村上市(むらかみし)

○片町(かたまち)/村上市片町 
 
   
▲広い県道3号線が片町を通ります  ▲脇道に入ると情景が変わります
1階の大部分が駐車場
 出羽街道沿いの集落です。江戸時代、宝暦元年(1751)、片町は上・下片町に分かれましたが、後に下片町は元の片町に戻りました。歩いていますと、雪国の町屋が続く、ごく平凡な町並み風景ですが、1階の大部分が駐車場になっているのが土地の事情からか。
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで片町下車徒歩3分
 
○加賀町(かがまち)/村上市加賀町 
 
   
▲土蔵や古民家が残ります   ▲町屋が点在しています
木挽き職人や大工が多く住んでいました
 『村上雑記』によれば、慶安2年(1649)から寛文7年(1667)のあいだに町ができたと書かれています。三面(みおもて)川の筏場に近く、日雇い、木挽(こびき)職、大工が多く住んでいました。
村上の代表的な町屋ゾーンです
 江戸中期、宝永2年(1705))では、家数29、竃(かまど)数80。いまは村上を代表する町屋ゾーンになっています。竃というのは、鍋や釜を煮炊きする設備のことです。これが転じて、独立した生活を立てている一家、所帯をさします。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで加賀町下車徒歩3分
○塩町(しおまち)/村上市塩町 
 
   
▲2階建ての町屋が軒を並べます  ▲旧家と思われる大きい古民家 
“地浜塩”の専売権を持つ町
 寛永末年(1644頃)、元々後免町でしたが、そこへ本塩町の住民も移されて万治元年(1658)、塩町となりました。町名は小町の持つ地浜塩の専売権を受けたことに由来するとか。いま歩いていますと、旧商家らしい大型家屋の町屋が見られます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで塩町下車すぐ
 
○肴町(さかなまち)/村上市肴町 
 
   
▲観音寺/日本最後のミイラが存在  ▲町屋のギャラリー・やまきち 
藩主から魚の専売権を与えられた町
 慶長年間(1596~1615)にすでに肴町はありました。その後長岡町12軒や馬喰町41軒も合併して町は飛躍的に大きくなります。通りを西に行きますと、瀬波街道に続き、藩主が城下に入るときの入口にあたたります。地名は藩主・堀氏から魚の専売権を与えられたことに由来するそうです。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで鍛冶町下車5分
○庄内町(しょうないまち)/村上市庄内町 
 
   
▲曲りが3つある町並みで、端が枡形   ▲旧嵩岡家住宅/市の有形文化財 
城下町・町屋スタイルが続きます
 河岸段丘下を東西に延びる町です。南側の家並み裏に村上城の大きな堀ががあり、その東方を「広見」と呼び、典型的な町屋スタイルが続く町並みでした。
ほとんどの開口部がアルミサッシで改修
 ほとんどが2階建てで2階の開口部が広い。改築、改装されていますが、高い建物もなく城下町らしい落ち着いた感じです。このまま歩くと文化財の集まる専念寺小路へ続きます。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで村上小町郵便局前下車徒歩10分
○久保多町(くぼたまち)/村上市久保多町 
 
   
▲しっとりとした町屋が続きます  ▲やはり改築、改装も見られます 
●大火を経て大きな町へと伸びていきます 
 『越後村上城図』には窪田町と記されているので、元和末年~寛永初年(1624)の起立と推定。はじめは久保田町でしたが、元禄、享保期(1688-1736)に大火が続き久保多町に改名。でも大火は続きます。享保6年(1721)の大火を経て、以前から「久保田町」を「久保多町」に変更。明和5年(1768)、観音堂跡地に遠州から秋葉神社を勧請しました。いま参道に立つ大欅は、馬場先観音堂が建てられて当時の樹でもあります。
上方風の町屋が多い
 庄内町から続く町並みですが、上方風の商家や町屋が多いのが特徴です。歩いて
いますと「はんなり感」の漂う町並みでした。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで秋葉神社前下車徒歩5分
 
