京都府(きょうとふ)

○西陣(にしじん)/京都市上京区 
 
   
▲町家にも近代化が押し寄せています  ▲独特の土塀も京の町に映えます 
独特の町家風景です
 町を歩くと織機の音が聞こえて…、なんていうことはなくなりました。路地が続き、いくつかの伝統的な町家が見られます。ただ町家でも高さが違ったり、2階の窓の大きさやデザインもさまざまです。格子の太さも統一されているわけではありません。ただ、堅牢でどっしりした感じがします。
伝統的な町並みを復活させる動き
 最近では、石畳を敷き詰めて、伝統的な町並みを復活させよう、という動きがあります。織物のギャラリーやショップなど、商品の豊富さにさすが西陣だとうなってしまいます。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 京都市営バス今出川大宮バス停から徒歩10分
 
 ○北野(きたの)/京都市上京区真盛町
 
   
▲新旧の飲食店が並びます   ▲格子のある町家に風情があります 
北野天満宮の東側に広がる茶屋町
 洛北七野の一つです。歴史は古く、平安遷都直後から大宮人の遊猟の地と定められていて、庶民はココで猟や遊ぶことができませんでした。江戸時代、北野天満宮の寺領の一部でもありました。北野天満宮の東側に広がる茶屋町ですが、茶屋町としては祇園よりも古いそうです。上七軒歌舞練場もあって、歴史と伝統は延々と受けつがれています。
京都独特の町家です
 まさに京風町家がそこここに広がっており、祇園などと比べると規模は小さいせいか、観光客が少ないのでのんびり歩けます。お茶屋さんのほかに、バー、スナック、居酒屋なども裏手にあり、一大飲食街を形成しています。都心と違った雰囲気があるようです。 
 感動度★★★
 もう一度(夜に)行きたい度★★★★
 交通 京都市営バス上七軒バス停下車徒歩5分
 
 ○紋屋図子(もんやのずし)/京都市上京区紋屋町
 
   
▲とにかく袋小路が多いところです    ▲出格子が美しい町並みです 
とにかく袋小路の多い地域です
 図子(又は辻子)とは袋小路の突き当たりを貫通させ,通路として開放した通りをいいます。ほとんどが狭く軽自動車1台がやっと通れる幅が多いとか。
織物に関する職種が多い
 もともと智恵光院通から入ると袋小路でしたが,塞いでいた家屋を私財を投げ打って買い大宮通まで貫通させたのが,はじめて紋織を考案した宗麟でした。その宗麟の屋号「紋屋」の名をとって名付けられました。このあたりは,帯び屋,お召し屋,紋屋さんなど織物にかかわる職種が多いようです。ところで、歩いていると左右にさらに袋小路が…。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 市バス今出川大宮バス停から徒歩10分
 
 ○壬生(みぶ)/京都市中京区壬生賀陽御所町
 
   
▲旧神先家住宅/幕末頃の建築で、武家住宅風の上層民家として貴重  ▲壬生寺/新撰組が境内で大砲や剣術の訓練をした場所。常に混んでいます 
京都ならどこにでも見られる町家
 幕末末期の動乱の時代を経た町です。新撰組発祥の地や墓所,寺院などがありますが,周りはごく平凡な京風の町並みです。それでも修学旅行生がタクシーに分乗して殺到。
かつて京野菜のさとと呼ばれました
 壬生は水生ともいい,江戸時代は湿地帯でもありました。そのせいか,壬生菜やセリ,ダイコンの特産地となり,京野菜の里とも呼ばれました。住宅地として発展したのは近年です。

 瓦葺き2階屋で格子のはまった出窓が特徴で,独特の光景を見せてくれます。いわば京都ならどこにでもある町家です。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 阪急京都線四条大宮駅から徒歩15分
 ○島原(しまばら)/京都市下京区西新屋敷太夫町
 
遺構がわずかに残る
 秀吉が京都を再興するために,二条柳馬場に柳町の花街を許可。これが後に六条坊門に移転,さらに町の発展に伴い寛永18年(1641),現在の地に移転したのです。その急な移転騒動が,時あたかも九州島原の乱直後であったために,島原と言われるようになったそうです。
かつて日本の三大遊郭の一つと呼ばれました
 江戸時代の島原は遊宴だけではなく,和歌,俳諧などの文芸も盛んで島原俳壇を形成。
最盛期には貸し座敷は148軒、花魁(おいらん)は434人とかなり大きい。かつて長崎の丸山、江戸の吉原と並んで「日本の三大遊郭」と呼ばれたこともありました。
 しかし明治以降,島原は寂れます。実際歩いていても大門,置屋の輪違屋,料亭に角屋などが残る程度です。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR山陰本線丹波口駅から徒歩5分
 
