三重県(みえけん)

○大門(だいもん)/津市大門 
 
   
▲観音寺/戦後再建された日本三大観音の一つとされます  ▲旧四日市銀行津支店/国登録文化財、現在オーデン大門ビル
●江戸時代から門前町、城下町として発展しました
 観音寺の仁王門前に町並みが形成されたことが地名の由来。門前町でもあります。また江戸時代は津城下の一つで、城下町でもありました。さらに伊勢参宮街道が近くを通ることから、多くの参拝者で賑わいました。そのため芝居小屋、映画館、各種飲食店、さらに遊郭まで登場し、一大繁華街を呈したのです。
繁華街は近鉄津新町駅付近へ移る
 しかし昭和20年(1945)7月の空襲で大部分が焼失。その後の復興で、繁華街は徐々に近鉄津新町駅付近に移り、大門は活気を失ってきます。いま歩いて見ますと、大部分が戦後の建物で、看板建築など木造2階建てが主流です。かろうじて空襲から逃れた建物もありますが、改築されています。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄名古屋線津新町駅から徒歩20分
○上浜(かみはま)/津市上浜町 
 
   
 ▲旧道沿いに古民家が残りますが、ほとんど改築、改装されています 
伊勢街道沿いの両側に続く集落
 江戸時代のはじめは津藩7万石の小藩でしたが、藤堂高虎が慶長13年(1608)に23万石の領主として入城。のちに33万石にまで加増されます。さて高虎が入城の翌年から城郭の大改造、さらに城下町の大改造も行いました。それまで海寄りを通っていた伊勢参宮街道を町のど真ん中を貫通させ、宿場町としたのです。宿場に隣接する上浜も、伊勢街道沿いに発展し、多くの人で賑わいました。以後、幕末まで藤堂家は国替えに合うこともなく、安定した治世を行うことができたといえます。
阿部家住宅付近に古民家が集まる
 いま、旧道沿いに古民家残されているのは、阿部家住宅(市の文化財・写真)とその周辺です。阿部家は江戸時代から続く味噌・醤油の蔵元です。 
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄名古屋線・JR紀勢本線津駅から徒歩15分
○一身田(いっしんでん)/津市一身田町 
 
   
▲真宗高田派専修寺/力があります   ▲寺内町を形成した環濠 
環濠のある寺内町
 町自体は千年の歴史があるわけですが,真宗高田派専修寺が建立されたのが16世紀後半です。以来,寺内町として発展し現在の形になったのが,17世紀初頭です。建物や仏像など数多くの重要文化財をかかえ,近年,観光客も多くなりました。
 寺内には町家,商家,蔵,土塀,長屋門などが残されています。また寺内を守った環濠も一部に残されています。多いのが格子のはまった平入本瓦造りです。商店もたくさんあります。また専修寺の規模の大きさにも驚きました。
寺内町は濠などで囲まれた自治色の強い集落
 ところで寺内町(じないまち)というのは、仏教寺院を中心に形成された自治集落で、濠や土塁で囲まれた防御的性格を持っています。信者はもちろん商売人も居住しています。外部からの攻撃には団結する力が強く、独自の規則を作ったりしています。西日本に多いのが特徴。 
  感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 近鉄名古屋線高田本山駅から徒歩15分
○八町(はっちょう)/津市八町 
 
城主・藤堂高虎が官道を制定
 津城から伊賀上野城を結ぶ伊賀街道沿いに小さ集落だったところです。もとは伊賀越えで月本(現・三雲町)へ出る参宮道でした。それを城主・藤堂高虎が美里村の五百野(いおの)から前田宿を経て津城を至る道を官道にしました。
伊賀街道沿いの古民家群
 近鉄の津新町駅から国道163号線を西に向かって歩き,途中右折すると,そこは旧伊賀街道です。所どころ商家,町家などが続きます。八町は,津城下の西の入口で,商人や学者,文人が多く住んだところでもあります。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 近鉄津新町駅から徒歩10分
○阿漕(あこぎ)/津市阿漕町 
 
阿漕の由来は『源平盛衰記』、『太平記』などにも登場
 津藩の城下町の一町。街道筋の集落でしたが、しだいに町場化していきました。ところで地名の由来は諸説あります。いまではあまりいい意味に使われません。禁漁区でもある阿漕が浦は、神領ともいわれていましたが、平次という漁夫の密漁発覚により、平次は簀巻(すまき)にして海に沈められてしまいした。そこから「度重なる、ずうずうしい、無情に」などのことば派生したものといわれています。また阿漕に関する歌や俳句、『源平盛衰記』、『太平記』などにも登場します。
●旧伊勢街道に格子窓のある古民家が連なる
 いま旧伊勢街道を南下するにつれ、古民家が連なります。格子窓、防火用袖壁などが見られます。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 JR紀勢本線阿漕駅から徒歩15分
 ○一色(いっしき)/津市河芸町一色 
 
かつてイワシの豊漁にわいた漁村
 古くは千次浜と呼ばれていて、住居は3軒だったそうです。戦国時代は近江の住人・三井高次の一族郎党が落ちぶれて住み着きました。江戸時代は上野藩領でしたが、のちに紀州藩白子領となります。また東海道・関宿の助郷となります。村高は30石余とわずか。しかしイワシの漁獲高が年50両前後にもなったといいます。すなわち漁村であったわけです。
旧道沿いに漁村集落の面影を見ます
 いま旧道沿いを歩きますと瓦葺きで板壁、格子窓の平屋が続きます。大部分が改築、改装されていますが、それでも往時の面影を見ることができます。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄名古屋線豊津上野駅から徒歩10分
 
○上野(うえの)/津市河芸町上野 
 
   
▲板壁の古民家も多く残ります  ▲切妻型の変形住宅も見られます 
江戸時代は大きな宿場町でした
 江戸時代初期は上野藩でしたが、藩主・分部氏は近江国大溝に移封。その後紀州藩白子領となります。同時に廃城となり、以後伊勢街道の宿場町して発展します。家屋数も300軒を越え、本陣、脇本陣、問屋、茶屋、料理屋、旅籠屋など宿場町として大勢の人たちで賑わいました。さらに妓楼も7~8軒もあり娼妓も数十人をかかえ、夜ともなれば常に三味線の音が聞こえてきたそうです。
わずかに古民家が見られます
 いま、町を歩いてみますと、往時の面影はみじんも感じられません。格子や虫籠窓、店蔵などは改築、改装されています。庇の突き出た、屋根の低い町家がけっこう残っています。
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄名古屋線千里駅から徒歩15分
 
○久居(ひさい)/津市久居本町 
 
   
▲「寺町」交差点から南へ油正まで歩くと古民家が点々と見られます 
久居藩城下の町人町に残る古民家
 江戸時代は津藩の支藩の一つ久居藩5万石城下町の一町。地名は久居城下のうちで寛文年間(1661-73)にはじめて人家が建てられた本(もと)町である所から名付けられたとか。町人町でもありますが、商家も多く久米屋、大森屋などの大店が軒を並べました。
油正醸造は国の登録文化財
 また明治に入って油正(あぶしょう・国の登録文化財
・写真)醸造や一志銀行などが創業。しかしながら、その後の商工業の発展と、急速な交通機関の発展にともない、中心地は新町に移行しだし、本町は徐々に衰退していきました。
蔵造りの商家がポツンポツン
 いまかつての町人町を歩きますと、蔵造りの商家がポツンポツンと点在しており、往時の面影をかろうじて見ることができます。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄名古屋線久居駅から徒歩15分
 
