高知県(こうちけん)

○鷹匠(たかじょう)/高知市鷹匠町 
 
   
▲旧山内家下屋敷長屋/16代藩主山内豊範が明治元年に建築。国の重要文化財 ▲鷹匠町からは高知城が望め、家臣達は天守閣を見ながら登城しました 
元々鷹の飼育・調教をする人たちが住んでいました
 江戸時代から現在に至る歴史のある町名です。元々は鷹の飼育・調教を仕事とする鷹匠が住んでいたことにが町名の由来。南側に鏡川が流れていますが、その北側にも幾つものの堀がありましたが、文久元年(1861)までに、すべてが埋め立てられ藩主・山内家の敷地となりました。いまでは城下町絵図でしか、往時を彷彿できません。
西郷隆盛と山内容堂の歴史的な会見場所
 ところで山内家下屋敷長屋は、大名の下屋敷の長屋としては全国的にも珍しく貴重な遺構となっています。またこの地は、幕末で重要な場所として後に知られるようになりました。すなわち、慶応3年(1867)、西郷隆盛が薩摩藩・島津久光の使者として、土佐藩前藩主・山内容堂に会見した所。隆盛は容堂に「上京して国事に奔走するように」と献言したそうです。
古建築の風情を残して改築、改装しています
  遠く高知城の天守閣が望める閑静なところです。比較的高級住宅地と言えます。いまは古建築の風情を残しつつ改築、改装されて住宅が見られます。やはり土地柄でしょうか。ただ歩いていて、それほど楽しい町並みではありません。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはコインパーキングに停めました
○北本町(きたほんまち)/高知市北本町 
 
保存運動の末13棟が残る
 将来高知市北部の中心地になるだろうと,旧市の中心地・本町に対して昭和11年(1936)に名付けられました。江の口川北岸は,比較的早くから開けていましたが,それでものどかな田園地帯でした。
アートセンターとして活用されています
 いま蛸蔵と名付けられていますが,かつては藁製品の備蓄販売用で「藁工倉庫」といいました。現在13棟が残されていますが,NPO法人など多くの団体の保存運動の結果です。アートセンターとして美術館,写真展示,映画,音楽演奏など幅広く利用されています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○玉水(たまみず)/高知市玉水町 
 
「玉水遊郭」の面影がそのまま残る
 江戸時代は高知城下の西の端にあたり出入口になっていました。またこの水路も城下町の用水路につながっていました。明治に入り,料亭や遊郭,劇場(高栄座)が建ち,玉水新地として賑わいました。貸し座敷は27軒、娼妓も200人を超えた時代もあったとか。このあたりは,地割りも昔のままで,旅館も幾分残っています。
マンション群が迫ってきます
 旧遊郭は市内の東側(稲荷新地)にもありましたが,戦災で焼失し,いまでは往時の面影を残すのは玉水だけとなりました。ただ電車通りからマンション群が迫っているのが気になります。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはスーパーマルエツの駐車場に停めました
 
 ○菜園場(さえんば)/高知市菜園場町
 
もとは土佐藩主専用の野菜の育成園
 江戸時代は高知城下の下町の一町。町名はもと藩主用の菜園所のあった所を意味しています。すなわち「さいえんば」が転訛して「さえんば」となりました。寛文9年の城下町絵図には「サエンバ町」の名が見えます。高知城下は“上町”と“下町”に分かれ、上町は藩士など特に上級武士が多く住んでいました。下町は下級武士や藩を支える商人、職人が住んでいたとされます。
“菜園”という名を号した田内真鉏
 菜園場町に住んでいた国学者で歌人の田内真鉏(たうちますき)は、江戸時代後期の歴史家で土佐藩士で中山厳水(なかやまげんすい)を師と仰いで和歌・国文に通じました。そして“菜園”という名を号したそうです。
裏道に古民家が残ります
 歩いていて古い町家が多く見かけます。というのも幸運にも戦災に遭うことがなかったからとか。「さえんば」商店街は歩道のみにアーケードがかかる小さな町並みです。また裏道に入りますと、廃屋や無人の住宅がポツンポツンとみられます。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは高知市文化プラザの駐車場に停めました
 