 ○珠数屋町(じゅずやちょう)/京都市下京区数珠屋町
 
数珠専門店が多く、だが魚介の売買は禁止! 
 東西両本願寺の門前には,仏壇,仏具,法衣を扱う店が軒を連ねています。江戸時代中期には、すでに珠数屋町と呼ばれていたようです。西本願寺の寺内町で通りの両側には、珠数を売っている店が軒を連ねていました。寛文12年(1672)の『洛中洛外大図』には“珠数屋町筋一丁目”の記載が見られます。おもしろいのは、魚商売が禁止されていたことです。魚の匂いが嫌がれたのか。
環境省「かおり風景百選」
 木造2階建ての商家ですが,門前町の風情を漂わせているのです。環境省「かおり風景百選」,京都市「下京八景」に選ばれています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR東海道本線京都駅から徒歩10分
 
 ○五条楽園(ごじょうらくえん)/京都市下京区岩滝町
 
   
▲れっきとした和風旅館です  ▲貸し座敷もある「料亭旅館」 
現役の色街です
 現役の色街ですが,昼頃だというのにあまりの静けさに驚きました。しかし司直の手入れ後に来てしまったことに納得しました。「五条楽園」という看板も撤去されています。
唐破風の独特の入口
 もともと五条楽園という地名はありません。鴨川と高瀬川の間の狭い中州にあたる部分を一般にさします。いわゆる旧赤線地帯です。京町家と唐破風の入口を備えた茶屋風の建物が所々に見かけます。その周辺にスタンドバー,旅館などが密集。任天堂の創業地や「眼科・外科医療器具歴史博物館」なるものも見つけました。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 市営バス河原町五条バス停から徒歩5分
 ○上賀茂(かみがも)/京都市北区上賀茂
 
清流と土塀が似合う町並
 このあたりは,室町時代から上賀茂神社の神官の屋敷町として,町並みが形成されてきました。そばを流れるのは明神川です。この川は,賀茂川から取水し,上賀茂神社境内を経て流れてきたものです。
川沿い道路の交通量の多さにウンザリ
 明神川にかかる土橋,土塀や門,独特の飾りを持つ社家,土塀越しの庭の緑,これらが一体となって貴重な町並みを今に伝えています。

 ただ,川沿い道路の交通量の多さにウンザリしました。静かに散策ができない町でもあります。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄烏丸線北山駅から徒歩15分
 ○嵯峨鳥居本(さがとりいもと)/京都市右京区
 
   
▲白壁と黒塀が続きます   ▲手入れの行き届いた茅葺き屋根 
●鳥居本は愛宕神社の参道です
 京都へは何度も行っているはずなのに、鳥居本は初めて訪ねました。バスは京都バス72番で鳥居本で降ります。下へ向かう石段を探してください。もうそこは鳥居本の町並みで、町並み全体の中ごろに当たります。この鳥居本は、愛宕神社の参道で、門前町を形成しています。もちろん重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
「五山の送り火」のひとつ鳥居形はすぐ近く
 全長約600mで、歩きながら化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)がこの途中にあることに気がつきました。念仏寺は何回かきているのにもかかわらずです。考えてみれば、五山の送り火の一つ、大文字はあまりにも有名ですが、もう一つの「鳥居形」は、この近くの山の斜面で燃やすのです。昔、嵯峨野を何度も歩きましたが、いずれも化野念仏寺止まりでした。もう少し先まで歩いておれば、この古い町並みの鳥居本をもっと早く知ることができたでしょうに。

●自然と家屋が織りなす
 さすが京都というべきか、途中樹木があったり、崖があったり、畑があったりと、この町並みは実に変化に富んでいます。これは他の古い町並みには見ることができません。家屋もかやぶき屋根の農家や商家があったりとさまざまです。いちばん上の写真は、屋根は農家風、壁面は格子のはまった町家風です。どうやら1軒の家で、農家と町家が混在しているようです。愛宕神社の一の鳥居近くには江戸時代から続く、茶屋や料亭が建っています。観光写真や絵はがきに出てくる知られた光景です。
●紅葉や桜の時期は最高……
 今度は桜や紅葉の時期に来たいと思います。きっとすばらしいでしょう。人混みでガッカリしても、料理がおいしいので満足できます。京都の宿が満室だと、大阪に泊まります。夜は大阪で満腹になるので、これはこれで満足できるのです。ただ最近では“タンやツバ”をまき散らすアジア系外国人観光客の増加にウンザリ。
苔むした茅葺き屋根
 愛宕神社付近まで歩くと,茅葺き屋根の古民家が残されています。一部は茶店にもなっており,苔むした屋根は,それなりに趣を感じます。 
 感動度★★★★
 
