熊本県(くまもとけん)

○古町(ふるまち)/熊本市中央区呉服町 
 
見応えのある馬追の神事
 訪ねて行った当日が藤崎八幡宮の秋の大祭で熊本では最大の祭りが行われておりました。この祭りを見たのは2度目で,いつもながらの馬追いは見応えがあります。
●町人・商人の町として発展
 古町はもともと町人の町でもあり,同時に寺町でもあります。実際に古町という町名があるわけではありません。明治以降から戦前まで,蔵造りの各種卸問屋が軒を並べ,経済の中心地として発展しました。町割りは碁盤の目のようになっており,江戸時代からの区割りが残されています。また唐人町は格子戸が美しく,商人の町の面影もあります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました
 
○新町(しんまち)/熊本市中央区新町 
 
今なお古民家が残る
 古町から坪井川を超えると,そこは新町です。空襲の被害が比較的少なかったことで,歴史的な町家が多く残されています。近年はそれら古民家を再利用する動きが活発で,いろいろな店に変わっています。
江戸時代から続く歴史ある町
 新町は,江戸時代から続く町名で、加藤清正が新しく造った町とか。戦略上見通しを悪くするために道路を食い違いに開削したそうです。その後、地元肥後の国だけではなく,遠く大坂や名古屋からも多くの町人が移り住み、大きく発展しました。また明治時代,写真屋,活版印刷屋など新しい商売が新町から始まりました。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは有料駐車場に停めました
 
○川尻(かわしり)/熊本市南区川尻 
 
   
▲端鷹(ずいよう)酒蔵資料館・休館中  ▲瑞鷹本店/慶応3年創業の老舗 
●長崎や大坂との取引も盛ん
 熊本市内から旧薩摩街道を走り,加勢川の手前を右折します。石積船の発着する石垣も残り,河川港としての往時の繁栄ぶりが伺えます。また御船手(船の乗組員)が設置され、長崎、大坂との取引が盛んでした。津方会所も設置されていたとか。下町の船着き場には、川尻御蔵があり、飽田、託麻、上益城、下益城、宇土の計5郡17手水からの年貢米20万俵が納入されていました。なお川尻は寛永11年(1634)制定の熊本五ヶ町の一つです。
土蔵造りや間口の狭い町家
 歩いて見ますと、土蔵造や平入の町家など,変化に富んでいます。間口が狭く、奥行のある細長い敷地が特徴で、「切妻型平入」が圧倒的に多い。当時の税は、間口の大きさにかかることから狭くなっています。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは酒蔵資料館前の無料駐車場に停めました
 
○石小路(いしこうじ)/宇土市石小路町 
 
宇土藩の下級武士が住んでいました
 江戸時代は船場川に沿って宇土藩の宇土倉庫があり,御蔵奉行が在勤していました。またこの地域には宇土藩の下級藩士などを含む軽輩が居住していたそうです。
船場川と黒塀が似合います
 歩いていますと川沿いに石垣と石段が残されており,石段は水運を利用して荷物の集散に利用したことから往時を偲べます。また黒塀と川筋がとても似合います。また古色蒼然とした石橋が架かっています。船場橋(安永9年・1780築)といい,長さ13.7m,幅4.1mのアーチ橋で,輪石35個を使った熊本式の石橋。壁石は安山岩,高欄は馬門石を使用してます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度 ★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 
○門内(もんない)/宇土市門内町 
 
わずかに武家屋敷が残る
 宇土藩時代には本丁と裏丁に分かれていました。また上級藩士の居住区でもありました。そして,その一角に武家屋敷が残されています。往時の面影を見られるのはココだけといってもいいでしょう。
制約の多かった支藩のなげき
 ところで宇土藩は,熊本藩の支藩の一つで3万石。といっても支配地域が分割されており,合計の実高で3万5270石でした。支藩であるため,何かにつけて幕府の許可と本藩の許可が必要で,司法,行政面でも制約を受けていました。陣屋は薩摩街道南側に置かれていました。幕末には西南戦争の薩摩軍の通過だけではなく、政府軍に占領されたこともありました。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは鶴城中学校横の無料駐車場に停めました
 