○一宮(いっく)/高知市一宮中町 
 
   
▲旧関川家住宅/文政2年(1819)の建築と推定。囲炉裏や土間には竃が残ります。式台もあり、郷士・豪農のたたずまいを見せています。国の重要文化財 
早くから開けた土地でした
 土佐国の一の宮である高賀茂神社(現・土佐神社)が祀られていたことによるそうで、土佐国で最も早くから開かれた土地であるとか。鎌倉時代は高尾神護寺領で高賀茂郷だったというが定かではありません。
寛政2年に“郷士”になった関川家
 慶長5年(1600)、土佐24万石の国主となった山内氏は、それまでの国主・長宗我部氏の家臣の勢力を無視することはできませんでした。そこで武士の身分を与えたりして“郷士制度”を作りました。関川家は織田信長の二子・信雄の家臣で徳川姓を名乗っていました。しかし将軍・徳川家と同姓であるのを遠慮して関川姓を名乗りました。寛政2年(1790)に分家筋にもかかわらず郷士となりました。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマはスーパーマルナカ一宮店の駐車場に停めました
 
○高岡(たかおか)/室戸市室戸岬町 
 
台風銀座の風よけ塀
 国道55号線を走っていますと,突然石塀が続きます。これは,風よけのために造られたものです。このあたりは台風銀座と呼ばれるくらい,台風の襲来の多いところで,家を守るための住民の知恵なのです。石塀やブロック塀,少なくなりつつありますが石垣もあります。
盛んな沿岸漁業
 もともと耕地の乏しいところで,沿岸の各集落は,江戸時代から漁業の盛んなところでしたが,高岡は狭い土地での農業と磯漁程度の産業でしたが,明治以降になって定置網,沿岸漁業が盛んになってきました。 
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは高岡漁港に停めました
 
○室津(むろつ)/室戸市室戸岬町 
 
四国霊場の25番札所・津照寺
 静かな漁村だと思っていましたら,たいへんな賑わいでした。それもそのはず,四国霊場25番札所の津照寺があり,その参拝客でした。小さな港町なのにクルマがあふれています。
 室津港は承平5年(935),紀貫之が寄港したとの説もあり,歴史のある港なのです。室津の古い町並みは,港周辺に広がっています。
水切りの付いた蔵造りや土佐漆喰
 蔵造りの商家も残っています。土佐造独特の水切り瓦や土佐漆喰も見られます。改造されている古民家も多いですが,まだまだ雰囲気があります。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは室津漁港に停めました
 
○元(もと)/室戸市元 
 
江戸時代は捕鯨の町でした
 ウミガメの産卵地として知られていますが,近年は激減しているようです。国道55号線に沿った小さな集落ですが,江戸時代は捕鯨基地でもありました。特に奥宮家は長宗我部氏の家臣団の一つでしたが,領主山内氏の懐柔策により郷士に取り立てられ,捕鯨の網元として成長し,元の発展の礎をつくったそうです。
●台風から家々を守る石垣
 さて町並みは台風銀座にあたることから,昔から石垣を積み上げて風よけとしていました。いまは所々に残る程度ですが,かなり立派な造りになっています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○吉良川(きらがわ)/室戸市吉良川町 
 
   
▲旧土佐街道沿いにも古民家  ▲丘地区は石積みの塀が続きます 
強風から家を守るため
 土佐くろしお鉄道の終点・奈半利(なはり)駅からバスに乗り換えてやってきました。バスから降りた瞬間、「う~ん、田舎にきたなあ」という感じです。この瞬間が好きなのです。吉良川の街は、山側の丘地区と海側の浜地区に別れています。観光駐車場(無料)は国道55線沿いにあります。
 とりあえず丘地区に入ります。石垣の続く民家が見えてきます。この石垣を「いしぐろ」といいます。強風から家を守るためのものです。室戸は台風銀座と言われるくらい、台風の通り道になっています。狭い道は軽自動車が通るのがやっと、というくらいの幅しかありません。もっと狭い道もあります。石垣が壊れたり、普通のブロック塀の民家もあります。たまに自転車に乗った住民があいさつをしながら通り過ぎます。ひと気のない、のんびりとした町で重要伝統的建造物群保存地区です。
蔵の庇がおもしろい
 
