港区

 ○浜松町(はままつちょう)/港区浜松町
 
名主の権兵衛さんが浜松出身でした
 江戸時代の初めは増上寺代官・奥住久右ヱ門が名主を務めていたところから、久右ヱ門町と称していました。その後に、遠江国・浜松出身の権兵衛という者が務めたところから浜松町と改名。東海道に沿った両側町でした。昭和7年(1932)、神明町、芝新網町、湊町など多くの町を合併。さらに離合集散を経て、現代の浜松町1,2丁目ができあがりました。
旧芝新網町は東京三大貧民窟の一つ
 ところでこのなかに芝新網町という町がありますが、現在は屋形船や遊漁船の船だまりになっています。中世の時代から続く漁村でした。明治時代、日清・日露戦争を契機に大都市の工業化が進む一方、農村の疲弊が始まりつつありました。そんなとき芝新網町に離農した“流民”が流れ込み、スラム化していくのでした。ここには、東海道があり増上寺への参拝客もあり、常に人馬でにぎわっていました。
 四谷鮫ヶ橋、下谷万年町とともに、東京の三大貧民窟と呼ばれたりしたそうです。それも関東大震災後、解体されていきました。  
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交通 JR山手線浜松町駅から徒歩10分
 
 ○芝大門(しばだいもん)/港区芝大門1丁目
 芝大門
 増上寺の大門  芝大神宮
 ▲増上寺の大門  ▲芝大神宮こと芝明神
ビルの谷間の旧料亭街
 東海道の内側に芝の生えたところがあることから芝という名がついたとか。江戸時代初期から急速に町が発展していき,芝と称する町が多くなってくるのです。飯倉,金杉,三田までもが芝と称され,その数は70を超えるまでにいたりました。
ビル街の一角に残る古民家
 江戸時代,芝増上寺の門前町として,さらに芝明神の祭礼などの賑わいをみせた町でもあります。その芝明神に隣接するところに花柳界があったのですが,いまはほぼなくなりました。それでもビル街の一角は木造2階家がそのまま残り、往時の面影を見ることができます。ビルと木造の対比が妙。
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 交通 都営地下鉄大門駅から徒歩3分
 ○芝浦(しばうら)/港区芝浦
 
   
▲ユニークな古建築のリニューアル ▲旧芝浦花街検番/修復工事中 
永井荷風『日和下駄』に登場
 芝浦の埋め立ては、明治5年(1873)の東海道線の敷設から始まりますが、本格的には、東京港修築を企画した隅田川河口改良工事として明治39年に着手。大正2年(1913)に桟橋が次々と完成、関東大震災後も港が整備されます。文豪・永井荷風の『日和下駄』でも、干潟の風景を描いています。
旧花柳界の面影を残す「芝浦花街見番」
 昭和11年(1936)に芝浦花柳界の検番として、三業組合長・細川力蔵が建築したといわれています。このころ、港湾労働者が多くいたことで花街として全盛を誇りました。しかし戦時中に花柳界が疎開したことで、花街の短い命は終わります。今は花街の面影はありませんが、旧芝浦花街検番(現・東京都港湾局協働会館)は港区の所有になり、港区の文化財に指定。修復工事が行われています。 
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交通 JR山手線田町駅から徒歩15分
○芝(しば)/港区芝5丁目 
 
   
▲水野監物屋敷跡/赤穂事件ゆかりの地  ▲古民家を改造した古民家群 
慶応仲通商店街は三田キャンパスへの通り道
 田町駅から国道15号線(第一京浜国道)を渡ったると慶応仲通商店街入口に当たります。道幅は狭く3mほどですが、道の両側やその裏手には飲食店がギッシリ詰まっています。文字通り慶応大学三田キャンパスに通う学生や教職員を相手にした店ですが、最近で高層ビルが建ち、一般のビジネスマンがかなり増えています。
古民家を改造した飲食店が並びます
 その慶応仲通商店街の入口付近から右脇の路地に入ると、古民家を改造した飲食店が続きます。元々商店街自体が、普通の民家が多かったのですが、経済の高度成長とともに、新築、改築が進みました。ところがどういうわけか、この一角だけが取り残された感じです。板壁の2階家が続きます。わずか数軒程度ですが、ちょっとした異空間にやってきた感じです。
赤穂事件ゆかりの地です
 路地の入口付近に「水野監物屋敷跡」があります。いまは東京都の説明板がポツンと立っているだけです。岡崎藩主・水野監物(みずのけんもつ)の中屋敷のあったところ。赤穂事件で、吉良邸に討ち入った赤穂浪士9人が幕府の沙汰を待つあいだ、水野邸に預けられました。そして元禄16年(1703)2月4日、同屋敷にて切腹しました。 
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交通 JR山手線田町駅から5分
 
