家が見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは千曲農協力石センターに停めました
 
 ○戸倉(とくら)/千曲市戸倉
 
   
▲坂井・酒造コレクション/酒蔵を資料館に改造。酒造りの工程や展示、販売 
外倉科→外倉→戸倉と変遷
 南北朝時代には十蔵と書いたそうです。江戸時代は松代藩領ですが、一時期、越後高田藩領の時代もありました。地名の由来は、東方にある鏡台山の山陰に倉科(くらしな)村がありました。ところが反対にこの地は、山陽にあたるところから外倉科(そとくらしな)と称したのです。で、ある日、略地名は2字に限るとのお達しがあったので、“科”を取って「外倉」とし、これを戸倉と改めたそうです。
茅葺き屋根のそば店
 
北國街道沿いにひときわ目立つ茅葺き屋根の民家が,県の文化財でもあるそば料理「萱」です。裏手には坂井銘醸が造った酒造コレクションがあります。江戸時代から昭和にかけて建てられたものです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは酒造コレクション駐車場に停めました
 
 ○桑原(くわばら)/千曲市桑原
 
松代藩の重要な機能を負った宿場町
 江戸の初期,北國街道の宿場町でしたが,その後慶長~寛永年間(1596-1644)は宿役(しゅくやく)を稲荷山宿に,市は桑原宿に分けましたが,さらにその後市も稲荷山宿に譲りました。しかしながら,猿ケ馬場峠(さるがばんばとうげ)を控えており,機能としての宿場の必要性は変わりませんでした。また松代藩の他領への出入り口としての重要性も変わりません。
土壁の町家群
 街道沿いには本陣(柳沢家住宅)もありました。松代藩主や家臣が休憩,宿泊の施設として使われていましたが平成13年に壊されました
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは竹林の湯駐車場に停めました
 
 ○稲荷山(いなりやま)/千曲市稲荷山
 
   
▲漆喰を使ったなまこ壁も点在します  ▲豪商・松林邸を改造した蔵し館 
さまざまな蔵造り
 これほどたくさんの歴史的建造物が残っているとは思いませんでした。ここは善光寺街道の宿場町で、かつて大勢の人でにぎわったそうです。漆喰の白壁、なまこ壁、土蔵、格子戸のある町家、蔵造りの商家などさまざまな建物が残っているのです。距離にして500mくらいでしょうか、街道筋(県道77号線)の両側に建っているのです。ただ交通量が多いので、事故には気をつけてください。また駅から早足で歩いたのですが,かなりつらい行程でした。
絹織物業の豪商たちの館
 そして今度は2度目の訪問です。クルマで行きました。もともと弘化4年(1847)の善光寺平地震で村は壊滅し,その後江戸末期,明治に建てられ,防火を意識した土蔵が多くなったそうです。
 明治期は製糸,絹織物産業が発展し,全国から多くの商人がやってきて大変な賑わいだったとか。そのため豪商が幾つも誕生しました。蔵し館もその一つで,生糸の輸出で財をなした松林邸を修理,復元し,かつての機織り機や紡ぎ機,生活用具を展示しています。駐車場もあるので,ココに停めると便利です。平成26年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 
感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR篠ノ井線稲荷山駅から徒歩20~30分
 
 ○海野(うんの)/東御市本海野
 
北國街道の宿場町です
 2度目の訪問です。中山道追分宿から分かれて越後へ向かう北国街道の宿場町のひとつです。 かつてはほとんどが旅籠であったと言われています。
美しいデザインの海野格子
 特に2階の出格子がこの地方独特の海野格子(うんのこうし)があります。普通の格子は上から下まで1本通しで、間隔を置いています。海野格子は、2本通しの次に、こんどは下から伸びた上部の開いた2本通しが並びます。そしてこれを横木でつないでいきます。独特の美しいデザインです。

●旅籠から養蚕農家へ
 宿場町は東西650mで,街道の中央に用水が流れています。 歩くと,水音が聞こえてきます。また土産物店や茶屋などが時折り見かけますが,よく見ると,養蚕農家らしい風情に気がつきます。かつての旅籠も,明治時代以降は養蚕で財をなしたとか。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました
 ○奈良本(ならもと)/青木村奈良本
 
東山道・歴史の町
 下奈良本の水田で発見された牧寄遺跡から,平安期以降の多数の遺物が出土。なかでも建物跡の柱の形が角柱に近いことに注目されました。通常,古代の掘立柱は丸柱が普通なので,この近辺は,平安京の影響を受けた先進的な所とされた理由です。すなわち,ココに都との往来が盛んで,東山道(現・松本街道保福寺道)が存在していた証拠なのです。
江戸時代は極貧の村で一揆も盛ん
 江戸時代は貧しく,一揆の盛んな所でもありました。いまはのどかな集落で,かつての面影は全く見られません。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○田沢(たざわ)/青木村田沢
 
古代・東山道を通過した大和の役人もひと息
 文字通り温泉町です。開湯は奈良時代といわれており,畿内から地方を結ぶ道路が整備され,そのうちの1本,上州,陸奥方面へ向かう東山道が,青木村を通っていたのです。当時,地方と往復していた大和の役人たちは,ココで一息ついたのか。
文豪・島崎藤村も愛した田沢温泉
 最近,石畳みが整備され,温泉街の風情がいっそう感じられるようになりました。とくに木造3階建てのますや旅館を,文豪・島崎藤村は小説『老嬢』で登場させています。また共同浴場の有乳湯の唐破風屋根が印象的です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは青木村村営駐車場に停めました
 