丘地区から下って、浜地区にもどります。国道55号線の一本中に入った道路沿いです。そこは旧土佐街道です。そして目につくのが豪華な蔵造りの民家です。
 このあたりは、明治から昭和初期まで大阪との取引が多く、物資の集積地でもありました。そのせいか富豪の商家が多かったのでしょう。それにしても蔵が変な形をしています。これは豪雨から白壁を守るために「水切り瓦」と「土佐漆喰」を仕込んだのです。そんな蔵が、通りのあちこちに建っています。
 ところで、ここは室戸の中心地から離れているせいか、食堂などの店が一軒もありませんでした。何も食べずに早朝に高知駅を出たので腹が減って気を失いそうでした。やっと小さな食料品店を見つけて、五目ご飯にありつけてホッとしました。 
感動度★★★★
 
もう一度行きたい度★★
 交通 土佐くろしお鉄道奈半利駅からバスで吉良川学校通り下車すぐ 
○甲浦(かんのうら)/東洋町甲浦 
 
土佐藩の出入口の拠点でした
 江戸時代は参勤交代の休憩所にも使われた町でもありました。というには、当地は陸路、海路ともに土佐への出入口にあたります。そのため施設も整備されており、藩主の宿舎・御殿、御座船格納の御座船家、御米蔵、御道具蔵など充実していました。灯明台も葛島に設置。浦奉行はもちろん番所も3カ所に設置されるなど、土佐藩に要のところでした。
葛島に置き去りにされた遊女が餓死…
 甲浦港の正面に葛島(かずらじま)があります。この島の伝説に、海の男に置き去りにされた遊女が餓死します。その後、海の男の家にたたりをなしたので、祠に祀られたといいいます。
●「ぶっちょう」造りが散見できます
 町は,「ぶっちょう」という,ひなたぼっこや魚介類を干したりする造りです。雨が降るとたためば雨戸にもなります。徳島県の椿泊,鞆浦のミセ造りと同様です。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは国道55号線沿いの無料駐車場に停めました
 
○奈半利(なはり)/奈半利町乙 
 
予想以上の古民家数に驚きました
 奈半利はごめん・なはり線の終点でもあるせいか,今回で3度目の訪問です。でも古い町並みがあるとは気がつきませんでした。
 ところが今回町を歩いてみると予想以上にレトロな民家が多く残っているのです。吉良川町でも見た土佐漆喰や石造りの壁,水切り瓦の土蔵(写真),レンガ造りの蔵など,たくさんあるので,実にうれしかったです。
古くから捕鯨で栄えました
 古くから捕鯨,製糸業で栄えた町だけに,規模の大きい立派な建物が多いのもうなずけます。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは奈半利町役場に停めました
 
○田野(たの)/田野町田野 
 
●豪商・岡御殿はいまは資料館
 藩主が東部巡視の折りに本陣として使われたのが岡御殿。もともと田野五人衆の一人,豪商・岡家の屋敷です。現在は資料館になっています。また,川沿いに建つ濱乃鶴酒造の倉庫も見応えがあります。
「異国船打払令」発布で3基の砲台を設置されたが……
 嘉永6年(1853)に郡奉行所が設置されました。そのなかで軍局が設けられ、2000人に及ぶ民兵を組織し奉行が統率しました。また数年に1度の藩主閲兵には、選抜部隊を編成。民兵の大きな任務は、海辺防備で、寛政の「異国船打払令」が出されてからいっそう厳しくなりました。田野には3カ所の砲台を設けられました。ところが明治元年の田野在番所廃止にともない砲台は不要となり、大砲は高地の金物問屋に払い下げられたそうです。
 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは田野駅横の無料駐車場に停めました
 
○安田(やすだ)/安田町安田 
 
高品質の地下水で酒造り
 鮎やアメゴの宝庫でもある安田川の流域に広がる町です。そんな安田川の恵みを生かした酒造りが昔から盛んでもありました。いまは川の水を使うことはありませんが,質の高い地下水は,酒造りに適していることはいうまでもありません。
酒造りに欠かせない土佐漆喰の白壁
 酒造りから湿気やほこりを遮断するのに効果が高いとされるのが土佐漆喰といわれる白壁です。また高知県の東部地方で見かける水切り瓦のある土蔵も多く,安田には伝統的な建物が,現在でもたくさん残っています。 
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは安田町役場の駐車場に停めました
 