○大町(おおまち)/村上市大町 
 
   
▲大町には老舗が多い  土産物店では必ず鮭が見られる 
 ●江戸期は造り酒屋の町
 小町、上町(かんまち)とともに城下で最も早く開けた町。町名の由来は、城下の中心的な繁華の意を込めたとか。寛永12年(1635)には家数は35。寛文5年(1665)には11軒の酒造家がいて、合計4740石も生産していました。古民家は通りに点在しています。
村上大祭のはじまり
 寛永10年(1633)、元羽黒にあった羽黒神社の現地への遷宮の折、大町の人たちが車に載せた太鼓を打って町を練り歩きました。これが村上大祭のはじめとされています。
 羽黒神社での先太鼓、巫女、神輿、荒馬、騎馬のあとに19台のにぎやかなおしゃぎり屋台が続きます。町中を練り歩く様子は時代絵巻そのものです。地元の人たちは内心「京都の祇園祭にもひけをとらない」と自慢しているそうです。 
感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで大町下車、徒歩1分
 
○小町(こまち)/村上市小町 
 
   
▲宿・久左衛門跡/芭蕉宿泊地跡  ▲町家が中心の町並みです 
芭蕉と弟子・曾良が2泊しました
 大町とともに城下で最も古い町。寛永12年(1635)、『村上惣町並銘々軒付之帳』によれば、小町の家数34、下小町の家数は13、酒造業は6軒で933石の生産をしていました。元禄2年(1689)、芭蕉が奥の細道の途中、弟子の曾良と2泊した「宿・久左衛門」がありました。幕末の志士・清川八郎も投宿し、城下の見聞を書き残しています。
明治5年の大火以降の建物です
 明治5年の大火で町の半分を焼失。いま残っている建物は、それ以降のものです。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで小町下車、徒歩1分
○安善小路(あんぜんこうじ)/村上市小町 
 
3つの街道が交差し、北前船の寄港地
 出羽街道、三国街道、北國街道の交わるところで、なおかつ北前船寄港地でもありました。そのせいか、村上には武家屋敷、商家、民家、寺院などあらゆる人たちが住んでいました。そのためたくさんの歴史的建造物が残されています。
黒塀通り・1枚1000円運動
 2002年から市民たちが集まって、「黒塀一枚千円運動」を行なっています。ブロック塀を黒い塀で囲むことで、しっとりとした落ち着いた町並みにしょう、という市民運動です。そのため黒塀通りと呼ぶ人もいます。最近では観光客にも呼びかけ、名前を刻んで打ち付けるようにしているそうです。現在昔のブロック塀が460mの黒塀に再生されています。その後「緑一口千円運動」に結びつけています。 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは村上市役所の駐車場に停めました
 
○寺町(てらまち)/村上市寺町 
 
   
▲浄念寺/本堂が国の重要文化財   ▲経王寺/通称“寺町の大寺” 
   
▲料亭街/「食の小京都」とか   ▲料亭・吉源/江戸後期の創業 
一時期は27ヵ寺もあったとか
 城下町拡張の際、藩主が戦略上この地に寺を集めました。当時は27ヶ寺もあったとか。特に浄念寺の本堂は土蔵造りで重文。芭蕉の訪れた寺でもあります。
寺院群と料亭街が隣合わせ
 歩いていますと、寺院群と料亭街(花街)が並んでいます。料亭街に必ず芸子、娼妓が付きもの。まさに昔の“聖と俗の隣り合わせ”を象徴するような地域です。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR村上駅からまちなか循環バスで安良町下車徒歩3分
○細工町(さいくまち)/村上市細工町 
 
