目黒区

 ○権之助坂(ごんのすけざか)/目黒区目黒
 
   
▲ ビル街の一角にある町並み  ▲裏は校舎(左)が迫っている
繁華街の一角にレトロな通り
 当初は「新坂」と呼ばれていました。中目黒在住の権之助は年貢の取り立てが厳しすぎると訴えましたが、その罪に問われ処刑が決まりました。処刑される前に、死出の思い出にと我が家をひとめ見たいと懇願。そこでこの坂に権之助坂と名付けられたとか。もうひとつ、無許可で坂をかって開削したという説があります。もちろん地元は涙の慈善家説をとります。
裏手から見ると3階建て
 歩いて見ますと、木造2階建てのように見えますが、裏手のまわり急階段を降りると3階建てになってることに気がつきます。上へ上へと継ぎ足し構造になっています。また日の出学園(現・目黒日大中学・高校/2019年4月に改名)の校舎が迫ってきています。これ以上の改築、改装や区画整理ができないのかも知れません。旧日の出学園は芸能人を多く輩出しています。また近くに芸能プロ・ホリプロもあります。
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 交通 JR山手線目黒駅から徒歩6分
 ○下目黒(しもめぐろ)/目黒区下目黒
 
   
▲目黒不動/観光の中心です ▲門前には看板建築が並ぶ
   
▲蛸薬師(薬師寺)/庶民に愛された薬師さま。常に賑わっています ▲比翼塚/極悪人・権八の処刑後、自害した小紫の塚、 
   
▲五百羅漢寺/現在305体の地蔵を保存。昭和56年にビルに展示  ▲江戸時代、あばたのある娘が願かけをしたら見事に消えたとか 
元禄時代に下目黒村が誕生
 中世のころからすでに目黒という地名が存在しました。地名の由来は、牧場説、馬の目の色説など諸説あります。江戸時代初期になって上・中・下の3ヶ村に分村。元禄のころ、下目黒村が『元禄年中改定図』に記載されています。
江戸時代からの一大行楽地
 村内には目黒不動尊(清泉寺)があって、門前は江戸町人たちの行楽地として賑わいました。そのため早くから町人たちが住み、延享3年(1746)の家数はなんと150軒にも達したとか。また夕日も美しく、夕日ヶ丘と呼ばれた山もあり、秋の紅葉とともに江戸の名所となりました。そのため、江戸の都心部から離れているのもかかわらず町奉行の支配下となっています。
門前に建ち並ぶ質素な看板建築群
 古い建物は、目黒不動の門前に建ち並びます。2階建ての簡素な看板建築の店舗が連なり、落ち着いた風情を漂わせています。門前には大正年間に巣鴨で創業したうなぎ屋“八つ目やにしむら”が、昭和35年に目黒店を開業。行列のできる店として知られています。
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交通 東急目黒線不動前駅から徒歩10分
 ○中目黒(なかめぐろ)/目黒区中目黒
 
昭和初期の別荘地を「松風園住宅」として開発
 江戸時代初期、目黒本村が上・中・下に分村。この地は中目黒村となりました。当初は幕府領でしたが、慶長15年(1610)に芝・増上寺領となったのです。当時行楽地でもあった目黒不動尊(下目黒村)に続く地となり多くの町家が誕生。昭和の初め、銀行家が所有していた別荘地を箱根土地(株)が購入し開発分譲したのが「松風園住宅」(中目黒3〜4丁目)です。
今も残る当時の幅広のメイン道路
 昭和10年頃には各区画に緑豊かな庭とともに整然とした住宅が並びましたが、いまはその面影もありません。中目黒3丁目17番付近に当時のメイン道路や「レジデンス松風園」と松風園の名の付くマンションが見られます。 
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 交通 東急東横線中目黒駅から徒歩10分
 ○駒場(こまば)/目黒区駒場
 
   
 ▲日本民芸館本館  ▲旧前田邸和館・昭和5年(1930)築
   
 ▲旧前田侯爵家駒場本邸・洋館(重要文化財)/昭和4年(1929)築
目黒区内でも屈指の高級住宅地
 江戸時代,徳川8代将軍吉宗の鷹狩りの場でもありました。また同時期,駒場薬園もあり,多くの薬草が研究開発されたそうです。 いまは東大教養学部キャンパスのある所で,目黒区でも屈指の閑静な住宅地です。
●いっそう目立つ日本民芸館
 そのなかでひときわ目立つのが,日本民芸館です。昭和初期,思想家で哲学者でもある柳宗悦(やなぎむねよし)らの提唱で始まった民芸運動。この民芸の美しさを広く知らせる民芸運動の本拠地として,昭和11年(1936)に開設したのです。また近くの駒場公園には,近代建築が残っています。地名の由来は、江戸時代、駒場野といわれた原野で、馬の調教場があったことから。
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 交通 京王井の頭線駒場東大前駅から徒歩6分

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