○安芸(あき)/安芸市土居 
 
   
▲板塀と美しい植栽の組合わせ  ▲整然とした垣根は江戸時代から 
整然とした武家屋敷の塀
 2度目の訪問です。変わったところは,シンボル的な存在の畠中家の野良時計の前が,田んぼではなかったことでした。なにやら味気ない風景になりました。それはともかく,中世の時代から碁盤の目のような地割りで,江戸時代は土佐藩の安芸奉行が治めました。玉垣,竹,土塀などで屋敷を囲み,実に整然とした武家屋敷群を形成したのです。
農民のための野良時計
 野良時計は,明治20年(1887年)に当主が農民のために製作したそうとか。重要伝統的建造物群保存地区です
感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 土佐くろしお鉄道安芸駅から徒歩30分
 
○本町(ほんまち)/安芸市本町 
 
土佐街道沿いの漁村です
 国道55号線から海側に入ると古民家群の続く旧土佐街道があります。土佐藩主は海沿いを通り京・大坂に向かいました。江戸時代は安芸浦といい,沿岸漁業の盛んなところで,四季折々にいろいろな魚が獲れていました。そのせいか水主385人,廻船73隻,漁船13隻を保有する一大漁港でもありました。
●水切り瓦の蔵造り古民家が見られます
 古民家群は旧土佐街道沿いにあり,数軒続いたり,ポツンポツンと建っていたりと,結構おもしろい町並みです。水切り瓦の付いた蔵造りの商家が結構残っているのはうれしいものです。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは安芸商工会館の駐車場に停めました
○夜須(やす)/香南市夜須町坪井 
 
時代は東・土佐街道から北・土佐街道へ移ります
 高知城下から安芸郡甲浦を結ぶ街道を土佐東海道といいます。奈良時代の官道だったという説があるほど,重要な街道でした。藩主は参勤交代で甲浦まで行き,そこから海上ルートで大坂へ,陸上ルートなら阿波,大坂へ向かいました。しかし江戸期の半ばから,土佐北街道に代わり,土佐東海道は次第に衰退していくのです。
●商家もポツンと残る宿場町
 いずれにせよ夜須は宿場町で,馬継所でもありました。また近くにかなり大きな手結港もあって発展し,商家も数多くあったようです。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○赤岡(あかおか)/香南市赤岡町本町 
 
江戸後期から文人・学舎が多く輩出
 江戸時代後期,多くの文人・学者が輩出しました。なかでも教育行政,治水などに力を入れた酒造家・小松与右衛門(写真)の活躍には目を見張るものがあります。私塾「琴月堂」を開きます。『土佐日記』に見える宇多の松原を保存するために松苗を植えた書家・細木鶯仙、俳人・梅弘梅左、画家・橋本小霞らが輩出しました。幕末には独自の画風で知られた絵師・弘瀬給金が在住し、須留田八幡宮に芝居絵を奉納。
一度は取り壊しの運命をたどった赤レンガ商家
 初代村長・小松与右衛門宅がいわゆる赤レンガ商家です。一度は取り壊しが決まったのですが、多くの人たちの力でその姿が残りました。いまは「すてきなまち・赤岡プロジェクト」として、活用されています。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは四国銀行赤岡支店に停めました
 
○土佐山田(とさやまだ)/香美市土佐山田町西本町 
 
中継河川港で物資の集散地
 藩主・山内一豊氏は新田開発政策を積極的に行いました。奉行の野中兼山が用水路を整備するために,物部川に山田堰を築いたのもその一つ。また物部川の上流域と高知城下を結ぶ水運の中継河川港であったことから物資の集散地としても発展しました。
土佐地方独特の蔵が目印
 古い町並みがあるのは,土佐中街道で,土佐山田を起点に富岡(現徳島県阿南市)までで,国道195号線とほぼ一致します。JR土佐山田駅からすぐのところで,土佐漆喰に水切り瓦のある独特の土蔵が目印です。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 