   
 ▲旧御殿医屋敷(現・野口家住宅) ▲窓の意匠がシンプルで美しい 
加賀國・小松から本蓮寺を移す 
 元もと上町の西側の裏手にあった加治屋町が元になっています。その後村上氏は加賀国・小松の細工町から本蓮寺(本悟寺)を移しますが、地名もそのまま流用。慶安年間(1648~52)ごろの改名と推定されます。当時の家数は34軒ありました。
改築、改装でも美しい
 いま歩いて見ますとサッシなどで改装されていますが、板張の壁や塀がとても美しい。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで上町下車徒歩3分
○大工町(だいくまち)/村上市大工町 
 
   
▲光清寺/真宗大谷派の寺院です ▲かつて職人が多く住んでいました 
大工さんがたくさん住んでいました
 大工職が多く住んでいました。寛永12年(1635)では19軒中、大工・桶屋は15軒で、諸役が免除されました。ほかに善行寺と光西寺(現・光済寺)があります。文化9年(1812)の大火でこの辺り一帯が被災。元治元年(1864)には大工18、桶屋10と増えています。
雪囲いを意識した町家
 明治になると料亭も多く見られるようになりました。いま歩きますと雪囲いを意識した典型的な町家風景が見られます。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR村上駅からまちなか循環バスで安良町下車徒歩3分
○三之町(さんのちょう)/村上市三之町 
 
   
▲裏手には竹垣塀の民家もある   ▲若林家住宅/国の重要文化財 
   
▲おしゃぎり会館/村上大祭で曳き回される「おしゃぎり」と呼ばれる山車を展示しています。正式名称は村上市郷土資料館 
旧藩士の居留地
 江戸時代、三ノ丸や御蔵屋敷があったことから、さらに旧藩士の居住地が独立したのが地名の由来。当時戸数138、人口651人というから、多くの武士たちが居住していました。
●武家屋敷のある静かな町
 町場と違って、資料館などもあって、いまはとても静かな町並みを見せています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR村上駅からまちなか循環バスで村上小学校前下車徒歩2分

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 ○海老江(えびえ)/村上市海老江
 
   
▲道幅は江戸時代のまま変わっていないそうです  ▲狭い道(路地?)も村内を縦横に走ります。そのため迷路のようです 
板の美に感動“板壁の町”
 集落の端にある廃寺にクルマを停め、道を一歩、一歩と進むと、一瞬別世界に入ったような気がしました。つまり板壁、板塀の家屋がギッシリとつながっているのです。それも下見板張り、羽目板張り、押縁下見などが板壁の百科事典のようです。また白壁と梁、柱を利用した幾何学的な美しさを見せる真壁造りも見られます。なぜか板張の美に感動しました。“板壁の博物館”といえるでしょうか。
館林藩領のときに陣屋を設置
 正徳2年(1712)に館林藩領になったとき陣屋を設置。同時に単なる船着き場から湊に昇格し、年貢米の移出港になりました。村は発展しましたが、近隣の村々とのいさかいは絶えなかったようです。
 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは本法寺(廃寺?)の境内に停めました
○平林(ひらばやし)/村上市平林 
 
   
▲平林村当時は中心地で、役場や銀行、高等小学校もありました  ▲平林神社/樹齢1000年を越えるケヤキは、昭和54年に伐採されました 
出羽街道沿いの街村
 江戸時代は当初村上藩領、その後幕府領と村上藩領の交互の支配となりました。又会津藩領の時代もありました。家康は関ヶ原の戦いが終結したあと各地に宿駅制度を設けました。このとき出羽街道の平林にも、元和年間(1615-24)に宿駅を設置。しかし平林は村高が100石前後と少ないため、諸役が免除されたとか。
戦国時代の貴重な遺構・平林城
 また平林城があったのですが、上杉家の会津移封に伴い廃城。しかし戦国期の遺構が良く残り、貴重な遺跡となっています。国の史跡に指定されています。