もう一度行きたい度★★★★
 交通 京都バス72番で、鳥居本バス停から徒歩5分
 ○鞍馬(くらま)/京都市左京区鞍馬本町
 
   
▲京と若狭を結ぶ鞍馬街道  ▲多くのドラマの舞台になった鞍馬寺 
京風町家に似てます
 紅葉の最盛期にたずねました。天候が急変して小雨が降ったりもします。鞍馬寺の門前町として開けた町です。鞍馬は数々のドラマの舞台となったところで、商家がずらりと並んでいます。この狭い道は、京都と若狭を結ぶ鞍馬街道といい、京風の民家にやや似ています。
鞍馬は「暗間(くらま)」が転訛したという説も…
 駅を出てやや上り坂を行くと鞍馬寺です。ほとんどの観光客は、石段を登り、参道を行きます。しかし町並みは、門前を避けさらにゆるやかに上っていきます。やさしい町家がしばらく続きます。地名の由来は山深い谷間なので「暗間」(くらま)が転訛したという説があります。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 叡山電鉄鞍馬駅から徒歩5分~20分
 
 ○吉田神楽岡(よしだかぐらおか)/京都市左京区吉田神楽岡町
 
京大歌・『逍遙の歌 紅もゆる』 
 吉田山はもともと神楽岡といい,天皇陵もあって霊域でした。吉田の名が見えるのは平安中期ごろです。しかし吉田山が一躍有名になるのは、京都大学の『逍遙の歌 紅もゆる』の歌に登場してからといえます。「紅もゆる 岡の花~」と11番まで続きます。
京大学生や教員の住まい
 明治22年に第三高等中学校が開校、明治30年に京都帝国大学が開校され、近辺に借家、飲食店、雑貨店が開業。大正、昭和と市電が都心まで開通するにつれ、京都帝国大学の付属機関が続々と建設されます。同時に広大な学生街ができ、教職員官舎ともども宅地化が進み、京都の学問の中心となります。いまは比較的高級住宅地街になっています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 市バス銀閣寺道バス停から徒歩15分
 


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 ○鐘鋳町(かねいちょう)/京都市東山区鐘鋳町
 
   
 ▲陶芸家・河井寛次郎記念館 ▲道が狭く、往時の面影が残ります 
 ●京への入口・渋谷街道沿いの集落
 渋谷(しぶたに)街道沿いの集落でもあります。もともと東国から京都への入口は,三条と五条の二つがありますが,渋谷街道は五条口にあたります。歴史も古く、平安時代から中世にかけて軍事的にも重要性が高まりました。逆に大津へ抜ける最短の間道でもありました。
 歩いて気がついたのは古民家も減りつつあり,レンガ造りの専売局も壊されたのがわかります。しかし陶芸関係の工房や販売店が多く,陶芸家・河合寛次郎の記念館があるのが救いでしょうか。

町名は豊臣秀吉が命名したとか
 豊臣秀吉が方広寺創建の際に設けた寺の巨大な鐘を鋳造する炉があったというところから名付けられたとか。江戸時代は妙法院の領地でした。
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 京阪本線清水五条駅から徒歩10分
 
○祇園新橋(ぎおんしんばし)/京都市東山区元吉町 
 
   
▲辰巳稲荷は記念写真の聖地?  ▲まさしく京都の茶屋風景です 
ドラマにたびたび登場
 映画やドラマの舞台にたびたび登場する町並みです。とくに巽橋付近は,もっとも多くドラマに登場するところです。だからいつ行っても混んでいます。特に修学旅行シーズンはたいへんです。
 京風町家に祇園らしい繊細な感覚を加えた町並みになっています。白川の流れと石畳,茶屋のすだれが,とても似合うのです。
江戸時代、水茶屋が一気に増える
 祇園新地の一つです。もともと知恩院の寺領で畑地でした。しかし縄手通りに面する祇園新地がどんどん発展。その余波として、この土地にも水茶屋を設ける者が多くなりました。その後享保17年(1732)、茶屋が正式に認められ、白川に巽橋が架かり、一気に発展しました。
 ところで水茶屋というのは、水や茶を飲ませる簡素な造りの休憩所。このあと待合いへ行く場合もあるようです。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪本線祇園四条駅から徒歩5分
 
○花見小路(はなみこうじ)/京都市東山区祇園町南側 
 
一力茶屋からがメインになります
 休日に訪ねたものですから,その混み具合はすさまじいものがあります。花見小路は三条通りからの約1㎞を指しますが,実際は一力茶屋からがメインになります。
むしろ裏通りに風情あり
 独特の高い黒塀と紅殻格子が美しく,石畳と妙にマッチしています。夜になると格子から漏れる薄明かりが京都の風情をかもしだします。一歩裏側の通りには,一見さんお断りのお茶屋さんだけではなく,スナック,甘味どころ,喫茶店,レストランもあり、気軽に入れます。最近はお座敷に出る舞妓さんに対する観光客の強引な撮影が問題になっています。 
 感動度★★★
 (夜に)もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪本線祇園四条駅から徒歩7分
○産寧坂(さんねいざか)/京都市東山区清水 
 