 ○塩尻(しおじり)/塩尻市塩尻町
 
   
▲堀内家住宅(国の重要文化財)   ▲ところどころに土蔵も見られます
交通の要所で、松本藩の口留番所も設置
 江戸初期に小野宿から牛首峠を経由していた中山道が,塩尻峠経由に変更され,旧塩尻宿の南隣に新中山道の塩尻宿として設定されました。また松本、諏訪、伊那、木曽方面への分岐点にあたるところから、多くの人の往来があり、まさに交通の要所でした。問屋、旅籠、本陣もあり、松本藩の口留番所もおかれて、さらに幕府の塩尻陣屋も置かれていました。
●重要文化財クラスが2棟立つ
 いま,街道沿いには小野家住宅などわずかな古民家,裏手の旧街道にも堀内住宅などが残されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは町区公民館の駐車場に停めました
 
 ○本山(もとやま)/塩尻市宗賀
 
●宿場の長さが500m、「長いな~あ」
 宗賀地区には,幾つもの集落がありますが,中山道の宿場町を形成しているのは,洗馬集落と本山集落です。江戸時代の初期,中山道の路線変更にともない宿場として発展。町の長さは500mもあり,実際歩いていて「長いなあ~」と実感しました。しかも町家がずっと続くのですからうれしい集落です。かつて松本藩の番所,問屋,本陣,旅籠などが配されていました。
圧倒的な量の古民家群
 庇の深い,格子のはまった2階屋が続きます。木曽路を歩くとどこでも見られる風景です。しかし“古民家量”は圧巻。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○原新田(はらしんでん)/塩尻市広丘原新田
 
   
▲歌人・島木赤彦の下宿跡  ▲短歌活動の拠点・塩尻短歌館 
街道沿いに続く大型民家
 北国脇往還(善光寺街道)沿いの集落でした。大型民家の妻側は,漆喰とむき出しにした柱の組合せが美しく,現代でいえば真壁造というべきか,この地方独特の家屋です。街道沿いにそんな美しい姿が何軒も見られます。もともと江戸時代初期、松本藩領の野村の新田開発で起立した村で野村新田とも呼びました。その後野村から枝郷として分村。できたばかりの村なので、村高は20石台とわずかです。
「短歌の町」として活動しています
 広丘あたりはかつて若山牧水、島木赤彦、太田水穂、窪田空穂といった明治時代から近代にかけての歌人が集まったところです。「塩尻短歌館」はそんな短歌の町の、平成4年に開館された文学館。主屋は明治維新の初年度、1868年に建てられた古民家で、国の登録文化財です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○郷原(ごうばら)/塩尻市広丘郷原
 
松本藩が強制移住で造った宿場町
 江戸時代は中山道の宿場町です。松本藩主・小笠原秀政が中山道と北国脇往還を結ぶために,北国西脇往還(善光寺街道)を整備しました。そのとき,上野地区の住民らを強制的に移住させて,宿場を形成したそうです。幕末の安政2年(1855)には,72軒,336人にまで大きくなりました。旅籠屋も10数軒あり,善光寺参りや三峰講,戸隠講などの人々で賑わったとか。
美しい古民家が連なる
 庇屋根の上に虫籠窓のある蔵造り,庇の長い格子窓のあり木造住宅など,美しく整備された古民家が連なっています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
交通 クルマは郷福寺駐車場に停めました
 
 ○贄川(にえかわ)/塩尻市贄川
 
   
▲旧贄川関所/女改め、白木改めの役割を担っていました 
   
▲観音寺/山門は寛政4年に再建  ▲深澤家住宅/国の重要文化財  
重要文化財も見られる
 江戸時代に入りますと,奈良井川と平行する形で中山道が整備され,贄川宿が形成されました。本陣,脇本陣,問屋,旅籠は25軒もあったとか。また宿場の北端には関所が設けられ,特に良質の木材流出を防ぐ白木改めが行われました。
古民家の多い所です
 ところで旧樽川村のなかでも贄川集落は平沢,奈良井に次ぐ古民家の多い所なのです。歩いていますと,アルミサッシで改装した町家が目立ちます。また出桁造りも多く,梁を2段にして突きだした出梁造りも見られ,往時を彷彿させます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは贄川関所の駐車場に停めました
 
 ○木曽平沢(きそひらさわ)/塩尻市木曽平沢
 
   
▲木曽漆器の大きな販売店がズラリと並びます
重要伝統的建造物群保存地区に選定
 2006年度に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。塩尻市内では奈良井に続いて2カ所目です。奈良井は年間約40万人もの観光客を集めています。平沢はその10分の1とも言われ、何とか漆器を中心に売り込んでいこう、という意気込みが感じられました。
ノコギリの歯状の町並み
 日曜日の午前中に訪れましたが、とても静かです。ドアもピシャッと閉められているのですが、風を店内に入れないためです、といわれて納得しました。ノコギリ状のに並んだ町並みはここでも見られます。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR中央本線木曽平沢駅から徒歩5分
 