 地元の区長さんは「昔は銀行もあって活気があったけどねえ……」と昔を懐かしまれます。古民家もわずかに残っていますが、7mの道幅は昔のままだそうです。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
○上山田(かみやまだ)/村上市上山田 
 
   
▲文字通り土壁の土蔵が残ります  ▲板壁の住宅がかなり多い 
かつて豪農の屋敷や尼寺もあったとか
 県道397号線を進んで行きますと、土壁を主体にした蔵が見られます。なんとなくうれしくなってしまう光景です。江戸時代は村上藩、幕府領と変わりますが、再度村上藩にもどり幕末を迎えます。戦国時代は「入山田」と称していました。また元屋敷や寺屋敷という小字がありました。豪農の屋敷や寺(尼寺)があったものと推定されます。地名の由来は下山田に対して上山田としたものです。
土壁の蔵がたくさん見られます
 村高は150石前後と小さな村ですが、周りは山ばかりの山村。そんななか、県道からそれて旧道に入りますと、土壁の蔵がたくさん見えてきます。板を横に貼った下見板張りで、アルミサッシの窓が設けられています。住宅は板壁が主流です。なにやら懐かしい思いがします。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
○下山田(しもやまだ)/村上市下山田 
 
江戸時代は米の収穫高は130石余
 江戸時代は村上藩領。村高は約500石で、山村といえども米の収穫高は130石余。大豆も穫れ、農閑期には縄、薪、荏胡麻(えごま)、糖、藁などの生産も盛んでした。
美しいデザインの真壁造りが続きます
 歩いていますと旧家と思われる家が多く、漆喰に柱の見える美しい格子デザインの真壁造りが続きます。明治42年に山辺里(さべり)村の大字となりました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○大須戸(おおすど)/村上市大須戸 
 
   
▲一本道をノンビリ歩けます  ▲切妻型の真壁の美しいデザイン 
大型の美しい真壁造り
 江戸時代は村上藩と幕府領が交互に入れ替わるという目まぐるしい藩政でしたが、享保2年(1717)からは幕府領となり、幕末を迎えます。村高は400石弱でそこそでした。集落に一歩足を踏み入れると、結構、大型の家屋が目に付きました。大部分が切妻型の真壁造りで、漆喰の白色と梁や柱の色とが微妙にマッチしていて、美しい農村風景を見せてくれます。
焼き物・大行焼を復活
 地名は「すとう」が入口の意味とすれば、この先の難所・蒲萄(ぶどう)峠の入口ということなりますが、由来ははっきりとしません。白土を使った大行焼が復活したり、大須戸能の伝承を後世に残すため、活発に活動されています。大行焼というのは明治5年(1872)、地元の東泉寺住職らが岐阜県多治見から職人を呼んで焼かせた陶器。しかし亀裂が入りやすく明治中頃で廃業。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは大須戸担い手センター駐車場に停めました
 
 ○塩野(しおの)/村上市塩野町
 
   
▲古民家は旧道沿いに点々とありますが、往時の面影はあまり見られません
出羽街道の宿場町
 歴史は古く、戦国時代から多くの人たちの行き来がありました。地名の由来は、高根金山の開発後、山師たちがこの地で塩を買い求めたからとか。塩が採れるのではなく、塩の売買が行われていたのでしょう。そこから宿場として発展したといえます。江戸時代は村上藩と幕府が交互に治めていました。相給に近いともいえるかもしれません。村高も600石前後とまずまず。
街道沿いに古民家が点在
 江戸時代後半、米沢藩が岩船郡内の預かり地91カ村を支配するために当所に役所を置きました。やはり交通の要所であったからといえます。いま歩いてみますと、宿場町らしい雰囲気は見られませんが、古民家が街道沿いに点在しています。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○岩船(いわふね)/村上市岩船上浜町 
 