○二本木(にほぎ)/津市白山町二本木 
 
   
▲蔵も至るところに残ります  ▲旧妓楼と思われる建物です  
旧初瀬街道沿いの宿場町です
 もっとも江戸時代以前は参宮表街道と呼んでいました。宿場の東西に貫き、大坂、大和から伊勢に向かう街道で、たいへん賑わいました。二本木はどちらかといえば、宿泊よりも昼食をとる旅人が多かったようです。伊勢松阪出身で国学者の本居宣長も『菅傘日記』で、小さな宿で、物などを食べながら、しばし休んだと記しています。
宿場の端のほうにも旧妓楼も見られます
 いま歩いて見ますと、往時の面影を残しており、たまに観光客がやってくるとか。商家、下見板張の土蔵、黒塀も続きます。端の方には旧妓楼と思われる建物もど~ん見られます。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄大阪線大三駅から徒歩5分
○上多気(かみたげ)/津市美杉町町屋 
 
   
▲谷町にある新田橋と古楼  ▲古民家がギッシリ残るうれしい町並み 
上方から伊勢参りルートの伊勢本街道
 大坂から伊勢に向かうもっとも短い道であったのが,伊勢本街道です。すなわち上方からの伊勢参りの善男善女で賑わったところです。この上多気集落は,伊勢の国司・北畠氏の本拠地でした。
山あいに佇む宿場町
 上多気は谷町と町屋の連続した町並みから成り立っています。江戸時代から明治にかけて毎日30~70人の団体が行き交ったとか。旅籠はもちろん,商家,さらに仕立屋,足袋屋,油屋などの屋号も残されています。いまでも蔵,本瓦葺き平入の建物が残っています。なお三多気の桜(みたけのさくら)が有名です。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは美杉ふるさと資料館に停めました
○吉津屋町(よつやちょう)/桑名市吉津屋町 
 
旧東海道沿いの町筋です
 江戸時代は桑名城下の一つでした。桑名城の西側に位置し、集落の南北を旧東海道が貫いていました。江戸初期は鍛冶町を含んでおり、多くの職人たちが住んでいましたが後に分離。
明治に入って最大の商店街へと発展
 明治に入って、堀に面した所が河岸となり、船の発着が盛んになりました。船問屋もできて町が賑やかになったのです。そのおかげで桑名でも最大の商店街となり、なかでも大型家具店が軒を並べました。それも昭和20年の戦災で消滅。往時の面影は消えました。いま歩いて見ますと、古民家はポツポツと街道筋に見られます。
 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR関西本線桑名駅から徒歩15分
○京町(きょうまち)/桑名市京町 
 
   
▲京町毘沙門天堂/京町見附の近くにあって地元の守り神です   ▲石取会館(旧桑名信用金庫京町支店)/大正14年(1925)築・国登録文化財  
かつては金融、行政の中心地
 桑名城下の一町。旧東海道沿いの集落ですが、江戸時代に西端に京町番所があって旅人を監視していました。毘沙門堂のすぐ近くです。明治になって京橋が架橋。しかしその後の伊勢暴動で破壊されました。大正時代は町役場、警察署、電話交換局、銀行、鉄道会社などが集中し、行政、金融の中心地となりました。
伊勢暴動は納税の仕組みを変えたため
 ところで伊勢暴動の原因となった地租改正事業というのは、税金の改正のひとつで、土地の価格を決めて、その地価に応じて税金を払うという明治新政府の画期的な方法でした。ところがいままで米など現物で納めていたのを税金で納めることになったのです。県下では明治8年ごろから米の値段が急落したために、農民たちは安い米を売って、高い税金を支払うことになったのです。松阪に端を発した暴動は、愛知県、岐阜県、さらに長野県の一部にまでに広がり、とうとう明治政府を動かしたということです。
近代建築がひときわ目立ちます
 古民家はポツポツと点在し、蔵造り、棟割り長屋などが見られます。それにしても、角に立つ石取会館がひときわ目立ちます。ところで町名の由来は、毘沙門天を京都の毘沙門堂から勧請したことによるとか。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR関西本線桑名駅から徒歩20分
○寺町(てらまち)/桑名市北寺町 
 
   
 ▲本統寺/真宗大谷派・桑名別院 ▲常信寺/陶板塀に圧倒されます 
   
▲海蔵寺/薩摩藩士24人の墓所です   ▲寺町通り/定期市も開かれている 
●松尾芭蕉も宿泊した本統寺
 江戸時代は桑名城下の一町。慶長年間(1596-1615)、町割りに際し、寺院を集めて町を形成しました。そのため多くの参拝客が集まり、見世物小屋や各種商店ができ、門前町としての発展していくのです。寺の数は他市と比較してそれほど多くはありませんが、著名な寺が多く、特に本統寺は「ご坊さん」と呼ばれ、桑名の中心的存在で、力を持っていました。本統寺には松尾芭蕉が宿泊し句を残しています。
 「冬牡丹 千鳥よ雪の ほとゝきす」(『野ざらし紀行』)
寺町通りにわずかに残っています
 しかし古民家は少なく歩いていても気がつきません。寺町通りには残されていますが、表だけ改築、改装されている町家が多いようです。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR関西本線桑名駅から徒歩20分
○本町(ほんまち)/桑名市本町 
 
東海道沿いの門前町として発展
 江戸時代は桑名城下の一町。元禄年間は家数は72軒だったそうです。しかし町の発展は、春日大社(桑名宗社)に寄るところが大きいといえます。旧東海道沿いで門前町としても発展しました。江戸時代から大変な賑わいぶりだったのです。
●春日大社と遊郭が隣合わせ
 明治になると桑名遊郭がさらに大きくなり、本町はその中心地でもありました。まさに“聖と俗の隣合わせ”の見本といえます。昭和2年に市街電車が開通し、ますます賑わいました。しかし昭和19年に国策により廃止されました。もちろんいまは遊郭の面影はありません。歩いていますと古民家らしき建物が散見できます。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR関西本線桑名駅から徒歩20分
 
○江戸町(えどまち)/桑名市江戸町 
 
   
▲旧東海道沿いには、かつての面影を見ることができます 
旧東海道沿いで桑野遊郭の中心地のひとつでした
 旧東海道筋にある町で、桑野城下の一町にあたります。町名の由来は江戸から渡辺忠八という人がやってきたからといますが、よくわかりません。江戸時代初期は本陣1軒、天保年間の幕末期には脇本陣が3軒もありました。
人口調査でも女子が圧倒的に多い
 明治16年の調査によれば、家数が51軒あって、人口が男子89人に対して、女子が202人と圧倒的に女が多いのです。大部分が娼妓で、宿屋、妓楼、料理屋が多かったといえます。まさに桑名遊郭の中心地といえます。明治19年の大火で町の半分は焼失しますが、遊郭は衰退することはありませんでした。

 いま歩いてみますと、かつての面影はありませんが、それでも宿屋、妓楼とおもわせるような建物が散見できます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR関西本線桑名駅から徒歩20分
 
○川口町(かわぐちちょう)/桑名市川口町 
 
女子の人口が圧倒的に多かった
 地名の由来は、全国の川口と名の付く地名と同じで、川に臨んだ玄関口からきています。熱田からの渡船で東海道をつないでいます。北の端の「七里渡跡」碑があります。桑名は伊勢国の北の玄関口でもあります。そのため、本陣、旅篭屋、人馬問屋、舟役所などありました。さらに明治に入ると、郵便、船会社、物流会社なが林立。まさしく桑名宿の中心地でもありました。同時に遊郭も大きく発展します。江戸町と同じで、女子の人口が圧倒的に多かったのも娼妓が多く住んでいたからです。
往年の輝きも無く、静かな町並みです
 しかしながら実際に歩いて見ますと、やはり寂しい町並みです。もちろん往年の輝きはありません。店舗もなく古民家もポツンポツンと見られる程度です。明治19年の大火、明治24年の濃尾大地震で壊滅的な影響を受けたことが大きかったようです。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR関西本線桑名駅から徒歩25分
 