清水寺への静かな裏道
 三年坂とも書きます。清水寺に向かうの場合,一般的には清水道を使います。しかしギュウギュウの混み具合で,まともに歩けないくらいです。そこで,清水道を避けて,裏側の二年坂,産寧坂を通る人たちが増えています。
東山八坂の一つ
 もともと石段の両側の建物は明治時代以降のものです。それまでは単なる静かな“山”でした。大正時代に入って,少しずつ開発が進み,建物が京風の町家が並びだしたのです。

 東山八坂の一つで、坂名の由来は,泰産寺(子安塔)に通じる道があったことから,といわれています。 
  感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪本線祇園四条駅から徒歩20分
○二年坂(にねんざか)/京都市東山区清水 
 
穏やかな小ぶりの坂道
 産寧坂を過ぎるとやや緩やかな坂が続きます。小ぶりの坂なので二年坂と名付けられたそうです。産寧坂と共に,坂道の両側に土産物店が並びます。
大正時代の建物が並ぶ
 建物は産寧坂に比べて新しく大正時代のものと思われ、ほとんどが借家で、竹久夢二が住んでいたといわれています。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪本線祇園四条駅から徒歩20分
○石塀小路(いしべこうじ)/京都市東山区下河原町 
 
   
▲煉瓦塀が続きます   ▲石垣と石畳が似合う町です
石畳みの美しい小道
 入口がどこにあるのかわかりずらい小道です。しかしいったん入り込んでしまうと,そこは異境でした。外界の騒音は届かず,石畳みの足音だけが聞こえてきます。石畳みの一部は,昭和50年代に廃止された市電の敷石を移設しました。風雨に耐えた石が美しいのです。
明治時代、ダンナ衆の妾宅としてスタート
 歴史は浅く、明治時代末期から大正時代に祇園の奥座敷として地元のダンナ衆が,妾宅として構えたそうです。いまは旅館,飲食店となっていますが,重要伝統的建造物群保存地区なので,その光景は昔と変わることはありません。
 
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 京阪本線祇園四条駅から徒歩15分
○塔の下(とうのした)/京都市東山区金園町 
 
ドラマのロケ地として知られておます
 ドラマなどで登場人物が歩くシーンに,必ず登場するのがココです。ロケ地としては祇園と並ぶ有名な所でもあります。正式には「霊応山法観寺」といいますが,だれも知りません。「八坂の塔」といえば,納得するくらい五重塔が知られています。その下の緩やかな石畳みを敷かれた坂道を下ると,2階屋の京町家が並び,さらに歩きますと,飲食店が続きます。
五重塔と石畳みと京町家
 五重塔と石畳みの坂道,京町家の組み合わせが,京都を象徴する光景です。「ああ,京都に来たなあ」とつくづく思います。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪本線清水五条駅から徒歩20分
○樫原(かたぎはら)/京都市西京区樫原下ノ町 
 
   
▲樫原陣屋跡/京都市指定文化財 ▲郷倉(ごうくら)/地域の年貢米収蔵 
山陰道と物集女街道の交差する要衝
 京と丹波を結ぶ山陰道と,この樫原から向日市まで西山東麓沿いに通じる物集女(もずめ)街道と結ぶ交通の要衝です。早くから宿場町として整備されており,丹波や山陰方面からの物資の集積地として賑わいを極めていました。
西国街道と山陰道をつなぐ重要な街道
 ところで物集女(もずめ)街道とは、西国街道の北摂津・高槻(現・大阪府)から島本、山崎、長岡京、向日市を通り、山陰道へと続きます。つまり山陰道と西国街道を連絡する重要な街道といえます。
市内で唯一宿場町の雰囲気が残ります
 また樫原本陣(陣屋)もでき,山陰道を往来した諸大名が宿舎としたところでもあります。伏見宿本陣が現存しないなかで市内で唯一残る本陣遺構で,京都市有形文化財に指定されています。旅籠や商家など京風の町家が軒を並べています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 阪急嵐山線桂駅から徒歩20分
 
○伏見稲荷(ふしみいなり)/京都市伏見区深草稲荷御前町 
 
   
 ▲伏見稲荷大社/千本鳥居が超有名  ▲伏見人形展示場(土日のみ公開) 
古民家は消えるのみか
 伏見稲荷という地名はありません。このあたりは稲荷神社前にあたるところから稲荷御前(いなりおんまえ)といい,参拝道になります。江戸時代から料理屋,土産物店が立ち並び,最盛期には42軒もあったとか。特に料理屋として,玉家,万屋,菊屋が知られていたそうです。
伏見街道沿いの歴史ある集落
 また古くから洛中と伏見,さらに大和を結ぶ重要な伏見街道が通っていました。秀吉が京と伏見を直結するために開削したとか。いまは街道沿いにポツンポツンと古民家が残されていますが,ちょっと寂しい。
 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京阪本線伏見稲荷駅から徒歩5分
○両替町(りようがえちょう)/京都市伏見区両替町 
 