                                                                           ▲ページの先頭にもどる

 ○伊野(いの)/いの町幸町
 
土佐和紙の発祥地
 いの町紙の博物館がありました。そこでわかったのは、伊野は土佐和紙発祥の地だ、ということでした。で、この周辺に古い建物が散在しています。紙問屋さんのなごりかも知れません。
蔵造りの商家が目立ちます
 伊野は仁淀川という水運を利用して、京阪神への出荷も多かったのでしょう。ただ古い家屋が何十mもつがっているわけではありません。だから街並みという感じではありませんが、それなりに落ち着いた町でした。
防火壁(設備)を施した蔵造りの商家が目につきます。造り酒屋もありました。 
動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR土讃線伊野駅から徒歩10~15分
 
 ○日比原(ひびはら)/いの町清水下分
 
   
▲古民家は旧道沿いに連なります   ▲枝川川沿いに建物がギッシリ
中世は「ヒゝ原村」として明記されています
 室町時代から続く集落です。天正18年(1590)の『後山小川村地検帳』に清水村分として18の小村が書かれていますが、そのうちの1つ「ヒゝ原村10筆」として明記されています。ところで地名の由来は、日比原には千手観音が安置されているので、京都清水千手観音にちなんだとか。また清らかな湧水があったからとか定かではありません。
木材搬出の要衝でもありました
 江戸時代はもちろん土佐藩領。村高は清水郷として300石前後とわずかです。やはり山間の集落だけに耕地は乏しく、農作物の収穫は少ないといえます。主な産業は林業で、日比原は木材の搬出の要衝でもあります。特に枝川川を利用した筏による搬出は明治に入っても続きました。そのためか日比原には多くの商人が集まり、旅館をはじめ各種商店が軒を連ねました。いま歩きますと、川沿いに旧商店街がそのまま残されており、往時の賑やかさを感じさせてくれます。なお清水村は昭和31年に清水上分と清水下分に分離しました。
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました
 
○高岡(たかおか)/土佐市高岡町甲 
 
中村街道沿いの集落で仁淀川の河川港
 江戸時代,高知城下と中村を結ぶ中村街道沿いの集落で,馬継場でした。最も奈良時代の官道だったという説もあります。さらに南北の仁淀川を利用した水運の中継地でもありました。そのため村内の商家に繁栄をもたらし,野田屋,白石屋などの屋号を持った豪商が次々と誕生しました。商品は,伝統の紙,鋳物,農具のほか酒,醤油,日用雑貨など多岐にわたり,賑やかさが想像できます。
●蔵造りの商家が見られます
 いま町を歩いていますと,蔵造りの商家を見ることができ,往時を彷彿させます。
 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
 ○宇佐(うさ)/土佐市宇佐町宇佐
 
   
▲庇の独特のカーブが特徴です ▲平入りの町家が連なります 
廻船やカツオ漁、水産加工で巨万の富をなした中野家
 江戸時代は土佐藩領。宇佐村は“村方”と“浦方”にほぼ二分されます。ただ宇佐を語るときは、やはり漁業などの海での活躍を欠かせません。特に廻船業が盛んで、四枚帆(50石以上)の船もあり、大阪・堺方面、下関、長崎方面へと交易をしました。そのため財を成した者も多かったのです。なかでも中野家は廻船からカツオ漁、水産加工、酒造など幅広く事業を興し、巨万の富をなしました。さらに藩に融資をするなどして、藩から褒賞を受けています。
漁船で遭難しアメリカから生還する中浜万次郎
 もちろん漁業も盛んで、漁船に乗って遭難し、遠くアメリカ合衆国にわたって生還した者まで登場します。中浜万次郎や筆之丞も宇佐に関係します。彼らは幕末に海外事情をもたらして、多くの日本人を驚かせました。また カツオ節の伝授を受け、さらに改良して“土佐鰹節”の名声を挙げた播磨屋亀蔵・佐之助も当地の人でした。
商家・町家などが軒を並べます
 商家・町家が中心で、切妻型で平入りの家屋が連なります。ただ、地震や津波などのよる災害が多いのも事実です。そのため江戸時代から防潮堤や火除けの広小路を設けるなど、災害の強い町づくりへと発展します。 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
○洲崎(すさき)/須崎市東古市町 
 