   
▲軒先に鮭が吊されていました  ▲料亭や妓楼を思わせる建物も
 ●商家と漁師家屋が混在
 岩船は海水浴場として知られています。北国街道浜通りの港町ですが,北前船の寄港地でもありました。そのため漁師町としての性格だけではなく,商家も混在する町でした。享保20年(1735)の人口が3661人というから、一地方都市としてはかなり大きいといえます
上方文化の影響を受けています
 一般的に北前船がもたらす上方文化の影響からか,建物にも「はんなり」感があります。街道沿いは平入りですが,一歩裏道に入ると板貼りの妻入り住宅が並び港町らしい風情を見せてくれます。

 かつて源義経が平泉に逃げる途中,この岩船を通ったと『義経記』に記されています。江戸時代は村上藩領でした。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○桃川(ももがわ)/村上市桃川 
 
大正時代に入って穀倉地帯として発展
 江戸時代は村上潘領,幕府領,白河藩領が“入り乱れて”支配しながら幕末を迎えます。村の石高が700石弱ですから,けっこういいほうだったようです。ほかに大豆などもとれました。しかし県北の最大の穀倉地帯となるには,大正時代に入ってからです。疎水を引き,豊富な水を利用できるようになってからといえます。さらに養豚,育牛,養鶏なども盛んで,県を代表する農村地帯となりました。
減りつつある茅葺き屋根
 曲がりくねった道を農村風景を楽しみながら歩いていますと,かつて多かった茅葺き屋根のある住宅も,一般の現代住宅に改築されているのがわかります。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
○瀬波(せなみ)/村上市瀬波中町 
 
三面川の河口付近に発達した町
 瀬波温泉のあるところで,なおかつ日本海の夕日の美しさでも知られています。しかし古い町並みは,温泉街からかなり離れており,鮭の遡上で知られる三面(みおもて)川の河口で発展した港町です。同時に北前船の寄港地でもありました。特に旧朝日村産出の鉛の積出港でも賑わいました。同時に村上潘の沖の口番所で、船の動きや積み荷に目を光らせました。
漁師町特有の板壁の町家が続きます
 村上の城下町に近かったせいか,逆に大きな町家が少ないのが特徴です。現在の建物は戦後のものが多く,板塀や板壁で造られた、漁師の住む家屋が中心です。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
○塩谷(しおや)/村上市塩谷 
 
北國街道・浜通りの宿場町
 どちらかといえば,塩谷海水浴場として地元では知られています。その海水浴場からやや内陸に入ったところの北国街道浜通りの宿場町として,そして北前船の寄港地として発展してきました。むしろ,今では港町としての性格のほうが強いかもしれません。
大型の切妻型住宅群
 よく出雲崎と比較されますが,同じ切妻型妻入りでも塩谷の方が間口が広く大型です。さらに道幅も広く,区画整理されたのでしょうか。また壁は細い棒で押さえる押縁下見板張りで,港町独特の風情が感じられます。窓の大部分はアルミサッシで改築し、機密性を高めています。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
○猿沢(さるさわ)/村上市猿沢 
 
   
▲旧道沿いのレトロ風の酒屋さん  ▲土壁の民家も見られました 
ちょっとおしゃれな感じ
 出羽街道沿いの宿場町です。写真でもわかるように,山裾の町並みだけに水が豊かで,水音が軽やかで、とてもきれいでした。
 写真の上の塩谷と比較してください。規模はほぼ同じで,切妻型妻入り住宅としては大きい方です。しかしよく見ると,猿沢のほうがちょっとおしゃれな感じがしました。
板壁のほかに漆喰(しっくい)も利用
 板塀のほかに,漆喰を塗っている町家もあります。幾何学模様の真壁造りは美くしい。また板を張り付けるだけではなく,柱を格子状に貼り付けているからでしょうか。京風文化を持つ酒田(山形県)に近いせいかもしれません。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
○蒲萄(ぶどう)/村上市蒲萄 
 