 ○三田(みた)/港区三田1丁目
 
   
▲古建築が少し残っています  ▲旧小山湯はほぼ原型通り 
   
▲宅配便も小型車で配達 ▲古川沿いの町で右側は高速道路
高層ビル、高速道路、古川に囲まれた異空間・旧小山町
 地図を広げますと、三田1丁目11番あたりが住宅密集地になっていることに気がつきます。「小規模な土地利用と木造建築物が多く残っている」地区となって、再開発の標的になっています。江戸時代はほとんど武家地と寺社地でした。明治2年に三田小山町となりました。付近に小さな山があったことが地名の由来というが、ここは古川沿いの低地です。
武家地に久留米藩邸、大和郡山藩邸
 それにしてもそんな広大な武家地(久留米藩、大和郡山藩など)や寺社地が、密集地になった理由は定かではありません。ただ明治期になると大規模な三田製紙所が開設され、それにともなう労働者の居住区域があったものと推定されます。ちなみに伊藤博文邸もありました。
大正時代創業の銭湯・小山湯もついに廃業
 さて古川にかかる小さな小山橋を渡るとそこはまさに異空間。高速道路や高層ビルに囲まれた住宅密集地となっています。歩いていますと、ほとんど改築、改葬されており、古建築はわずかに残ります。大正10年(1921)に創業した銭湯・小山湯は、ほぼ建築当時の姿を残しています。平成19年に廃業しました。銭湯があったということは、戦前から住宅が密集していたことになります。
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交通 地下鉄南北線麻生十番駅から徒歩5分
 ○麻布十番(あざぶじゅうばん)/港区麻布十番
 
わずかに看板建築が残るのみ
 かつて「地下鉄が通ると環境が悪くなる」といった人たちがいたという。「陸の孤島」や「東京のチベット」という異名にも笑い飛ばしたとか。しかし平成12年(2000)から地下鉄南北線、大江戸線が相次いで開通。とたんに地価が急上昇しマンションやビルが林立。再開発が一挙にすすみました。いまや注目のスポットとして、メディアに登場することも多く、観光客も増え、在住外国人たち行きつけの飲食店が取り上げられたりします。しかしながら再開発とともに古民家はほぼ消滅し、わずかに看板建築が残るのみとなりました。
人足たちが割り振られたところが10番!?
 ところで地名の由来は、江戸時代初期、古川の改修工事を行ったときに、人足たちを1番から10番まで割り振られ、この地区を10番目の人足たちが担当したからとか。また10番目の工区を示す杭が残されていたとかで「十番」という呼び名が一人歩きしたそうです。 
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交通 地下鉄麻布十番駅から徒歩5分
 ○南麻布(みなみあざぶ)/港区南麻布
 
中世から近世にかけた「阿佐布」村と呼んでいました
 昭和41年の住居表示改正で、それまであった麻布東町、麻布本村町、麻布富士見町など8つの町が合併して「南麻布1~5丁目」に変わりました。年配の人たちは、いまだに旧町名で呼ぶことが多いとか。ところで古くは、麻生、浅生、浅府などと書いたようですが、中世から近世にかけて阿佐布が一般的で、阿佐府村と呼んでいました。
●歴史的な事件が相次ぎます……
 豊臣秀吉が小田原攻めのときは、いち早くこの地を押さえたとか、関ヶ原の戦いのおり、首実検をこの地で行ったという話も伝わります。曹渓寺には赤穂浪士の生き残り・寺坂吉右衛門の墓があります。また光林寺にはアメリカ領事館通訳で薩摩浪士に斬殺されたヒュースケンの墓もあります。外国大使館も林立し、ユニークな町でもあるのです。
再開発のなかで昔からの住人もいます
 さて、「麻布」という超有名な町で、再開発もどんどん進みますが、それでも昔からの住人も多く住んでいます。小規模なマンションに建て替えたりしていますが、ポツン、ポツンと“古建築”が点在しています。 
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交通 地下鉄白金高輪駅から徒歩10分
 ○高輪(たかなわ)/港区高輪
 石段を下りると突き当たりに保安寺があります
   