○船馬町(せんばちょう)/桑名市船馬町 
 
   
▲船津屋/明治8年創業。昔から著名人の利用の多い料亭旅館  ▲七里の渡跡/旧東海道・熱田からの渡船での伊勢国に入る玄関口 
いまも高級料亭旅館が並びます
 江戸時代は桑名城下の一町。地名の由来は、参勤交代制の確立により、伝馬、渡船の仕事を引き受けるために川を埋め立ててできた新開によるという。もとはかなり大きな遊郭でもありました。
幕末から明治へと、激動の歴史を体現した町並み
 渡船場として確立しますと、船番所、高札場などができ、本陣、脇本陣もできました。川沿いには倉庫が林立、俗に蔵前とも呼ばれるようになったとか。明治に入りますと、伊勢暴動、濃尾大地震、大火と続きます。また旧大塚本陣が「船津屋」に、脇本陣は駿河屋からさらに今の「山月」に変遷。まさに江戸から明治へと激動の歴史を体現した町並みです。
泉鏡花『歌行燈』の舞台
 一方、泉鏡花『歌行燈』(うたあんどん)の舞台となったところでもあります。「歌行燈句碑」が船津屋の板塀に沿いに残されています。ちなみに小説では湊屋として登場します。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 JR関西本線桑名駅から徒歩25分
○太一丸(たいちまる)/桑名市太一丸 
 
   
▲諸戸邸御殿/国重要文化財  ▲諸戸邸本邸/国重要文化財 
   
▲諸戸邸推敲亭/県指定文化財   ▲諸戸邸煉瓦蔵/県指定文化財 
   
▲六華苑・和館/国重要文化財  ▲六華苑・洋館/国重要文化財  
国や県、市指定の文化財の宝庫
 このユニークな地名の由来は、江戸初期、慶長年間(1596-1615)に大きな船「太一丸」を造ったことにちなむそうです。元はといえば、この辺りは町人地で、藩士の屋敷がわずか。藩主の御座船を収容する御船小屋があり、享保8年(1723)に御座船の乗員や家族などが集団移住してきました。また桑名で最大の豪商・山田彦左衛門の屋敷があり、初代彦左衛門は、極貧から身をたて材木商として財を蓄え、京、大坂、江戸などに店を構えたそうです。
戦火を逃れた諸戸家の屋敷
 明治になって山田家の土地・屋敷は諸戸(もろと)家の所有となり、米の取引で財を蓄えて大地主になりました。いま諸戸家の屋敷や庭は戦災からも逃れて、往時の雰囲気をそのまま残しています。和館だけではなく大正時代の洋館も見どころです。

 太一丸を歩いて見ますと、一般の住宅がギッシリ並んでいます。しかし蔵を構えた旧家と思わせる家屋も見られます。  
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR関西本線桑名駅から徒歩30分
○矢田(やだ)/桑名市西矢田 
 
   
▲戦火から逃れた西矢田地区  ▲立坂神社/石鳥居から門前まで250m
旧東海道に沿った町人地の集落
 江戸時代は桑名城下の一町。東海道筋の町人地でもありました。茶店や宿屋が多くありました。街道沿いにある善西寺は矢田城主・矢田氏の子孫が建立しました。明治になると東海道は少しずつ寂れていきますが、商店街として生き抜きます。昭和6年に国道1号線が開通。そのため矢田町は東西に分裂。
戦災から逃れた西矢田に古民家が残ります
 さらに昭和20年の戦災で、東側の矢田町が消滅。西側の矢田町は運良く戦災から逃れました。そのため西矢田は昔ながらの町家が残ることになったのです。虫籠窓や格子のある町家が点在し往時の面影を見ることができます。

 ちなみに地名の由来は、白羽の矢が田地に落ちてきたとか、伊勢神宮領の八太御厨(やだみくりや)があったからとか、諸説あります。 
感動度★★
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交通 近鉄名古屋線益生駅から徒歩8分
 
 ○馬道(うまみち)/桑名市矢田
 
   
▲「馬道筋」には蔵や町屋、妓楼などの古民家が見られて楽しいです 
商家や土蔵、料亭旅館、棟割り長屋などいろいろ
 江戸時代は矢田村といい、その後明治に入って幾つかの村が合併して益生村となったりしました。さらに離合集散を重ねていますが、この辺りに地名は複雑に入り組んでいます。そして馬道は近鉄名古屋線で東西に分離。東側が馬道1丁目で今もそのまま、西側の馬道2丁目が消え、いまは矢田になっています。しかし馬道2丁目の町名表示の看板が残されています。で、古民家群はその旧馬道2丁目の馬道筋に見られます。歩いて見ますと、商家や土蔵などの商家、棟割り長屋、さらにかつて遊郭だったと思われる建物などいろいろ見られ楽しい。
地名の由来は「馬」がらみで多数あります
 ところで地名の由来ですが、①近くに馬場があったから、②街道を武士が馬で通っていたから、③土地の名士が馬に乗って遊郭に通っていたから、④近くで馬市(駒)が開かれていたから、⑤近くに農家の馬小屋が多くあったから、など諸説あります。ここでは、北勢線が開通するまでは、桑名から阿下喜(あげき)まで馬車が通じていたからという説が有力だとか。いわゆる“馬車道”にあたるのでしょうか。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 三岐鉄道北勢線馬道駅から徒歩3分
○星川(ほしかわ)/桑名市星川 
 
濃州道(桑名-岐阜)沿いの集落です
 江戸時代は桑名藩領。新田開発が盛んに行われた地域でもあります。濃州道沿いの集落で、星川観音は伊勢国巡礼30番札所で、参拝客でも賑わいました。平安時代から鎌倉にかけての歌人・鴨長明もこの地に歌を残しています。濃州道というのは、桑名市から濃州(いまの岐阜県)へ向かう街道で、桑名市では員弁街道と呼ばれました。
よく見ると古民家を見事に改築、改装されています
 歩いてみますと、一見古民家とわかりにくいですが、ほとんどが改築、改装されています。庇が2重になっていたり、外壁に合板を張り付けたり、開口部をアルミサッシにしたりと。しかし歩き続けると古民家が点々と見られるようになります。ところで地名の由来は、大和国山辺郡星川から移住して星川氏が開発されたことによるとか。
 
 感動度★
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交通 三岐鉄道北勢線星川駅から徒歩5分 
○森忠(もりただ)/桑名市森忠 
 
美しい植栽と古民家が点在
 古くは守忠、盛忠とも書きました。また古代から中世にかけて数多くの遺跡が残ります。江戸時代は桑名藩領。集落に濃州道(員弁街道)が通り、美濃街道の脇往還の役割を果たしていました。
近年、宅地開発が進みますが……
 昭和40年代から一気に郊外住宅地として開発され、街道沿いもかなり影響を受けています。 それでも美しい植栽の向こうに古民家が見え隠れする光景を見るにつれうれしくなります。

 ちなみに地名の由来は、その昔、森忠と称する人の所領であったから、と言われていますが定かではありません。 
 感動度★
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交通
 三岐鉄道北勢線星川駅から徒歩20分
○芳ヶ崎(はがさき)/桑名市芳ヶ崎 
 