○網田(おうだ)/宇土市上網田町 
 
幻の網田焼のふる里
 寛政4年(1792),細川藩が肥前の陶工・山道嘉右衛門を招いて皿山に御用窯として開窯。初期の作品は,透明度と白磁のもつ独特の造形美が評判になり網田焼として知られるようになりました。それは幕府や大名への贈り物となりました。
藩の保護が打ち切られると質は一気に転落
 しかし30年ほどで藩の保護が打ち切られると,日用雑器の生産に転換しましたが,作品の質は落ち,その後昭和初期に生産が中止されました。静かな里は,陶工の監督を務めていた中園家を資料館に転用し,後世に伝えています。
このあたりは古民家も多く、白壁と下見板張りの美しい組み合わせが印象的です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは網田焼の里資料館駐車場に停めました
 
○山鹿(やまが)/山鹿市山鹿九日町 
 
   
▲八千代座/ 明治43年築。国の重要文化財  ▲伝統的な街並みは、下町、九日町と続きます  
●超人気の幻想的な山鹿燈籠祭り
 頭上に明かりのついた灯籠を載せた1000人もの女性が踊る幻想的な「山鹿灯籠祭り」はあまりにも有名です。この灯籠は和紙と糊だけで造った精巧なものです。
●豊前街道沿いに歴史的建造物
 町はゆるやかな曲線を描いた豊前街道(写真上)の両側に続く伝統的な町並みは、下町、九日町で多く見られます。菊池川沿いの下町には、酒造会社の土蔵酒蔵が連なっています。九日町には、重要文化財クラスの歴史的建物が残っています。特に重文に指定された八千代座(写真下左)、旧安田銀行(現・山鹿灯籠民芸館)などが集中。町歩きの起点はは温泉プラザがベストといえます。 
 感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR玉名駅前からバスで温泉プラザ前下車すぐ
○来民(くたみ)/山鹿市鹿本町来民 
 
   
▲旧来民郵便局(昭和11年築)/「ゆ-くんち」と呼ばれ、下見板貼形式です  
土蔵造りの商家が並ぶ
 地名の由来は『老来安民』からとか。熊本藩主細川忠利は,鷹狩りの際,来民を町として取り立て,しかも月6回の市開催を許可。以後,一気に発展しました。
明治に入って農民一揆が多発します
 明治に入ると農民一揆が多発します。明治10年のいわゆる「戸長征伐」では、富永謙蔵、衛藤真俊などの指導で、民費収支の不正について戸長、区長を追求し、山鹿・光専寺に1万人集会への起爆剤の役を果たしました。明治16年には、松方デフレ政策で、困窮した民衆が直接行動に訴えました。いま土蔵造りの商家が建ち並び,往時の面影が残ります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○阿蘇一宮(あそいちのみや)/阿蘇市一の宮町宮地 
 
門前街の両側に残ります
 阿蘇神社と共に発展してきた門前町です。南北朝時代は菊池氏と肩を並べるほど一大勢力。しかし秀吉の九州征伐により,社領は没収,衰退しました。古民家は門前街の両側に土産物店として残ります。
阿蘇神社は江戸末期に細川氏によって再建
 ところで阿蘇神社は、阿蘇開発の祖神・健磐竜命をはじめ12柱の神々を祀る古社で、肥後一宮と称し官幣大社に列せられていました。社殿は天保6年(1835)から16年の歳月をかけて、細川氏によって再建されました。祭りの多くは農耕作業と深い関係を持っていました。祭りの市には農機具などが並んだそうです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは阿蘇神社の駐車場に停めました
 
○黒川(くろかわ)/小国町黒川 
 
入湯手形と露天風呂で大ヒット
 とにかくスゴイ人混みです。道はわざと狭く造ってあるとか。近年,黒川温泉の成功話が,メディアの話題になっています。建物の高さ制限とか,適度な植栽など,なるほどとうなってしまいます。また洞窟風呂や露天風呂があり、日帰り客はすべての旅館が500円で入浴でき、入湯手形(1200円)を購入すると、3カ所の露天風呂が利用できます。いま年間100万人の日帰り客と30万人の宿泊客でにぎわっています。
ブロック塀は禁止、白いガードレールは撤去
 川沿いの白いガードレールは撤去し、手すりや欄干もカラーコントロールされて統一感を出しています。もちろんブロック塀は禁止、垣根や柵などの低い。大型バスが入ってこれないので、ノンビリと散歩ができます。建物はほとんど戦後のもので,木造が中心です。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは温泉街入口の無料駐車場に停めました
 
