葛飾区

 柴又(しばまた)/葛飾区柴又
 帝釈天参道
 映画「男はつらいよ」の舞台。明治中期の建築です  柴又
 ▲高木屋老舗/明治中期の建築 ▲川千家/江戸時代末期築 
   柴又界隈では最も古い建物
 ▲ゑびす家/大正初期の建築  ▲い志ゐ/江戸時代後期の建築
   
 ▲園田神仏具/明治後期の建築  ▲松屋の飴/大正後期の建築
   柴又帝釈天の境内/二天門は明治29年築
 ▲山本亭・和館/大正5年築 ▲題経寺(毘沙門天)/厄除招福
   
▲駅前に立つ寅さん像とさくら像(手前) ▲年末年始はたいへんな混雑ブリ 
   
▲良観寺(宝袋尊)/すべてを包容 ▲真勝院(弁財天)/知恵と財宝 
   
▲万福寺(福禄寿)/幸福・高禄・長寿  ▲宝生院(大黑天)/出世と財福 
   
▲観蔵寺(寿老人)/長寿延命  ▲医王寺(恵比寿天)/商売繁盛 
 矢切の渡し  
▲歌にもなった矢切の渡し/最近は対岸(松戸市)で降りないで、周回するとか
柴又帝釈天は午前中
  ご存じ映画『男はつらいよ』の舞台となった柴又帝釈天です。寅さんを永年演じ続けた渥美清さんが亡くなってからは、やはり訪れる人が少なくなってきているそうです。それでも都内でも有数の人気観光地であることには変わりません。浅草寺もそうですが、混むのは午後の早い時間です。参拝するなら午前中がいちばんです。朝7時に着きましたが、それでも多くの参拝客がいました。
江戸の建物もチラホラ
 奈良の正倉院に保管されている戸籍に「嶋俣」(しままた)と記載されています。柴又となったのは,江戸時代以降です。
 
さて民家のほとんどは戦後のもので、比較的古いなあ、というのが6軒ほど。門前町でよく見られる瓦葺き2階家です。特に創業250年の「川千家」は江戸末期の建物をさらに改修したようです。映画の舞台となった草だんご「高木屋老舗」は一部明治時代中期の造り。「い志ゐ」は最も古く江戸後期。といってもほとんどが改築、改装されています。なお平成30年(2018)に文化庁の「重要文化的景観」に指定されました。
記念館や銅像もあり
 近くには「葛飾柴又寅さん記念館」があり、寅さんグッズ、映画のセットなど、映画を体感できます。また柴又駅前には寅さんと妹さくらの銅像が立っています。
柴又七福神めぐりは戦前にできました
 七福神の起源は中国に求められ、日本では室町時代にそれぞれの神さまが信仰の対象になったとか。江戸時代後期の文化文政のころ、文化人や風流人がいろいろな社寺を組合せを楽しんだとか。柴又七福神は1932年(昭和7年)に始まったそうです。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京成金町線柴又駅から徒歩5分
 立石(たていし)/葛飾区立石
 呑んべ横丁(立石7丁目)
   
▲駅北口の「せんべろの聖地」は2023年8月末日に立ち退き完了。跡地には再開発ビルとタワーマンションが2028年竣工予定とか
 立石仲見世の木造アーケードは文化財級  立石1丁目(仲見世内)
▲木造アーケードは文化財級です   ▲ラーメン(500円/鳳龍)
消えゆく戦後のおもかげ
 昼間というのに,一歩踏み入れると薄暗く,目が慣れるのにやや時間がかかりました。飲んべ横丁(写真上))は京成の線路際にある,戦後のバラック建てをそのままにした飲み屋街です。まだ東京もこんな町並みが残っていたのです。
 一方,立石仲見世は戦後の闇市のあとにできた商店街です。アーケードは昭和32年に完成,木造のアーケードは文化財級です。そして「小浅草」を目指したとか。しかしいずれも葛飾区の区画整理事業で,消えていく運命にあります。
ハイボールともつ焼き
 立石の名物にもつ焼きがあります。これは大正年間の荒川放水路開削に伴い,朝鮮半島からきた朝鮮人労働者が,その後住み着き、好んで食べたからだとか。焼酎割りのハイボールも名物です。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★
 交通 京成線京成立石駅から徒歩2分
 堀切(ほりきり)/葛飾区堀切2丁目
 堀切
 葛飾区の発行するパンフレットに大正時代風とあります。実際は戦前の昭和初期かもしれません。トイレは共同です。このあたりでは珍しい近代建築  堀切菖蒲園/入園は無料です
 ▲大正時代風のアパート・泉荘  ▲堀切菖蒲園/江戸末期から続く
堀切菖蒲園の町
 なんといっても「堀切菖蒲園」の存在で知られた所です。江戸時代末期に菖蒲園として小高園が開園。その後武藏園,吉野園,堀切園,観花園などが続いて開園しました。昭和35年に都立公園として開園し,昭和50年に葛飾区へ移管されました。なお花菖蒲の伝来は室町時代だとか。
近代木造建築が1軒
 今から7~800年前の葛西氏所領のころから堀切と呼ばれていた歴史のある町です。古民家はなく,往時の面影はありません。大正時代(?)風のアパートを撮る人が絶えないようです。丸い窓や窓枠のデザインなどがレトロ感満載というわけでしょうか。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 京成線堀切菖蒲園駅から徒歩15分
 
