港区(みなとく)

○築港(ちっこう)/大阪市港区築港 
 
重厚な赤レンガ倉庫群
 住友倉庫の赤レンガ倉庫群は,大正12年(1923)に建てられた大阪市内に残る数少ない赤レンガ倉庫です。北側の倉庫は2階建てで高さ13m,南側は平屋建てで,高さは13mと同じです。倉庫としての役目は終わり,現在は大阪市が取得し管理しています。国際的な芸術活動の拠点として再生を図ろうとしていますが,建物自体は非公開です。
海遊館や観覧車とは反対方向
 天保山の海遊館,観覧車などとは反対方向に歩いて行きます。赤茶けた倉庫群は,重厚で歴史の重みを感じさせます。昭和43年に現在の地名に変わりました。地名の由来は、大阪港が築かれたこととか、大阪市電築港線からともいわれています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 大阪メトロ中央線大阪港駅から徒歩10分
 
○夕凪(ゆうなぎ)/大阪市港区夕凪 
 
   
▲裏道を歩いていますと破風などに往時の面影を見ることができます 
   
▲改築、改装した建築物の“裏面史”を探る楽しみがあります 
地名は夕凪橋や夕凪丸にちなみます
 夕凪などと少女漫画にでも出てきそうな名前です。地名は近くの夕凪橋から、そして大阪市が最初に建造した浚渫(しゅんせつ)船で築港工事に活動した夕凪丸にちなんだそうです。歴史も古く、大正14年に夕凪町として発足しました。そして昭和43年に夕凪となります。「市電唱歌」にも夕凪が登場します。
昭和20年6月の大空襲で「港新地」は消滅!
 さて、戦前の夕凪は花街としてスタートしています。電気大博覧会の跡地約1万坪を利用して行政と松島遊郭の業者が一緒になって開発。ただし裏側では政治家もからんでドロドロした事件があったようです。貸し座敷約50件、芸妓250人とかなりの人数です。しかし昭和20年6月1日の大空襲で港新地は“完全焼失”。
売防法施行後も細々と営業していましたが…
 戦後になって素早く復活します。昭和33年の売春防止法の施行寸前まで営業していました。しかし施行後も、港湾労働者を相手に“ちょんの間営業”を行っていたそうですが、警察の取締り等で、消えていきました。いまは完全に一般の住宅街に変身しています。でも建物をじっくり見ていますと、改築、改装していても往時の面影を見ることができます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 大阪メトロ中央線朝潮橋駅から徒歩5分
 
 ○八幡屋(やはたや)/大阪市港区八幡屋
 
   
▲庶民に親しまれた商店街です ▲木造2階建ての棟割り長屋
江戸の末期に八幡屋忠兵衛が開発した新田
 江戸時代は摂津国西成郡で安治川河口付近の左岸に位置します。まさに大阪港のすぐそば。文政12年(1829)に唐物町の八幡屋忠兵衛が開発した新田で、八幡屋新田として町は起立しました。幕末の村高は170石前後でまだまだ収穫は少なかったようです。
2回の大空襲で壊滅的な被害を受けます
 港区は昭和20年3月13日、6月1日の2回の大空襲で区内の88.6%が焦土と化し、浪速区とともに市内で最も大きな被害を受けました。市立運動場(今の八幡屋公園)は遺体収容所となり、2000人以上の遺体が火葬されました。
かつて港湾労働者の町といわれました
 八幡屋の戦前は海運景気で賑わい、港湾動労者の町とも言われました。戦後は焼け跡・闇市からスタートします。戦後も港湾労働者の町としてのスタイルは変わりません。一時期、労働者を斡旋する手配師やヤクザの横行などガラの悪さだけが注目を浴びたこともありました。いまはアーケード街となり、幾つかの商店街が合体してできた商業の町。しかし個人店主が多いだけに、店主の高齢化で廃業する店が後を絶ちません。店主は別の所に住みながらの年金暮らし。あえて店を開かなくてもいいというわけです。ただ「八幡屋は関西万博(2025年)に最も近い商店街だ(!?)」と鼓舞する人たちもいます。果たしてどうなることやら……。
戦後の木造2階建て・棟割り長屋
 港中央市場もその一つ。シャッターが目立ちます。建物はもちろん戦後の木造棟割り住宅が中心です。もともとバラックからスタートしただけに、簡易的な造りが目に付きます。飾り気のない商店街ですが、庶民の愛すべき町並みと言えます。
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 大阪メトロ中央線朝潮橋駅から徒歩10分
 



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