○杖立温泉(つえたておんせん)/小国町下条 
 
日田の代官や長崎奉行も大好き
 急峻な山あいの底を杖立川が流れ,その両岸に宿が並ぶ温泉地です。かつて弘法大師が杖を立てた所から名付けられたとか、いう説もあります。江戸時代から湯治場として有名で,日田代官や長崎奉行がしばしば往来。また松尾芭蕉門下の俳人など文人墨客も訪問。博多-日田-豊後-佐賀関の主要な街道沿いならではの賑わいぶりです。
急な石段の両側に飲食店がギッシリ
 杖立川に面したホテル,旅館は鉄筋ですが,一歩裏手に回ると,急な階段沿いに小さな旅館,飲食店などがギッシリ連なります。歩いていますと,なんとなく昭和の温泉街という感じ。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは観光客用駐車場に停めました
 
○玉名(たまな)/玉名市高瀬 
 
江戸時代に繁栄した港町
 この高瀬は,平安時代から貿易の要衝といわれ,江戸時代には菊池川流域のコメの一大集散地として繁栄。そして裏川(写真)には,石垣,船着き場,俵ころがし,石橋などが当時の姿をとどめています。
20万俵の米を大坂に搬出!
 米蔵から積み出されたコメは「高瀬米」と呼ばれ,大坂・堂島の米相場の基準になるほどでした。当時、高瀬の永徳寺跡に御蔵が造られ、約25万俵を納め、うち20万俵を大坂に搬出。町の繁栄ぶりはたいへんなものでした。現在は菖蒲園になっていて,初夏には66,000本が咲き誇ります。裏川に沿った町並みには歴史的な町家が点在。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは隣の河川敷の無料駐車場に停めました
 
○御船(みふね)/御船町御船 
 
改装された蔵造りの商家
 地名の由来は、景行天皇が船を着けたとか、中国から官船が着岸したという説もあります。
 南北朝時代,御船城の阿蘇家は攻め込んでくる足利軍をこの地で防いだとされています。江戸時代は地の利もあって,商工業が盛んになり,豪商たちが競って御船川沿いに豪邸を建てました。酒造業や金物業はその名を知られ,御船川を利用した舟運はますます発展。
大工や石工による名建築が生まれます
 また腕のいい大工,石工が生まれ,石造りの2連アーチ状の眼鏡橋を完成させたのです。いまは改装された蔵造りの商家などが幾つか残る程度です。またレンガ造りの近代建築も見られます。 
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは御船町商工会駐車場に停めました
 
○浜町(はままち)/山都町浜町 
 
細川公や西郷隆盛も宿泊
 江戸時代,熊本城下と馬見原を結ぶ街道を日向往還と呼びました。特にこのあたりは矢部街道ともいわれ,馬見原から1日の旅程で,浜町に投宿,翌日に熊本入りしました。そのため旅籠や商家も多数あり,本陣もありました。旧野尻家は,細川公が狩りに来たときの本陣でもあります。また明治10年(1877)の西南戦争の際に,西郷隆盛が宿泊し軍議を開いた場所でもあります。また近くの重文・通潤橋の放水は有名です。
旧矢部町の政治・経済の中心地でした
 清和村と蘇陽町と合併する前の旧矢部町の政治、経済、文化の中心地でした。面影のある新町通りは,本陣となった旧備前屋があり,現在は造り酒屋となっています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは肥後銀行浜町支店に停めました
 
○馬見原(まみはら)/山都町馬見原 
 
熊本や大分、宮崎を結ぶ重要な町
 この地方は馬が多く、小高い丘に登って下方を見ると、必ず馬が見えたことが地名の由来。
 熊本や大分,宮崎を結ぶ重要な町でありました。お茶やシイタケ,米や酒など物資の集散地のため,商家も多く,さらに造り酒屋16軒,芸妓置屋5軒,茶屋7軒もありました。大正時代には回り舞台付きの750人収容の御園座が建っていたとか。また望楼付き三層(内部は4階建て)の建物もあったとか。歌人の若山牧水は「シャレタ町ナリ」といったくらいです。山頭火も木賃宿・益城屋に投宿。
●オシャレな町に修復・復元
 いま往時の面影を復元しようと,建物を修復しオシャレな町に変身しつつあります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは馬見原老人いこいの家に停めました
 