   
▲白漆喰と押縁下見板張の家屋  ▲濃州道沿いに連なる旧家 
黒板塀や黒板壁、格子や虫籠窓のある町家が見られます
 黒板壁や板塀、土蔵などを見かけます。また格子戸、虫籠窓のある町家もチラホラと見られます。江戸時代は桑名藩領で、森忠村の枝郷で、村高も370石前後と小さな村でした。濃州道沿いのいわゆる街村です。濃州道は桑名と岐阜を結ぶ街道です。
押し寄せる宅地開発
 このあたりも、昭和40年代から宅地開発がドンドン進んでいます。ところで地名のいわれですが。羽笠城があったところとか、川に突出した丘陵の端が、﨑であったことによるとか、詳細は不明です。 
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★
 交通 三岐鉄道北勢線七和駅から徒歩8分
○五反田(ごたんだ)/桑名市五反田 
 
集落の真ん中を濃州道が通ります
 江戸時代は桑名藩領で、集落の真ん中を濃州道が通っています。いわば街道沿いの集落です。地名の由来は、古来中央から派遣された国司の下で働く郡司の職田(給料として支給される田)の広さが五反あったからとか。
開発が進むなかでも往時の面影が見られます
 街道沿いには、改築、改装されたりした古民家が見られますが、往時の雰囲気は残っています。いま街道からちょっと離れると、大規模な宅地開発が進んでいます。
古民家群と新興住宅地との境目がはっきりしています。 
 感動度★
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 交通 三岐鉄道北勢線七和駅から徒歩5分
○小山(おやま)/桑名市多度町小山 
 
織田信長は柴田勝家・氏家卜全連合軍を撃退!
 縄文から中世にいたる複合遺跡が残されています。戦国時代は、地元の豪族・髙井氏は、南北朝時代は足利氏に従いましたが、のちに北畠氏に従属。元亀2年(1571)の織田信長の長島一揆討伐では、美濃から侵攻してきた柴田勝家・氏家卜全らの軍を撃退、追撃して卜全を討ち死にさせたそうです。髙井氏の砦跡が残されています。
改築、改装された棟割り長屋が点在しています
 江戸時代は桑名藩領で、村高は950石余。作物は麦、菜種、大豆などが獲れたとか。そういえば、車窓から黄色に耀く麦畑が見られました。いま歩いてみますと、庇の突き出た棟割り長屋風の建物が多く見られます。もちろんいずれも改築、改装されています。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 養老鉄道多度駅から徒歩5分
 
○多度(たど)/桑名市多度町多度 
 
   
▲多度神社の行事のない日は静か  ▲ごく普通の町屋も見られます
多度神社の門前町として発展しました
 江戸時代は桑名藩領。町の中心にある多度神社は、城主の本多忠勝をはじめ歴代の藩主から手厚い保護を受けていました。歴史も古く南北朝時代にはその名が登場します。町並みは多度神社の門前町として発展し、今でも老舗が並びます。
大型の商家が並び、“北伊勢神宮”と呼ばれたことも
 一時期、伊勢神宮と並んで北伊勢神宮と呼ばれたこともあったようです。町並みは大型の商家が立ち並び、神社の行事のあるときは大勢の参拝客でにぎわいます。大正時代に入って養老鉄道多度駅が開設されてから、住宅等の建設が多くなり、町全体が発展しています。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 養老鉄道多度駅から徒歩20分
○香取(かとり)/桑名市多度町香取 
 
   
▲旧七十六銀行香取支店・明治34年築  ▲幾つかの商店もあってにぎやか
博徒の親分も住んでいました
 江戸時代は桑名藩領。村高は600石弱で畑作はやはり麦が多いようです。他に菜種、ヒエ、イモ類が獲れました。文政7年(1824)の幕末期には人口は667人と意外に多い。というのも、香取港という河川港があり物資の集散地として栄え、商人宿も数軒ありました。なかには博徒の親分も住んでいたそうです。この船運は揖斐、長良、木曽とのつながりのある桑名港との便があり、これが香取の商業的な繁栄をもたらしました。さらに香取大神宮への参拝客も多く、毎月4と9の付く日に市が立ちました。
多度川沿いの旧道に連なる古民家群
 地名の由来は、神護景雲元年(767)に、鹿島、香取の両宮が伊賀へ向かう途中に立ち寄ったからだとか。古民家群は多度川沿いの旧道の両側に、立ち並んでいます。せがい造りや土蔵などもあり、虫籠窓、出格子のある旧商家と思われる町家が並びます。その距離も意外に長くポツンポツンと500mは続きました。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 養老鉄道多度駅から徒歩20分


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○小向(おぶけ)/朝日町小向 
 
   
▲旧東海道沿いにポツンポツンと格子の美しい古民家が見られます 
四日市・万古焼の元祖の地 
 江戸時代は桑名藩領。町の中央を南北に東海道が貫きます。街道筋には、茶店、立場茶屋(飲食をともなう遊び場)、旅籠、陶器屋、たばこ屋などが百姓家に混じって並んでいました。陶器屋というのは、この地で古万古(こばんこ)が工芸品として開窯し、現在の四日市万古焼(ばんこやき)の元祖といわれています。
旧東海道筋に残るわずかな古民家
 明治に入っても東海道沿いに商家が軒を並べ、米屋、青物、質屋、旅籠などが続きますが、茶屋は廃業したとか。いま旧東海道を歩いてみますと、わずかに格子のある古民家がポツンポツンと見られますが、名古屋のベッドタウンとしての役割が強くなっているようです。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄名古屋線伊勢朝日駅から徒歩10分
○穴太(あのう)/東員町穴太
 
藩主の積極的な河川工事と新田開発
 江戸時代は桑名藩領。阿奈宇とも書いたようです。村高は800石弱と濃州道沿いの他の集落と比較して多い。古くからの農村地帯ですが、常に水不足に悩まされていました。そこで領主・本多忠勝など歴代の藩主は河川の改良工事を行い、なおかつ新田開発も積極的だったことがあげられます。
旧道から一歩横道に入ると古民家が見られます
 いま旧道を歩いてみても、町屋の現代化が進みます。たまに古民家を見つけても、改築、改装されています。しかし旧道から脇道にそれますと、土蔵や板壁の古民家が多く見られます。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 三岐鉄道北勢線穴太駅から徒歩10分
○鳥取(とっとり)/東員町鳥取
 
大規模な宅地開発と隣合わせ
 東員町(とういんちょう)のなかでも、近年最も変貌の大きい集落といえるでしょうか。もともと農業地帯だったのが、金属・鋳物工場が進出、さらに商店や飲食店、金融などもやってきました。旧道を歩いていますと、古民家が途切れると、いきなり現代住宅群が連なり、大規模な宅地開発を目の当たりにします。いま北勢線沿線で最も開発が進んでいる地域といえます。
黒板塀や板壁、蔵のある集落です
 とはいうものの、濃州道沿いには古民家が残されており、往時の面影を見ることができます。なお地名の由来は、鳥取塚と鳥取神社があり、鳥取連の子孫が在住していたからにちなむとか。鳥取連とは、鳥を捕まえて朝廷に献上する技能集団を指しています。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 三岐鉄道北勢線東員駅から徒歩20分
○南大社(みなみおおやしろ)/東員町南大社
 
   
▲大部分が改築、改装されています  ▲旧東員郵便局/昭和初期(?)築 
戦国時代から続く歴史ある集落
 駅を出て県道14号線を北へ坂を下っていきます。延々と歩きましたが、数台のクルマが通過しただけで人とは出会うことはありませんでした。両側には麦畑が広がり、とてもきれいな光景。そして突然の古民家群の出現に驚きました。員弁川支流の大神川沿いに、町家がズッと続いています。
戦国時代末期、紀伊国・清水重光がこの地を開拓
 江戸時代は、桑名藩に始まり忍(おし)藩、幕府領、また忍藩へと変遷します。戦国時代末期、紀伊国の清水重光がこの地に移住し、員弁川両岸を開拓しました。そのため員弁川の北側を北大社村、南側を南大社村になったといわれています。大社とは地域の守り神・猪名部神社の氏子たちで形成された集落によるとか。