 ○奈良井(ならい)/塩尻市奈良井
 
   
▲上問屋資料館/国の重要文化財  ▲かわいいJR奈良井駅 
NHK朝ドラ『おひさま』のロケ地
 何度も訪ねました。観光客の多い町ですが,夜はとても静かです。格子窓からもれる明かりだけが頼りで,まるで江戸時代にタイムスリップした感じです。そのためかドラマやCMなどのロケ地として利用されることが多いようです。NHKの朝ドラでは『おひさま』(井上真央主演)のロケ地として使われました。
山間の地で1000人以上が生活できました
 江戸時代は幕府領ですが、後に尾張藩領となります。それにしても農業に適さない山間の地で1000人以上の人がなぜ生活できたのでしょうか。やはり檜細工が大きかったと言えます。藩から白木を割り当てられて漆器や塗櫛業などが盛んであったためです。
“木曽騒動”に加勢しています
 幕末に隣接する松本藩領の飢餓で苦しむ贄川、薮原の農民たちの一揆に加勢し、松本藩領内に入り、放火、打ち毀しなど“木曽騒動”に加わっています。なお重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 駐車場 クルマは観光客用駐車場に停めました
 
 ○薮原(やぶはら)/木祖村薮原
 
難所・鳥井峠の麓で発展
 文久元年(1861),皇女和宮は目前の難所・鳥井峠を控えたこの地で宿泊しています。また飛騨高山へ向かう飛騨街道奈川道の分岐点にあたるため,交通,流通の要衝となり,大いに繁栄。天保9年(1838)には,家屋数378軒,人口は2009人とふくれあがるのです。
旧木曽街道の両側に古民家がギッシリと続く
 実際に歩いて見ると,古民家が街道の両側に長く続きます。といっても庇の突き出た木造2階屋が数軒ずつひとかたまりで建ち,間に現代住宅が建つという光景です。奈良井宿とともに発展した町並みといえます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは木祖村役場の駐車場に停めました
 
 ○宮越(みやのこし)/木曽町日影
 
木曽と伊奈を結ぶ街道の拠点
 江戸時代,はじめは幕府領でしたが後に尾張藩領となりました。中山道の宿場町で,江戸と京の中間地でもありました。天保14年(1843)には,本陣1,脇本陣2,旅籠21,問屋2で,人口は585人の規模でした。またこの地から伊奈地方へ向かう権兵衛街道が分岐しており,伊奈と木曽の交通の便が一段と良くなったのです。
●水準の高い古民家が残る
 古民家はわずかに残されており,意外に水準の高い田中家住宅などが見られます。大工の腕の高さを見込まれて甲州や三河,駿河まで出かけたとか。田中家住宅は明治16年(1883)の大火で被災しますが、残った廃材た建具類、隣村からの部材を合わせて、平成26年に修復復元工事したものです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○木曽福島(きそふくしま)/木曽町福島
 
民謡『木曽節』で一躍全国にその名が広がります
 木曽川沿いに多くの集落が林立しますが,なかでも木曽福島は江戸時代から,尾張藩の木曽代官所が置かれるなど,木曽地方の中心地でした。それは,現代でも多数の公共機関が置かれており,中心地であることには変わりません。また木曽路を観光地として売り出したのが,大正に入ってからですが,その先頭を切ったのが民謡「木曽節」で,木曽福島なのです。
上の段地区に街道の趣
 上の段地区は,長い庇や千本格子,なまこ壁の土蔵が残っており,旧中山道の懐かしい光景が見られます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは福島関所駐車場に停めました
 
○上松(あげまつ)/上松町小川
 
   
▲本町通りにも古い町並みが残ります  ▲田瀬屋の1階にはいろりも残る 
江戸時代から古民家2軒
 旅館越前屋(手前)と民宿田瀬屋は江戸時代の建物です。もともと臨川寺参道入口にあった立場茶屋(宿場と宿場の中間)でした。いまは双方とも営業はしていません。なお本町通りにも古い町並みが残こります。
良質の木材・木曽檜が産出 
 さてこのあたりは木曽檜の良材が採れるところで、豊臣、徳川、さらに伊勢神宮の御用材として、古くから切り出されていました。木曽川を利用した川流しが盛んでしたが、大正4年に森林鉄道が開設され、機関車による木材輸送が中心になると、水の利用は水力発電へと移行します。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは八十二銀行上松支店駐車場に停めました
 

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○須原(すはら)/大桑村須原
 
   
▲水船/生活の場となる井戸まわり  ▲ほおば寿司セット(980円/きらく)
宿場町の風情が残る
 清水の湧く宿場として知られています。軒先に丸太をくり抜いた水舟が置かれ,野菜や果物を浮かべる風習が美しいのです。瓦屋根に軒先の突き出た町家が,落ち着いた風情を醸し出しています。中山道の宿場町です。とはいっても最初の宿場は木曽川べりにありました。ところが正徳5年(1715)の大洪水で宿場は壊滅。そこでさらに高台に移住しました。規模は1町ほど短くなっているそうです。
貧しい農民も明治維新後の養蚕で変わる
 江戸時代初期は幕府領ですが、のちに尾張藩領となります。木曽川支流の伊奈川には伊奈川橋があり、木曽三大橋の一つでした。尾張藩は特に重要視した橋で、この地の庄屋は、4軒の農家を指名して保護させたそうです。ただ全体的に村は貧しく、宿場での稼ぎのほか、山稼ぎ、養蚕程度でした。のちに主力産業となる養蚕業の発展は明治維新を待たなくてはいけませんでした。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大桑保育園横の空き地に停めました
 