○松合(まつあい)/宇城市不知火町松合 
 
   
▲重要伝統的建造物群保存地区選定の条件にあうと思いますが  ▲旧富田街道沿いの白壁や旧家が復元しつつあります 
酒造りや海産加工で一躍発展
 漁港と醸造で栄えた町です。気候は温暖でわき水にも恵まれたためです。そのため江戸時代は大手の造り酒屋が幾つもありました。また中国向けのフカヒレ,ナマコなど海産加工品も手がけたりして財をなした豪商も出現したのです。
住民協定景観形成地域として保全に力を入れる
 明治時代に入って,さらに飛躍的な発展を遂げます。入船千艘,出船千百艘といわれ,近海はもちろん,遠く五島,薩摩からの水揚げがありました。いま,地元民と行政とが一体となって景観形成地域として保全に力をいれています。

 地名の由来は、松の生えた谷間を指す説。また舟待ち、潮待ちの意味もあるとか。 
感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは観光客用駐車場に停めました
 
○三角西港(みすみにしこう)/宇城市三角町 
 
   
▲灯台や当時の洋館、和館などを復元   ▲明治時代の岸壁や水路も忠実に復元 
ヨーロッパ風の町並み
 島原港からフェリーで三角に入りました。途中、左側に何やらヨーロッパ風の建物が遠くに見えます。こんなところにあるなんて、とても変な感じがしました。三角港に着いた後、駅前のバスターミナルからバスで西港に向かいました
オランダ人が計画した交際貿易港
 
明治20年、オランダ人・ムンドルに設計された、当時としては熊本県唯一の国際貿易港です。市街地や排水路など整然とした街並みが形成。いま岸壁や水路(写真下右)は国の重要文化財に指定。洋館などは忠実に復元されました。しかし明治32年,三隅線が東港まで開通しますと,西港は衰退しました。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR三角線三角駅からバスで西港下車


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棚底(たなそこ)/天草市倉岳町棚底 
 
北風を防ぐ石垣の里
 国道266号線を走っていて,いきなり左側(海側)に,石垣が現れると驚きます。棚底です。国道から舗装された道を海側に下っていくと,まさしく石垣の里が広がっているのです。強い北風から家屋を守るために石垣を築いたのですが,最近では頑丈な家屋のため,石垣のほうが低くなりました。
苔むした石垣や崩れかけた石垣
 歩いていますと路地の奥には更地が多く,廃屋も目にとまります。石垣も苔むし,崩れているのです。寂しい限りです。

 耕地面積が小さく,わずかに柑橘類,野菜栽培,魚介の養殖などが中心となっています。この辺りの地名の由来は平家落人伝説によるものが多いそうです。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
加世浦(かせうら)/天草市牛深町加世浦 
 
漁師町特有のせどわ集落
 長崎県下有数の漁港です。また「せどわ」とは狭いスペースに多くの家屋が建ち,そのその狭い地域に漁師が住む町のことです。家屋は戦後の建物で“迷路度”のきわめて高い町です。
漁師が肩を寄せ合って生活しています
 「せどわ」は2階建ての家々が密集しており、昔は寝泊まりしている2階に上がるときは、外側のハシゴを使っていました。そのハシゴが2階に引き上げられていたときは、住んでいる漁師はもう寝ているのだと察して黙って帰るとか。また同じ船に乗る人たちが近くに集まって住んでいるので、船主が一声で出漁の合図をすると、数分で船に集まったそうです。ちなみに漢字で書くと「瀬戸輪」だそうです。瀬戸(裏口)が語源で、狭い場所という意味も含まれています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは牛深漁港に停めました
 
崎津(さきつ)/天草市河浦町崎津 
 
   
▲古民家が点在しています  ▲崎津港から眺めた崎津教会 
隠れキリスタンの里
 羊角湾に臨む小さな漁師町です。入江に面したところに崎津教会の天主堂があり,重厚なゴシック建築です。永禄12年(1569)、ポルトガルの宣教師アルメイダがキリスト教を布教したところ。寛文9年(1669)には唐船の漂着に刺激され、通詞(つうじ)役人が置かれました。ここではいわゆる通訳と税関を兼任した役人のことです。また享保2年(1717)には、崎津湾入口突端に遠見番所を設置。それ以前は、山林の管理と税の取り立てを行う山方番役人がいたのみでした。時代は変わりつつあるようです。なお「隠れキリスタンの里」として知られています。
徴兵令反対の“血税一揆”が起こる
 明治6年、徴兵令に反対する血税一揆が起こり、今富村、小島にも広がって、約400人が副戸長以下、村史宅を急襲し打ち壊しました。しかしまもなく取締組の手によって鎮圧されました。
  