   
▲雪囲い用の木枠があります  ▲裏道にも古民家が残ります 
国道7号線と旧道沿いに真壁造りが立ち並ぶ
 戦国時代から越後から出羽へ通じる出羽街道の要衝。しかも難所で知られた蒲萄峠の入口にあって、宿場町として発展しました。人々はココで身支度を整えて、早朝に旅立ったそうです。江戸時代は村上藩と幕府領が交互で支配、幕末は幕府領で終えました。
国道7号線沿いと旧道沿いに古民家
 現代は村上市営のスキー場があり、毎年年末にオープンするとか。古民家は交通量の多い国道7号線沿いと裏側の旧道沿いに建ち並んでいます。いずれも北国特有の真壁造りで、漆喰と格子状の柱の美しいデザインを見せています。
弘法大師がえびづるを持って庵を結ぶ
 地名の由来は、弘法大師が出羽湯殿山参拝の途中、えびづる(蒲萄蔓)を持って小さな庵を結んだことに始まるといわれていますが、定かではありません。えびづるというのは、ブドウ科のつる草のことです。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○大沢(おおさわ)/村上市大沢 
 
   
▲古民家も旧道沿いにもポツンと一軒 ▲奥の細道がそのまま残ります 
奥の細道の原型が往時のまま残る
 大沢を有名にしたのは、芭蕉の歩いた当時の奥の細道がほぼ原型通り残っていることです。芭蕉は元禄2年(1689)に中村(現・北中集落)に宿をとったといわれています。庄内から越後へ向かう途中、この大沢を通りました。いまは人口数人の過疎の集落ですが、シーズンになると、奥の細道の体験ツアーが盛んに行われ賑わいます。
蒲萄峠を越えて出羽へ向かう最初の宿場
 江戸時代、村上城下から出羽への道で、蒲萄(ぶどう)峠を越えた最初の宿場です。享保2年(1717)の産物は、米がわずかに7石、大豆2斗、荏胡麻1斗余、蝋3貫、銀100匁余という記録が残っています。やはり山間の貧農だったようです。幕末の文久2年(1862)の家数は23。いま切妻型の真壁造りが残ります。そして集落内を歩き始めると、あちこちの番犬が吠え始めました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは無料駐車場に停めまし
○大毎(おおごと)/村上市大毎 
 
   
▲旧道沿いにも板壁の民家が残ります  ▲吉祥清水/平成の名水百選に認定 
出羽街道沿いの古民家
 村上と鶴岡を結ぶ出羽街道(庄内街道)沿いの集落です。古くは大事村とも書きました。江戸時代は幕府と村上藩の交互に治めていました。江戸時代初期・万治2、3年(1659-60)に大毎集落の百姓2軒6人が、庄内藩に欠落(かけおち/逃亡)したとの記録があります。貧しさからの出奔だったのでしょうか。
「吉祥清水」が平成の名水百選
 ところで大毎集落は、出羽三山への参拝者で賑わいました。今も地元の人たちは,旧街道の整備に力を入れています。歩いていますと,切り妻型の下見板張りの古民家があちこちに散見。通り沿いの「吉祥清水」は環境省が「平成の名水百選」に認定しました。
  
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました

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 ○北中(きたなか)/村上市北中
 
   
▲戦前からの建物が多い  ▲旧旅籠の家/実際は明治の営業 
 ●旧旅籠が残る小さな宿場
 出羽街道沿いの小さいながらも宿場町でした。建物も近辺の集落と比較して、立派な造りが多いようです。唯一,歴史的建造物としての「旅籠の家」は,個人住宅ですが,往時を彷彿させます。
俳人・松尾芭蕉が一泊
 しかしこの一寒村を一躍有名にしたのは、松尾芭蕉が奥の細道紀行で、この地で宿泊したことです。元禄2年(1689)6月27日に曾良と落ち合いこの地で宿泊しました。なぜ曾良と別行動とったのか謎とされていますが、諸説あるようです。翌28日早朝、村上城下に向かって出立しました。で、その日のうちに城下に到着、旅籠の九左衛門家(現・井筒屋)に宿泊。それにしてもスゴイ健脚力です。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○北黒川(きたくろかわ)/村上市北黒川
 
