交野市(かたのし)

 ○私市(きさいち)/交野市私市
 
   
▲意外に交通量が多いので、のんびり歩けません  ▲ 板塀や白壁が続きますが、道は狭く風情があります 
『日本書紀』にも登場する
 この私市にも古い町並みがあったとは驚きでした。どちらかといえば,大阪市内への通勤客の多い郊外住宅街だけだと思っていたからです。私市は『日本書紀』にも出てくる歴史のあるところだから,当たり前といえば当たり前か。
河内地方でよく見られる町並み
 地域の中心地には奈良からの磐船街道が走っており,天野川沿いに開けた集落が発展しました。道幅は狭く,静かな町並みを形成しています。白壁と板塀の古民家は,河内地方ならよく見られる光景です。だから大阪にも古い町並みが多いのです。

 地名の由来は、私部(きさべ)市の略で、皇后領であったことを意味するそうです。それと難読地名の一つです。  
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 京阪電車交野線河内森駅から徒歩8分
 ○私部(きさべ)/交野市私部 
 
   
▲山野酒造/昭和2年創業  ▲北田家住宅/国の重要文化財  
大庄屋、豪農の屋敷
 江戸時代、京と大坂の中間にあり、枚方宿にも近いせいか、農業の生産性が高く、さらにムギ、タバコなどの換金作物も栽培されていました。しかし丘陵地であったことから井戸とため池が重要な用水源。江戸時代を通じて水争いが頻発したそうです。それはともかく、豪農が誕生したことも事実。また武士がそのまま大庄屋になることもあったようです。
旧豪農を思わせる屋敷が見られます
 京阪交野市駅の東側は旧集落が広がります。一歩裏手に回わりますと、路地が張り巡らされ、豪農らしき屋敷が見られます。板塀、土塀、白壁が続き、風情のある町並みを形成。
 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 京阪電車交野市駅から徒歩20分
 
 ○寺(てら)/交野市寺
 
   
 ▲ 山添家住宅/国の重要文化財 ▲路地のような迷路です 
丘陵上の集落
 素朴な地名ですが、寺院名は諸説あるようですが、はっきりわかっていません。いずれにせよ室町時代から“寺”が見られます。江戸時代は山城藩領、幕府領、上野沼田藩領、京都守護職など領主が絶えず変遷。丘陵上にある集落で、村高は350石弱。
板壁や板塀の続く迷路が往時をしのばせます
 集落内に足を踏み入れますと、板壁、腰板塀などの続く、迷路のごとく狭い道が見られます。強固な石積み、羽目板張り、往時の面影が見られます。
 
感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 京阪交野線河内森駅から徒歩20分
 
○倉治(くらじ) /交野市倉治
 
長屋門、茅葺きなど散見
 江戸時代は幕府領、旗本領と変遷。京街道の枚方宿に助郷として出役していました。迷路のような集落内は、長屋門や腰板のある土蔵、かやぶき屋根、改築されたトタン葺き屋根など、ひとかたまりとなっています。旧大庄屋、旧豪農などの屋敷が見られます。
織田信長、明智光秀、豊臣秀吉
 村の鎮守に機物(はたもの)神社があります。七夕伝説の言われる神社ですが、織田信長は軍の狼狽狼藉を防ぐため東西260間(470m)、南北67間(121m)を神域と定めました。このとき、神職16人の席次争いの調停も行っており、この神社によほど興味があったようです。明智光秀は武運長久を祈り白銀100枚を奉納、豊臣秀吉も米百俵を寄進しています。 
感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 京阪電車香里園駅からバスで倉治下車、徒歩5分
 
○星田(ほしだ)/交野市星田 
 
   
▲黒い板壁や塀が続きます  ▲ゆるやかな坂とカーブが心地いい  
徳川家康が陣を敷く
 平安時代から戦国時代まで星田荘という荘園でした。また縄文集落跡も見つかるなど歴史の濃い町でもあります。また石清水八幡宮との深い関わりあったことから、江戸時代に入っても石清水八幡領になったときもありました。元和元年(1615)、徳川家康がこの地に陣を敷いたという記録もあるとか。村高も1500石前後と、稲作を中心にかなりの穫れ高がありました。さらに京都と大阪の中間地にあり、枚方宿に近いという利点を生かし、換金作物が盛んに栽培されました。街道は幾つか交わっていますが、星田集落は東高野街道沿いに発展しています。
●美しい黒板壁や塀の続く集落です
 JR星田駅からしばらく歩きますと、タイムスリップしたかのような古民家群のど真ん中に突入。黒板壁や塀、石積みの上に形成された民家、蔵などが旧道沿いにゆるやかなカーブを描いています。軽自動車がやっと通れる幅の道が、なにやら懐かしい時代を彷彿させるのです。
  
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR片町線星田駅から徒歩10分


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