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光駐車場に停めました
 
富岡(とみおか)/苓北町富岡 
 
キリシタン一揆後の町
 キリシタン一揆のあとに城下町の整備が行われました。町並みはかつての商家,旅籠,町家など見られ,往時の面影を伝えています。富岡城跡は近年整備されており,大手門や石段などが見られます。
唐津藩藩主・寺沢広隆が「富岡」と命名?
 地名の富岡は、遠見丘の転訛で、もとは留岡と称したそうです。その後、寺沢広高が当地に城を築いたとき「富岡」と改めたといわれています。これも1つの説に過ぎません。寺沢広高は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。肥前国唐津藩・初代藩主でもありました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 海岸に無料駐車場があります
 
西松江城町(にしまつえじょうまち)/八代市西松江城町 
 
慶応元年築の武家屋敷
 江戸時代,八代(松江)城下町の西の一角に位置していたことが地名の由来。ココにはかつては外堀があったのですが,昭和12年(1937)に埋め立てられ、いまは水路のみが残っています。そしてこのあたりは西小路とよばれ,上級武士の武家屋敷が並んでいました。
市内でたった1つの江戸時代の建築物
 現在は八代市内で唯一現存する江戸時代の武家屋敷で,隣の長屋門とともに市の文化財に指定。慶応元年(1865)に上棟され,棟梁は内山健太という職人です。澤井家(写真)は室町時代から足利家に仕える家柄で,その後は細川家に仕え、数々の町の警備の役目を果たしていました。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは九州電気保安協会八代事業所に停めました
 
妙見(みょうけん)/八代市妙見町 
 
妙見宮の門前町
 「妙見さん」として親しまれる八代神社を中心に広がる門前町。祭礼時は多くの屋台などが出ますが,ふだんは静かな普通の町です。古民家も少なく,大部分が、改築、改造されています。ところで神幸行列は九州三大祭りの一つとか。
亀と蛇の合体動物「亀蛇(きだ)」がやってきた
 八代で最も大きな神社で市民に親しまれてきました。その歴史は古く、1300年以上前の飛鳥時代(680年)に竹原の津に鎮座したのが始まりとされています。その昔、妙見神が亀と蛇が合体した想像上の動物「亀蛇(きだ)」の背に乗って海を渡ってきたという言い伝えがあります。交易の盛んな土地柄を反映しているのでしょう。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは八代神社の駐車場に停めました
 
日奈久(ひなぐ)/八代市日奈久上西町 
 
熊本藩主や薩摩藩主も愛した温泉
 応永16年(1409)、海中から湧いているのが最初。以後、海岸から次々と温泉を発見します。江戸時代は熊本藩領。明暦2年(1656)藩主・細川綱利が藩営温泉の浴室が大改築され,以後温泉町として一段と賑わいました。藩主もたびたび入湯。文化・文政年間(1804-30)の全国温泉番付では前頭9枚目に登場したとか。また薩摩藩主は参勤交代時,海路できて日奈久港で上陸し,温泉を楽しんだそうです。
老舗の木造建築旅館は国の登録文化財
 町は細い路地が入り組んでおり,老舗旅館が並びます。登録文化財の金波楼は,県内最大級の木造建築です。山代旅館は,明治10年の営業記録があります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 
佐敷(さしき)/芦北町佐敷 
 
薩摩街道沿いの城下町
 肥後と薩摩を結ぶ薩摩街道の要衝の地で,佐敷城の城下町でもあります。古い町並みは佐敷川にかかる相逢橋から上町あたりまで300mの間に,白壁の土蔵造りの民家,商家などが点在しています。
「天下泰平國土安穏」の鬼瓦が出土
 佐敷城は海と山に囲まれた海城でしたが,江戸時代に開拓されて,陸続きになりました。この佐敷城から「天下泰平國土安隠」銘の鬼瓦(県重文)が出土しました。町のシンボルはこの鬼瓦を400倍した巨大なものです。地名の由来として「サシ」と「キ」はともに古代朝鮮語で城を意味するところから城郭を指すとか。詳細は不明。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 肥後銀行の駐車場に停めました
 