大神川沿いに長く続く古民家群
 たとえ小さくても川沿いを歩くのは気持ちのいいもの。商家や棟割り住宅、格子、虫籠窓のある町家が続きます。大部分が改築、改装されていますが往時の面影は十分に残ります。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 三岐鉄道三岐線北勢中央公園口駅から徒歩20分
 
○石仏(いしぼとけ)/いなべ市員弁町石仏
 
五輪の塔三基の周囲に石仏があるとか
 旧道沿い(石仏通り)にはわずかに商店がありますが、中心は市役所のある国道421号線沿いに移っています。そのため交通量も少なく、静かな町並みです。この奇妙な町名ですが、北勢線の南側に石仏墓地があります。美濃国守護の土岐大膳太夫親子の墓で、高さ92cmの五輪の塔三基があり周囲に石仏があることが地名の由来だとか。
古民家は石仏通りにわずかに点在するのみ
 またこの地は水不足で農民一揆が絶えず、その都度犠牲者がでたことから、農民たちは石仏で祀ったとかの説、また雨乞い説もありますが定かではありません。ただ石仏通りを歩いても、石仏は見当たりませんでした。古民家もところどころに点在するのみ。
 
感動度★
もう一度行きたい度★

交通 三岐鉄道北勢線楚原駅から徒歩15分 
 ○楚原(そはら)/いなべ市員弁町楚原
 
   
▲ヌヌッ、これは料亭跡か妓楼跡か…  ▲改築されていますが旧商家の面影 
意外にも古民家が多く、連なっています
 戦国時代は曽原御厨(そはらみくりや)といい、伊勢神宮の領地といわれていました。特に外宮領であったそうです。朝廷から任命された地頭職も鎌倉幕府から安堵されていました。江戸時代は桑名藩領。村高は300石弱で小村ですが、米以外にも大豆、茶、稗など多くの作物を生産していました。
こ、これは妓楼か貸し座敷かと……
 旧道筋を歩いて見ますと意外に古民家が多く、連なっているところも見られます。しかも商家も多く、活気が見られます。なかには、ひょっとしてこれは妓楼か貸し座席か……と思われる建築物も見られました。
 
感動度★
もう一度行きたい度★★

交通 三岐鉄道北勢線楚原駅から徒歩10分 
○阿下喜(あげき)/いなべ市北勢町阿下喜
 
   
▲幾つもの通りに古民家が見られます  ▲路地にも板塀の町家が続きます 
   
▲旧阿下喜郵便局/昭和14年築   ▲旧阿下喜小学校/国の登録文化財 
江戸時代はかなり大きな集落でした
 古くは上木とも書きました。ゆえに地名の由来は、お上に納める御用木材を扱っていたことから上木の転訛説が出てきましたが定かではありません。江戸時代は桑名藩領。村高は1500石を越える大きな村でもありました。米のほかに、麦、茶、大豆、稗、渋柿、草わらなど商品作物を多く生産し、高瀬舟を利用して桑名に搬送していました。人口も1000人近くに達し、家屋も200軒を越える大集落でした。
北勢地区最大の古民家群
 阿下喜駅を降りて坂道の上りますと、古民家が連なる町に出ます。本町や西町通りなど、濃州道が貫き、両側に往時を思い起こさせる建築物がギッシリ並んでいます。旧商家が多いのも、商人の町であったことを思わせます。
なお、北勢とは伊勢国の北部にあたる地域の名称です。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★

交通 三岐鉄道北勢線阿下喜駅から徒歩20分 
○東村(ひがしむら)/いなべ市北勢町東村
 
古刹・円福寺の裏手に広がる古民家群
 三岐鉄道・阿下喜(あげき)駅から歩いて三岐線・伊勢治田駅(いせはった)まで向かう途中で見つけた町並みです。左側に古刹・円福寺があり、その裏手一帯に旧家と思われる古民家が林立していたのです。円福寺は三重県下に多い真宗大谷派の寺院です。
手入れの行き届いた植栽と黒板壁とが似合います
 東村は7つの村が合併して、明治22年に治田(はった)村が誕生しました。東村は旧治田村の中心地でもあります。江戸時代、桑名藩の積極的な新田開発により、大いに発展しました。いまは静かな農村といった感じです。

 歩いて見ますと、手入れの行き届いた植栽が美しく、黒板塀ととてもよく似合います。 
 感動度★
もう一度行きたい度★

交通 三岐鉄道三岐線伊勢治田駅から徒歩10分 
○菰野(こもの)/菰野町菰野
 
   
 ▲中世から栄えた歴史ある街道沿いの集落でした
中世から江戸初期にかけて北勢から近江への街道
 慶長5年(1600)、紆余曲折を経て土方雄氏に家康から1万2000石を与えられ、菰野藩が成立。明治維新まで13代にわたって治め、政治的には極めて安定した藩でもありました。城下町の整備が進むと、多くの人々が集まりました。特に近江商人は中世の時代から進出し、三河、尾張、美濃で東海地方の産物を仕入れて、桑名を経て、菰野を通り八風(はっぷう)峠を越えて、京・近江へ物流のルートとして利用。いわゆる“八風越え”といわれる道筋です。
治安の悪い鈴鹿峠を避けるルート
 もうひとつ“千種越え”があります。菰野町千種から根ノ平峠を越えて近江へ向かうルートです。当時、鈴鹿峠は山賊の出没など治安が悪く、さらに戦乱の後遺症で荒廃、関所の設置で通行税の徴収と人気がなかったようです。
歴史の表舞台から消える八風越え
 しかし、鈴鹿峠越えも街道、宿駅の整備などで治安も改善しました。そこで江戸時代の初期には、八風越えも歴史の表舞台から遠ざかっていくのです。いま歩いて見ますと、旧道沿いに古民家群がひっそりと佇んでいます。2階家の棟割り長屋風で、商家、旅籠を思わせる町家が軒を並べています。 
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄湯の山線菰野駅から徒歩7分
 
○西新地(にししんち)/四日市市西新地
 
   
▲旧四日市図書館/国登録文化財   ▲諏訪神社/聖と俗は隣合わせ 
三重県下で最大の繁華街へと発展
 大正時代、昔からあった南町の東側の水田を造成した新地に対して、西側にあった水田を造成した地域を西新地とよびました。三重軌道や伊勢鉄道が開通すると一気に開発され、諏訪神社への参拝客も含めたいへんな賑わいとなりました。そのころから遊里としての、性格も持ち合わせるようになったそうです。その後戦災で一気に焦土と化しましたが、戦後の戦災復興事業であっという間に立ち直り、三重県下で最大の繁華街へと成長。同時に赤線地帯として、諏訪公園周辺の諏訪栄町とともに発展していきます。
旧赤線地帯も過日の面影はわずか
 しかしいまの諏訪栄町は過日の面影はなく、西新地にかつての面影をわずかに見ることができます。料理屋やギッシリと軒を並べるスナックやバーなど飲食店が見られます。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄名古屋線近鉄四日市駅から徒歩5分
 
○本町(ほんまち)/四日市市本町
 
JRの駅前にありながら衰退する町並み
 実は近鉄は旧国鉄四日市駅近くの北西部に乗り入れていました。本町商店街は旧近鉄四日市駅前にあったのです。双方の鉄道の駅があったことから、四日市市内有数の繁華街を形成。ところが昭和31年に近鉄の“短路化”、すなわち“国鉄地域から独立”して、諏訪栄町に近鉄四日市駅を新設。これは戦後の復興計画の一環でした。しかしそこから残されたJR駅付近の本町地区の衰退がはじまり、いまではJR駅前にも関わらずシャッター通りとなり、一部には廃屋も見られるようになりました。
旧旅館、妓楼の面影
 崩れかかった商店を見ると、近鉄王国を目の当たりにし、地盤沈下の様相がハッキリとわかります。いま歩いて見ますと、商店のほかに料亭や旅館、“妓楼”を思わせる建物も残されています。 かつての繁栄が偲ばれます。
 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR関西本線四日市駅から徒歩2分 
○高砂(たかさご)/四日市市高砂町
 