家康が「伏見銀座」を開設
 両替町は正徳太子伝授の柿木浜地蔵堂があって,伏見築城以前から開けていたようです。徳川家康は,慶長6年(1601)に,堺から大黒常是,平野(大坂)から末吉勘兵衛のふたりを招いて「伏見銀座」を開設。慶長丁銀,慶長小粒,慶長豆板銀などを鋳造し,金銀の品質が初めて統一されました。安永年間(1772~81)には両替商が軒を連ねたそうです。
土蔵や商家が改修復元
 いま両替町通は往時の面影を見ることはありませんが,石碑のそばには土蔵や商家が復元されています。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京阪本線伏見桃山駅から徒歩3分
 ○京町(きょうまち)/京都市伏見区京町
 
   
▲京都らしい風情が漂います  ▲虫籠窓の意匠にも注目 
●「鳥羽伏見の戦い」の激戦地
 伏見城築城に際し,桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」と言われています。この本通り北上すると京都南座近く,さらに大原の里まで続くことから「京町通」と呼ばれました。明治維新「鳥羽伏見の戦い」の折りには官軍と奉行所の幕軍が白兵戦を繰り広げました。今も,当時の弾痕を残す民家も現存します。
繊細な京風格子や虫籠窓
 歩いていますと,京都市の景観重要建築物に指定された商家も目に付きます。繊細な京風の格子,蔵造りの虫籠窓のある町家など楽しくなります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪本線伏見桃山駅から徒歩5分
 
○伏見(ふしみ)/京都市伏見区南浜町 
 
   
▲ドラマの影響で観光客が増大   ▲下見板張りの酒蔵が連なる 
酒蔵と町家が混在
 10数年ぶりの伏見です。日曜日のせいか,特に幕末の舞台となった寺田屋近辺はたいへんな人混みです。白壁と板塀の酒蔵と京風町家が混在しており、このへんいったいは京都市の景観保全地区に指定されています。
堀割には遊覧船が見られます
 格子戸と黒瓦葺きの2階屋は、手入れが行き届いています。また蔵を店やギャラリーに改造したり、と歩いているだけで楽しくなります。掘り割りには遊覧船が静かに流れていました。
 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 京阪本線伏見桃山駅から徒歩10分
 
○向島(むかいじま)/京都市伏見区向島中之町 
 
   
▲美しい格子が続きます   ▲意外に交通量が多いのです 
宇治川の堤防上に開いた集落
 宇治川の左岸に位置します。伏見から見ますと宇治川の向うがわに位置することから言われたそうです。秀吉は宇治川に今の観月橋に近い所に豊後橋をかけ,その南詰めの堤防上に発達した町並みです。秀吉はさらに北は京の下京区へ,南は宇治からさらに奈良街道へと結び大和街道を開きました。伏見市街地と直接つながったことで,一気に発展したのです。
●旧大和街道の両側に古民家群
 街道の両側を格子窓のある町家がズラリと並び,交通量さえ少なければ,落ち着いた町並みになるのに……。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪電車宇治線観月橋駅から徒歩10分
 
○中書島(ちゅうしょじま)/京都市伏見区南新地 
 
高瀬川の開削で見直された集落
 もともとこのあたりは湿地帯で河川港がありました。豊臣秀吉が伏見城を政庁としたことで、武家屋敷などが建ち並びました。しかし江戸幕府は伏見城を廃城、一気に町は荒廃しました。ところが、その後高瀬川が開削され、京と大坂が結ばれると水運が見直され、その河口が注目されたのです。
●明治時代は遊郭で発展
 交通の便が良くなると伏見城下にあった遊郭が移転。さらに明治末期に京阪電車が開通すると、ますます栄えるようになったのです。陸軍16師団が在住のころが最盛期で、貸し座敷69軒、娼妓228人とか。いまは一般住宅化しており、わずかに往時の面影が見られます。
脇坂安治を「中書さま」と呼んだ
 文禄年間(1592-96)、中務少輔に任官していた脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建てて住みました。中務少輔の唐名(からな)が「中書」であったことから、脇坂は中書さまと呼ばれ、住んでいる所を中書島と呼ばれたのです。唐名とは官職を中国風に読んだ呼び方です。
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京阪本線中書島駅から徒歩10分
 
○下鳥羽(しもとば)/京都市伏見区下鳥羽長田町 
 
古くは平安京の港
 桂川と鴨川の合流するところに立地しています。元もと上鳥羽(南区)に対抗する名称で,古代の紀伊群鳥羽郷の地でもあります。高倉上皇が鳥羽津から船に乗って,厳島神社参拝に向かったと『平家物語』に記されています。つまり鳥羽津は古くから水陸交通の要所で,平安京の港でもあったのです。
堤防上に京風の町家や酒蔵が続く
 バス停を降りて,少し歩くと堤防へ上る急坂があります。堤防上に町並みが続くのです。これが当時の“鳥羽作り道”にあたります。京都独特の繊細な格子のある町家や土蔵が続きます。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通京阪本線中書島駅から京阪宇治交通バスで下鳥羽下車徒歩8分
○淀(よど)/京都市伏見区淀新町 
 