浜町(はままち)/水俣市浜町 
 
   
▲水路が街並みに彩りを添えています  ▲ 白壁のある古民家が目に付きます 
薩摩藩の宗教弾圧を逃れた領民が殺到
 江戸時代は熊本藩領。隣の薩摩藩では浄土真宗が禁制となり,多くの信者が熊本藩内に逃げ込んできました。特に隣り合わせの浜村(当時)は“抜け参り”が多く,そのため源光寺では薩摩部屋という特別な部屋を造って聴聞させたそうです。
蔵造りや真壁造りが多い
 幕末から明治にかけて海路を利用して米や特産の塩,林産物などを送り出す旧水俣川と旧荒切川の船着場を控え,多くの船で賑わいました。そのため旅館や商家などの町家が多く,蔵造りや真壁造りなどの古民家が多く見られます。
徳富蘇峰・蘆花兄弟の生家が残っています
 水俣市出身の徳富兄弟。兄の蘇峰は歴史家、ジャーナリストととして活躍。弟の蘆花は、小説『不如帰』の著者として有名です。兄弟が幼少時代を過ごした家(写真)を移築、復元しています。館内は蘇峰の遺品を展示。入館料は無料です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは熊本中央信用金庫駐車場に停めました
 
一勝地(いっしょうち)/球磨村一勝地 
 
   
▲急斜面に沿って道は続きます  ▲急斜面沿いは空き家も目に付きます 
   
▲受験生の神様一勝地阿蘇神社  ▲一勝地駅の入場券は受験生必携 
球磨川開削が人吉藩に利益をもたらします
 江戸時代初期,人吉潘は舟運を活発にするために,球磨川開削を始め,寛文4年(1664)に完工しました。このことで流通が一気に活発化し,人吉潘に大きな利便をもたらします。しかしながら当初は,一勝地近辺は激流のため,藩主も柳詰でいったん下船し陸行したのです。いま御仮屋跡が残っています。
峻な山裾に往時の面影が残ります
 以来,鉄道が開通するまでの260年間交通の幹線となりました。いま球磨川沿いの民家は真新しくなり,往時の面影はありません。しかし急峻な山沿いの狭い道を歩くと,石垣や垣根のある古民家が見られます。なお平日のみJR一勝地駅で「必勝お守り記念入場券」を販売しているそうです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは球磨川沿い観光用駐車場に停めました
 
鍛冶屋町(かじやまち)/人吉市鍛冶屋町 
 
   
▲看板がなければ落ち着いた街並みに  ▲古民家は飲食店や土産物店に変身  
城内各地から鍛冶職人を移住させられて形成
 人吉潘の城下町で,商人,職人等の町人たちは球磨川の北側に居住地を設定。職人町には大工町,鍛冶屋町,紺屋町が定められ,文禄3年(1594)に領内各地から鍛冶屋町には鍛冶職人が移住させられました。鍛冶職人は西同心鉄砲組とされ、東同心大工組とともに人吉藩の軍事力の一端を担いました。享保8年(1723)には、西同心鉄砲組59人が藩主の査閲(さえつ)を受けています。
城下町の風情が少し残るります
 鍛冶職人は鉄砲のほか、刀や農具、山用具なども造り、独特の刃物製造に従事していました。いま蔵造りの商家や板塀の古民家が点在しています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは札の辻駐車場に停めました
 
麓町(ふもとまち)/人吉市麓町 
 
上級武士の屋敷群と馬の調練場
 中世以来相良氏の居城・人吉城であった本丸西側の城内に位置し,高級武士の住む武家地でした。そして城下・人吉町の一部でした。江戸末期の『城下侍屋敷図』には、麓馬場と記されています。すなわち広大な馬場で馬の調練場でもあったようです。
落ち着いた町並みで散歩コースに
 いま古民家はわずかで,林鹿寺や茶屋が見られます。落ち着きのある町並みで、市民の散歩コースにもなっています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通
 クルマは札の辻駐車場に停めました 
一武(いちぶ)/錦町一武 
 