土蔵造りが見られます
 戦国時代以後は津野荘など山間部の物資の積出港として発展。また高知県屈指のカツオ漁港でもありました。市内にはカツオ節を作る老舗もあり,土蔵造りの商家も多く残ります。
未開拓の土地に年貢が課せられる不公平
 洲崎は水利の便が悪く、未開拓の地もたくさん残っていました。そこで伊予国から転入し開発に従事する人がいました。また井関、水路に関して、隣村・大宮村では溝床は損床として免税されるのに、洲崎では同じ損床なのに年貢が課せられるという不公平が生じ、作事奉行に訴訟するという自体が発生しています。
洲崎には町医者がいました
 また元治年間(1864-65)から地下(じげ)医師が在住していましたが、近隣の諸村では地下医師はみられません。地下医師とは藩医に対して町医や村医を指します。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは高知信用金庫須崎支店の駐車場に停めました
 
○佐川(さかわ)/佐川町甲 
 
   
▲銘酒『司牡丹』の酒蔵が見られる  ▲黒板塀のある旧家も残ります 
勤王の志士を輩出した郷校・名教館
 江戸時代,土佐藩筆頭家老・深尾氏の支配地。深尾氏は文教政策に力を入れ,6代の重澄は郷校・名教館(めいこうかん)を創設,幕末に数多くの優秀な人材を輩出しました。名教館の講義は、算数、武術、兵学、茶道、書道、文学まで多岐にわたる内容で、当時の土佐藩内の郷校ではトップクラスでした。その後、明治維新では多くの勤王の志士を輩出しますが、その後の学制にともない廃止されました。
●酒蔵の白壁が続く
 また佐川盆地は良質の米がとれる所。そのため酒造りも盛んで,『司牡丹』はこの地で誕生。酒蔵の白壁が続きます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは高知銀行佐川支店に停めました
 
○越知(おち)/越知町越知甲 
 
筆頭家老・深尾氏の政策で、不便を強いられます
 江戸時代は土佐藩領。土佐藩筆頭家老・深尾氏が隣接の佐川村に入部。以後発展します。ところが、深尾氏は佐川本村以外での商工業を禁止! そのため越知村は仁淀川の水運によるほかは、2~3軒の日用品店と魚介類の行商のみで住民は不便を強いられました。渡しは三尾の渡し(下渡し)といわれ、領主の番所をはじめ船倉もありました。のちに幾つかの渡しもでき、一般住民利用できる大小の荷船が登場します。
明治に入ると町は一気に発展します
 明治に入って状況は一変します。明治4年に高知県に所属。江戸期に禁止されていました商売が解禁され、高知市内から酒店に続いて雑貨商が参入。それをきっかけに内外の商人が殺到します。明治12年には商家が軒を連ね、以後、毎年10数軒の各種商店の増加をみ“新興越知町街”を形成するに至ります。おかげで隣村の佐川村は衰退するばかりでした。
山中に商家がギッシリ詰まった光景に驚きました
 越知甲は越知町の中心市街地で10区に区割りされています。古民家は町道(旧国道)沿いに広がり、旧商家などが見られます。もちろん改築、改修された町家、新築の商家などが旧道沿いにギッシリ連なります。こんな山のなかに町家がギッシリ詰まっている光景に驚きました。ひと昔はかなり賑わったのでしょう。
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは越知町役場の駐車場に停めました
 