   
 ▲旧家で大型の家屋ばかり  ▲大庄屋の家/養蚕も行なっていた 
圧巻の大庄屋の家
 出羽街道沿いの農村集落です。街道の両側には切り妻の下見板張りの家屋が目に付きますが,ひときわ大きいのが大庄屋の豪邸。外観から見るだけですが、手入れの良さに驚きます。また2階は養蚕場でもあったようです。明治5年3月に、大火があって村の大半が焼失しました。
「縄文の里」で売り出し中
 付近に縄文時代の遺跡があるせいか「縄文の里」との案内板がありました。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 ○中継(なかつぎ)/村上市中継
 
   
▲木製の道標「中継」付近に、古民家が四方八方に広がっています 
旧出羽街道の宿場町
 戦国時代は“中次”と書いていたようです。出羽街道の宿場町で、小俣宿と荒川宿の中ほどにあり、中継をしていたからというのが地名の由来とか。江戸時代は村上藩と幕府領が交互に支配。村高も100石前後とかなり貧しい村であったと思われます。山村のため耕地は少なく、薪など山に頼らざるを得ない生活。幕末期、村上藩の兵と新政府軍とが当地付近で激しく戦っていました。
ひとかたまりになった古民家群
 いま歩いていますと、旧旅篭屋らしき建物が見られます。また街道沿いには、真壁造りの家屋が見られ、古民家がひとかたまりになっています。このような山間の村に往時の面影が見られるとは想像もしていませんでした。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは集会所前広場に停めました
 ○山熊田(やまくまた)/村上市山熊田
 
   
▲さんぽく生業の里/しな布を織っています。少しずつ知られてきました  ▲歩いて一周しても10分足らずの小さな集落です 
積雪2mを越える豪雪地帯の集落
 冬は積雪2mを越える豪雪地帯です。30年ほど前までは除雪車も入れなかったそうです。そんな閉ざされた世界で生まれたのが“しな布”です。男の出稼ぎのあと残された女たちが家計の足しにと考えた布。シナの木の皮をほぐしてほぐして繊維にして作り上げた布です。今では、「さんぽく生業の里」で織り続けています。京都や東京で織物として人気が出てきたとか。
県道の終点・起点に位置します
 県道248号線の起点に位置し、18世帯で約60人の集落です。一周しても10分足らずで、小さな集落。わずかに古民家が残されています。他村の家屋と比較して窓が小さいような気がします。やはり積雪対策でしょうか。瓦屋根の2階、中2階建てといった建築です。なかには真壁造りも見られます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
交通 クルマは旧山熊田村中学校校庭に停めました
 
○荒川口(あらかわぐち)/村上市荒川口 
 
   
 ▲集落のなかを歩きながら、土蔵などの古民家も点在します
旧出羽街道・荒川宿の入口付近の集落
 荒川と中継川の合流する付近に位置する集落です。江戸時代は荒川口村といい、旧出羽街道の荒川宿の入口にあたるところに位置したのです。村高は50石前後と貧しい小村といえます。米は年間10石前後しか獲れなかったようです。他は大豆や漆、薪など畑作以外に山仕事で生計を立てていました。
旧道のわずかな距離に落ち着いたたたずまい
 いま、旧道沿いに大型の古民家が残り、真壁造りで黒板壁の日本古来のデザインの家屋。わずかな距離ですが、落ち着いたたたずまいを見せています。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 
○朴平(ほおだいら)/村上市朴平 
 