朽ちた妓楼があちこちに残されています
 明治時代の初期に稲場町とともに、稲葉三右衛門らによって開拓造成された町です。町名は稲葉氏の夫人・たか子にちなむそうです。昭和のはじめ三岐鉄道が開設され、港湾事業がいっそう発展。多くの港湾労働者が働いていました。同時、遊郭も発展します。昭和初期には貸し座敷が10軒、娼妓は約40人いました。しかし戦後の大気汚染で住民や労働者も流出。さらに昭和34年の売防法施行で、一気に遊郭もなくなり、娼妓もいなくなります。
大気汚染で人口急減地区
 大気汚染はその後もしばらく続きます。地元・納屋小学校の児童数も大幅に激減するありさま。 いま町を歩いていますと、妓楼と思われし建物があちこちに残されています。大部分は空き家で朽ちています。
 
  感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR関西本線四日市駅から徒歩10分
○富田浜元(とみだはまもと)/四日市市富田浜元町
 
   
 ▲改造、改築された町家が旧東海道沿いに続いています 
風格のある煉瓦塀が旧東海道沿いに続きます
 旧東海道を歩きますといろいろな町並みにぶつかりますが、ココはまず長い煉瓦塀に驚きました。アミカンという会社で、網を造っており、創業は江戸時代だそうです。それはともかく、本社事務棟、煉瓦塀、正門の3件が一括して国の文化財として平成22年(2010)登録されました。敷地のなかに入ることはできませんが、外からでも十分に迫力が感じられます。
ときおり歴史散策グループの姿が見られます
 この旧東海道沿いには、わずかながら古民家も残されており、ときおり“歴史散策グループ”の人たちが歩いているそうです。
 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR関西本線富田浜駅から徒歩10分
 
○東富田(ひがしとみだ)/四日市市東富田町
 
   
 かつては「富田行商人」の名を全国に広めた漁師町でした
旧商家や問屋、料亭,遊郭などひとかたまりとなって残る
 江戸時代は桑名藩領。富田城があっと推定されています。元は東海道沿いに町並みが広がっていました。旅篭屋、商家が軒を並べ、桑名宿と四日市宿の中間にあって間宿と呼ばれ、一里塚も置かれていました。名物の焼きハマグリも店頭に並んだそうです。ところが、安永9年(1780)の大火で、町方はほぼ消滅。そこで浜方で町を再建しようということで家々が建ち、漁師町が形成されたのです。その浜方が東富田でした。
“富田行商人“が全国へ売り歩く
 住民たちは漁業を営みその中から鰹節(かつおぶし)が名産として全国的に知られるようになり、鰹節専門の問屋も林立。さらに海産物問屋、廻船問屋など、漁師町として発展しました。鰹節専門の“富田行商人”だけでも300人を越え、日本各地を売り歩いたそうです。一時期、その規模において富山の薬売りと並び称されとか。しかし戦後の四日市コンビナートによる公害、赤潮などで漁獲量は大幅に減退し、漁業自体が衰退していきました。

かつての「富田新地」の面影も残ります
 いま町を歩いていますと、格子、虫籠窓のある旧商家や問屋などの町家が残っているのに気がつきます。また料亭や妓楼とかつての「富田新地」を思わせる建物も見られ、かつての繁栄ぶりがうかがい知ることができます。
 
感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄名古屋線近鉄富田駅から徒歩15分
  
○住吉(すみよし)/四日市市住吉町
 
   
▲ かつての料亭、旅館、置屋もいまでは一般住宅です 
かつて妓楼、旅館、置屋などで遊郭を形成していました
 大正13年から昭和初期にかけて、西町の西部田地が埋め立てられ、宅地造成が進みました。昭和3年に幾つかの町名を合わせて成立。実際に制定されたのは昭和4年です。2本の河川に挟まれ、三方を高い防潮堤で囲まれていました。ココに他の地区から移転してきた業者が、遊里を形成。料亭旅館、妓楼、置屋などがあり一大遊興地でありました。「住吉遊楽園」と呼ばれた時期もあったようです。
旧妓楼も一般住宅しています
 いま歩いてみますと、一般住宅のあいまに妓楼、置屋と思わしき建物が点々と残されています。 そんな建物も一般住宅化しており、きちんと手入れをされています。
 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄名古屋線川越富洲原駅から徒歩20分
 
○羽津(はづ)/四日市市羽津町
 
   
▲森家住宅/国の登録文化財  ▲光明寺/明治5年に人民共立学校を設立 
東海道に板壁を利用した蔵や主屋が続きます
 東海道に沿った集落です。桑名宿と四日市宿の両方に助郷として出役。江戸時代に入って多くの人たちで賑わいました。また藩では積極的に新田開発行ったそうです。そのためか村高も2000石をはるかに越えていたとか。しかし水害や地震などで新田が水没することもありました。また隣村との境界線の紛争も絶えなかったとか。
豪商・森家のいまは国の登録文化財
 明治期には、森家のような大規模な商家が出てきて、酒屋、薬屋、廻船問屋、質屋など営んでいました。いま当時の名残を見ることができます。旧東海道を歩きますと、板壁や板塀を利用した蔵や主屋を見られます。
 
感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄名古屋線霞ヶ浦駅から徒歩15分
 
○南五味塚(みなみごみづか)/四日市市楠町南五味塚
 
   
▲宮崎本店貯蔵庫/国登録文化財   ▲宮崎本店事務所/国登録文化財 
延々と続く黒板塀の町並み
 かつて町内は幾つかの酒蔵がありました、いまや宮崎本店だけとなり、蔵や土地を全部引き受け8000坪もの広さになりました。町を歩いていますと、黒塀があちこちに延々と続いているのが見られます。“広さや長さ”は歩いていると実感します。また事務所や貯蔵庫など国の文化財として登録されています。もともと鈴鹿山脈の水系を利用した酒造りがはじまりだそうです。
負の歴史・四日市ぜんそくの患者が続出
 江戸時代は桑名藩領。村高は400石余で、水害、気候不順による大飢饉は数多く、農民は全体的に貧しかったようです。明治に入ると副業として養蚕が盛んになりました。大正時代は鉄道の開通と同時に紡績業の誘致で、農民たちは工場の労働者へと転身。昭和30年代は四日市ぜんそくで、公害病として43人が認定患者になりました。 
 
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄名古屋線楠駅から徒歩15分
 
○千代田(ちよだ)/四日市市千代田町
 
   
▲旧平田家住宅/国の登録文化財   ▲旧道には古民家が点在しています 
朝明川の堤防下と平田家周辺に古民家
 朝明(あさけ)川を渡って堤防下の旧道に入ると、古民家が連なります。といっても無人のようです。たまにクルマが通る程度の静かな道です。対岸の平津と違って、千代田はどこまでいっても平地です。千代田は鎌倉時代から見られる歴史ある地名です。かつて北西の谷に、鶴が舞い降りたことから鶴沢と称したが、のちに千代田と改名したそうです。いまは鶴沢神社としてその名を残しています。
●伊勢暴動の標的になった平田家住宅に刀傷
 堤防下の集落は短く、さらに10数分ほど歩くと本集落に到着。こちらは現代風に改築、改装された住宅が多いですが古民家も見られます。そのなかに旧平田家住宅があります。平田家は江戸末期に庄屋を務め、その後議員や村長を務めた旧家。明治9年の伊勢暴動では真っ先に標的になり、屋敷内には刀傷が残されています。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 三岐鉄道三岐線平津駅から徒歩15分
 ○平津(へいづ)/四日市市平津町
 