○池川(いけがわ)/仁淀川町土居甲 
 
松山街道の小さな集落でした
 急峻な山腹の傾斜地を開いた地で、松山街道沿いの集落でもあります。また地名は相模国・鎌倉から移り住んだ安部一族の初代が池川隼人祐光重と名乗ったことにちなむとか。江戸時代は土佐藩領。池川は和紙の原料となる楮(こうぞ)の生産が多く、和紙の生産も広がります。これが後に大騒動となるのです。
隣の藩への逃亡など“池川紙一揆”の大騒動
 土佐藩家老で儒学者の野中兼山が指定問屋による和紙の専売制を敷きます。藩へ納める御用紙以外は伊予松山藩などの商人に売り、百姓たちの生計の足しにしていました。ところが藩は財政窮迫の救済策として紙業を独占し、生産を強いました。過酷な生産の割り当ては、折からの天明の飢饉と重なり、池川村など周辺の村々の百姓たちが合流し、総勢711人が隣の伊予松山藩に逃亡。さらに土佐藩内各所で触発された百姓たちの一揆騒動が起こります。結局、首謀者は死罪になりますが、藩の独占はなくなり和紙の販売は自由販売となり、民間紙業は大きく発展するのです。
幕末期、土佐藩士の脱藩の重要な街道と中継点
 高知城下から伊予松山への最短距離の街道の中間点が池川です。そのため幕末の混乱期になると脱藩する武士たちの往来が頻繁になりました。天保2年(1831)、土佐藩士勤王派・中島与一郎が松山街道の水の峠付近で追撃を受けて憤死。もちろん脱藩に成功した者も多かったようです。後に松山街道は、松山攻略には軍を進める重要な街道となります。
2階家が連なり往時の繁栄を彷彿させます
 明治20年代から役場が設置され、官公庁、学校ができ、さらに商店街が形成されました。いま歩いていますと、商店がギッシリと詰まった町並みを彷彿させます。物資集散の中心地もいまは過疎化が進みます。人影もなく2階建て木造の家屋が連なるのみです。   
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは池川総合支所の駐車場に停めました
○口目ケ市(くちめがいち)/津野町芳生野丙 
 
   
▲五籐家住宅・馬屋(往診用)   ▲厩の1階の倉庫にあたります
急斜面に建つ石垣の里
 江戸時代は土佐藩領。歴代藩主・山内氏の藩政は厳しいものであったそうです。家屋は急斜面に建ち,石垣を築いているのが特徴。板張りの古民家が多く,そのことから口目ヶ市は国の重要文化的景観に指定されています。
医師・五藤最(まもる)は馬に乗って往診しました
 五藤家は江戸時代中期より代々この地で医業を行っていました。8代目の五藤最(まもる)は、明治11年(1878)に生まれ、医学博士になり、愛媛、兵庫で医院を開業。同時に軍医、警察医としても活躍し、晩年は故郷の口目ヶ市で開業しました。馬を地域の往診のために活用するために、明治23年(1890)に馬屋を建築しています。住宅は、それ以前の江戸時代後期にすでに建てられていました。五藤家の残された建物は主屋、納屋、厩(うまや)で構成されています。
厩は2階建てで、2階が厩、1階は倉庫になっています。 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 
○船戸(ふなと)/津野町船戸 
 
わずかな古民家
 「四万十川源流のまち」の幟がいたるところではためいています。まさに源流域の山間部に位置します。集落を国道197号が貫き,わずかな平坦地に古民家が点在しますが,ほとんど戦後の建物です。
中世は土豪・戸田氏一族の百姓地
 古くは舟戸とも書きました。土豪・戸田氏は、永正8年(1511)ごろ戸田采女助が津野元実の招きにより入植、開拓しました。その後津野氏の家臣として活躍しました。中世はほぼ戸田氏一族の扣地(ひかえち)であったそうです。扣地とは百姓地を指し、控地とも書きます。  
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 
○久礼(くれ)/中土佐町久礼 
 
   
▲酒蔵ギャラリー(西岡酒造店)  ▲久礼大正町市場 
陸上、海上、河川交通の結節点でした。
 歴史のある町です。中世は九条家領(荘園)で津野氏らと共に南北朝時代は北朝に属していました。そのころから陸上,河川,海上交通の結節点,重要な位置にありました。そのため,浦方,村方にそれぞれ庄屋を置いて影響力を強めました。魚介類,畑作物,林業と実にバランスのいい経済を構成していたわけです。
蔵造り商家が往時を彷彿
 特にカツオ漁はずば抜けており,漁船100隻のうち50隻がカツオ船というくらい盛んでした。

 町のなかを歩くと,至るところに蔵造りの商家があり,かつての賑わいぶりを思わせます。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマはスーパーマルナカ久礼店の駐車場に停めました
 