   
▲板壁の民家が多数残ります  ▲集落内に1本の旧道が通ります 
ゆるやかな坂のある旧道沿いに古民家
 大川の支流・荒川の流域に位置する小さな集落です。地名は朴の木が多かったからといわれていますが定かではありません。江戸時代は耕地が少なく、住人の大部分は山稼ぎで生計を立てていました。村上藩と幕府が交互に支配、当時の村高がわずかに50石前後と小村。いまは県道と平行して、ゆるやかな坂の旧道が1本走っています。石積みが多く見られ、古民家や耕地が続きます。2階建ての瓦屋根、壁の大部分は下見板張です。旧道の両側に広がる、いわば街村にあたります。
別名「ささぎなの里」と呼ばれています
 ところで朴平は「ささぎなの里」と呼ばれています。「ささぎな」とは一般的にマメ科のナンテンハギやアズキナと呼ばれる山菜のことです。3月下旬ごろ柔らかい若芽を摘んで、山菜として食するそうです。旧道の入口に『ささぎなの里』の看板が目に付きました。
 
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交通 クルマは道端に停めました
○寝屋(ねや)/村上市寝屋 
 
   
▲狭い路地の両側に民家が連なる ▲寝屋漁港の正面に鉾立岩が立つ 
漁師が寝泊まりしたので“寝屋”
 この奇妙な地名は、勝木の漁師が浜に小屋(寝屋)を造って寝泊まりをしていたことがはじまりとか。実際に当初は寝泊まりするだけの集落だったらしい。粟島沖の好漁場に恵まれ、漁港建設も推し進められたのです。いまは釣り客が押し寄せます。
潮と雪から守る板壁
 江戸時代はほぼ村上藩領でした。田畑は少なく、村高はわずか20石足らず。まさしく貧農でした。そこで海へと生活の糧を元めたのです。

 実際に歩いてみました。国道345号から一歩山側に入り込むと景色は一変。板壁の家並みが続きます。幅1~2m前後の路地の両側には、下見板張の壁がみられます。それにしても板壁は落ち着きます。  
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 交通 クルマは漁協前の駐車場に停めました
 
○岩崎(いわさき)/村上市岩崎 
 
   
▲板壁の種類もさまざまで、海辺の集落らしい特徴がでています 
海辺の小さな漁師町
 日本海沿岸に位置する小さな漁師町です。江戸時代は村上藩領と幕府領が交互に藩政を行っていました。旧岩崎村の村高は40石前後、人口は100人前後と小さな集落。耕地面積が少ないことから、漁業と山稼ぎに頼っていました。山稼ぎは、薪などを町場に送っては日銭を稼いでいたとか。酒造業の青木家では、幕末に蝦夷地に酒を送って財をなしたそうです。
旧道は板壁の家屋がさらに増えます
 旧街道に入りますと、さらに道は狭くなりますが、板壁の家屋はさらに増えます。板張法もいろいろで、下見板張、羽目板張などです。やはり海辺の家並みの特徴が出ていました。 
 
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交通 クルマは道端に停めました
○小俣(おまた)/村上市小俣 
 
   
これが立派な日本国麓郵便局  ▲村上藩小俣口留番所跡です 
新潟県最北の古民家群
 平安時代末期、下越から庄内に抜ける古道がありました。その後出羽街道小俣宿としてさらに発展。しかし何より「日本国」という山の麓にある集落ということでその名が一躍全国に知れ渡ったのです。
“日本国麓郵便局”が存在します
 実際、“日本国麓郵便局”があります。これが一寒村にしては立派な郵便局なのです。多分、多くの観光客が訪れるのでしょう。新潟県最北の集落ですが、意外に古民家は多く残っています。

日本国は標高555mのれっきとした山です
 ところで日本国はれっきとした山の名前で、標高555m。その昔、この山で捕らえた鷹を将軍に献上したところ、将軍はその鷹をえらく喜んで、その捕まえた山の名を「日本国」にした説があります。ほかにもいろいろな由来があるようです。 
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 交通 クルマは日本国ふれあいパークに停めました
 

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