○野尻(のじり)/大桑村野尻 
 
   
▲木曽路でよく見かける民家です  ▲街道はクネクネと曲がっていました 
江戸時代は尾張藩領
 古くは野路里、野次里とも書きました。江戸時代当初は幕府領でしたが、元和元年(1615)からは尾張藩領となります。木曽川沿いの急峻な土地に集落があって、村高は“無高”で、年貢米で表記されており、わずかに85石。しかし薪の一種の榑板(くれいた)は5000丁などがあり、山仕事が中心です。
木曽路では最大級の難所
 さて中山道の難所に設けられた宿場。しかも街道は「七曲がり」と呼ばれ,尾張藩の外敵防御策の一つでした。木曽路では最大級の難所でもあり、一休み用に茶屋,旅籠の多いのが特徴。本陣、脇本陣、問屋などがありました、旅篭屋19軒と集落の規模から考えてかなり多い。古民家も独特の格子窓のある町家が多いようです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○上諏訪(かみすわ)/諏訪市諏訪 
 
酒屋の土蔵が5軒
 駅を出ると、観光客全員が諏訪湖畔の方向に歩いていきます。当たり前です。観光スポットは諏訪湖畔のほうが圧倒的に多いのですから。しかし古い町並みは逆に甲州街道沿いにあります。交通量も多く、反対の歩道に渡るのもままならない状態です。そして見つけたのが酒蔵です。でも建物は立派です。白壁に漆喰がほどこされ、実に頑丈な造りです。このような酒蔵が5軒あります。
甲州街道の宿場町
 戦国時代から続く地名で,江戸時代に入ると,甲州街道の宿場町として発展するも,規模は小さかったようです。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR中央本線上諏訪駅から徒歩10分
 
○下諏訪(しもすわ)/下諏訪町立町 
 
落ち着いた町家
 諏訪大社下社秋宮のそばにある宿場町です。当然地名の由来も、諏訪大社の下社にあったからです。江戸時代は中山道の温泉町として栄えたそうです。別名「湯之町」とも書かれました。また甲州街道とも交わっているためか、とにかくたいへんなにぎわいだったとか。ちなみに甲州街道の終点でもありました。いまでは100mほどの両側に温泉宿が並んでおり、そのうちいくつかの宿が格子戸のある昔ながらの風情を残しています。
茶壺道中、日光例幣使、和宮降嫁、天狗党……、話題満載
 温泉は江戸時代からの人気で,参勤交代の大名,幕府公務,お茶壺道中,朝廷から日光への例幣使,さらに幕末の和宮降嫁の通行などで利用したそうです。
驚くべき逸話も数多く残されており、宇治茶を秋宮神楽殿に安置し、70人の家老以下が徹夜で警備したとか。しかも行列役人の横暴ぶりに目に余る物があったそうです。日光例幣使の一行も、宿泊料を払わず逆に「草鞋銭」として金銭を要求された…。和宮降嫁の行列は、通過するのに3日かかったため、近隣の住民たちの生活が完全に止まった。水戸天狗党1000人が通過し、先の和田峠で高島藩・松本藩連合軍と戦闘があったとか……。いやはや江戸末期の下諏訪は、話題満載です。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR中央本線下諏訪駅から徒歩15分
 
○三留野(みどの)/南木曽町読書 
 
2階窓に特徴のある町家
 旧三留野村です。江戸時代は中山道の宿場で,江戸時代末期には1000人を超える人口がありました。本陣は鮎沢家が務め,江戸中期には脇本陣が設置され,代々宮川家が勤めました。皇女和宮降嫁では,宿泊地となり,仮小屋が38も急造。
大火に何度もあい、町並みは少しずつ縮小
 ところがそんなに繁栄した宿場なのに意外に小さい。それは江戸時代に3回の大火,さらに明治14年の大火で町が壊滅,現在の建物はそれ以降のものです。2階の窓が特徴で外に突きだし,現在はアルミサッシですが,格子窓でした。
民家を見ていますと養蚕も兼業していたと思えます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○妻籠(つまご)/南木曽町吾妻 
 
   
▲石積みの屋根も再現しています  ▲電柱もなく昔ながらの街道です 
町並み保存の先駆者
 昭和30年代に入って,住民,行政,有識者らが一体となって町並み保存が進められました。まさに全国の町並み保存の先駆者でもあったのです。昭和50年に文部省から重要伝統的建造物群保存地区の基準を示され、翌昭和51年(1976)に、他の白川村、京都市内2カ所、萩市内2カ所などと合わせて重要伝統的建造物群保存地区に選定。この年から本格的に全国規模で町並み保存が始まったといえます。そしていま過疎の村が年間50万人以上の観光客が訪れるまでになりました。そのうち約3万人が外国人だそうです。
往時の古民家を復元
 この日は日曜日のせいか,いくつかある駐車場もすべて満車で,しばらく空くまで待ちました。中山道で,江戸から42番目にあたります。町屋,商家をはじめ本陣,脇本陣なども復元保存されています。土産物店や食堂,茶屋もあるので,のんびり歩けるところです。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました
 
 ○大妻籠(おおつまご)/南木曽町妻籠
 
「ホタルの里大妻郷」で売り出し中
 戦国時代、すでに大妻籠郷(おおつまのごう)という地名がありましたが,これは今よりはるか大きな地域を指しており鎌倉時代に成立していたと推定されます。さて妻籠宿から歩き続けると,集落が途切れます。小さな神名橋を渡ると再び集落が現れ,古民家が続くのです。大妻籠の集落です。「ホタルの里大妻籠」で売り出しているようです。
出桁造りやうだつ
 大妻籠の町家のほとんどが民宿,土産物店で形成。そして家屋の大部分は,2階部屋を大きくするための独特の出桁造りや小さな防火壁の役割を持ったうだつのある町家です。
感動度★★
もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○御堂垣外(みどうがいと)/伊那市高遠町藤澤 
 