   
▲堤防上の八風街道沿いの集落です  ▲朝明川堤防下の古民家群です 
八風街道沿いの集落です
 平津駅を出ると土蔵があって、なにやら期待できそうな町です。正面に朝明(あさけ)川の堤防にぶつかり、その堤防上の道路が八風(はっぷう)街道です。桑名市と八風峠を越えて滋賀県の東近江市とつなぐ重要な街道です。
堤防の上と下に古い町並みが形成
 平津は街道沿いの集落で、地理学的には街村を形成。いまは堤防上に幾つかの古民家が連なり、さらに堤防下にも町並みが形成されています。とくに堤防下には、旧家かと思わせる屋敷や町家など往時の面影を見ることができます。

 地名の由来は、古来朝明川の水深が深かったころ、河川港で周辺の物産などを四日市に移送していたころ、このあたりは平地であったからという。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 三岐鉄道三岐線平津駅から徒歩5分
  
○智積(ちしゃく)/四日市市智積町
 
   
▲西勝寺の堀割にはコイが泳ぐ  ▲手入れの行き届いた集落でした 
名水100選「智積養水」のある町並み
 江戸時代は、当所幕府領と桑名藩領の相給でした。幕府領の一部は正徳5年(1715)長島藩領となりますが、天保13年(1842)再び幕府領となりました。一方桑名藩領は享保11年(1726)から西城藩領となりました。村高は約1600石と豊か。ところで智積は「智積養水(用水)」という環境省の名水100選に選ばれた江戸時代の灌漑施設が残されています。そのため稲作の収穫量が安定していたとのことです。
神社、寺院周辺に古民家が残る
 西勝寺の板塀沿いにはコイが泳いでいます。古民家はこの西勝寺や椿岸神社周辺に残されています。下見板壁や黒板塀、黒板壁の蔵など見られます。改築や改装されていますが、往時の面影を十分に感じさせます。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄湯の山線桜駅から徒歩12分
○桜(さくら)/四日市市桜町
 
   
 ▲伊藤酒造/創業は江戸時代末期 ▲石川酒造主屋/国の登録文化財  
江戸時代は佐倉村、明治時代から桜村
 江戸時代は津藩領で佐倉村と称しました。村高は1200石前後と穫れ高は高い。それは新田開発を積極的に行われた結果でしょう。その後隣村との離合集散を繰り返し、明治に入って桜村となりました。
隣接する2つの酒造会社で美しい町並みを形成
 近鉄桜駅を降りて10数分歩きましと、酒蔵が見えてきます。町並みは2つの酒造会社が土蔵や店蔵、貯蔵庫などで形成されています。2社が隣接していることで、ひとかたまりとなっているのです。白壁や黒板塀、虫籠窓などが美しい町並みを作っています。 
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄湯の山線桜駅から徒歩15分


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 ○江島(えじま)/鈴鹿市東江島 
 
   
▲旧伊逹家・油屋忠兵衛宅/廻船問屋を営み、築100年を経過   ▲伊勢街道は、地元の歴史街道としてイベントが盛んです  
商家が軒を並べた伊勢街道
 江戸時代は当所津藩領でしたが、元和5年(1619)より紀州藩領となります。その後、享保元年(1716)に旗本・小笠原氏の知行地。村高は800石前後です。村民たちは農業、漁業を営み、農閑期には男は篭かき、女は木綿の機織りで駄賃を稼いだとか。また南北に伊勢街道が通り、1年中、人通りが絶えませんでした。通り沿いには商家が連なり、かなり栄えたといわれています。
伊勢街道筋の雰囲気が残されています
 また元禄時代(1688-1704)には4人だった形屋(伊勢型紙)が、宝暦3年(1751-64)には、10人に増えています。この10人は白子形屋の枝株が認められ、藩の保護を受けました。明治2年、明治天皇が伊勢神宮参拝の帰途、小笠原氏の陣屋に立ち寄ったそうです。さて、伊勢街道沿いに歩いて見ますと、まだまだ街道筋の雰囲気が残されており、出格子や下見板壁、虫籠窓など見ることができます。 
 
  感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 近鉄名古屋線白子駅から徒歩15分
○白子(しろこ)/鈴鹿市白子 
 
   
▲伊勢街道の道標と和田家/和田家先祖が参拝者のために建てた道標   ▲寺尾家住宅/現・伊勢型紙資料館・鈴鹿市指定史跡  
白子は紀州藩の拠点
 平安時代から戦国時代に白子村の名が古文書に登場します。また室町時代から伊勢下向時に多くの武将たちが白子を通過しています。江戸時代は津藩領でしたがその後紀州藩となり、一気に発展します。村高も4000石近く、伊勢街道に面しさらに白子港を持ち陸海と交通の要衝。しかも西町、中町、東町、新町、築地町と町がどんどん誕生。紀州藩主の別邸、白子代官所など各種役所が置かれ、紀州藩白子領の拠点でした。
莫大な利益を上げていた紀州藩
 宿場も置かれ、白子港は伊勢商人の流通拠点となりました。町には商家、各種問屋、廻船問屋、旅籠が軒を並べました。また伊勢型紙を扱う型売り商人は帯刀を許されていたほど力を持っていたいたそうです。紀州藩はこの地から莫大な利益を上げていました。
白子は伊勢型紙のふるさと
 ところで伊勢型紙(いせかたがみ)は、江戸小紋、京友禅、浴衣などの模様の型染めに用いる型紙のことです。高い技術により彫刻された型紙は、まさに伝統工芸品です。白子は伊勢型紙のふるさとといわれています。なお伊勢型紙資料館があります。
貴重な古民家群
 いま街道を歩いて見ますと、旧商家、問屋があちこちに見られます。土蔵、虫籠窓、美しい格子が連なり、伊勢街道の面影を見ることができます。これだけの古民家群が残されているのは貴重です。  
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 近鉄名古屋線白子駅から徒歩10分
○神戸(かんべ)/鈴鹿市神戸 
 
   
▲伊勢街道沿いには格子窓のある町屋が残されています
城主がどんどん変わる
  神戸藩は慶長6年(1601)一柳直盛が5万石で入封して成立。ところが寛永13年(1636)に伊予西条に移封される。その後幕府領、さらに廃城。その後1万石で立藩されます。とにかく紆余曲折、城主がどんどん変遷した城下町でした。
旧伊勢街道沿いに連なる古民家
 さて、町の中心に伊勢街道が貫き商家、問屋、旅篭屋などが軒を並べていました。伊勢神宮への「おかげ詣り」が始まると、多くの人たちが通過、町筋はますます発展しました。いま格子のはまった2階家の古民家が連なり、往時を彷彿させます。やや交通量が多いので、見学や撮影のは注意が必要です。
 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅から徒歩10分
○亀山(かめやま)/亀山市西丸町 
 
伊勢詣での街道から外れたのちょっと寂しい
 東海道・江戸から数えて46番目の宿場町で,なおかつ関氏の城下として発展した城下町でもあります。
 この亀山宿,隣の関宿と同じように,距離が長いのです。その長さ2.5kmもおよびます。にもかかわらず,本陣,脇本陣が各1軒,旅籠も21軒とちょっと寂しい感じです。というのも伊勢神宮へ向かう,伊勢詣での街道から外れているためです。
武家屋敷の蔵,長屋門
 町家は出格子で出桁造りが定番です。城下には,家老職だった加藤家の長屋門,土蔵,母屋の一部が残されています。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは亀山市役所駐車場に停めました
 