○興津(おきつ)/四万十町興津 
 
理にかなった竹垣
 地元で獲れた竹を植栽して塀の代わりにするというのは,全国各地で見られる光景です。しかし,いつのまにかブロック塀に変わるのがほとんどですが,この興津は,珍しく集落全体で竹の生け垣が見られます。土用竹と呼ばれており,高さ1m70㎝程に切りそろえ,横には太い竹竿を通して支えます。竹垣は町並みが落ち着いて見え,なおかつ清潔に感じられます。
気候風土に合った竹垣
 夏の暑さ,台風時の風よけなど高知県の気候風土に合っているのです。ただ興津もブロック塀が増えて来たのも事実。
 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
○窪川(くぼかわ)/四万十町本町 
 
蔵四国霊場37番札所・岩本寺の門前町
 窪川というのは旧町名で,このあたりは旧窪川町窪川といい,駅名などに残っています。また四国霊場37番札所・岩本寺のある町でもあります。今から数十年前、岩本寺に宿泊したことがあります。
土佐藩の新規郷士取り立てで開発が進む
 戦国時代は津野氏と一条氏に挟まれ苦しい立場に立たされていました。しかし江戸期に山内一豊の支配下となり開発が進みました。その後窪川山内氏の断絶で,一時期荒廃しましたが,潘の好条件による新規の郷士取り立てにより復興。
街道の分岐点で交通の要衝
 また中村街道と宇和島街道の分岐点で,交通の要衝となりました。いま国道の裏手に,蔵造りの古民家が残されています。
 
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはプラザ高南の駐車場に停めました
 
○大谷(おおたに)/土佐清水市大谷 
 
藩の政策で困窮度が増し、新たに開拓した所
 土佐藩は足摺山金剛福寺の石高をかつての20分の1程度の100石にまで減らしました。生活に窮した寺衆たちは,寺領内の丘陵地帯を開拓,その結果大谷村が誕生したのです。寛保3年(1743)に人口は73人,12軒だったそうです。
椿の防風林が清潔感のある美しい光景
 台風銀座にあたるところから防風林は必要で,生け垣として軒の高さまでの野生の椿を植えました。新田開発当時の樹齢250年以上の椿も元気に生存しているそうです。いま歩いて見て,清潔感のあるとても美しい村であることがわかります。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
○松尾(まつお)/土佐清水市松尾 
 
   
▲吉福家住宅(国の重要文化財)/廻船商人の繁栄と生活を伝える建築物です 
急斜面に立つ石垣の里
 江戸初期から紀州の漁船群がやってきて根を下ろしました。そのため漁業法も進化し,たいへんな発展を遂げました。いまは県道にへの取り付け道路のない地域は廃屋が多く,道路のある地域とは大きな差。地名の松尾は、鰹の古称でもあるマツウオ(松魚)に由来するといわれています。
紀州からの出稼ぎ漁師が一躍廻船商人に
 吉福家は紀州の印南(いなみ)浦からやってきた出稼ぎ漁民と推察されています。初代・吉福嘉太郎(1832-84)は、松浦湾の有力商人・俵屋栄之助が逝去したことをきっかけに独立して吉福屋を立ち上げました。47歳のとき日向国・細島浦から玄米300石を持ち帰りました。米の不作だったこともあり、高値で飛ぶように売れました。このときの利益が吉福屋の資産の元手となりました。 
感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは吉福家住宅の駐車場に停めました
 
○柏島(かしわじま)/大月町柏島 
 
板の塀や壁を張り巡らす
 大月半島の先端に位置する周囲4kmほどの小さな島です。昭和42年(1967),柏島橋の完成でバスが島内まで運行され,一気に便利になりました。集落は漁村らしく板で張り巡らした民家が多く,海の香りがしました。しかし廃屋や空き地も目に付きました。
ここにも「かんざしを買った坊さん」の墓があります
 江戸時代,異国船が通過するというので,土佐藩の遠見番所,火立塔を設置,幕末には烽火場,大砲も置かれました。ところで護念寺には土佐の民謡・よさこい節で歌われている「かんざしを買った坊さん」に歌われた破戒僧・慶全の墓があります。ただ一般的には純信のことだとされていますが。  
感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 


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