信濃国の諸藩が滞在しました
 松倉川が藤沢川と合流するところに形成された宿場町です。杖突峠を越えるから杖突街道と呼びますが,地元の人たちは藤澤街道とも呼びます。今は門のみとなった本陣には参勤交代の大名や幕府の役人,高遠藩の内藤家,飯田藩の堀家などの諸侯が利用。本陣は藤澤家が世襲で本陣役を務めたのです。脇本陣は設置されず,問屋油屋が脇本陣役を務めたそうです。
貧しい村ゆえに藩の奨励策は積極的
 
地名の由来は、お堂が5つあって、豊かな土地であったからというが、よくわかりません。しかし貧しい村であるこに変わりありません。藩は出稼ぎを奨励し、石工として他国に稼ぎに行かせています。また同じく藩の奨励により、桑を植えて養蚕を立ち上げたそうです。ただ基本的には、林業が中心で、木材、白木、挽板、炭などの搬出が盛んでした。そのため藩の白木改所が設置されています。
●古民家も空き屋が目立つ
 町を歩いていますと,庇の突き出た雪国特有の古民家も空き屋が目立ったのが残念です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○荒町(あらまち)/伊那市高遠町藤澤 
 
洪水のたびに土砂で村が荒れるので“荒町”とか
 藤澤川中流に位置する小さな集落です。天正年間(1573-92),武田氏の家臣・秋山氏が住み着いて村を興したという。江戸時代は高遠藩領で旧荒町村。洪水のたびに村が土砂で荒れると言うところから村名が名付けられたとか。なにやら、つらい町名です。
砲術家・坂本天山の出生地
 山間の貧しい村で,藩の奨励もあり石工として武州,上州に出稼ぎに出ました。その後,木材や炭の出荷量が多くなり,さらに藩の奨励で養蚕が盛んになったりします。ところで角度を変えることができる大砲の台「大砲周発台」を発明した高遠藩藩士で砲術家・坂本天山の出生地でもあります。
裏道に古民家が散見
 杖突街道沿いの他に,横道や裏道に庇の突き出た板張りの古民家が見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは第2保育園駐車場に停めました
 
○栗田(くりた)/伊那市高遠町長藤 
 
   
▲街道沿いに土蔵も残ります  ▲道祖神と茅葺き屋根のお堂 
旧藤沢街道の宿場町
 高遠藩の領主・鳥居忠則が藤沢街道(現杖突街道)の宿場町として整備し,街道沿いに旅籠,馬宿,問屋などを設けました。藤澤宿沿いの集落は、どこもそうですが貧しい。高藤藩もそのことはわかっていて、多くの奨励策を打ち出しています。石工の出稼ぎ、松板や炭の搬出、養蚕業への進出。さらに楮(こうぞ)を植えて和紙の原料として出荷などなど……。
茅葺き屋根と道祖神
 ところで街道を歩いていますと、横へ坂を上ると茅葺き屋根のお堂があります。道祖神などもあって、なんとなくなつかしい光景です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○四日市場(よっかいちば)/伊那市高遠町長藤 
 
●ところどころに古民家が見え隠れします
 江戸時代は高遠藩。藩主の鳥居氏が,隣接する栗田宿とともに整備した宿場町で,伝馬役は栗田宿と交代で行ないました。城下までは約2里,御堂垣外宿へは1里余の距離。宿場入り口には常夜灯が立ち,旅籠,馬宿,問屋などの構成は,栗田宿とほぼ同じです。
高遠氏が諏訪に攻め込んだ道
 杖突街道は,諏訪と高遠を結ぶ街道で,古代東山道のルートの一部でした。戦国時代は人馬の往来が激しく,高遠氏が武田氏の要請に応じて諏訪に攻め込んだのもこの道でした。今はかつての面影はありません。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○高遠(たかとお)/伊那市高遠町西高遠 
 
3つ街道が交わる交通の要衝
 江戸時代はもちろん高遠藩の所領。高遠本町のバス停周辺が,藩政時代からの商業地域で,今でも町の中心地でもあります。また伊那街道,杖突街道,秋葉街道の宿駅としての役割を果たしており,伊那東部地方の交通の要衝でもありました。つまり城下町でもありながら宿場町でもあったのです。
土蔵造りの商家、町家などに修復
 かつて土蔵造りの商家,板壁の町家,さらに料亭,旅籠など集中していました。現在,それらしく復元していますが,その造りがバラバラなのが気になりました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは霜町商店街駐車場に停めました
 
○伊那部(いなべ)/伊那市西町 
 
元は武田信玄の軍用道路
 伊那街道沿いの宿場町で,飯田城下と塩尻の中間に位置します。元もと,伊那街道は武田信玄が三河攻めのための軍用道路として開いたとも言われています。なお明治以降,三州街道という名に統一されました。地名の由来は、この地方の有力豪族・猪名氏の部民(べみん/大化改新以前における私有民の総称)からきたと推定。
比較的往時の面影が残る
 ところで宿場が整備されたのは,江戸時代中期以降と意外に遅かったようです。本陣,問屋,旅籠,薬屋,荒物屋,髪結い,銭湯などもありました。明治27年に新三州街道が下段に開通したことで,にぎわいも下段に移り、比較的往時の面影を残しているのです。今は土蔵や板壁で出格子造りの町家など見ることができます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは伊那部集会場に停めました
 