 小菅(こすげ)/葛飾区小菅1丁目
 水戸佐倉街道
 街道沿いのレンガ蔵/地元の人は,この蔵を撮りに来る人が多いという  
 ▲レンガ蔵/周辺は昔レンガの生産地  ▲幾多のドラマを生んだ東京拘置所
東京拘置所に出入りする著名人がニュースで流れます
 いま小菅といえば東京拘置所で有名です。著名人が拘置所の出入りで、ニュース映像にしばしば登場します。しかし陸運(水戸佐倉道),水運(綾瀬・隅田川)の要地でもありました。そのためか幕府官有地が多かったのです。小菅御殿や明治になって小菅県庁が置かれるなど,近世から近代初頭にかけて,歴史の表舞台にしばしば立ちました。
将軍・吉宗の命で「小菅御殿」が造られました
 関東郡代・伊奈氏が三代将軍・家光から下屋敷を賜り、将軍家の鷹狩りの際の休息用に利用されました。さらに吉宗の命により敷地内に御殿が新造されます。しかし寛保元年(1741)に焼失しましたが、まもなく再建され「小菅御殿」と称されました。
激変する景観
 しかし大正時代の荒川放水路の開削,昭和時代の首都高速道路の建設で,小菅の景観は激変しました。いまは街道沿いに蔵など,わずかな古民家が残り,往時を彷彿させます。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東武スカイツリーライン小菅駅から徒歩5分
 亀有(かめあり)/葛飾区亀有3丁目
 昭和の香り
もともとは亀無(かめなし)でした
 もともと「亀無」という地名で,「亀」は亀の背のような土地の高まりを表しており,「なし」は否定の意味ではなく肯定の「なす」から転訛。このあたりは多くの川の土砂が堆積する所で「亀のような丘」をさしました。しかし江戸時代,「かめなし」の「なし」を忌み嫌って「亀有」にしたとか。
昭和の香り・亀有食品市場
 東京でも代表的な下町風情が残る町。戦後の進駐軍兵士相手の特飲街と共に周辺にヤミ市が登場。しかし昭和33年3月の売春防止法の公布で特飲街は消えました。亀有食品市場はその当時の名残りです。木造2階家がギッシリ詰まる、まさに昭和の香りのする商店街です。
亀有の名を全国銘柄にした“こち亀”
 とはいうものの、亀有の名を全国に広めたのは「こち亀」の愛称で知られたコミック『こちら葛飾区亀有公園前派出所』です。映画やアニメ、舞台など、数々のメディアに登場しています。「最も発行部数が多い、単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定されています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR常磐線亀有駅から徒歩7分
 新宿(にいじゅく)/葛飾区新宿2丁目
 新宿(中宿)
戦国時代からの宿場町
 前々から気になっている宿場町です。戦国時代から続く宿場町で,当初は葛西新宿と呼ばれたそうです。江戸時代に入って,水戸佐倉道の宿場町として栄えました。金町(かなまち)を抜けて水戸方面に連絡する水戸道,そして小岩を抜けて佐倉方面に連絡する佐倉道とに分岐。このように交通の要所で,上宿,中宿,下宿と分かれていたくらいです。
江戸時代からの寺院が残ります
 いまは,通りの裏手に少しの古民家が残る程度で,往時の面影は見られません。また江戸時代からの幾つかの寺院が残っています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR常磐線金町駅からバスで新宿一里塚で下車すぐ
 水元(みずもと)/葛飾区東水元
 水元の集落/大型の家屋が多い
 旧岩槻街道  
 ▲旧岩槻街道/この辺り旧家が多い  ▲旧水元尋常高等小学校/大正14年
   