○関宿(せきじゅく)/亀山市関町 
 
   
▲約200軒の歴史的建造物が現存  ▲間口は狭いが奥行きがあります 
現存する宿場町では最長!
 歩いていてあまりの距離の長さに驚くと同時に疲れました。東西方向に1.8㎞もある古い町並みって,関だけではないでしょうか。東海道,伊勢別街道,大和街道の交差するところだけあって,大規模な宿場になりました。そのせいか,いまでも歴史的建造物だけで200軒前後が残っています。
はじめは関地蔵宿といい地蔵院の門前町でした
 もともと、慶長6年(1601)徳川家康の伝馬制により成立し、当初、関地蔵宿といいました。関地蔵と呼ばれたのは、中世後期、地蔵院(宝蔵寺)の門前町として発達したためだそうです。伝馬制とは一般の旅人や参勤交代などの公用者のための宿場で馬や人足の交代するときの駄賃(有料&無料)などを含めた制度。
意外にも統一感のない宿場の街並み
 切り妻造りの平入り2階建ての多いのが特徴です。しかも他の宿場町と違って統一感がありません。デザインにしてもバラバラです。たぶん,当時の職人たちが,自らの腕を競ったのではないでしょうか。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 JR関西本線関駅から徒歩10分
 
 ○伊賀上野(いがうえの)/伊賀市上野三之町
 
   
▲格子のある町家が目に付きます  ▲きちんと整備された寺町 
外国人に人気の忍者のコスプレ
 何度も訪れました。忍者の町、芭蕉の生誕地としても有名です。そのため最初の訪問では、城や忍者屋敷、芭蕉にまつわるところばかりでした。いまは外国人観光客に人気のある町で、忍者のコスプレがいちばんの楽しみだそうです。
町家、寺町、武家屋敷も残る
 町なかを歩いたのは今回が初めてです。格子模様のようにきちんと区画されており、歩きやすい。ほとんどが町家で、瓦葺き2階建、平入りの建物が主流。ところどころに豪華な武家屋敷が目に付きます。ただ、連続して建っているわけではありません。寺町はきちんと整備されています。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは上野公園大駐車場に停めました
 
 ○名張(なばり)/名張市新町
 
   
▲城下川沿いにも古民家が連なる  ▲「旧町」は少し寂れていますが… 
 ●「旧町」界隈の古い町並み
 初瀬街道の宿場町として栄えた名張は,昔ながら古い町並みがそこかしこに残っています。中町,本町,新町と広く残っているのです。これは近鉄名張駅の西側にあたり,「旧町」にあたります。戦前までは,商業の中心地でもありました。いまは若干寂れた感じもありますが,老舗がずらりと並んでいます。
狭い路地が織りなす歴史ある宿場町
 「ひやわい」と呼ばれる細い路地が張り巡らされています。民家,商家が建て込んで人一人がやっと通れますが,今も利用されています。
ひやわいって、庇(ひさし)と庇が重なり合うほどの狭い路地のことです。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは総合福祉センターふれあいに停めました
 
○松阪(まつさか)/松阪市殿町 
 
   
▲料理屋がけっこう多いです  ▲古民家が数多く見られます  
伊勢街道沿いに歴史的建造物
 松阪は父親の出身地であるためか、子どもの頃から何度も訪ねています。でも殿町や魚町は初めてです。クルマで市内の伊勢街道を走っていますと、まだまだ歴史的な建築物がたくさん残っています。松阪は元和5年(1619)、紀州藩松阪領となり、伊勢国を支配する紀州藩の中核都市となりました。
珍しい武家屋敷の長屋
 殿町を代表する建築物が、武士が住んだ長屋です(写真上)。一棟のなかに複数の武家の家族が住んだという珍しい長屋です。安中市(群馬県)には茅葺きの武家長屋が復元されています。さて松阪ですきやきを食べると、「和田金」あたりで1人前が最低1万円以上します。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは松阪城址の駐車場に停めました
 
○市場庄(いちばしょう)/松阪市市場庄町 
 
   
  ▲伊勢街道の宿場町でした  ▲明治初期には家数は99軒とか 
街道沿いに圧巻の美しい古民家群
 2度目の訪問です。訪れる人の少ない、静かでとてもきれいな町並みです。先の大戦で伊勢湾沿岸が軒並み攻撃されたのに、市場庄が残ったのは幸いでした。
重要伝統的建造物群保存地区です
 建物は町家が中心ですが、写真でもわかるように、ほとんどが妻入り形式です。周辺は農家が多く,米蔵も街道沿いに建っています。伊勢街道のゆるやかな美しいカーブに沿って約1㎞も建ち並んでおり、重要伝統的建造物群保存地区に選定されてもおかしくないぐらいです。 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 クルマは道端に停めました
○中万(ちゅうま)/松阪市中万町 
 
江戸で財を成した松阪商人のふるさと
 もともとこの地は江戸で財をなした松阪商人(射和商人)のふるさとでもあります。とくに化粧品のおしろいや綿布を産業としました。今では商人たちの邸宅が残っています。
“格子模様”の板塀囲みの蔵
 櫛田川沿いの町並みで,一歩中に入ると実に静かな町並みです。格子状の板塀(押縁下見板張)で囲んだ蔵が連続して建ち並んでいます。さらに歩くと,旧家と思われる植栽で囲まれた立派な家屋も目につきます。

 この中万町からさらに隣の射和町まで,古い町並みが切れ切れで続きます。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは中万公会堂の駐車場に停めました
○波瀬(はぜ)/松阪市飯高町波瀬 
 
和歌山県境の最奥の村
 市町村の大合併で,このあたりまで松阪市になったのかと感無量です。というのは,国道166号線でまもなく和歌山県という,山奥の町並みなのです。
●紀州藩主も通ったお伊勢参りの宿場町です
 かつて紀州藩主が伊勢参拝や江戸に向かう場合に通った街道でもあります。いまでも波瀬本陣(写真)が残されています。また土蔵や出桁造りの町家も残っています。いまは山奥の小さな集落ですが,かつてはお伊勢参りの人たちで賑わった宿場町であったのだろうと想像します。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○おはらい町(おはらいまち)/伊勢市宇治中之切町
 
   
 ▲改築、改修を重ねてできました ▲早朝は静かでした 
瓦葺き妻入り2階建て
 伊勢神宮周辺の町にはよく行きました。しかしこんなに整備されたのは、ここ20数年来のことです。ほんとうに歩きやすくなったのです。テレビドラマの舞台にもなった名物・赤福をよく食べました。
改築、改装を重ねてできた古い町並み
 建物は瓦葺きの妻入りです。木の壁や塀がぬくもりを感じさせます。この日は早朝の7時半ごろに訪れたでいか、人出もなく静かでした。そのためほとんどの店が閉まっていました。10時ごろから開店するようです。町並みは改築、改装を重ねて復元できました。 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは伊勢神宮内宮前の駐車場に停めました
○二見(ふたみ)/伊勢市二見町茶屋 
 
木造の旅館街は今も健在
 子どものころから何度も訪れています。二見と言えば,夫婦岩で知られています。伊勢神宮参拝のあと,二見浦で泊まるのが定番でした。しかし,今は志摩半島のリゾートホテルで泊まることが多いとか。
少しずつ衰退しつつあるようです
 二見の旅館街も少しずつ客足が衰えつつあるようです。妻入りの木造の旅館街は,今でも健在ですが,櫛の歯が抜けたようになっていました。木造3階建ての旅館もありましたが,3階部分は使われていないようです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは二見総合支所の駐車場に停めました


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