平安時代の書物にも残る地名
 関西では淀といえば競馬場、と即座に答えられるほど淀競馬は有名です。天皇賞で馬券が飛び交います。正式には京都競馬場です。それはともかく、歴史の古い町で、平安時代の書物にはその名が見られます。鎌倉時代には、軍事上の要地として知られており、また朝廷が経済的利点を抑えていました。
旧道沿いに町家
 戦国時代、「京近き名城」といわれた城が築かれていました。淀古城です。淀古城は,伏見桃山城の築城と共に廃城となり,江戸期に入って淀城を築城。寛永14年(1637)に水難を防ぐために木津川の付け替え工事が行われ,新たな流路沿いに城下町が形成されました。いま旧街道沿いに町家が散見されます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 京阪本線淀駅から徒歩15分
 
○淀美豆(よどみず)/京都市伏見区淀美豆町 
 
大坂-京の舟運ルート上の河川港として発展
 江戸時代,大坂と京をつないだ一大舟運ルートの途中に港があり,河川港として発展したのです。そのうちのひとつに淀津があり,京街道(又は大坂街道)の近くの当地が発展しました。かつては木津川の大きな川底で,埋め立てられたのですが,東部地区に大きな堤防があり,民家や農家があり,農業地帯でもありました。この旧堤防上に旅籠や商家が集まり,旅人や商人たちを癒したのです。
店蔵や町家がひとかたまり
 いまは木田醤油の店蔵をはじめ町家がひとかたまりになって並んでいます。
 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 京阪本線淀駅から徒歩25分


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○寺戸(てらど)/向日市寺戸町 
 
衣食住をはじめ多彩な職種の店や問屋が並んでいました 
 平安,室町から戦国時代,江戸時代と続く歴史のある町です。公家や社寺の領地で,細かく分かれていました。一時期15カ領地にも分かれており,そこに幕府領もあって,実に“にぎやかな”町だったようです。しかし庶民の活動は活発で,呉服,綿屋,煎茶,青物,油屋,醤油屋,畳屋,植木屋など衣食住をはじめ,宿屋,両替商,紙問屋,医師,竹業など多彩な職業の店が並んでいました。
西国街道,愛宕道、丹波道の交差点に商家
 西国街道,愛宕道(嵯峨道),丹波道の交差地で,交易量も多くたいへんな賑わいでした。いまは商家が残る程度。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 阪急京都線東向日駅から徒歩7分
○神足(こうたり)/長岡京市神足 
 
 ●旧西国街道沿いに古民家
 桂川支流の小畑川をさかのぼった河岸沿いにある集落で,古代人が川を遡行して定住するのに好都合な場所。その証拠に付近からは多くの遺物が出土されています。
 当初,西国街道は平安京と長岡京を結ぶ古道でしたが,その後西へ延び,西宮で山陽道と合流,西国諸国へと通じました。いまは大阪への通勤圏内で,分譲住宅や高層マンションが林立し,往時の面影を見ることはありません。しかし神足2丁目付近の旧西国街道沿いには,古民家がポツンポツンと残っています。
神谷(こうだに)が神足(こうたり)に転訛説
 地名の由来は神足神社からとか。ただ神足神社の鎮座地が高地にあり、背後の谷を神谷(こうだに)と称し、それが神足(こうたり)に転訛したと言う説もあります。古老は「こうだに」と呼ぶことが多かったようです。また地名を「こうだに」、神社名を「こうたり」に区別している場合もあるようです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR東海道本線長岡京駅から徒歩5分
 
○東一口(ひがしいもあらい)/久御山町東一口 
 
   
▲美しい虫籠窓のデザイン   ▲板張りの蔵や塀が続きます  
なぜ一口をいもあらいと呼ぶのか…
 まさに難読地名の代表といえるでしょう。地名の由来は諸説あっていまだに定かではありません。三方が巨椋池(おぐらいけ)に面し、入口が一方向にしかなかったことが有力とか。むしろ一口をいもあらいと呼ぶ理由が幾つもあってもう大変です。たとえば最初は芋洗い、だっという説がありますが定かではありません。
蔵や虫籠窓のある町家がギッシリ
 巨椋池は漁業,農業,水運の要といわれ、桂川,宇治川,木津川が流れ込みました。後鳥羽上皇より賜った漁業権は,東は津軽外,西は艪櫂の及ぶところまで漁を許されたそうです。その総帥が山田家で,長屋門は登録文化財となっています。いまは小高い旧堤防上に集落が続き,板張りの蔵,白壁,美しい虫籠窓のある町家など古民家がぎっしりです。古民家の宝庫といえます。
 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 京阪本線淀駅からコミュニティバスで前川橋下車すぐ
 