 ▲しばられ地蔵/縄1本100円です  ▲水元公園/都内最大の親水公園
明治22年に水元村が誕生しました
 水元は小合溜井(こあいためい)からきており,江戸時代,小合地区に水害を防ぐために遊水池を設けて溜井を設置,これが水の元となったと言われています。そしてそばを日光御成街道が通るのですが,岩槻潘が参勤交代に利用したことから,このあたりを岩槻街道とも言いました。旧岩槻街道が水元公園の周囲に沿って通っています。明治22年に水元村が誕生しました。
旧岩槻街道沿いの農村
 農村集落であったため,このあたりは1戸あたりの敷地は広く,美しい植栽や石垣を巡らした旧家の多いのが特徴。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR常磐線金町駅からバスで水元小学校前で下車すぐ
 東金町(ひがしかなまち)/葛飾区東金町
 
長崎奉行・松浦信正直系の子孫が住んでおられます
 江戸時代の葛飾区は幕府領が多いなかで、この辺りの下小合村(しもこあいむら)は旗本領でした。寛文6年(1666)に松浦信貞が1500石を加増され、下小合村を含め広大な知行地となります。この松浦信正の子の信方に家督を継いだ弟が後の長崎奉行・松浦信正なのです。貞林院瑞正寺には信正の坐像、位牌などが残されています。この松浦信正直系の子孫が、いまでも町内に住まわれています。
●かつての旧家が点在しています
 歴史のある町ですが、東部には江戸川と平行して旧水戸街道が通じています。いまは街道の面影は見られませんが、水元公園に隣接するあたりに大きな旧家が点在しています。かなりの豪農らしく蔵も残されており、屋敷の大きさや土地の広さに圧倒されます。江戸時代の初期、幕府は積極的に新田開発を推し進めた結果、農村地帯として発展していったのです。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR総武線金町駅からバスで東金町地区センター入口下車徒歩10分
 新小岩(しんこいわ)/葛飾区新小岩 
 和風旅館が残っていました
   
 ▲2階部分旧カフェの面影  ▲カフェを思わせる建物も健在
区内では高砂駅に次いで乗降客の多い新小岩駅
 昭和3年,先に出来た小岩駅と区別するために“新”小岩駅とし,変遷を経て駅名を地名としました。区内では京成・高砂駅にについで利用者が多いそうです。
●旧遊里の面影が残る
 一方,下町の労働者を吸収する形で,遊里が発展します。かつて永井荷風が通い詰めたという伝説が残ります。「駅を出て、風に吹かれて数分、ちょっと蚊の多いのが難点」。貸し座敷77軒、娼妓200人という。いま歩くとそこかしこに,往時の建物が見られます。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR総武線新小岩駅から徒歩8分
 倉(かまくら)/葛飾区鎌倉
 
   
 ▲鎌倉八幡神社/寛永年間に創設  ▲輪福寺/吉宗の鷹狩りの休息所
八幡神社近辺に古民家
 地名の由来は、相模国鎌倉郡から源右衛門がやってきてこの地を開拓したという説。また鎌倉八幡宮のご神体をこの地に移したからという説。さらに北葛飾郡(埼玉県)鎌倉村の飛び地だったという説などいろいろ。しかし江戸時代初期には、鎌倉新田という地名が見られるから、それなりの歴史ある集落です。
一部では曼荼羅の地名が残ります
 鎌倉の俗称に曼荼羅(まんだら)という地名が残ります。現在の鎌倉1丁目から3丁目の通称として呼ばれています。天祖神社(高砂2丁目)の棟札に「曼荼羅村」の墨書が見られます。一部の古老の間で「おまんだら」と呼ぶようです。
鎌倉八幡神社近辺に古民家が見られます
 京成小岩駅を出て柴又街道沿いやかなえ通りを歩きますと、意外に多くの社寺や史跡にぶつかります。葛飾区も“歴史散歩道”を設定しています。古民家は鎌倉八幡神社近辺でいくつか見られる程度です。
  感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 京成電鉄京成小岩駅から徒歩15分

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