 ▲裏道は迷路のようで,木造のアパートも見られます  ▲菓子店は目立ちますが,あの虎屋とは関係ありません
 木造平屋建て/岡見健彦設計  望楼の上の青い塔は,昭和59年(1984)に東京都文化デザイン賞により設置されました
 ▲二本基督教団高輪教会(昭和7年築),シンプルなデザインが美しい  ▲高輪消防署二本榎木出張所(昭和8年築),昔,望楼から東京湾が見えた
   先代が購入後,医院向けにかなり改造したとか
 ▲江戸時代の川柳に「それまではただの寺なり泉岳寺」とあります  ▲堀江歯科医院(大正14年頃築),関西事業家の別宅を先代医院長が購入
   
 ▲旧竹田宮邸洋館(明治43年築)、現在はグランドプリンスホテル高輪  ▲湘南しらすそば(550円・箱根そば田町店) 
小高い丘を通る高縄手道
 古代東海道は,いまの中原街道近くを通り,五反田から御殿山(ごてんやま)に抜けて,今の二本榎木通りに入ったそうです。しかしその後,海側が開発され,大井から御殿山に入ったとか。高輪の語源とされる「高縄手」は小高い丘という意味で,高縄手道は小高い丘を通るまっすぐな道ということになります。その後の旧東海道は,品川から高縄手を左に見ながら海岸沿いを通ります。
●近代建築や古民家も散見
 今,ほとんどがマンション林立地帯ですが,所々近代建築も見られ,裏道にはまだまだ古い町家が多く残されています。ところでJR高輪ゲートウエイ駅ができてこのあたりはいっそう便利になりました。
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 交通 都営地下鉄高輪台駅から徒歩10分
 ○白金台(しろかねだい)/港区白金台
 白金台
   
▲明治学院記念館/明治23年築アメリカ・ネオゴシック様式・港区指定文化財
   明治22年(1889)築。1880年代のアメリカの木造住宅様式を採用した西洋館
▲明治学院インブリー館/明治22年築のアメリカ住宅様式・国の重要文化財
   
▲明治学院礼拝堂/大正5年築のイギリス・ゴシック様式・港区指定文化財
薄気味悪い“高級専業主婦”が闊歩
 江戸時代,“白銀長者”が住んでおり,代々栄えたところから命名。そして白金の高台にあったので白金台。もともと閑静な住宅地でした。大正初年に路面電車が開通するころから、表通りに商店街が形成されました。その後、一部の大邸宅は細分化されアパート化が進んだのです。ここ10数年、再開発が進み高級マンションが林立し,“シロガネーゼ”という薄気味悪い“高級専業主婦”が闊歩するところとなりました。
●裏通りに古民家が散見・明学大の近代建築多数
 それはともかく,古民家は瑞聖寺の周辺や裏通りに散見されます。また明治学院大学の近代建築も注目したい。
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 交通 都営地下鉄白銀台駅から徒歩7分
 ○虎ノ門(とらのもん)/港区虎ノ門3丁目
 虎ノ門
 虎ノ門  
▲都心のど真ん中にも住宅が…   ▲愛宕山にあるNHK放送博物館
   
▲虎ノ門金刀比羅宮/銅鳥居の左右の柱には四神の彫刻が施されています。青龍、白虎、朱雀、玄武です。港区の文化財に指定
 ●再開発の町の裏手にも古民家が残る
 なぜ虎ノ門の一画に民家が健在なのかは,環状2号線という都市計画道路上にあたるからです。虎ノ門は元もと江戸城南方の外郭門の一つでした。このあたり寺院も多く,意外な風景を見ることができます。
最新の駅・虎ノ門ヒルズ駅
 しかしながら、いま地下鉄日比谷線の新駅・虎ノ門ヒルズ駅ができるなどもっともホットな地域と言えるでしょう。環状2号線は、できたばかりの高層ビル・虎ノ門ヒルズの下を通り、周辺は再開発の真っ最中。それでも裏手には古民家が健在です。
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 交通 地下鉄日比谷線神谷町駅から徒歩3分

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