   
▲桑原家住宅/国の重要文化財・江戸後期築で、寄せ棟造りの茅葺き曲り屋です  
江戸の剣豪・丸目蔵人の隠棲地でした
 剣豪・上泉伊勢守四天王の一人で、タイ捨流(たいしゃりゅう)を考案した剣豪で、江戸初期の兵法家・丸目蔵人(まるめくらんど)の出身地でもあります。同門の柳生但馬守と天下一をかけて対決しようとしました。丸目は当地を隠棲地として、寛永6年(1629)90歳で亡くなりました。墓が残っています。
藩の弾圧から逃れ、隠れ真宗として生き延びました
 江戸時代は人吉藩でした。人吉藩は天文24年(1555)以来、浄土真宗を弾圧しましたが、信者たちは球磨川南岸の丘陵地に隠れ真宗として生き延びました。古民家は点在しています。
桑原家住宅は相良藩下級武士の家
 相良藩の下級武士の家といわれています。建築年代は江戸後期の文政年間(1818-30)とされ、熊本県南部に分布する伝統的な平屋の曲り屋です。内部は、あちこちに武家屋敷住宅らしい趣がくみとれ、後世の増築部分もあります。しかし主体部分は当初の部材も残されています。見学料は無料です。 
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
多良木(たらぎ)/多良木町多良木 
 
   
 ▲太田家住宅/国の重要文化財・江戸時代末期の寄せ棟造で茅葺きの曲り屋風 
まだまだ残る古民家
 この日は早朝から深いモヤが立ちこめていました。しかし意外に板壁の古民家が多いのに気がつきました。昭和初期の近代木造住宅が、まだまだ残っているのです。太田家住宅は江戸末期の建築ですが、藩の厳しい制限下で、鉤型(かぎがた)住宅になったそうです。屋根を折り曲げた型の民家では、発展した形態を示し、人吉・球磨地方の民家を代表しています。
新田村の年貢を引き上げて大騒動
 元禄・宝永年間(1688-1711)に開削された百太郎溝と幸野溝は、開削当初から多良木村に大きな恩恵をもたらしました。百太郎溝は字松下地区の球磨川ををせき止めて水を引き、幸野溝は百太郎溝の完成後、字中原地区を中心に333戸もの入植者を集めて新田村を形成。ところが藩は新田村なので低かった年貢を他村と同様に引き上げたのです。それに怒った新田村の住民が一騒動を起こしたというわけ。
 
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは太田家住宅駐車場に停めました
 
湯前(ゆのまえ)/湯前町湯前 
 
戦国時代からあった地名です
 こんなこじゃれた地名は最近のものかと思ったら、すでに戦国時代からあったそうです。「湯の前」は「イの前」という。すなわち「井の前」のことで、湧き水を中心に村落が形成された、という説。また縄文時代の遺跡が多数発見されており、出土品も膨大な数だとか。
湯前の歴史は急流・球磨川との戦いの歴史
 江戸時代は人吉藩。藩は水の確保のためにさらに用水路の開削、トンネルを掘るなどに力を入れました。湯前の歴史は、急流・球磨川との戦いの歴史でもあります。トンネルを掘ったり、峡谷を木材と石でせき止めたりしますが、何度も洪水で流されてしまいます。古城台地に掘られた給水トンネルは計3本で、計2400mに達し、何度も陥没に遭遇しながら完成させました。給水トンネルの長さは江戸時代では日本一といわれていました。以後、人吉藩はトンネルの維持管理に最大の配慮が行われました。以後、新田が開発され、村の石高も4000石を超え、人口も約2000人とかなり大きい。
風刺漫画の那須良輔氏の作品を収蔵するまんが美術館
 漫画家・那須良輔氏は、明治・大正・昭和に活躍した漫画家。特に戦後の似顔絵を用いた風刺漫画は人気で、毎日新聞に約40年にわたって長期連載を続けました。政界に対する強烈で皮肉なひとくち漫画に誰もが共感し納得しました。そんな那須の作品数万点を所蔵しています。「那須良輔風刺漫画大賞」など企画しています。
板壁の古民家も多く見られます
 こんな小さな町にも造り酒屋が2軒あります。また戦後の建物がほとんどですが、切妻型で妻入り板壁の古民家も多く見られます。
感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは湯前まんが美術館駐車場に停めました
 

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