○宮田(みやだ)/宮田村町 
 
いくつかの蔵造りの商家
 江戸時代は高遠藩領。幕府の五街道制定後,伊那街道の宿場町として整備されました。本陣も置かれ,問屋が伝馬の荷継ぎを行ないましたが,農民たちも持ち馬を使って荷物を直送する中馬が盛んになったそうです。
江戸時代、イノシシの作物被害が続出
 ところで江戸時代末期、文化5年(1808)に『宮田八ヶ村猪垣普請目論見帳』なるものが作成されています。いわば猪の被害が多発しているため、村民あげての対策を練ったという。木戸や水門を造ったり、土手を繕い、乱株を設けるなど、人足延べ数で7570人が繰り出したといいます。いわば工事計画書を藩に提出して実施したわけです。当時の絵図を、現在地形に重ねて見ますと、その多くが中央高速道の工事で、消滅していることがわかります。
北へ善光寺詣り、南へ伊勢詣りとにぎわう
 また北へ向かう善光寺参り,南へ向かう伊勢参りなどの旅人が多くなり,収容するための旅籠も増えていきました。

 現在の三州街道(国道153号)の裏手に旧伊那街道が通っています。そこには蔵造りの商家が幾つか残っており,往時の面影を見ることができます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは宮田村役場に停めました
 
○片桐(かたぎり)/松川町上片桐 
 
松村三代58年間の末、大堤防が完成
 文禄2年(1593),飯田藩主によって改められた宿場です。宿場の西裏に御茶屋御殿跡がありますが,脇坂氏時代に年貢の収米所として建てられたもの。幕府領時代には周辺の小さな村々7カ村をひとまとめにして片桐村としたそうです。そのため村高は膨れあがり、5000石を越えています。とはいうものの、農民の最大の苦しみは、凶作と水害です。地元の松村理兵衛は私財を投げ打って、天竜川の治水に着手。決壊と補強を繰り返すこと、松村三代58年間に及ぶ大土木工事が完工、理兵衛堤防が完成しました。
天狗党の宿泊に村人は震撼!
 幕末,水戸天狗党が筑波山で挙兵し,その一行が片桐宿(500人)と隣の大島宿(300人)に分宿。村人を震撼させました。

 今は長屋門や板塀などで,往時を演出(?)していますが,ほとんどそれだけです。ただ静かな町並みはのんびりできます。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○大島(おおじま)/松川町大島 
 
●飯田藩主が造らせた宿場町
 武田信玄は飯田城代の秋山信友によって築かせたのが大島城。しかし天正10年(1582)に織田信長によって攻撃され落城しました。文禄2年(1593),飯田藩主・京極高知が,片桐宿と共に作らせた宿場です。このとき廃城となった大島城下から北西へ4km移し伝馬宿としました。その後中馬制もみられました。馬数は周辺の村を含めて70頭あったそうです。
アッという間に素通りしそうな町並み
 片桐宿もそうですが,この大島宿も雰囲気はなく,クルマで通るとあっというまに素通りしそうな町並みです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○市田(いちだ)/高森町上市田 
 
●正徳元年に上市田村と下市田村に分村
 多くの古墳が点在することで知られています。さて武田信玄は永禄6年(1563),中山道の脇往還として伝馬屋敷を造らせました。これが伊那街道・市田宿の始まりといわれています。以来,伝馬や人馬の継立のほか,旅人の中馬などで栄えました。江戸時代末期に,約20日間で1060人の宿泊があったと記録されています。もともと市田村でしたが,正徳元年(1711)に上市田村と下市田村に分村しています。
古民家は上市田に集まる
 いま,古民家が若干残っていますが,ほとんど上市田に集まっています。庇の長い出桁造りが多いようです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○座光寺(ざこうじ)/飯田市座光寺 
 
白壁の蔵が点在している
 かつて当地にあった寂光寺の寺名が転化したなど,町名の由来は諸説ありますが,歴史は古く,縄文時代の遺跡,遺物が多数出土しています。江戸時代は一時幕府領でしたが,その後飯田藩領となります。
山側の農民と里川の農民との貧富の差が広がる
 農村地帯ですが,洪水の影響を受けない山側と氾濫原に畑を持つ里側では,困窮の差が大きく,常に農民間の争いが絶えませんでした。藩が絶えず緩和策をとったものです。緩和策の一つに、新たな農地開発地に、山側の農民に対しては高利で付与するというものです。
 伊那街道沿いには,なまこ壁の土蔵や出桁造りの古民家が点在しています。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
○大平(おおだいら)/飯田市大瀬木大平 
 
   
▲一旦、廃村になりましたが、現代になってよみがえりました 
昭和45年の集団移転で、いったん消滅!
 江戸時代・宝暦年間(1751~1764),飯田城下と妻籠宿を結ぶ街道の宿場町として開削されました。藩主も通行したり、木曽4宿への通路として、当時はたいへん賑わったとか。しかしながら昭和45年(1970),過疎化に伴い集団移住によって,その歴史を閉じたかのように思えました。
「大平宿を残す会」が保存・再生に乗りだしました
 ところが,「大平宿を残す会」を中心にした民間の団体が,廃村の保存運動にのりだし,再生運動を展開。現在は映画のロケ地や各スポーツ団体等の合宿などに使われています。特に民家沿いに未舗装の道路が多く残っているのが、撮影には貴重だといわれています。
土間を広くとった古民家群
 民家の上部をせり出したセガイ造りで,前土間を広くとっているのが特徴です。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○八幡(やわた)/飯田市八幡町 
 