○橋本(はしもと)/八幡市橋本中ノ町 
 
石清水八幡宮のそばにできた遊郭
 桂川,宇治川,木津川が合流する東側に位置し,地形的に狭くなるところに,木津川堤防上に京街道(大坂街道)が通ります。平安時代中期から交通の要衝で,堤防下は石清水八幡宮(旧称・男山八幡宮)の境内で,門前町や遊郭街を形成しました。そのため参拝客や旅人でたいへんな賑わいだったそうです。
勤王の志士と新撰組が“仲良く隠れ遊んだ”という噂
 ところで幕末期、勤王の志士と新撰組とが“仲良く隠れ遊んだ”ということから大きくなったという噂があります。まさに「聖と俗は隣合わせ」を象徴。貸し座敷が75軒、娼妓262人。

旧遊郭街が往時のまま残ります
 昭和33年の売春防止法の成立を経て,アパートや下宿,旅館に転業していきました。空き家もありますが,いまも往時の姿が見られ,ぜひ残して欲しい町並みのひとつです。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 京阪本線橋本駅から徒歩5分
○大山崎(おおやまざき)/大山崎町大山崎 
 
西国街道沿いの古民家
 明智光秀と豊臣秀吉の“山崎の合戦”が知られています。結局あっというまに光秀が敗れ“三日天下”に終わります。いずれにせよ、古来軍事、交通上の要衝でありました。いま西国街道沿いには,かろうじて古民家が残されています。また社寺には重文,国宝級が多数あります。
隣の山崎村と区別するために「大」を付けた説
 桂川、宇治川、木津川の合流点右岸に位置します。古代から山崎と呼ばれた地域です。地名は水中に突出したような天王山の地形に由来しますが、南隣の摂津国山崎村と区別するために「大」の字を付けたと言います。もうひとつ、八幡大神を祀ったことから「大」の字を加えたという説もありますが、定かではありません。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 阪急京都線大山崎駅から徒歩5分
 
○上狛(かみこま)/木津川市山城町上狛 
 
   
▲環濠集落には路地や狭い道などが縦横に走っています  
外敵に備えた環濠集落
 応仁,文明の乱の末期「山城国一揆」で舞台になった集落です。そのため外敵からの防衛のために堀をめぐらした環濠集落となったのです。集落内は,細い路地が残されており,往時の姿を見せています。環濠集落は,大和郡山市や近畿各地に残っています。
早くから「商品作物」の生産が盛ん
 早くから名産として瓜(うり)が知られており、特に越瓜(しろうり・あさうり等)は京で重宝されていました。また茄子(なす)、角豆(四角豆・しかくまめ)などの生産も盛んで、俗に言う「初物」を産出。いわば商品作物が江戸時代から作付けされていました。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR奈良線上狛駅から徒歩10分
 ○園部(そのべ)/南丹市園部町本町
 
園部城下の町並みです
 園部駅を出ると延々と歩きまわりました。国道9号線の一本裏道で,のどかな道を歩きます。本町は園部城下の一つで、城下町の中心地にあります。元和元年(1615)に小出氏が園部城を築城,同時に城下町を形成したのです。
伝統的な町家群
 本町(ほんまち)には妻入り,平入りの町家が混在しています。格子,大きな黒瓦屋根,漆喰で壁を塗り固めています。本町を歩くと伝統的な町並みが所々見受けられますが,特に通りの東の端に連なっています。最近,住民の間で本町や新町の景観を維持しようという動きがでてきました。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★★
 交通 JR山陰本線園部駅から徒歩20分
○美山(みやま)/南丹市美山町 
 
   
▲一部開放している民家もあります  ▲山の裾野に広がる小さな集落 
生活感のあるやぶき屋根
 風景写真家の山口高志さんから「京都におもしろいところがあるよ」と聞かされたのが、もうずいぶん昔のことでした。そのことがずっと気になっていて、京都,福井に行くときに寄ってみたのがこの美山でした。かやぶき屋根のある民家の集落といえば、飛騨の白川村があまりにも有名ですが、むしろ生活感の漂う美山のほうが好きです。山の斜面にいくつかの茅葺き民家が残っています。クルマで来ると、突然視界が開け、集落の姿に感動します。
「特産物センター」が貢献
 1993年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。全国で茅葺きの民家が少なくなってくるだけに、貴重な財産だと思います。建築学から見ると構造、材質や広さなど、いろんな面で美山地区独特の建て方が見られるそうです。詳しい説明は専門家にまかせるとして、私たちは、自然と調和した建物と集落があるということを知っておきたいと思います。
 これだけの遺産を守るために、「特産物センター」を建設して、売り上げを民家の維持に振り向けているそうです。
「よくぞ残っていた!」
 交通が不便だから残っていた、というのも事実だと思います。都会に住む者からみると、これだけの集落が「よくぞ残っていてくれた」という思いでいっぱいであります。いまは観光客でいっぱいです。 
感動度★★★★
 
もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは大駐車場に停めました
 
○亀岡(かめおか)/亀岡市矢田町 
 
明智光秀の城下町
 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の舞台の一つ。明智光秀が天正5年(1577)に亀山城を築城したのが始まりです。慶長15年(1610)に岡部長盛が藩主のときに,ほぼ形作られました。内堀,外堀とありますが,さらにその外側に土塁,惣堀と呼ばれる堀に囲まれていて,かなり堅牢な城下町でもあったのです。町割りはほぼ格子状になっていますが,筋違いや袋小路を設けるなど,城の守りに工夫をしています。
 歩いて感心したのは,通りの入口に案内板があり,町の歴史や通りのいわれなどを明記していることです。町に対する愛着心がわきます。

「H商店街」って何だこりゃ!
 町を歩いていて「H商店街」という看板が電柱に架かっていました。「なんだこりゃ」と驚きました。でも単に「エッチ」という意味ではなく、昭和28年(1953)に始まった当初、アルファベットのH型に通りが形成されていたからだそうです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR山陰本線亀岡駅から徒歩15分
○舞鶴(まいづる)/舞鶴市北吸 
 
赤れんが倉庫群は赤レンガパークに変身
 舞鶴は東地区と西地区の二つに分かれています。西地区は歴史の町ですが、東地区は軍港のイメージが色濃く残っています。赤れんが倉庫群は、東地区・東港のそばに建っています。海上自衛隊の艦艇も見えます。東地区の通り名は、日露戦争以前の軍艦の名前が付いています。
赤レンガパークを形成
 明治、大正時代のれんが倉庫が12棟現存しています。この日は早朝の雨の降る日曜日でした。静かです。この倉庫のなかに「市政記念館」が開設されています。いまは周辺を含めて広大な赤レンガパークを形成しています。もちろん飲食店も多数あります。 
 感動度★★
  もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは赤れんが博物館の無料駐車場に停めました
○伊根(いね)/伊根町平田 
 
『ええにょぼ』、『男はつらいよ』、『釣りバカ日誌』の舞台
 重要伝統的建造物群保存地区に選定されましたが、それよりもNHKの朝ドラ『ええにょぼ』(主演・戸田菜穂)や寅さんの映画『男はつらいよ』(マドンナ・いしだあゆみ)、『釣りバカ日誌』(主演・西田敏行)の舞台になって、一躍人気の町になりました。
●ユニークな舟屋の里
 今回で2度目の訪問です。道の駅ができたり、遊覧船があったりで、以前に比べて騒がしい町になっていました。舟屋の1階は舟の収容、作業場などになって、2階が住居です。断崖の地形を実にうまく利用しています。湾全体を見渡すには、道の駅からがいいでしょう。町内の道幅が狭いからです。
 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
  交通 クルマは道の駅・舟屋の里伊根に停めました
○加悦(かや)/与謝野町加悦 
 
   
▲旧尾藤家住宅/京都府指定文化財  ▲ちりめん街道沿いの集落  
大阪からバス一本
 2005年春、文化庁から新しく選定された重要伝統的建造物群保存地区が4カ所発表されました。他の3カ所はそれなりに知ってはいましたが、この加悦だけは全く知りませんでした。そこで早速出かけました。大阪・梅田の阪急バスターミナルから宮津行きバスに乗れば、途中加悦(約3時間/片道2260円)に停車することがわかりました。
ちりめん街道沿いの町
 ちりめん街道沿いの町で、ちりめん業を中心に栄え、最盛期には約80軒の織物業や民家があったそうです。とくに京都・西陣とは深い関わりをもっています。まだ、重要伝統的建造物群保存地区に選定されたばかりで、全く観光客はいませんでした。歩くと出格子や虫籠(むしこ)窓のある商家が、昔を彷彿させるようです。
「旧尾藤家住宅」
 いくつかの古い商家がありますが、いちばん下の写真は、その昔は武家屋敷で、明治に入ってちりめん問屋となりいまは「旧尾藤家住宅」(入館料200円)として公開されています。中は、洋風建築を建て増しして、おもしろい建築になっています。ここでは、実に親切に説明してくださいました。ただ帰りのバスの時刻が迫っていたので、あまりゆっくりもできなかったのが残念でした。
途中で食料の用意を
 この街道沿いには食堂がなく、大阪でおにぎりなど食料品を買い込んでいくことをおすすめします。ほんとうにお腹がすきました。
 なお帰りは,バスでいったん京都丹後鉄道の与謝野駅まで出る方が便利です。加悦停車の大阪行きの直通バスは、本数が少なく,出発までかなり時間があるからです。 
感動度★★★
 
もう一度行きたい度★★★
 交通 大阪・梅田から宮津行き高速バスで加悦下車徒歩10分
 

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