   
▲なまこ壁の土蔵、虫籠窓や格子のある商家など街道筋は楽しい  ▲山菜そばと五平餅セット(680円・赤いりんご) 
遠州街道沿いの門前町
 鳩ケ嶺八幡宮(はとがみねはちまんぐう)の門前町です。昔から道幅は狭く、下條村方面への街道となっていました。参道の一部が街道となり、多くの参拝者で賑わいました。かつて飯田城下よりも優れた商品が並んでいるとの評判で,呉服屋,油屋,菓子屋,酒屋などが軒を並べ賑わいました。
鳩ヶ嶺八幡宮には文化財多数
 八幡宮は建治3年(1277)に伊賀良荘島田郷の地頭・江馬氏によって、石清水八幡宮(京都)を勧請して創建されました。古くは島田八幡宮と呼ばれたそうです。本殿は元禄9年(1696)に再建され、市の文化財に指定。さらに所蔵の木像・誉田(ほむた)別尊像は国の重要文化財に指定されています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは鳩ヶ峯八幡宮駐車場に停めました
 
○飯田(いいだ)/飯田市本町 
 
   
▲大火の炎に包まれオレンジ色に変色  ▲三連蔵/飲食店が入っています
昭和22年の大火で町を大改造
 昭和22年4月の飯田大火の結果,市街地の約4分の3が焼き尽くされました。罹災人口はなんと1万8000人。そこで防災街区が造られ,避難路,消防活動やインフラ埋設などに,約幅2mの路地が造られ,これを裏界線(りかいせん)と呼んでいます。
生活に根ざす裏界線が観光客の人気
 裏界線は全部で45本、総延長は5km。逆に裏界線が知られるようになり、観光客の歩く姿が見られる様になりました。やはり表通りからわからない,生活感のあふれた道だからでしょう。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマはキノシタパーキングに停めました
 
○仲ノ町(なかのちょう)/飯田市仲ノ町 
 
武家屋敷が残っています
 天正10年(1582)武田氏を滅ぼした織田信長は,毛利秀頼に伊那全域を与え,飯田に居城させました。秀頼は京風の町並み整備を積極的に行ない,それが街づくりの礎となったといわれています。
 江戸時代は武家町で,武家屋敷がズラリと並んでいました。正保年間(1644-1648)の武家屋敷は19軒,文化2年(1805)には33軒に増えていたそうです。
昭和22年の飯田大火から逃れた地域
 明治政府の廃藩置県で武家屋敷が取り壊されましたが,なにより、昭和22年の飯田大火から逃れた地域。そのため、いまでもいくつかの長屋門や土蔵などが目に付きます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはキノシタパーキングに停めました
 
○上町(かみまち)/飯田市上村 
 
信仰の道・秋葉街道の宿場
 秋葉街道は,多くの信仰を集めた遠州・秋葉神社への参拝道です。信州から大別して2つのルートがあります。そのうちの1つ,飯田市八幡の遠州街道から分かれて天竜川,小川路峠を経て秋葉神社へ向かうのルートがココです。秋葉神社まで片道2,3日の旅程。かなり険しい道のりでした。その秋葉街道最大の難所・小川路峠を前にして身支度を整える宿場でもあったのです。今でも狭い街道筋に,往時を思わせる古民家がそこかしこに残されています。 
地元・八幡社の「祭り助っ人募集」広告
 もう一つ、上町地区の鎮守でもある八幡社では、平成30年(2018)に「祭りの助っ人募集」を始めました。これは50年前の「子どもの舞」を参考に、後継者育成を願ってのことだそうです。
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは多宝院駐車場に停めました
 
○和田(わだ)/飯田市南信濃和田 
 
   
▲街道沿いに多く見られる古民家群  ▲裏手にも古民家が多い
考古学ファンには知られた場所
 考古学ファンには意外と知られた町です。尾野島遺跡は遠山地方では最古の遺跡。ここで発掘された土器は立野式といわれる押型文土器なのです。押型文土器は各地で発掘されていますが、長野県では珍しいといえます。
●セガイ造りも多く見られる
 武田信玄が軍用路として活用した街道です。江戸時代は遠山領6ヶ村の一つですが、はじめは遠山1080石としてまとめられていました。すなわち旗本・遠山領の知行であったわけですが、元和3年(1617)に幕府領となりました。和田村の村高は500石前後と他の村と比較して穫れ高が多かったようです。和田は上町に続く宿場町で,秋葉街道で最も賑わったとか。町を歩きますと軒下を広くとるセガイ造りも多く見られます。古民家も多く,往時を彷彿させるようです。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは飯田信用金庫の駐車場に停めました
 
○駒場(こまば)/阿智村駒場 
 
武田信玄終焉の地、享年五十三
 上洛を目ざした武田信玄は,三河の陣中で病に倒れ,信濃に兵をおさめようとしたが,元亀4年(1573)4月12日,駒場の山中で病死。その後、ひそかに長岳寺にかつぎこまれ、こっそりと火葬されたのです。53歳でした。長岳寺には供養塔と遺品が残されています。
●蔵並みが少々残っている 
 江戸時代中期になると伊那街道(現在は三州街道)の宿場町として機能が進み,善光寺参りの参拝者,商品物資の運搬など,三河と信濃を結ぶ重要な町でもあったのです。天保元年(1830)の人口は905人とかなり増えています。

 いまは商店街の一画に少しの土蔵と格子窓のある町家が少々残っている程度です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは駒場商店街駐車場に停めました
 
○浪合(なみあい)/阿智村浪合 
 
江戸時代は餓死者も多く、最貧困村
 古くは波逢、波合とも書きました。山間高冷地のため,江戸時代から絶えず飢饉にあい,餓死者も多数出て、最貧困村でもあったのです。冬は2~3mもの積雪があり,麦は3年に1度は必ず不作になりました。大豆,粟,稗,煙草を少々作る程度。そのため全村96戸(正徳6年/1716)のうち50戸が伊那街道沿いに住み,浪合宿を形成していました。伝馬役や関所の雑役などで稼ぎ,年貢の分だけ畑を耕作したそうです。明治に入って道路が改修、拡幅され、荷車、運送馬車が登場、木材、製品の搬出が容易になりました。そのため東海方面の業者によって広大な原生林が消滅するという憂き目にあっています。
●屋根の裾が広い古民家
 いまは土蔵のほかに,この地方で多く見られる庇が深く,屋根の広がりが長い寄せ棟造りなどが残っています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 浪合中学校横の道端に停めました
 
○平谷(ひらや)/平谷村新町 
 
   
▲街道の片隅には道祖神が多い  ▲街道沿いには古民家が残ります 
農民の中馬と宿場問屋との荷物争奪戦が激化
 伊那街道と上村街道,売木街道の交わる宿場です。江戸時代は飢饉が多く、農民たちによる馬で荷を運ぶ中馬(ちゅうま)が盛んで,中馬宿とも呼ばれました。もともと雑穀主体の村で、稲作は天保年間に遅れてスタートしました。中馬とは、馬の背を利用して荷物を運ぶ運送業のことです。ただもともとあった宿場問屋との荷物の争奪戦は激しかったそうです。
土地に適した作物は何でも作りました
 畑の夏作は麦を作りますが、寒冷地なので、年によっては不作になるそうです。で、秋作は粟、稗、煙草、大豆、小豆、大根など土地に適した物はなんでも作りました。煙草はハギを元肥とする栽培法で、ハギ煙草と呼ばれ、中馬(ちゅうま)によって地方に搬出されていました。
中馬制度が農民の生活を支える
 中馬とは宿場の問屋を経ず、荷主と直接契約で荷物を運んだ馬のことです。先ほども述べましたように、平谷は南北に伊那街道、西に美濃の上村・岩村に向かう上村街道。東へは売木街道が交差する交通の要所。そのため中馬の活躍する基盤が整備されていたといえます。この中馬数は、当初は20頭程度でしたが、文化3年(1806)には110頭にも増え、村民の生活を支えました。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○早稲田(わせだ)/阿南町西条 
 
全国各地と交流が盛んな土地
 遠州街道沿いの集落で,早稲種が育つほど伊那地方では恵まれた所だそうです。信州と東海地方や西日本との交流が早くから行われていました。江戸時代は飯田藩,幕府領など絶えず藩主が交代しましたが,変わらないのが早稲田神社の祭礼です。
●いまだに残る人形浄瑠璃の町
 特に人形浄瑠璃は200年の歴史を誇り,国の無形文化財に指定されています。元もと乳児の無病息災を祈念するところから始まったそうです。上方から街道筋を通って、人形浄瑠璃が全国各地に広がりましたが、そのうちの一つがいまだに残っているのは珍しいと言えます。また
昭和9年、早稲田神社境内から宋銭を中心とした大量の古銭が発掘されています。
 いまは,古民家もポツンと残る程度で,ちょっと寂しいです。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○新野(にいの)/阿南町新野 
 
   
▲立派な米蔵。文化財級です  ▲奥三河の文化が絶えず移入 
盆踊りは国の無形文化財
 江戸時代初頭は飯田藩領、後に幕府領、美濃高須藩と絶えず変遷。共通しているのは三河との交流が活発なこと。そのため奥三河の文化が遠州街道を経て流入。産業や文化に影響を与えています。また米蔵は立派で,1987年に歴史民俗資料館として開館。部屋ごとにテーマを設け、昔の山国の暮らしを再現しており、地区の歴史や風俗、民俗、暮らしぶり、文化を学べるようになっています。
切妻型の古民家が多くみられます
 さて町並みは切り妻の出桁造りの町家が多く見られます。なお「新野の盆踊り」は国の無形文化財です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 阿南町歴史民俗資料館の駐車場に停めました
 
○根羽(ねば)/根羽村上町 
 
専業化する農家の中馬運送
 戦国時代は三河国に属していましたが,元亀2年(1571)に武田信玄が信濃国に編入したとか。伊那街道は軍用道路としての一面を持っていましたが,江戸時代に入って交易が盛んになるにつれ,農民たちの中馬(ちゅうま)による荷役運搬が重要な収入になってきました。そのため中馬街道とも呼ばれたりしました。名古屋,豊橋,岡崎への交通の要所で,根羽宿はまさしく全戸数の20%が集中する,賑やか宿場でした。中馬数も宝暦10年(1760)では5軒・20頭でしたが、天保13年(1842)には63軒・250頭までに増えています。明治期に入るとさらに増え426頭の飼育頭数を数えました。まさに農閑余業から漸次専業化していったと考えられます。
伊那街道最南端の宿場
 また伊那街道16宿の最南端の宿場でもあります。庇の突き出た独特の古民家も少し見られます。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは村民駐車場に停めました
 

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